書評(笑)していくお

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1:ひの:2017/05/19(金) 20:49

批評理論を若干かじったにわかですがねあはは

2:ひの:2017/05/19(金) 22:19

 やっぱりカフカが気になる。
 日本人の心の中心には、芭蕉とか、柿本人麻呂とかがいて、カフカとなると、
ちょっとした逸脱である。そしてまた、芭蕉とかに帰って来る……にしても、
カフカはちょっと変だ。
 カフカの中では「掟の門」が短くて、しかもよくカフカらしさが出ているように見える。
 これは読んでいて不安になる。一言で言えば、門の向こうへ行きたくても行けない、という物語。
 しかし、これが「ほろ苦い失敗譚」とか、そういうものではなく、断固として弱い男の失敗と死、
それだけを伝えているのだ。
 グリム童話を読んで、人は不安にならない。源氏物語でもそうだ。これらは時々読者にスリルを
味わわせたりする場面がでてくることもあるにせよ、カフカを読むことに比べて、ちょっとした
安心感がある。
 なぜカフカは安心できないのだろう?これはカフカ自身が安心できなかったところから来ているのだ。
 あの不安は、ユダヤ人保険会社員に身近な絶望に他ならない。
 不安と書いたり絶望と書いたりして焦点の定まらぬ具合になったが、カフカの不安は生半可な不安ではなく、
むしろ絶望と呼んだ方があっている、というそういうことだ。
 ところで、僕はこの「絶望」を、ネガティブな気持ちを込めて書いた訳ではないというと、みなさんお笑いになるでしょう。
 しかし、その絶望的状況が、運命のようにどうしようもなく目の前に立ちはだかっている人にとっては、その絶望を真に絶望する
ことの方が、生半可な希望を持つよりもましだ、ということもある。
 例えば、ここに死刑囚がいる(死刑囚!自然とカフカ好みのモチーフが飛び出す)。
 彼は明日、殺されると決まっている。その囚人に、
「大丈夫だ!元気をだせ!お前は殺されないかもしれない!なぜなら、未来のことは神様にしかわからないのだから!」
などとはげましても、はげましにならないだろう。
 それよりも、
「お前は悪いことをしたから、罰せられるんだ!罪を悔やんで、受け入れろ!」
と言った方がいい。そこで囚人が、泣きながら、
「本当にそうだ……もうしわけありません」
と言ったとき、彼は死刑を受け入れることができる。
 カフカの場合、ユダヤ人というだけで、ア・プリオリに差別されただけだ。
 ヒトラーがユダヤ人虐殺を行う時、カフカは遠くのサナトリウムで、治療中だった。
 収容所にいなくても、心理的にはなにもかわらない。「アンネの日記」ですでに不安である。
 こんな逸話がある。
 カフカは死ぬ前、病室から出て行く友人?か誰かに
「行かないで」
と言った。友人は引き返し、
「ここにいるさ」
と言った。しかしカフカは
「でも、僕が行ってしまう……」
と言ったという。
 肉体的な不可能ーーー人は死ぬ時カフカになる。死刑のように死を受け入れよ。
 また、こんな逸話もある。昏睡状態のカフカが医者に言った。
「殺してください。でなければあなたは人殺しだ」
 ついに気が狂ったか、と医者は思ったかもしれない。だけど、実はここに究極の切実さがある。
 フロイトが死ぬ時、人間の尊厳が保てなくなる、意識のギリギリの点で、
「よし、今だ、今モルヒネを打つんだ!」
と叫んだ。この美しい逸話と通じるところがあるように思う。日本精神で言えば切腹と似ている。
 ところで、ある死刑囚が、死ぬ前日、トールキンの「指輪物語」を読んだという。失われた人間性を、
あの疑似神話は取り戻させてくれるようだ。では、それはトールキンでなく、カフカではだめだったか。
 一理あるかもしれないが、ベクトルの向きが逆のようだ。
 トールキンの神話は、要するにホメロスのようなものは、生の実感に満ちている。困難を克服するのが生である。
 逆にカフカ神話は、死の実感に満ちている。困難にやられるのが死である。
 トールキンを読んだあの死刑囚は、まだ生きたかったかも知れない。だからこそ生命の凝縮されたあの神話を読んだ。
 カフカは、産まれたときから刑務所にいるようなものなので、死にたいということしか考えたことが無かったのだ。
 人間は、もはや生も死も手に入れた。
 生きたい人、死にたい人が、自然とこれらの文学を発見するだろう。
 無駄な長文に落ち着いたが、もとよりへぼの印象批評である。


 


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