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1:バベル:2017/07/08(土) 21:26

 池谷祐二✖中村うさぎ「脳はこんなに悩ましい」
を読んで、一番興味深かったのは、「べき則」と言う、森羅万象の法則について知ったことである。

 べき則は数式だ。
 面白い小説も、結局は「べき則」に従っているーーというと、作家などはなぜか嫌がるらしいが、
事実そうなのだから仕方がない。芸術家は、自分の霊感を誇りに思っている。

 そこで、「べき則」を逆算して小説を書けば誰でも作家になれるのかというと、よくわからない。 
 かなりカオスな計算が必要なようで、スーパーコンピューターでも難しい仕事なのではないか。
 
 こういう理論は昔からある。古代中国の「易経」も、その部類だろう。だとすれば、「べき則」とは、
神話まで行き着いた科学だろうか。しかし、そこが科学の限界で、そこからは芸術家の霊妙な仕事で
ある。やはり本能は馬鹿にならない。僕たちはフィボナッチのウサギなのだ。

 他にも、Hな脳科学ネタとかが満載で、思春期の僕にはとても面白かった。
 アダルトビデオを見た男の汗は、女の人をそういう気分にさせる匂いが含まれているーーとか。
 まさに天然の媚薬である。これは、アダルトビデオを見なければ。 

 他にも、面白い会話が満載で、僕の紹介だけで読んだ気になられても困ります、と最後に行っておこう。

2:バベル:2017/07/08(土) 21:46

 穂村弘「はじめての短歌」
を読んで、文体ということをとても考えた。

 穂村弘は好きで、「短歌の友人」なども持ってるが、僕が語るには、本当に、あまりにも良い本すぎる。
 短歌初心者向きの「はじめての短歌」程度が、僕くらいには丁度いい。

 僕の解釈。
 短歌の言葉は、頭がおかしくなければならない。なぜなら、もともとみんな頭がおかしいのだ。だけどそれを社会は抑圧して、
「こんにちは、今日も良いお天気ですね」
「誠に、そうでありますね」
というような、つまらない散文が誕生することになる。
 そこで短歌は、僕たちの頭のおかしさを、解放するものだーーということになるだろうか。そこにカタルシスがある。
 短歌のみならず、この考えに当てはまる芸術も、たくさんあると思う。
 
 一つ、本の中の短歌論を紹介すれば、

 UFOが現れたとき専務だけ「友達だよ」と右手を振った

という短歌を絶賛して、要約すると
「これが、専務だから良いんだ。詩人だったら台無し。だって、詩人なら、宇宙人と友達で当たり前だから。
 専務という、平凡な感じの人が、UFOに手を振るところが、意外で面白い」
ということを書いている。まさに頭がおかしい。
 
 芸術というものの、なんというわかりやすさ!
 読むと頭がおかしくなって、スッキリできます。
「にょっ記」などの、穂村ワールドのマスターキーとしてお使いください。

3:バベル:2017/07/09(日) 00:27

 ピエール・バイヤール「読んでない本について堂々と語る本」
は、最初買うかどうか迷った。
 まず、タイトルがかなりゲスいし、レジの可愛い女の子に渡すのは、とても恥ずかしい。
 それよりも、村上春樹「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」とかをレジにばっと出して、
「まあっ!この人、私と同じ孤独を知っているっ!」
とか思われたい。
 
 しかし、考えようによっては、こういう「文学論論」ほど、まず最初に読むべき本はないはずだ。
 学者にとっての、デカルト「方法序説」のように。

 ルイス・キャロルのパラドックス、というのを思い出す。
「A=Bは正しい」
「では、A=Bは正しい、は正しいか?」
「A=Bは正しい、は正しい」
「では、A=Bは正しい、は正しい、は正しいか?」
「A=Bは正しい、は正しい、は正しい」
 以下略。結局、A=Bですら、僕たちは断言することができないのである。
 文学は文学論を要し、文学論は文学論論を要し、文学論論は文学論論論を要するのなら、
文学というものが見えなくなってくる。

 しかし、それはあまりにも「常識」を忘れた推論だろう。
 常識が、数学的に厳密な真理だとは限らないかもしれないが、
常識さえあれば、ひとまず生きていくのには事欠かないのである。
 常識ある人を、人は教養ある人と呼ぶ。 

 僕は、この本に、こういう文学の常識みたいなものを期待して、ついに買った。
(レジの人は、いつのまにかおじさんに変わっていた)
 
 この本は、童話ならいくらか読んだことのある、フランスの作家、オスカーワイルドのアフォリズムで始まる。
「私は批評しなければならない本は読まないことにしている。読んだら影響を受けてしまうからだ」
 禅の公案のように、何度か読み返してみた。はっきりしないままに、ページをめくる。
 ヴァレリー、エーコ、漱石など、そうそうたるメンバーの文学に対する接し方が書かれている。
 
 意外と、夏目漱石のことが紹介されていた。そういえば、
「我輩は猫である」で、アンドレ・サルトという画家をでっち上げて、その画家の美術理論まででっち上げて、
それで通用した、という笑い話があった。
 他にも、さまざまな場合においての、語りのトリックが満載である。

 ショーペンハウエル「読書について」や、「本を読む本」みたいな、感じ。
 こういう感じ、なんていうんだろう。
 常識が退化してきたから、わざわざ常識を書いただけの本でも売れるのだろう。

4:バベル:2017/07/09(日) 01:03

 吉本隆明「フランシス子へ」
を、父が買ってくれた(久々に、僕が役に立った、お礼に)。
 作者は、吉本ばななの父親で、戦後を代表する思想家で、詩人だ(エレガント!)。
 
 フランシス子とは、猫の名前である。
 立ち読みをして、少し涙が出た言葉がある。
「いないものはいない」
 もちろん、いま、誰かが僕の文章を読んで、これで涙を流した人がいるわけがない。
「いないものはいない」
を取り巻く、様々な思いをふくめて、僕はこの言葉に感動した。

 中原中也に、あそこに見えるのは人魚ではないのです、みたいな詩があったが、
それを思い出したかもしれない。
 人が成長するとは、いないものをいないと認めることだ、とちょっと考えたことがあったが、
それを思い出したかもしれない。
 また、この本の筆者が、猫をとても愛しているに違いなくて、それでも死んだフランシス子が、いない
と言い切ったという、何か寓話みたいなものを、感じたせいかもしれない。
 
 猫の知恵!
 考えてみれば、猫ほどいいものはないと思えてくる。荘子に、猫の話がないのが不思議に思えてきた。
 タオの会得者、猫!
 道路で轢かれそうになっている猫が好きだ。
 轢かれてはらわたを散らかしながら、死んでいる猫を見たことがあるが、無残ではあるが、美しいと思った。

 詩なのか、私小説なのか、随筆なのか、なんともいえない美しい文章で、
親鸞とか、人生論とか、猫とかの夢が見える。
 こんな老人が好きだ。
 
 「共同幻想論」を、一度図書館で借りたことがあったが、読めずに返してしまった。
 まだ借りる気にはなれない。 

5:バベル:2017/07/09(日) 01:46

 岩波文庫「尾崎放哉句集」
は、実に冴えている。
 編者の池内紀は、カフカの翻訳などしもてて、それも好きだ。
 面白い指摘をしていて、尾崎放哉の句は、晩年になると、1という数字が
たくさんでてくるのだという。

  お月様もたった一つよ

とか。有名なのは

 咳をしてもひとり 

 僕は、一度小豆島に行ったことがある。
 いつも海が見える。

 障子開けておく海も暮れきる 

 芸術祭みたいなのが、毎年あるらしいが、もちろん放哉の時代にはなかった。
 しかし、芸術祭でもやりたくなってくる風土ではあるだろう。
 小さな島。四方は海。ここで育つと、全然心持ちが違ってくるに違いない。
 「24の瞳」の作者もここで育った。
 
 まだ、何がどういうことなのか、スパッと考えきれてないが、
小豆島、いいところだ。また行きたい。


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