208号室(あるいは村上春樹作品総合)

葉っぱ天国 > 読書 > スレ一覧 [書き込む] 共有 シェアする? ▼下へ
1:ねじを巻く鳥:2017/09/09(土) 23:01

僕は村上春樹作品を取り扱うスレッドがないことを発見した。世間での評判を考えず(多くの場合浅薄な読者はハルキストと呼ばれ馬鹿にされる。それには僕自身も含まれる)、ひとまず立ててみることにした。ラジオではバリー・マニロウが「ウィークエンド・イン・ニュー・イングランド」を歌っていた。

僕はこのスレッドが伸びたところを想像してみた。それはまるで多くの売れ残りを抱えた古いおもちゃ屋のような空気を漂わせていた。楽しめる人はきわめて限られるし、一か月も見ないうちに靴屋にでも変わってしまいそうだった。伸びることはありえないのだ。

2:村上春樹、死んだ河合隼雄に会いに行く:2017/09/10(日) 01:22

 村上春樹について  


 村上春樹とオウム真理教の違いは、「小説であるか、そうじゃないか」の違いでしかない(アンダーグラウンド)。
 春樹ワールド特有の「物語の二重構造」は、小説と現実に濃い境界線を引くための細工なのだ(と思う)。

 そのため「海辺とカフカ」でカフカ少年が図書館に「出家」したとき、それはあくまで象徴的な出家でしかないのである。
 そこを批評家はよく、「村上春樹は結論を保留する」と揶揄するが、僕はこれでいいのだと考える。
 なぜなら、この書き方は、(おそらく)河合隼雄のカウンセリング術から来ているからだ。
 
 カウンセラーは、クライアントに、何かをしてはいけない。
 ただ「受け入れる」だけでいいのだ。
 そうすることで、クライアント自身が持っている生命の力が、現状を打破することの助けになる(場合もある)のである。
 同様に、村上春樹が結論を保留するのは、読者自身が自分の力で立ち直るのを期待しているからなのだ(多分)。

 また、「村上春樹の主人公は、成長しないじゃないか」という批評もある。
 しかし、(これも河合隼雄とリンクするが)もともと日本という風土は、ユングの言う「グレート・マザー」が強烈で、
そもそも「成長できないようにできている」のだ。夏目漱石以降(漱石自身はまだ自覚して迷っていたが)、近代小説が追い求めてきた、西洋流の
「近代的自我」の方こそ根無し草だった(きっと)。

 僕たちは成長はできないかもしれないーーしかし、「マザーの乗り換え」はできる。
 これが村上春樹のビルドゥングス・ロマンなのである(のではないのかしら)。


書き込む 最新10 サイトマップ