光の差さない教室の片隅、私はたった独りで佇んでいた。
この冷酷で苛酷な…まるで監獄のような箱の中で、必死に、必死に足掻いて…やっと辿り着く“最期”を___
___私はまだ、知らない。
第一幕
1,心のない人形
私は、常に作っていた。
何を作っているか、なんて訊かないで。
決まってるじゃない、それは性格。
私は暗くて、愛想なくて、無感情な…まるで心のない人形みたいなもの。
「美優、おはよ!」
「沙羅………おはよ」
今日も朝から煩いわね……なんて言えない。
彼女___柏木沙羅は、美人で性格もよくて、男女問わず人気のムードメーカー。
別に孤立したくないとか、嫌われたくないとかは思わない。
ただ、面倒くさいことに巻き込まれたくないだけ……。
それこそ沙羅が泣けば、私は一瞬で悪者扱いされる。
最も、沙羅だって人間…いつ存在するかも迷信な裏の顔を、いつ表に出すか分からないもの…。
2,少しの嬉しさ
「ねー、沙羅さぁ、なんで根本さんに挨拶するん?」
「そーだよ、根本って根暗で気味悪いじゃん」
「全く、沙羅もお人好しだよね」
…勝手に言ってなさいよ。もう、沙羅も私なんかに関わるから、そんな風に言われちゃうのよ…。このお節介め。
「私が、美優と一緒にいたいの」
………。
………沙羅って本当に、大きなお世話なんだから…。
私って素直じゃない。でも、やっぱり…心のどこかで、こうやって優しくしてくれる沙羅に、感謝しちゃうんだ。
3,突然の異変
「根本さん、ちょっといい?」
その日の放課後、昼間に嫌みを言ってきた三人が、私を冷たく睨んできた。
「どういうことよ!」
屋上に、凄まじい音が轟く。
「……どういうことって…………何が!」
力一杯突き飛ばされた私は、フェンスに背中を打ち付け、崩れ落ちる。
胸の中がぐるぐる渦巻いて、激しく咳き込む。
「いきなり呼び出した挙げ句突き飛ばすなんて……どういうことなのよ!」
私は怒りと悔しさで、ふるふると震えた。何がなんでも、一人に対して三人は卑怯だ…。
一体何をしてくるのか。心臓がばくばくと躍り回る。
「………!!」
___気が付いたら、大きな煉瓦を持った腕が、私に迫っていた。
4,恐怖
思わず目を瞑る。
ヒュン、と空を切る音。
叫びたいところだが、情けない姿だけは見せたくなく、ぐっと堪える。
バキィ、と何かが折れる音と、全身に激痛が走った。
私はゴロゴロと転がり、再びフェンスにぶつかった。
「………かっ……は………」
思わず顔をしかめ、声を漏らしてしまう。
しかし、思った以上の痛みは襲ってこない。
煉瓦で殴られれば、頭なんて簡単に潰れるはず……。
「!?!?」
私は絶句した。
目の前に映った光景は、余りにも残酷で、直視していられなかった。
そして、私は知ってしまう。
“人間の恐ろしさ”を……。
5,裏の顔
な、何しているの、こんなところで…!
私は声にならない声を乾いた喉から絞り出して、まるで悪魔のようなあの三人を見据えた。
__恐ろしい。ただそれだけ。
それだけの感情が、思考を…意識を支配していく。
じわじわと、黒い闇が、私に迫っていた。
「………っぶなぁ!」
突如、先程私を煉瓦で殴ろうとした女生徒が、腰を抜かしてへたり込んだ。
「もー、何慌ててるのよ!呼び出したのは根本だって!」
「早とちりな性格どうにかしてよね!もう少しで根本さん大怪我するとこだったんだよ!」
「ごめん〜。
根本さんもごめんね」
………え?
今度は、意味が分からない。
一体、何を言っているのこの人たち…。
「マジで、柏木と似てるよね〜」
「ちょ、それ根本さんに失礼でしょ!」
「あいつと似てるとか、生きる気失うわぁ」
………何、何を言っているの!?
この人たち、異常だ…!
だって、だって沙羅は………、あんたらの友達でしょ……?
6,悪寒
「は?あんなやつ友達なんかじゃないし」
「あいつが友達とか寒気する〜」
……人間なんて、やっぱりこんなもの。
簡単に、他人を蹴落とす。
自分が嫌な思いしないためなら、どんなに冷酷な方法を使ってでも、他人を裏切る…。
「だからさ、私らが一緒に話してあげるから、柏木とはもう口利かないでよね!」
「私たちならさ、根本さんのことぼっちから解放させてあげられるし」
「何があっても絶対無視な」
……。
「……何黙ってんだよ」
私は何も言えなかった。
否定するのも肯定するのも怖くて、黙るしかなくて。
背筋に悪寒が走る。
「……ごめんなさい、私………」
何か言わなくちゃ。
何か、何か……何でもいいから、出てきて___!
「………私、は」
7,無意識の言葉
ドク、ドク、と心臓が跳ねる。
握り締めた拳が小刻みに震える。
息が詰まり、乾いた喉から飛び出した言葉は___。
「私も、沙羅なんて大嫌いだよ」
物凄い衝撃だった。
まさか私が、こんなことを無意識に言ってしまうなんて…。
自分が自分でないみたいで怖い。
頭の中が黒いもやもやしたもので埋め尽くされ、思考が回らない。
「だよねー!だと思った!」
「じゃぁ、柏木はハブな!」
「根本って意外といい奴じゃん」
「ありが、とう」
正直、私は信じられなかった。
自分の思い通りに動いたら、すぐ「友達」って言ってさ。きっと私が彼女たちに逆らっていたら、ハブのターゲットは私になっていただろう。
だから、私は人間が嫌いなんだ。
私、これからどうすればいいんだろう……。
8,良心
その日はずっと、あの事しか頭になくて。
授業で当てられても、上の空で。
いつもの調子が出なくて、無理矢理保健室に入れられた。
まあ、何も考えたくなかったし、都合良かったけどさ……。
そのおかげで、沙羅がどうなったかは、まだ分からない。
でも、ちょっとだけ……いい気味、って思ってしまう自分も居た。
そして、そんな自分が___すこし嫌いになった。
「」「」「」「」「」「」
第二幕
1,痛み
次の日、怠い身体を奮い起こして学校へ向かった。
こんなに辛い朝は初めて…。
「……美優、おはよう」
驚いた。ぼーっとしていた思考が機能し出す。
「あ、………」
泣きそうな顔に、赤く、あかーく腫れた目。歪んだ口元、青白い肌。
こんなに病的な沙羅を、私は初めて見た。
無視するか…。それとも、挨拶を返すか…。
私の中で2つの感情が葛藤する。
「………はょ」
結果的に、私は小さくそう返して、軽く彼女を睨む。そして無言で校舎に向かう。
少し罪悪感があった。
いつもにこにこしてて、私に話し掛けてくれた沙羅を冷たくあしらうだけで、こんなにも心が痛むなんて。
とても目を合わせられなかった。
話し掛けられても分からないよう、私はイヤホンを耳に差して、速足で教室に向かった。
2,ただの同情
ただただ、ひたすらに歩いた。
階段で何度も転びかけたけど、何とか教室に辿り着いた。
「あ、おはよ、根本」
一人の女生徒が話し掛けてくる。昨日まで私の存在なんて知らなかった癖に。
「……ぉはよ」
私は面倒臭くなって適当に返す。
人間なんてこんなものさ。
少しだけ、沙羅に同情してしまう。
可哀想。ただウザイってだけで皆に無視されて。私は知ったこっちゃない。
心のないにんきが、人のこと本当に心配するわけないもの…。
そう、私はただの人形。ご主人の言うこと訊いて、楽に生きていければそれでいいの…。
沙羅なんてもうどうでもいい。
私に何も支障なければ、鬱陶しい沙羅なんてもう不要なゴミなんだから___。
3,自己嫌悪
面倒臭くて、私は屋上に出た。
灰色の雨雲が上空を覆い尽くしていた。
「あーあ」
私って本当に冷たいな。
昨日まであんなに沙羅に感謝していたのに、今日になってこんなに酷い扱いしちゃうし…。嫌になる。
結局、私だってあの人たちと大して変わらないじゃない。今まで棚に上げてたけど、一番最低なのは、本当は好きな人を自分の為に平気で裏切った私じゃないの…?
もう嫌だ、私なんて………私なんて、消えてしまえばいいのに。
頬を伝う涙と降り出した雨が、乾いたコンクリートにたくさんの黒いまるを描いた。
入っていい?
14:**さくらんぼ〜苺ましまろ*〜茉莉◆LM プリティー美少女美羽ちゃん*:2016/08/26(金) 18:20 4,崩壊
涙を拭いて、教室に戻った。
きっと目が赤かったんだろう。だってあんなに強く擦ったんだもん。
「ちょっと、大丈夫!?」
「泣いてたの?目真っ赤だよ!?」
「………あいつのせいじゃね?」
沙羅を指差す、クラスメイト。
「……っ、違………」
私は言い掛けて、ふと気が付いた。
___沙羅を傷付けて自分も傷付くなら、最初から沙羅なんて捨ててしまえばいいんじゃない。
心から沙羅を嫌えば、罪悪感なんて感じない。
……そうだ。そうよ、それが一番いい方法じゃない!
私なんて最初から何も無いんだから、それなら他人なんて踏みにじってもいいじゃない!
……もう、私には自分を止める余裕もないの。
「………美優…?」
悲しげな、沙羅の視線を感じた。
「……ごめんね、沙羅?」
私はにこっと笑って、そして___泣いた。
……ごめんね、ごめんね。
「沙羅なんて………居なくてもいいよね?」
私は、本当に悪魔の手下になってしまった…。
5,取り戻した“心”
「そーそー、沙羅なんてただの屑だし!」
「切り捨てていーっしょ」
「なんで!?
美優、百合子、雛、真緒……!
どうして、急にこんなことするの!?
」
叫ぶ沙羅を、私は横目で睨んで、ふっと鼻で笑った。
何これ、ウケる。最高にウケるわ。
当然じゃない、こんな猫かぶりが苛められて。私は知らない。私には、沙羅がどうなったって関係無い…。
「美優……!」
沙羅の手が私の手に触れる。
ゾクッと寒気が走った。
「触らないで!」
私の声が教室に響いた。予想を遥かに上回る声に、私自身が驚く。
「……美優、」
「…もうほっといてよ」
急に襲ってきた罪悪感に、私は自嘲するしかなかった。
………どうして、あんなこと言っちゃったんだろ。本当は、沙羅と笑っていたかっただけなのに。
「………もう嫌」
私みたいな屑なんて、生きてても何の意味もないから………。
6,勇気
「………何、根本の奴」
ぽつりと、クラスメイトが溢す。私は驚いて振り返った。
私は、初めて本当の恐怖を覚えた。
「裏切り者ぉー」
人間は、自分の意思に逆らった者を、簡単に切り捨てる。
それが、人間っていう愚かな生き物。
「………ごめんなさい、私……」
また、沙羅を裏切っていいの?
……でも、もっと面倒くさくなるのは御免だ。
どうする、私?
「柏木のこと庇ったら……分かってるよね?」
「あんた弱いくせに私たちのこと裏切るんだ?」
「結局、根本もただのいい子ちゃんかぁ」
……カチンと来た。完全に、頭に来た!
「ふっざけんな!」
私は握り拳を机に叩き付けた。
びく、と肩を跳ねる三人。
あーあ、やっちゃった。
でも…。
こうなったらとことん、自分のこと棚に上げて___その分反省して、悪魔を倒してやる!
第三幕
1,勝負
「私はあんたらの玩具じゃない!誰もがあんたらの思い通りに動くと思うなよ!
私は…私は、私の意思を貫く!」
いっけね、「私」って言い過ぎた。
かっこ悪〜。
「……何よ、美優ってば」
沙羅がふふっと笑う。
涙が付いたままの顔で、くしゃっと笑っていた。
「……残念だな、根本」
「………そうだろうね、でも……
私だって、私にだって………心はちゃんとある」
「美優、」
「だから」
教室中の全ての視線が私に集まるのを感じる。
「あんたらには絶対、負けないから」
やっと、私は心を持てた。
2,本性
「何、今まで自分がしてきたこと、棚にあげるつもり?」
「馬鹿じゃん、自分から孤独を選ぶなんてさ」
「ねー、沙羅もムカつくっしょ?」
沙羅の肩がぴくんと跳ねる。
「……沙羅、無理しないで。
私なんて捨てて」
私なんかに、「私を選んで」なんて願う権利などないから…。そう言うしかなかった。
「……美優、私が真緒たちを選んでもいいの…?」
「あ……」
沙羅が哀しそうに私を見上げた。
心臓が絞られたように捩れる。
にやにやと不気味に笑いながら眺める三人。
興味津々な表情で見詰めるクラスメイトたち。
息が詰まった。
なんと答えたらいいのか、私には分からないから。
「ねえ、美優?」
沙羅が一瞬、歪んで見えた。
にやりと不気味に曲がった口元が私の耳元に近付いた。
何だろ、この嫌な予感……。
「美優なんて、最初から友達なんて思ってないよ♪」
沙羅はこの上なく、冷酷に、冷酷に笑った。
でもそれは、私にとってショックが大きいから、それだけ冷たく見えたんだ。
3,残酷
……寒い。身体が凍り付くように冷えた。汗が頬を伝い、がたがたと両足が震えた。
なんで、どうして。
哀れにもそんな言葉が、私の思考をシャットアウトさせた。
「……くくく、くっ」
「ふふふ………ふふ、」
「ぷっ」
「きゃはははははははははははははははははははははははぁああああー!
あっっははははははははははははははぁあ!」
悪魔が、爆笑しながら私の冷たい頬にその白い指をそっと這わせた。
ぞく、と悪寒が走る。
「どう、今の気分は。最っ高だよね、唯一の親友に裏切られてっ♪
私ね、落ちぶれた屑を騙して飼い慣らして、挙げ句にぎたぎたにして棄てるのが趣味なんだっ。
……ねぇ、死んでよ、美優。
私を裏切った罪は………大型トラックよりも、ずぅっと重いのよ♪」
悪魔……悪魔がそこに居た。
本当の、本当の悪魔が。
「流石です、演劇部の大スター沙羅様っ」
「よくここまで我慢してきましたね!」
「私も見習いたいです!」
仁王立ちして怪しく笑う沙羅に媚びる三人。
………腐ってやがる。
ふざけんな、今までどれだけの人の心を壊したんだ…!
今の沙羅は、散々人を馬鹿にして貶めてきた極悪人の顔をしていた。
あの無邪気で愛らしい表情の欠片もなかった。
4,分かり合えない心
他人をまるで家来の様に扱う最低な……。
柏木沙羅、人間以下。
私はずっと、こいつに騙されていた。
悔しい。悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい……悔しい!
なんで!?あんな冷酷な悪魔の思うままに動いてしまっていたんだろう!哀れだ、自分が恥ずかしい…!
「畜生、ちっく…しょう!!」
バキ、バキと堅いものが軋む音。私は自室の壁を殴った。
ぽたぽたと血が流れて、より一層惨めさが増す。
「もう……嫌いよ、沙羅も、沙羅に操られたあいつらも、……沙羅に踊らされていた自分も」
とめどなく流れる透明の涙と紅い血液は、決して交えることはなく…各々みすぼらしい床に垂れた。
5,予想外
翌日、憂鬱な気持ちで学校に向かった。
この二日で、こんなに変わってしまった。
腫れぼったい目がいたんだ。
もう、あの頃には戻れない。
教室が見える。教室に近付くに連れ、心臓が大きく跳ねる。
___大丈夫、何されても私は負けない。
勇気を出して、思いっきりドアを開けた。
「根本さん、おはよ!」
「……は?」
そこに広がっていたのは、予想外の景色だった。
普通なら、全員が私を睨むか、無視するか…のはず?
「昨日は大丈夫だった?」
「怖かったでしょ、あの四人マジで無理だわー」
「ねね、これから美優ちゃんって呼んでもいい?」
「本当、根本さんってかっこよくて憧れる!」
先に到着していた四人のクラスメイトが、私に駆け寄る。見たところ、演技をしている様子は___ない。
こいつら、一体なんなんだ…!?
一体、これから何が起こるのだろうか。
6,疑心
「ね。からかってるのなら今すぐ止めな。沙羅たちに殺されるよ」
あいつらならやり兼ねない。簡単に、残酷に人を惨殺するだろう。
「きゃあ、かっこいいー!」
「根本さん本当に憧れる〜」
「ねぇねぇ、根本さん!私たちはクラスでも地味でダサいからさ、どうせ私たちも苛められると思うの。
だからさ、」
…そういうことか。
ならば、私はこうするしか…ないな。
「……だから、どうせ死ぬなら強くて味方になってくれそうな私に頼ろう、ってこと?」
「っ!そ、そうじゃなくてさ」
「ただ、五人なら無敵かなって…」
「五人なら無敵……か。
ならさ、私一人居ないところで、今までと何も変わらないじゃない」
「……っ!なっ、何よ、私たちは根本さんと仲良くしたくて…」
「沙羅に頼まれたの?」
私は疑心を抱いた。
「違うってば!
何で分からないの!?」
「根本さん、私たちいつも教室の隅でこそこそしてたの気付かなかった!?」
「私たちは常に、悪口言われて、馬鹿にされてきた!
でもね、あいつらみたいに性格悪くないのよ!」
「あんな人間以下の性悪女と一緒にしないで」
「根本さん、私たちを信じて」
__一体、誰を信じればいいの?___
第四幕
1,新しい敵
「聞ーいちゃった、聞いちゃった♪」
私は嬉しくなって手の中の物を握り締めました。
やっと…やっと私も王族に入れます!
「あはっ……あははははははははははははは!きゃははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!」
笑いが止まらない、なんて愉快なんでしょうか!
「私……ついにやりました、待ってて下さい、神様…!」
「…ごめん、私と一緒にいたら、お前たちまで痛い目見ることになる…。
悪いけど、独りにさせて。もう誰も傷付けたくないから」
もう、あんな苦痛…自身の手では絶対に誰にも味わわせたくない。
本当に苦しかったから。
喉の奥に、何か塊みたいな物が詰まって、言葉が出てこなくて。
ただひたすら、嗚咽と涙だけが流れて。やり場のない怒りと悲しみを、自分にぶつけるしかなくて…。
「だから、ね」
私は儚い彼女たちに微笑んだ。
きっと、私に関わる者は全て不幸になってしまうから。
せめて、関係ない人は巻き込みたくない。
「……分かった、ごめんなさい、無理強いして」
「また、気が変わったら話しましょう」
「私、少しでも根本さんと話せて嬉しかったわ」
「また、ね…」
私はあんたたちが悪人じゃないって分かってる。だから___
___もう少し、待っていて。
5,決心
誰かが来たら行けないから、私は教室を出て、トイレの個室に駆け込んだ。
「っ…………はぁ、は………」
嬉しかった。あんなに私のこと考えてくれてて、私のことを「強い」って言ってくれた。自分では、なんて弱い人間なんだろう、って自己嫌悪だったけど、少しだけ…希望が持てた。
私は人を裏切った。いくらその人が酷くても、切り捨てていいわけない。沙羅は、本当に過酷な奴だけど…。
自然と笑顔が溢れた。
嬉しくて、嬉しくて。やっと、心の底から「頑張ろう」って思えた。
私、あの人たちのためにも、頑張らなくちゃね。
3,疑惑
それからしばらくして、教室に戻った。既にほとんどの生徒が登校していて、その中に沙羅たちの姿もあった。
沙羅は毛先の整った美しい黒髪を右手で掬い上げ、無心に携帯電話をいじっていた。
その仕草、柔らかい表情だけ見れば、ただの可愛い女の子なのに、な。
「……あ、おはよう!」
沙羅が手を振った。視線は私…に注がれていた。
いや、もしかしたら後ろの女生徒かもしれない。無視無視。…
「美ー優、聞こえてる?」
「……は?私?」
なんで。
「おはよう、美優!」
「……沙羅?」
一体、何を考えているんだ…。
分からない。沙羅は何を企んでいるんだ…?
「ねえ、美優」
ぴく、と体に冷たい電気が走った。胸の奥がぎゅ、と捩れた。
「………何よ」
沙羅は、あの悪魔のような笑顔で私の手を握ってきた。がっちりと掴まれた両手から、悪寒が背筋に伝わった。
「お昼休み……二人で、屋上行こ?」
4,横顔
とうとう、昼休みが来てしまった。
今日は時間が経つのが早いな。
「みーゆーう」
「……沙羅」
何されるんだろう。沙羅の手にお弁当箱はない。沙羅はいつもお弁当は自分で持ってきてるはずだし…。
やっぱり、これは挑戦状?
怖いけど、ちゃんと向き合えるのは今しかないかも。
「……なに、何か用?」
屋上は暗かった。灰色の重い雲が覆い被さっていて、肌寒い。
ここに来るまで、一言も話さないどころか、目も合わせなかった。だって普通に怖いしね。
「美優、驚いた?……私がこんな酷い人間って知って」
……いきなり何、気味悪いなぁ。
「ええ、そうね」
正直、本当に恐ろしかった。やっぱり人間には多少は裏があるって知ったから。
「そっかぁ……」
沙羅は悲しげな横顔で天を仰いだ。微風が彼女の黒髪をそよそよと撫でる。
「私、本当はね……」
沙羅は言いかけて、はっとしたように片手で口を押さえた。
「…何でもないや、今の忘れて」
「うん、」
忘れるわけない……忘れる気なんてないけど。
「やっぱりいい、ごめんね」
沙羅はにっこりと笑って、右手を振り上げて伸びをした。
___
「______!!!」
5,失神
「…………かは、ぁ、……あぁ」
カラン、と金属のような物が落ちる乾いた音。
違う、沙羅は伸びをしたんじゃない。
私を刺そうと、カッターを隠し持った手を降りかざしたのだ。
意識が薄れる。ぼんやりとした視界に、とめどなく流れる透明の液体が映った。
「…ごめんね……ごめんなさい…………」
悲しげに、狂ったように…沙羅は呟きながら冷たい其の手で私の首を掴んだ。
6,一面
「………!
がは、はっ…………ぅ」
頭が強烈に痛んだ。どくん、どくんという脈に合わせて、体の中の大切な何かが流出してきた。
生温い紅い液体が、白いコンクリートに血溜まりを広げていった。
「……!美優」
沙羅は私の首からそっと手を離した。……あぁ、首絞めてたんだ。
血が、血の気が引いていく。
酷い目眩と吐き気がする。
そのまま、意識を手放した。
第五幕
弱い少女の過去,1
「ねえ、秋山ってキモくない?」
それが、始まりだった。
何気ない一人の人間の言葉が、私の運命を大きく変えたんだ。
「えー、そうかな?」
私は曖昧に答えた。だって、秋山__ことはは、私の唯一の親友だから。そのことを分かって、そう言ったのかな。
故意に。私を困らせようとして。
「そっかー、赤羽さんって、秋山と仲いいもんねー」
彼女は私をちらりと睨んだ。
咄嗟に言葉を発する。
「……うん、でも、本当は鬱陶しいよ?」
………。
「そーなんだ!
ねね、じゃあさ………秋山に少し思い知らせてやろうよ!」
「………えっ?」
何を、する気……?
大体は予想つくよ、だって私も現役女子小学生だもん。
でも、気付かないふりをしていたかった。気付きたくなかった。
「分からないの?
___秋山を、無視するんだよ」
弱い少女の過去,2
「………え?」
何で…そんなこと言えるの?人を無視して、何になるの?文句あるなら、直接本人に言えばいいじゃない…。影でこそこそ言ってても、何の解決にもならないし…。
「えー、だって人傷付けるの楽しいじゃん。
相手が不幸になると、あー、私は幸せなんだなって思えるし!」
名も知らない彼女はにこぉと不適に笑って、私を見据えた。
「……そういうこと、宜しくね………赤羽さん」
1,病院
気が付いたら、目の前に白い天井が広がっていた。
ズキ、と痛む頭。
何かの薬の匂いがする。鼻がむずむずして、気持ち悪い。
……なんで私が病院にいるんだろう。
記憶を辿ってみる。ええと、屋上に行ったんだよね、うん____独りじゃなくて、誰かと一緒に…。
「ああ、そうか」
沙羅に殴られたんだ。あいつは、私を殺そうとして…。
とりあえず、近くに置いてあるナースコールを押してみる。あの時以来だな、こうやってナースコール押すの…。
『はーい、』と看護師らしき人の声がスピーカーから聞こえる。
「あの、目覚めました!」
とりあえずそう言っておく。そもそも誰かが付き添っててくれてるわけでもないし……。一体どうやってここに連れて来られたんだろう。屋上なんて来る人少ないだろうし…。
『あ、根本美優さんですね、はーい』
ブチ、と音が途絶えた。
よし、後で落ち着いたら、この事訊こう。当事者なんだし、教えてくれるよね。
私は大きく伸びをした。淡い黄色のカーテンがゆらゆらと揺れる。……あれ、ここ大部屋?個室じゃない…。
チラ、とカーテンの隙間から病室を眺める。あとの三つのうちの、二つが開いている。
斜め左には同い年くらいの女の子が、正面にはまだ小さい女の子がいた。
2,
「あ、こんにちは!」
正面に座った女の子が、折り紙に苦戦していた手を止め、私に笑いかけた。推定年齢は小学校一年生あたり……だろうか。透明の液体が入った点滴を右腕に刺し、その腕は痩せ細っていた。なんだか酷くやつれた様子。
「こんにちは…」
私も少し笑って、女の子に会釈した。
そのやりとりで、子供って素直で可愛いなって、少し気持ちが和らいだ。
あ、そうだ。斜め左の子にも挨拶しなくちゃね。
「あの、こん…………」
ピンポーン
「ひぃいっ!」
びっくりした…。いきなり、押してもないのにナースコールの音がした。
私は押してないし、あとの二人も押した様子はない。
じゃあ、一体誰…
『はーい、どうされま……』
「うるさい!!!!」
受け付けた看護師が喋り終わらないうちに、私の左側から低い怒声が響いた。
……あ、そうか。カーテン閉まってて分からなかったけど、左側にも患者がいたんだ。カーテン閉めてるってことは、相当具合悪いのかな…。
3,
『大丈夫、今そっち行くから待って…』
「うるさいって言ってるでしょ!?」
見えないその子は、狂ったように叫び、バタバタと暴れているようだった。汚れ切ったカーテンが、この出来事は日常茶飯事ということを知らせている。
私たちのせいかな、話しちゃったから…。
ナースコールが切れてすぐ、パタパタとスリッパの音が聞こえてきた。
「直美ちゃん、落ち着いて!」
その看護師は、まだ若かった。でも、疲労の色が顔に表れていて、ひどく老けて見える。
「…うるさいんだよ、なんなんだよあの右にいる女は」
「それは、仕方ないから我慢してね…。病院も直美ちゃんが少しでも快適に過ごせるように、一生懸命頑張ってるから…」
看護師は必死にそう説得した。しかし直美と言う女の子は聞く耳を持たず、わあわあと喚き続けた。
私が謝ろうと立ち上がったときだった。
「もう嫌、こんなの耐えられない!」
大人しく座っていた斜め左の少女が絶叫した。看護師も驚いたらしく、見開いた目を彼女に向けていた。
「もうやだ、誰もかも自分勝手な人ばっかり、少しは他人の迷惑も考えてよ!
私だって貴方の悲鳴で毎日ちゃんと休めてないのよ…!」
少女は途中から少しずつ泣き出し、物凄い形相で女の子を睨んでいた。
私は、どうしようもないくらいに絶望していた。
……ここは、何?
病院って、もっと「生きたいって願う力」が溢れてる場所じゃないの?いつか元気になれる日を目指して、一所懸命に闘う人達の希望じゃないの?
ここは、地獄かもしれない。
4,
「……ごめんなさい、癒眞ちゃん」
看護師はやつれた表情で、息を切らしてベッドに倒れ込む少女を見つめた。
その瞳には希望も光も無かった。
黒い底無し沼が、出口のないトンネルが、永遠に続いているだけで。
「美優ちゃんも、ごめんなさいね。
今医師に来てもらってるから…」
「あ、はい…」
女の子はチッと舌打ちして、ゴソゴソと布団に潜り込んだようだ。
本当に驚いた。何もかも。
何より、正面の幼い子供が、大人さえも取り乱すような出来事を目前にしても、全く動揺せずにじっと堪えていたのに驚いた。
そのうち沈黙が続き、先程悲鳴を上げた二人は眠ってしまった。
正面の女の子も、無言で病室から出ていった。
「……美優ちゃん、面会室、…行ける?」
私は迷わず頷いた。
5,
「……ごめんね、いきなり騒がしくなっちゃって……」
看護師が持ってきた車イスに乗り、私たちは面会室へ向かう。
「あ、私は清水えり子です、よろしくね」
「私は根本美優です……」
「うん」
ここで会話は途切れる。
面会室は、静かで、寒くて暗くて、思わず入った途端に身震いしてしまう。
清水さんはポケットから鍵を取り出してガチャガチャやった。
「さて……」
鍵を開けると電気が点いて、少しだけ暖かみが増した。
「美優ちゃん、何故ここに来たのか分かる?」
清水さんは真面目な表情で私の瞳を見据えた。
「……はい、大体は」
「………そっか」
そこでまた、沈黙。
「私、学校の屋上で…クラスメイトに殴られたところから意識がなく…」
「何言ってるの?」
急に清水さんの表情が冷酷になった気がした。まるで私を見下しているような視線、先程までは柔らかかった口元は真一文字に結ばれていた。
何だか少し怖くなって、そのまま押し黙る。
「……そっか、知らないのかぁ…」
清水さんはパッと元の柔らかい表情を取り戻した。……気のせいだったのかな?私が見当違いのこと言ってびっくりしたとか?
「あのね、今美優ちゃんが言ったことも勿論あるの。でもね……」
清水さんは真剣な目元を歪ませた。
「貴方は、命を狙われてるのかも知れない…」
私はその言葉の意味が分からなかった。
第六幕
1,命
「………は?」
何で、私が……命を狙われてるの?私は貴族の娘でも悪逆非道な殺人犯でもないのに…!
「落ち着いて聞いて。
今の美優ちゃんは、自身が思っている以上に大きな怪我をしているの。…多分、一歩間違えていたら、…命を落としていた可能性もあるくらい」
……清水さんの言葉の一つ一つが、槍みたいに鋭く私の心に突き刺さった。
……じゃあ、本当に。
私は殺されるの?
「そうと決まっている訳じゃないけど…可能性はゼロじゃない、ってこと」
清水さんは冷静さを保って、焦る私を宥めてくれる。
「……そこで、何か心当たりはあるかな?」
「___っえ?」
殺されるかもしれない……心当たり?
原因は…無くもない。沙羅のことが頭に浮かぶ。美しく清らかな姿から変貌した醜い悪魔。他人の命なんて簡単に踏みにじるだろうな…。
「……クラスメイト、かも」
「それ、さっき言ってた…。名前は分かる?」
清水さんは真剣な眼差しで頷く。
「……柏木、沙羅です」
私は正直に当人の名をのべた。
「………柏木………?
今、柏木って言った!?」
清水さんは焦った表情で私に迫る。何をそんなに慌てるのだろうか…。
「……何か心当たりが?」
私は少しだけ後退して訊ねる。
「え……いいえ、何でもないわ」
清水さんは必死に取り繕うとしているが、そんなことも無駄だ。
私は確信した。清水さんは、私に何かを隠している。
2,隠し事
再び沈黙が続く。
私は何も言えず、押し黙って清水さんが何かを話すのを待つ。
「……あ」
ブー、ブーと震動の音。清水さんはポケットから銀色の大きな携帯電話を取り出して耳に当てる。
「……清水です、
はい、はい…………あ、そうですか、分かりました〜。では今から向かいます!」
短くそう言い、ピ、と切る。
「ごめんね美優ちゃん、今医師が着いたらしいの…。またあとで、時間あったら話しましょ」
清水さんは車椅子のロックを解除し、ゆっくりと押し出した。
「清水さん、ここ……何て言う病院ですか」
「………え?
ああぁ、ここね!」
一瞬動揺した。私は鋭く彼女をにらんだ。
………疑いたくないけど。
「ここはね、小児総合病院の、_」
もしかしたら、そうかもしれない。
本当に、少しでも可能性があるのなら___
「精神科、だよ」
「私は何故精神科に入れられたの?」
__この人も、沙羅の差し金かもしれない。
「……え?何でって言われても……精神科に入れるって判断したのも医師だし……」
清水さんは何事もないように言うが、私には分かっていた。
「……普通なら看護師にも理由を伝えている筈じゃないんですか」
「………ごめんね、聞いてたかも知れないけど、色々疲れてて……」
私はそれ以上は何も言えなかった。
………この人が相当疲れているのは見て分かるからね。
そのあと、母親が病院に来て、医師と三人で話をした。どうやら私は脳の一部を強く打っていて、記憶に障害が出たらしい。
「頭部の切り傷は大事には至らない程度ですが、体のところどころを打撲してるね……脚は骨が折れてる」
医師は真剣な表情で話す。
「どうして、娘は精神科に…?」
母親がいてもたってもいられない様子でそう訊ねる。医師は少しだけ間を置いて、ゆっくりと口を開いた。
「……少し、気になることがありまして……」
私はこくんと息を飲み込んだ。
この先にある言葉を、しっかりと聞き逃さないように…。
「美優さんは………
このままでは、近いうちにお亡くなりになります」
『美優ちゃんは……命を狙われているかもしれない』
さっきの清水さんの言葉が脳裏に響いた。
私……一体どうなるんだろう。
「……何故、何故美優は死ぬの!?」
母親が医師に掴み掛かる。
「落ち着いて下さい…。
確定したわけではないのですが、その可能性が充分に高いので……」
「どういうこと…?」
「先程、美優さんの首もとに爪の痕がありまして……これは人間に首を絞められない限りはできないもので…」
「そん……な」
母親はふらふらと椅子に倒れ込んだ。
……私のことなんて、普段は邪魔としか思ってないくせに。
「それも相当、爪の長い人で……」
「それなら犯人は絞られる…」
「でも絞めた後に切ったかも」
私は狼狽える母親を横目で睨みながら静かに言った。
「……とにかく、」
私は別に怖くなかった。全てがおかしくなったのは沙羅の本性を知ってしまってからだから。きっと全ては沙羅に関係してるんだろう。
「しばらくは此処に入院していて下さい」
「……お願いします…」
母親はうつむいて小さく呟いた。
……この病院、おかしい。
普通ならここまでしない、警察に連絡するはず。過度な親切なのか、何かを企んでいるのか…。恐らく後者。
私は既に、何もかもを疑うようになっていた。___
その後、母親は辛辣な表情のまま帰宅していった。独り薄暗い病院に取り残された私は、もう何もかもが面倒くさい、と思考が元に戻ってしまった。せっかく沙羅に勝ってやろうって、頑張ろうって思えてたのに……。
昔の、ただの人形に戻ってしまいそうだった。
「……ショックだよね、美優ちゃん」
清水さんが静かになった廊下を進みながらぽつりと溢す。
長い、長い、廊下が続く。
それをとてつもなく感じてしまい、涙が溢れてくる。
急に孤独になってしまったのか。
もう、私は他人を心から信用出来ないだろう。もう、絶対に…。
廊下の突き当たりにある私の病棟に入り、少しだけ騒がしい食堂を通り、ナースステーションを過ぎ、四号室に入る。……不吉な数字だよね。
四号室は狭い。本来は個室のようだ。
ここにベッド4つは流石にきついな……。
「何かあったら、また呼んでね。
あと、もうそろそろ消灯時間だから…」
清水さんはそう囁いて出ていった。
…ご飯食べてないからかな、すごくお腹が捻れる。
私は無言でベッドに潜り込んだ。
ちゃんと着替えなくちゃ…でも面倒くさいし……。
私はもう何も考えたくなくて、冴えた思考を必死で静まらせ、ぎゅっと目を閉じた。
3,親
いつの間にか朝が来ていた。
起床時刻よりも全然早い。まだ五時半前だった。
……母親が、持ってきてくれたのだろうか。オーバーテーブルの上に、真新しい置時計があった。
他にも、コップや洗面用具、ノートや筆記用具も揃っていた。
私は泣いた。あんなに嫌いだった母親に、初めて「感謝」できた。…ううん、これで初めて……他人に感謝出来たのかな。
私はロッカーに無防備に座っているお気に入りだったぬいぐるみを抱き締め、ベッドで泣き続けた。
声が漏れないように何回も息を詰まらせて。
お母さんに、お母さんに会いたい。
お母さん、今は何してるの?私は今まで…ろくにお母さんの顔も見てなかった。
問い掛けられても曖昧に返事して、真っ直ぐ正面から向き合ってなかった。
お母さん、ごめんなさい…。私がこんなんだから、お父さんが……。
私はやっと気が付いた。
「親」って言う存在が、どれだけ大切で暖かいものなのかを。
お母さんが居たから、私はこうして生きていられる。今までどれだけ支えてもらってたの…?
私はとめどなく溢れる涙と嗚咽を必死に堪えた。
駄目、ここで泣いたら……。
でも、やっぱり感情は抑えきれない。
ついに、声を出して大泣きした。
「お母さん……お母さん……!」
私はしゃくり上げながら呟いた。
なんで気づかなかったの…。一番大切なものは、こんなに身近にあったんだ。
「お母さ……おかあ……」
「黙れぇええええええっ!」
一瞬の静寂。声がホールに響く。
私は驚いて、涙も止まる。
「……ごめんなさい」
私は冷静になって、左をちらりと見た。カーテンの向こうに、不機嫌そうな影が見えた。
不機嫌なその影は、ゆらゆらと左右に揺れながら、ゆっくりとカーテンを開けた。
ジャッ、と金属が擦れる特有の音。
私はぐしゃぐしゃの顔をそちらに向けた。
予想通り、あの子が私を睨んでいた。
その目の下には黒い隈があり、唇はかさかさに乾燥していた。
見るからに不健康で不潔な寝巻きに身を包んでいる。
昨日は呆れてよく見てなかったけど、この子もやっぱり……ちゃんとした「患者」なんだ。都合悪いからって、勝手にただ狂ってるだけの人だなんて思い込んじゃいけなかったね。
その子はボサボサの髪を掻きむしり、はあっと盛大な溜め息を溢し、捨て台詞を吐いた。
「…まだ起床前だよ。少しは静かにしな」
「……うん、ごめんなさい」
これは私が悪かったから、素直に謝った。失礼だけど、意外としっかりしてるんだね。
「……分かればいいさ。私も最初は心細くて一日中泣いてたしさ」
彼女は懐かしそうに目を細めた。
何故だか親近感が沸いてきて、ついこう訪ねてしまった。
「あの、名前はなんですか?」
「……っ」
びくりと大きく肩を震わせる。
そんなに驚いたのかな。
「……深山直美」
彼女は、弱々しいけど、でもはっきりとそう言った。
___深山直美、それがこの子の名前なんだ。
私はくっと噛み絞めた。深山さんが少しだけ心を開いてくれたのかと思うと、胸が熱くなった。
嬉しい。私って、……本当に幸せなのかもね。
「……直美、でいい」
「……え」
「直美でいい、って言ってるの!
名字で呼ばれるのは嫌だから…」
「……そっか、
あ、私は根本美優です、よろしくね」
私は微笑んだ。直美ちゃんも、少しだけ微笑んでくれた。
でもすぐに、機嫌悪そうに目を背ける。
「………どうしたの?」
「……やめて」
「え?」
私は心臓がどくっと飛び跳ねたのが分かった。
「やめて……やめて!
私に優しくしないで!」
私は驚いて言葉を詰まらせる。
「駄目なの……あんたみたいに心の綺麗な人に優しくされると、胸がぎゅうぅって痛くなるの!
……私が今までしてきた悪事がっ……」
そこまで言って、直美ちゃんは黙り込んでしまう。
起床時間__7時がやって来た。
少し小さめの音の放送が入り、他の二人もごそごそと起き出す。
今朝のことは、誰にも秘密にしなくちゃ。
弱い少女の過去,3
その次の日から一週間も、学校を休んだ。最初の三日間は熱が出たんだけど、あとは全部サボりなんだよね。
なんか、行きにくくて…ね?
普通は行きにくいよね、…
今日からはちゃんと登校しなくちゃ。
嫌でも、せっに…。
無言で教室に入る。おはようの嵐。ところどころから、おはようが飛び掛かってくる。
「おはよう」
私はそう言って、ランドセルから教科書とノートを取りだし、机の中に押し込んだ。
「……?」
ガツ、と何か固い物に当たる音。つっかかって半分飛び出した教科書やノート。
「………」
机の奥に、何かが入っている。
「……何これ」
私はお気に入りのワンピースに着替えた。膝上のボトムスは禁止らしいから、長いの買っておいて良かった。
7時16分。
7時半から朝食らしい。
誰も、一言も喋らない。しーんとしてて、物音だけが無造作に聞こえる。
部屋の外では、学校みたいに「おはよう」が飛び交っていた。
ホールはよく響く。元気そうな声が、何回も響く。
「ねえねえ、今日変な夢見た!」
「私なんて夜中にトイレ行きたくなって起きたよ〜」
「あ、あれ実菜ちゃんだったんだー」
「起きちゃった?ごめん〜」
「平気平気、元々起きてたから」
そんな会話が耳に入る。
…なんだ、学校と大して変わらないじゃない。本当に精神科なのか…。
暗いのは、この部屋だけ?
私は少し虚しくなって、トイレに向かった。
トイレには四つ、個室があった。
私は一番手前の個室に入った。溜め息をついて、天井を見上げた。
トイレを出て、私は手を洗いに洗面台の前に立った。
顔色の悪い私が、映っていた。
「あれ、見覚えない子」
小さな声が聞こえた。
こそこそ、と何人かが私の後ろを通りすぎる。
私は何故かとてつもなく嫌な気持ちになり、早くトイレから出ようとした。
「……おはよう、名前何て言うの?」
その子は、私を優しく覗き込んでいた。ストレートのロングヘアで、顔に幾つか痣があった。
「…こんにちは…根本、美優です」
私は戸惑ってそう返す。こんな、如何にも……虐待を受けていたって分かる子に、どう反応すればいいのよ……。
「美優ちゃんか!
私と名前似てるね!
私は、佐藤勇だよ!」
にこ、と笑って名乗るその子は、すごく美しく見えた。
強くて、優しくて、とても綺麗だった。今までどれだけの痛みを受けたんだろう……。他人の辛さが分かるのかな、この子は…。
「美優ちゃん、よろしくね!私のことは勇って呼んでね〜!
あ、朝一緒に食べない?」
勇ちゃんは、きゃっきゃっとはしゃぎ、楽しそうに話す。
「……まだ、部屋で食べなきゃいけないんだ……」
「そっか……。じゃあさ、出られるようになったら一緒に食べよ!
私まだまだ退院しないし、もしかしたら移動で同じ部屋になれるかもだしっ」
「……ありがとう」
私は心からそう返した。
「ところで、四号室、どう?」
勇ちゃんは興味津々といった様子で目を光らせる。
「えーと……すごい静かかな」
正直な感想だ。
「……そうだよね〜、みんな全然出てこないもん……」
勇ちゃんは「もっと仲良くなりたいのにな〜」と不満そうにくるくる回る。
「よっぽど病状悪いのかな。看護師もよく行き来するし、たまに大きい音聞こえるし」
確かに、直美ちゃんはよく発作みたいに悲鳴を上げる。そのたびに、看護師が出入りする。心が休まらないよ。
『朝食の時間です、手を洗って食堂に集まって下さい』
放送が入る。清水さんの声だ。
「あ、ご飯だ!今日はA食とB食、どっちにしたっけ〜」
勇ちゃんはあれこれ言いながら、頭を悩ませる。
「あ、美優ちゃん、またね!」
勇ちゃんは、部屋から出てくる子達の輪に入っていった。
私は部屋に戻り、朝食が来るのを待った。
直ぐに看護師がワゴンを引いてやって来て、__この人達はみんな部屋で食べるんだ__一人一人名前を確認しながら配った。
「根本美優ちゃん、ね。
あ、私は岡山みどりです、よろしく〜」
少しぽっちゃりとしたその人は短く自己紹介をして、ワゴンを引いて出ていった。
みんなが一斉にお箸を取って、無言で朝食を取った。
その日は特に何もなく、ただただぼーっとして過ごした。本当に何もしなかった。
それが、何日も何日も続いた。
たまに検査とか診察があるだけで、毎日は大して変わらないのだ。
気が付いたら一週間も経っていて、不安定だった精神も立ち直り、怪我も大分回復していた。
「うん、来週には退院出来るかな…」
医師がパソコンを前に頷く。
私はお母さんと喜んだ。何も感じられなかったこの生活から、やっと解放される…!
私は有頂天で、何も考えていなかった。
まさか、あんなことが起きるとはね…。
「美優ちゃん、お友達が来てくれたわよ」
岡山さんが引き戸の向こうから手招きしていた。
「本当は家族以外の面会は駄目なんだけど、彼女もここの患者だから…特別だからね」
私はよく分からなかった。病院に入院しているような子で、仲の良い人なんていたっけ?
もう歩けるようになったから、徒歩で面会室へ。既に相手の子は来ているようだった。
「失礼しますー」
岡山さんがノックをした後、ゆっくりと戸を開けた。
「みっちゃん!元気だった?久しぶりだね〜」
「勿論さ、あっきーは?」
「元気に決まってるっさね!」
どうやら知り合いらしい。二人ともおおらかな性格が表に出ている。
「んで、いきなりどしたん?」
「ええとね、うちの病棟の音無杏ちゃんって子が、根本美優ちゃんとどうしても会いたいって……」
「知ってる?音無杏さん……」
聞いたことない。そもそもそんな名字が有ることさえも知らなかったもの。
じゃあ、一体誰なんだろう…。
ずっと看護師の巨体に隠れていた当人が、ひょっこりと顔を出した。
にこりと微笑んだ表情は、まるで___天使みたいだ。
「こんにちは、根本美優さん!」
その女の子は、凛とした美しい声で私の名前を呼んだ。透き通っていて、鈴みたいに可愛らしく……心がどこか安心出来る声だった。
私はいきなりで戸惑ったけど、やっぱり挨拶されたら挨拶で返さなきゃ。
「こんにちは」
私も精一杯の笑顔でそう言った。声、震えてないかな。
「……!」
音無杏は、とても嬉しそうに息を飲んで目を輝かせた。挨拶を返されたのがそんなに嬉しかったのかな。
「ああ、雑談しちゃった」
岡山さんがやっと気が付き、慌てて私を座らせた。
正面に音無杏、左隣に岡山さん、左斜め前に名も知らぬ看護師さん。
「それで、ルール破ってまで話しに来た理由は何なの?」
「ルール?」
音無杏が興味深そうに訊く。
そうか、普段は聞けないルールもあるのかな。それとも、ルールを破ったことにスリルを感じているのか。……まあ、看護師が目の前にいるから無意味だけどさ。
「他の病棟に入ってはいけないのよ。ここは面会室とはいえ、ちゃんとこの病棟の面会室だもの。そもそも他患者同士が面会するなんて本当は禁止なのよ」
看護師がたしなめるように言った。
「まったく、あんなに院長先生に頼み込むんだから…」
「えへへ、ごめんなさーい」
音無杏は肩をすくめておどけた。
「相当必死に頼んだのね〜」
岡山さんが感心したような声を上げると、音無杏は得意気に笑った。
「へへへー、こう見えても私、演劇部の大スターなんだから!」
演劇部___演劇部、確か沙羅も演劇部だったっけ。あぁ、沙羅のことすっかり忘れてた。この一週間で大分疲れたからね…。
「それは良いとして。
あそこまでして、どうして美優ちゃんに会いたかったの?」
岡山さんは興味深そうに訊ねた。
「……岡山さん、だっけ。
ちょっと席外してくれませんか?
関本さんも」
「え?でも……」
「お願いします」
音無杏は、真剣な眼差しで看護師二人を見据えた。
「……わかった、本当に特別よ、こんなの本当は許されるようなことじゃないから」
「責めて観察カメラで見てていいかしら」
「はい、この場から離れて下されば結構です」
「……くれぐれも長引かないようにね」
看護師二人はそう言ってそそくさと出ていった。
面会室に、私と音無杏の二人だけが残される。
「……さてと。」
音無杏がゆっくりと体を揺らした。
美しく可憐な花のように。
「今日はとっても大切な話があるんだ」
音無杏はにこりと笑った。
「大切な話?」
初対面の私に何を話そうって言うんだろう。
「うん……。柏木沙羅のこと」
「沙羅!?柏木沙羅!?」
私は思わず叫んでしまう。慌てて取り繕おうと、深呼吸する。
「……うん。やっぱり知ってるんだね」
音無杏は、睫毛を伏せて静かに呟いた。
「美優ちゃんは…柏木さんと、どういう関係なの?」
音無杏は、下を向きながら呟く。この人も沙羅の被害者なのだろうか…。
「えーと……まあ、クラスメイト?」
私はどう答えていいか分からず、曖昧に首をかしげた。「いじめっ子といじめられっ子だよ」なんて正直に言えるわけないもん。
「そうなんだ。
じゃあ、特に大きな被害とかは受けてないんだね?」
「え………まあ、そう…かな」
何を言いたいの?何かを聞き出そうとしているの?…
「ふーん、そっか」
「……は?」
一瞬、空気が凍り付いた。音無杏の口元は笑ってない。目も氷みたいに冷たい。
……気のせいだろうか。
「あいつは任務も果たせないのか」
「……音無…さん?」
「えっ?何、どうしたの?」
急に元の彼女に戻る。「ぱっ」って音が聞こえそうなくらいに呆気ない…。
やっぱり、さっきのは気のせいなんだ。
「ごめんね、なんか最近、ぼーっとしちゃうことが多くて……」
私は疑問に思い、慌てふためく音無杏をじっと見据えた。
しばらく沈黙が続く。カチカチ、と時計が時を刻む音だけが聞こえる。院内学級に通っていた人たちが何人か帰ってきたらしく、ざわざわと騒がしい。扉に付いた窓の外から、いくつかの視線。
音無杏が、微笑んで手を振る。…知り合いでも居たのだろうか。
「あーーーーーっ!
杏っ!?」
面会室の扉が開き、何人かの患者が押し寄せてくる。
「杏、何でここにいるの!?」
「また戻ってくるの?」
「てゆーか患者同士の面接って良いの?」
「何話してたの!?」
「一気に言われても〜」
音無杏はたはは、と苦笑した。
私は何だか居心地が悪くなって、わざと目立たないように明後日の方を向いた。
しかし、やっぱり目に入るものは入る。一人の患者が私の存在に気づき、声を上げる。そして次々と私の存在は気付かれていく…。全く、迷惑な!……って、思わず叫びそうになった。言わないけどね。
「この子は?ここの病棟の子?」
「この前緊急で来た子じゃない?四号室の……」
「ああ、あの部屋ね〜…」
どうやら噂になっているらしい。それにしても、もう一週間も経ったのか、まだ一週間しか経ってないのか……微妙な気持ちだ。
「……緊急?」
音無杏が興味深そうに訪ねた。
「そう、一週間くらい前に、いきなり来てびっくりしたの!」
「ね、ちょうど日課の時!」
「あのときはね…いきなり傷だらけの人が運ばれてきてびっくりしたよね」
「なんで精神病棟なんだろ」
「そこ言っちゃだめだよ…」
……全然覚えてないんだけど。
まあ、気絶してたんだから当たり前か。
「ねえ、美優ちゃん、本当に___」
「こら、勝手に入っちゃだめでしょー!」
いきなり岡山さんが突入してきた。…でも、鍵ちゃんと掛けなかった岡山さんも不注意じゃない?なんでもっと早く来なかったの?
「岡山さんだって日野さんとおしゃべりしてて盛り上がってたんじゃないの?」
音無杏がいたずらっぽく目を細めて問うた。岡山さんの目が泳ぐ。
……図星か。
「とにかくっ!もう話は終わったの?」
「えーと、とりあえず…大丈夫かな!」
「とりあえず?」
岡山さんが首を少しかしげた。
「また美優ちゃんに会いに来るから!」
「ねね、また話そうよ、杏ちゃん!」
「いっそのこと、またこっちの病棟に来ちゃえば?」
「だーめ、今回は特別なんだから!」
岡山さんがたしなめる。
「まあまあ、今回は他の患者たちが乱入しちゃったんだからいいじゃないの。」
音無杏の付き添いの看護師が入ってきて、怒る岡山さんを宥める。
「……分かった、またちゃんと医師に許可取ってくるのよ?」
「もちろん!
じゃあまたね、みんな!
………美優ちゃん、」
笑顔で、最後に私の名前を読んで、面会室の奥にある扉から出ていった。……隣の病棟に繋がってるのかな。
「さあ、私たちも戻りましょう」
岡山さんの声に、患者たちは元気よく返事をして、各自おしゃべりしながら病棟に戻った。
「あっ、お帰り〜!」
「ただいまー!」
「勇ちゃんただいま!」
病棟の中で待ち構えていたのか、勇ちゃんが患者たちを出迎える。ホールを覗くと、ポニーテールの女の子が座っていて、どうやらテレビを見ているみたい。勇ちゃんと話していたのかな。
食堂には誰もいない。…あ、でもノートと筆記用具が置いてあるから、誰か居たのか。DVDも付けっぱなしで、アニメの男の子が何かを必死に訴えていた。
「さて……そろそろお昼の時間だから、早めに支度しといてね!」
岡山さんがそう言うと、患者たちは返事をして、おしゃべりしながらそれぞれの病室に入っていった。
「さて……騒がしくてごめんね…」
岡山さんは溜め息混じりに呟いた。私は「いいえ」と小さく返答した。
「さて…部屋に戻ろっか」
「……はい」
正直、部屋には戻りたくなかった。……あんな暗い世界に閉じ込められるなんて、もう嫌。
私は暗い面持ちで、下を向いた。
………。
なんで、個室に四人も居るの?
なんで、私があんなに暗い人達の中に入れられるの?
なんで、私が___
ぐるぐると、言葉が頭を駆け巡る。
「………あ、美優ちゃーん!」
……誰かに名前を呼ばれた。
担当の先生だ。一体どうしたんだろう…走ってこっちに来た。
「どうしたんですか?」
岡本さんもびっくりしている。……そりゃそうさ、先生が廊下を走ってるんだもん…。あれだけ危ないから禁止って言ってたのにね〜。
「美優ちゃん、今から部屋移動なんだけど、大丈夫?」
「えっ?」
部屋移動?もうすぐ退院なのに…?
何でだろう。やっぱり、個室に四人は居心地悪いから?………。
そうだ、部屋を移動したら、あの人たちとはもう関係無くなるよ。良いじゃない、私にとっては元々何の関係も無かったんだもん。
「大丈夫、です」
「そう、良かった!じゃあ荷物纏めるから、ちょっと待ってて〜」
先生と数人の看護師がばたばたと四号室に入っていった。
しばらく食堂の隅っこで岡山さんと過ごした。あれだけ早く来るようにって言われたのに、誰一人食堂に来ない。ホールで明るい笑い声が聞こえるだけ…。
「全く……いつも十分も早く来る子も居るんだけど、その子も今日は来ないね〜…」
食堂にノートもDVDも置いたまま…。
しばらくして、先生が汗を拭いながら来た。
「ふう……準備終わったよ、それじゃあ…移動しよっか」
私は無言で頷いた。いざ移動となると、少し寂しいもの。話しはしなかったけど、一週間もずっと一緒に居たんだからね…。
「次は七号室だよ」
岡山さんが車椅子を押す。ホールで談笑していた患者たちがちらちらと私を見た。唯一、勇ちゃんは笑いかけてくれる。
「七号室はね、美優ちゃんとあと一人だけなのよ」
……何て言う子かな。仲良くなれるのかな…。
「笹塚結衣ちゃんって子で…、マスク着けてるけど、あんまり訊かないであげてね」
マスク…衛生上禁止だよね?余程ひどい花粉症…アレルギーとかかな。
……そういえば、さっき独りでホールにいた子も、マスクしてたっけ…?
同一人物なのかな。何だか大人しそうな子だった…。寂しげな、儚い感じ。私とは大違いだね…。
「七号室は大部屋だから、トイレと洗面は今まで通り共同のを使ってね」
「まあ、個室の人は部屋の洗面所使うんだけどね」
岡山さんの説明の途中で、ぼそっと先生が口を挟む。
「それは仕方ないことですよ…」
「そうですね〜」
たはは、と無邪気に笑う先生。なんか仲の良い姉妹みたい。
「さて……七号室はホールに近いから、うるさいかも知れないけど……これを期に、美優ちゃんも自由に外に出ていいし、日課やミーティングにも出てもらうよ」
先生がそう言いながら、私たちは七号室に入っていった。
「………わぁ」
ここが……大部屋か。
広い。普段は個室の部屋に四人も居たんだもん、無理もないか。
右奥に、私とは種類の違うベッドがある。……まあ、個室のときは他のベッドはちゃんと見てないけど。
オーバーテーブルには置時計と水色のコップがあり、ノートやらメモやら……乱雑に置いてある。
「あれ、このノート……」
さっき食堂で見た物と色違いだ。そんなに珍しい品物じゃないし、偶然被ってたのかも…。
「さて、ベッド何処にする?」
「えっと…………じゃあ、右手前で…」
少し考えたけど、窓際はなんか寂しいしね。何より一番ホールに近いから、多少うるさくても寂しくはないだろうなって。
でも、自由に出られるなら、積極的に話し掛けようかな。勇ちゃんが話し掛けてくれた時、すごく嬉しかったから。
私も、人に優しくしてみたくなった。今までちゃんと向き合わなかった分、ここではしっかりと…相手の目を見よう。
「………あ」
その時、部屋の前に人影が現れた。
小さい手提げ鞄を両手で大事そうに抱えた、ポニーテールの___マスクを着けた、あの子だった。
「………あの、せんせ、………その子……………………は?」
しどろもどろになって、笹塚結衣は訪ねた。__ああ、相当な人見知りなんだな、この子は。心もデリケートで、きっと些細な事で傷付けてしまうかも知れない。
__気を付けなくちゃ。
私は握り拳をぐっと震わせた。
「こ、こんにちは!」
なるべく、明るく。笑顔で挨拶する。笹塚結衣はびくっと肩を跳ね、私を怪物でも見るような目で見詰める。
うぅ、挫けるな、私。
「この子はね、今日から結衣ちゃんと同じ部屋になる、根本美優ちゃんだよ」
「よ、よろしくね…」
「え、あの……絶対に他の子が同じ部屋に来ないようにするって約束は………?」
「ごめんね、病院も今混んでて、仕方ないことなの…。
それに、これから先もずっと人を拒み続けたら、いつまでも退院出来ないよ?」
先生が優しく言う。
「いつかみんなが辿る道なの。
きっとすぐに仲良くなれるわ、美優ちゃんはとても優しくて素敵な子だから」
て、照れるな…、なんか。
「……………っ、退院出来ないのはやだ……」
笹塚結衣はうつむいて言葉を溢す。やっぱり、退院したいものなんだね。この子は、家庭には問題なさそう。
「………だったら、人に慣れるしかなくて、」
「大人なら大丈夫だよ!」
笹塚結衣は叫んだ。ホールにその声が響く。マスクがずれて、真っ赤になった鼻が覗いていた。
「………!」
それに気付いたのか、慌ててマスクを整える。……そんなにマスクが大事?顔を隠したいの?…
「…世の中には子供もいるのよ」
「分かってるけど……」
「それに、同世代の子が苦手なら……一生社会に出られないわよ。親に迷惑掛けてもいいの?」
「やだよ!嫌に決まってるでしょ!?」
先生と笹塚結衣は口論のように口調を粗げていた。
私は何故かむっとして、つい口を開いた。
「……いくらなんでも、心に何らかの傷を抱えた子に、それは言い過ぎじゃないですか?」
「……え?」
岡本さんと先生、そして笹塚結衣が私を見る。
昼食の時間を知らせる放送が入る。ホールで私たちの会話を静かに聞いていた患者たちが、ぞろぞろと食堂に向かう。
「人にはそれぞれ、ペースがあるんです…。先生が正しいと思っていることを、他の人も必ず正しいと思う訳ではないんです。
ましてや……今までたくさん傷付いてきた患者に………」
私は感情を押さえきれず、涙を流しながら叫んだ。
「もっと色んな人と関わった方が良いのは、先生の方でしょ!?」
「…………美優ちゃん…」
言ってから、後悔した。ああ、しまった。やっちゃったって。
こんなこと言ったら、先生も傷付いてしまうに違いない…。こんなの私の独りよがりな綺麗事だ。自分の勝手な感情を無実な人間にぶつけるなんて…。どこまで私は馬鹿なんだよ。
行動してから気が付く。その時には、後悔してももう取り返しは付かない頃で__いくら涙を流しても、他人を傷付けたって言う事実は消せないし、それと同じように……その傷自体も消せない。
愚かだ。私はここまで愚かなんだ。
何が、仲良くしたいだ。何が、優しくしたいだ。何が、真っ直ぐ向き合いたいだ…。
私は自分の世界しか見えてなかった。他人をちゃんと見ているようで、そうではなかったんだ。
「何で、もっと早く……」
私はその場に崩れ落ちた。
私は目をゆっくりと閉じて、項垂れた。顔が上げられない。岡山さんが背中を擦ってくれているけど、御礼を言う気力すらない。
もう誰も傷付けたくないから、私はしゃべらない方がいいんだ…。
「……そうだよね!」
「……え?」
先生の明るい声に、朦朧としていた意識が呼び戻される。
一気に脳内がはっきりして___あれ、私何で座り込んでるの?
「そうだよね、美優ちゃんの言う通りだよね!
勉強になった……」
顔を上げると、先生はにっこりと笑っていた。
「患者から学べることってたくさんあるんですよね」
「うん、これからは気を付けよう」
無邪気に笑い合う先生と岡山さん。
………?訳が分からない。
「あのね、先生は、去年来たばかりのヒヨッコなんだ。
言い訳みたいだけど、経験が少ないから…今の美優ちゃんの気持ちも、本当はよく分からないんだ。」
先生は悲しげに呟いた。
長い睫毛をそっと伏せて…
「だけど、やっぱり医師になるって言う夢を叶えた訳だから、そのまた上にある夢に向かおうって思えた!」
先生は私を見据えていた。
その瞳は凛々しく、真っ直ぐで、……とても美しく見えた。
私の中でも、何かが生まれたような気がした。
「美優ちゃん、あなたはきっと素敵な…………」
先生………医師(せんせい)はそこまで言って、言葉を詰まらせた。
「ううん、ここから先は、美優ちゃんが答えを出すもの」
そんな、独り言を言いながら。
「さーて!もう昼食食べなきゃね!」
岡山さんに背中を押されて、私と笹塚結衣は食堂に向かった。
ふと、笹塚結衣が立ち止まって、
「………一緒に、食べない?」
「…………えっ?」
私の心に、確かな希望が芽生えた時間だったね。たくさん、勇気を貰えた。
私は笑顔で、心からの答えを口にした。
「……うん。よろしくね、結衣」
今日の昼食は、特別美味しい気がした。大嫌いな野菜も、今日はとても良くに思えた。
そして何より、結衣とたくさん会話した。
結衣は、相変わらずマスクを着けたまま、マスクの下にお箸を入れて食べていた。
「美優は、中学生なの?」
「うん、二年生」
「本当?じゃあ私と同じだ」
「へえ、すごい偶然だね!」
「偶然でもないよ、この病棟には中学生か高校生しか居ないもん」
「へぇ………」
ん、あれ?
中学生と高校生しか居ない…?
四号室にいた、初めて会話したあの小さな女の子。…あの子も中高生だってこと?とてもそうは見えなかったけど。
「そういえばさ、さっき何のDVD見てたの?」
「え?……あぁ、付けっ放しにしてたもんね」
「うん。何かのアニメ?」
「うん。アニメ好きなんだ。」
そう言ってから、はっと口を抑える。
どうしたんだろう…。
「結衣、大丈夫?」
「うん、ご、ごめんね……ちょっと」
結衣は立ち上がって、お盆を下げた。まだほとんど残ってるのに…。
私が変なこと訊いたからかな。
気が付いたら、まだ食事をしているのは私だけだった。看護師のあの人___中島さんだっけ___が、にこにこしながら私を見ていた。
私も何だか居心地悪くて、まだ半分以上残ってるけど…下膳した。
もちろん、調理師さんに謝ったよ。「良いんだよ、」って言ってくれたけど、やっぱりすごい罪悪感…。
私がしょんぼりしていると、中島さんが笑って「美優ちゃんは優しいね。他の子はみんな当たり前のように残していくわよ」と苦笑した。
「そうなんですか……。感謝の気持ちって大切ですよね」
「そうね…」
私は小さくお辞儀をして、部屋に戻ろうと回れ右をした。
「とっても感じのいい子ですね…」
そんな声が、耳に入ったのを噛み絞めて。
七号室までゆっくりと歩いた。初めて真面目に見るナースステーションは、とてもたくさんの資料や物で溢れていた。氷枕やホットパック、大量の注射器など…。パソコンは何台もあり、こっちを向いてる画面には「清水 使用中」と文字が流れていた。
……あ、清水さん来てたんだ。
ホールでは、昼ドラマを見て爆笑している患者たち。中には膝の上にノートを広げてイラストを描いてる子もいた。それを覗いて「上手いね」と笑っている光景は、とても微笑ましかった。
きっとここの人達には、裏も表も無いんだろうな…。
辛い思いをしてきたから、そういう面は気を使えるだろう。
部屋に入ると、結衣がベッドの脇に座っていた。
「どうしたの?」
思わず尋ねる。
「えっとね…………」
慌てて平然を装おうとしているらしいけど、私にはばればれ。気付かない振りをしようかと迷ったけど、悩んでるみたいだし…ここは聞いてみた方がいいかもしれない。
結衣には悪いけど、訊かずにはいられないよ。出来ることがあるなら、力になりたい。
「……何かあったの?」
「えっ?何もないよ」
結衣はなかなか話そうとしてくれない。水くさいな……まあ、ついさっき話せるようになったんだし、仕方ないのかな。私の感覚がおかしいだけ?
「ね…私に話せることがあるのなら、話してみてよ……結衣、何か辛そうだよ」
「……ふふふ」
結衣がいきなり笑い出した。
「な、何が可笑しいのさ」
「だって、美優ったら必死すぎるんだもん。そこまで他人のこと考えられる人、初めてだわ」
結衣は涙を滲ませた目元をゆっくりと閉じた。
笑い過ぎたのか、それとも__
「やーめたっ。私、美優に全部打ち明けるわ。貴方みたいな素敵な友達に隠し事なんてしたくないし」
結衣はそう言って、ふうっと息を吐いた。
「もしかしたら、私の悩みも__」
「結衣、私も全部、結衣に話す!
私も結衣に色んなこと知ってもらいたい……!」
「……美優…。
ふふ、私の母親が心理カウンセラーやってるから、これでも人の話を聞くのは得意だし好きだよ」
結衣はいたずらっぽく笑った。
「うん、話すより聞く方が得意だよね。」
私の口から、するっとそんな言葉が出てきた。
…あれ、一回でもそんな風に感じた時ってあったっけ。無意識のうちに、そう認識していたのだろうか。
それにしても、自分がこんなに他人のことを観察しているとは思わなかった。他人なんてどうでもいい、自分さえ良ければ良かった私が_成長した証なのかな。
「……。
すごいね、美優は。図星だよ。」
結衣も笑っていた。
「……私、美優にぴったりの職業が分かっちゃった」
「え、何?」
職業?私にぴったりの?将来の夢なんて持ったことのない私は、少しだけ驚いた。
何だろう、少し気になる。
「でも、美優の将来は美優のものよ、自分で決めてね」
「……そうだね、ありがとう」
素直に嬉しかった。
私の将来は、私自身が決めてもいいんだ…。
そうか、そうなら私、人の力になれる仕事がいいな。たくさんの人を助けたいな。今まで、そうしてこなかった分…。
「きっと、美優は私が思った仕事をすると思うよ。」
「本当!?」
ますます気になる。
「でもやっぱり秘密。これだけは、自分で気付かないと…もしかしたら私の言葉に惑わされて、希望を見失ってしまうかも知れないから。
……私のせいで、傷付けたくないの」
「………そっか」
「うん。
……そうだ、私食堂行きたいんだけど、一緒に行かない?」
結衣が何かを思い出して、急に話題を変えてきた。
故意……ではない様子。話すのが嫌な訳じゃないようだ。
「食堂?食堂って自由に行っていいの?」
「うん。大丈夫だよ」
「そっか。じゃあ行こうかな」
それっきり、結衣の悩みは訊けなかった。
食堂に行くと、四人の患者が居た。三人の患者が固まっていて、一人だけぽつんと端っこの方に座っていた。
一瞬、結衣の表情が強ばる。
「………美優、」
結衣がその表情で私を見た。何かを酷く恐れているようだ。
三人と__一人。
それを目撃して不安を隠しきれない結衣。
ちらちらと一人の患者を見てこそこそと話す三人の患者たち…。
この状況は。
「……結衣、行こう」
私は小さい声で言い、固まる結衣の手を引いて、怪しく笑っている三人組の前を素通りしていった。
こんなのどうってことない。こんなこと、この年の女の子にはよくあること。
……それを過剰に怖がっちゃうんだ、この子は…。
もしかしたら、過去に何らかのトラブルがあったのかも知れない。
_下を向いて黙々と本を読む独りぼっちの患者と、顔色を真っ青にした結衣の姿が重なる_
私は眉を潜めて、興味深そうに私を見る三人組を見据えた。
http://ha10.net/up/data/img/13471.jpg
http://ha10.net/up/data/img/17472.jpg
……何こっち見てるんだよ。私に興味持つ前に、あの一人の子に声を掛けろよ…。
私はイライラした。
ガタ、っと音がして、三人組がにこにこしてやって来た。
……何か言い掛かりをつけようってのか。
身を構える。結衣は私が護るんだから…!
「こんにちは!」
三人組が一緒に挨拶した。
………?
「こ、こんにちは」
拍子抜けた。…なんだ、悪口言われるのかと…。びっくりした。
「名前なんて言うの?」
「さっき杏と話してた子だよね?」
「大部屋移動したんだね!おめでと」
口々に質問やら何やらを投げ掛けてくる。
とりあえず答えておこう。面倒臭くならないうちに…
「えと、根本美優だけど…」
「美優ちゃんか!ねえねえ、杏とはどういう関係なの?」
そんな…カップルじゃないんだからさぁ……。女の子ってやっぱりこうなんだな。他人のことを必要以上に知りたがる。プライバシーってものを知らないのか…と呆れる。
「別に、なんかいきなり面談しろって言われて、今日初めて会ったの」
「そうなんだ〜!杏って明るくて優しくていい子だよね」
「……そう、ね」
結衣が怯えた目線を私に向ける。まるで「置いていかないで」と言っているようで…。
「私、七号室に行ったんだ。
結衣と同じ部屋」
私はわざと結衣に話題を向けた。結衣も安心したような、不安なような…複雑な表情だけど。
「………へぇ、そうなんだ!」
「結衣ちゃんってあんまり話さないからよく分からないけど」
「もっとホールとか来たらいいのに」
「…………あ、私はっ…」
結衣は涙目で狼狽えていた。
ああ、やっちゃった…
http://ha10,net/up/data/img/13472.jpg…挿絵2
「……どしたの?」
悪気のない様子の三人組。………恐ろしいな、自覚なしに他人を傷付けるなんて。責めようもないじゃない。
「……結衣はもっとみんなと話したいけど、緊張したりして上手く話せないし、勇気も出ないんだよ。
少しのことでも傷付きやすいし…」
私は必死に説明した。その間、ずっと結衣が私を見てるような気がしたけど、怖くて直視できなかった。
……もし余計なお世話だったらどうしようって。
「……へぇ」
三人組は興味無さげにそう言った。
………どうして?私の話題の時と結衣の話題の時とで、こんなに態度の差があるの?
「……ねえ、結衣のこと嫌いなの?」
私は彼女たちを睨んで問う。…もし「嫌い」なんて言ったら、何処に嫌いになる要素があるのか訊いてやる…。
「……結衣ちゃんのことなら大好きだよ」
いかにも棒読みだ。目が死んでる。
結衣ちゃんは「もういいよ、美優ちゃん……」と必死に私を止めている。……怒ってるのばれちゃってる?
………でも、でも。
人を見下してこんなあからさまな嫌がらせするなんて、人としての神経を疑う。そんなの、絶対に間違えてる…。
本人の前で訊いたのがいけなかったのか?それとも、質問の仕方?
分からない。ここは辛い思いをしてきて、傷付け「られた」人たちが心を休ませる場所じゃないの?
何で…、どうして。
「どうして簡単に人を傷付けられるの………」
「え、私たち傷付けたの?」
「ごめんね〜、結衣ちゃん」
「美優ちゃんも落ち着いてよ〜」
甘えた声で笑う三人組。
………あったまきた。
悪魔みたいに笑う沙羅の表情によく似ていた。……ああ、この人たちも、他人を蹴落として弱い者を嘲笑って生きている、哀れな人たちだ。
「……そっか。悪気はないんだ。」
静かな声で、にっこりと冷めた笑顔で、三人組を嘲笑ってやった。
三人組も私の異常な様子に気付いたのか、一瞬黙る。
「……うん、ごめんね!」
「美優ちゃんも結衣ちゃんも、もっとたくさん話そうよ!」
「仲良くなりたいもん」
「………そうだね。気が向いたときにまた話そうね」
私は立ち上がって、結衣に目配せした。「もうこんな場所から離れてしまおう」と。
それから、私たちは部屋に戻った。結衣は何も喋ろうとせず、ただただ押し黙っていた。
私はたくさん喋った。心の限り、謝った。
辛い思いさせてごめんなさい、私って大切な人を侮辱されると、すごく腹が立って……癇癪持ちなのかな。
一回頭に来ると、回りなんて見えなくなって……このままじゃ、また結衣に嫌な思いさせちゃう。
………ごめんね、私…ずっと、もっとみんなが手を取り合って、優しい気持ちが生まれ続けてる場所だと思ってた。ここって辛い思いしてきた人達が来る場所でしょ?
…でも、現実は漫画や小説みたいに甘くはないんだよね。
私は、夢ばっかり見てた。全てが私の想像通りだって。
でもそんなの、現実じゃ有り得ない。本当に馬鹿だった。こんなんだから、さっきみたいに結衣を傷付けた。
ごめんなさい、謝って済むことじゃないけど。
私は泣きながら、必死に……必死に、自身の心を伝えた。
「………美優……」
結衣ちゃんは泣きそうな声で呟いた。
「そんなに気にしてたの…。
私なら大丈夫よ、だって今までやってやりたかったこと、全部美優がやってくれたんだもん。」
結衣はたはは、と笑った。
「私も、本当はうんざりしてたんだ。平気で陰口言うんだもん、あの子子たち。気に入らない子は無視するんだよ?
あんな人たちにどうして反発出来ないのか、自分が嫌になってた。」
結衣は長い睫毛を伏せて、儚げに微笑んだ。
「………だから、ありがとう」
私は心が暖かくなった気がした。
結衣の言葉に、私は本当にするべきことが分かったんだ。
……ゆっくりでいい。時間が掛かっても、絶対に諦めないでやり遂げる。
「私、悪口のない病院にするわ」
もう、誰も傷付けさせたくない。
「悪口のない病院…?
そんなの無理、絶対に無理」
結衣は断固として否定した。
………それはきっと、結衣が辛い思いしかしてこなかったから。
きっと、何かのきっかけがあれば、悪口なんて収まるはず…。
「悪口なんて何処にでもあるのよ、人間が居る限り、悪口なんて無くせないわよ。」
結衣は自虐的に笑って溜め息を吐いた。
___小学生のとき。___
私も、たくさん辛くて痛くて苦しい思いをしてきた。毎日毎日、その気持ちは増大してって。
もしあの時、あのまま立ち止まったままだったらって考えると、当時の私の行動は正しかったと思う。
実際に私が成功したんだ。可能性は無くはない。
「……大丈夫、きっと…私は誰よりも悪口の破壊力を知ってる」
「破壊力?」
「うん、たった一言で、世界は一気に変わってしまうんだよ」
__あの時みたいに、一瞬にして世界が凍り付いたら嫌だから。
__この場所が、ストレスになるだけの場所にならないで欲しい。
そのために、今私が出来ることは?
誰も不快にせずに止める方法は?
…きっと今すぐ出来ることじゃないけど、馬鹿な私の脳みそでも、良い方法は見つかるはず…。
あの時と同じ方法は駄目だ。此処であんなことしたらみんな人間不信になっちゃうか。……
……私はどうしたらいいんだろう。
悪口止めてどうしたいの?それって逆に考えれば、言ってた人達にストレスが溜まるのでは?
誰も不快にせずに、なんて不可能なのかな。やっぱり結衣の言う通りなのかもね。
でも、せめて……結衣みたいな子が気にしないようにするくらいは出来るんじゃないかな。
何かさ、私も人の事言えないけどさ、同情したり綺麗事言って偽善者ぶる奴って本当に嫌い。お前たちに私の気持ちが分かるのか?私自身もよく理解してないのに知ったかぶるな、辛い思いしてても、私の辛さとは違うんだからってさ。
子供はまだいいとして、大人は何なんだよ。何も考えない大人が、無意識のうちに子供を追い詰めてるのよ。その結果、自殺する子供が出たり、悪口が広がりいじめに発展する。
だから、ここにいる人達の問題も看護師や医師のせいじゃないのか。さっきみたく、自分は全て正しい、子供は自分達大人がいなきゃ生きていけないって勘違いしてる。
確かに、子供だけじゃ生きてけないよ。でもさ、それを決めつけて鼻高々になってる大人も大人さ。
所詮みんな人間。多少力の差があっても、私たちの心の中までは操れない。
いっそのこと、暴投でも起こしてやろうか。そしたら鬱憤も晴れて、悪口も減るかも?
「……美優、暴投は駄目よ、みんな部屋から出られなくなる」
「そうだよね……私も分かるよ」
……まあ、逆効果だろうね。
暴力で解決しようなんて馬鹿か私は。もっと頭使え。
「直接職員に注意すればいいんじゃないかな。私たちは医師と患者なのよ、学校の教師と生徒じゃないの。
だから、多少生意気言っても、聞き入れてはくれると思うわ。
………むしろ問題なのは……他の患者たちに、どう協力してもらうかね」
結衣は頬を引き吊らせて笑った。
………結局、本当に誰も傷付けないなんて無理なのかな。
どんなことにも犠牲は付き物………なのかもね。
誰かか歯を喰いしばって、感情を押し殺してでも我慢しなければ、みんなが不幸になってしまう。そして、誰もがそんな役回りにはなりたくないと、他人を下げて、少しでも自分を大きく見せたがるんだ。
………その結果。
私はその役回りになってもいいから、出来るだけ他人を傷付けたくない。
どんな人にも生きる権利はあるよ。どんなに冷酷な悪口を言っている人にも、想像出来ないくらい人に嫌われている人にも、ちゃんと……私は手を差し延べたいよ。みんな、一所懸命に生きてるんだもん。もちろん、悪口は良くないよ。
そこで、急に結衣の表情が険しくなった。少し言い過ぎたかな、と思ってたんだけど…。
「………美優は大人に恨みでもあるの?」
結衣は思った以上に柔らかい口調だった。
しかし、それ以上に__私の心に深く深く突き刺さった。
言葉その物が、鋭い槍となって私の心をゆっくりと貫いていく。
「……え?あ、ううん、大人は嫌いじゃないよ、いい人だっている、し」
そ、そうだよ。みんながみんな、あいつみたいに卑屈な奴じゃないよね。人それぞれ違うし、それに私は世界のほんの一部しか見てない訳で、あいつもかなり特殊なんだしっ!
「………そう」
結衣は何か言いたそうにしたが、それ以上は何も訊いてこなかった。
………ばれるところだった。
私の、過去が。
弱い少女の過去,4
それを取り出してみる。背筋に悪寒が走った。
「………な、な、なによこれっ!」
思わず声に出てしまう。
すると、あの子が私に近付いてきた。
「……赤羽さん、今日から宜しくね♪
私のことは梓って呼んでね」
梓は、まるで天使みたいに笑った。でもその奥には、得体の知れない深い深い闇が潜んでいるように見えた。
今日は、とても長かったな。音無杏に出会って、やっと四号室から抜け出して、結衣と仲良くなれて、初めて食堂に出て……。
すごく疲れた。少し早く起きすぎたし、まだ8時だけど寝よう。
結衣におやすみと伝え、布団に潜り込んだ。
すぐに睡魔が襲ってきて、まぶたが重くなる。
はあ、明日はどうしようかな___
「うるさい、そういうところがムカつくんだよ!」
「いちいち口出ししないでよ、何様なの?」
「ずっと私たちのこと避けてきたの、結衣ちゃんじゃん」
………何?何を喧嘩してるのよ…。
私は寝てるんだよ、静かにしてよ……。
あれ、何だろう。
何か大切なもの、失った気がする。
うーん。今日もいい天気!
窓の外から入ってくる明るい日差しが暖かい。
………あれ、結衣がいない。どうしたんだろう…。
置き時計を見ると、……7時少し前。私ももうそろそろ起きなくちゃね。
もぞもぞと布団から出て、枕元に置いておいたワンピースに着替える。ベッドの柵がなんか邪魔なんだよね。肘が当たるんだ。
そんな他愛もないことを考えながら、脱いだパジャマを袋に入れて、洗面所に向かった。
当然、ホールを横切って行くんだけど、ホールに人が居たんだ。
だ視界の隅にいたその人を見ると、結衣だった。
他には誰もいない。
「結衣、おはよう。
部屋に居なかったからびっくりしたんだよ」
私はホールに上がって隣に座った。
「……私に話し掛けないで」
結衣はうつ向いたままそう言った。
私はその言葉の真意が分からなくて、そのまま動けなかった。
「……どういう意味?何があったの、結衣!」
「美優に迷惑掛けたくないんだよ、私のせいであんなに………」
結衣はそこまで言って、立ち上がって去っていった。
「結衣……」
ワンピースの裾をぎゅっと握り締めた。私が、私があんなに追い詰めた。思い詰めらせたんだ。
どうしよう、結衣にまたトラウマが増えてしまう。私が作った…。私が、この手で………。
「美優ちゃん……?大丈夫?」
「えっ」
どうやら私は泣いていたようだ。……涙を脱ぐって、見るからに低血圧な寝起きの勇ちゃんを見据えた。
「あ、うん大丈夫だ、よ」
声も途切れて、すごく恥ずかしい……。
「昨日から大変だね、何かあったなら聞くよ」
その優しさが胸に染みた。
「……ううん、大丈夫、ありがとう」
勇ちゃんにまで迷惑掛けられないよ。私に関わったら皆、迷惑掛けちゃう……。
「駄目だよ、一人で抱え込んじゃ。」
勇ちゃんは真面目な表情で私を叱った。
「そんなの、ただの一人よがりだよ。
頼れる人が居るなら、頼るべきなんだよ」
その言葉には、重みがあった。
「……だから、ね。
私には、頼れる人が居なかったから。」
勇ちゃんは窓の外を眺めながら囁いた。
「……そうだね。」
何故か涙が溢れてきた。目の奥から、じわっと…熱いものが。
「……もう、一人で抱え込んじゃ駄目だよ。」
「……うん、ありがとう」
朝の日差しがとても暖かかった。
私は朝食のあと、歯磨きをして、やり損ねた洗顔も済ませて、ホールに出た。あ、今日は一人で食べたよ。なんか気まずいしね…。
そして、先に来ていた勇ちゃんと合流した。
優しく手を振ってくれるその姿は、とても眩しかった。
「……そんなことが。」
私は出来る限り話した。勿論、結衣が嫌がりそうなことは言わないよ。
でも、大事なところは打ち明けた。
勇ちゃんはずっと黙って聞いてくれてて、たまに嗚咽を漏らす私の背中をさすってくれたり。
私、本当に嬉しかったよ。
「……原因は、分かったかも」
「え、本当?」
「うん。昨日の夜、実は………結衣ちゃんが、暴れだしたの」
………え?
掲示板の基本方針という所読んでください!
87:優香:2016/10/10(月) 22:35すいません!コメント書くところ間違えました!
88:苺ましまろ*◆LM >>87大丈夫ですよ~**:2016/10/11(火) 19:58 「何それ、何それどういうこと!?
なんで、なんで結衣がそんなことしたの!?ねえ!!」
私は目の前が真っ白になってしまって、何も考えずに勇ちゃんに掴み掛かった。
何よ、何なのよこれ。
何でこうなるの?私はとことん不運なんだ。
でもどうして?どうして結衣が暴動を……。
「落ち着いて、美優ちゃん。
あのね、私にも詳しい原因は分からなかったんだけど、結衣ちゃんね……」
視線を泳がせながら、しどろもどろに話す勇ちゃん。何よ、早く言ってよ!
ああもう、何もかもが嫌になる!
「言ってもいいのかな、美優ちゃんが傷付くかも」
「傷付いてもいいから真実を教えてよ」
「う、うん」
私は苛々して冷たく言い放った。
「あのね、結衣ちゃん……いきなり私たちに『この屑野郎、さっさと失せろ』って言い出して……瑠璃ちゃんたちが『急に何だよ、美優ちゃんの差し金か?』って言ったら、みんな口々に美優ちゃんと結衣ちゃんの悪口言い出して……そしたら結衣ちゃんが『美優の悪口言うな』って暴れだして、手当たり次第に本とかリモコンとかを投げ出して……。
すぐに看護師さんたちが気付いて止めたけど、興奮状態で我を忘れていた
結衣ちゃんは『覚えとけ、必ず潰してやる』って叫んで観察室に入れられたの……」
………
「美優ちゃん?」
………何それ。
何それ。
「ねえ、大丈夫?」
何それ。
何それ何それ何それ何それ何それ何それ何それ何それ何それ何それ何それ何それ何それ何それ何それ何それ何それ何それ何それ何それ
__何よそれ___
「結衣……そういうことだったの」
やっと分かった。でも、それは余りにも残酷すぎて。私は受け入れられなかった。
受け入れたく、なかった…。
私のせいだよ。私があんなこと言い出したから…。
「美優ちゃん、ごめん…」
「なんで優ちゃんが謝るの……話してくれてありがとう…」
太陽の光が、私たちを照らしていた。
一瞬だけど、私にはその日光が何かを訴えているように見えた。
『朝のミーティングを始めまーす』
放送が入った。
「行こう、美優ちゃん」
「……うん」
私たちは食堂に行ったけど……誰もいない。あれ、そう言えばホールにも誰も居なかったっけ…。
「…みんな、昨日のことで安静時間作られて部屋から出られないんだよ」
勇ちゃんは落ち着いた口調だった。勇ちゃんは、安静時間作られなかった……。やっぱり冷静なのかな。
朝のミーティングでは、まず体温と脈を計って、そのあとに今日の日課とか、個人の予定を言っていく。ちなみに今日は午前が入浴で、午後が病棟プログラムだって。
「それじゃ、今日の予定を聞いていきまーす」
順番に名前を呼んでいく。私は一番最初だった。とは言え、今は六人しか居ないんだけど。
ここにいる人達……みんな滅多に部屋から出ないのかな。大人しそうで下向いてる子ばっかり。
「ミーティング終わりまーす」
…ふう。今日の担当は清水さんだって。久しぶりだね。
「ねえねえ、このあと暇じゃない?」
机に突っ伏して勇ちゃんが溢した。……確かに暇だけどさ。そんな大きい声で言う必要は………あ。
「そうだね〜」
私も適当に相槌を打った。目的は何なのか、大体分かったから。
「そうだ、トランプでもやろーよ」
勇ちゃんは早速ナースステーションに走っていった。去り際に、「あとは待たせたぞ」って言われた。
ちょっと、私に任せるのか…。
「えと……み、みんなも一緒にやろうよ」
私はぎこちない笑顔で散らばり掛けた患者達に声を掛けた。
「………」
「……………」
「…………………」
ち、沈黙が痛い…。
視線がなんか怖いんだけど。警戒されてるのかな、眉を潜めてる子もいるし…!
まあ、私もあんまり愛想良くないし、見た目もちょっと…あれだからねー。
はあ、気付かない振りでもしとけば……。
「……あなた、昨日暴れた子と同じ部屋の…」
「え、根本美優ですっ!」
ヤバイ、びっくりして名前言っちゃったよ。中には笑いを堪えてる人達もいるし。恥ずかしい…。
「そう。昨日のあの子、いつもと様子が違ってたわよ。いつもはあんな大声出さないし、そもそも無口で喋ってるところなんて滅多に見たことない…。」
その子は眼鏡のレンズの奥にある瞳を私に向けながら話した。
「なのにあんなに豹変したわ。何かあったんじゃないの?」
「……あ、あんたには関係無いでしょ?」
「そうやって逃げるのね。私はただ事実を知りたいだけ。その為ならあなたの気持ちなんてどうでもいいのよ」
冷たい。冷たい瞳だった。
自分勝手で、他の人なんてただの踏み台で___そう思ってる、感情が__
まるで沙羅みたいだ。
……沙羅?
沙羅は今、何してるんだろう?
私が居なくなったから、他の生徒を今度は___!
そうだ。すっかり忘れてた…!
沙羅を野放しにしておけないよ。一刻も早く退院して、暴走を止めなきゃ……。
……退院する?
退院したら、この病院のことなどうするの?私のせいで結衣があんなになって、状況はさらに悪化したのに。
なのに、ここから逃げて、学校に戻るって言うの?……
どうしよう。私はどっちを優先すればいいんだろう…。
「トランプ貰ってきたよ〜」
勇ちゃんがトランプを振り回しながら戻ってきた。私はそれでも虚ろな表情のまま立ち尽くした。
どうしよう。勝手にこんなことしたから……どうしよう…。
「……優柔不断。迷いがある」
「………は?」
さっきの、眼鏡が口を開いた。その口から出てきた言葉は、私の心そのまんまだった。
今の私に一番ぴったりの言葉。
皮肉だ。
「あなたが弱いから、笹塚さんが暴走したんじゃないの?」
「………!」
そのとおりだよ。そのとおり。
あんたは正解だよ。迷いもなくて、強くて、しっかりしてる。
でも、それはあんたが一人よがりだからよ……。
ただの知りたがりの野次馬じゃない。
「……美優ちゃん…」
「山本も少し言い過ぎだよ!」
勇ちゃんが叫んだ。眼鏡の子___山本はそんな彼女を冷たくあしらう。
またその態度にイラッと来てしまい、思わず目付きが鋭くなる。
なんなのよ。本当に自分中心で自分勝手だね。
「……私、あんたとはこの先一生理解し合えないだろうね」
私は自分でも驚くほど低い声で言い放った。
こんな人の言葉に惑わされるなんて馬鹿みたい。関係無いのに他人の騒動に口を出すなんて人間としてどうなのさ。それも自分がただ「知りたいだけ」……。
「あなたなんかと分かり合おうなんて思う訳ないじゃない。馬鹿じゃないの?」
………何それ。
「……みんな、ごめんね…。今日は止めておこう」
勇ちゃんがトランプを握り締めて、ばっと踵を返した。辛辣な表情だった。
……勇ちゃんは何も悪くないのに。
もしかしたら私が山本に殴り掛かるのかと思ってびっくりしたのかな。
「……」
そうだ、私もしかしたら、あのまま山本を殴ってたかも知れない。感情のままに、感情を___ぶつけようとして。
そんなことしても何の解決にもならないのに…。
ひと思いにそんなことしたら、また状況が悪くなる。色んな人をまた傷付けちゃうところだった…。