「棗」
男は目の前の妻を見つめて言った。
オレンジの照明の下、いつもと何ら変わりない晩餐風景だった。
「何かしら、修司さん」
妻の棗が、口の中の固形物を飲み込んだ後に返事した。
2人が囲む食卓には、筑前煮と鯖の塩焼き、いんげん豆の胡麻和えと白飯の茶碗が並んでいる。
「この煮物なんだが」
「ええ。何かまずかった?」
そんな会話の間にも、棗は煮物の里芋を口に運んでゆく。
いつも通りの味だ。
調味料の分量も具材も、今まで出してきたものと同じ。
何ひとつ間違ってはいないはずだった。
修司は箸を茶碗に寝かせ、改めて棗をまっすぐ見据える。
「いや。少し濃い気がするんだ」
「……そうかしら? いつもと一緒だけど」
「そうなんだけどね。僕はもう少し薄味の方が好きなんだ」
有無を言わさぬような眼差しに、棗は茶碗と箸を持ったまま固まった。
確かに今まで、自分の基準で料理の味を決めていた。
夫の好む料理は知っていても、味覚の違いまでは考慮していなかった。
完全に自分のミスだ。
「……ごめんなさい。次から気をつけるわ」
修司はその言葉に頷くと、再び箸を手に取った。
いつもと同じ食事の時間が戻ってきたが、棗は筑前煮を見たまま暫く動けなかった。
結婚して1年。
筑前煮は彼女の得意料理で、今までにも何度か食卓に出したことはあった。
それなのに何故今更、味覚の違いを指摘してきたのだろう。
(気を遣わせてしまっていたのかしら)
棗は鯖と共に、せり上がってきた遣る瀬無い心持ちも喉に押しやった。
そんなよくある夫婦の話。
「僕にはね、決まり事があるんだ。
トイレットペーパーはシングル、肉の焼き具合はウェルダン、ネクタイの柄は曜日ごとに異なる」
初夜、修司はベッドの中で新妻にこんなことを語った。
「魚は赤身のものは食べない、靴下は指が分かれている形がいい。それと物の配置も決まっているんだ。
少し多いかな。でも君ならすぐに慣れるよ、きっと」
夫は型に嵌っている人だった。
決まりごとがないと生きていけないような人だった。
棗はいつも完璧を目指した。
彼の負担を少しでも軽くしてあげたいと思っていた。
(……あ、)
夫の決まりごとは、日常のあらゆる場所について回る。
(今日はお肉にしよう)
棗はスーパーの商品カゴにパック詰めの肉を入れた。
国産のものに割引シールが貼られている。
他にも日用品なども加え会計を済ませ、自転車で10分かけて自宅まで戻った。
玄関の扉が閉まる。
昼間でも薄暗い廊下に立ち尽くし、棗は暫く思いを馳せていた。
今日のネクタイの柄、指の分かれた靴下、いつもの位置にある車のキー。
「いつも通りでいい。何ひとつ変わらずに」
まじないのように呟いて、廊下を進む。
折角今日の夕食は良いものが買えたのだから。