さみだれにみだるるみどり原子力発電所は首都の中心に置け
塚本邦雄
ドクトル平山は、科学のことしか頭の中にないため、頭脳は天才でも、
付き合いにくい男である。そのため大学の会議で、平山をどこか遠くに
向かわせて、そこで一人ぼっちで、思う存分研究させたらよいだろう、
ということになった。平山自身、研究さえできればいいのだから、ひと
りぼっちだろうがなんだろうが関係ない。むしろ思う存分研究ができそ
うなので、そうと決まればよろこんで荷物を抱えて、ふらりと大学を後に
した。
まる一日かけて、平山は大きな山に囲まれた、ほとんど未開の
場所に来た。
そこには既に大学から、何人かの若い作業員がきていて、「平山エネルギー研究所」
を建てる準備をしていた。その一人が、
「博士!ご苦労様です」
「ああ……」
「研究所は、とりあえずあと一周間くらいすれば、完全ではないにせよ、簡単な実験は
できるくらいにはなると思います。それまでは、あそこの旅館で思考実験でもしていてください」
「ああ……」
ドクトル平山は、旅館とは反対方向に歩き出した。ああ……とか答えていても、頭の中で
11次元空間にトリップしていたので、作業員の話などみじんも聞いていなかった。
「博士!」
結局ドクトル平山は、この若い作業員に手を引かれて、やっと旅館の部屋に落ち着いた。
(まったく、これじゃ、平山係がいるな)
と、呆れながら、作業員は仕事場に向かった。
夜、窓を全開にして、平山はいた。
偽物みたいにまんまるな月が、窓から見えた。
ドクトル平山は動かない。平山を洗脳しようとしているのか、
スズムシの鳴き声がとても大きい。
平山の目は見開いていて、まばたきを忘れて充血をしていた。
自然と涙が流れて来る。それは、悲しいのではない、生理的に、
目を潤すために、涙が流れるだけだ。
旅館の女将はさっき、ドクトル平山を、偉い禅宗のお坊さんだと
勘違いをした。
やがて「平山エネルギー研究所」は、未完成ながらも、
少しは実験ができるくらいには出来上がった。
外見はもう立派に仕上がっていて、白いキリスト教の教会のようにでもある。
あまり目で見えるものには興味を示さない性格の平山も、この研究所を一目見て、
「おお」
と軽く感嘆したようである。
子供のような気分で、研究所の中を一回り走り回ったら、もう簡単な実験に取りかかった。
一週間の間、頭の中に大きな「仮説」ができていた。それを実証したくて、ずっと溜まらなかったのである。
愛用の、自作のコンピュータで計算を始めた。平山博士の持ち前の、アクロバティックな計算をするためには、普通の
スーパーコンピュータを使うよりも、このほとんどジャンク品と見まがうような自作コンピュータを使った方が、
はるかに便利なのだと言う。
黒板にはぎっしりの数式がマンダラのように記されている。分厚い科学書が威風堂堂と置かれている。
「博士」
と一人の若者が、コーヒーを持ってきてやさしく呼びかけた。
「少し休憩しませんか」
彼こそ、あの時
(平山係が必要だな)
と苦笑した、例の作業員である。まさに平山係に任命されたのである。
ドクトル平山は計算に夢中だ。
「博士」
「……」
「博士!」
「うるさい!気が散る!」
「……それでは、ここにコーヒーとお菓子を置いておきますからね!」
と、ややむっとしながら平山係は出て行った。
ドクトル平山はそれに少しも気を止めないで、なお計算を続けた。
ある日、ドクトル平山の研究室に、音楽が流れた。平山はどなった。
「おい!」
「なんですか?」
「なんだこれは!」
「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」
「そんなことはわかっている!さっさと消したまえ!」
「ええ……はかどりますよ」
「気が散るんだよ!…………あっ!」
突然ドクトル平山は、何かをひらめいた様子だ。交響曲40番の旋律に乗って、
踊るように、黒板に向かって、そこに書かれた乱雑なチョークの跡を、整理し始めた。
もはや音楽のことなど聞いていないかのような、もしくは、聞きすぎているような表情で、
その作業に熱中した。
音楽が終わると同時に、その作業も終わった。記号はウロボロスのように綺麗に収まっている。
ドクトル平山は、何をつきとめたのか、喜びの表情に満ちていた。これはまさしく、ヴォルフガン
グ・アマデウス・モーツァルトが授けた、調和の霊感のおかげなのである。
平山係は、勝ち誇ったように、
「いいでしょう?モーツァルト」
ドクトル平山は、少し悔しそうに、
「わかったから、明日、モーツァルト全集を買って来なさい……」
と言った。
平山係はそれを聞いて思わず笑ってしまった。すると、ドクトル博士も笑った。
それ以来、意外とドクトル平山と平山係は仲良くなった。
いつも研究所内にはモーツァルトが流れていた。
幸福な結婚生活のような気分を、二人は味わっていた。
いつしか、平山係は、ドクトル平山の計算を手伝うことになった。
手伝うと言っても、博士のいわゆる平山理論のことなどは、ほんの少しも
理解していない。それでも、言われたボタンを押したり、記号を入力する位のことはできる。
平山係は、ある日ドクトル平山に、
「平山理論とは、つまりどういうものなんですか?」
と聞いてみた。手伝っていくうちに、好奇心が湧いたのである。
「一言で言えば……仏陀だよ」
「仏陀……」
禅問答のような博士の返答に、今すぐなにか答えないと、喝!とやられてしまいやしないだろうか
と、平山係は恐れた。
ところが、ドクトル平山の意識はすでにモーツァルトに導かれて、次の問題に向かっていた。
平山係の実家から、研究所に手紙が届いた。
母親が、車にひかれて、病院に運ばれたのだという。
「行って来なさい」
とドクトル平山は同情を込めて、行った。
「はい」
と、平山係はミサイルのようにふるさとを目指して飛んだ。
同時に、モーツァルトのCDが、一通り再生されたので、止まった。
ドクトル平山は寂しくなった。計算もはかどらない。
その日は一向計算に手がつかず、すぐに寝てしまった。今までの疲れを、
この機会に回復しておくのがいいだろう、ということに決まった。
次の日、目が覚めてすぐ、モーツァルトが聞こえないので、今日も暗い一日になりそうだと
ドクトル平山は思った。
湯船をはった。何日ぶりの風呂だろう。ひさしぶりに鏡を見ると、
醜い老人が立っていた。
「お前から逃げたくて、私は科学者になってしまったのかも知れないな」
とつぶやいた。
風呂は気持ちよかったし、さっぱりとした湯上がりだったが、どうしても心の中にぬぐえない
何かがあった。
インターフォンが鳴って、出てみると、そこには若者が立っていたが、あのよき助手とは、別の人間である。
「こんにちは!X大の院生の南です!宗君から、手伝うように言われて来ました!」
(宗君とは、あいつの名前のことだろう)
と、平山係のことを思い出しながら考えた。この時、初めてドクトル平山は、平山係の名前のことを考えたのだった。
この南という科学者の卵も、ドクトル平山に似て、なかなかの変人だった。
この世界から何センチか横にズレてしまって、異化作用のようなものを起こしてしまっている
印象がある。
驚いたことに、南は若くして、平山の理論に口を出すことができるような天才だった。そこで気になって、南の論文
を検索して読んでみた。
才気はあるーーーしかし、調和を欠いている、とドクトル平山は感じた。そして、まさに自分は、つい最近まで、この南のような
科学者だったことを思い出した。
そしてよく南の顔を観察してみると、どこかで見たことあるような顔だ。誰だろうと思っていたら、若い日の自分だった。
計算は進まない。
南も、自分で自分の計算をしている。
「コーヒーをくれ」
と言うと、一応上の空だが持ってくる。
心が落ち着かなかった。
(そうだ!モーツァルトをかけよう!自分で!どうして今までこのことに気がつかなかった
のだろう)
と、あわててドクトル平山はオーディオ機器に向かい、再生ボタンを押した。
モーツァルトのきらきら星が流れた。
南が、ペンを止めた。
「モーツァルトですか……いいですね。」
ちょっとずつ気分が良くなってきたドクトル平山は
「うん。私の理論の中にはモーツァルトが流れているんだ」
南は立ち上がり、
「モーツァルトもいいですけど……」
オーディオ機器の前に立ち、停止ボタンを押した。
「お、おい……!」
「ワーグナーもいいですよ」
南がどこからか真っ黒なCDを取り出して、セットした。
すぐにワーグナ作曲「ワルキューレの騎行」が再生された。
ドクトル平山は肩をすくめた。
(モーツァルトもいいが、ワーグナーもいい。本当だ)
しばらくコーヒーを飲みながら、それを聴いていると、平山の脳内で何かがひらめいた。
「ワルキューレの騎行」が、平山に、あらたな霊感を授けたのである。それも、モーツァルトとは、別の種類の。
ドクトル平山には、なにも見えなくなった。抽象的な理論の世界だけが見えた。
南が面白そうに、
「どうされましたか!博士!」
と訪ねたが、なにもきこえなくなったドクトル平山は、夢遊病者のようになって自作パソコンをたたき、エンターキーを
押した。
その情報は、ラボの中心にある、最近完成したばかりのエネルギー観測器に送られた。これはその名の通り、エネルギーを観測
するためだけに設置された装置なのだが、ドクトル平山はそのことは忘れて、自分の理論を証明するために限界値を越えたエネルギー
の塊をそこに出力した。
エネルギーに耐えられず、装置をおおっていたガラスは割れて、爆発が起こった。
南もドクトル平山も吹き飛ばされた。白い煙で何も見えなくなった。センサーが鳴り響き、スプリンクラーが
作動した。ぬれたコンピュータなどがびちびち金色の火花を発した。オーディオ機器は意外と壊れなかったので、
まだ「ワルキューレの騎行」は再生中である。
煙の中に何か、大きな黒い影が見える。
煙がひいて行くと……それを見て南は歓喜した。
「ええ?一体どういう理屈ですか!平山博士!なんです、これは!」
ドクトル平山は、まだ考え事をしている。
二人の前には、怪獣が立ちはだかっていた。
「ギャオピーッ!」
と鳴いた。
あ、枕上 白痴=ひのです。
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