「棗」
男は目の前の妻を見つめて言った。
オレンジの照明の下、いつもと何ら変わりない晩餐風景だった。
「何かしら、修司さん」
妻の棗が、口の中の固形物を飲み込んだ後に返事した。
2人が囲む食卓には、筑前煮と鯖の塩焼き、いんげん豆の胡麻和えと白飯の茶碗が並んでいる。
「この煮物なんだが」
「ええ。何かまずかった?」
そんな会話の間にも、棗は煮物の里芋を口に運んでゆく。
いつも通りの味だ。
調味料の分量も具材も、今まで出してきたものと同じ。
何ひとつ間違ってはいないはずだった。
修司は箸を茶碗に寝かせ、改めて棗をまっすぐ見据える。
「いや。少し濃い気がするんだ」
「……そうかしら? いつもと一緒だけど」
「そうなんだけどね。僕はもう少し薄味の方が好きなんだ」
有無を言わさぬような眼差しに、棗は茶碗と箸を持ったまま固まった。
確かに今まで、自分の基準で料理の味を決めていた。
夫の好む料理は知っていても、味覚の違いまでは考慮していなかった。
完全に自分のミスだ。
「……ごめんなさい。次から気をつけるわ」
修司はその言葉に頷くと、再び箸を手に取った。
いつもと同じ食事の時間が戻ってきたが、棗は筑前煮を見たまま暫く動けなかった。
結婚して1年。
筑前煮は彼女の得意料理で、今までにも何度か食卓に出したことはあった。
それなのに何故今更、味覚の違いを指摘してきたのだろう。
(気を遣わせてしまっていたのかしら)
棗は鯖と共に、せり上がってきた遣る瀬無い心持ちも喉に押しやった。
そんなよくある夫婦の話。