人は誰でもいづれは死ぬけれど

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1:匿名:2016/09/10(土) 19:01

人は誰でもいづれは死ぬけれど、それを考えると怖くなります。

それに、いづれ死ぬのが解っているのに、何のために生きているのかな

2:匿名:2016/09/10(土) 19:12

死ぬときはとても苦しいのかなぁ?
とても痛いのかなぁ?

死は絶対に避けることができないのかなぁ?

全ての生き物がいづれ死ぬのに避けられるわけがない

じゃあその後はどうなるんだろう?

身体が死んでしまったその後の精神はどうなってしまうんだろう?

3:サビぬき。◆Ow:2016/09/10(土) 20:53

>>1

>いづれ死ぬのが解っているのに、何のために生きているのかな

それはもちろん明日のために。

で、明日になったら明後日のために。

4:アントシアニン:2016/09/14(水) 21:45

>>2
は、何言ってんの?
死んだら脳の働きが停止するから
精神もクソもねぇよ。
脳が機能しなくなったら
『感情』も無くなる。
幽霊になるとかいるふざけた考えは
非 科学的。
死んだら本ッ当に終わる…。
まぁ、ほぼ50過ぎたら
ガンでポックリ逝くだろうけど。

5:匿名:2016/09/17(土) 00:08

>>4
そういうことを言ってんじゃないんだよ
もっと深いことを言ってんだけどね

経験がすくないからまだ表面の事しか考えられないのかな?

6:匿名:2016/09/17(土) 00:17

宇宙から見て、人間とか生き物が何故存在しているのかなってこと。

必ず死があるのに、何故生まれて、死ぬときに痛みや苦しみは何故あるのか。

今の感情は何処から何のために発生しているのか。

脳が機能停止した後、全ては無くなるんだろうけど、

この感情ってモノが発生している理由があるのなら、脳が機能停止した後は…

って思ったんだよ。
身近でも家族でも逝った人を何人も見送ったから。

7:蒼鳥:2016/09/17(土) 16:56

表面のことってわけではないでしょう。科学上は、観測の上では、
脳が停止or壊れたら全てが終わる。
なぜ生まれるのか、アミノ酸が、タンパク質が増殖を望んだから。
なぜ死ぬのか。DNAに複製限界があるから。
自我はなんのために発生したのか。
とある動物の種類・もしくは個体が生き残るために必要なものだったから。
情報の分析・統合・思考、それらをある程度の幅(多様性)を持って行うには
一定のブレのある自我を持つのが、個体として、その生物の種として都合が良かったから。
感情も、生き残るために機能するもの。恐怖、怒り、愛、楽、喜び。
全てが生存のために機能し、そして生存しなくなれば終わるものだと思うよ。
もちろん、これは俺の考え。一つの考えとして見てくださいな。
君が求めてる、肯定して欲しい考えではないだろーけど。

8:(´・ω・`)らんらん:2016/09/17(土) 19:59

美味しいご飯を食べるため
今日を元気に生き抜くんだよ
未来なんてしったこっちゃねぇ

9:サビぬき。◆Ow:2016/09/17(土) 21:57

【“死後の世界”のオレ的な考察】

先ずは結論。

「物理的には存在しないと思う」

その理由については「>>7:蒼鳥君」の論述のままで良いかと思う。


「だが仮説としての“死後の世界”の存在」

例えば我々一般の人間が不慮の事故や自死(=自殺)などによって
老衰死以外の臨終(りんじゅう:命の終わり)を迎える場合の事。

脳神経からの生存維持命令が完全に途絶した、いわゆる仮死状態のその先の段階では、
肉体(筋肉)が勝手に暴走して、死にゆく状況の改変を試みようとする動作を行う事がある。

つまりはこれが“死戦期(しせんき)”というヤツで、絶命した直後の肉体が神経からの
束縛を離れて「人間離れした大暴れ」をやって見せるという修羅場の事である。

ちなみにこれは首つり自殺(or絞首刑)などに於いて顕著に見られる現象であって、
この激しい動きによって頸椎(けいつい:首の骨)が脱落したり、ひどい場合では
首そのものがちぎれてしまう事さえあるらしい。

日本の唯一の死刑執行方法である絞首刑に於いて‥頭に袋をかぶせ両手足を縛って
これを行うのは、刑死後の死体の片付けを行う者の精神的負担を和らげるためである。

一方、個人による首つり自殺の失敗例の多くは、この大暴れの際に首つり用のヒモが
切れてしまったり、ヒモが掛けられていた部位が損壊してしまったりする事で起こるそうだ。

※そんなワケで、首つり自殺は直後に首の骨が外れてしまうから苦しく無いというのは迷信である。
たいていの場合は数分間以上、窒息死の苦しみを味わうのがフツーであるそうな。

で、そこから先の推論。

たかが筋肉ですらこれほどまでに未練がましく「死に抗う」のであるのだから、逆に脳細胞ばかりが
従順に死を受け容れるとは考え難いのではないか?‥とオレは思うのである。

「脳(精神・知覚)による死戦期」

○一般的にスパコンですら人間の脳と同等の演算を行うまでには至っていない
○人は臨死の際に於いて、走馬灯のように自らの記憶を再生する
○脳の機能はその大半が未解明で、通常はごく1部のみが稼働している

仮にこれらの情報を肯定した上で、逆説的もしくは帰納法的に考えてみたらどうだろうか?

命が絶える刹那、数秒間もしくはコンマ何秒の時間であったとしても、そのスパコンをも凌ぐ
ヒトの脳が見せるビジュアル(演算結果)の体感時間は数年〜数十年にも感じられるのでは無いだろうか?

場合によっては実際に生きた年月をもはるかに超えるロングランの走馬灯(過去と未来の虚実情景)を
強制的に視聴させられる事になるのではあるまいか?

無念の思いや憎悪を抱いて死にゆく者にはそれに沿った悪夢の如きプログラムが、
そして自分の人生に得心して、心安らかに息絶えた者にはそれ系のラインナップが‥

現世の人々は、この前者を「地獄」と呼び、後者を「天国」と呼んで語り伝えて来たのではなかろうか?


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