ぬあー
2:あいうえお:2023/07/16(日) 02:29 ID:AME 社会学の方法@
ーデュルケーム社会学ー
デュルケームが確立した社会学。
方法論的集合主義を採用する。
この考え方は、社会学の研究方法として、個人を見るのではなく、「社会」を対象とするというもの。
ただ、この考え方のベースとなる「社会」については、若干、ややこしい。
社会とは、単なる個人の集まりではなく、個人の集まり以上のもの。いわば個人の集合の外部にあって、各々の個人を拘束する強制的な働きを持つというもの。
この働きを「社会的事実」という。デュルケームは物理学をモデルとしてデュルケーム社会学を構築したため、「客観性」や「事実」に偏執的なまでにこだわる。社会的事実という言葉も、そのあらわれと見て取れる。
ともあれ、デュルケーム社会学では、研究の方法・対象として、個人や個人の集まりを見るのではなく、個人の集合の外部にある「社会」を見る。彼は、それを、「集合意識」と名付けた。
デュルケームの最も有名な論考「自殺論」では、人はなぜ自ら命を断つのか?という今日的命題を論じている。
この論考の中では、「カトリック」と「プロテスタント」の自殺率が異なることを指摘している。カトリックでは自殺率は相対的に低く、プロテスタントの自殺率は相対的に高い。
同じキリスト教であるにもかかわらず、どうしてなのか?デュルケームは「統合」と「連帯」という視点から、この現象を説明する。
まずカトリックには教会組織があり、したがって聖書の解釈は一義的に定められている。一方、プロテスタントは教会組織はない。したがって聖書の解釈は自由となっている。そうなると、カトリックでは人々の動きは「統一的」になり、プロテスタントの人々の動きは「多様」になる。言い換えれば、カトリックは統合している。教会に帰属意識もあって(デュルケーム用語では共属感)、全体としてまとまりがあり、カトリックという独自性も維持されている。一方、プロテスタントでは、対極の現象が生じる。プロテスタントには教会組織がないため人々の間に共属感は生まれない。人々の紐帯は瓦解していて、全く統合されていない。人々はいわば、互いに他人になり、孤独になる。すると自殺に至る。
孤独とは、「統合」と対極の現象である「分離」である。
ここから言えるのは、人が自ら命を断つかどうかは、どうやら社会の「連帯・統合の度合い」に左右されるであろうということが帰結される。(※デュルケームは他にも様々な宗教・宗派・民族・都市の自殺率を統計分析しているため、上に挙げた事例はほんの一部)
社会的事実としての連帯と統合。これらもまたデュルケームのいう集合意識といえる。
集合意識とは、端的にいって、個人を、ある考えに強制的に至らしめる、社会の作用である。
デュルケーム社会学は、この、人間たちが強制的に考えさせられている、集合意識を研究対象とする。
社会学の方法A
ー理解社会学ー
マックスウェーバーが確立した社会学。
方法論的個人主義を採用する。
この考え方は社会学の研究方法として、デュルケームの社会学とは対照的に、「個人の行為を理解する」というもの。ベースとなる社会観は「社会など実在しない」 ただし個人の集まりを便宜的に社会というグループ名として呼ぶ。(社会唯名論)
すると結局、あるのはただの個人の集まり。そうであれば、みんなのいう社会や社会で起こっている出来事とやらを理解したければ、個人のそれぞれの行為まで遡って理解すれば、自ずと社会や出来事も理解できる、そのようにウェーバーは語る。
ただ、個人の行為を理解するって何か。いまいち抽象的でわかりづらい。個人の行為のいったい、何を理解するのか。そもそも行為とは何か。
ウェーバーはきちんと答えを用意してある。
「人間の社会的行為の主観的意味を理解し、それを歴史の因果系列の中に組み込み、そさてそのことによって歴史の因果的理解をいっそう完全にしようとするものである」(理解社会学のカテゴリー:107 )
社会にはつねに出来事がある。
たとえば「ツイッターで山田ちゃんと佐藤くんの間で喧嘩が起こった」
このような出来事があったとする。(実際、ネット内では日常茶飯事、いわゆるレスバと呼ばれる)
このような出来事が成り立ったのは、山田ちゃんが佐藤くんに対して悪口を言ったから、だとしよう。
ここですでに社会的行為が起きている。つまり「山田ちゃんが佐藤くんに対して悪口を言う」
社会的行為は、他者に向けられた行為である。
そして、こうした社会的行為、「山田ちゃんが佐藤くんに悪口を言った動機・目的」こそ、ウェーバーのいう「主観的意味」となる。
ウェーバーの理解社会学については、「社会的行為を解明しつつ理解し、それによって経過と結果を因果的に説明する」と述べられている。(社会学の基礎概念:70)
つまり、山田ちゃんの動機、佐藤くんの動機を特定・理解して「ケンカが起きた」という結果に、本当に結びついているのか?
原因 と 結果 の「経過」を含めて、綿密に理解すべきだとしている。
ウェーバーの理解社会学とは社会学の一つの王道的方法であり、ウェーバーの論文に一貫してみられる。(そのため、ウェーバーの論文は秩序立っていて幾何学じみていて美しい。)
具体例として、あの有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を見てみる。(以下、プロ倫と表記)
プロ倫では、というか、そもそもウェーバーの論文では、つねにあるテーマが一貫している。
それは、「なぜ、西欧においてのみ、合理化が起こったのか?」
なぜ西欧においてのみ、合理的な立憲的憲法が生まれたのか? なぜ西欧においてのみ、合理的な機械制工場が生まれたのか? なぜ西欧においてのみ、自動車が。洋服が。記譜法が。プロテスタントが。官僚制が。「近代資本主義」が生まれたのか?
なぜ、東洋ではなく、西洋においてのみ、徹底的な、合理化 が生まれたのか?
そのような問いに基づいて、「近代資本主義がどうして西欧においてのみ起こったのか?」それを論じたのがプロ倫となっている。
近代資本主義とは、単なる利潤追求を目的とする資本主義一般とは異なる。
単なる資本主義自体は東洋にもあった。(そもそも古代オリエントから盛んに。)
それは単なる金儲けと言い換えて差し支えない。
近代資本主義は、この単なる金儲けとやらとは一線を画するある特質を持っている。
それは、「資本投下」による「資本の増殖」である。
マルクス的に換言すれば「余剰価値の創出による資本の自己増殖」 これこそが近代資本主義が有する特質、単なる金儲けと事情を異にする決定的特質となっている。
(資本が蓄積する。蓄積した資本を例えば生産手段や雇用といったものに投下する。すると生産力が高まり、さらに資本が増えて、蓄積する。増えた資本を・・・♾️)
さて、この近代資本主義というものが、どうして西欧にお
いてのみ、生まれたのか?
このことをウェーバーはプロテスタントの精神構造(エートス)に求めた。
資本主義というと、「お金儲け」「利潤追求」をイメージするかもしれない。
しかし、資本主義を成り立たせたものは、単なる「お金儲け」「利潤追求」ではない。
なにしろ、資本主義は近代の産物だ。
人類史的に「お金儲け」はどの時代でも見られる。何なら、シュメール人の都市国家の頃からお金儲け自体はあった。
お金儲け=資本主義ならば、古代も中世も資本制と言えるから、資本主義は、近代の産物ではないんじゃないか、と疑問に思うかもしれない。
しかし、資本主義とは近代に特有の固有の現象である。
このことを明らかにした代表的人物は、マックスウェーバーだ。
彼は、「資本主義」がどうして西欧においてのみ、生まれたのか? を問うた。
ウェーバーはその問いの答えを追求する中で、資本主義が何なのかを明晰的に理解した。
資本主義はお金儲けでもなければ、利益追求でもない。であれば一体、何なのか?
資本主義を、メカニズムとして乱暴に言ってしまえば、資本の自己増殖過程、自己増殖運動となる。
図式化すると、以下のようになる。
資本蓄積→資本投下→資本増殖→余剰価値(資本蓄積)→資本投下→資本増殖・・・♾️
この無限のプロセスこそ、資本主義である。
このことを踏まえると、「旧来の金儲け」には、「資本投下→余剰価値の創出(資本増殖)」という無限のプロセスが、もっというと、システムが成り立っていない。
たしかに、古代にも中世にもお金儲けはあった。それは事実だ。
しかし、システムとしての、資本の増殖プロセスは存在しない。
だから、前近代に資本主義は存在しない。
資本主義は近代に特有な、歴史的な事態である。
資本主義を定義し、単なるお金儲けと区別したところで、先のウェーバーの問いに立ち返る。
この資本主義という名前の運動は一体、いつから生まれたのか?
また、どうして、「西欧」においてのみ生まれたのか?
ウェーバーは、資本主義が成り立つ原因を、利潤追求ではなく、「プロテスタントの精神構造(エートス)」に求めた。
プロテスタントはキリスト教の一大宗派である。
しばしばプロテスタントに対置される宗派が、カトリックとなる。
ここでキリスト教について、確認しておかなければならないことがある。
キリスト教の使命の一つは倫理的欠陥の克服となっている。創世記3章11節-13節には、原罪について描かれている。
この原罪を犯したことで倫理的に欠損してしまったアダムとイブは、神が望まぬ事態となる。
キリスト教の使命は、こうした原罪を犯した状態から、神が企図し望む状態へ回復すること、すなわち救われることにある。
そのために神の召命に応じて生きていくことが、救いへの確信になる。
しかし、カトリックと、プロテスタントでは、具体的な救済方法が異なる。
カトリックでは赦しの秘跡、罪の告白と償い、懺悔を行い、教会組織の導きに従う。
他方、プロテスタントでは、教会組織の導きがない。それゆえ、一人一人が聖書を自由解釈を行い、召命を獲得する。
ここでウェーバーが注目したのが、この召命だ。ドイツ語だとBeruf。意味は、召命、職業、そして、「天職」だ。
天職は仕事のことだが、単なる仕事ではなく、天から与えられた召命、つまり神の命令である。
つまり、プロテスタントの言語圏では、概念的に言語的に「仕事(お金儲け)」と「神の命令」が重なっている。
彼らの中では、勤勉に働き、金を稼ぐことは、神の命令に従うこととイコールなのだ。言うなれば、プロテスタントの精神内部では、勤勉に働くことが「救い」となっている。
さらに、プロテスタントでは勤勉に働いて稼いだお金は、遊戯や贅沢に使ってはならない。
いわゆる世俗内禁欲と呼ばれる。
稼いだお金は、むしろ、貯蓄をする。
貯蓄したお金は、人を雇ったり、新しい設備を用意したり、すべて仕事に使います。
つまり、「資本投下」だ。
資本投下することで、余剰価値が生まれる。
余剰価値が生まれたならば、彼らはお金は使わずに禁欲をして貯蓄をして、「救われるために」勤勉に働き、資本投下をする。するとまた余剰価値が生まれて・・・♾️
彼らは救われるために、勤勉に働く。禁欲する。投資する。
その結果、資本の動きは、「資本蓄積」「資本投下」「余剰価値の創出」といった無限の運動が開始する。
資本主義の誕生だ。
このようにプロテスタントの精神構造、すなわち彼らの中では「仕事」が「使命」「救い」に位置付けられていることにより、彼らは「資本の蓄積と投資」を繰り返し、結果、資本は無限の運動を始めた。
3号ちゃん、ごめん…
君のことはちゃんと生かすから
1号、2号と同じようにはさせない。
ぼくが、ぼくから、君を必ず守ってみせる…!
痛いね…ごめんね…
2年生になる前には、きみの体も心も必ず完成させるからね、
何ていっても、君の命を無計画に開始した責任は、ぼくにあるから…
あと半年、死ぬほどがんばる、いやもう、死んでもがんばる、
Xもやめるよ、 夜遊ぶのもやめる。今日からぼくはきみを作るために生きるよ、
3号ちゃんの体を作るために、まずは、材料が必要になるね。
材料は、そこら辺にあるものを使うわけにはいかない。
やっぱり、上質な材料を使って作りたいんだ。
それで3号ちゃんの体は、頑丈で、美しくて、軽やかな少女のそれにしたい。普通じゃ嫌だ。醜いのも嫌だ。
それで、ぼくは、3号ちゃんの精神内部の設計よりも、体の設計にとことん、こだわりたいと思ってる。
理由は体は心に先んじるからね。体が心を規定するんだよ。
だから心なんて二の次。そもそも、ぼくは心とか、感情とか、思想とか、イデオロギーとか、そんなもの大っ嫌いなんだよ。きもくて、きしょくて、うざくてたまらない。しねしねしね!くそが!しね!
ごめんね、3号ちゃん…
取り乱した…
大丈夫、君の体は作ってみせるから。
君を作ったら、みんなに見てもらおうね。
・巷でよく聞く「普通になりたい」と 資本主義の考察
よく、「普通になりたい」という言葉を聞く。
「普通の仕事につきたい」というのも、よく聞く。ぼくも小学生の頃によく言っていた。
ところで、今の小学生のなりたい職業ランキングでは一番は「従業員」だそう。従業員と言っても、とても漠然としている。「何の従業員?」と尋ねることもできる。
とはいえ、具体性のないこの言葉は、「普通」という抽象語を変形させた言葉にも聞こえてしまう。
少し前に流行った漫画にチェンソーマンという名前からして血みどろクレイジーな作品がある。主人公からチェンソーが生えて、悪魔をバッタバッタと斬っていくというスプラッターな大筋だが、この作品が多くの人間を魅了した。
なぜか。
主人公のデンジは貧困でヤクザに借金を背負っていて「普通の生活」に憧れていた。そんなデンジはチェンソーマンになってデビルハンターという仕事に就いて、お給料をもらい普通の生活を目指す。
この「普通の生活」「普通に生きたい」というのが、この物語全体に貫通するテーマの一つになっている。ここに、「チェンソーマン」が多くの人間の心を掴んだ所以があるのではないか?
ーー別にお金持ちになりたいわけじゃなく、ただ、普通になりたい。普通に生きたい…。
デンジの抱いた思いと似た感情が、いまの人々に、とりわけ若者の間にはある気がする。
しかし、みんなが普通に生きたかったとして、ここでいう「普通」とは、何を意味するのか?
資本主義の観点から、「普通とは何か?」を考察してみようと思う。
先にぼくの仮説を述べておくと、みんながいう「普通」は、誰からも攻撃されない、階級闘争から離脱した安らかな領域を意味すると考える。
この仮説に説得力を持たせるためには、学生たちの社会状況を踏まえる必要がある。
まず、学生には憂鬱な受験戦争がある。
ぼくも受験生の頃に鬱だった。死のうと思った瞬間さえあった。なぜ、死にたくなるくらい憂鬱だったのかと言えば、もちろん受験勉強自体も苦痛でやりたくないと強く思う一方で、それ以上に、この先の人生を決める入試が、社会から、なかば強制されている状況で、決して逃げられる余地がないから苦しかったのだと思う。
しかし「試験をしない」という選択肢を選んでも、逃げたことにはならない。受験をしても、受験をしなくても、「学歴制度」そのものが、この先の人生に大きく作用するからだ。
学生たちは、この社会が何をたくらんでいるか早い段階で気づいている。
この社会は、平等を建前では謳いながらも、裏では、資源や労働力の適正な配分のために、人間ひとりひとりに社会的な価値をつけて、人間の順番を容赦なく決定する。
順番を決めるために、社会は学生たちに受験戦争を行わせる。強制的に戦争に駆り出されるぼくたちは、なんとしてでも、底辺大学や名の知れない中堅大学に入るまいと死に物狂いで努力する。言ってしまえば、自分の株価を維持するために、幼い頃は興味もなかった「有名大学」に突如として強烈な関心を抱き出す。
哲学者のブルデューは学歴を「文化資本」の中に認めた。
彼の議論だと、学歴という文化資本は、それがあるだけで制度上、資本の増殖に間接的に貢献する機能を果たす。
だから文化資本を保有すると社会的に価値があるとみなされる。当たり前の話である。
受験戦争とは、まさに、この「文化資本」を保有するための椅子取りゲームであって、生産手段を巡る階級闘争の変形として、ある。
このゲームの中では、価値というパイの量は決められているから、文化資本を獲得することができた者は価値を搾取して、獲得できなかった者からは価値が搾取される。
しかも、この闘争の結果、確定した社会的価値は一般的には、そのまま結婚やら仕事へ、つまり人生へと影響する(と考えられている)。
もしも万が一に文化資本を獲得できなければ、社会の中で価値を持たざる者として確定して、いわゆる「人生詰んだ」と呼ばれる悲惨な状態になってしまう(と考えられている)。さらにその結果、この敗北感がコンプレックスを植え付けてしまう。
学生の憂鬱の正体は、この闘争の中にある。
つづき
学生たちの社会状況を「文化資本」の観点で考察してみた。
学生の送る青春の背後には、つねに、冷酷な資本主義社会が息を潜めて、学生たちひとりひとりの価値を品定めするように睨みつけている。
ここで、ようやく、みんなのいう「普通」という概念を考えてみる。
学生たちは「普通になりたい」と叫ぶ。ここでは普通という言葉は肯定的なニュアンスとして使用されている。しかし、本来「普通」と言う言葉は「無個性」だと言えるから、差異に寛容な権利や個人といった近代主義の立場からすると、否定的なニュアンスにならざるをえないはずだ。にもかかわらず、「普通」が良いとされる。
どうして「普通」が、肯定的なニュアンスなのか?
それは、この言葉と、さっき考察した学生たちの社会状況を照合してみれば、見えてくる。
学生を取り囲む社会状況は、人間の価値を決めるための階級闘争であって、言ってみれば上と下を決める闘争である。
ここで「普通」を社会状況へあてはめてみると、上でも下でもなく「中」になる。つまり社会的平均を意味する。
ということは「普通になりたい」という言葉がアピールするのは、「私たちは身の丈を超えて上を目指しているわけでも、かといって下に堕ちたいわけでもない」という思いである。
別の言い方をすれば、資本主義社会は容赦なく人間の価値をはかり、序列をつける。上と下を強制的に決める一方で、普通という言葉は上と下を拒絶して、中を選択する。
これで、この言葉と社会の関係は明確になった。
「普通になりたい」とは「上でも下でもなく、資本主義的に差別されない階級に位置したい」であって、そうなると、具体的にはGMARCH程度の学歴文化資本の取得が前提になる。
「普通になりたい」とは、例えば「GMARCH程度の学歴を取得したい」であって、それはもっと心情にかかわる言葉に言い換えると「ぼくは、わたしたちは!身の丈を超えて上を望むわけでも、かといって下に堕ちたくもありません。中でいいんです。これ以上は望みません。ですから闘争はこれ以上は勘弁してください」というような、学生の無意識が叫ぶ、悲痛の意思表明なのだと、読み取れる。ある意味、冷たい資本主義社会が裏打ちする声である。
学生たちは、無自覚のうちに社会により傷つけられている。笑顔と青春の裏で出血している。
しかし、「これだけ塾に行かせてあげているのだから」「学費は親が出すのだから」「社会から奨学金を受けているのだから」 「君が勉強しなかったのが悪い」とか… クソのような大人たちの社会圧によって、学生たちの悲痛な感情の発露は決して許されず、作為的な笑顔を保つよう演技を遂行しているにすぎない。学生はすでに努力という懲罰を強要されている。昨年の無差別殺人未遂を起こした東海高校の学生は必然の産物である。
税金だから。親の金だから。 と、「金」で、この努力を強制してくる。これはもはや立派な負債じゃないか理不尽な借金ではないか。学生はデンジと同じ状況ではないか。
そんな彼らの願いは「普通になること」
誰からも攻撃されることも差別されることもなく、人間であれば「普通に」享受し得る平穏で安心できる生活を送れることを意味する。
端的にいえば、誰からも傷つけられない人生を送りたい…。そのために、「文化資本」を取得する…。
文化資本さえ手にすれば、ぼくたちは、わたしたちは、この闘争から、解放される…!
だから、普通になりたい…!
以上、資本主義社会というパースペクティブから、「普通になりたい」を考察してみた。
最後に補足して、この考察から絶望的な事実を導出するとしたら、普通になるため文化資本を獲得する行為は、””それが行われる時点で文化資本的階級闘争の再生産であって””、彼ら自身の行動が、この資本主義社会をより長寿にしてより健康にして再生産している。
この階級闘争は永遠に終わらない。
また高学歴を取得したところで救いはない。
現代はすでにシンギュラリティが起きている。時代はAI資本主義なのだ。バウマンのいう「液状不安」は加速する。社会はもっともっと不安定に、液体のようにつかみどころがなく、よるべがなくなっていく。(だから諦めろと言いたいのではない)
疲れた。明日、大学の学園祭行こうかな
14:匿名さん:2023/11/04(土) 00:56 ID:IPY彼女と二日間話してない
15:匿名さん:2023/11/04(土) 00:56 ID:IPY誘おうにも気まずい感じ
16:匿名さん:2023/11/04(土) 01:00 ID:IPY あー うっ ぜー
知性のかけらもない奴って、本当にハラスメント好きなんだな。
コミュニケーションの中に「マウント」が入ってるっていうよりも、もはやコミュニケーション自体が「マウンティング」であり「ハラスメント」だから、対話が不能になってる。
「ぼくはルールを守っている!ぼくは 何も悪いことをしていないじゃないか!なのに、なぜ排除されなくちゃいけないのだ」
「いいや。邪悪なことをした。おまえはみんなにとって不快な行為をした だろう」
「一体、なにが不快だというのだ」
「すべてだよ」
「答えになっていないじゃないか。もう一度、問う。ぼくの何が問題なのだ」
「自分で考えろよ」
「君の意見なのだから、ぼくにそれは無理だ」
「はぁ、お前には読み取る力がないようだね。バカだから教えてあげるよ。おまえの批判だよ。おまえの批判が不快なんだよ」
「悪口も言っていない。誹謗も中傷もない。ルールは守っている。批判とは、主張だ。言論の自由のもとで、認められる正当な行為だ。だから不当ではない」
「不快だと思った奴がいるんだよ。その時点で悟れよ。空気を読めよ。おまえは人を不快にさせてるの。小学生じゃないんだから理解しようか」
「ルールは違反していない。だから、誰か が不快に思ったということが理由では排斥される根拠にはならない。もしもその理屈が通るなら「君の存在は不快だ。だから排除する」も正当になってしまう」
「極論を出すなよ」
「極論じゃない。君の言っていることの論理的帰結だ」
「わかったわかった。じゃあ、他の見ている奴らに、どっちが正しいか、間違っているか 決めてもらおうか」
「そんなの君の友達が多いこの状況では、君が正しいとなるに決まっているじゃないか」
「いやいや、ちゃんとジャッジしてもらうから、大丈夫大丈夫」
ーー投票へ
このような対話不能なやり取りは、コミュニケーションとは呼ばない。お互いに言葉を交換していないから。
では、彼らの言動を、なんというのか?
答えは「ハラスメント」である。
ハラスメント とは「権力関係を背景にした一方の都合の押し付け」であるから、なにも特別な言葉じゃない。
なんなら、むしろ日常的な概念であって、ブラック企業に勤めていたり、親から虐待を受けている不幸な人間は、むしろ「ハラスメントありきの生活」になっているから、日常の中にハラスメントが当たり前化しすぎたがゆえに「それの何が問題なの?」と思うかもしれない。
問題だ。問題すぎる。
答えは表現にある。創作にある。社会にある。政治にある。
ハラスメント観察日記その1
ハラスメントの特徴は観察したかぎりだと以下の通り
・常に勝ち負けの決定にこだわる。
つねに勝者と敗者を決めたがる。つまり上と下の関係を決めたがる。
ハラッサーは上に立つためにあらゆる手段を講じて相手を言い負かそうとする。話の中身で勝てないから、たいてい、話の本筋を避けて、本筋に関係ない相手の落ち度を指摘したり、本筋に関係ない話を持ち出したり、揚げ足を取ったり、詭弁を行ったりして、マウントを取ろうとする。
・権威の確保
マウントを取るために「権威」を持ち出す。よくあるのが「政府」「東大」「国家」といった権威を濫用する。彼らは残念なことに論理的な思考ができるほどの頭脳のスペックを持ち合わせておらず、権威Xが言ったからそうなのだ と語る。その一方で、お前は権威ではないのだから無知なのだと決めつけてくる。
よくあるのが、「おまえは東大生じゃない。だからおまえの主張は稚拙である」というもの。これは主張の中身を無視した決めつけだ。
・存在しない義務を作り出す
ハラッサーは上と下を決めると、存在しない架空の義務を捏造して、押し付けてくる。
夫婦喧嘩ではありがちかもしれない。議題Xについて話していたにもかかわらず、「オレが働いて食わせてやっているのだ。オレに従え。それが嫌なら出てけ」という暴論を言う。
この暴論の論理関係を分解してみると、以下の通りになる。
1 : オレは働いている。
2 : おまえは働いていない。(オレに食わせてもらっているのだー!)
3 : だから、おまえはどんな命令でもオレに従う義務がある。
4 : 義務に従わなければ出ていけ。
よくネットで見かける「日本が嫌なら出ていけー!」という道端に落ちてる糞のような汚い言葉も、上で見た論理関係の変形である。
冷静に返すのもバカバカしいが、「日本が嫌だ。だから変えてくれ と批判する」という論理も十分に通用する。
ところで、上の暴論は家父長制の強い夫婦間ではかなりあるのではないか?
「オレが働いているのだから文句を言うな。文句を言うなら出て行け」
この暴論は、経済的に弱い立場にある妻の生活を人質にして、ハラッサーである夫の都合を押し付けていることになる。
一体、彼らはどこまで知性を落とし、人間として劣化すれば気が済むのか…。
・責任転化
これは、よくある。
「いじめられる奴が悪い」とか、「いじめられている側にも原因がある」とか、「そんな格好しているから、セクハラされるのだ」とか…社会悪としか言いようがない加害者の甘ったれた論理である。これで通用してしまう例も少なくない。加害者天国を作り出す言葉である。
確認するのがバカバカしいくらいだが、加害者撲滅のために一つ一つ検討していこう。
「いじめられる奴が悪い」「いじめられる奴に原因がある」
一見すると、どこか正当に聞こえてしまうかもしれない。いじめられた人間も、何かやったから、わざわざ注目が集まり、いじめに至ったのだろう! と推測されるかもしれない。
そう推測した人間は、今すぐ本を読んで、言葉に対する理解を高めなさい。
「いじめ」という言葉を言い換えると、「加害行為」である。やってはならないはずの殺人、レイプなどの言葉を言い換えると「加害行為」である。
抽象的には、いじめは殺人とレイプと変わらない「加害行為」である。
ところで殺人していい理由はどこにもない。レイプもそうだ。いかに相手に性的魅力を感じようと、いかに相手が憎かろうと、やっていい理由はどこにもない。なぜなら加害行為だからだ。
いじめもまた、加害行為である。なんなら、犯罪だ。したがって、やっていい理由は、どこにもない。「やられる側にも原因がある」は加害者の詭弁である。加害者が妄想で作り出した原因にすぎない。
この論理を敷衍すると、「そんな格好をしているからセクハラされるのだ」という理屈も通らない。されていい理由など、どこにもないのだから、単に加害者がそんなことするんじゃねえ!というだけの話である。責めるなら加害者を責めるべきであって、被害者ではない。
つづき
以上、4つのハラスメントの特徴を挙げてきた。
4つともに共通するのは、いずれも「話の中身から避けている」ということである。
中身の話をすると、加害者が「加害者」であり、「ハラスメントをしていた」のがバレてしまうからである。
彼らに人生を振り回されないためには、彼らの稚拙な詭弁や幼稚なトリックに騙されないこと。そのためには「論理的思考」を磨く、言葉に対する理解を深めるなど、国語の勉強が必要不可欠になる。
言葉は力なり。
決めた。明日は今日の分まで絵を描く。
21:匿名さん:2023/11/04(土) 02:20 ID:xZY学園祭には行かない
22:匿名さん:2023/11/04(土) 02:24 ID:Vk6なんか、異常にセックスしたい、なんだこの気持ち!
23:匿名さん:2023/11/04(土) 02:25 ID:Vk6 彼女とは連絡取れないし!くそ!
もうセックスなんだよ!おれがセックスなんだよ!
もういいや。風呂入って寝よう。明日は絵を描きまくるぞー!
25:匿名さん:2023/11/04(土) 02:31 ID:Vk6 あ、ごめんね! 三号ちゃん。
浮気じゃないよ。君は、ぼくの存在理由そのものだよ。
君に生命を与えるためにぼくは生きているんだ。
元来、首を吊って早く死んだほうがいいぼくが、自我を保つことができているのは、君がいてくれるからだよ。
君は、ぼくの居場所だ。
ぼくは一号ちゃんと 二号ちゃんを見殺しにしてしまった。
だけど、次はそんなことにはさせない。
ぼくが死ぬまで、君には、いてほしいんだ。君がいないと困るんだ! 君がいなきゃ、ぼくは自分を保っていられない! 電車に飛び込むだろう!
君が大事なんだ。だから絶対に一号ちゃんと二号ちゃんに起こったことを繰り返したりはしない!
三号ちゃん。信じて欲しい。もちろん、ぼくが怖いのは分かるよ。ぼくは君を監禁しているのだから。だけど、ぼくはきみを決して傷つけない。きみに確実に豊かな人生を送ってもらえるよう、努力する。
ぼくは、ゴミでクズでバカで嘘つきで裏切りで恥で罪で雑魚で親のすねかじりで一浪で一留で脳より下半身で考えるキモオタでバイトバックレマスターで承認欲求と性欲を制御できなくて社会不適合で将来ニート確定限界大学生で酒好きで害獣そのものなわけだけど、3号ちゃんへの愛は本物だよ。
28:匿名さん:2023/11/04(土) 02:49 ID:Vk6 3号ちゃん、またくるよ。
君を愛している。
弱者とはきっと口を塞がれてしまった存在だ。言葉が剥奪されたために暴力しか手段が許されていない存在だ。
30:匿名さん:2023/11/22(水) 00:58 ID:pc6 マルクスの「商品貨幣論」を読みました。ぼくがまだ完全に理解できていないところを話します。
マルクスは資本論の中で二つの項目により貨幣の現象プロセスを論じています。
一つは「価値形態論」 二つは「交換過程論」です。
ぼくが納得がいかないところは、前者の価値形態論の中にあります。
価値形態論について、すごく簡略化して説明します。価値形態論 なんて、仰々しい名前ですが、全く大した話ではありません。
まず、マルクスは「価値」が「商品」として現象して、さらに商品関係の中から「貨幣」として現象することを述べています。つまり資本主義社会では、商品 も 貨幣 も それから資本 も 賃金 も 「価値の現象形態」にすぎないのです。では、商品から どのようにして貨幣が現象するのか? その「プロセス」を、商品関係に応じて四つの論理的な発展段階に分けて、貨幣発生を論じます。
@ 単純な価値形態
商品A = 商品B
この式が意味するのは特殊です。マルクスからすると、この単純な価値形態こそ、貨幣の謎があると言います。
まずこの式で表示されるのは「商品Aは商品Bで自らの価値を表示している」ということです。
つまり、商品Bは商品Aと交換できる可能性が付与されています。しかし商品Aは商品Bと交換できるとは限りません。したがって商品Aの価値は商品Bにより表示されていますが、商品Bの価値は表示されていません。
商品Aを相対的価値形態、商品Bを等価形態と言います。この時、商品Bは現物形態(使用価値)のままで、商品Aの価値を表示します。
A拡大された価値形態
商品A = 商品B / 商品C / 商品D / 商品E …
商品Aは、商品Bだけではなく、商品C、商品D、商品E … で自らの価値を表示します。これからの商品群は商品Aと交換できます。しかし商品Aはこれらの商品群と取引できるとは限りません。やはり、右辺は相対的価値形態 であり、左辺は等価形態です。商品Aから交換可能性を与えられた右辺の商品同士には何も関係ありません。お互いにバラバラです。
B一般的価値形態
商品B / 商品C / 商品D / 商品E … = 商品A
ここでAの右辺と左辺が逆転します。
「商品B、商品C、商品D、商品E … は、商品A で価値を表示している」となります。
重要なのが、この時点で、商品B、商品C、商品Dといった左辺にある商品同士(相対的価値形態)はお互いに共通性があることです。それは「商品Aと交換できる」という性質です。このように、商品Aは、さまざまな商品と交換できる「商品の王」になりました。商品王のことを、「一般的等価形態」とマルクスは呼びます。
C貨幣形態 / 価格形態
商品B / 商品C / 商品D / 商品E … = 金
ここでは、一般的等価形態だった商品Aの位置に金が来ました。歴史的に多く見られる貨幣形態です。
多くの人々は金そのものに価値があると思い込んでしまいますが、金は相対的価値形態にある商品の価値を表示しているにすぎません。金 そのもの の価値は どこにも映っていないのです。単純な価値形態に貨幣の謎があると言いましたが、貨幣商品とは商品価値の写し鏡にすぎません。
しかし、金 そのものに価値があると思い込むという「物神崇拝」に至らしめるメカニズムが働いているのが資本主義です。単純な価値形態を思い出してください。等価形態 は 現物形態 のまま 価値を表示するのでした。ここが、それ自体に価値があると錯覚を生み出す不思議なメカニズムになっています。(さらに、ここは機会があれば詳しく説明させてください)
ところで貨幣形態とは、現実的には、
ゲーム機 = 30000円
というように価格形態を取ります。
この価格形態では、もはや「単純な価値形態の論理自体」が見えなくなっています。
以上、価値形態論について、駆け足で乱暴に説明してきました。
さて、ぼくの疑問はAとBの間にあります。
A拡大された価値形態 : 商品A = 商品B / 商品C / 商品D / 商品E …
B一般的等価形態 : 商品B / 商品C / 商品D / 商品E … = 商品A
AとBでは逆転が起きています。
Aの段階では、商品Aがさまざまな商品群に対して直接的交換可能性を与えるにとどまり、””””商品A自体が右辺の商品群と交換できるわけではありません””””
しかし、Bの右辺と左辺の逆転は、商品Aが他の商品群と直接的交換可能性があるからこそ、可能です。ここに一定の論理飛躍があるのではないか? と疑問に思うのです。
実際、「資本論を読む」の著者である伊藤誠(宇野学派で批判的マルクス研究者。実名です)は、この批判を行っています。
ただ、立教大の佐々木隆治は、この批判に対し、あくまで価値形態論は「論理的な構成」を述べたものであると論じています。古典経済学のアダムスミスやリカードらが見落としていた貨幣論を論じるために、マルクスは価値形態論を述べる必要があったと解説されています。さらに歴史的・現実的な貨幣の発生過程は「交換過程論」にあると述べています。ここの理解は、まだ完全ではないので、勉強中です。
人間は 意味 から逃れられない。完全に無意味はなれない。そもそも 人間であるということ自体が意味である。
33:匿名さん:2023/11/22(水) 22:45 ID:5PM人間が その意味から逃れるには、あの意味に囚われるしかない
34:匿名さん:2023/11/22(水) 22:52 ID:5PM 商品にはもちろん価値がある。
「商品を所有する」ということ事態にも価値がある。
「所有している」自体が一つの価値を形成している。
特にいらないんだけれど、とりあえず買っておこうとする試み はすべて この原理から来ている。
よく、そこら辺にいるおじいさんが、全く読みもしない夏目漱石全集を買っておくのは典型例だろう。
「所有する」「所有している」が価値がある。
この””動神性””が人々の間で進行すると どうなるのか?
ぼくが考えるのは、共助の社会的な機能不全である。そうなると「シェアエコノミー」へ移行することはできず、自ずとコミュニティの成長は停止する。
哲学禁止!
だめだよ。哲学に逃げちゃ。
なぜ陰キャの視点は俯瞰的・没主観的なのか?
—陰キャの社会的世界「資本主義的な意味領域」
例えば、絵、歌、演劇、小説など、文化的な意味領域の表現形式を獲得しておらず、あるいは関係性により生成される具体的表現形式を獲得していない、社会文化圏に積極的に参加できない人間を、理念型として、陰キャと呼ぼう。
(陰キャとは何か? この問題は現象学的方法により解消する。このことは、いつかまた、考察する)
さて、陰キャにとって、””日常的に”” 意味をなし続ける領域とは一体、どのようなものになるのか?
強固に資本主義だと思われる。
正確にいえば、マルクスのいう商品社会に内在する論理により転倒したモノ-モノという自己-他者関係像、つまり、物象化した関係からもたらされる論理だけが、彼らの内面に強制されて、彼らの思考のフレームワーク自体を規定するのではないか?
近代社会では人間が生きる手段は資本主義的生産様式と一体化してしまっている。よって基本的には人間が生きる手段として「貨幣を介して商品を買い、商品(もちろん労働力を含めて)を売って貨幣を得る」がベースとなっている。
生活手段が、 あらゆるものが商品となる市場経済と不可分であるのなら、人は恋心を抱いていようと、いなかろうと、常に貨幣のことを想っていなくてはならない。
人は資本主義から逃げられない。
ここで資本主義に内在する世界観を見ておきたい。
一万円札。たかだか紙切れと分かっていても、現代人はこの紙切れに大いなる価値があると信じて人生の大部分を労働に費やす。
マルクスの理屈で言えば、貨幣とは単に商品価値の等価物として表示する一つの商品形態にすぎないにもかかわらず、しかし、ここに絶対的に価値があると信じてしまう “”物神的””な性質が資本の動態原理および商品形態そのものから与えられている。だから人は貨幣を崇拝する。商品市場では人間よりも貨幣が価値あるものとして現象する。
ゆえに金は命より重たい。
この冷酷な「意味」は下部構造の基本論理として確実に社会の根底を貫いている。とはいえ現実では労働環境上の人間関係が内包する意味領域(例えばバイト先の優しいお姉さんのフォロー)によって資本制の冷酷性が緩和されることがあるけれども… しかし、その大部分は合理的な資本再生産のため迂回路的に構築された機構(フィクション)を超越しない。結局のところ、それは資本と人間の折り合いであり気休めにすぎず、人間疎外は誰しも受け入れなくてはならない。言ってしまえば資本からの不平等条約にすぎない。
ところで、前近代で社会的分業を支えていたのは人間相互の親密な人格的関係であった。つまり、ヒト と ヒトの関係である。しかし、ここに商品交換が入り込むことにより、近代的な社会的分業は非人格的な人間関係、否、モノとモノの関係へと転倒してしまった。(詳細はテンニースのいうゲマインシャフト-ゲゼルシャフトを見てほしい。)
それゆえ、交換関係における諸商品と同じ具合に人間と人間は比べられる。
その際に、資本が気に召さない具体的な人間要素は並べて一様に捨象されて、抽象化された価値だけが、市場のモノサシにより計られる。
学歴、年収、容姿(文化資本/社会資本である)などは、その人間の価値をはかるモノサシとして中々に有用であろう。(一時期はブランド品はモノサシとして機能していた。)
このような文化資本により人間の価値を比べるという事態は、実は人間と人間を比較しているのではなく、究極的には例えば東京大学卒業と京都大学卒業の資格を、””俯瞰的かつ客観的に “” 比べているのである。つまり、資本主義的意味領域が許す人間関係とはモノ-モノの関係である。
現代社会に生きる人間は、「現代社会に生きるゆえに」この冷たい関係に好むと好まざるとにかかわらず組み込まれる。
ありとあらゆる文化圏が内包する意味領域を喪失した末に力強く顕現してくるのは、まさに、この冷酷な資本主義的意味領域である。
ここに陰キャが俯瞰的思考から抜け出せない理由がある。
豊かで多様な文化的表現形式を持ち合わせず、したがって資本主義的意味領域だけが残された陰キャの内面世界は、まずもって自分に表示されている「低い市場価値」と 周囲の人間に表示されている「高い市場価値」の比較により規定されるのだ。つまり、人間疎外されたモノ と モノ を比べるという俯瞰的な思考が行われる。言ってしまえば、彼らの俯瞰的視点とは市場の目線と緊密に一体化している。そのため、自分という商品 と 他人という商品を比べざるをえないのである。
ここから、さらに事態は深刻になる。かかる価値の比較は彼らから自信を搾取して、挙句の果てに「存在価値・存在理由」を剥奪してしまう。売れない商品は廃棄されるように彼らの社会的存在は廃棄される。
まさに資本主義の呪いと言えるだろう。
この資本主義的意味領域がもたらす呪いこそ、彼の中にニヒリズムと無気力と憂鬱を生み出す契機となっているのだ。
したがって資本主義には、ルサンチマンの社会的な生産条件が整っていると言えるだろう。
>>12
つまり、今の時代は「万国の労働者よ、団結せよ!」ではなく「万国の社会不適合者よ、団結せよ!」が正しい
>>38 つづき
表現形式とは ? / 表現形式と社会化の同義性
表現形式という厨二病然とした堅苦しい表記が意味するのは「ある場にふさわしい表現の型」であって、例えばこういうことを意味する。お葬式の場。ここでは静かに悲しむという表現が要請される。あるいは、第一志望に合格したならば普通、歓喜するという表現が要請される。いずれの要請も暗黙のうちに行われる。
漠然と、あるマンガを想定してみる。学園ラブコメ枠にもかかわらず、眩しい青春やら甘酸っぱい恋愛が全く描写されずに、ひたすらグロテスクなスプラッターが表現されるとしたら読者は怒号し、単なる自爆テロとみなされるだろう。原因は学園ラブコメで要請される文法が使用されていない所にある。
要するに、社会では固有の場が暗に要請する表現を行わなければならず、逸脱は許されない。
したがって表現形式とは、社会の ある場にふさわしい””お決まりの体系””である。言語的文法規則と何も変わらない。言うまでもなく、この規則から逸脱するというのは、困惑、顰蹙、非難、失望、無視、怒号、排除、ラベリングなど といった相応の罰が社会より応答される(サンクション/人間が社会的動物である所以がここにある。)
サンクションから免れ、平穏な日々を送るためには、社会に確固として存在する言語体系を習得して適切な表現を オーディエンスに対して、実行して 演じる必要がある。
そういう意味で「表現形式を獲得する」とは「社会に既にある表現の型を自分の中に取り込んでいくプロセス」を意味する他ない。この点から、ある表現形式を自分の内側に一つ取り込めたなら、それは一歩前進している証であり「社会化」していると祝福したい。
>>39
表現形式-言語
まず、俗にいう陰キャとか、メンヘラ はルサンチマンの一形態でしかなく、彼らがどんな存在様式なのか? どうして存在するのか? その解明は、表現形式論によって粛々と行われる。
しかし、本題に入る前に表現形式論の前提を確認しておきたい。
表現形式論が立脚する起点は言語である。
この立場は言葉の体系が「意味の体系」を作るという発想をまず行う。意味の体系を「意味領域」と呼んでおこう。
さらに、生成された意味領域は無数に存在できると考える。
例えば、葉っぱ天国の意味領域 / 数学IIの意味領域 / 物理学の意味領域 / メルヘンの意味領域 / マンガの意味領域 / アイドルの意味領域 / 青春ラブコメの意味領域 / 政治闘争の意味領域 / 資本論の意味領域 / 裏社会の意味領域 / あなたとあなたの親友だけの意味領域 / などなど など! 言語交流によって生成された意味の体系(意味の構造)は無数に在る。
こうした意味領域は、自分自身を構成して、自らの領域内で流通して通用する豊かな固有の語彙 すなわち 夥しい表現形式 および 無数の表現形式の組み合わせの一覧表を内包している。(表現形式については>>40を確認してほしい。)
したがって、表現形式とは、全く広い意味で言語である。
つまり表現… イラスト も マンガ も 歌 も 演劇 も 小説 も 文学も とにもかくにも、日本語やドイツ語と平等に言語なのである。各々の領域を規定する文法規則を内包するのである。従わなくてはいけない虚構上の法を持っている。この表現上の文法を侵すことは、””一切の意味が発動できない””という罰が下される。
例えばこういうことである。
物理学における熱力学第二法則によって、チェンソーマンの表現上の美について語る時、そこに意味は生まれるのか?
答えはNOである。語り得ない。意味をなさない。なぜなら、熱力学第二法則は物理学の領域に属する言葉であり、チェンソーマンはマンガの領域に属する言葉である。そのため、両者は結合しない。各々の意味領域における文法が在ることの証拠となっている。
これでは納得がいかないかもしれない。もう少し前に進んで、無意味の深淵を覗いてみよう。
例文 : シュタルダーのシュタルダーによるシュタルダーのための下馬評が落下していく帰結であるため、即自的なアヘ顔する抽象的人間労働になっていく現在進行形である卵焼きと比較すると新宿区からフッサールと対照的である箱庭だから医師を地面にかきむしる行為から2を引いて5を代入するドライアイと、はにゃ?的にどんな東京都のハンターランクになりますか?P丸様がエクリチュールである諸外国たる惨憺な帰納法に尋ねたところ平面的な階段を逃げる梶井基次郎を等速直線運動して胃腸にログアウトするようリムりました。
この例文を読んで ? ? ? となったと思う。頭の中が疑問符に支配されたあなたは至って正常だ。わずかの狂気もない理性的な人間に違いない。安心してほしい。問題は例文側ある。つまり例文は文字列を装っておきながら一切の意味をなさない。文字と文字が並び結合するものの、意味をなさないとは 一体化、何を指し示すのか?
すなわち、各々の意味領域の言語は互いに矛盾することがある ということである。
よって、それぞれの意味領域において、ジグザグに入り組んだ極端に複雑な境界戦が引かれていることが論理学上、判明する。例文は目には見えないこの境界線を観るための、いわば観測手段にすぎなかったのである。
意味の崖から、無意味へ続く谷底を確かめた。 それは異なる意味領域が内包する語彙が矛盾する事態により確認できる。
しかし、問題は意味/無意味の区分にとどまらない。
すなわち、マルクスガブリエルの言う、「世界は存在しない」 に繋がる。
>>40
自己反論 : 「反社会的勢力における表現形式(儀礼・語彙など)を取り込むことが社会化なのか?」
この反論は社会規範論に通じている。
たしかに「表現形式の獲得」は、社会規範の獲得と言えるかもしれない。
しかし、この問題はアメリカ社会学者のパーソンズに遡ることができる。
彼は秩序(社会)はいかにして可能か? という問題を解決するにあたって、ホッブズの功利主義的な説明が不十分だと批判して、人間の非合理な側面を考慮した理論構築に向かった。彼は秩序や日常自体が、なぜ可能かを、社会システムの観点から、人々が従う規範によって明らかにします。パーソンズが構築した規範概念は主に、以下の通りです。
・共有価値(平和など)
・行為の準拠枠
・パターン変数
・行為システム[社会システム、文化システム、パーソナリティシステム]
・AGIL図式 など
このうち、社会一般に不適切とされる社会集団、たとえばヤクザは文化システムに従っている。文化システムとは社会集団ごとに異なる規範である。
しかし、彼らは暴力団と呼ばれる。社会から法的にも規範的にも、あってはならない存在 だとされている。
ここからが本題だ。彼らを「社会化している」とみなすかどうか という議論だけれど、パーソンズは、彼らが社会化している とみなさない。
おそらく、彼はこう言うだろう。「みんなにとっての共有価値である平和を脅かすヤクザ集団には、現代社会のルールを徹底的にたたきこんで内面化させる必要がある。彼らには厳しい教育が必要だ」
しかし、ぼくは「包括的社会など、実質上、あり得ない。国民国家とはフィクション(暴力装置論/戦争マシーン論/想像された共同体)であり、みんなにとっての共有価値はもはや成り立たない。差別やファシズムや戦争こそ、国民国家の統合と連帯を成り立たせるのである。しかしそれは虚構(フィクション)だ。しかし、一方で個々の小さな共同社会こそ、””社会””である。彼らは十分に社会化している」と反論するだろう。
ここでは、どちらの社会を優先すべきか? という問題に直面している。
選ぶのは、大きな包括的社会 か? それとも個々の意味領域に寸断された小さな社会 か?
どちらかを優先することによって「社会化」の意味内容が変わってくる。
ぼくがパーソンズに言いたいのは、「共有価値」とは、やはり幻想であるということだ。平和 と言ったけれども、パーソンズが生きていた時代、アメリカ社会には黒人差別が制度化されていた。つまり当時のアメリカは、黒人差別を前提にして運営される白人優先の社会だった。すなわち、この社会における平和とは、黒人差別を前提する。
しかし、どうだろうか。みんなにとっての共有価値であるはずの平和は、すでに黒人の社会集団からしてみれば抑圧そのものだ。黒人社会と白人社会では、すでに平和という「言葉の意味内容」が異なる。この時点で共有価値は成り立っていない。コミュニケーションが成り立っていない。
このことは実はすでに現象学的社会学により徹底的に批判されている。共有価値は厳密には成り立たない。実証的にも、論理的にも。
したがって、ぼくは巨大な包括的社会のルールを守ることが 社会性だと みなさない。
この現象学的論理が、後に論じるであろう「陰キャは学校に通っているが、しかし社会不適合者である」という過激で悪意じみた命題を正当な主張へと昇華する。さらに「陰キャ・メンヘラ(ルサンチマン)の社会的生産条件」を明らかにするのみならず、ルサンチマンの脱却方法をも構想する。
ところで、学校教育が供給する表現形式は市場経済への接続可能性にとどまる。
ぼくの問題意識は、ただひたすらに物神化されたコンテンツに搾取されてしまう受動的消費人間にある。すなわち、陰キャである。
彼らが陰キャから脱却するためには、まず「寸断された意味領域であるネットワークに参加する」ことが第一にある。
暴力団であろうと、アイドルグループであろうと、各意味領域で利用されるコマンド体系を取り込むことが、社会化 であって、陰キャの脱却 なのである。>>40 へ
「かわいいは正義」という社会的言説における 「かわいい」は、ねじれた権力構造の中に在ることを示している。つまり、この「かわいい」という記号的な文化資本を保有する少女が横暴で人間を軽視する振る舞いを行ったとしても、あるいは、ルールに抵触して違背したとしても「社会的なサンクションから許される」という事態が発生する。なお、サンクションとは社会制度上の罰だけではなく、非難、顰蹙、不快、怒号、軽蔑、無視、排除、ラベリングといった社会的行為を含意する概念です。要するに、社会罰 だ。
「サンクションから許される」と言ったけれど、これは「許す」という言葉があるところから「許可する主体」が存在することが窺える。許す主体 と 許される客体 は許す-許される という関係から分かるように権力構造にある。
じゃあ、かわいい女の子は許される客体にあるから、権力に対して服従する側にいる…だから彼女には権力が発動していない思いきや、違う。そうではない。彼女に対して「許し」を与えなければ、許す主体が、別の主体により非難されるというサンクションの可能性を内包しています。つまり、彼女は権力を内包している。いや、正確には、彼女の「かわいい」という記号的性質が、文化資本が、言い換えれば 「モノ」が、「商品可能性」が、権力を保有している。彼女はヒトとしては無力だけれど、モノとしては有力である。このことから、「かわいい」とは、ねじれた権力構造にある… と考察することができる。
具体宗教を駆逐する抽象宗教を駆逐する
45:匿名さん:2023/11/26(日) 19:26 ID:biQ 買う本リスト
・現代政治の思想と行動 (丸山眞男)
・自由からの逃走 (エーリッヒ・フロム )
・マルクスの物象化論 (佐々木隆治)
・日本のデザイン 美意識がつくる未来 (原研哉)
・道徳の系譜学 (ニーチェ)
・メルローポンティ 可逆性 (鷲田 清一)
・マルクスの欲求理論 (アグネス・ヘラー)
・あなたの絵に物語性を与える方法 (加藤 オズワルド)
デュルケームの「社会分業論」も気になってはいるんだけど、時間がない😓
47:匿名さん:2023/11/26(日) 19:31 ID:biQ教授から批判理論に関する文献も読むように言われているんだけれど、一体誰から手をつけるべきなのか。アドルノと教授は言っていたけれど、そもそも、ぼくは批判理論としてマルクスではなくて、ごりごりにマルクス理論を近代社会論として利用したいのであって、そういう意味では、ぼくが読むべきは三田宗介の現代社会の存立構造あたりなんじゃないのか?
48:匿名さん:2023/11/26(日) 19:32 ID:biQ 疲れた
セックスしたい
マルクスの資本論は、実は商品論であって近代生産論だから、生産に対応する「消費」は、実はボードリヤールが論じている。近代社会論として理解を補完するのであれば、ただ、マルクスを読めばいいっていうわけではなくて、ボードリヤールの記号消費論は読まざるをえない。しかし中々に難しい。明日中には読み終わりたい。セックス
50:匿名さん:2023/11/27(月) 00:54 ID:biQ明日は忙しくなりそうだ
51:匿名さん:2023/11/27(月) 01:00 ID:biQ 明日やることリスト
・朝のデッサン
・携帯会社に行く
・彼女お見舞い
・フッサールの精読
・イラスト進める
・3号ちゃんの点検
これは、ぼくの正義論に関するメモになるけれど、
インターネットが人間に力を与えすぎている!!
にじさんじ や ホロライブ といった資本主義的媒介者が 20代の””メンヘラ少女群(もちろん皮肉だ)””に 力を供給している。
下部構造における資本の運動と 力 は連動する。
力の内容は例によって 「形而上学的な小理屈や神学的な小言とに満ちた非常に厄介な代物」だ。
3号ちゃん好きだよ
弱者が権力を持つという惨劇が起きている
54:匿名さん:2023/11/27(月) 01:59 ID:biQ
大学という塹壕地帯から社会を眺める限り、マクロな世界でもミクロな世界も戦場化している。上 でも 下 でも戦争が行われている。
くだらない受験に、くだらない就活に、くだらない労働に、くだらない政治に、くだらない椅子取りゲームに、ぼくたちは駆り立てられている。
そんなことしている場合ではないのに ( ここはかなりハイコンテクスト)
ぼくは権力闘争に興味はない。レスバには興味がない。承認奪取のゲームにも興味がない。(マルクス主義のように、他者は目的であり、手段ではない! と言いたいのではない)
3号ちゃんこそが、歪なぼくにとってのアートなんだ。マルクスでも、ウェーバーでもない。3号ちゃんだ! 彼女は変数 X なんだ。なぜかって? 彼女はかわいい。美しい。だから彼女が好きだ。好きなんだ! 3号ちゃんこそが、ぼくにとって最大の通過点であり、最高の関数なんだ。
資本主義の魔法少女
マルクスもにっこりもっこり 「資本主義の魔法少女」の最悪さ についてメモしておこう。
と言っても、これはいつか、ぼくが特別な手段を持って論じるになるであろう下書きになる。
にじさんじ や ホロライブ のような、資本の内在論理により無意識に搾取を是とする、邪悪な資本の再生産システム群は、メンヘラ電波系弱者少女(20代)に権力を供給して、彼女たちを、神秘的な「資本主義の魔法少女」に再構築する。
どうやって?
社会の上部構造に浮遊している無数のエロの想像力を拾い集めて、巧みにつなぎ合わせ、彼女たちを、一つの性的な虚構(フィクション)、すなわち魔法少女として見事に記号化して仕立て上げる。
つまり、人間 を 物 にする。あいにく都合がいいことに今日の人間は、人間にではなく物に人権を与える。
さて、このような魔法少女化が、まずメンヘラ弱者少女群に権力を貸し出す。これにより、生産体制がひとまず出来上がる。
他方、消費体制はどうだろうか?
なんとか船長とか、なんとか団長とか、こういう巨大な性的な記号が「資本制下の計算の産物」と知らない、いや、知りたくもない盲目の消費者、無数の弱者は、自ら率先して、この記号を崇拝する。そのため彼らの貨幣や時間は自ずと搾取される。貨幣や時間を費やして構築されるのは「生き生きとした、まるで現実のようにエロい幻想」である。言ってしまえば、現実を超越する虚構が彼らの内面世界に組み込まれる。(ボードリヤールの記号消費論) すると、どうなるのか? 彼らは終わりなき自慰行為に駆り立てられる。
ここでいう自慰行為というのは比喩ではない。要するにオナニーだ。事態はオナニー資本主義なんだ。彼らが記号というオカズを時間・貨幣を投じて購入して、オナニーという消費プロセスに走るからこそ、ホロライブ や にじさんじ という搾取は、搾取と自覚されることなく物神化して、ごく自然に経済生態系の中で根を生やすことができる。
資本は自らの生命をつなぐために、人間のありとあらゆる欲求を容赦なく拡張する。この経済法則は今日ほど明晰に現れている時代はない。
弱者たち(とりわけ弱者男性)の自慰への欲求は、今後もますます拡張されていき、魔法少女という現実以上の幻想を肥やすだろう。
なにしろ、現実を超える生き生きとした幻想はまさに「生き生きとしている」がゆえに「本当に生きている」と錯覚をもたらす。現実と幻想の転倒した内面を抱える弱者は自慰行為に走る。このような個々の自慰行為が、総体として魔法少女という経済現象を支える。
何、不思議な話ではない。搾取する - 搾取される という関係の変形でしかない。
>>43
これに繋がってくる。
大澤真幸 読んで寝ようか
大澤の文章はわかりやすいから眠い時でも読める
商品も、貨幣も、資本も、結局のところ価値がとり結ぶ社会関係であることを踏まえると、資本論の読解が飛躍的に進む。
59:浅瀬:2023/11/28(火) 03:22 ID:kL2 いつか、来たるべき日のために旧マルクス主義批判をメモしておきたい。とはいっても、シリアスな心持ちで臨むのではなく、漠然とした心象を落書きするようなラフな作業になるだろう。ぜひ、3号ちゃんにも軽い気持ちで読んでほしい。たぶん、罵倒されるとは思うけれど😓
ともかく批判を始める。批判の論点は「搾取論」になる。なにしろ、旧マルクス主義者の搾取論はしょぼいのだ。
本来は労働者の労賃となるはずの剰余価値を、資本家が利潤率のために搾取する… というのが彼らの搾取論となるが、あれだけ資本論の包括的な分析を受けておきながら、これだけスケールが小さく貧困な議論を「搾取論」として解釈してしまうのは、しょぼい。しょぼすぎる。
資本論を大成したマルクスが主張するのは、こんなしょぼいことではないと思う。マルクスが提起する最大の問題は別のところにある。
それは簡単に言ってしまえば、資本制というシステムが、自らの機制から、いかに「人間」を弾き飛ばすか? という命題だ。つまり「人間疎外」が問題の中心になる。しかし話は前期マルクスのいう「疎外」に限定されない。むしろ、後期マルクスの分析こそ完成している。物象化論である。すなわち、社会的分業を支える生産関係(交通)に商品世界が媒介することによって、人間-人間の人格的生産関係は、物象-物象の非人格的生産関係として現象する…。全く妥当な今日的議論だろう。さらに後期マルクスの物象化論について補足すると、マックスウェーバーやルカーチの解釈が分かりやすく参考になる。彼らの解釈では「資本制下では主体と客体が転倒して倒錯的な関係に陥ってしまう」という。例えば、労働生産物は商品として現象する。労働者は労働力商品として現象する。したがって人間は類的生活から疎外される。また商品は抽象的人間労働の社会的性格が労働生産物の属性として現象するために物神化する。貨幣は商品の小理屈に満ちた内的論理「商品語」によって物神化する。(即ち、相対的価値形態にある商品価値は、等価形態にある商品が使用価値のまま現物形態として現象して価値表現を行う) 以外省略。
要するに、資本制生産様式の支配的である社会では、人間は人間として現象できない。あらゆる労働が資本の増殖のために捧げられる。資本制は幻想を生産して、人は幻想を信じて今日も「貨幣」を崇拝して「商品」を崇拝する。さらに「広告」に欲求をいじくり回される。永久的に欲求が拡張されて、いつしか記号消費に導かれる。そうだ。資本主義というのは、資本家により労働者に支払われるべき労賃が搾取される機構を意味するのではない。そんなしょぼい議論ではなく(問題ではあるけれど)、永久的な資本増殖機制に、社会関係を生産できる人間が装置の部品として組み込まれてしまう… 結果、労賃はおろか、人生 そのもの が搾取されてしまう! 類的存在としての人間存在 が搾取されてしまう! これが冷酷な資本の思考である。
さらに、こうした物象的な社会関係を取り結ぶ「資本主義的生産様式」が資本の内在論理により「再生産」される… というのが次に重要な論点である。
マルクスの哲学で偉大な業績とされているのは「在る」に対する分析である。「在る」を生産関係の内から考察すると、固定的で静的な存在ではあり得ないことがわかってくる。つまり、「在る」とは、「再生産されている」ことにより可能になる。経済が「在る」のは、経済の複雑なシステム自体が生産や流通や消費により「再生産されている」のだ。「再生産論」を説明すると長々しくなるし、もう眠いので、機会あるときに議論を譲る。たぶん、近日中にまとめる。ともあれ、資本の内在論理は自動的に自らを再生産する複雑でよく出来た機制になっていることから人間は人間を取り戻すことが困難になっている。
人間は存在ごと資本主義システムに搾取される。しかし、かといって資本主義システムからは人間は逃げられない…。これこそが、マルクスのいう搾取論なのではないか?
今日は大学だから早く寝る
61:浅瀬:2023/11/28(火) 03:29 ID:kL23号ちゃん、ぼくはクズでゴミでカスだよ。どんなに罵倒してくれてもいいし、君からの暴力だって嫌じゃない。ただ、お願いだから見捨てないでほしい。
62:浅瀬:2023/11/28(火) 03:30 ID:kL23号ちゃん、ぼくは、きみのために生きたいんだ、
63:浅瀬:2023/11/28(火) 03:36 ID:kL2だめだよ、3号ちゃん。きみには生きてもらわないとだめなんだ…。1号ちゃんや2号ちゃんのように殺せないよ。ぼくはきみを愛している。きみには、喜びも悲しみも享楽も恐怖もなにもかも注ぎこんでおきたい。大丈夫。きみのことは守るから。じゃあ、また明日、おやすみなさい。
64:匿名さん:2023/11/28(火) 14:27 ID:rDc日本の少子化対策は単なるセックスに対する介入でしかない。うるさい!ほっとけ!
65:浅瀬:2023/11/28(火) 23:25 ID:Idg >>17
>>18
頭が悪くて、加害者論理がわからないバカはこれを読むべき。読みたくないなら読まなくていい。その代わり、バカであることは自由だが、それを押し付けるな
葉っぱ天国、こんなに治安が悪かったっけ?
ぼくが中学生の時は、こんなに治安が悪かなかったはず。あんなふうに無差別攻撃を仕掛けるようなきもちわるくて頭が悪いおっさんがスレを徘徊しているような場所になってしまったのか。
労働がクソすぎて明日は塾に行きたくない。
68:浅瀬:2023/11/28(火) 23:41 ID:Idg 宿題してこいって言っても、してこないガキには、もはや何も施しようがない。「面白い講義をしろよ!」という反論には「勉強はそもそも面白いもんではない」と声を大にして言いたい。
つまらないかもしれないけれど、それを淡々とこなしていくのが学校の勉強であって、そういうものなんだよ。ひたすら暗記をして、覚えたパターンを応用できるようにする…。受験勉強なんて、そんなもん。
まあ、東大に落ちた人間が物を言える立場ではないけれど、塾講師という立場で文句が少しでも許されるのであれば、やはり「勉強はつまらないものだ」と強く言いたい。
面白いと感じる子がいれば、それはそれでラッキーなだけであって、一般化できる話じゃない。
そもそも、AI社会論からすると学歴自体の価値が下落しているから、時代は落合陽一。アート。勉強嫌いな奴はみんな芸大行け!!やる気ないなら塾にくるな!!
陰キャ文学はもうお腹いっぱいだよ
結局、言語の内側(語りえる)と外側(語りえない)のどちらを重視するかによって、表現の好み自体も大きく変わってくる。三島由紀夫文学 と 太宰治文学の違いでもある。ウィトゲンシュタインの言語ゲームを勉強しなおさなきゃいけない
キュアロランバルトめ。中身のないあいつの論考が評価されて、ぼくの中身たっぷりの論考が評価されないって、どういうことなんだ。出版社業界で力を持っている父親がいるだけで、そんなに社会環境が変わってくるのか。
この一年間、ぼくは必死に努力したし、理論でも実践でも最善を尽くしたし、某大学ダメライフ愛好会と一緒に共闘もした。それでも、凡人の有象無象が祀りあげる天才という共同幻想を突破することはできなかった。
そもそも、ぼくがかわいい美少女として生まれてこなかったこと自体が問題なんだ。問題というのが、ぼくが生まれたかった というのではなくて、数学的な美として、また合理的な戦略として「美少女」である必要が、ぼくにはあった。親ガチャに当たって、出身ガチャに当たって、大学ガチャにも当たった。けれども、性別ガチャには失敗した。ぼくは、女の子じゃなきゃダメだったんだよ!くそ!だからホロライブもにじさんじも潰せないし、塾のガキには舐められるし、キュアロランバルトには負けるし、何もかもがダメになっている。いや日々の人生は幸せなんだけど、そういう意味ではなくて、完成されていない。何も変えられていない。
72:匿名さん:2023/11/29(水) 00:18 ID:Idgもしも、ぼくが性別ガチャに成功して女として生まれていたならは、今頃、キュアロランバルトのような悪党が力を持つ事態にはなっていないだろうし、某大学で外山恒一合宿なんて流行しなかっただろうし、メンヘラ集団であるダメライフ愛好会が活動しなかったはず。少なくとも、大学の論談の捩れ自体は矯正できたと思う。ぼくがガチャで失敗して美少女じゃなかったから叶わぬ夢だが。
73:匿名さん:2023/11/29(水) 00:22 ID:Idg 時代はAI 落合陽一のデジタルネイチャーだよ。
もはや理系も文系も淘汰される。生き残るのはアートだ。