心地のいい風が吹き抜けていく。
その、一陣の風と共に、小さな歌声が聞こえてきた気がして―
杏奈は吸い込まれるかのように、森の中を歩き続けた。
「―♪」
歌声がだんだんと近くなっていく。
歌詞は全く分からないけれど、とにかくきれいな歌声だった。
「―♪〜♪」
音の発生源が、茂みを一枚隔てた向こうにあることを確信した杏奈は、そっと、音をたてないように覗いた。
そこには、杏奈と歳が同じくらいの女の子。
顔は見えなかった。だけど、綺麗な歌声と真っ白いワンピース。
それだけで十分だった。
杏奈はずっとしゃがんだままの体制だったからさすがに疲れてきた。
体制を変えようと、少し足を動かしたとき―
―パキッ
そんな音を立てて、枝が折れてしまったのだ。
その途端に歌はやんだ。
「誰?そこにいるの……」
足音がだんだん近づいてくる。
―ザッ
急に足音が止まり、杏奈が顔を上げてみてみると……。
「きゃあああああああ!」
そこには、長い黒髪を二つに結んだ、雪のように白い女の子。
その、大きな目が杏奈をじっと見つめている。
尻餅をついた杏奈が、声も出せずにいると、女の子の方から先に話しかけてきた。
「あなた、誰?」
怯えていた杏奈はハッと我に返り、その質問に答えようと口を開いた。
「わ、私……南白河杏奈。あなたは?」
「私、雪花詩」
それだけ言うと、詩という女の子と杏奈は、じっと数秒見詰め合っていた。
杏奈はもう、怯えてはいなかった。
いや、むしろ、詩と友達になりたいと思っていた。
この女の子との出会いが、杏奈の人生を変えることになる。
「……な……杏奈!起きなさい!!」
自分の名前を呼ぶ声に杏奈は目を開けた。
「おはよう。杏奈」
「あ……おはよ……」
「もう、休日だからって寝過ぎよ?早く朝ごはん食べちゃって」
「ふぁーい……」
大あくびをしながら、パジャマ姿にぼさぼさの頭で杏奈は朝ごはんを食べ始めた。
もしゃもしゃと食パンをかじっていると、家のインターホンが鳴った。
(誰よ?こんな朝早くに……)
そう心の中で文句を言っていると、母親が不思議そうな顔をして、一通の手紙を手に戻ってきた。
「はい、杏奈」
そう言われて、手渡されたのは、封筒にも入っていない、一枚の小さな紙切れ。
「何これ?誰から?」
「えぇ、それね、玄関に置いてあったのよ。チャイムが鳴ったから、外に出てみたの。そうしたら、誰も居なくて……代わりにそれが石の下にあったのよ」
「ふぅーん……」
母親に返事をしながら、杏奈は紙に書かれた字を見てみた。
(何これ?)
その紙には、何も書かれていない。
ただの、真っ白な紙。
「ちょっと、お母さん。何よ、この紙?」
「お母さんも知らないわよ」
(お母さんが知らないんなら、私にわかるわけないか……)
「あ、そうだ、杏奈。卵とひき肉買ってきてよ」
「うん。いーよー」
杏奈は大急ぎで着替えて、紙をポケットに突っ込むと、スーパーに向かった。
「おっかしいなぁ……確かに、あの時は字があったように見えたのに。私の気のせいだったのかな?」
帰り道、杏奈は例の紙を手にぶらぶら街を歩いていた。
どんなに杏奈が悩んでも、紙に文字が浮かび上がるわけでもない。
諦めてポケットにしまおうとしたときに―
―ブォォォォッ
いきなり、後ろからものすごいスピードで突っ込んできたバイクの風で、手紙が飛んでしまったのだ。
「わーっ!!」
さらに焦ったのは、紙きれが落ちたところが近くの和風の家で、さらにその家で焼き芋を焼いていたという事。
「すっすみませーん!」
大声を出すと、あら?という感じで振り向いたのは、優しそうなおばあさん。
「あら?どうしたの?お嬢ちゃん」
「あの、その紙っ!!」
「ん?何かしらこれ?」
おばあさんが紙を拾い上げて、ふむふむという風にしばらく眺めると。
「これ、どうしたの?」
と、いきなりそんなことを訪ねてきた。
「あ、それ。朝玄関に置いてあったんですけど、わけわからなくて……」
「この紙の謎を解きたいのかな?」
「え?あ、はい」
そう、杏奈が答えると、おばさんは突然その紙を火の中に放り込んでしまったのだ。
「あ――!何するんですか!」
杏奈がもっともな怒りを覚えて、慌てて紙を取り出そうとしたら……。
「ちょっと、お待ちなさいな。もう少し、待つのよ」
「なっなんで!?」
「この謎を解きたいのだろう?それなら、こうしないと……」
そこまで言うと、「もう、いいじゃろ」と一人言いながら、紙に水をかけて杏奈に見るように言った。
「ほれ、燃えかすをはらって……見てみなさい」
おばさんの言うとおり見てみると、何も書いていなかったはずの紙には、何かの文字が浮かんでいた。
「あれぇ?何も書いてなかったはずなのに……」
そう杏奈が言うと、おばさんは笑いながら言った。
「この紙がな、最初に見たときに妙に分厚かったんじゃよ。それで、剥がす方法がなかったから、燃やしてみたというわけじゃ」
「へー……」
杏奈が感心しながら、何気なく見てみると、そこには「鬼灯」の文字。
「えっ?何これ?オニビ?」
「うむ。これは……ホオズキと読むんじゃよ。前に本で読んだことがあるからの」
「鬼灯?あの植物の?」
「ああ。おそらくな。多分この手紙を書いた人は、お前さんに鬼灯があるところに来てほしいんじゃよ。何か、心当たりはないかえ?」
ホオズキと言ったって、そんなものどこにでもあるだろうし……。
何も心当たりはなかった。
「いいえ。ありませんけど……」
「そうかい、じゃあ、もしも見つかったら行ってみるといい」
「はい。ありがとうございました」
杏奈はちゃんとおばあさんにお礼を言って。
それで、手紙を眺めながらホオズキがある場所を考えていた。
その時、杏奈の脳裏にある光景がよぎった。
それはまるで、DVDを逆再生しているような、でも、どこか違うような。
そんな不思議な感じがする。
―プツンッ
何かが切れるような音が聞こえたかと思うと、画質の悪い映像が頭の中で流れ始めた。
ね……
―ザザッ
いっ……
―ザザザッ ザザッ
……み……れ……しょ?
―ザザッ ザァァァァ
「はっ?えっ?えぇ?」
突然の出来事に、杏奈は頭を混乱させていた。
「あれ……うた……だよね?」
呂律のまわっていない口調でつぶやく杏奈。
確かに、あれは詩だった。
真っ白なワンピースも、二つに結んだ綺麗な髪も。
そして、詩と話していたのは―
「私?」
今の杏奈には、そうとしか思えなかった。
詩と杏奈が二人で話をしている。
そこは、森。
詩と杏奈の出会いの場所だ。
詩が指差したのは、オレンジ色の綺麗な植物。
鬼灯らしかったが、そうとは限らない。
でも―
杏奈は一筋の可能性を考え、森に向かって走り出した。