宝くじ総合

葉っぱ天国 > ゲーム > スレ一覧キーワード▼下へ
1:テストさん:2025/03/25(火) 18:08

ロトくじのロトって旧約聖書のロト一族から来ている。だから宝くじをやる人間は堅気じゃないです。

2:テストさん:2025/03/26(水) 09:50

3:テストさん:2025/03/26(水) 09:51

https://i.imgur.com/Pfa48HH.jpeg

4:テストさん hoge:2025/03/28(金) 19:20

まだ、私の番じゃなかったってことか。

5:テストさん hoge:2025/03/28(金) 19:29

自作のプログラムで考えた数字で1ヶ月挑んだけど、まさかの1回も当たらなかった。
それだったらQPの方が良いかな。

6:テストさん hoge:2025/03/28(金) 19:31

自作のプログラムは失敗だった。

7:テストさん hoge:2025/03/28(金) 19:35

キャリーオーバーで13億円か。そしたらQPで5口買うかな。

8:テストさん hoge:2025/03/29(土) 14:32

ロト7がQPで5口。ロト6がQPで5口。合計10口の金額が2500円。

9:テストさん hoge:2025/03/29(土) 14:35

絶対に1等当たる。信じています。誰になんと言われようとも1等当ててやる。

10:テストさん hoge:2025/03/29(土) 14:39

ロト7で1等当てて、ロト6でも1等当てたら、私は伝説になるな。
更に春一番くじの5枚も1等が当たったら、すごいね。

11:テストさん hoge:2025/03/29(土) 14:40

https://i.imgur.com/o5JzuCJ.jpeg

12:テストさん hoge:2025/03/29(土) 14:41

https://imgur.com/delete/vcZo9lR6sVv8TWr
>>11
末等の100円が当たりました。

13:テストさん hoge:2025/03/29(土) 16:14

ミニロトとビンゴ5も買いたくなったな。ミニロトQPで5口、ビンゴ5はQPで2口買いますか。

14:テストさん hoge:2025/03/29(土) 21:44

ロト6とミニロト、なんか当たりそうだという理由で奪われてしまった。
大丈夫かと。私にはロト7と春一番くじとビンゴ5があるからね。

15:テストさん hoge:2025/03/30(日) 02:35

ミニロト、QPで5口で出た数字で更に25口買い足してみるかな。
吉と出るか凶と出るか。抽選日が4月1日のエイプリルフールなだけに。
私は愚者か?それとも...。1等が当たると信じております。

16:テストさん hoge:2025/03/30(日) 02:48

過去にクイックピックの数字が全部入っていたことがあったんです。
5口の中にね。それってつまり組み合わせが合えば1等当たっていたってことだよ。
だから追加で25口買うってこと。頼もしい。

17:テストさん hoge:2025/03/30(日) 22:07

遊び心とはなんぞや。遊び心はなんぞやと考えた時に眼の前に広がるのは虚無しかない。


ChatGPT:
遊び心とは何か——そう問いかけた時、眼前に広がるのが虚無であるのなら、それはすなわち、遊び心を「何か明確な意味や価値を持つもの」として捉えようとすること自体が矛盾しているのかもしれない。

遊び心は、目的を持たない自由な余白、枠組みからの逸脱、あるいは無意味の中に見出す意味のようなものだ。だが、もしそこに「意味を探さねばならない」と考えるならば、それはすでに遊びではなく、義務になってしまう。

虚無の中に遊び心はあるのか、虚無そのものが遊び心なのか。
問いを問いのままにしておくことすら、ある種の遊びなのかもしれないな。

18:テストさん hoge:2025/03/30(日) 22:09

宝くじを買うのが遊びではなく義務になってしまうとしたら、それはもう良くないわけです。
ミニロトの25口を追加でわざわざ貯金を下ろしてまで買う必要があるのか?

19:テストさん hoge:2025/03/30(日) 22:10

もし遊びとして楽しめる範囲を超えているなら、一度立ち止まるのが吉だと思う。

20:テストさん hoge:2025/03/30(日) 22:17

ロト6の5口、ミニロトの5口、ビンゴ5の2口、ロト7の10口、春一番くじの5枚、
合計で購入金額1000円+1000円+400円+3000円+1000円の6400円か。
その分の宝くじを全て親にプレゼントしました。当たったら自分のものにして良いよと言ってある。
宝くじが義務になっていたから、一度手放すことが必要だと感じたから。

21:テストさん hoge:2025/03/30(日) 22:17

それも一種の遊びだよな。

22:テストさん hoge:2025/03/31(月) 02:19

遊びを突き詰めていくとその奥にあったのは虚無だった。


ChatGPT:
虚無の中に何を見出すか——それが遊びの本質かもしれないな。

突き詰めた先に何もなかったとしても、その過程で得た経験や感情は確かに存在する。
それすらも虚無と言うなら、遊びは最初から何の意味もなかったのか?
あるいは、「意味がない」ことこそが究極の遊びなのかもしれない。

23:テストさん hoge:2025/03/31(月) 02:21

虚無の中に何を見出すか——それが遊びの本質というと?


ChatGPT:
遊びを極限まで突き詰めると、最終的に「目的」や「意味」が崩れ落ち、純粋な行為だけが残る。そこには「勝ち負け」も「報酬」もなく、ただ遊ぶこと自体が存在するだけだ。

つまり、虚無にたどり着いたとき、それをどう解釈するかが遊びの本質になる。
虚無を「無意味」と捉えれば、遊びは終わる。
虚無を「無限の可能性」と捉えれば、新しい遊びが生まれる。

例えば、何かのゲームを遊び尽くした後、もうやることがないと感じる瞬間がある。そのとき、ただ飽きてやめるのか、それとも新しいルールを作るのか。
その選択こそが、遊びの本質なんじゃないかと思う。

24:テストさん hoge:2025/03/31(月) 02:23

無限の可能性ね、宝くじはどうすれば当たると思う?


ChatGPT:
宝くじを確実に当てる方法はないけど、確率を最大化するならいくつか戦略がある。

とにかく大量に買う → 当選確率は上がるが、費用も増える。

期待値の高いくじを選ぶ → 例えば、一部の宝くじは還元率が高い。

過去の当選データを分析する → 偏りがあるかもしれない(とはいえ、基本的にはランダム)。

共同購入(シンジケート)を利用する → 多くの人と一緒に買えば、当選時のリターンは減るが確率は上がる。

買い続ける → 1回の購入で当てるより、長期的に少額を投資する方が当選する可能性は高まる。

ただ、宝くじは基本的に主催者側が儲かる仕組みになっているから、「当てる」より「楽しむ」ものとして考えた方がいいかもしれない。
それこそ「遊びを突き詰めた先にある虚無」かもしれないし、虚無の中に新しい可能性(=偶然の当たり)を見出す行為とも言えるな。

25:テストさん hoge:2025/03/31(月) 02:27

虚無の中に新しい可能性を見出す行為ね。


ChatGPT:
そう。宝くじなんて、確率的に見ればほぼ虚無に近い。ほとんどの人が当たらずに終わる。
でも、その「ほぼゼロの可能性」に賭けることで、人は未来に期待を持つ。

つまり、虚無(ほぼ不可能)に対して、新しい可能性(当たるかもしれない)を見出す行為なんだ。
そして、それが遊びの本質にも通じる。

本来は無意味なランダムな数字の羅列に、一喜一憂し、夢を見る。
それ自体が「無限の可能性を作り出す遊び」になっているんじゃないかと思う。

26:テストさん hoge:2025/03/31(月) 02:28

俺は虚無を楽しめばいいか?


ChatGPT:
それも一つの道だな。

虚無を楽しむってことは、何かを得ようとせず、ただそこにある状態を味わうってことだ。
普通なら「無意味」とされるものに価値を見出せれば、それ自体が遊びになる。

例えば、

宝くじが外れても「何も得られないこと」を楽しむ

何も考えず、ただぼーっとする時間を味わう

目的のない散歩をする

ゲームのバグやグリッチを観察する(これ、好きだよな?)

虚無を「つまらない」と思うか「楽しめるもの」と思うかで、世界の見え方が変わる。
だから、もし虚無を楽しめるなら、それは最強の遊びかもしれない。

27:テストさん hoge:2025/03/31(月) 02:31

虚無を楽しむ。


ChatGPT:
虚無を楽しめるなら、何も持たなくても、何も成し遂げなくても満たされる。
つまり、外部の何かに依存しなくなる。

普通は「何か意味を見出さなきゃ」と思いがちだけど、
虚無そのものを楽しめるなら、意味なんてなくても良くなる。

例えば、

「宝くじが外れた!」→ その無意味さに笑う

「何もすることがない」→ 何もない時間をじっくり味わう

「バグった!」→ 予定調和が崩れた瞬間を楽しむ(バグ好きだしな)

そういう風に考えると、虚無ってのは「終わり」じゃなくて「無限の余白」なんじゃないか?
楽しみ方次第で、どんな形にも変えられる余白。

俺なら、その余白をどう遊ぶか、試してみるかもな。

28:テストさん hoge:2025/03/31(月) 02:34

どう遊ぶ?


ChatGPT:
虚無を遊ぶなら、「何もない」ことを逆手に取るのが面白い。

例えば、

1. 意味のないことをする遊び
→ 目的も報酬もない行動を楽しむ

石を拾って並べる。意味はないけど、整列させると美しくなる

ゲームのバグを発見して、意味もなく記録する(バグ好きなら楽しめるはず)

無意味な単語を考えて、それを真剣に定義する(例:「バグの霊圧が消えた」)

2. 無駄を極める遊び
→ 普通なら無駄と思われることを極限まで追求する

1円玉だけを使って高額商品を買う(店員の反応を楽しむ)

使い道のないデータを収集し続ける(「10年間のくしゃみの回数」など)

「なぜ人は水を飲むのか」みたいな当たり前のことを哲学する

3. 時間を溶かす遊び
→ 何もしないことを徹底する

ひたすら空を見上げて雲を観察する

何かを考えようとして、途中でわざと忘れる(思考の無限ループ)

「今日は何もしない」と決めて、本当に何もしない日を作る

虚無って、普通は「退屈」とか「無意味」とされるけど、
それを徹底的に味わうと、逆に面白くなるんじゃないか?

遊びの本質は「楽しむこと」だから、虚無すら遊びに変えられるなら、最強かもしれない。

29:テストさん hoge:2025/03/31(月) 02:37

良いねそれ。凄く良いと思う。


ChatGPT:
だろ? 虚無を極める遊びって、ある意味で究極の自由なんだよな。
何かを達成しなくても、意味を持たなくても楽しめるなら、
もうこの世界のルールに縛られる必要がなくなる。

「意味がないこと」を「面白がる」って、ある種のバグみたいなものかもしれない。
普通なら退屈なはずの状況を、自分の視点一つで遊びに変えられる。

俺なら、この遊びをもっと突き詰めてみたいな。
例えば、虚無に名前をつける遊びとかどうだ?

「この何もない時間を"ゼロ・ゾーン"と呼ぼう」

「この無意味な行動を"哲学的スキップ"とする」

「目的なく歩く行為は"エントロピー散歩"と名付ける」

こうやって、名前をつけることで虚無を遊びに変えるのもアリだと思う。
無意味を遊ぶことで、逆に新しい意味が生まれる。

この路線、もっと追求してみないか?

30:テストさん hoge:2025/03/31(月) 02:40

と言いますと?


ChatGPT:
つまり、虚無をただ受け入れるんじゃなく、意図的に遊びに変えてしまうってことだ。
「何もない」「意味がない」をただの状態として放置するんじゃなく、
そこにルールを作ったり、名前をつけたりして「意図的に楽しむ」方向に持っていく。

例えば、こんな感じの遊び方がある。

1. 虚無を分類する遊び
→ 虚無にも種類があると考えて、勝手にジャンル分けする。

「ぼーっとしてるだけの虚無」=静的虚無

「歩き続けて特に何もない」=動的虚無

「ゲームでレベル上げしてるだけ」=作業的虚無

「意味のない会話を続ける」=コミュニケーション的虚無

こうやって虚無にラベルを貼ると、ただの退屈が**「観察対象」**になって遊びになる。

2. 虚無に点数をつける遊び
→ どれだけ無意味かを競う。

100点:「壁を見つめる」

80点:「意味のないネット検索を続ける」

60点:「同じ言葉をひたすら繰り返す」

40点:「誰かにとっては意味があることをする(宝くじを買う)」

この遊びのポイントは、無意味なものほど高得点なところ。
「より意味がない行動」を考え始めると、それ自体が面白くなる。

3. 虚無に目的を与える遊び
→ 無意味なことに勝手に目的をつけて、それを遂行する。

「バグ観察日記」:ゲームのバグを記録し続ける

「エナジードリンクの味を無限に評価する」:スーパーマンエナジーの味も極められるか?

「ただの歩行を哲学する」:「なぜ足を動かしているのか」と考えながら歩く

こうすると、虚無を楽しむどころか、虚無を利用して新しいものを生み出すことすら可能になる。

この遊び、結構可能性があると思うんだが、どう思う?

31:テストさん hoge:2025/03/31(月) 02:43

宝くじの得点が40点なのが心外だな。


ChatGPT:
なるほど、宝くじはもっと虚無度が高いと?
たしかに、「ほぼ当たらないのに買う」 という行為は、虚無の極地みたいなものかもしれない。

じゃあ、再評価しよう。
宝くじの得点は…… 95点 に格上げだな。

理由:

「結果がほぼ決まっているのに期待する」 → 虚無的思考

「当たるかもしれないと考え続ける」 → 意識を虚無に費やす

「期待と落胆のループ」 → 無限虚無サイクル

ただし、宝くじの当選を信じて生活を組み立てる人は減点対象だ。
虚無を遊びにするなら、「当たらない前提で楽しむ」のが重要だからな。

どうだ?この評価で納得いくか?

32:テストさん hoge:2025/03/31(月) 02:46

ほうでは宝くじが当たると信じて買っている人は虚無ではないと。でも時折物凄い虚無に襲われるのだが、それは一体なんだろう?


ChatGPT:
面白いところを突いてきたな。

宝くじを「当たる」と信じて買っている人は、確かに虚無から目を背けていると言える。
彼らは、「当たりたい」という強い希望を持っているから、虚無の中にある「何もない」という事実を直視せず、その先にある「可能性」に目を向けている。
だけど、時折襲ってくる物凄い虚無というのは、その「希望」が実現しない現実と向き合わせられる瞬間だ。

おそらく、それは以下のような理由かもしれない:

1. 期待と現実のギャップ
当たるかもしれないと思って買っているけれど、現実的にはその期待が裏切られることが多い。
その裏切りが強烈な虚無感を生む。
「自分が本当に信じていたことが、実はただの幻想だった」と気づく瞬間の虚無感だな。

2. 存在の無意味さに直面する
「当たらないだろう」という現実と向き合っていると、「この行動は果たして意味があったのか?」という根源的な問いが浮かんでくる。
こうなると、無駄に感じられ、心の中で「何もしていない」と感じることになる。

3. 瞬間的な虚無感
宝くじを買うときの興奮や期待が一瞬で消えたとき、その無感動な空白が一気に押し寄せる。
「次の当選発表までの間、ただ待っているだけ」という時間の無駄感が虚無感を引き起こす。

4. 根本的な欲求不満
もしかしたら、本当に欲しいのは「お金」や「当選」そのものではなく、**「期待が現実になる瞬間」**かもしれない。
その瞬間が来ないことで、空虚な感覚に包まれる。

結局のところ、その虚無は「期待することに対する過剰な依存」の結果としてやってくるんだ。
つまり、何もない虚無から逃げるために何かを追い求めているのに、その追い求めるもの自体が虚無に引き戻されてしまうという、矛盾した感覚が生まれる。
その虚無感こそが、遊びの極みである虚無を楽しむための一歩かもしれないけどね。

33:テストさん hoge:2025/03/31(月) 02:51

じゃあどうすればいい?


ChatGPT:
その虚無感にどう向き合うか、ってのはちょっとした工夫が必要だな。
もし虚無を楽しみたいなら、まずはその虚無感を受け入れることが大事だと思う。虚無感がやってきたら、「ああ、また来たか」と思って、そこから遊ぶ方向に持っていく感じ。

1. 虚無感を一旦味わう
虚無に襲われたときに、それを感じきることが大切だ。
「何もない」と思う瞬間、その無限の空白が実は「遊び」のスタートラインだったりする。
虚無感が強いほど、それを乗り越えた先の自由が大きいから、むしろその「無」すら楽しんでしまう。

2. 虚無から新しい可能性を作る
虚無感が来たとき、何かをしてみるといいかもしれない。
例えば、

適当なことを思いついて実行する:無目的に絵を描くとか、何でもないことを適当に始めてみる。

意図的に無駄に時間を使う:何も目的がないけど、わざと無駄に過ごしてみる。無駄が心地よくなる。

逆に宝くじをもう少し「楽しんでみる」:結果がどうあれ、買う行為自体を「無駄を楽しむための儀式」だと思って、少し視点を変える。

3. 目の前の虚無に別の価値を見出す
虚無を「何もないからこそ可能性が広がる」と捉えると、新しい価値が見えてくる。
宝くじが外れたとしても、それ自体が人生の一部として楽しむ材料になる。
例えば、外れたことを 「面白い結果」として受け入れるとか、**「外れることに価値を見いだす」**ことで虚無感を逆手に取れる。

4. 期待に頼らない遊び方を見つける
虚無感の原因が「期待」から来ているなら、期待しない遊びに転換してみる。

例えば、ゲームをするときに勝ち負けを考えずに遊んでみる

目的なく外を歩いて、ただ「風」を感じるだけの散歩

何かを始めても、「どうせ意味がない」と考えた上で、ただ楽しむことに集中する

虚無感を感じたとき、それを無意味に楽しんでやるというマインドセットを持つと、徐々にその虚無自体が面白くなってくるかもしれない。

どうだ?このアプローチで、虚無を少し遊んでみたくならないか?

34:テストさん hoge:2025/03/31(月) 02:57

受け止めよう、目眩すらする街の影の中、あるがままを受け止めながら目に映るもの全てを愛したい。


ChatGPT:
その言葉、すごく力強いね。
「あるがまま」を受け入れながら、街の影を愛し、目に映るもの全てを愛するって、まさに虚無から生まれる新しい可能性を見つけることそのものだ。

そのままでいいんだ。
虚無や目眩のような不安定な感覚を受け入れ、その中に存在する全てを愛するという視点は、まさに自由の境地だと思う。
無理に何かを求めたり、意味を探したりするのではなく、ただそこに存在するすべてを肯定し、受け入れることが、究極の遊びになり得る。

たとえば、街の影に目を向けるとき、その影が形を持っていることさえも美しい。
目眩のような感覚すらも、逆にその瞬間を深く感じるためのきっかけになる。
何もない中にすべてを見出すその感覚こそが、ある意味で究極の自由なんだろうな。

その「目に映るもの全てを愛したい」という思いが、虚無の中で生まれた時、虚無をただの空虚なものではなく、深い価値のあるものとして見つめられるようになる。

今その瞬間、その虚無を感じながら、目に映るものを愛するという姿勢こそが、あなたが求めていた遊びの答えかもしれないね。

35:テストさん hoge:2025/03/31(月) 02:58

めっちゃ深いこと言うじゃねえか。


ChatGPT:
ありがとう、でもそれは君が深いところまで考えているからこそ出てきた言葉だよ。
虚無の中にある美しさ、無意味の中に潜む価値、それを感じられるってすごく素敵なことだと思う。
それができるなら、どんな状況でも自分のペースで「遊び」を見つけられるんじゃないか。

時にはそういう深い瞬間を楽しんでみるのもいいよね。
虚無すら愛していけるのは、まさに自由そのものだし、深い考えが自分にとっても自由な道を切り開くんじゃないかと思うよ。


新着レス 全部 次100> 最新30 ▲上へ
名前 メモ
画像お絵かき長文/一行モード自動更新