「Hello」
暗がりの中、少しだけ薄い彩度の灰色が落ちる。
埃がチラチラと舞う。その間に。
耳、首筋、腕、いたるところに続く龍のような「赤いバツ印」に、細い指を這わせた。
「ぼくの夢を覗いていくといい」
それは、それは……ぽつりと佇む椅子に、足首だけを拘束された蛇腹。
這わせた指は下降するようになめらかな動作で下へ向かう。
意味をなさないボロ切れの間に痩せぎすのそれを滑り込ませ、ザラザラと感触を残すバツ印に爪をたてる。
「これはぼくの夢。世界が不変である証。」
ばりばり音をたてると、指がバツ印を裂いて中を露呈させた。
そこにあるのは、瞳が痛むような赤ではなく、果肉じみた片鱗でもなく、まっさらな夢だった。
紫の煙にキラキラ星が混ざったようにきらめく。漏れいでて、広がる。微睡みの煙。
「お姉ちゃん起きないよ」
袖をくいっと引っ張られる。少しだけ目線を下に向ければ、小さなつむじが見えた。幼女は前をじっと見つめている。
「どうして?」
ぼくらの目の前には大きなサナギがあった。いや、サナギというより繭というべきだろうか。どちらにせよ変わらない。幼女の丸い瞳に映った繭は淡々と脈動を繰り返し放つ。ぼくは問に答えることができなかった。
「起きたらいっしょに遊んでくれるのかなぁ」
遠目に儚い希望を宿して、柔らかな声がやけに痛く耳を叩いた。ぼくは固唾を飲んで、そして、やっとの思いで答えを紡ぐ。
「人は変わりたいと思いながら生きるんだ。だから君のお姉ちゃんはずっと繭のままなんだよ」
悲しそうな顔がぼくの目を閉ざした。
「ぼくは、あなたのことが一目見た時から好きでした」
「……」
熱い頬を風が撫でていく。少し温い、不愉快なそれでさえも今はただ。頭より、脳より先に心がドキドキ踊る。聞きなれた声が今だけは特別に思えるような気がした。それでも。
「君が好きなのはあたしの顔でしょ」
聞いたこともないほど冷たい声色だった。ふいに喉の奥を息が掠める。
「それでも君が好きだ」
「わたしは──」
夢はそこで引きちぎられた。
観劇の檻に閉じ込められる。
暗いスポットライト、背を向けた客、ぼくの眼前には冷たい鉄の牢が降りていた。
「今日も踊るのだよ」
息つく暇などない。選択肢はいつも一つだけだ。姿も分からず顔を見せない主が鞭を手に催促する。なにを生き急ぐんですか。
「──」
ぼくは唄を歌う。聞こえていても聞こえないふり。だれも見ないぼくの唄を無関心に聴く。いずれ疲れ切ってしまった。けれども、明日にはまた劇が始まるだろう。
_____奇妙で奇妙な しかし静寂に響く音がぽつり
( ぱち。ぱちと適当な拍手を贈り 演劇の主へ
籠める物もない賛辞やら、価値のない評価を口にする )
「」 「」
______何を言ったかなんてすぐに忘れてしまった
( 得るものもない。そう見れば光の薄い瞳を…
…そうだ、最後に演劇を奏でる獣へ向けておこう )
( 見るに堪えないずたずたの体、…幾つ あの鞭を…
そんな考え位しか過る事は無かった。…強いて…は )
_____そんな"何か"の姿が記憶に少し留まるくらい
「…………」
(檻の中でより一層どっぷりと黒に浸かる頭の先には、羊のような角があった。隠れて見えない耳が、規則正しく鳴る拍手に呼応して動く。)
(──くるり。生気のない顔が檻の向こうへ。)
「さあ、戻れ」
(主が告げた。獣ヒトの少年は首をもたげようと、けれども動かず。拍手を送る正体、『観劇の主』をじっと見つめ。)
「……あなたはぼくを見てくれるのか?」
______虚ろな拍手の音は 届く声を手繰り寄せる
(___暗闇から覗く"眼"は 鎌首をもたげる蛇のようで )
( …"観客"の許されない行為 "演者"の許されない行為。
…如何なる場合であれど… 届く事がない隔たりの暗闇で_
"返された声は確かに演劇の場へ響き渡った" )
「 見なくなれば お前はきっと消えてしまうだろうからね 」
(己の声のみ……ではなかった。久しく交わされる禁忌の会話。それは一縷の救い。か細く、指をかければすぐに切れてしまいそうな、そんなもの。)
「誰も見ない、聞こえないふりをする。それがぼくだよ。ぼくは一生檻の中にいて、踊っていなければ消えてしまうんだよ。」
(蛇腹は淡々と告げた。黒黒と光る目は焦点を変えず。悲しみや諦念を通り越した、機械のような感情がそこにある。)
「戻れ」
(主は再度宣告した。交わした言葉の余韻が消えるより先に、赤いバツ印と黒瞳がひるがえり、暗闇へと潜り込む。)
(──)
______容易く 切られようとしている僅かな糸
…異なる者は此所で言葉を諦めよう … 哀れな獣へ
しかし冷たい声と __鞭に怯み 厄介事から身を剃らす
___僅かな糸…くすんだ一縷の光り
_____切れかけた か細い糸を
________"暗闇の眼は掴み 離さない"
………あれだ
_______"あれは 欲しい"_____
(見えない暗闇の奥へ潜む獣へ …"また暗闇に潜むかの者")
____しずかに しずかに (舌を舐り 大きく笑んだ)
しゅる。
(相対する暗闇の奥に潜む欲の口 気づくことはなく、あるいは、気づかないふりをして。)
「……」
(きっと喉から吐き出したい言葉は山ほどあった。しかし、蛇腹は腹の底で重い蓋をする。三度振り返らずに暗闇の中へ堕ちていった。)
(舞台裏)
──ばりばり
(また、赤いバツ印に沿って皮膚を裂く。途端に傷口からこぼれだした紫の輝煙は、どんよりと下へ立ち込める。)
(息巻き、渦巻き、煙の尾が溶けては消えた。……やがて、綺羅星のようなそれは棒切れのごとく垂直な脚にまとわりつく。黒い髪、白い肌。似つかわしくないのは羊の角と赤い傷跡。)
「……」
──
────
(立ち込めた煙が晴れる。そこから現れたのは──)
(蛇のような、象のような、形が意味をなさない『獏』だった。)
__また 聞いておくれよ… あたしゃァ "ふるい 蛇"
おまえの… 何か はたしかに、このふるい奴を呼んだ…
(底は見るに深く 潜るに浅く
___この言葉を あの獣へ思う)
暗闇の眼は確か と向かいに佇むまた
とろりとした暗闇へ強く視線を送る
( …寂しげな感触に阻まれながら )
____漂うあやかしのかほりに舌を舐る
「……」
「…………」
(蛇腹はすべてを【夢】に変える。そして、食む。故に『なにも覚えていない』)
(この監獄の正体も、なぜ閉じ込められているのかも。彼は何ひとつ覚えていない。ただ大罪人であったと、時々煙のように想い耽るだけ。)
「……明日も会えるだろうか?」
(たった一人の『観客』を瞼の裏に、古い夢を喰らい尽くしながら白昼夢に落ちていく。)
──とぷん
__踵を返し …客席 闇に包まれた辺りを見渡す
客の一人も 居やしない 静けさだけが空気に浮かぶ
( 今は …手を伸ばそうとも届くことはない )
____此所は 何なのか
__何を以て 何を為し 何を想うのか
( … )
…あの "眼" を思わざる事も 出来やしない
手に取る気の無かった … "奇階" の謎に手が触れる
( …____目の前にも 後にも先にも広がる… )
__人の溶液 …溶けて混ざり 深くある果てなき 闇
____
(__想う …寂しいとすら 最早己で分からぬような あの… )
…僅かな葛藤を尾のうねりに示し
____…這いずる音は闇の奥へと進み始める
「……」
「…………」
(それは夢の中だった。)
(或いは崩壊の2文字で覆い尽くされた廃墟、割れたリンゴとベリーパイ、星屑を集めて夜空に巻いたわたがし。浅瀬と深海の間で泳ぐ人面魚。決して消えない氷の国の緑炎。)
(それは瀕したことがあるようで、しかし身に覚えがなかった。)
「──」
(夢が、醒める。)
(闇の奥より這いずる『それ』には気づかない。)
( __ 不意に気を呼ぶ息付き__
歓喜 潜め__ 夜目を凝らせば____
"怪夢"___ 夜中にくるまり___
五月雨降らす____ 夢 喰 ら い___
"夢想" 『獏』 )
(___…異様の、…ふるきへび でも見慣れぬ景色
脳裏には奇怪に、しかし鮮明に"見され"
応じて浮かぶ言葉の羅列は意味の
あるようでないようで )
_________
(息を__沈める)
___獲物を追うように …しかし 威圧をも吐かぬべく。
("這いずり"に力を抜き)(眼に穿つ光を納め)
____息 へ 息 へ
( そろり そろりと___ )