第一部は、皆様のおかげで無事書き終える事ができました。読んでくださった方々、本当に感謝致します!第一部の方は、「切支丹物語」で葉っぱ内で検索していただければ、出てくると思います。(127)と、長編ですが暇な時にぜひ読んでいただけると喜びます!
さて、第二部の方は楓様にご指摘いただいた箇所を少しでも改善していけるよう、努力をしていきます。ルールは第一部と何ら変わりはありません。
それでは、よろしくお願い致します!!
二十
「…あやめの色は〜、鮮やかに、お前の心を写し出す………」
どこからだろう。智純の唄声が聴こえてきた。それも今の智純の声ではない。まだ智純が五、六歳位だった時の、あの少し高いものだ。
暗闇の中に、壮汰は立っていた。一体ここはどこなのか。壮汰には分からない。
「幼い者よ〜、お前が三つ、数えれば〜」
先程の智純の歌声が再び聴こえ始める。そこで壮汰は、ああ、これは夢だなと思った。
「うわああああぁん!!あ、熱いよ……お母さん、お母さん!!」
突然、背後から小さい子の泣き叫ぶ声が聞こえた。壮汰は思わず振り返る。そこには何もなかった。
「痛いよ……苦しい……もう生きたくないよ……デウス様……」
今度は前から女の子の消え入りそうな声が聞こえてきた。壮汰は前に向き直る。何も見えなかった。ただ暗闇がそこに横たわるだけだ。
「どこで失った誰なのか〜、きっとお前は分からない……」
智純の歌声はそこからもう聴こえなくなった。壮汰はぎゅっと目を瞑る。
「……え…………だ」
低い女の声が聞こえてきた。呟く様な小さなもので、何を言っているのかはよく分からない。その声は恨む様に壮汰に囁きかけていた。
「おまえのせいだ」
壮汰はだんだん、はっきりとその声を聞き取れるようになっていた。そっと目を開けて見ると、暗闇に白い影が浮かび上がっている。
若い女だった。農民の様な着物を着ていた。
きっと、これはあの町で見た女だろう。壮汰は何となくそう思った。
女が口を開く。
「お前は前世だけでは飽きたらず、今になっても尚私を苦しめるつもりかえ」
そして壮汰を嘲る様にくすくすと笑う。
「どうしてわたしなのだ。わたしが…何か悪い事をしたか」
壮汰は思わずそう叫んで、叫んでから涙が溢れそうになった。女はそれでも笑っている。
「お前はそういう者なのだ。これは運命。自身には罪などはない。だがお前は、この世のあらゆる恨み事を背負い、呪われ続けるのだ。神がそこから救い出さない限り」
壮汰は何も言葉が出てこなかった。女は不気味にくすくすと笑い続けている。だがふと壮汰の顔を見ると、最後にゆっくりとこう言った。
「見ておれ。次は、またお前の近くだぞ」
それと同時に女の背後、暗闇から、青白い腕が何本もこちらに向かって伸びてきた。
「ぐっ?!」
それらは、一斉に壮汰の首を締め上げる。
「おのれ…親王め……」
「呪うぞ」
「死んでもお前を恨み続けてやる」
壮汰には、何十人もの声が聞こえていた。
「これが、お前に向けられた恨みの数さ」
そんな声を最後に、壮汰の意識は遠くなっていった。
「……っ、ゲホッ!ゲホッ、ゲホッ!!」
壮汰は激しく咳き込み、布団から上体を跳ね起こした。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
なんとか気持ちを落ち着かせようと、壮汰は荒い呼吸を繰り返す。
「今のは…、一体何だ……」
訳の分からない夢を見たものだ。だが壮汰には、これがただの夢だと思えなかった。
妙に生々しくて、不吉な夢…。
そう感じてならないのだ。
「いっ……?!」
突然首に鈍い痛みが走った。壮汰は慌てて部屋に置かれた鏡の前に走り寄った。月の光に照らされ、大きな鏡にははっきりと自分の姿が映し出されていた。
「………」
壮汰の首に、不気味な紫色をした大きな痣がある。それはまるで、人間の手が壮汰の首を締め上げたかの様な痕だった。壮汰は言葉も無くそれを見つめる。
「……うっ!!!」
突然その痣が激しく痛み出した。壮汰は首を押さえ、たまらずその場にうずくまる。
「はあっ……はあっ」
ズキン、ズキンという激しい痛みと共に、壮汰の頭の中ではいくつもの不気味な笑い声が反響していた。
『クスクスクス……』
『クスクス……』
「う、うっ……いっ!!!」
堪えても堪えても、痛みはより一層激しさを増してくる。
痛い……痛い、痛い、痛い…。
とうとう壮汰は、カッと目を見開いて絶叫した。
「ぐああああああああっ!!!!!!!」
その狂った様な叫びはしばらく、静まり返った屋敷内の隅々にまで響き渡っていた。
二十一
「な、何事だ!!?」
「怪我人は、怪我人は居らぬか!!」
壮汰の絶叫で、家人らも目を覚ました様だ。屋敷には徐々に蝋燭や提灯の灯りがちらつき始めた。廊下を走り回る家臣達の怒鳴り声も聞こえてくる。
「はあっ……はあっ……ぐっ!!!」
壮汰は部屋の隅でうずくまり、震えていた。首の痣による激痛は、絶叫しても尚収まる事無く続いている。おまけに頭の中で反響する不気味な笑い声が、壮汰を激しい頭痛に陥れていた。
「はあっ……はあっ……」
何とかしなくてはと思うが、今の壮汰には何かを考えている余裕などなかった。この激痛のあまり、再び絶叫しないようにと自分を抑えるので精一杯なのだ。
「そ、壮汰様!!」
「御無事か?!!」
突然、壮汰の居る部屋の障子が開け放たれた。同時に何人もの家臣達が入ってくる。その中には秀治も居た。
「壮汰様?……どうなされた」
「まさか先の絶叫は……」
家臣達は皆、壮汰に口々に話しかけてきた。だが、それらはどの声も壮汰の脳裏に酷く反響する。壮汰の頭痛はどんどん悪化していくばかりだった。
「はあっ……はあつ、いっ!!!」
壮汰がうずくまったまま何も言わないので、家臣達はいぶかしがって首をかしげた。
「壮汰様?」
一人の家臣が壮汰に近付こうとする。秀治だった。
「大丈夫ですか?」
秀治がこちらに向かって、心配そうに手をさしのべてくる。壮汰は咄嗟に叫んでいた。
「くっ、来るな!!!!」
秀治がびくっと肩を震わせた。壮汰は続けて言う。
「誰も……わたしに、近付くな!!」
空気がしんと静まり返った。家臣達も呆気に取られたのか、誰一人として口を開こうとしない。
「はあっ……はあっ…!!」
突如壮汰の体が激しく震え出した。
「うう、いっ!!!?」
秀治は壮汰に手をさしのべたまま、呆然とその場に立ち尽くしている。後ろの家臣達は恐れを成したのか、皆じりじりと後退りし出した。
「うううっ………」
壮汰の口から声が漏れ始める。
「ひっ……」
家臣達の中から小さな悲鳴が上がった。
『クスクスクス……』
『クスクス……』
頭の中の不気味な笑い声は、耳が割れる程にまで大きくなっていた。それは少しずつ壮汰の理性を蝕んでゆく。
「にっ、逃げろ!!!」
家臣の誰かが叫んだ。
それと同時に壮汰は絶叫する。
「ぐあああああああああっ!!!!」
そして顔を上げると、怯える家臣達をギッと睨みつけた。
「う、うわあああっ!!!」
家臣達が我先にと廊下に飛び出し始める。
「秀治、何をしている!」
「あ………」
秀治も手を引かれて行ってしまった。
「はあっ、はあっ……」
部屋には壮汰の荒い息使い以外、何も聞こえなくなった。
全然更新出来なくて、本当に申し訳ありません。
切支丹物語はきちんと時間をとって更新したいのです。最近本当に忙しくて;
でも、放置する気など皆無なので、これからも更新は必ずします!
頭の上で縛った少し短い黒髪に、武士の子の服装。
壮汰は自分の部屋で鏡の前に立ち、そんな自分の姿を見つめていた。
「・・・・まだ残ってる」
首に手を当て、ため息をつく。昨晩の様に首に痛みが走る事はなくなった。だが確かにあの不気味な紫色をした痣はそこにあり、あの出来事が夢などではないと壮汰に思い知らせる。
「・・・・」
壮汰は無言になり、その場に立ち尽くしていた。今は何も考えたくなかったが、そんな訳にもいかない。目を閉じてみれば、不安が波の様に押し寄せて来る。
昨晩絶叫した事について、何と言い訳したら良いのだろう。
家人らにはもう広まってしまったのか?
これでより一層、自分に対して家来達は怯える様になる。
いや、それ以前にまず、この痣を一体どう隠したらいい?
「デウス様・・・・」
壮汰は呟いて、机の前までふらふらと移動した。そして力が抜けたかのように、その場に座り込む。
「デウス様・・・・」
もう一度呟いた。机の上に置かれた金属の十字架を見る。障子から漏れてきた朝日が反射して、それは輝いて見えた。
「・・・・助けてください」
声が震えるのを感じる。ふと気が付けば、壮汰は涙を流していた。
「――――っ」
十字架を掴み、しっかりと握りしめる。そしてとうとう堪え切れず、壮汰は声を押し殺して泣き始めた。
「グスッ、ううっ・・・う」
壮汰はそうして長い間、座り込んだまま動こうとしなかった。
「はあっ、っ・・・」
泣いた事で、少し気持ちが落ち着いたのかもしれない。壮汰は掌で涙を乱暴に擦った。そして十字架を元の机の上に置く。
「わたしは、精いっぱい生きて見せます」
そう呟くと、壮汰は立ち上がった。その場で大きく呼吸を繰り返す。そうしていると、だんだん頭も冴えてくるものだ。
「そうだ」
壮汰はぱんっと手を叩き、部屋に置かれた葛篭に駆け寄った。そして勢いよく中身を漁り始める。
「あった!」
壮汰が取り出したのは、飴色の羽織だった。早速鏡の前に行き、身に着ける。
壮汰には一回りも二回りも大きな羽織だった。まっすぐ立つと、羽織の先が床についてしまい、それでも尚余る程である。
裏側胸部に紐があったので、それを首に巻き付けてみると、羽織がずり落ちにくくなった。
紐でしっかりと体に固定されたので、羽織に腕は通さない事にした。
こんなものが一体何故自分の葛篭に入っていたのか、壮汰は知らない。だが、あったのだから利用させて頂くまでである。
壮汰は首が隠れる位置まで、羽織をしっかりとかき上げた。そして鏡の前でくるりと回ってみる。
「よし」
壮汰は頷いた。
そして覚悟を決めたかの様にもう一度深く頷き、部屋の障子を開けたのだった。
「そ、う、たっ!!!!」
「うわっ?!」
広間を目指そうと腹を決めた壮汰だったが、勢い良く廊下に出て、角を一つ曲がった所で誰かに思いっきり突き飛ばされた。尻もちをついて見上げると、そこには佐吉が立って居る。
「佐吉兄様?」
壮汰は驚いて思わず変な声を出してしまった。
「お、お前…昨日の絶叫はどうしたの?!…何があったの?」
佐吉の声は震え、最後の方がうわずっていた。
「その、悪い夢をみたんだ。それで…」
壮汰は佐吉に疲れた様な笑顔を見せる。そしてそのまま立ち上がろうとした。だがその時、先程羽織ったばかりの、ちょっと長すぎる羽織の先を踏んでしまった。
「うわっ!!」
壮汰は足を滑らせた。悲鳴をあげ、再びその場に尻もちをつく。
「いった・・・・」
佐吉は一瞬呆気に取られていたが、次の瞬間ぷっと噴き出した。
「あははははっ!!」
「うー・・・・」
自分を指さし大爆笑する佐吉を見て、壮汰は頬を膨らませる。
「あはは・・・、あれ?そういえばそれ何?」
そこで佐吉はようやく壮汰の羽織に気付いた様で、笑うのを止めてこう訊ねてきた。
「あ、う・・・ん。寒くてさ」
びくっと顔をこわばらせた壮汰だったが、何とか答えて、首に羽織をかき上げる。佐吉は壮汰の羽織を特に気にした様子もなく、思い出したように突然話題を変えてきた。
「あ、そうそう、そんなことより広間に皆が集まってるよ。兄上も秀治も居る。二人とも心配してた。俺は我慢できなくて、ここまで来ちゃったけど」
「ひでも?」
壮汰には意外だった。昨夜家臣達に怒鳴り散らしてしまったので、秀治はもう自分を見限ったかと思っていたのだ。
「すぐ行くよ」
壮汰は急いで広間に向かおうとしたが、後ろから佐吉の声が待ってと言った。
「壮汰。あの陰気な家臣共に、どんな目で見られようが気にするんじゃないよ」
壮汰が顔だけ振り向くと、佐吉の少し大きな目が、真剣なまなざしでこちらを見ていた。
「うん」
壮汰は深く頷き、広間へとった向かったのだった。
この小説を読んでなんとなくだけど主の好みが分かったような気がした
115:のん◆Qg age:2015/11/15(日) 19:34 ID:NSs 二十二
壮汰はゆっくりと広間の障子を開けた。中に入ったのだが、集まっていた家人らや家臣達の中に壮汰に気付いた者は居なかった。皆近くに座っている者と顔を見合わせ、深刻そうな顔つきで何か話し合っている。
「あの」
壮汰は思わず大きな声を出した。途端、幾つもの視線がこちらに向けられる。
「そ、壮汰様!」
「お怪我はありませんか?」
何人かが、席を立って壮汰に声をかけてきた。昨夜の壮汰を見ていない家人らだ。
「まあまあ、顔色がとても悪いじゃないの!」
家人の一人が壮汰の顔を覗き込んでこう言った。他の者も壮汰の顔を見て、ああ本当にと頷く。
「各々方、待たれよ!」
壮汰も何か言おうとしたのだが、一人の武士が突然大声をあげたので、それに驚いて出かけた声を呑み込んでしまった。皆、壮汰から今大声をあげた武士の方へと視線を移す。
その武士の顔を見て、壮汰はすぐに彼が誰だか分かった。野中斉造という、喜内家古参の家臣だ。歳にして五十程。茂吉に絶大な信頼を置かれているため、菅昌は彼に頭が上がらなかった。喜内家の重鎮といってもよい。
壮汰はこの家臣に会うたびに睨まれており、いつも怯えていた。斉造の前では恐しくて口も開けぬ程だ。
斉造は皆の視線が自分に集まったのを確認すると、ゆっくりと立ち上がった。そして壮汰の方を向く。壮汰は足がすくんで動けなくなった。
「壮汰様」
斉造が重い声で壮汰に話しかける。
「はい」
壮汰は掠れる声で返事をした。
「昨晩は一体何に怯えていらしたのか?あの様な絶叫を出す程に」
斉造の率直すぎる詰問だった。こう問われれば、もう誤魔化しようもない。壮汰は回りくどい言い訳をして話題を反らしていくつもりだったのだが、それを諦めなければならなくなった。覚悟を決めて斉造を見、小さな声で答える。
「その……。悪夢をみました。それはとても酷く、また、とても恐ろしいものでした。それで、跳ね起きて、思わず絶叫してしまったのです」
「悪夢?」
壮汰の答えを聞いた途端、皆の間で大きなざわめきが起こった。
「………悪夢であんな人騒がせな絶叫を?」
「ふざけるなよ………」
家来達の間から、壮汰を非難する声が次々に聞こえてくる。壮汰はぎゅっと目を瞑った。
「悪夢とその大きな羽織は、何か関係でもあるのだろうか?」
斉造は怒りで少し赤くなった顔を壮汰に向け、今度はこう尋ねてきた。壮汰はもう逃げ出してしまいたかった。
「これは………とても寒くて。震えが止まらないのです」
実際壮汰は震えていた。皆が自分の首の痣を見ている様な気がして、とても恐ろしくなったのだ。壮汰は羽織を首元に引っ張りあげた。そしてうつ向き、最後に言う。
「わたしの事は………大丈夫なのです。構わないでください」
もう限界だった。これ以上皆の視線を浴びていたら、おかしくなりそうだ。
「仰るのならば。…では皆、静まれ!」
もっと問い出されるかと思っていたのに、斉造は意外にもすぐに話題を切り替えた。先程見えた怒りの表情はなくなっていた。
「先に島原城にお出掛けになったまま、もう五ヶ月以上もお戻りにならぬ茂吉様や菅昌様についてだが……」
壮汰は安堵のあまり全身の力が抜けて、その場に座り込んでしまった。
なんとかこの場は切り抜ける事が出来たが、これからの家来達の態度には覚悟せねばならないだろう。
そう思った。
「壮汰!」
広間の集まりが解散となり、皆が広間から退散している時、壮汰は背中から声をかけられた。振り向くと、智純ではないか。
「智純兄様……」
壮汰は言って、涙が出そうになった。智純がそんな壮汰を見て、ゆっくりとした口調でたずねる。
「大事はないか」
壮汰は頷いた。そして口を開く。
「わたしは……わたしは……ひとり、でしょうか?」
誰に問うたのか、自分でも分からなかった。智純は自分が聞かれたと思ったのだろう。
「一人ではない。私が居る」
はっきりと答えた。
「………うん」
壮汰は堪えきれず、智純にじゃあ、と言って自分の部屋に戻った。
「壮汰殿!!」
「あ・・・・」
十日後ようやく秀治に会えた時、壮汰はもう溢れる涙を止める事が出来なかった。思いっきり秀治に抱き着くと、目頭が熱くなるのを感じた。必死で声の震えをおさえようとしたけれど、どうしてやはり発する声は震えてしまっているのだった。
「ち、違うんだ!・・・皆はあれをただの悪夢と言うが・・・わ、わたしは・・・とても、その様には・・」
それから大きく息を吸って、再び続ける。
「なぜだ・・・なぜわたしだけこんな風に嫌われて・・・恐れられて、わたしは、もう・・・」
「壮汰殿」
秀治は壮汰の言葉を遮り、優しく言った。
「あなたは、たくさん我慢なさってきたんでしょう?不安も、恐怖も、私は決して軽んじたりしません」
そして壮汰の頭をそっと撫でる。
「・・・っ」
壮汰はその感触に驚いて一瞬目を見開き、次の瞬間とうとう声をあげて泣き出した。
「うあああああぁぁぁぁ・・・ん!!」
不安も、悲しみも、怒りも、恐怖も、全てこの泣き声と共に体の内から流れ出ている様だった。誰かの前でこんなに泣いたのは、一体いつぶりだっただろう。
「うあああああああ・・・ゲホッ!ゲホッ!」
壮汰は感情のままに泣き続け、途中で何度か咳き込んだが、それでも尚声を張り上げて泣き続けた。
「大丈夫、大丈夫」
秀治はその間ずっとそう呟いて、壮汰の頭を撫でていた。
「ゲホッ、ゲホッ・・・」
しばらく泣いたので、少し落ち着きを取り戻せたのかもしれない。壮汰は秀治から身を離し、手でごしごしと涙を拭った。そして照れくさそうに笑って見せる。
「ごめんね、ひで。赤子じゃあるまいに。佐吉兄様に見られたらまた爆笑されるよ。周りに人が居なくて良かった」
秀治は頷いて、にっこりと笑い返してきた。
「感情に飲み込まれそうになる時など、誰にだってあるものです」
その笑顔を見て、壮汰は前から疑問に思い、また心配していた事を訊ねてみた。
「わたしは絶叫したあの夜、そなたに酷い態度を取った記憶がある。その事を怒ってはいないのか」
すると秀治、思い出す様に額に指を当て少しの間黙っていたが、すぐに顔を上げて言った。
「そんな事ありましたっけ?忘れてしまいました」
そしてまたにこっと笑う。
壮汰は心のつっかえが少しだけ取れたのを感じた。
ひではみづきに似ている所が多くあるな。
安堵のため息を吐くと、こうも思った。
「…………痛っ!!!?」
突然首筋に鋭い痛みを感じて、壮汰は布団から跳ね起きた。小さくうめき声をあげながら、首を押さえてうずくまる。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
必死で呼吸を整えようとしたが、無駄だった。気持ちを落ち着けようとすればする程、吐く息は益々荒くなっていく。なんとか鏡の前まで移動して、そこに写し出された自分の姿を見た。またかと思う。不気味な紫色をした痣が、確かにそこにはあった。
こんな風に夜目を覚ますのも、もう一体何度目だろう。
壮汰は布団に潜り込んで息を押し殺し、いつもの通りこの激痛が治まるのをじっと待った。
絶叫したあの夜からもう幾日も経つ。あれからずっと、この首の痣の激痛が壮汰をさい悩ませていた。
壮汰も最初は、この激痛はその内治まるだろうと思っていた。
普通の痣だって三日もすればきれいさっぱり消えてしまう。何でもない事だ。
でも今は違う。激痛は何日経っても少しも治まる事はなかった。かえって酷くなった気もする。
『呪われ続けるのだ』
痛みが襲ってくる度に、壮汰の脳裏では夢に出てきたあの女の言葉がよみがえった。自分を嘲る様なあの顔。思い出してはぶんぶんと首を横に振ってそれを頭からかき消した。
家臣達や家人らと居る時に激痛を感じた事もあった。額に汗が浮かんだが、構わずいつもの様に振る舞った。
その甲斐もあって、家臣達や家人らはまだこの痣には気付いていない様だ。というより、皆壮汰がいつも身に付けている、不自然な程大きなこの羽織に目がいくのだろう。きっと。それならそれで壮汰は良かった。不気味な痣に気付かれ、更に噂されるよりはずっと良い。
ただ秀治や智純、佐吉は、壮汰の変化をもう感じているかもしれなかった。
秀治の前ではついこの前あんな風に泣き出してしまったが、秀治はその時この痣に気付いただろうか。
壮汰は不安でならなかった。
三日前、智純と佐吉と共に剣の稽古をしていた時の事もだ。
突然激痛が首筋に走って、そのあまりの痛さに壮汰は木刀を取り落としてしまった。智純や佐吉がこちらを振り返って、驚きの表情を浮かべたのをよく覚えている。あの時の二人の視線は、この首の痣にいっただろうか。
壮汰はそういう時、すぐに羽織を首元に引っ張り上げては無理矢理作り笑いを浮かべて見せるのだった。
爺様や義父上様はまだ帰られないのか。
『次はお前の近くだぞ』
女の声がこう脳裏に響くと、壮汰はもう不安で不安で仕方がなくなってくる。
今は大晦日の五日前。茂吉と菅昌はまだ帰って来ない。
二十三
その日も家人らや家臣達が皆広間に集まって、まだ帰って来ない茂吉と菅昌の事について話し合っていた。
もう師走の初めから、毎日のようにこんな話し合いが続けられている。それでこちらが少しでも情報を掴めたかと言えば、情報どころか二人の安否すら確認出来ていない状況だった。今日は大晦日の三日前だ。
壮汰も立場上一応参加はしていたが、積極的に発言するなどといった事はもちろんなく、ただぼうっと佐吉の隣に座って次々と交わされる声を聞き流していた。そして頭の中で、最近読んだ書物の文を暗記しているのであった。自分が発言するだなんて事はもちろん無いが、仮にあったとして、その途中であの首の激痛が襲ってきたら…と思うと、本当はこの広間にすら顔を出したくないところなのだ。実際こういった話し合いの時に何度か激痛を感じた事もある。
だから壮汰はその日も黙って自分の膝に視線を落としていた。
それでも退屈したので、ふと向かい側に座る智純に目をやると、智純は真剣な表情をして左右の家臣達の話に耳を傾けていた。時折自身も何か言葉を挟みながら、盛んに古参の家臣達に意見を求めている。
最近智純は、陰気で噂好きだと評してあれ程嫌っていた家臣達に、自分から話しかけていっては学問の質問をしたり、彼らの経験話などをどんどん訊ねたりするようになっていた。
壮汰がその訳を本人に訊ねてみると、
「そろそろ、私もしっかりしなくてはな」
と言って、少し照れくさそうに笑うのだ。
ああ、すごいなと思った。自分と違って智純は変わろうとしている。きちんと自身の節目を考えていた智純に、壮汰は素直な尊敬の念を抱いた。
同時に、自分はどうなのだろうと思う。自分はいつか変われるのだろうか。こんな風に何事も後ろ向きに考えてしまう自分と智純は、やはり違う人間同士なのだろうか……。
智純の姿を見つめながらここまで考えて、こんな考え方をする自分が嫌になった。少しでも無心になろうとしたが、やり場の無い不安に押し潰されそうになる。堪えきれず壮汰は視線を隣の佐吉に移した。
「つまらないなぁ……本当。こういう集まりって……。こんな所に座ってる暇があったら、部屋でゆっくり昼寝でもしたいよ……」
先程と変わらず、口の中で何かぶつぶつと呟きながら、佐吉は退屈そうに自分の手を見つめていた。
こんな風に強がって見せているが、佐吉だって自分の祖父と父の身をとても案じているのだ。それは壮汰も分かっていた。
一体いつまでこんな話し合いが続くのか。
そう考えながら壮汰が視線を広間の障子に上げた時。
たくさんの声に混じって、ドタドタと廊下を駆けてこちらにやって来る足音が聞こえた。
あれっと思った次の瞬間、広間の障子が勢い良く開け放たれた。
「たっ、大変だ!!!!!!」
怒鳴り声と共に広間に転がり込んで来たその男は、一月程前に皆に見送られて島原城に遣いに行った喜内家の家臣ではないか。
「なっ、何だ!!!?」
「あれは橋場ではないか!!!」
「とうとうこちらからの使者が帰って来た!!」
その家臣に向けて様々な言葉が投げつけられたが、家臣は激しく首を振ってそれらを一蹴し、再び怒鳴った。
「それどころではない!!!!そんな事はどうでもよい!!もっ、茂吉様が……」
屋敷が突然音をなくしたかの様に、辺りはしんと静まり返った。
橋場が皆に告げたのは、茂吉が重い病にかかってしまったという報せだった。茂吉は島原城に着いて間もなく、吐血して畳に倒れ込んだという。急いで医者に見せたが、黙って首を横に振られた。諦めずに何人もの医者を呼んだが、この辺りの医者をもってしても茂吉の病は治せなかったのだ。
容態は悪化の一途を辿った。日に日に頬は痩せこけてゆき、何度も嘔吐を繰り返す。遂には飯も喉を通らなくなってしまった。
病に伏せて二月もする頃には、茂吉はもう人が変わった様にほとんど口を聞かなくなってしまったという。側に居た家臣達だって、すぐにでも茂吉を喜内家の屋敷に戻してやりたかった。だが茂吉の容態があまりにも酷いため、外に連れ出した瞬間息絶えてしまうのではないかと恐れた。そんな風に迷っている間にも月日はどんどん過ぎてゆき、結局茂吉を屋敷に戻してやる事は出来なかったのだ。
そしてとうとう五日前、医者が余命十日未満の宣告を出した。茂吉は必死でせめて自分の屋敷で死にたいと家臣達に訴えたという。家臣達はそれを断る事が出来なかった。
「茂吉様は今何処にいらっしゃるのだ!」
すぐさま斉造が橋場に問うた。
「茂吉様一行が島原城を発ったのはつい三日前です。私は急ぎ先に走ってここに報せに参りました」
橋場に質問しようと口を開きかけた他の者達を片手を振って黙らせ、斉造は怒りの表情で橋場を睨み付けた。
「何故、菅昌様は…… 何故お前達は、それを直に我らに報せなかった?こちらには一人の使者も来ておらぬのだぞ!!!!」
その怒鳴り声の迫力に、皆首をすくめて背筋を正した。だが橋場はそうではなく、逆に悔しさをありありと顔に浮かべて真っ直ぐに斉造を睨み返した。
「何故報せなかったですと?これは心外。菅昌様は常時茂吉様に付いて看病なさっており、一番そのご容態を案じておられました。私共だって、何人もそちらに遣いを出したのですぞ」
「では何故こちらに来ておらんのだ!!」
橋場はうつ向き、吐き出す様に言った。
「山賊でございます」
「山賊だと?」
不安気に顔を見合わせる家人らを見回して、橋場は続けた。
「島原からこの屋敷までの道筋で、屋敷まで後十里、という所に峠があります。そこに賊が出るのです」
「も、茂吉様はそんな所をお通りになるのか!!!?」
斉造は焦って橋場に詰め寄ったが、彼は落ち着き払って答えた。
「賊共が襲うのは農民や旅人、または一人で通る身分の低そうな役人などです。家来が何人か着き従う茂吉様ご一行が狙われる事は、まずないでしょう。………ただ」
橋場は一旦言葉を切り、自分の足元を睨み付けて続けた。
「私の仲間は……この屋敷に遣いに出された者達は、皆奴らになぶり殺しにされました。何分あちらに居た家臣達は数少なく、忙しく働いておりました故。人手も足らず、屋敷への使者になるというのはまさに命懸けの事でした。それを引き受けた勇士達の命は、一体何だったのか……。せめて一度に二人だったのならば」
「何故お主は無事なのか」
その問いに橋場は顔を上げ、疲れた様な笑顔を見せた。
「私は元々体術に優れておりましたので。賊の目をなんとかかい潜る事が出来ました」
その話を、今まで腕を組んで聞いていた睦英という名の家臣がゆっくりと口を開いた。
「何故藩主様は、その賊共を討伐してくださらぬのだ」
すると橋場、口ごもってしばらく考えた後、言葉を濁らせて答えた。
「その山賊は、言わば藩主様の配下の様なものなのです。奴らは年貢が納めきれなくなった村を襲い、そこから有る限りの財を盗んでいくと聞きます。これに藩主様は黙認していると……」
再び屋敷は静まり返った。
だがやがてひとりふたりと席を立ち始め、皆は茂吉を出迎える支度をし出したのだった。
茂吉一行が喜内家の屋敷に帰って来たのは、結局翌日の早朝だった。
屋敷の者ら全員で出迎えた。
壮汰も茂吉帰還を知らされるやいなやすぐに屋敷の外へと駆け着けたのだが、その時にはもうほとんどの家人らが固い表情で門前に並んでいた。
彼らが固唾をのんで見つめる先には、少し立派な籠がある。その中から数人の家臣達に助けられ、よろよろと姿を現したのは……。
「も、茂吉様……」
誰よりも先に斉造が籠の前に進み出た。茂吉は両肩を支えられてぐったりとしていたが、斉造の声に気付くとゆっくり顔を上げた。
「み…皆…心配かけたな……悪かった」
そして苦しそうな笑顔を見せる。その顔を見て、皆は愕然とした。頬は痩せこけ、目元には隈が浮かび上がっている。また髪はより一層白くなって、茂吉がどれだけ苦しんだかがよく分かった。
「よくぞ御無事で…!!!」
斉造はきつく目を瞑って声を絞り出した。茂吉は頷き、皆の顔を見回すと無理をした明るい声を出した。
「まったく…わしは一体何度死んだか分からんぞ」
しかしその後激しく咳き込んだため、慌てて家来達に屋敷へと運び込まれていった。
「………すまなかった」
茂吉が居なくなってしばらくして、菅昌が皆の前で深々と頭を下げた。久しぶりに見る菅昌もげっそりとやつれて、その疲労がうかがえた。
「な、何をなさるか!早く頭をお上げに……」
「私の責だ」
止めにかかった家臣達の言葉を遮って、菅昌は続ける。
「父上は、後三日も生きられるかどうか分からない身であらせられる。どうか皆…私の事は気にせず、父上を見守ってやってほしい」
そして頭を上げた。
皆は言葉を失って、ただ頷くのみであった。
二十四
壮汰はその夜部屋で一人、十字架が置かれた机の前に正座して考えていた。茂吉の咳が静まり返った屋敷に酷く響いている。
あれから茂吉は自分の部屋に運ばれてすぐに寝込んでしまった。医者が絶対安静を言い渡したので、今日は誰一人茂吉との面会は叶わなかった。
蝋燭の小さな灯りを見つめていると、ふいにある言葉が壮汰の頭をよぎった。
『次はお前の近くだぞ』
夢の中で、女が言った言葉だ。壮汰は首に手を当てた。そういえば今日は一度もこの痣が痛む事はなかった。そっと羽織をずらして鏡の前に立つと、やはり痣はそこにある。もう一生消えないのではないかと思った。改めて十字架の前に座る。
自分がずっと感じていた不吉な予感が、とうとう当たってしまった。茂吉は後三日も生きられるか分からぬ容態だ。
自分の手に目を落としていると、様々な思いが浮かんでくる。
思い返せば壮汰が喜内家の養子になれたのは、茂吉が皆に強く自分を薦めてくれたからだ。茂吉が居なかったら自分は浪人になっていた。また、全く馴染めなかったここでの生活も、茂吉が不安を笑い飛ばすように強く居てくれたから、今ではもうすっかり居心地がよくなった。家人らとの親睦も深まりつつある。ようやく自分がひとりではないと思えてきたところなのだ。
茂吉が死んだら、大事な人を一人失う事になる。
ここまで考えて、壮汰はようやく大事な人が死ぬ時感じた感情を思い出した。まだ歩けもしない頃から約二年あまり自分の世話をしてくれた、あの光月が死んだ時はどうだっただろう。あの頃は大人達の喋っている言葉をほとんど分かっていなかった。ただ、光月が病にかかってすぐに死んでしまったという事は覚えている。あの時壮汰は一日に二度も泣いた。悲しかったのだ。そういえば、涙というものを教えてくれたのは光月だ。光月が壮汰の基礎を作ってくれた。
「嬉しくて泣いた事は、未だに無いな……」
誰に言うでもなく、壮汰は呟いた。
茂吉の病気も、『呪われている』と噂される自分が招いた災なのだろうか。少なくとも、家臣達はそう思うだろう。光月が死んだ時も、あの医者が死んだ時も、壮汰が呪われているせいだと言われたのだ。
「わたしのせいか………」
あの悪夢の中での事を思い出すと、そうとしか思えなかった。自分に向けられた恨みの数に、背筋が震える。考える程に、壮汰には自分という存在が分からなくなってきた。
自分が茂吉にしてやった事といったら、なんだろう。壮汰は思いつかなかった。これからの三日あまり、茂吉の顔をまともに見られそうにない。
「デウス様……」
壮汰は両手を組んで十字架に祈った。きつく目を閉じる。
「どうか……義祖父様をお救いください。義祖父様の重病が、自分のせいだと思うだけで、わたしは……」
言葉が続かない。壮汰は目を開かず、じっと蝋が燃える音を聞いていた。そしてとうとう、溜めていた思いを吐き出す様に言った。
「わたしは……おかしくなってしまいそうです」
壮汰が布団に入ってからも茂吉の咳は絶える事なく聞こえていた。
壮汰は眠れず、何度も寝返りをうってその夜を過ごした。
翌日の昼頃、壮汰は佐吉と共に茂吉の部屋を訪れた。本当は朝すぐにでも会って話をしたかったのだが、茂吉の意識が怪しい時が増えたため時間を推し量らなければならなかった。壮汰達の後には古参の家臣達もぞくぞくと面会に来るので、茂吉とゆっくり話せる時間は短い。
「失礼します」
二人声を合わせて言った後、佐吉が部屋の障子を開けた。
「……っ!?」
壮汰も中に入ろうとしたが、隣で声があがったので足を止めた。佐吉を見ると、驚きの表情を浮かべ前を見つめている。壮汰も訝しがってその視線の先に目をやった。
部屋の中央には茂吉が布団に横たわっていた。だがその目には、以前ほどではないが確かな輝きがあり、枕元に正座する人物をしっかりと見上げていた。その人物はなんと智純ではないか。
「……智純兄様」
思わず目を見開いてしまう。佐吉と同じくらい驚いた。
主が松葉杖使用中につき、更新が大変遅れて申し訳ございません…m(_ _;;)m
124:猫又◆Pw:2016/01/16(土) 15:36 ID:LjE 大丈夫ですか……?
更新お待ちしてますので、無理せずに頑張ってくださーい。では、
「……は赤松に任せてある。何かあったら奴に頼め」
「はい」
「それから算段は……」
二人は何か真剣に話し合っている様子で、入り口に突っ立っているこちらには気付きもしていないようだった。
佐吉と壮汰は黙ったまま、しばらくその光景を眺めていた。
「では、交渉はどうなるのですか」
「ああ、それは斉造がやってくれる。まあとにかく重要な仕事は、斉造か陸英、もしくは宰門に任せる事だ」
智純は茂吉の言葉に何度も頷き、また質問したりしている。
その横顔を見つめていると、壮汰は急に智純が大人になってしまったように感じた。そういえば智純はもう十四になるのだ。一人前とはまだ言いがたいが、もう十分に大人と渡り合える歳である。
一方で、初めて感じた不安もあった。智純、佐吉兄弟が大人になって、自分だけがその成長から取り残されるのではないかと思ったのである。どうにも耐えられなくなって、隣の佐吉にちらりと視線を移した。すると佐吉も気付いて、こちらを振り向いてくる。
「……?どうした?壮汰」
壮汰は何でもないと小さく答えた。そして佐吉の顔を見てみると、はっきり幼さがあったので安心して息をついた。この大きな目に落ち着けたのは、今日が初めてかもしれない。どうかそのままで居てねと心の中で呟いた。
「……智純。お前は長男だ。それを忘れず、菅昌を支えて喜内家を守れよ」
「はい。何も心配する事はありません。私には出来ます」
智純が、茂吉に笑顔を見せたような気がした。茂吉は満足そうに頷いた後、ふと視線を入り口に向けた。そこでようやくこちらに気付いた様で、驚きながらも半身を起こした。
「おおっ、佐吉に壮汰ではないか!何故そんな所で突っ立っておる、早くこっちに来んか!」
佐吉と壮汰はびくっと肩を震わせ、お互い顔を見合わせた。そして恐る恐る足を踏み出す。
「……では、私はこれで」
智純はそう言って立ち上がると、入り口に向かって歩き始めた。だが二人の前まで来ると足を止めた。短い髪を整える様に撫で付け、口を開く。
「…佐吉、壮汰。どうかあの人を……元気付けてやってほしい」
智純が泣きそうな顔をしている。壮汰は驚いた。佐吉も返す言葉を失っている。三人はしばし無言で立ち止まっていた。だが智純は足早に二人の前を歩き去り、失礼しましたと言って部屋を出て行ってしまった。
後には呆然とした佐吉と壮汰が残された。
>>猫又様
だ、大丈夫です、なんとかL(^^;;)
ご心配おかけして申し訳ありません;;
頑張りますので、これからもよろしくお願いしますm(_ _)m
二十五
壮汰は佐吉と並んで茂吉の枕元に正座し、黙って視線を畳に落とした。
それからしばらく誰かが口を開くのを待ってみたが、誰も言葉を発さない。佐吉は肩を震わせて口を結び、茂吉は部屋の障子に目をやっている。しばらくの沈黙が訪れた。
光月が死んだ時も、こんな風に枕元に座っていたな。
静寂の中、壮汰は光月の事を思い出していた。
光月は突然倒れてしまった。それまでは病に悩まされている気配など全く感じられなかったから、壮汰にとっては本当に突然の事だった。それでも光月は壮汰の知らない所でずっと我慢していたのだ。あの時の自分は事態をよく分かっていなかった。医者の言葉も、光月の言葉もよく分かっていなかった。
そういえば、「死ぬ」という事だってよく分かっていなかった。ああそうか、だからわたしは光月に……。
「お義祖父様、死ぬのですか」
それは考えるより先に壮汰の口から出た言葉だった。
「ちょっ!!?何言うんだよ!?」
佐吉がぎょっとしてこちらを振り向いてくる。だが不思議なことに、壮汰にはまずい事を言ったという気持ちはなかった。だから言い訳もせず、じっと茂吉の目を見つめてみる。
茂吉はうろたえたりしなかった。逆にそれを笑い飛ばして天を仰ぐ。
「いや、それがどうも死ぬらしいのだ!それも今日か明日の内にな!老いなどわしには無関係かと思っておったが、やはり過ぎる年月には勝てんのう」
茂吉があまりにも他人事のように言うので、壮汰はなんだかおかしくなった。佐吉も緊張が緩んだのか、表情がやわらかくなっている。
「ゲホッ、ゲホッ!!…うえぇい、なんと鬱とおしい咳だ、全く!!」
突如茂吉が激しく咳き込んだので、佐吉が慌てて身を乗り出し、その背中を叩いてやった。
「……っていうか、お祖父様、なんで起きてるんですか!早く寝てください!」
茂吉はまあいいからと言ってそれを制止し、わざとらしく顔を背けて重く呟く。
「まだ小さな子供の前では、病に屈しきったこの情けない姿を見られたくないのだ。だからせめてお前達二人の前だけでは、このままでいさせてくれ」
壮汰は先程の智純を見て、自分はまだ子供だと思い知ったので茂吉の煽りに腹は立たなかった。しかしなぜか佐吉が怒り出し、憤って立ち上がった。
「ち、小さな子供?!俺はもう十三になるの!!あ、じゃあほら、兄上は?!兄上だって子供でしょ?!!」
佐吉があまりにもむきになって言うので、壮汰はまたおかしくなった。吹き出しそうになるのを堪えてうつ向く。茂吉が愉快そうに首をかしげ、おやおやと言った。
「智純はもう立派な大人だぞ!証拠に、わしの前では少しも自分の気持ちを見せたりせんかった。…それに引き替え、佐吉、お前はどうだ!!」
「ううっ……」
その声に壮汰はぎょっとして隣を振り向いた。佐吉が涙を流している。茂吉がからかうように続けた。
「ほれほれ、やはり子供は涙を止められんのう!はっはっはっ」
「こ、これは違う!分かんないけど…勝手に目から出てくるんだ!!」
必死に否定する佐吉だが、対象的に涙は一向に止まっていない。
「わしにはしくしく泣いてるお前より、落ち着いておる壮汰の方がよっぽど大人に見えるわ!!」
茂吉はトドメとばかりに『大人』を強調して言った。佐吉がうっと半身をのけぞらせる。だがすぐに力を入れ直し、目から涙を飛ばしながらも負けずに言い返した。
「お祖父様のアホっ!!死なれる方の気持ちにもなってくれよ!!俺だって……」
一瞬言葉を詰まらせ、次の瞬間佐吉は声をあげて泣き出した。
「うっ、うわあああぁぁぁぁ…ん!!!」
おろおろするしかない壮汰の隣で、佐吉はそれこそ幼子のように顔を伏せてうずくまる。
「うああっ…ゲホッ、なんなんだよぉ!!」
「やれやれ」
茂吉は呆れ気味に、だが確かな愛情が感じられる声で言った。そして震える背中に手を置き、ぽんぽんと優しく叩いてやる。
「ほらほら、もう大丈夫、大丈夫だぞう」
「うわああああぁぁぁ…ん!!」
しかし泣き止む気配は全く無い。茂吉が困ったなという笑顔を壮汰に向けてきた。佐吉の背中を叩く手は止めず、目を細めてゆっくりと口を開く。
「壮汰」
唐突に名を呼ばれてたじろいだものの、壮汰は姿勢を正して返事をした。
「はい」
テスト期間なので、土曜に更新します!
申し訳ありませんm(_ _)mm(_ _)m
本当にすみません、明日更新します!
130:のん◆Qg age:2016/02/11(木) 23:54 ID:PAo 「……大きくなったなぁ」
茂吉はしばらく黙って壮汰の顔を見つめていたが、やがてしみじみと言った。
「えっ」
何と返したら良いのか分からず、壮汰は黙り込む。茂吉は本当だぞ?と面白そうに笑ってから、急に真面目な顔になった。
「なあ…壮汰。お前は将来どうしたい?ここを出て何家に仕えたいとか、思う事もあるのか」
突然な質問だった。だが何も答えない訳にもいかないので、畳に視線を落として壮汰はしばしの間考えた。
「………」
考えてはみたが、何も頭に浮かんでこない。
そもそも、わたしに将来というものはあるのだろうか。
まだ痛みがはっきり残る首筋に触れて、こうも思う。なんとなく、自分は大人になるまで生きられないような気がした。壮汰が長い間無言なので、茂吉がうーんと唸った。
「分からないか」
こくりと頷く。
「そうか…分からないよなぁ……まだ十もいかないしなぁ……」
茂吉の残念そうな顔を見ていたらなんだか申し訳なくなり、壮汰は小さく添えた。
「ごめんなさい……」
「いやいや、謝る事ではない!」
茂吉は笑って首を振ってから、相手をまだ泣き止まない佐吉に変え言った。
「こらこら、あんまり泣いてばかりい
ると、女子に全くもてなくなるぞ!」
するとすぐさま佐吉がばっと顔を上げ、食らいつく様に叫んだ。
「うええっ?!それは嫌だ!…っていうかいつも泣いてる訳じゃないし!それにっ!こっちはもう意地なんだよ!うわああぁぁん!!」
そして再びうずくまり泣き始める。泣くというより、もう叫んでいる様にしか聞こえなかった。だがその意地と大声のおかげで、壮汰達の会話は多分佐吉の耳に入っていないだろう。
どうしようもないヤツだなと笑って茂吉は佐吉の背を撫でる手を再開した。だがふと何か気が付いたかのように顔を上げ、あれ?と不思議そうな表情になる。
「そう言えば、壮汰。その羽織はなんだ?ちょっと大き過ぎじゃないか」
深い意味の無さそうなその声に、壮汰は何も言う事が出来なくなった。だがそれも一瞬で、次の瞬間には笑顔を作って頭に浮かんだ言葉を並べたてていた。
「はは…いや、ちょっと最近寒さが身に凍むもので。特に首が酷いのです。稽古の時には包帯を巻くようにしていますが……」
茂吉がじっと壮汰の目を見つめてくる。壮汰はもう痣の事を見破られたのではないかと思った。だが茂吉はそれについては何も言わず、ふっと息を吐き出した。
「壮汰。…智純や、佐吉は好きか」
「へっ?」
予想外の言葉だったので、つい間抜けな声出してしまう。
「あ、はい!両方、わたしの大好きな兄様です」
それでもこれは本心だったから、すぐに答える事が出来た。智純も、佐吉も、壮汰が見上げ、尊敬してきた義兄である。
「そうか……」
茂吉は口を緩めて笑った。少しの間何か考えるように喚き続ける佐吉に目を落とし、それからゆっくりと口を開く。
「わしはな…壮汰、お前をとても頼りにしている」
壮汰にはその言葉の意味がよく分からなかった。茂吉は顔を上げ、続ける。
「お前は勉学に天才的な才を持つし、剣術だって一生懸命励んでおる。自分の欲や感情を押さえ込む事が上手いし、何より精神が強い」
「ち、違う……」
思わず反射的に返していた。
「わたしは…そんなに強くありません」
茂吉はおやと不思議そうに
「どうしてそう思う?」
と訊ねた。
「だって…いつも泣いてばかりいるし、臆病だし…光月が死んだ時は、ひとりで生きていくって決めたくせに、誰かに頼ってばかりだし…わたしは、わたしはとても弱い人間です」
自分の中でずっと認めたくなかった思いが、いとも簡単に言葉となって出てくる。壮汰は言ってしまってから、ああ、自分は本当に弱い人間なんだなと思った。
「……そうかなぁ」
茂吉は呟いて、
「少なくとも、臆病者ではないと思うがなぁ」
と続ける。壮汰は黙ってうつ向いた。
そんな壮汰の様子を見て茂吉は、どうも納得していないなぁと笑った。
「…では、どうして私が臆病ではないとお思いですか」
壮汰は顔を上げなかった。こっちは真剣なんだと言いたいのを我慢して問う。それでも、むすっとした表情は隠せなかった。その顔のまま相手を見ると、茂吉はん?と首をかしげていて、当然の事の様に答えてきた。
「どうしてって…お前は今、こうして喜内家で立派に生きておるではないか」
「ええっ?!」
すぐに抗議しようとしたが、茂吉に片手で制されてしまう。
「あー、言いたい事は分かっておる!どうせ、『立派になど生きていませんっ!!』だろう」
図星なので何も言えなかった。茂吉は首を振って、
「何もそこまで卑屈にならずともよかろうに」
と言った。壮汰は黙ったまま、自分の膝に両手を置く。
「お前は必死に否定するがなあ、壮汰。これでもわしは孫をしっかり見守っておるのだぞ?」
茂吉はそこで言葉を切って、壮汰がうつ向いたままなのを見、再び続けた。
「お前がどれ程努力しているのかも、ちゃんと知っておる」
壮汰はいつの間にか、茂吉の声に涙を浮かべていた。なぜ涙が流れそうなのか、今の自分の感情がよく分からなかった。
「お前の一番の長所は、何事にも懸命になれるという事と、常に向上心を持っているという事だ。学問にも剣術にも必死に取り組むお前の姿を見て、壮汰は必ずや名士になるに違いないと、わしは常々思う」
「わたしの…長所」
思わず声を漏らした。ゆっくり顔を上げて見ると、茂吉は笑顔だった。
「ああ、そうだ。お前の長所は、十分に誇りを持って良いものだぞ」
「……誇り」
それは、壮汰が初めて深く考えようとした言葉だった。そもそもの事、壮汰は今まで自分に誇りというものを持った事がなかった。いつも物事を卑屈に考え、気分をずんと落ち込ませてきたせいだ。表に表さない事もあるが、心のどこかしらでは、自分は何をやっても中途半端にしかいかない、とても弱くて呪われた人間だと、いつも思っていた。
「ああ、誇りだ。壮汰、自信を持て!胸を張って生きろ。お前は弱い人間ではない!このわしが保証する!!」
茂吉は重ねて頷き、佐吉の背を叩いていない片方の手で、くしゃっと壮汰の頭を撫でた。
「あっ……」
壮汰はもう溢れる涙を止める事が出来なかった。今まで正体が分からなかった感情が大きな悲しみであったという事を知ったと同時に、喉を伝ってこんな言葉が出てきた。
「義祖父様…死んじゃ嫌だ…死んじゃ嫌だよ」
茂吉は一瞬驚いた顔になり、それから諦める様に笑って首を振った。
「わしも死にたくはないんだが、これはもう寿命というものだ。今までよく健康でいれたものだと、笑って諦めるしかあるまい」
「………」
「…だからな壮汰。わしから一つ、お前に頼みがある」
突然の言葉に、今度は壮汰が驚いた。茂吉は壮汰を見据えてはっきりと言った。
「こんなどう仕様もないヤツらだが…壮汰。どうか智純と佐吉を支え、お前達三人で喜内を守ってほしい」
戸惑いもあったが、壮汰は答えを言う前に一呼吸おいてから訊ねた。
「それは、わたしにも…わたしも、出来るでしょうか」
「ああ、もちろんさ」
茂吉はしっかり頷いた。壮汰はそれでもう迷いがなくなったと、智純のまねを心がけてにこっと笑ってみせた。
「ならばわたしは、義祖父様の恩に報いてみせます。大丈夫です」
その返事を聞くと、茂吉はうんうんと首を縦に振り、満足そうに言った。
「何かあったら、智純や佐吉を頼れ。必ずお前の力となってくれるだろう」
そしてあっと気付いた様子で佐吉を見て、
「泣く事も、男になるためには必要な事だぞ。まあ、ここまでくるとため息もつきたくなるがな!」
と笑った。
結局、次の家臣達の面会の時間がくるまで佐吉は泣き止まなかった。おかげで壮汰は佐吉を引っ張って部屋から出ねばならず、大変痛い視線をいくつも感じた。
茂吉は壮汰が障子を閉めるまで、ずっと笑顔で手を振っていた。
二十六
医者が、茂吉が昏睡状態に陥ったと重々しく述べた。恐らく今夜から明日の朝にかけてが山だろうと言う。皆にこの事が告げられたのは、その日の夕頃であった。
今だ命を保っているのは奇跡だと医者が言ったので、斉造ら家臣はこれも茂吉の日頃の徳だろうと涙を流した。
何としても別れ際に立ち合わなくてはと、すぐに皆は茂吉の部屋に集まった。だが何しろ屋敷の者全員が立ったり座ったりしている訳なので、部屋の中は少しの間も無い程窮屈になる。壮汰も勿論その中に居た一人だった。
「ああ……」
誰もが呻き声をあげて見つめるのは、ぐったりと布団に横たわった茂吉である。壮汰は菅昌や智純、佐吉兄弟と共にそのすぐ側に正座していた。
昼とはうって変わって土の気色になった顔を見れば、茂吉が皆の前でどれ程我慢していたかが分かる。壮汰は無理をさせてしまった事を深く後悔した。同時に全くそれに気付かなかった自分に腹が立つ。
菅昌と智純は医者を手伝い、佐吉は声もなくただじっと茂吉の顔を見つめていた。家臣達も、古参の者から使い走りの下っ端の者までが黙ってその様子を見守っている。
部屋には重い静寂が漂い、医者の必死の看病の音のみが聞こえていた。
何時間経っただろう。
「……ご容態はどうなのだ」
睦英が口を開いた。息を荒くさせながら茂吉の腹部を押していた医者は、手を止め皆を振り返った。
「…なんとか方寸の音は続いております」
力なく言う。睦英はそうかと答え、うつ向いた。家人らの中にも何か出来る事はないかと進み出た者が居たが、医者は首を横に振った。これ以上は手の尽くし様が無いと付け足す。もう寿命なのだ。そうは分かっていても、壮汰は神に祈らずにはいられなかった。両手を組み、ひたすら呟く。
「デウス様…デウス様……お願いします。どうか、どうか…」
頭の中にあったのは、茂吉に死んでほしくないという思いだ。壮汰以外にも己の神に祈る仕草をしている者が何人も居た。
チュン、チュン、チチチ…
雀の声がした。ふと障子を見れば、そこから透けた光が部屋の中に射している。朝だ。朝になったのだ。先程まで壮汰は全く気付かなかった。
「朝………」
「では、もう茂吉様は」
そんな声が起こる。古参の家臣達は悔しさ溢れる声で呟いた。
「…最期に言葉をかわしたかった」
ぎゅっと、袖をつかまれた。驚いて壮汰が横を向くと、佐吉が居る。佐吉はうつ向いて、震えていた。
「そんな…嫌だ。喧嘩したまま終わるなんて……壮汰、俺…嫌だよぉ……」
涙をこぼしている。ぐっと何かが込み上げてきて、たまらず壮汰はそれを言葉で吐き出した。
「まだ亡くなられた訳じゃない…デウス様、せめて最期に……」
その時だった。
「佐吉…ははは……泣くな」
全員が驚いた。うつ向いていた者も一斉に顔を上げる。
それは確かに茂吉の声であった。
「お…お祖父様?」
佐吉も声を呑み込んで鼻をすすった。そのまま口をぱくぱく動かしているのだが、言葉になっていない。
「も、もっ、茂吉様!!!」
そんな佐吉を押し退け、斉造が勢いよく茂吉の前に出た。迫力の表情で迫る。
「ご気分は如何ですか!?」
「おいおい…斉造…いつもの事ながら…そんな恐ろしい顔で見るな。…咳の嵐を再発してしまうではないか」
茂吉の緊張感のあまり無い声で、皆は気が抜けた様にへたっと座り込んだ。
「全く……あなたというお人は」
泣きそうな顔で笑い、斉造が一歩退く。茂吉は皆を見渡しながら視線が自分に集まっているのを確認し、それからゆっくりと息を吐いた。
「見ての通りだが…わしはもう死ぬ様だ。実は…声を出すのも辛い。だからこの意識がはっきりしている内に、皆に遺しておくべき言葉がある。…聞いてくれ」
一同が深く頷く。茂吉は時々言葉を途切らせながら続けた。息をするのも辛そうに見えた。
「まず…菅昌。お前は喜内の頂点だ。よく自覚して、皆を導くように」
「…はい。どうかご安心を」
心強い表情の菅昌を見てふっと笑うと、茂吉は次に座している家臣や家人達に目を向けた。
「次に家臣や家人の皆。…どうかこれからも喜内に尽くし、仕えてほしい。菅昌には未熟な部分もまだあるが、決して愚な主ではないぞ。よろしくこれを支えて、忠義を示せよ」
彼らは大きく頷いた。古参の家臣らは涙を止められないまま、顎から垂れ流していた。
「睦英や宰門…昭佳に、斉造…お前達にはたくさん迷惑をかけたなあ…楽しかったあの頃を思い出す」
茂吉と古参の家臣らは、少しの間思い出話をして笑い合っていた。彼らの顔には一時的に若者の様な笑顔が浮かんでいた。
そして茂吉はくるりと振り返り、黙って自分を見つめている智純と視線を合わせた。
「智純」
「はい」
智純も応えて姿勢を正す。茂吉はまた笑顔になり、
「はは…お前は将来、立派な主になりそうだ…菅昌を支え、家臣達と団結して経験を重ねるんだぞ」
と言った。智純はものも言わず、ただしっかり頷いた。その目に浮かんだ涙が朝日に光って見えた。
「…壮汰」
茂吉がこちらを見ている。壮汰は顔を上げた。
「お前は賢い子だね…きっと……優秀な士に……ゲホッ、ゲホッ!!…だから、皆を…喜内を…見捨て…いでくれ。…頼んだぞ」
その言葉の途中で、茂吉は激しく咳をした。我に返った医者が慌てその額に布を当てる。壮汰は真っ正面から茂吉を見つめていたのだが、相手の目からだんだん光が失われていくのを感じた。それに胸がつっかえる様な悲しみを覚える。それでも、努めて笑ってみせた。
「はい。任せてください」
「あり…がとう…。お前に…なら…出来る」
『せめて最期に』との必死の祈りが、デウス様に届いたのかもしれない。
茂吉の声が消えそうになった時、壮汰は思った。
皆の中には声をあげて泣いている者も少なくなかったが、この場一番の大声で泣いていたのは佐吉である。顔を歪ませて茂吉の布団にすがり付き、時々訳の分からない事を口走っていた。
「ゲホッ…全く…お前が一番…成長できるか心配…だ」
茂吉が目だけ動かして佐吉に言う。佐吉はただ首を横に振って泣くばかりで、それに反論する気持ちすら浮かばない様だった。
「嫌だ、嫌だ!!死なないでよ、おじい様ぁ!!」
茂吉が掠れた声で笑う。もう限界だというように目を細めてみせた。
「なあ、佐吉…お前には一つ…このわしと約束…してほしい事がある…。ゲホッ、ゲホッ!!ほら、泣くのを止めて聞いてくれ」
佐吉がしゃくりあげながら顔をあげる。茂吉は言葉を繋げた。
「いつかお前が立派な大人になり、胸を張って生きれる様になったら…そんな風になったら、わしの墓に挨拶しに来てほしい」
そして最期の力とばかりに、にこりと笑ってみせる。佐吉は腕で涙を拭い、ぶんぶんと首を縦にした。
「わ、わっ、分かった!俺、必ず大人になってみせるから!!兄上に負けないくらい、カッコよくなってみせるから!!」
智純が苦笑して言う。
「お祖父様、安心してください。コイツの面倒は、この私が責任持って見ます」
茂吉は笑顔のまま頷いた。そしてゆっくりと目を閉じる。
「佐吉…笑え……お前は…笑顔でいる時が……一番……カッコ………良い」
チュン、チュン、チチチチ…
再び雀の声がした。今度のは、歌っているかの様な心地の良い鳴き声だった。
「………ご臨終です」
医者が静かに言った。
二十七
壮汰はあの時時間を考えている余裕などなかったのだが、後から聞かされた話によると、茂吉が死んだのは年が明けた朝頃だったのらしい。正月早々埋葬、というのでは縁起が悪過ぎるので、茂吉の遺体は腐り止めを施され棺に入れられた。そのまま故人の自室に数日間安置された。おかげでその年の正月は皆暗い顔をしており、勿論年明けの挨拶などは一度も聞こえてこなかった。
茂吉の葬儀は粛々と行われた。菅昌が父の死を嘆く文を長々と読み終えた頃には、もう皆の目には涙が溜まっていた。
棺を埋める時、佐吉がそれにしがみ付いて泣き始めたので大騒ぎになった事を壮汰は覚えている。結局、智純が苦心して佐吉をひっぺがしたので殊なきを得た。
「ついこの間『大人になる』と、お前はお爺様と約束したばかりではないか」
智純は呆れた口ぶりで言ったが、佐吉は今度は抱き付く相手を兄に代えてしばらく泣いていた。
それからひっそりと造られた茂吉の墓に一同で手を合わせた。壮汰もこの時は皆に真似て仏に祈る仕草をした。ただこの墓が一体どこの場所に造られたのだったか、壮汰は覚えていない。
壮汰は葬儀が執り行われている間、一度も泣かなかった。経が唱えられている間も、棺が埋められている時も涙を出さなかった。
何故だったのだろう。いや、覚えている。十三歳になった今でもはっきり覚えている。
わたしはこの場で泣く資格などない。
そう思ったのだ。自分の「呪い」のせいで茂吉が病で没したとしたら、とても思い切り泣く事など出来なかった。ただひたすら両手を合わせ、目を閉じた。思えば壮汰があれ程真剣に仏に祈ったのは、茂吉の葬儀が初めてだったのかもしれない。
わたしは泣いている場合ではない。
だから壮汰は決意した。
茂吉の墓の前で皆が泣いている時、そっとそれを声に出した。
「お爺様、わたしは精一杯生きてみせます。…わたしなら出来ますよ」
「やあっ、とうっ、とうっ!!」
庭から佐吉の気合いがこもった叫び声が聞こえる。正座で書物との睨み合いを続けていた壮汰の耳に、ふとその声が入った。ふうっと息を吐いて顔を上げる。ゆっくり立ち上がってから、足が酷く痺れている事に気付いた。思わず顔をしかめる。正座をする事には慣れっこだったが、この痺れを感じた時にはいつも不快になる。二度三度足を振ってから、壮汰は自分の部屋の障子を開けた。
途端に体が冷え込む。身震いしながら外に出て、青空を見上げた。日が薄く輝いている。それが昼の光を庭中にもたらしていた。空気が乾燥した、お馴染みの冬の天気だ。
「…ついさっきまで、朝だった様な気がするのにな」
ぽつりと呟いた。
茂吉が死んでから一月程が経つ。最近壮汰は以前に増して学問や剣術の稽古に時間を費やすようになった。休憩時間も惜しみなく削っている。何故そうするかと言えば、やはり茂吉の葬儀で決意した事が大きい。
「誇り……」
呟いてから、茂吉の言葉を思い出した。
『胸を張って生きろ!』
壮汰は空を見上げたまま笑顔を作った。
「わたしなら大丈夫です」
「はあっ…はあっ…」
壮汰がそっと庭に顔を出すと、佐吉は縁側に座って息を切らせていた。袖を大きく捲り、額に少々汗が浮かんでいる。
「あっ、壮汰」
こちらに気付いた様だ。壮汰が重たい羽織を引きずって近付くと、佐吉は座りなよと自分の隣を叩いた。
「ねぇ、寒くないの?」
壮汰は相手の格好にがたがたと体を震わせてみせる。佐吉は笑って頷いた。
「…兄様、頑張ってるね」
腰を落ち着かせて言うと、佐吉はまあねと応えた。
「いつまでも泣いてはいられないし」
これは強がりだなと見た壮汰は、冷やかす様に
「まあ兄様はあの時一番泣いてたしねー」
と誘ったら
「…まあね」
と予想外に薄い返答である。思わず相手を見た。
「大人なら無視、大人なら無視…怒ったら負け…」
するとやはりぶつぶつと口の中で呟き、必死に抑えているようなのでおかしくなった。
「はあ…いつかお前の挑発も受け流せる様になれたらいいなぁ」
佐吉は溜め息をつく。それからふと思い出した様に、
「そう言えばこんな風に話すのも、ずいぶん久しぶりだね」
と言った。休憩時間を削って学問などに励んでいるのは、智純と佐吉も同じなのだ。そうだねと返してから壮汰は訊ねた。
「智純兄様はどんな調子ですか」
そして再び相手の方を見ると、佐吉は首を横に振ってみせた。
「さあ。確かに最近はあの人とも全然喋らないな」
それからあっと声を上げて怖い顔を作り、不安そうにする壮汰に
「もしかして…また昔に逆戻りして、屋敷の隅っこで変な歌歌ってるとか……うん、あり得る」
と呟く。
「ええっ?!…そんな、じゃあ何とかしないと」
壮汰が本気で悩み始めたので、佐吉はあはははと笑って言った。
「あははは、うそだよ。冗談が通じないヤツだな、お前は」
思わずうっと言葉を詰まらせる。佐吉はごめんごめんと手を合わせた。
「兄上なら、最近はずっと父上と何か話し合ってるよ。知らない?」
「ああ、確かに」
そう言えばそうだった。茂吉が死んでから、智純は毎日菅昌に呼び出されている。一体何を話し合っているのか、壮汰は知らない。
「はあああっ!!」
竹刀を構えて、壮汰は突進した。それを秀治が迎え撃つ。
「来いっ!!」
打ち合いが始まった。
「えいっ、とおっ!!」
二十程打ち合ったところで、壮汰はその場から五歩程退いた。息を一つ吐くと、正面に竹刀を構える。そして叫びながら再び突進した。
「喜内流!!正面叩き割り、花天月地の構え!!」
それから力任せに竹刀を降り下ろしたら、遂にそれは秀治の肩に命中した。
「うおっと?!…あ、ちょっ、待って、そこまで!!」
尚も竹刀を振り上げ様とした壮汰を、秀治が慌てて止める。
「うーん、壮汰殿もずいぶんお強くなられたものだ。ここのところ毎日一太刀浴びせられている様な気がします。しかもその『喜内流っ!!』に。…なんだか、嬉しいような悔しいような」
秀治は感慨深く言ったのだが、壮汰は納得がいかなかった。
「まだだ…まだまだ兄様達には及ばない。それに、お前にもだ。一太刀は浴びせても勝つ事が出来ない」
ぐっと拳に力を入れる。秀治は少しの間黙っていたが、やがて口を開いた。
「もっと稽古、頑張りましょう」
「うん」
壮汰もこくりと頷いた。
「そう言えば、最近学問の調子はどうですか?」
稽古を終わらせて二人で庭をぶらぶら歩いている時、秀治が訊ねてきた。話題が見つからない時彼がする質問はいつもこれだ。
「特に分からないところはない」
壮汰は短く答えた。そうですかと相手が返してから何も言わないでいたので、再び静寂が訪れかける。なんとか会話を続けようと向こうは別の質問をしてきた。
「算術は順調ですか」
壮汰は頷く。
「算術は好きだ。答えが一つに決まっているから」
「コツを壮汰殿に教えたのは私ですけどね」
秀治が得意気に言う。そこで初めて壮汰は相手に笑顔を向けた。
「ああ、そうだな。ありがとう、ひで。これからも頑張るから、よろしく頼む」
「勿論です」
秀治も大きく頷いてくれた。
最近壮汰は算術を覚えた。教えてくれたのは秀治だ。だが最初の基礎を少し習っただけである。そこからは一人で黙々と勉強し始め、難しい事もどんどん出来るようになった。これのおかげで学問が更に楽しくなった。度々秀治に成果を見せると、もうそこまで覚えたのかと驚かれたりもする。
わたしはまだまだ頑張れる。
秀治の笑顔を見ていると、壮汰はそんな気持ちになるのだった。
二十八
『自分はこの家の本当の子供ではない』
壮汰が改めてこの事実を思い知ったのは何歳の時だっただろう。ぼんやりと記憶を辿ってみるに、それは恐らく十歳頃の事だったと思う。
茂吉の葬儀からあまり時も経っておらず、季節は春の中頃だった。その日壮汰は朝から庭に出ていて、ずっと剣剣術の稽古をしていた。義兄達と一緒にではない。一人でだ。この頃から壮汰達義兄弟は共に行動する事が少なくなっていた。別に仲が悪くなった訳ではない。壮汰は義祖父の死をきっかけに気持ちを切り替え、何事にもより一層励み出したのだが、どうやら義兄達もそうであるらしい。そのため三人共休憩時間を減らしているので、なかなかそろって話せる時が少なくなってしまった。
仲が悪くなったという訳ではないのだが、このところ壮汰と義兄達の間には微妙な緊張感が漂っている。最近智純と佐吉が菅昌に呼び出され、三人で毎日のように何か話し合っているからだ。壮汰は一度も呼ばれた事がない。智純だけが呼ばれていた最初の方は、それ程気にしていなかった。でも今は佐吉までもが呼び出されるようになった。部屋から出てくる三人はいつも深刻そうな顔をしている。さすがに不安になった。どうして自分だけが、とも思う。そして今朝も義兄達は菅昌の部屋に入っていった。
「疲れた…」
朝からずっと木刀を振っていた訳なので当然体力を消耗した。急激に疲れを感じる。壮汰は力を抜いて少し休む事にした。休憩も大切なのだ。立ったまま汗を拭っていたら、突如背後からこんな声がした。
「…それは避けられぬ事なのか」
「ああ、何しろ勝家様はキリシタンがお嫌いだ」
二人の家臣の声だ。こちらに向かってくるらしい。自分を見つけたら間違いなく忌々し気な表情になるのだろうが、別に隠れる必要は無しと思った壮汰は黙って目を閉じ、その場に留まった。
「といっても、間もなくの事なのだろう?」
「恐らくは」
二人はまだ壮汰に気付いていないのだろう。声はだんだん近づいてくる。
「それにしても驚いた。まさか菅昌様達が島原城に行かれるとは。今度は智純様と佐吉様も連れて」
「ここにも何年戻らぬか分からぬと言うしな」
思わず木刀を落とした。耳を疑う。目の覚める思いがした。
「それは真のことか!」
勢い良く振り向いて叫ぶ。家臣達はぎょっとした表情になった。
「そ、壮汰様」
「いや…その」
慌てた二人の言葉を待たずに、壮汰は駆け出した。
「はあっ…はあっ…」
向かった先は菅昌の部屋である。ちょうど菅昌と義兄達が出てくるところだった。
「そっ、壮汰」
佐吉の目が先程の家臣達の様に見開かれる。壮汰はあまりに気が動転していたので、何の前置きもせずに尋ねた。
「何を話されていたのですか」
誰も答えてはくれなかった。菅昌がなだめる様に言う。
「壮汰よ、落ち着け。一体どうした」
壮汰は黙ってうつ向いた。智純がこちらを覗き込んでくる。
「そうだ。落ち着け壮汰」
壮汰は声を震わせた。
「智純兄様…どうしてわたしだけが呼ばれないのですか」
驚いた後焦りの表情を浮かべ、智純は言葉を濁す。
「…大した事を話しているのではない。大丈夫だ」
壮汰はあまりの不安に堪えきれず、勢い良く顔を上げた。
「どうしてですか?!どうしてわたしだけが…」
智純に詰め寄ろうとする壮汰に、突然佐吉が大声を出した。
「大した事じゃないんだ!!」
壮汰はびくっと肩を震るわせた。佐吉ははっとした様に声を抑えて続けた。
「…本当に大した事じゃないんだ。壮汰、信じてくれ。大丈夫だから」
呆然と佐吉を見つめ、壮汰は力なく頷いた。
「…はい」
その日の夜、壮汰の気持ちは暗かった。
自分の部屋。蝋燭の灯りが机に反射する中、十字架を前に独り言を続ける。これはもう壮汰の日課であった。
「…という訳なので、わたしはまたひとりになるのかもしれません」
呟いてからこれで何度目か、あの二人の家臣達の言葉がよみがえってきた。
『菅昌様が島原城に…』
『勝家様はキリシタンがお嫌いだ』
菅昌が島原城に行く。智純と佐吉を連れて。事実なんだろうと壮汰は思った。あの場に壮汰が現れた時の三人の慌て様を見れば、大体事の察しはつく。
「要するに、わたしは行くことが出来ないのでしょう」
努めて冷静に言おうとしたのだが、やはり声は震えた。
「わたしは…またひとりですか?」
その時、突然首に痛みが走った。急いで巻いた包帯を外し、鏡の前に移動した。その間に痛みがどんどん強くなっていく。
「ずいぶん久しぶりだな……」
鏡を見て自嘲気味に笑った。写っているのは、未だ消えないあの痣である。
「ぐっ…!!!」
激痛が襲う。なんとか叫ぶのを堪えて、壮汰はその場にうずくまった。
こういう状態になるのも久々の事だった。茂吉が死んで以来、全くといってよい程なかったのだ。おかげでこれ程痛かったのかと改めて思い知る。だがまだそれ程焦りはなかった。何度も経験している事なので、じっと我慢さえすればその内収まると知っている。
『クスクスクス…』
「!?」
ふいに笑い声が聞こえた。聞こえたというより、自分の頭の中で響いている様に壮汰には思えた。
『クスクスクス…』
まただ。今度は途切れる事なく別の笑い声も続く。
『クスクスクスクス…』
しばらくするとそれは何十人もの嘲笑う声になった。
「うう…っ!!?」
その音量に頭が割れそうになる。霞んだ思考で思い出した。これは経験した事がある。絶叫し、理性が壊れそうになったあの夜だ。
『あの爺は死んでしまったな』
嘲笑の中に、こんな声が聞き取れた。
『ああ、死んでしまった』
相槌を打つように別の声が続く。
「お前達が…わたしの義祖父を殺したのか」
思わず壮汰は声に出した。頭の中で声は答える。
『いいや、あれはただの寿命さ』
男のような、女のような、年寄りのような、若者のような声だ。不気味だった。
『そうだ。我らが手を出す前に死んでしまって、何とも残念な事だなぁ』
激痛のあまり突如絶叫しそうになり、壮汰は両手で口を押さえた。汗が浮かんでくる。
『…だが』
声が言葉をと切らせた。
『我らの怨念を晴らすにはまだ足りぬ』
『あの爺の死だけでは足りぬ』
嘲笑う声はまだ止まない。今耳に響いているのは嘲笑なのか自分の荒い息遣いなのか、壮汰には最早判別する事が出来なくなっていた。
『お前を殺すのはまだ先だ』
『もっともっと苦しめてからだ』
一瞬の間の後、何十人もの笑い声がぴたりと止んだ。
『耐えられるかこの恨み』
『死ぬのが先か、お前の気が狂うのが先か』
『次も』
悲し気な声。
『お前の近くだぞ』
そこで声は聞こえなくなった。同時に首の痛みも消える。
壮汰は何も言う事が出来なかった。ただその場にうずくまったまま、きつく目を閉じていた。
そしてそれは唐突に知らされた。壮汰が義兄達に詰め寄ったあの日から、大体七日が経った時の事だったと思う。
「勝家様が私をお呼びなのだ」
菅昌が言う。ここは彼の部屋だ。智純と佐吉も父の隣に座しており、三人と壮汰は向かい合う形になっている。
「はい」
壮汰は頷いた。予想していた事なので別に驚かない。
「島原城へだ。今度は息子も連れて来いと」
智純と佐吉は視線を落としてその会話を聞いている。菅昌はそんな二人をちらりと見て、覚悟を決めた様に続けた。
「ただ…正系の息子をと仰っているのだ」
壮汰は三人の顔を見る事が出来なかった。何と言えば良いのか分からず、ただ頷く。すると意外にも冷静な声が出た。
「はい」
菅昌は壮汰が事をよく解っていないと思ったのか、重々しく付け足した。
「壮汰。お前は我が養子だ。お前に喜内直系の血は流れていないのだぞ」
壮汰は再び頷く。
「はい。分かっております」
「お前は賢いから、大体察してくれるだろう。だから…」
菅昌は気まずそうな声を出した。
「…すまない壮汰。お前を連れては行けないのだ。…許してくれ」
それっきり、菅昌は黙ってしまった。重い静寂が訪れる。しばらくして壮汰は訊ねた。
「いつお帰りになるのですか」
菅昌がゆっくりと答える。
「分からぬ…一体何年かかるのか」
これにも壮汰は別段驚いたりしなかった。
「我らの留守中、お前の世話は家臣達に任せる事とする。だからその間にも学問は続けられるし、剣術の稽古も出来る」
「…分かりました」
壮汰はそこで初めて正面を向いた。
「ならば、わたしは大丈夫です。どうかご心配なさらず、お出掛け下さい」
笑顔を作る。佐吉がびくっと肩を震わせた。
「なんで……」
そのまま何か言いかけた様だが、壮汰のを見て口をつぐむ。
「お前は聞き分けの良い子だね。ありがとう」
その後菅昌が自分の留守中の重要事項をいくつか説明して、この場は解散となった。智純はその間とうとう一度も口を開かなかった。
その日の夕食の時、菅昌から出発は十日後になったと発表された。
うおっ?!ミスです;
壮汰のを見て→壮汰を見て
二十九
菅昌達の前で、彼らの出発を何でも無い事の様に言ってしまった自分が壮汰は嫌だった。嫌だと思っているのに、何故か本人達の前では笑顔で対応してしまう。
あの時から佐吉は毎日壮汰に話しかけてくれる様になった。何でもない話題でも、壮汰が喜ぶように一生懸命盛り上げようとしてくれている。壮汰も笑って頷いた。菅昌は壮汰の学問を見てくれたり、剣術の稽古をつけてくれたりした。実は菅昌は剣術が得意だったという事も分かった。その事があまりに意外で、壮汰はつい吹き出してしまいそうになった。菅昌が壮汰と共に何かをするなんて今まで数える程しかなかったのだ。だから壮汰は嬉しかった。彼がこんなに父親らしく見えたのは初めてかもしれない。
けれど壮汰は悲しかった。彼らの気遣いが嬉しいのに、悲しい。佐吉と話していると時々、喉に言葉が突っかえて声が出てこなくなる時があった。菅昌の前ではふいに涙を催す。その時はぐっと唇をかんで堪えた。
悲しかったが壮汰は、一度も彼らに自分の心情を伝えなかった。本当はどう感じているのかも言わなかった。それを言ったら、我が儘になってしまう事を分かっていたからだ。
自分の気持ちを伝えて皆を困らせてはいけない。
そう思った。だから出発のその日まで、壮汰はずっと笑顔で過ごした。
そんな中智純だけは、一度も壮汰に話しかけてこなかった。佐吉に笑って相槌を打っている自分を、智純がじっと見つめていたのを壮汰は覚えている。
「そろそろ出発せねば」
菅昌が真昼の空を見上げて言った。暖かい春の日射しが、辺りの地面いっぱいに降り注いでいる。ここは喜内の屋敷の門だ。菅昌、智純と佐吉、それから何人かの家来が門の外に立っていて、皆の見送りを受けている。
壮汰はなんだか夢を見ているような気がした。彼らは遠く離れた場所から彼らは何年戻らないのか分からない。それだけは分かっている。分かっているのにそれはどこか夢のようで、自分が彼らと過ごした時間はあまりにも短すぎて、壮汰の心に現状の実感はあまり沸いてこなかった。
「壮汰!!」
突然目の前からよく聞き慣れた声が聞こえ、壮汰はゆっくり顔を上げた。佐吉がいる。相手は震えていた。
「佐吉兄様…本当に行くのですか」
壮汰が訊ねると、佐吉はこくりと頷いた。
「話が急過ぎるよね。…壮汰と離れるなんて、俺には想像出来ないのに」
佐吉は言ったが、壮汰は分かっている。どう仕様もないのだ。主の命令に私情など勿論挟めない。だから壮汰はにこっと笑って話題を変えた。
「兄様、昨日の一本、絶対に忘れないでくださいよ?」
佐吉もああと笑って応える。
「あの悔しさは絶対忘れないよ!俺ももっともっと練習しておくから!」
それは昨日の事。最後の稽古だと、壮汰と佐吉は庭に出て打ち合いを行った。その時壮汰が得意の押しきりで、佐吉に一太刀浴びせる事が出来たのだ。その瞬間を思い出したのか、佐吉はにいっと笑って壮汰の頭をくしゃりと撫でた。
「強くなったな、壮汰!!」
佐吉の手のひらの感触が心地好かった。ぐっと何かが込み上げてくる。壮汰は声を呑み込み、うつ向いて頷いた。
心の中で何か大きな感情が沸き出続けている。だがこの気持ちが一体何なのか、壮汰には分からなかった。
『自分はこの家の本当の子ではない』
そんな事は分かっている。分かっているのに、何故だか息が苦しい。だが目の前の義兄には、この歪んだ気持ちを悟られたくなくなかった。何とか笑顔を作りゆっくり顔を上げる。佐吉は相変わらず肩を震わせていた。
兄様はきっと、わたしの事が心配なのだろう。自分と智純が居なくなったら、わたしは誰かと一緒に稽古が出来なくなる。わたしは誰かと笑い合う事が出来なくなる。わたしがひとりになってしまう。そう思われているに違いない。
佐吉の顔を見て、壮汰は思う。
兄様はこれからわたしの事を心配し続けながら生活されるのだろうか。そんなの、そんなのは嫌だ。
息が詰まりそうになる。自分が佐吉の悲しみの原因になるなんて、嫌だった。だからこの言葉が最後のつもりで、何とかして相手を安心させたくて、壮汰は明るい声を出した。
「兄様、わたしの事、忘れないでください」
言い切ってから笑顔を向ける。佐吉は目を見開いた後、声を震わせて言った。
「なんで…なんでそんな風に笑っていられるんだよ?!俺、今度はいつお前と会えるか分からないのに。いつ会えるのか…。その時まで壮汰は独りになるかもしれないんだぞ!」
佐吉がぐっと息をつく。そして呆けた様な顔をしている壮汰に言った。
「…お前は、悲しくないの?」
壮汰はそこでようやく気付いた。いつの間にか心は真っ暗で、大きな感情で溢れそうになっている。
そうか…わたしはこんなにも悲しかったのか。
「う、うぅっ」
目をきつく閉じて堪えようとしたら、声が漏れてしまった。目が熱くなる。
我慢しようと思っていたのに。兄様方に迷惑をかけたくなかったのに。
何度も心で呟くが、悲しみはどんどん大きくなるばかりである。もう限界だった。
「に、兄様の嘘つきぃ…大した事なんかじゃないって言ったのに…大嘘つきっ……うっ、うああああぁぁぁ…ん!!」
自分の抑制心を振り払ったその瞬間、壮汰はとうとう大声で泣き出していた。
三十
「そ…壮汰…」
佐吉は目を見開いて、泣き喚く壮汰を見つめた。
「うあああぁぁん!!」
壮汰にはもう涙を止める事が出来なかった。
落ち着け、落ち着けばいいんだ。
そう思う程に今まで押さえつけていた感情が、どす黒いこの感情が、喉を伝って壮汰の外に流れていく。自分でも何だか二、三歳の頃に戻ってしまった様な気がした。周りの大人達も呆気とられてこちらを見ている。こんなに注目を浴びるのも久しぶりの事だ。
「………」
ふいに目の前に智純が現れた。無言で壮汰を見つめている。この眼差しの前では、いつも嘘が吐けない。だから壮汰は声を上ずらせて、今の感情を吐き出した。
「に、兄様ぁ…嫌だ、行っちゃ嫌だよぉ!…兄様達が居なくなったら、わたし、またひとり…そんなの、そんなの嫌だ!!」
智純はしばらく無言だった。ただ泣き続ける壮汰を真っ直ぐに見つめていた。だが、少しして…
「___っ!?」
思わず壮汰は声を止めた。それ程までに驚いた。
智純が壮汰を抱き締めたのだ。智純はそこでも無言だった。この義兄から、壮汰はなぜだか少し安堵を感じた。ここ数日間、彼とは一度も口をきかなかったというのに。そして智純がきつく、なにか堪えている様に感じられた。
「に、兄様?」
壮汰が呼び掛けると、智純はようやく口を開いた。
「…壮汰」
智純の体がゆっくり離れる。代わりに、その手が壮汰の頭を撫でてきた。
「お前は独りじゃない。わたしがいる」
顔を上げると、智純は笑顔だった。
「そうだ!独りじゃない!俺もいるよ!」
それまで黙っていた佐吉が、突然声を張り上げた。息を大きく吸う。
「壮汰、俺絶対強くなってくるから!もっとカッコよくなってみせるから!」
智純は佐吉を見て苦笑した。そして笑顔のまま、壮汰に向き直る。
「離れていても、私はお前に手紙を出す。お前からの返事もちゃんと読む。お前に独りだなどとは思わせない」
だから、と智純が言った。
「泣くな!壮汰」
壮汰は言葉が出てこなかった。息が詰まった。涙が溢れる。悲しいのではない。嬉しかった。こんなに嬉しくなったのは初めてだ。
「…うんっ!」
涙をこぼしたまま、壮汰は笑顔で頷いた。
「…わたしは、ちゃんと待つよ」
泣き止んでから壮汰は、大人達に頭を下げに行った。お騒がせして、誠に申し訳ありませんと言って回った。彼らはそれでもまだ驚きを持って壮汰を見つめていた。
その謝罪も一段落した頃、壮汰の義兄達は屋敷を発っていった。佐吉は何度も壮汰を振り返っていた。
目をごしごしと擦って、壮汰は彼らを見つめた。そして小さく呟く。
「…わたしは頑張るよ」
壮汰は庭に立っている。なぜここに立つのか。理由はない。なんとなくだ。外に居ると気分が落ち着く。特に庭は、季節の移り変わりが楽しめるので好きだった。
「…暑い」
だがやはり外にも欠点がある。特に今日のような夏は、この暑さに参ってしまう事が多い。初夏とは言っても、暑がりの壮汰にとっては十分な暑さだった。手で額を拭うと、かなりの量の汗をかいている事に気が付いた。壮汰は暑がりで寒がりという、自分でも嫌になる様な体質の持ち主なのだ。首に手を当てると、包帯の上からでも分かるぐらいに湿っていた。
「兄様、暑いね」
ひとり呟く。蝉のなき始めた木々を見やって、壮汰は目を閉じた。
壮汰が屋敷に残されてから一つの季節が過ぎた。今は夏である。もうさすがに、「首周りが寒いから」などという理由であの羽織をつける事は出来なくなってしまった。だから壮汰は首に包帯を巻く事にした。前にも何度かこういう風にした事はあるが、身の回りが暑くなってから初めて、最初からこうしておけばよかったと少し後悔するのである。
「壮汰殿!」
よく後ろから聞き慣れた声がする。振り向くとやはり秀治だった。
「秀治」
相手はにこっと笑った。なんとなく壮汰も笑顔になる。兄達が去った今、造り笑いをしなくていい相手は秀治だけだった。
「暇なのですか?」
秀治が期待に満ちた目で聞いてくる。壮汰はこくりと頷いた。
「じゃあ、久しぶりに剣の相手になりますよ」
「…ありがとう。本当に久しぶりだ」
壮汰は言って、再び笑顔になった。
兄達が発ってから、例にもよって誰かと話をする事が少なくなっていたのだ。秀治も初めは気を使っていたのか話しかけてこなかったが、今ではすっかり暇な時の壮汰の話相手となっている。だが剣を合わせるのは久々な事であった。話せる相手がいる事になんだか嬉しくなって、壮汰は空を見上げた。
十歳になった事をきっかけに、壮汰は秀治の事を「ひで」と呼ぶのは止めた。なんだか子供っぽくて人前で呼ぶのに少し抵抗が生まれたからだ。それに仮にも相手は大人なのだから、ちゃんと名前で呼ぶべきだろうと思うようになった。壮汰は意識して「秀治」と呼んでいるのに、当の本人は自分の呼び方が変わった事にすら気付いていないようだ。壮汰は膨れっ面にでもなりたい気分だった。
「…智純様からでございます」
「ありがとう」
家臣が無造作につき出してきた手紙を受け取り、壮汰は自分の部屋に向かって走り出した。机の前に座り、心踊らせながらその中身を開く。
「拝啓。元気でやっているか。こちらの…」
壮汰はその文を声に出して読んだ。読み終わって、いつの間にか自分が笑顔になっている事に気付く。
「わたしはひとりではない」
呟いてみると温かい気持ちが溢れてきた。夏なのに変なの、とおかしくなった。
智純からの手紙は月に一、二回の割合で届く。その内容の大部分は近況報告だ。あれに驚いた、あれを初めて見たなどの文が書き連ねてある。そして決まって最後に、「お前は大丈夫か」とあった。
何も貰う一方ではない。壮汰だって返事を書く。といっても、別に書きたい事などなかった。正直に近況報告なんてしたら暗い話ばかりになってしまう。だから壮汰はいつも一生懸命に明るい話を思い出さなくてはならなかった。
『稽古ではついに秀治に何度か攻撃出来るようになりました ようやく今までの練習が報われたのかと真に嬉しく思っているしだいです けれども慢心はいけませんね 益々日々の稽古に励もうと思います』
ここまで書き終えると、少し手に疲れを感じた。壮汰が一度筆を置いた時である。
「壮汰殿、少しお邪魔してもよいですか」
部屋の外から秀治の声がした。
「ああ」
慌てて書きかけの手紙をしまう。別に見られて困るものではないのだが、反射的に体が動いた。失礼しますと言って秀治が部屋に入ってくる。暗い顔をしていた。壮汰は秀治に自分の向かい側に座るように言う。
「どうした」
秀治は最初うつ向いていたが、壮汰が口を開くとすぐに顔を上げた。一瞬なにか躊躇うように視線を泳がせ、それから覚悟を決めた様に答える。
「ちょっと用事が出来まして、しばらくの間家に帰らせて頂くことになりました」
「えっ?」
思わず聞き返した。秀治はにこっと笑う。
「二十日間くらいだと思います」
壮汰は絶句した。頭の中を不安が埋め尽くす。わたしはまたひとりになるのか。そう思ったら、口が勝手に言葉を発していた。
「用事?用事とは何だ」
相手は短く答える。
「妹が病気で倒れました」
秀治は言葉を続けた。
「最近酷い暑さが続いたでしょう。あれも元からあまり丈夫な方ではなかったのですが、夏風邪を拗らせたそうで。私達には両親が居ないので、妹の看病が出来る者は私だけなのです」
秀治は笑顔だったが、なんだか悲しいものに見えた。大切な人が病気で苦しんでいるのだ。秀治は辛いに違いない。光月の顔を思い浮かべる。壮汰は言った。
「ならば、すぐにでも行かなければ駄目だ」
秀治が目をぱちくりさせる。
「それを許していただけるのですか」
壮汰は深く頷いた。そして訊ねる。
「お前の家はどこにある?」
「島原城へ行く道の途中です」
その答えにまた絶句した。
「島原城へ行く道?ではあの峠…山賊が出る所も通るのか」
相手が頷く。だが壮汰の表情を見て、慌てて付け足した。
「あっ、ご心配には及びません。私にはこの通り…ほら、剣術という武器がありますから。そう簡単には死んだりしませんよ」
「だからって…」
言葉が途切れる。秀治が強いことくらい十分に知っている。けれども壮汰の不安は消えなかった。
三十一
秀治はその翌日出発する事になった。妹の病状が悪化しつつあるので、とにかく急いだ方が良いという事であった。
「わざわざ見送りまでして下さるなんて」
屋敷の門の前まで来て、秀治が遠慮気味に言う。壮汰はいいんだと首を横に振った。
「気を付けて行けよ」
なるべく感情がこもらないようにと心掛けたら、予想以上に冷たい声が出てしまった。感じが悪かったかと相手を見上げると、秀治はいつもの笑顔を浮かべている。
「はい。ありがとうございます」
その笑顔を見て、やはり光月に似ているなと思った。ふと相手の眼差しに気付く。じっとこちらを見ている。何だと聞く前に向こうの方から話し始めてくれた。
「村にキリシタンが居るのです。壮汰殿と、同じくらいの歳の男の子が」
「いきなり何だ」
思わず突っ込む。秀治は笑った。
「やさしい子なのですよ。いつも、てんし様が、てんし様がって言っていたっけ…」
その声がだんだん小さくなっていく。壮汰はゆっくり相手を見た。秀治の視線は、何かを思い出すように遠くにある。その目のまま再び相手は口を開いた。
「そしてあなたもおやさしい。あの子のように…なんだか、キリシタンはやさしい人達ばかりなように思います」
「そんな事はないだろう」
壮汰はすぐに言う。
秀治は知っているのだろうか。世のキリシタン達が今一体どんな仕打ちを受けているのかを…
壮汰は心で思った。
いや、こんな目をしているという事は、知らないのかもしれない。
「子羊達の中には、デウス様のお教えを利用して悪を為す者共もいる」
そういうものですか、と秀治は言った。納得しかねているのか少し首をかしげている。
秀治はわたしより年上なのに、わたしよりもずっと純粋な目をしているではないか。
壮汰は火縄で撃たれた時の事を思い出した。思わず足を見る。なんだか不快な気分になった。
「壮汰殿」
ふいに名を呼ばれて顔を上げる。
「そろそろ出発しようと思います」
秀治が言った。だが、壮汰の表情が変わったのを見て困ったように笑う。
「そんな顔はしないで下さい。私は本当に大丈夫なのです」
「でも…」
言葉が続かない。壮汰は拳を握った。
「壮汰殿」
秀治が屈み込む。こちらに目線の高さを合わせたのだ。
「ほら、私は笑っている顔の方がいいでしょう?」
こくりと頷く。秀治は笑った。
「だから、私もです。壮汰殿に笑っていてほしい」
「…だったら」
そこでようやく声が出た。
「わたしをこんなにも不安にさせるのだ。…だから」
思い切り息を吸い込む。
「…だから、絶対に妹を死なせるなよ」
相手は一瞬ぽかんとした表情になった。だが次の瞬間、満面の笑顔を浮かべる。
「はい。ありがとうございます、壮汰殿」
「行って参ります、壮汰殿!」
きらきらした笑顔を残して、秀治は故郷の村へ発って行った。その姿が下り坂に見えなくなるまで、壮汰はずっと門の前に立っていた。
ふいに涙をもよおした。もう二度と会えないのではないかと思う。
「…何を不吉な」
ごしごしと目を擦った。
夏の暑い空気のせいで、いつの間にかかなり汗を流していた。
それから十日程が過ぎた。
秀治が居ないので、壮汰は孤独だった。話し相手が居ない。稽古をする相手が居ない。誰かが側に居てくれる事の大切さを、今度くらい身に染みて感じたことはなかった。
十日が経ったが、壮汰の不吉な予感は消えない。秀治を見送った時以来、もうずっとだ。そこでなんとか不安を紛らわせようと、壮汰は智純に手紙を書く事にした。自分から義兄に手紙を出すのはその時が初めてだ。
『秀治がしばらくの間故郷の村に帰る事になりました 病気になった妹を看病するためです 兄様 話し相手が居ないというのは何だか寂しいものですね』
なぜ自分から手紙を書こうと思ったのか、壮汰にはよく分からなかった。ただ誰かに、自分がひとりだという事を知っておいてもらいたい。誰かと話しているつもりでいないと、壮汰はおかしくなってしまいそうだった。
ふと手が震るえていた事に気が付く。思わず筆を止めた。その時である。
バキッ!
「!?」
筆の柄の部分が、音を立てて真っ二つに折れた。別に壮汰が何かした訳ではない。ひとりでに折れてしまったのである。冷や汗が流れた。不吉な予感は募る一方である。不安に耐えきれずに立ち上がる。もう訳も分からず、涙が出そうだった。
『クスクスクス…』
不意に頭の中に、今や聞き慣れたあの笑い声が響いた。
「ぐっ!?」
途端に頭痛が始まる。
「…最悪だ」
呟いたのと同時に首まで痛み出した。こうなったらもうどうしようもない。しゃがみ込み、激痛が治まるのを待つ事にする。
『クスクスクス…オ、オモテ…』
笑い声の中に言葉が聞き取れた。
「な、何だって?」
荒い息と共に聞き返す。
『クスクス…』
『オモテ二デテゴラン』
瞬間笑い声が止んだ。痛みも治まっている。壮汰は部屋を飛び出した。
表だ、表、表へ…。
廊下ではない。部屋の外でもない。今どこへ向かうべきなのか、何故だか壮汰には分かっている。
「はあっ、はあっ、はあっ…」
息を弾ませ止まったのは、屋敷の門の前だった。全速力で来たので呼吸が苦しい。だが休んでいる場合ではないのだ。何とか門の外まで足を運ぶ。屋敷の外には二本の道があって、その一本が今壮汰が立っている道である。この道を百歩程進むと、山を下るための下り坂が見える。ちなみにもう一本はこの場所の反対方向にあった。
壮汰は下り坂が見える所まで行って、その先を見据えた。しばらくその場に留まる。だが何も起こらなかった。
「……どういう事だ?」
いぶかしく思いながらも、一度門の前まで引き返すことにする。壮汰が歩き出して少ししてからの事だった。
「……?」
後ろからかすかな物音が聞こえる。壮汰は振り返った。誰か、人影が見える。坂をよろよろと上がってくる。よく目を凝らして見ればあれは…。
「…秀治?」
確かに秀治だった。相手は気付いていないのか、返事をしない。その姿は出発前と比べて酷く変わり果てていた。白い着物に焼け焦げた黒い跡と血痕がいくつもある。そして脇腹と胸のあたりに傷があり、その時もなお血が大量に流れ出ていた。
言葉をなくしてただその場に突っ立つ。重傷を負った秀治が壮汰の目の前までやって来た。右足を引きずりながらであって、すぐに力尽きたようにどさりと倒れる。
「…えっ?」
壮汰は呆けた様に両目を開いた。
「…秀治?」
壮汰は秀治の前に座り込み、震える手でその頭を触った。
「はあっ…はあっ…」
荒い息遣いが聞こえる。秀治は生きているのだ。
「ど、どうして…」
壮汰には言葉を続ける事が出来なかった。
「…燃やさ…れ」
そこで初めて秀治が顔を上げた。だがすぐに顔を歪め、首を振る。そして絞り出すような声で言った。
「申し訳けありません…もう顔を上げているのがやっとなのです」
慌てて秀治の体を抱え込み、楽な体勢にさせる。
「あり…がとうございま…す」
秀治は苦しげな笑顔を見せた。
「誰だ」
ようやく口が動いた。壮汰は間を置かずに繰り返す。
「誰だ。お前の重症…一体どこの誰がやった」
「山賊に…」
相手は途切れ途切れに言った。
「村を…も…燃やされました。その時に反撃して、この有り様です。追跡を振りきって例の峠まで辿り着いたのですが…その辺りを…行動範囲にしていた奴等の仲間に襲われ…て…再び振りきって…何とかここまで」
ガフッと咳き込んで、秀治が大量の血を吐いた。そのまま苦笑し、皮肉の様に呟く。
「ははは…言い訳に聞こえるでしょうが…最初は有利だったのですよ。相手の数があんなにも増え…しかもその多くが鉄砲を持っているだなんて…」
「火縄に撃たれたのか」
「恥ずかしながら…胸に一発、脇に二発とくらってしまいました」
壮汰は秀治を支える片方の手を離した。べっとりと赤黒い血が付いている。その手をゆっくり戻して、再びたずねる。
「村を燃やされた?…なぜだ」
秀治がきつく目を閉じた。
「山賊共は…藩主様のお許しが出ている…キリシタンがいる事を隠した村には火を付けると…」
「キリシタン?」
「私の村にも何人か居たのです…どうしてそれが原因で…」
壮汰はぐっと唇を噛んだ。強く噛みすぎて血が滲んでくる。
「妹…お前の妹は…」
これで最後の問いと聞いたのに、相手はゆっくり首を横に振った。
「申し訳ありません…壮汰殿と約束…したのに…妹を…病気から救うことが出来ませんでした…」
秀治が涙を流している。天を見上げたまま瞬きもせず、ただただ涙をこぼしていた。
「…お前は生きろ。ここて待て。今すぐ助けを呼んでくる。早く手当てして…」
壮汰のその言葉は途中で遮られてしまった。
「有難い…けれど私は助からないでしょう。血が出過ぎている…これは恐らく致死傷です」
そう言った後、秀治は再び血を吐き出した。赤黒いものがピシッと壮汰の頬にはねる。
「そんな…死ぬのか?」
秀治はにこっと笑った。
「壮汰殿…私は…ここに辿り着くまでに…何度も…もう死ぬのだと諦めそうになりました」
相手の呼吸が弱くなってきている。壮汰はぶんぶんと首を振った。涙がこぼれる。
「けれど…その度に歯を食いしばって何とか耐えたのです…どうせ死ぬのなら、どうしても…どうしてもあなたと話がしたくて」
秀治は笑顔のまま。
「私が死んだら…きっと、壮汰殿は…自分はひとりぼっちになったと思われるでしょう?」
涙を拭うのを忘れたまま、壮汰はこくりと頷いた。
「でもね…壮汰殿…あなたは決してひとりではない。今は無理でも… いつか必ず、そう思える日が来るのです」
もう限界が近付いているのか、秀治は力を出しきる様に言葉を続けた。
「私は宗教に熱心ではありませんが、もしも願いが叶うのならば、白鳥に生まれ変わりたい」
「嫌だ、死ぬな秀治…死なないでくれ…お願いだから」
秀治は泣き出す壮汰に手を伸ばし、その頭を優しくなでた。
「白鳥になって、あなたを見守りたい…あなたの顔に笑顔を浮かぶような、そんな美しい白鳥に…」
秀治の手から力が抜けた。声も聞こえなくなる。壮汰はきつく閉じていた目をゆっくり開けた。
「秀治…おい、秀治…」
秀治の体を揺さぶりながら、また涙がこぼれてきた。相手に反応はない。その顔に耳を近付けてみたが、息も聞こえない。
壮汰は呆然としてしばらくその場に座り込んでいた。
三十二
『…クスクスクス』
壮汰は虚ろだ。ただ動かなくなった秀治を見ていた。だが聞こえてきた笑い声で、突如現実に引き戻される。
「……!」
『クスクスクス』
先程まで頭に響いていたものだ。大勢の不気味な笑い声。だがおかしい。いつもなら頭痛と首の痛みが付き物なのに、今回は身体に全く異常がない。まだ秀治の血が乾き切っていない手で首の包帯に触れてみた。やはり痛みはない。頭痛もしない。笑い声だけが絶える事なく続いている。
『…クスクスクス』
『ぷっ、ぎゃはははははは!!』
「!?」
それは突然大きな笑い声になった。その音量に目眩を覚える。思わず頭を押さえた。
『みろよ。死んだぜ、こいつ!ぎゃはははは!』
『あら本当に』
『とばっちりで死ぬなんて…哀れなやつよ』
「なんだと?!」
壮汰は叫んだ。声達は嘲る様に喋り続ける。
『そうさ。お前のせいだ』
『この男が死んだのは、お前の』
『お前のせいだぞ、ぎゃははは』
「秀治に何をした」
大勢の声が急に一人のものになる。
『我らの呪いの念さ』
壮汰はきつく閉じていた目を開いた。
「なぜだ…そんなにわたしが憎いか」
『ああ憎いとも』
声は言う。
『お前は呪われているのだ。どんなにお前が否定しようとも無駄な事』
なぜ自分が呪われなければならないのか。壮汰には分からなかった。
『そういう運命なのだ。何百もの恨みが、お前に憑くと決めたのだから』
猛烈な怒りが沸いてくる。
「そんなもの知るか!秀治を返せ!化け物共が!!」
『…クスクスクス』
『この者、まだ解してもおらぬのかえ』
声は再び大勢のものに変わった。笑い声が響く。
『お前が狂い死ぬまで、我らの気は収まらぬ』
『まだ足りない…まだ足りない』
『お前の周りに祟り続けるぞ』
一瞬何も聞こえなくなった。それと同時に、体から何かがせり上がってくるのを感じた。むせたように咳込む。
「ゲホッ、ゲホッ!!」
勢いに任せて吐き出した。
「…!?」
紫色をした、大量の液体である。目眩がした。
『忘れるなよ』
その声が最後だった。蝉の鳴く声が再び壮汰の耳に戻ってくる。頭を振って叫んだ。
「くそっ、くそっ、わたしから出ていけ!!わたしから…」
「…壮汰様?」
不意に後ろから声が聞こえた。目を見開く。振り返ると、家臣である。若い家臣が門を背にして立っていた。
「ひっ…秀治?秀治ではないか!」
秀治に気付いたのか、彼は慌ててこちらに駆けて来る。
「しっかりしろ!」
家臣は必死になってしばらくの間秀治を揺さぶっていた。当然反応はない。壮汰はただそれを見つめるばかりだ。
「…あなたがやったのか」
突然彼がこちらを振り向いて叫んだ。
「あなたが殺したのか!」
『お前のせいだ』
あの声がよみがえる。壮汰を嘲笑っている。壮汰は何も言うことが出来なかった。
ちょっとテスト
153:のん◆Qg age:2016/09/18(日) 12:01 それから幾月かが過ぎた。
壮汰は今秀治の墓の前に立っている。真四角な石の墓だ。この下に秀治の遺骨がある。美しい心根を持ったまま死んだ秀治が眠っている。
ここは屋敷の外だ。喜内の屋敷は山の頂上付近にある。山といってもそれほど大きくはない。むしろ小さいくらいで、木々が多く立っている事から山と呼ばれている。また少し高い丘でもあった。屋敷の外には二つ道があり、その内の一つを下ると小川に面した広い場所に出る。それがここだ。ここから反対側に位置するもう一つの道は、壮汰がよく行っていたあの町にくだるものであった。光月の実家はこの二つの道を外れて、丘の下にある森を抜けた先にある。
秀治の遺体はあの後火葬され、焼け残った骨はこの場所に埋められた。簡単な葬儀も行われた。だが参列者は少なく、故人の友であった若い家来数名のみだった。
遺体が焼かれていくのを見ている間、壮汰は秀治の笑顔を思い出していた。死ぬ時まで笑っていた秀治。最後まで壮汰に、あなたはひとりではないと言った秀治。なぜキリシタンが迫害されなければならないのか分からないと言って死んだ秀治。村の不幸をキリシタンのせいだと思った事がなかったのだろう。最後まで純粋であり続けた秀治。もう一度あの笑顔が頭に浮かでくる。壮汰は声を出さずに泣いていた。
この一件があってから、若い家来の視線がより一層厳しくなった。皆壮汰を忌む様に遠ざける。もうこの屋敷で壮汰はひとりだ。話す相手も、一緒に稽古する相手も居ない。だがそれでも良かった。
自分と関わった者は呪い殺されるのだ。ならば誰も来なくていい。来てほしくない。
「良いんだ。わたしはひとりなんだから。ひとりで生きていかなくてはならないのだから」
秀治が死んでから、何度となくこう呟いている。そうと信じようとした。思い込もうとした。
「ひとりでも良い。わたしは元々そうだったではないか」
そんなのは大嘘だった。夜、十字架を前に、神に祈る時だけ本心がこぼれる。
「デウス様、ひとりは嫌です。生きてはいけません。助けてください…」
涙が溢れた。昼間は声に出せることのない本心。
「わたしは、話せる相手がほしいのです…」
首の痣がズキズキ痛んでいる。
それから色々あって、壮汰は十三になった。本当に色々な事があったように思える。苦しかった。辛かった。呪いはずっと続いている。
秀治が死んでからの二年間を、壮汰は真っ暗な気持ちのまま過ごした。
あの子と出会ったのは、確か去年の春。
よく笑う子だった。本当に、花が咲いた様な笑顔で笑っていた。幼い子供の様に、無邪気な感性を持っていたあの子。
秀治が死んで以来、壮汰はこれと言って何かをやりたいと感じる事が少なくなった。勿論学問や剣の稽古等は武士の子として必須事項である。だがそれ以外に何かをしているかと問われれば、何もしていないと返す他無い実状であった。
学問は嫌いではない。元来より恐ろしい程聡明だと言われてきた壮汰である。今過去を顧みるに、二歳かそこらで文字を覚えんとしていた自分に今更ながら驚き、感心した。幼い頃より人一倍取り組んできたつもりの学問である。だからという訳でもないが、壮汰は益々日々書物に没頭する様になった。これも将来何かの役に立つかもしれないと天候や剣術、地理学を主に学んだ。そして医学も少々。だが何よりも壮汰が好きだったのは古文書である。古参の家臣達に頼み込んで、入手してきてもらった物がたくさんあつた。だがいかんせん内容が難しい。完全な独学である。解読は困難を極めたが、それでも読める様になってくると達成感を感じたものだ。学問は壮汰にとって常に身近なものだったといって良いかもしれない。
剣術では、木刀でひたすら板を叩いていた。その成果もあってか、以前に比べて大分短時間にその板を割れるようになった。そして時々家来達に相手になってもらったりもした。とは言っても皆、呪いが染っては堪らぬと相手は毎回交代制であった。
たまにふと、何につけても師が欲しいものだと思った事もある。だが、呪いの事もあって無理だろうなと苦笑して諦めた。
<お詫び>
近頃全く更新出来ず申し訳ありません。
今年は受験がありまして、3月半ばまでは更新を休ませていただきます。
放置した訳ではありません;m(_ _)m
これからもよろしくお願いします!
三十三
「…町?」
思わず、鸚鵡返しに聞き返してしまった。そんな壮汰の呆けた顔に、その家人はクスッと笑って頷いた。
「ええ。ほら、以前あなた様と佐吉様が、よく下りていらした町…ふふ、私、実は時々目撃しておりましたのよ…その方向とは反対側の」
見られてしまっていたのか。自分と兄様も、まだまだ未熟に過ぎたのだな。
壮汰は苦笑いをし誤魔化した後、訪ねた。
「では、この屋敷付近にはもう一つ町があるということか」
「はい」
家人は詳しくその町の場所を教えてくれた。我ながら、その存在すら知らなかったとは不覚である。壮汰が礼を言うと、相手は少しからかうように、
「壮汰様、町に行ってみたらいかがです。もしあなたの屋敷の塀を越えるお姿を見てしまっても、私は告げ口などいたしませんよ」
と返してきた。
この様な経緯で壮汰がもう1つの町の存在を知ったのは、十三歳の時である。この頃には、茂吉以来喜内家に仕えた家臣達は既に他界していた。皆、一昨年の疫病で没したのだ。彼らばかりではない。若い者も老いた者も、多くが亡くなった。壮汰もその時高熱で倒れ、自分でも死は避けられぬと思ったのだが、なぜか幸運にも完治した。
そういうことがあって、壮汰が恐れていた斉造や睦英__彼は寿命であったが__はもう居ないのである。
「行ってみるか」
ふと古文書から顔を上げ、壮汰は呟いた。そういえば最近は庭の散歩もしていない。もう今は春だ。こんな調子ではまた、庭の美しい景色を見逃してしまう。
何かがあるかもしれない。そんな気がしたのだ。
明日その町に行こうと、壮汰は机に置かれた十字架を見ながら思った。