私からはこの歌劇を語る上で欠かせない小道具について語らせてもらおう
「鳥のように自由に空を飛びたい」誰しも一度は思ったことがあるだろう。
だが人間は飛ぶための装置の力を借りなければ空を飛ぶことは出来ない。
では何故人間は飛べないのか
「その答えは人間の体は空を飛ぶように出来ていないから?」 この解答は一見すると正しいように見える、だが不正解だ、そのような誰にでも思い付く答えが正解であるはずがない。
正解は「世界の法則(ルール)が個の法則(ルール)を上回っているから」
個の法則(ルール)とは自分自身が作り出したルール、自己を書き換え、世界を書き換える力。
己の作り出した法則を宇宙の誕生以来この世界を支配してきた世界の法則(ルール)に認めさせる事。
“全を凌駕する一”
それこそが我々が能力と呼んでいる物の正体であり真実。
しかし、元々我々の世界、“人間道”にはその全を凌駕する一、個の法則(ルール)は存在しない。
それは終わりなき闘争の世界、“修羅道”の理。
我々の世界に存在するはずのない物である。
しかし修羅道の理が人間道に存在しているのは紛れもない事実、それらが意味する事はただひとつ「修羅道の理が人間道に流出している」
この流出云々について語ると長くなるので省略する
やはり思った通り、あなたは一つの解に到達している。
そう、その通り。
いまこの世界を包んでいる法則。
あなたの言葉をお借りするならば、修羅道――人間存在に修羅の道を強制させる苦の摂理。
もしそれがあるとするならば、そうですね、物理法則はもっとも近しい苦の発現といって差し支えないでしょう。
「空を思うように飛びたい」
「上から物が落ちてきても当たらないようにする」
「一瞬にして片付けたい、一瞬にして他の場所に移動したい」
しかし我々はそれを思うだけで可能とすることが出来ない、強力な物理の制約。
その法則性が絶対だというならばあまりにも滑稽で整い過ぎていて、上手く働き過ぎていると思いませんか?
物理という制約の中で人は思考し様々なものを求め研究し発展させてきた。
その制約下における形の上では確かに、可能となった事例は多いのかもしれません。
しかし、疑ってみるべき点が此処にある。
「本当にそれは可能になっているのか」
気が付いた時には無明という鎖に強制的に繋がれていた、その悪夢の中で、
勝手に思惑を植え付けられ勝手にコンセプトを設けられているだけに過ぎないのではないか。
修羅道という言葉を用いましたが、実際には修羅道という理ですら存在しておらず、いろいろなものがごちゃまぜになって腐り果てた「ナニカ」がこの世界を支配しているのです。
否、支配という言葉では少ししっくりきませんね。
意味も実存もなく、ただそこに漂っている。ただただ存在の否定、偽りだけを露呈して。
言葉で表現できるものではない以上、ニュアンスとしてはこのような感じで表現する他ないですね。
現実の物理次元、これがいかに脆く、存在(実存)にとって否定されるべきものであるか。
超える時が来たのです。
「神は死んだ――――」
ニーチェの有名な言葉です。
またいずれ説明してまいりましょう。
皆様が現実という名の偽りそのものから解放されるために。
人は気付かない間に「諦めさせられていた」。
しかし私は宣告します。
「諦めは人を殺す」と。