で、小説ってなんだ?

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1:匿名:2017/07/15(土) 03:49

 小説の正体を突き止めたくなったんよ。
 暖かい午後、カフェで、楽にして、みんなで小説について語り合う、という設定だから、
気楽に入って喋ってね。
 気の合う仲間に囲まれてリラックスをしながらぼくは、
あくびをしながら思いつくままに、自分の考えを言い始める。
 

2:匿名:2017/07/15(土) 03:57

 どうも、異世界性という要素が欠かせない気がするよ。
 オズの魔法使いや、不思議の国のアリスの世界は、
夢の世界だよね。
 では、小説とは、夢なのかな。じゃあ、わざわざそんなもの書かなくたって、
家で寝たほうが早い、ということになりはしないか。
 つまり、小説は、「語るに値する夢」だ、ということになるんじゃないかなあ。
 それはどういうことかというと、例えば、ぼくが何か大切なことを知っていて、
君らがそれを知らないとする(仮にだよ)。するとそれは語るべきだということになる。
 しかし、語るに値することってなんだろう?
 いくつか作品を見て、調べてみようか。
 
 

3:匿名:2017/07/15(土) 04:01

 ではまず、「オズ」から。
 ドロシーが、異世界に転生して、冒険をして帰ってくる話。
 これはどうして、語るに値する夢なのか。
 うーん(僕はコーヒーをすすってしばらく黙る)。

4:匿名:2017/07/15(土) 04:28

 ……ドロシーは、この冒険で、何を学んだんだっけ。
 内容がうろ覚えだけど、確か、仲間と力を合わせることを学んだと言ってもいいだろうね。
 そして、困難を乗り越えて、悪い魔女を倒して、最終的に、魔法の靴でカンザスに帰る。
 これは、「生きる練習」をした、と言えるんじゃない。ゲームでいう、チュートリアルの感覚ね。
 小説って、人生のチュートリアルなのかなあ。
 ねえ、断定は危険だけど、結構いいセンいってる説じゃない?
 「ハムレット」みたいな人生を送るのはたまらないけど、「ハムレット」を見たり演じたりするのは、
楽しかったりする。それってさ、チュートリアルみたいな安心感から来ている、と言っても、
いいんじゃないかと思うんだよなあ。
「こんな人生もありますよ」っていう。

 そういえば、「ハムレット」の中に、演劇とは人生の鏡だ、というセリフがあるけど、
人は鏡で客観的に自分を見て、髪型を直したりするように、
演劇を見て、人生について反省することができる。それはいいことだ。語るに値することだ。うん、うん。

 え?分かりにくい?ああ、僕自身何言ったかよくわかってないな。あはははは!
 だからね、その、科学でいう実験みたいなものだよね。
 SFとは、思考実験だ、という安部公房の言葉があるけど、もっと広い意味で、小説とは人生の実験だよ。
 
 いやでも、そうじゃない小説だっていろいろあるな…。うーん(冷めたコーヒーを飲み干す)。

5:匿名:2017/07/15(土) 04:40

 僕の言う「そうじゃない小説」とは、例えば官能小説だ。

「ぶっ!」
「まあっ!」
「ええw」

 …うわ、オレンジジュースがかかったじゃんか(ふきふき)。
 でも、官能小説だって、バカにならないんだって。マルキ・ド・サドのものや、バタイユの「眼球譚」のように、
高い文学性を誇るものがたくさんある。
 これらは、「人生のチュートリアル」というよりも、「人生の創造」と言ったほうが近い。
 社会にとって、「オズの魔法使い」のように生きることは望ましいが、「悪徳の栄え」のように生きることは
犯罪である。
 ……すいませーん!コーヒーお代わり!

6:匿名:2017/07/15(土) 05:01

 でね。
 「悪徳の栄え」もやっぱり、「語るに値する夢」なんだな。
 だって、誰の心にも「悪徳」はあるのだから、それをどこかで解放しなくちゃ、逆に不健康だよ。
 精神病にだってなるかもしれない。
 オズを読むことで、人は自立するが、サドでもう一度、せっかくの自立をぶち壊すんだな。
 フロイトは、エロスとタナトスということを言った。これは、
 「かいじゅうたちのいるところ」に似ている。
 くだらない家庭から、逃走し、またお腹が空いて、くだらない家庭に帰ってくる。
 これをひたすら繰り返すのが、切ない人間の歴史かもしれないね。

 お、コーヒーが来た。ありがとう。
 …あのウエイトレスの子、すごく可愛いね。アルバイトかな。
 いや、何もしないよ。本当だよ。
 あ、この曲聞いたことあるな。なんだっけ。

「チャイコフスキー」
「スラヴ交響曲」

 それな(コーヒーをちょっとすする)。
 って熱!

7:匿名:2017/07/15(土) 05:25

 ふうふう(コーヒーに吹きかける)。
 ところで、カフカの「変身」。あれ、なんだろうね。
 
「ああ、あの虫になる話か」
「ニートの比喩」
「でも、カフカの時代に、ニートとかあったのかな」
「よくわからないけど、そこがカフカの偉いところさ」

 うーん、なるほどなあ。すると、「語るに値する夢」でいうと、
「変身」は、どういう意味で、語るに値するのかな。
 まず、あれは自立する話か、自立をぶち壊す話か、どっちだと思う?
 
「自立をぶち壊す話。ニートになりたくても、現実でニートになったらいけないから、
小説でニートになった」
「いや、自立する話だな。ユダヤ人は,もともと虫のように迫害されてたんとちゃうん?
そこで、その虫であることを、しっかりと生き抜くために、虫の話を書いた」

どっちだよw
まあ、どっちでもいいさ。
そこのところは、どうせ、カフカしか知らないし、カフカも知らないのかもしれない。
しかし、感じるのは、「小さな爆音」だね。
だって、誰が虫に耳を貸すだろうか?虫が語るのでない限り。
日本のことわざに「一寸の虫にも五分の魂」と言うのがあるけれど、ユダヤ人も結構日本人に似て、
そういうことを考えていたのかもしれないね。
だから、「生きることわざ」として、ヨーロッパ文明に、カフカは「語るに値する夢」なのだろう。
イソップ寓話みたいな。

8:匿名:2017/07/15(土) 05:47

 ところで、いい小説を読むと、中庸だなって思う。
 偉そうな王様に恥をかかせる。マッチ売りの少女に天国を見せる。
 上は下に。下は上に。そうして全てを真ん中にする。そんな働きが、小説にはあるようだ。
 猫に小判。王様にアラビアンナイト。女の子にシンデレラ。
 世の中、うまくできてるもんだ。
 じゃあ、物語が必要ない人って存在するのだろうか。
 逆だね。物語が必要ない人には、すでに物語があるのだ。
 誰だって食べなければならぬ。食欲がないのは、病気か、すでにお腹いっぱいか、
どっちかだ。

「zzzzzzzzz」
「zzzzzzzz」

って、みんな寝てるし。
起きろー。

9:匿名:2017/07/15(土) 06:08

「むにゃ」
「むにゃ?」
「ファアアアアアwwwwwwww」

 ちょwww
 ところで、小説家は、物知りだろうか?
 そりゃ、人並みに物知りだとは思うけどね、それよりも、人々をよく見ている、ということの方が、大切だと思うな。
 つまり、相手の心になること。相手の心は何を読まなければならないか?そこを考えたら、自然と書くべきことも決まってくる
と思う。
 僕は今、世阿弥の「風姿花伝」を思い浮かべている。
「陰には陽を、陽には陰を。これは秘伝である。」
と書いてあるけど、これはさっきの、上は下に、下は上に、ということと一緒じゃないかな。
 だから、僕が小説家に求めるのは常識と、思いやり、この二つだな。
 相手の気持ちになること。奥義というものは、いつも単純だ。
 
「それは、ただの迎合だ」

 違う。
 迎合する人は、自分のことしか考えてないが、相手の気持ちになるということは、むしろ啓蒙と呼ぶべきじゃないのか。

「うーむ」

 うーん(コーヒーを飲む)。

10:匿名:2017/07/15(土) 06:18

 ま。
 ここで僕の考えをまとめると、
 
1、小説とは「語るに値する夢」だ。
2、「語るに値する夢」とは、「上を下に、下を上にする夢」のことだ。
3、「上を下に、下を上にする夢」を書くためには、「相手の気持ちになること」と、「常識」が必要だ。

 ということになるかな。
 まあ、まだまだ時間はたっぷりあることだし、色々おしゃべりしよう。
 僕にもまだ考えたいことがたくさんあるんだ。
「文体について」
とか、
「相手の気持ちになるためにはどうすればいいか?常識を身につけるためにはどうすればいいか?」
とか、興味深い問題だな。
 それに、僕の理論だって、完全なはずがないんだ。喜んでアンチテーゼを受けよう。
 他にも、いろんな小説について、分析して見たいから、みんなも、好きな小説とか、教えてね。

11:匿名:2017/07/15(土) 06:31

 文体の問題。
 
 詩は、言葉が美しい。
 散文は、書かれている内容が美しい。

「相手の気持ち」に応じて、散文か、詩文か使い分けるべきだ。
では、それはどういう…?

12:匿名:2017/07/15(土) 07:24

 歴史を見ようじゃないか。
 韻文の究極を、「オデュッセイア」としよう。
 散文の究極を、「ボヴァリー夫人」としよう。
 
 オデュッセイアのような神話は、暗誦される必要があったんだね。当時、紙がなかったから。
 そこで、韻を踏んだ方が、語感がよく覚えやすかったんだ。
 つまり、話しやすかったんだ。

 そして、時代が進んで、印刷ができるようになると、言葉は、話すものから書くものと変わった。
 「話しやすい」から「書きやすい」が文章の基本となった。
 すると、文章は法律の文章のように、無機質なものとなった(事実、フローベルも、カフカも、法学部出身である)。

 しかし、それで本当にいいのか?
 話すように書いてはいけないのか?

13:匿名:2017/07/15(土) 07:50

 …フローベルとホメロスのせめぎ合いは、一般と特殊のせめぎ合い、ということになるかな。
 みんな同じ。みんな違う。これは見ての通り矛盾さ。だけど、いみじくも

 みんな違って、みんないい

と金子みすゞが言ったように、みんな違うだけ、あるいはみんな同じというだけでは、相手に愛みたいな思いは伝わらないと思うな。
 みんな違うなら、僕の個性は誰にもわからないし、みんな同じなら、僕の個性は誰にも認められない。
 そこで、これらを両立した文章という、荒技を成し遂げたのは、太宰治の文体ではないだろうか。
 太宰治の文章は、時々、どきっとするね。
「もっとこっちに寄りたまえ」
とか、書いてある。
 全員を、一人一人愛する書き方だ。
 このあたりが答えかな。

14:匿名:2017/07/15(土) 08:08

 あれ、みんなしらけてる…?
 ごめん、確かに、僕、どうかしてた。
 文体なんて、勝手に決まってしまうものだ。

15:!:2017/11/05(日) 22:32

エッセイ………かな?


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