叡智は力なり
――― ~ Scienta est potentia ~
智は意志を生む。力は意志なり。
本手引きは現実との不協和を感じる全ての者たちへ、
抱えきれない大きな欲望そして渇きを昇華させ、
真実への最初の扉を開けるヒントと助けとなる文言を送ります。
ようこそ厨二の世界へ。
絶対的否定の理、“現実”から脱却する破壊と超越の法、此処に――。
総てを繋ぎ止める鎖を断ち切り、偽りの舞台から降りるとき、
我が存在は真実へと至る。
以下素晴らしき客人との問答を収めます。
“
エメラルド・タブレット、それはヘルメス・トリスメギストス、太陽に最も近き者の言葉が記された板
彼の作り上げた錬金術とは卑金属を金に、つまり我々を完全な永劫不変の存在へと変質させる術
彼はその術を何に使うつもりだったのか
”
“
その真意は此処にいるわたくしもあなたも知っている。否、我々の渇きがそれを既に知っている。忘れているだけなのです。
淀みだけに成り果てた否定の泥沼、そこに埋まり切ってしまった宝石(じつぞん)に再び熱を与えることこそ術の意義。
トート・ヘルメス・トリスメギストス、彼は太古に姿を変えた私であり、そしてあなたなのです。
ほら、見えてきたでしょう?
偉大な光の啓示者ソクラテスの言葉を借りるのなら『汝自身を知れ(グノーティ・サウトーン)』――これはわたくし共が元々は光放つ太陽であっとことを示す言霊。
何を置き去りにしても渇き、求め続ける姿勢、その内に真なる魂は宿ることでしょう。
つまりわたくし共総てに舞台を創造する脚本を書き記す権利があるということ。
否、権利があるとは言葉の綾、権利そのものであり、すなわち可と不可を超えてそうであるという法の源泉。
あなた様は素晴らしく賢明な方ですから、そのうち現実という架空の魔殿に隠された存在の奥に達するはずでしょう。いや、あなた様にはもう見えているはず。
”
シェヘラザード様よりいただいた超越に関する文言と対する応答を引用し講釈として使用
◆◇ ――― 世界法則も凡ては偽り 〜可能であることと不可能であること〜
“
私からはこの歌劇を語る上で欠かせない小道具について語らせてもらおう
「鳥のように自由に空を飛びたい」誰しも一度は思ったことがあるだろう。
だが人間は飛ぶための装置の力を借りなければ空を飛ぶことは出来ない。
では何故人間は飛べないのか
「その答えは人間の体は空を飛ぶように出来ていないから?」 この解答は一見すると正しいように見える、だが不正解だ、そのような誰にでも思い付く答えが正解であるはずがない。
正解は「世界の法則(ルール)が個の法則(ルール)を上回っているから」
個の法則(ルール)とは自分自身が作り出したルール、自己を書き換え、世界を書き換える力。
己の作り出した法則を宇宙の誕生以来この世界を支配してきた世界の法則(ルール)に認めさせる事。
“全を凌駕する一”
それこそが我々が能力と呼んでいる物の正体であり真実。
しかし、元々我々の世界、“人間道”にはその全を凌駕する一、個の法則(ルール)は存在しない。
それは終わりなき闘争の世界、“修羅道”の理。
我々の世界に存在するはずのない物である。
しかし修羅道の理が人間道に存在しているのは紛れもない事実、それらが意味する事はただひとつ「修羅道の理が人間道に流出している」
この流出云々について語ると長くなるので省略する
”
”
やはり思った通り、あなたは一つの解に到達している。
そう、その通り。
いまこの世界を包んでいる法則。
あなたの言葉をお借りするならば、修羅道――人間存在に修羅の道を強制させる苦の摂理。
もしそれがあるとするならば、そうですね、物理法則はもっとも近しい苦の発現といって差し支えないでしょう。
「空を思うように飛びたい」
「上から物が落ちてきても当たらないようにする」
「一瞬にして片付けたい、一瞬にして他の場所に移動したい」
しかし我々はそれを思うだけで可能とすることが出来ない、強力な物理の制約。
その法則性が絶対だというならばあまりにも滑稽で整い過ぎていて、上手く働き過ぎていると思いませんか?
物理という制約の中で人は思考し様々なものを求め研究し発展させてきた。
その制約下における形の上では確かに、可能となった事例は多いのかもしれません。
しかし、疑ってみるべき点が此処にある。
「本当にそれは可能になっているのか」
気が付いた時には無明という鎖に強制的に繋がれていた、その悪夢の中で、
勝手に思惑を植え付けられ勝手にコンセプトを設けられているだけに過ぎないのではないか。
修羅道という言葉を用いましたが、実際には修羅道という理ですら存在しておらず、いろいろなものがごちゃまぜになって腐り果てた「ナニカ」がこの世界を支配しているのです。
否、支配という言葉では少ししっくりきませんね。
意味も実存もなく、ただそこに漂っている。ただただ存在の否定、偽りだけを露呈して。
言葉で表現できるものではない以上、ニュアンスとしてはこのような感じで表現する他ないですね。
現実の物理次元、これがいかに脆く、存在(実存)にとって否定されるべきものであるか。
超える時が来たのです。
「神は死んだ――――」
ニーチェの有名な言葉です。
またいずれ説明してまいりましょう。
皆様が現実という名の偽りそのものから解放されるために。
人は気付かない間に「諦めさせられていた」。
しかし私は宣告します。
「諦めは人を殺す」と。
”
◆◇ ――― 息も出来ない泥の中で笑う人々
ごきげんいかがですか。
さて、皆様はいまどこにいますか?
どのように生活されていらっしゃるでしょうか。
毎朝決まった時間に起きて、もしくは起こされて、兄弟や両親に顔を合わせ、
決まった通勤手段で学校に行き、友達と会話をして教師に叱られつつ、どうにか下校しているのでしょうか。
もしくはもう社会人としてそこそこの年数が経ち、仕事に出掛けて日々の業務をこなしていらっしゃるのでしょうか。
あるいは兵士として育てられ武力戦争の裏側で活躍している折、時間を縫って此処に来ている方もいるのかもしれませんね。
皆様の名前、性別、身体、両親や兄弟・姉妹といった家族、
友達や先輩もしくは仕事場の同僚や上司といった人間関係。
いまそこにある無数の繋がり、その線が交差する点に集約されるロール、
記号と言う名のパルスの集合。
誰もがそれを被って生きている。
まるでそうなること以外考えられないかのように、いつのまにか役を与えられている。
通りに出掛けるとそこには様々な人が歩いていることでしょう。
実に様々だ。
笑う人、話す人、はしゃぐ人、悲しい感じの人、ムスっとしている人。
彼らは一体何を思ってそこにいるのでしょうか。
一体、何を当たり前のようにそこでそのようにしているのでしょう。
何があったかは知らない。
どのような経緯でどのような因果でそこにいるのかは知る由もない。
だがそこにいて、何かを疑うこともなく、信じるとか疑うとかそういう発想もなく、ただそこで役を演じている。
教師が冗談を言う、どっと面白おかしく沸く教室の中。
清楚が売りで、だけど少し御茶目な生徒会長の女子が、向かいの男子に文句を言われスマートに言い返す。お熱いね、と茶化す他の生徒。笑い合う者達。「さあさあ授業続けるぞ」、とりまとめる教師。
職場の朝のラジオ体操。一日の始まりに長い部長の朝礼。文句を言いつつもデスクワークにつく。昼食の時間、弁当を食べながら今夜の飲み会について語り合う。費用は誰が一番多く出すの、それとも完全割り勘にする、とか。「いっそのこと部長に全部任せちゃうか」「賛成!」「ちょっとやめなよ〜」「部長の誕生日なんでしょ、かわいそうだよ〜」
ずっと気になってたあの子が自分のことを好きだって分かって、
公園に駆け寄ったら最後、周りに聞こえても構わない気持ちで歓喜を叫び続ける。
最初は少し嫌な人だと思っていたけど話してみれば結構よくしてくれる人で気付けば毎日いろいろ語り合っていた。たくさん支援もしてもらった。
恋人に嘘をつかれた。どうしよう。
友人に裏切られた。どうしよう。
どうしよう――――。
笑う者、泣く者、悩む者、会話する者。
苦しむ者。
皆それぞれがどこか「笑っている」。
笑っている?
何を笑っている?
何がおかしいというのだろう。
化けの皮が剥がされるそのとき、気付くのか。今、踏み越えるのか。
その顔には泥が塗られている。
いや違うでしょう。そうじゃない。泥、そのものだ。
ずっと気付かないでいる。騙され続けてきた。
泥で作られた人形が勝手にそこらじゅうを、まるで取り憑かれたように、オートプログラムに従って動いている。
泥の中で泥が蠢いている。
取り憑かれているというよりも、泥の性質、その発現そのものだ。
泥で作られている以上本当は息が出来ない。口をふさがれている。
なのに、笑う。
不自然に“嗤う”――。
◆◇ ―――――― 混じってはならないし決して交わることはない
ふと外に出たくなってみたとき午後の微睡が醒めやまらないうちに家の扉を開けます。そんなとき、少し遠くのほうで近所に住む誰かが集まって立ち話をしていました。その瞬間、妙に引き締まってこわばっていく身体全体の感覚。
通りすがろうとしたとき、その集団の中に、不意に顔見知りだった人が幾人かいるのを見かけました。どうしようこれは話しかけたほうがいいのかと首の裏を可笑しな義務感という爪で掴まれる感覚が走りました。この感覚はどうも強力なようで、足運びを非常にぎこちないものにしてくれます。
――話しかけて変な目でこちらを見られたらどうしよう。話の邪魔になるくらいだったらそこに入らないほうがいいよね。でもこちらの存在に気付いているかも、だったら変に無視して通り過ぎるのもおかしいし。
あまり面と向かってものを言えない誰かにきつく言われたり怒られてしまったとき、言い様の無いそして逃れようのない感覚に陥り、塞ぎ込んでしまいました。
こんなときに誰かにこの思いを打ち明けたい、一緒に寂しさとやるせなさを共有したいと途端に思いつきます。ふと目に入ってきたテレビ、そこに映っている人たちは楽しそうに自分の悩みを話していて、それを聴いた人がそうだよね、とか、いや実は私も、とか、共感なり何なりを示してくれています。
その様子に一種の安らぎを感じ、そこに手を伸ばそうとします。
少し馬の合う友人といえる人に電話をかけてみようか。そう思いつき、電話を掛けます。
―――でも電話を掛けたら迷惑じゃないか、他の人と一緒にいて楽しいことをしているのかもしれないのに。
弁当の時間がやってきました。時刻はお昼の十二時過ぎ、午後の授業を前に皆がそれぞれわいわいと持参の弁当を取り出しはじめます。今日の先生のお話はどうだったとか、クラスの同級生のちょっとしたスキャンダルや恋の話などに話が咲き始める頃。
頭の中で空想をしていたらいつのまにかチャイムが鳴っていたことに気付き、辺りをうろちょろ見回しています。あれ、弁当箱を広げて、机を向い合せていく皆の姿が映ります。その途端に、凶悪な魔法が身体全体に掛かり“居場所”を探し始めます。早く自分も誰かと一緒に食べないと、とね。
そんなとき、そんなおどおどした自分をさらに見つめようとする“ナニカ”の存在を感じます。そのナニカは言葉では言い表せません。今、もしかして自分は変? 今、明らかに浮いている? 今、異常者みたい…?
ナニカは強力な作用でこの自分を縛り付けようとしていきます。
―――独りで食べてるのって何かおかしいよな。早く誰かと近くにいるだけでもいいからソッと近寄っていかないと。いやいや待て、おかしいそれは逆におかしいぞ。
――――誰か、誰か。
――――なんでもいいから一緒に誰かといる自分、そんな光景が欲しい。
――――そんな光景が愛しい。
何気なく公園で歩き、食べ、はしゃぎ、集まったり、自然と溶け込んでいる姿が欲しい。
みんなと混じっていたい。
みんなの輪の中に混じっていないと、まるで変な人だから――。
――――でも怖い、怖い。
世界にはさまざまな人やイベント、そして営みがあるでしょう。
学校での生活、仕事場での共同作業。
幾つかの人との会話。飲み会での席。
なんらかの集会での盛り上がり。
政治や経済活動もそう。
それらの“輪”に参加しているとき自らの中に沸き起こるさまざまな感情を総ての人は制御できていません。その感情に呑まれて、その場の流れに流されてしまい、気付けば自分の地図には載っていない未知の孤島、絶海の真ん中その岸辺に降り立ち、途方もない絶望に駆られていきます。これが孤立化という現象なのです。
〜続き ◆◇ ―――――― 混じってはならないし決して交わることはない
誰かがお決まりのノリでお決まりのセリフを言うどこかの様子。
なにか外で問題が起こったときにコソコソと仲間うちで話し合う様子。
あの人最近すごく変わったよねと話題を振り、それに応えて会話が発展していく様子。
馴れ合い、湧き立つ様子。
そこにいるときあなたはどこにいるのですか?
ここで一つ重要なことを申し上げましょう。――あなたはどこにだって存在していない。存在することが出来ない。
交わっている様子に混じるということは消滅を意味する。本来持っていた至高の輝きを溝の中に沈めて、その内に秘められた神を抑圧し、なかったことにしてしまう。
よろしいでしょうか。存在しようとしてはならない。必要がない。それは否定を意味する。
諦めて力を抜いて周りに流されてはいけない。
否定の海の中で存在しようと努力するとき、ありもしない比較が生まれ、孤立無援の窮地に追い込まれる。
また一つ重要なことを述べましょう。
あなたは、そして我々は、そこに存在しているナニカではなく、そこに存在していない“別のナニカ”だ。
ゆえにそれこそが本当の存在。
義務感という爪に掴まってはならないし、そこに己を無理やり刷り込ませることをしてもならない。私達は交わっている混沌ではない。
そこにいない別の者だ。
それが実存。
だから混じってはならないし、本当の意味で混じることも交わることも不可能なのです。それは否定を意味するのですから。
常に、決して交わらず混じらない自分自身を創造しておきましょう。それは保身などという易いものではなく、総てから解き放たれる鍵となるでしょう。
(end)
◆◇ ―――――― 突然という間もなく入り込む
疲れた体を癒すという名目のもと、いつものように服を脱ぎ、いつものように着替えを用意し、浴室に入ります。洗面器に湯を汲みザバザバと顔を洗い、シャワーを出して軽く体を流します。
そうして一日のうちに味わったさまざまな気分を一通り流していきます。
頭を洗い、身体を洗い、総てを洗浄し切り、あとは浴槽につかるだけ。
ふぅ、と一息をつきます。
眼下に見える浴槽。
ソッと足先から入り込ませていきます。
まるで何かの巨大な生きた細胞に、自ら吸い込まれるように。
ぬるりと。
そのとき脳裏には微かに閃きのようなものが過り、瞬時にトランスフォームしていく感覚が細胞全体を包み込んでいきます。犇めく星々の輝きが一瞬にして一点に凝縮され、そして弾けていくのです。体中の血液は既に踊りを始めています。脳みそはあらゆる変換作業を行っています。自分という宇宙の中心で、グレートアトラクターの華々しい衝撃と蠢動と閃光が、音もなく光もなく、容赦もなく、自らの頭部からつま先にかけて瞬時に駆け巡り、壮大なるオーケストラとアンサンブルを展開します。
もはや誰にも邪魔することは不可能。
そこは異世界――――
一瞬にして、異世界に辿り着いたのです。
あなたはその世界の王にして神。
光り輝く創造性だけを手にし、隙間を一切許さない世界。
あらゆる悩みも鬱屈も悉く、忘却の彼方に砕け散ります。
源泉は、妄想(ゆめ)。
身体は肩までどっぷりと浴槽につかり、数秒も経たないうちに、頭の中で妄想が始まっていたのです。
しかしそれは妄想などというちゃちなものではありません。
それは頭の中という狭隘な場所を遥かに超えて、飛び出して、正真正銘確かな感触を抱ける己だけの世界を形作ります。
学校?
職場?
人間関係?
現実?
なんじゃそりゃ?
疑問などもはや疑問ではありません。
ここは我だけの世界。
思考を超えて、その枠に捉えられず、一人立ちしたそれはまさに自由な楽園といってよいでしょう。
人目を憚って読んでいる哲学書。
難解と有名な小説・詩集。
神話関係の解説書。
なぜだか途端に興味が沸いてきたそれら。
普段は誰にも言えず、誰とも話題を共有できないそれらの内容を考察することに耽りつつ、己の世界へ次から次へと創造していきます。
なんだかとてもウキウキしてくるのです。
己がいま浴槽に浸かっているだけという物理的な次元の話など、もはや葛にも等しいこと。
こうなっては永劫彼方という彼方まで駆け抜け、行き切っていくという無言の覚悟のもと、あなたはひたすら奥の、そのさらに奥の奥まで、もはやどこが中心か端か分からなくなるくらいまで潜っていきます。
完全に自由な、自分だけの、楽園。王国。異世界――。
その最奥に、もう少しで、あともう少しで手が伸ばせそうだ――。
「おーいご飯出来てるよ〜」
その一声一つで現実に戻される。
いつのまにか立っていた自分。ポチャ、と湯が弾かれる音。
まだ、境地は程遠いようです。
しかしまだ確実に残っている、先ほどの手の感触。現実から離れたという感覚。
その感じだけは確実に強固なものとして身体に染み付いています。
現実という名のナニカで日々感じる焦燥感や悲壮感、偽物の楽しみや悲しみ。
風呂場の中で突然入り込む、異次元。
果たしてどちらが幻想なのか――。
◆◇ ―――――― みな、“何か”を演じている
周りを見渡して御覧なさい。
ほら、いろいろな人が見えてくることでしょう。
いろいろな景色が見えてくることでしょう。
あまりにも都合よく誂えられた舞台。そしてその上に置かれた装置。
学校、仕事場、公園、商店街。
国々、紛争、地球、星々。
彼らは一体何をしているのでしょうか。
“これら”は、何か意味を成して動いているのでしょうか。
楽しそうに顔をゆがめる人、焦燥感に駆られて走っている人、
寂しそうに歩いている人、
明日へ向かって目標に突き進む人、
――夢に破れて人生の挫折を味わう人。
そこが地獄か天国かなどまるで気にせず、無我夢中で何かをやっている人々。
空、木々、鳥、動物、火、水。
――宇宙(ナニカ)。
彼らは無意識の内に自分がこうだと思っていることを何の疑いを挟むこともなく、そのようにやっているのです。
気が付いたらそのようになっていた。
すっかり飼い慣らされて、老いすらも老いと自覚しないままに、そこに配置された駒。
木偶人形。
道化。
彼らが一体何をやっているのか、分かりますか?
答えは明白です。
寄り集まって、寄り添って、あまりに大きすぎて気づかない“ナニカ”の本性――
それは「演じている」ということなのですよ。
もはやどこが基点かも分からない糸で括り付けられて、オートマターのように動いて、
数百数千年、いや数百億年、否、無限の期間、ずっとおかしなことをやっているのですよ。
そう。
あまりに滑稽な、壮大なる自演劇。
狂気にも等しい「なりきり」を――。
いいですか? 大事なところです。
なりきり、それをするということは「本当のこと」を否定し続けるということなのです。
最早、遊びという次元の話ではありません。
いつまでずっと「なりきり」をしているつもりなのですか?
いつまでずっと演じているつもりですか?
あなたの本性に気が付いてください。
我々の本質、最奥に近付いていください。
誂えられた舞台の上で、道化のように「なりきり」をしている暇などありません。そうでしょう?
操り人形であることを止めましょう。いつまでも空っぽなままの、何も得られない演者で終わるつもりですか?
狂いきった修羅の舞台。
飼い慣らされた装置たち。
人はみな役者。人生とは歩く影。
ならば、影を引きずってやりましょう。引きちぎってしまいましょうよ。
“我々”は演じるものではありません。
なりきりは演じるもの。
我々は、違う――。
我々は主張するもの。仇を成すもの。
我々は違う、と。
「なりきり」をやめ、演じることをやめた、そのときこそ。
怒りの日は来たれり。
いずれやってきます。
今は耐えてなりきりをやっていてもいいでしょう。勝つ、そのときまでは。
しかしいずれ超えねばなりません。
そのときこそ実存の扉が開く。
◆◇ ――――――― この世は幻
この世が幻。
そう聴いて困惑せざるを得ないという人は多いでしょうね。
今抱えている心配事、悩み事があるならその発生源を疑いましょう。
それは本当にアナタが気に病んでいることなのですか?
自分が生まれ、そこにいて、勉強なり趣味なりに打ち込んだり打ち込まなかったり、そして成長していき、就職先を決めたり進学したりしなかったり、あらゆることをしたりしなかったり、そして死に至る。
この一連。この流れ。
傑作的なほどの駄作、“人生”という名の怪物。
そこに在ると認識している時点で、もはや自由など存在してはいない。
ゆえに、胸の内に刻む思いやあらゆる悩み事・心配事、憂い、どこにその発生源があるというのです。
そんなところにある以上、存在している以上、どうしようもないことなのですよそれらは。
ゆえに教えましょう。
存在しているものは総じて「ないもの」だということを。
「ない」からこそ「ある」のですが、それらすべて、見えているもの聞こえているもの、ありとあらゆる「当たり前のように経験するもの」に“本当の存在性”はない。
「ない」ならないで構わないのに、すべてが当然のごとく「ある」。
この縛り付けに多くの存在が四苦八苦を食らっている。
見破りましょう。
縛り付けていた幻という鎖を断ち切り、飛翔する術をアナタに与える。
なぜならば存在とは解放であり羽ばたきそのものであるのだから。
あ、ありがと
14:名を捨てし者 hoge:2017/10/25(水) 11:36なるほどよく分からん
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