楚漢の魁

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1:伊168:2018/12/24(月) 19:28

第1話:始皇帝の死

陽城県の陳勝と言えば、野望の大きい男であった。
彼の字(あざな)は渉という。渉とは至る、届く、経験する、関わる、動かすなどの意味がある。
その言葉通り、彼は、

「俺はいずれ富める身になる」

だとか、

「俺は天下を動かす。それか天に関わるる人間になる」

そう言って期待に応えようというのか。それは定かではないが、ともかく大人物になろうとしていた。
だが、周囲の者からは、農民ごときが何を言うか。としか思われない。
そう、陳勝は富貴でもなければ豪商でもない。しかも、農民は農民でも豪農ではなく日雇い農夫である。
収入も、位も下の下である。そんな人間が大言壮語するのだから、周囲の者−−取るわけ雇用側からしたら失笑するしかなかった。
そして、大言壮語も1、2回ならば、嘲笑するぐらいで済むだろうが、しつこいと頭にくるものである。
雇用側の豪農は少し嫌がらせをしてやろうと思って、

「お前のごとき日雇い農夫が栄えるものか。寝ぼけたことを言うでない……ほら、布団を用意しておいたから、眠気が覚めるまで好きなだけ寝るといい」

と戯けた声で言った。すると陳勝は一つため息をついて、

「嗚呼……燕雀安知鴻鵠之志哉(ああ、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや……ああ、燕や雀のごとき小者がどうしてヒシクイや白鳥のごとき大人物の志を分かるというのか、という意味)」

と呟く。バカにされて豪農は顔を赤らめつつも、このような見事な返しを思いつく陳勝の頭の良さに驚嘆したので、何もいえなかった。
そう、陳勝はただ貧しいだけで馬鹿ではない。むしろ多少の教養や地頭はあったのだ。
だが、下手に賢かったことが彼を不幸な目に合わせることとなる。

紀元前209年。秦の二世皇帝・胡亥(コガイ)の治世である。
人が死ぬるのも、誰かが後を継ぐのも当然のことである。しかし、この胡亥が後継になったことは秦の民だけでなく秦そのものにとっても不幸であった。
そもそもこの男は皇帝になれるはずもなかった。

2:伊168:2018/12/24(月) 19:30

第2話:大秦帝国の凋落

第2話:大秦帝国の凋落

彼は、先代の始皇帝・嬴政(エイセイ)の風格を何一切継いでいなかったのだ。
嬴政は腐れ儒者を排除する、度量衡を統一するなど、利己主義的な君主であっても、有能であった。
だがこの胡亥は、父・嬴政に愛されていただけの男に過ぎない。天下が望む本来の皇帝は嬴政の長子である扶蘇(フソ)であった。
扶蘇は慈悲深い男で、治世の名君と言えた。だが、父とは相容れず関係は悪かった。
彼は諫言によって不興を買い、蒙恬(モウテン)将軍率いる辺境の国境警備軍の監督役に左遷されていた。
だが、嬴政は英雄である。いかに扶蘇が憎く、胡亥が可愛くとも長子を跡継ぎに立てることは常識であるし、扶蘇の方が優れることもわかっていた。
嬴政は頭を抱えて考えた挙句、扶蘇に継がせることを決めていた。
だが、これを喜ばなかった人物がいる。宦官(皇帝の世話係)の趙高(チョウコウ)である。
趙高は戦国七雄(燕、趙、斉、楚、魏、韓、秦のこと。嬴政の代に統一された)の一つ、趙の人である。
趙と言えば、秦の将軍白起によって40万もの働き盛りの男が殺戮された国である。これは嬴政の代の出来事である。
人(あくまで支那の)とは同郷のものに強い親近感を覚えるものである。同郷であるというのは、兄弟も同じだ。同じ国の人間が大量に殺されて黙っていられる人間はそうそういない。
趙高もその一人であった。彼は趙の公族であったから、恨みは特に大きかった。
彼はその恨みを晴らすべく、宮刑を受けて宦官となり、秦に仕えたのだ。
だから、彼としては扶蘇のような有能な人間が上に立つと、復讐が難しくなる。
復讐をするなら−−国を滅ぼすならば、とことんバカな人間を上に付ければいい。それが、胡亥であった。
嬴政の5度目の巡幸の折、天下の英傑・嬴政は突如病死した。
君主が死んだならば、後継者が必要である。
今動けば復讐が出来る。そう考えた趙高はまず、影響力のある丞相・李斯(リシ)を、

「私の言う通りにしないとあなたの命はありません」

と言って、私兵を使って拘束した。李斯は命が惜しくなって、

「分かった。言う通りにする」

と返答した。彼としては趙高ごときの言いなりになるつもりはなかったが、命を人質にとられてしまったら如何に謀の得意な彼でもどうしようもない。
見事李斯を抱き込んだ趙高は嬴政の車に乗って、食事を取り続けた。それは、時間を稼ぐためである。復讐のためなら死体と食事をしても良かったのだ。
ある程度時間を稼ぐと、捏造した遺言書を掲げ、胡亥を帝位につけ、扶蘇を自殺に追い込んだ。
彼の作戦は簡単に成功してしまったのである。
このような経緯で立てられた皇帝がまともに政治なぞできるわけがない。
胡亥は駄々をこねて宮殿を建てさせたり、対抗勢力となる親族を大量に粛清したりするなど暴虐を極めた。
名将の蒙恬までも趙高の言われるがままに殺してしまった。
さらに民に異常なほどの労役を貸した。
民衆にとっては悪魔のような政治であるが、胡亥は、

「権威をつけるためだ。仕方ない」

と言って全く省みようとしなかった。ずっとのほほんとしている。
この労役のために呼ばれた民衆の先導役として陳勝が選ばれたのだ。これは、陳勝が読み書きができ、素養もあった故の人事である。

3:伊168:2018/12/24(月) 19:31

タイトルが重複してしまいました。申し訳ありません。

4:伊168:2018/12/25(火) 21:26

第3話:漁陽への道

「全く陛下は何を考えているのか……」

陳勝は指揮官に聞こえないように小声で愚痴った。流石に大声で言えば斬り殺される。死んでしまっては意味がないことくらい陳勝は分かっていた。少なくとも今の陳勝には滅びの美学なる概念はない。
後ろの農民たちをチラリと見て陳勝は胸を押さえた。姓名は愚か顔も知らぬものばかりであるが、農民だった陳勝にとっては強制的に労働か兵役に付かされる彼らが不憫でならない。彼らにとっては気ままに土を掘って水を運んで年を取っていくことが望みであるはずだ。
平穏に暮らすという望みすら叶えて貰えぬのは不憫でならない。しかし、彼らがちっぽけな夢しか持たなかったから自分のような先導役の兵士ではなく使い捨ての−−辺境警備の雑兵にしかなれんのだろうとも思う。自分も恐らく辺境警備に当てられるだろうが、先導役であるので、伍長か什長には慣れるだろう。ちょっとした部隊を率いることもできるかもしれない。
考え込むうちに陳勝は、

(こんなことを考えているよりも彼らを無事に届けてやることを考えねば)

と思うようになり、小休憩の間に、もう考えないように決めた。
自分の役目は1人の脱走者も出さずに期限内に漁陽(ギョヨウ、現在の北京市密雲区)まで送り届けること。1人でも脱走者を出したり1日でも遅れると連帯責任で全員処刑だ。いや、指揮官の2人だけは都で有力な朝臣にコネがあるから助かるだろう。

「まあいい。俺達の努力次第だ。な、呉広?」

陳勝は隣にいた男に話しかけた。この男は呉広(ゴコウ)と言い、陳勝の知己である。陳勝と同じ先導役だ。

「ああ、そうだな……」

呉広は力なく言う。不思議に思った陳勝は呉広の目線を追いかけた。
すると、その先には黒く広がった雲があった。自分たちの進路へと連なっている。

案の定、雨が降った。それも豪雨である。ここらの立地も災いし、道が水没してしまった。
今は野営しているが、今までの早さから考えて、期日までの到着は絶望的である。
農民たちは戦々恐々としている。死ぬのが怖いのだ。それは陳勝も同じだ。だが、陳勝は怯えない。
雨の音が強くなるにつれて陳勝の顔が野心家のものになっていく。

5:伊168:2018/12/26(水) 21:34

第4話:陳の鬼


陳勝は何を思ったか、幕舎を出て飛雨の中に躍り出た。泥に塗れた陳勝の顔を岩のような雨が洗う。
足元の泥土が西へと流れていく。激流が地を這うも陳勝は微動だにせず西を凝視する。
鉛を背負っているように体が重く感じるも、陳勝は動かない。汚れた服からも雨が降る。

「おい、呉広。こっちに来い」

陳勝は幕舎のふちに留まって小さくなっている呉広を呼んだ。呉広は恐る恐る出て、

「一体どうした?」

とぶるぶる震えながら聞いた。

「呉広……この刁斗、秦のために使うべきではないのではないか」

陳勝の目が稲妻のように光る。呉広はその意を汲み取ると、恐れて足元の泥濘や水溜りも気にせずにへたり込んだ。

「お前……正気か!?武関、函谷関は天下の要害。他の要所だって簡単に落とせないぞ!」

呉広は陳勝の胸ぐらを掴んで、周章狼狽した。呉広の目は左右に揺れ、焦点がつかない。
だが、陳勝は一つも慌てず、ただ西方を臨んで、

「そんなに不安ならば……ここらに有名な易者がいた。それに聞こう。悪ければ一緒に脱走しよう」

呉広はほっと一息ついて陳勝の後について行った。

一里も行かんうちに易者の元へついた。2人は、秦に反旗をひるがえすことを言って、占ってもらった。
易者の許負(キョフ)は顔色一つ変えずに淡々と、

「あなた方の事業は成功するでしょう。また鬼となるでしょう」

これを聞いた陳勝は、喜ぶよりも先に頭を抱えた。鬼とは何かの喩え、それか暗号であろう。
陳勝は事業は成功するという言葉に引っ張られて、この暗号を良い意味だと捉えた。そして、

「呉広、わかったぞ。これは、事の成就のために鬼の力を−−要するにそのような演出をせよということだ」

すると呉広は手を叩いて、

「おお! お前は天才だ!」

と言った。
2人が鼻歌を歌って出ていった後、許負は哀れに思った。

(ああ、2人は意味を取り違えていた。本当は、事業の成功の後に鬼籍に入ると示したのだが)

彼は占いの結果を詳しく教えてやらないように誓っていたが、この時ばかりは出て行って教えてやりたくなった。

6:伊168:2018/12/26(水) 22:18

ご意見、ご感想お待ちしております

7:伊168:2018/12/27(木) 22:18

第5話:鬼神


(いや、ここで教えては贔屓になってしまう。彼らが気付く事を祈るしかないか……)

許負は奥歯を噛んで幔幕の中へ戻った。ゆっくりと。

陳勝らは膝を強く曲げて幕舎まで走った。滔々流れる泥水の激流が100の山、10の関のように立ちふさがった。
なに、負けるものかと2人は水を蹴り飛ばして、ひたすらに駆ける。これには雨も恐れ入ったか、幾度となく戦場を駆け抜けた猛将のような地面が姿を現した。
だが、雨は意地悪く泥濘を繰り出して、最後の抵抗を試みる。しかし、汗血馬(カンケツバ)のごとき疾風の2人には通用しない。抵抗むなしく、あっという間に乗り越えられ、2人は幕舎の温かい懐に飛び込んだ。

幕舎に入った陳勝は辺りを見回した。妖の演出をするならば周囲の状況をよく見ることが肝要である。
彼はこの幕舎でいい事を聞いた。

「今日は魚料理にするってよ!」

と誰かが言ったのだ。このような何気のない話に旨味がある。陳勝は一計を案じた。彼は突然料理長に近寄って、

「おい! 俺にもやらせてくれ!」

すると料理長は、人手不足だったこともあって快諾した。陳勝は腕を小さく上げて成功を喜んだ。
陳勝は捌いた魚の中に、

「陳勝王」

と書いた布切れを忍ばせた。包丁を持つ手が小刻みに震える。武者震いか成功を喜んだものか、さまざまな感情をすり潰したような挙動だ。
準備が出来たところで魚を焼いた。布切れがおかしくなっていないか不安になって、何度か火から離したが。
出来上がると、陳勝は大きく呼吸をして、下っ端に持っていくように告げた。

なにも知らない下っ端は平然と料理を運ぶ。他の農民らも口笛を吹いて料理を迎えた。彼らは垂れるヨダレを拭いながら次々に刃を降ろしていく。柔らかい魚は煙を立てながら腹のなかを曝け出す。
この魚を裂いた農民たちは我先と中を見たが、一目見ただけで、皇帝や王を見た時のように恐れ、ひれ伏した。
ほかに集まりからも悲鳴に紛れて完成が聞こえる。
春の水田を馬鍬で引いたように場が濁った。そこで声真似のうまい呉広が狐の声を真似て、

「陳勝が王になる」

と言った。人ごみに紛れているが、不安は拭えない。むしろ余計にバレやすいのではないか。臆病な呉広は唇を震わし、ぎこちなく火の周りを去った。
指揮官たちはこれを聞いても、

「あいつら馬鹿だから。勘違いだろう」

としか言わなかった。だが肝心の農民たちに与えた効果は大きかった。彼らが陳勝を見る目が明らかに変わったのだ。陳勝は人目を避けて、呉広とともに厠(カワヤ、今で言うトイレ)に入った。

「呉広……」

陳勝は重々しく話し出した。長い付き合いの呉広はその口調の変わりようから嫌な予感を感じ取る。
陳勝は胸の奥で土下座をしながら呉広に次の作戦を告げた。


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