「ねえ、貴方はどうして生きているの?」
その答えを、貴方は教えてくれた。
初めまして。硫化水素です。
この度初めてここにスレ立てをさせていただきました。
まあ、はい、小説です。
暇潰しにでも読んでいただけるとありがたいです。では、次のレスから始まります。
4月。昨日で春休みも終わり、再び学校に通う日々が始まる。先輩が卒業して後輩が入学し、それに伴い学年は1つ上がって、私は高校2年生になった。しかしだからと言って特に何かが変わるなんて事はない。この校舎も、授業も、同級生も、私も。何もかも変わり映えなんてせずに、同じ時間を毎日繰り返していく。今日からだってすごく退屈で、つまらない日々がまた始まるだけだ。また始まるといっても、休日が特に楽しいという訳ではない。休日だって変わり映えするものなんて無いが、この迫っ苦しい小さな格差社会からは逃げ出す事ができたのだ。
学校は窮屈だった。高校になるとその窮屈さは増していって、私の居場所なんていうのも見つけられないままになってしまった。それでも今まで何とか乗り切って来れたのは、当たったのがたまたま大人しい人ばかりのクラスだったから。
でも、そのクラスとももうおさらばだ。次のクラスが前の様に静かだとは限らない。いや、むしろその可能性は低かった。去年が偏り過ぎていただけだ。今年こそ自分の居場所を見つけなければいけない。ましてや来年はクラス替えが無いのだ。何としてでも浮かない様にしなければ、私はきっと絶好のエサとして目を付けられて……。
足取りは徐々に重くなっていく。顔も俯きがちになり、胸の辺りが締め付ける様に痛い。自分が居場所探しなんて出来ない人間なのは、理解していた筈だ。滅入り気味な気分で人混みに飲まれながら、校門から昇降口へとたどり着く。
扉に貼られた紙には、黒い文字列がずらりと印刷されていた。その中から、自分の名前を探し出す。
2組、文系コース、寺崎夏美。
「愛里! 良かった、クラス一緒だよ!」
「あーあ、離れちゃったなあ……」
「やばいよぉ、知ってる人誰もいない!」
そんな声の数々が耳に入ってくる。一方で私には、そんな喜びや悔しさを分かち合える友人はいない。去年のクラスメイトだって度々話す機会はあったものの、別に友人といえる程での仲ではなかった。そこには常に、微妙な距離があったのだ。あくまで彼女達は、「同級生」でしかなかった。
「寺崎さん?」
突然後ろから声をかけられる。一瞬驚いて振り向くと、そこには優しい笑みを浮かべる1人の女子がいた。栗色の柔らかい髪はふわりと巻かれていて、良いルックスがより映えている。
「またクラス一緒だよね? これからもよろしくね」
そう言って彼女――柏倉さんは微笑んだ。
「う、うん……よろしく」
精一杯の作り笑いで、私は応えた。
やっぱり、人と話すのは苦手だった。
柏倉さんが友人の元へと行ってから、2組の名簿をもう1度確認する。すると確かに、「柏倉優美」という彼女のフルネームが刻まれていた。
柏倉さんは俗に言う優等生だ。父親が教育庁で仕事をしているらしく、可愛らしい外見も重なって入学当初から話題になっていた。いざ会ってみると人柄も良くて、穏やかで優しい上に謙虚な彼女は学年中の人気者だった。去年も立候補なんてしないのに、推薦で学級委員に選ばれていたくらいだ。仕事柄か性格からか、私もよく気を遣ってもらった。おまけに成績も良く運動もできて、誰からも信用される人だった。
彼女と仲良くなりたい、と思った事もあったが、そんな事はできる訳がなかった。彼女と私では何もかもが違う。私は彼女の様に可愛くもないし、周りの人間と親しくできる訳でもなく、成績も運動神経もイマイチだった。当然友人もできなくて、たまに他クラスの女子から陰口を叩かれもした。
そういう時、いつも柏倉さんは注意をしてくれていた。
柏倉さんがいるという安心感からか、足の重みは少し抜けた。友達にはなれなくても、いざという時に頼れる相手がいるのは心強い。
深呼吸を1つして、開きっぱなしの扉から校舎へ入ろうとした時……誰かが私の隣を横切った。普段ならそんな事は気にする筈はないけれど、その人物は少し変わっていたのだった。思わず足を止めて、前を確認してみる。その視界の先には、颯爽と歩く1人の生徒。彼女の歩く姿を、私は思わずじっと見つめてしまう。いや、正確に言えば、彼女のその髪を見つめてしまっていたのだ。
まず、その髪は今まで見てきた数々の人間の誰よりも真っ黒だったのだ。周りでたわいの無いお喋りをしている女子達と比べても、その黒さは明らかだった。夜の暗闇にも溶け込んでしまいそうな、そんな色をしている。次に、その髪は異様に長かった。時々腰まで髪を伸ばしている子を見かける事はある。だが、彼女の髪はそんなもんじゃない。脚の付け根を軽く越えているのだ。もう一年程放置していれば、膝の下まで軽々と伸びていってしまうだろう。そして、そんなに長ければ傷んで枝毛が増えてしまいそうなものだろう。しかし彼女の長い髪は、歩く度艶やかに光を反射し、さらさらと靡いて揺れている。触れるまでもなく、彼女の髪は綺麗に保たれていると分かるのだ。
そんな黒く長く美しい髪の女子なら、一目見ただけで印象に残る筈なのだが。私は彼女の顔も名前も、存在すらも知らなかった。転校生か何かなのだろうか。
気が付くと彼女は、どこかへ消えてしまっていた。
あの子、誰だったんだろう。
そんな事を考えながら、私は教室に向かう。廊下にはまだたくさんの人がいたけれど、誰も私には見向きもしない。まあ、当たり前の事だ。彼女達にとっては、友達以外の人間などどうでも良いのだから。彼女達に限った話ではない。誰だって赤の他人の事なんか考えている暇は無いのだ。
高校に入ると、余裕というものがさっぱり無くなってしまうのだ。毎日は忙しなく進み、誰も誰かを待ってはくれない。他人に優しくするくらいの時間も、当然磨り減っていく。退屈な繰り返しを淡々と行い続ける様になって、やがてそれを分かち合える仲間を数人作り、周りを拒絶しながら何とかやっていくのだ。その輪が1度閉じてしまうと、入りこむのは非常に難しい。
だから私は、今も置いてきぼりだ。
聞き覚えのある声が、耳に入り込んできた。明るくて、若干高めの子供っぽい声。目をちらりとやると、教室の前で、高橋さくらが友人達と楽しそうに話していた。かつては私の親友だった、お団子結びの似合う少女。
さくらは私に気付いていない様子だ。新たなクラスメイトに挨拶でもしているのだろう、その笑顔はとても暖かい。さくらという名前にぴったりだと思う。
身体の奥底が冷たかった。それをじっと我慢して、私は目の前の教室に入る。
既に大半の人は来ていてしまった様だった。同じ部活の友人と話したり、新しく一緒になった女子同士で自己紹介をし合っていたりと、皆思い思いに朝のひとときを過ごしている。柏倉さんも、数人の大人しそうな子達に自分から話しかけている。恐らく彼女達が孤立しないよう、気を遣って輪に入れてあげようとしているのだろう。つくづく、優しい人だなあと思う。
彼女の目に、どうやら私の姿は映っていないらしかった。
黒板に書かれた座席表で、自分の席を確認する。窓際の真ん中辺り。校庭の大きな桜が今ここからでも窓から見えるので、景色は良さそうだ。ただ……そこは既に別の子によって占領されてしまっていた。
私の机の上に、気の強そうな女子が座っている。スカートは非常に短く、シャツの上にはブレザーではなくピンク色のカーディガンを羽織っている。髪型はツーサイドアップにされた天然パーマで、金色にも近い茶色に染め上げられていた。頭のてっぺんから爪先まで校則違反。しかしこういう子こそが力を持ち、誰一人逆らえないクラスの裏の支配者となるのだ。
彼女は友人らしき人と他校の男子についての会話を弾ませていた。派手な見た目の彼女とは違い、その友人はきっちりと校則通りの姿をしている。ロングのぱっつんヘアに、青い眼鏡、膝下のスカート。正反対の2人だが、大分仲は良さそうだ。
私は早く、この重い荷物を置きたかった。友人はまだしも、いかにも不良という風貌の彼女は怖いのだが、とりあえずは1歩ずつ席の前まで歩み寄ってみる。だが話しかける勇気は持てない。声を出そうとしても、喉に何かが詰まった感じがして、音にならないのだ。ただ、群青色のリュックサックを背負って、その場に立ち尽くすばかりだった。
数分して、ぴたりと話が止む。
「……何?」
彼女がこちらを振り返った。
どくりと音をたて、心臓が縮まる。肩がびくりと跳ね上がった。
「えっ、あ、あのっ……」
言葉が吃る。何を言っていいか分からない。恐る恐る顔を上げて、相手の顔を見てみた。付けまつげがばっさり付けられた目が、明らかに不機嫌そうに私を見ている。
「だから、何? 何か用?」
冷たく、強い口調だった。その声からは、私に対する嫌悪感が滲み出ている。
どうしよう。
何て言えば良いんだろう。「どいてください」?「そこ、私の席だから」? 言える訳がない。絶対彼女の気に触れてしまうだろうし、何よりそんな勇気は無い。気が付くと周りの子達までが、私をちらちらと見ていた。変な物でも見るかの様に。
「……ああ、愛里? この子の席なんじゃないの、ここ」
黒髪の子が彼女、いや、愛里さんに言った。
「あ、そうなの。黙ってちゃ分かんないんだけど?」
「は、はい……ごめんなさい……」
謝ってはみたものの、実際私の何が悪いかはよく分からない。
「はぁ……ウザ」
ばっさり言い捨てると、愛里さんは机から降りて自分の席へと戻った。黒髪の友人も、私を一瞬だけ見た後に、彼女に付いて歩いていく。
嫌われた、よね?
初日から、やらかしてしまった。彼女に嫌われた事によって、クラス中からも白い目で見られてしまうのではないだろうか。そんな不安が頭をよぎる。
ウザい。そうはっきりと、面と向かって言える彼女は、余程の支配者に違いないのだ。そういえば以前吹奏楽部の子達が、クラスでのカーストについて愚痴を言い合っていた。どうやら白鳥という人がカーストの頂点にいたらしい。校則違反のくせに、あの子のせいで友達は不登校になった、取り巻きも止めようとしない……そんな話をしていた気がする。
私とさくらも、その時一緒に話を聞いていた。
もしかしたら彼女こそが、白鳥さんなのだろうか。
「ちょっと、ダメだよ2人とも。喧嘩は良くないよ? せっかくのクラス替えなんだし、皆仲良くしましょう」
柏倉さんの優しい声が聞こえ、私は過去から現在に引き戻される。
「寺崎さん、ちょっと話すのが苦手なだけなの。悪い子じゃないから、愛里ちゃんも咲希ちゃんも仲良くしてあげて」
そう言って柏倉さんは微笑んだ。
「あー、はいはい。優美って本ッ当真面目だよねー」
「貴方と正反対ね」
あの子は咲希というのか。柏倉さんと名前で呼び合うところを見ると、3人の仲は良好なのだろうか。
「さっちん、それ失礼だから!」
愛里さんは笑う。咲希さんも笑っていて、柏倉さんも微笑んでいる。
普通の友達の様に。
訂正→夏美の席は窓側から2番目です
10:硫化水素◆Kg:2016/06/25(土) 18:29 ガラリ、と扉が開いた。その音がしてから少しして、皆の話し声が徐々に消えていく。やがてそれに代わって、ひそひそと噂話が聞こえ始めた。
どうしたんだろう、と思って扉の先に視線をやる。窓から数枚の花弁と共に、暖かい風が吹き込んできた。
「……あっ」
思わず声が出た。その理由は、そこにいたのが間違いなく、先程の彼女だったから。彼女はやはり、長い長い黒髪を揺らして歩いていた。たくさんのクラスメイトの視線を、釘付けにしながら。早足で自分の席につき、荷物をさっさと片付けている。そこで私は初めて彼女の顔をしっかりと見た。
美人。白い肌に真っ黒な目、整った鼻に赤い唇。その顔はとにかく美しい。女優だと言ってもおかしくない程に。柏倉さんが可愛らしい顔立ちなのに対して、彼女は美しい顔立ちだ。
「うわっ、あの子すごい美人!」
「誰だろうあの子。去年同じクラスだった子いる?」
「転校生じゃないの? 髪長過ぎない……?」
再びクラスメイトは盛り上がり始める。愛里さん達まで、彼女の方を見てひそひそと話をしていた。
やがて柏倉さんが歩き出し、彼女の元へと歩み寄った。席の前に立つと、彼女に微笑みかける。
「初めまして。貴方、転校生で合ってるかな?」
「……そう、だけれど」
落ち着いた、若干低めの声だった。その目で、柏倉さんをしっかりと捉えている。
「やっぱりそうだったのね。貴方の顔は初めて見るなって思って……私、柏倉優美っていうの。これからよろしくね」
「柏倉さん、ね……」
会話を聞いている限り、転校生の彼女はクールな性格らしかった。馴染めない訳ではなさそうだが、皆とワイワイ騒ぐタイプではないのだろう。
「貴方の名前、聞いてもいいかな? 前はどの学校だったの?」
「舞。五十嵐、舞よ。前は千葉県の学校にいたわ」
五十嵐舞。何となく彼女に合った名前だと思った。
千葉県というと、やや遠い場所にある。引越しするのも大変だっただろう。
「千葉県かあ! 遠いとこからわざわざ、大変だったでしょう? 分からない事があったら、何でも」
「悪いけど」
不意に、五十嵐さんが話を遮った。そして、凍り付いた声でこう言ったのだ。
「私、貴方とは仲良くできない」
ぴたりとざわめきが止まり、あたかも時間が動かなくなったかの様だった。桜の花弁さえ、一瞬空中で停止したかの様に思えた。
「……えっ?」
「あんまり話しかけないでもらえるかしら」
驚いた後に、不安そうな表情を浮かべる柏倉さん。そんな彼女に吐き捨てるように言い放つと、五十嵐さんは席を立つ。
黒く長い髪を揺らしながら。
私はその様子を、ただ唖然として見ていた。
この短い会話の中で、柏倉さんが何をしたって言うんだろう?真っ先に話しかけ、優しく接した事の、何がいけなかったんだろう?
いや、何がいけないとか嫌だったとか、そういうわけではなかったのかもしれない。もしかしたら五十嵐さん自身が、元から気難しい人なのかもしれないから。でも、だからって、あんなに冷たくしなくてもいいだろう……。
「……何だろうあの子、性格悪っ」
誰かがひそかに呟いた。それと同時に、愛里さんが五十嵐さんに駆け寄る。五十嵐さんの長い髪を、キラキラした付け爪の付いた手でぐっと掴んで、彼女に噛み付くように言った。
「おい」
先程よりもずっと強い口調。一方五十嵐さんは、表情を少しも変えずに、ただ冷然としていた。
「調子乗んなよ、転校生のくせしやがって」
髪を引きちぎらんばかりの勢いで引っ張る。それでも五十嵐さんは無表情だった。しばらく沈黙が続く。教室の空気は張り詰めている。
やがてそれを破り、五十嵐さんが口を開いた。
「私が誰と仲良くしようが勝手でしょう。大体、調子に乗っているのは貴方じゃなくて?小野寺愛里さん」
「!」
瞬間、誰もが息を呑んだ。
まず、転校生がクラスメイトの本名を把握していた事に対して。座席表に当てはめれば名前は分かるとはいえ、初日から自己紹介もされていない相手の名前を、正確に把握できるだろうか?次に、怖じ気付く事もなく、愛里さん、即ち小野寺さんに言い返した事に対して。威圧の聞いた声と容貌、そして髪を引く強い力にまで、彼女は一切怯まなかったのだ。
私の場合、もう一つ、噂の白鳥さんと彼女が別人だった事に対して。それは同時に、ちょっとした安心感を齎した。
今の発言のせいで小野寺さんの力が緩んだのか、五十嵐さんは彼女の手を振りほどいた。冷めた目を向けながら、口を開く。
「言っておくけれどね、1年もすれば私はこの学校を出ていくわ。だから貴方達と喧嘩をする気もなければ、貴方達の邪魔をする気もない。でも貴方達と友達になろうなんて気も無いのよ?だから私には極力関わらないで。私は貴方達に用は無い」
そう言うと、五十嵐さんは踵を返して歩き出した。
「なっ……何なの、あいつ。性格悪っ!」
「あ、愛里、落ち着いて?きっと悪い人じゃないから、ね」
まだ怒りが収まらない小野寺さんを、柏倉さんは必死に宥めている。笑ってはいるのだが、表情には若干の曇りが見えた。
大変だろうな、柏倉さんも。友達にもそうじゃない人にも気を遣って、話しかけたりあんな風に宥めたり……。良い人過ぎるのも、疲れてしまうんじゃないだろうか。
「ねぇ」
不意に、ひやりとした声が響いた。ぼーっと柏倉さんを見ていた私は、慌てて顔を上げる。そこに立っていたのは……。
「……いっ、五十嵐さん?」
長い髪は、窓からの風でまだ揺れている。吸い込まれそうな黒い瞳が、私を見下ろしていた。
一体こんな、初対面の私に何の用だろうか。もしかして、彼女にまで私は嫌われてしまったのか?見た目が悪いとか見るからにオドオドしているとか、そういう理由で?それとも、さっき見ていたのに気付かれた?身が縮まり、心臓がばくばくと脈を打つ。
「貴方、寺崎夏美さんよね?」
「え……?そ、そう、ですけど、何か……?」
私の名前まで、彼女は把握しきっていた。
また少しの間の沈黙が続く。その間私は、俯いて、びくびくと身を震わせてしまっていた。
「よろしくね、夏美さん」
えっ?
再び顔を上げると、白い滑らかな手が差し出されていた。その先の五十嵐さんは、うっすらと微笑んでいる。
「それじゃ、1人1人自己紹介してもらおうかな」
入学式を終えた後、HRで先生が言った。去年、隣のクラスを担任していた人だ。黒いシュシュで結ばれたポニーテールが、若干乱れかかっている。
「じゃあ…名前と部活と、何か一言くらいかな? 安藤さんからお願いね」
「え、ちょ、ちょっと待って下さいよー!」
話す事に悩んでいたらしい彼女は、そう言いながらも慌てて立ち上がる。あんな風に、先生にも明るく振る舞える人はやはり羨ましい。
「あー…っと、安藤沙織です。部活は陸上部でハードルやってます! ジャニーズ大好きなんで、ジャニーズ好きの人は話しかけて欲しいです!」
はにかみながら彼女は言う。クラスメイトからは、拍手が自然と湧き上がった。
「よろしくね、沙織さん! 次は…五十嵐さんだね」
自然に顔が上がった。クラスメイトの目は若干冷たくなっている。
さっき、彼女の手を握ってから、再び会話を交わしてはいなかった。何度も視界には入ったのだが、話しかけようとしても口が開かなかったのだ。よろしくね、と言われたのは、正直嬉しかった。でも、彼女はそれっきり自分の席で表情一つ変えずに大人しくしていたので、どう接していいか普段以上に分からなくなってしまっていた。
「はい」
髪を揺らして、彼女は立ち上がる。相変わらずの凍り付いた黒い瞳。
小野寺さんが、五十嵐さんを睨みつけていた。柏倉さんを心配してもいたし、案外友達思いな人ではあるのかもしれない。
「…五十嵐舞です。今年転校してきました、部活に入る予定は今のところありません。どうぞよろしく」
それだけ早口で言うと、彼女は素早く座り込んだ。少し遅れて、まだらに拍手の音がしている。
窓の外の、青い空を見ながら考えた。あの不思議な彼女と私は、何か面識があったのだろうか?
「えっと、井上、蘭です! 部活はテニスで……」
「小野寺愛里。美術部にいました……」
彼女と私は、何処かで会った事があるのだろうか? 私が気付いていないだけなのだろうか?
「柏倉優美といいます。美術部で活動しています……」
「か…神崎、ほのか…です。部活、は……」
「黒澤咲希です。弓道部に所属しております……」
私は彼女を知らないのだ。しかし彼女は私を知っているのだ。あんな性格の彼女が、私と仲良くしようとしている……。
「じゃあ次、寺崎さんね」
その声で、私の意識は現実世界に引き戻される。
いつの間にか、私の前の十数人が自己紹介を終えていた。
「……あ……は、はい……」
周りの視線を受け止めながら、ゆっくりと立ち上がる。皆、私を見ている。五十嵐さんと唯一仲良く出来る、私を……。
「てっ……寺崎、夏美です……。部活は、えっとっ……吹奏楽部、で……」
全身に突き刺さる視線が痛くて、冷たかった。私を見下す視線だった。あの時の、さくらの目の様な。
「……よろしくお願いします」
たった1つ、拍手が聞こえた。当然それは、五十嵐さんのものだ。五十嵐さんが、私に微笑みかけている。
それに釣られて、小さな拍手が巻き起こる。その表情はどれも暗かった。柏倉さんが、いつもの様に優しく笑っていたのを除いては。
「寺崎さん」
その日の帰り道、彼女は私に話しかけた。長い髪をゆらゆらと揺らし、深く色付いた瞳で私の姿を映しながら。
「一緒に帰っても、良いかしら」
「……え?」
一瞬、訳が分からなかった。
いくらよろしくねと言われたからって、まさか初日から一緒に帰ろうと誘われる事なんか予想していなかったのだ。そもそも彼女、家は一体何処なんだ?
「え、えっと……いい、の? 私、電車通……だけど……」
「大丈夫よ。私の家、貴方の家の近くだもの」
え?どういうこと?
何故、そう分かるんだ?私は彼女に住所を教えた事なんか、当然無い。いや、誰かに住所を教えるのなんてせいぜい年賀状を書く時期にしか無いだろう。そもそも転校初日から、何故彼女はこんなにも多くの事を知っているのだろう?
頭が混乱してきて、考えがまとまらなかった。いや、元々考えを上手いことまとめる頭脳は持ち合わせていなかったが。
「行きましょう。葵川駅から夜津深駅までよね?」
歩きだそうとする五十嵐さん。
「ま、待って!!」
思わず声を出してしまった。立ち止まり、五十嵐さんは振り返る。
「……何かしら?」
「そ……そのっ、あの……!」
引き止めたは良いものの、何をどう言葉にすれば良いのかは分からなかった。出来の悪い頭をぐるぐると回し、やっと単語の1つ1つを探し出す。
「……い、五十嵐さん……どうして、その……皆の名前、とか、私の家とか、知ってる……の……?」
デクレシェンドでもかけたかの様に、声は段々と小さくなる。しかも元から声が小さい事が重なり、後半は自分でも聞き取り難い声になってしまっている。だが五十嵐さんには聞こえたらしく、彼女は淡々と答えた。
「クラス名簿に名前も住所も書いてあったから。皆の名前、早く覚えないといけないしね」
……なあんだ、そうだったんだ。その答えは、案外単純で簡単なものだった。非常に明快で分かりやすく、私は直ぐに納得した。
「あ、そ、そうなんだ! すごいね、ちゃんと覚えられる、なんて……」
「ありがとう。それと」
何かまだ言いたい事があるのか、再び五十嵐さんは口を開いた。
「私のことは、舞で良いわ。私も夏美って呼ぶから」
そういって、五十嵐さんは笑いかける。
「へ?」
間抜けな声を出してしまったのは、それがあまりに衝撃的で唐突だったから。
だって、名前で呼んで良いなんて言ってくれた相手は、今までさくらぐらいしかいなかった。きっとさくらは、もうそう呼ぶ事を許してはくれないだろうけど。
「……駄目だったかしら? 寺崎さんの方が良い?」
「え!? あ、ううん、全然大丈夫……!」
慌てふためいて私は答える。
他人行儀な呼び方から、1歩踏み出すのを許してくれるのは、素直に嬉しかったから。そして私もまた、五十嵐さん……舞に対して、ほんの少し歩み寄りやすくなったから。
「良かった」
心配そうな表情を一変させ、舞は表情を緩める。それを見ると、ちくちくと痛かった胸が、何だかふわりと暖かくなった。
ああ、ムカつくなあ、あいつ。
すっごい嫌い。マジ大嫌い。まだ一言も話してはないけど、とにかく嫌い。私に話しかけられはしないだろうけど、あの子に絡むなんて事はしないでよね。本当に鬱陶しいったらありゃしない。
やだなあ。イライラするなあ。あいつ、いじめられでもしないかなあ。死んでくれないかな、うん。どうせあいつなんか死んだって誰も困らないよね。
あの人が上手い事やってくれないかな。あいつが自殺するくらいの事。でもあの人もあんまり好きじゃないんだよね。あいつみたいに鬱陶しくはないから、まだ良いけど。
できればまとめて、早く死なないかな。
「2番線に電車が参ります。危ないですから、黄色い線の内側にお下がり下さい」
「黄色い線の内側に……」
普段利用者も少ない、小さな古ぼけたこの駅は今日も静かだ。錆だらけの自販機が、明かりをチカチカと点滅させる。椅子に座ったお婆さんが、うつらうつらと微睡んでいた。
私の隣の舞もまた静かだった。会話は先程から途切れてしまっていて、何となく気不味い沈黙が流れている。舞がそれを気にかけているかどうかは定かではないが。
そりゃあ、話すのは苦手だ。だけどそれは沈黙が好きだとかそういう意味にはならない。単純に言葉が浮かばないだけ。だから決してこんな白い時間を求めていた訳では無い。身体の表面が、ピリピリと痛い。
さくらとだって、もっと話したかったのに。
「あれっ? 同じクラスだよね?」
入学当初の部活見学で、彼女は私に話しかけてきた。
「私、高橋さくら! ごめん、名前聞いてもいいかな? まだ覚えてなくって……」
「あ、え、えと……」
その時の私は、彼女の顔を思い出すのに必死だった。自己紹介の時にこんな人がいた様な、いなかった様な……。記憶を探りながらも、与えられた質問には答えておかねばなるまいと、小さな声を振り絞る。
「て、寺崎、夏美……です……16番、の……」
「へえ、寺崎ちゃんか! 夏美って明るくて良い名前だね」
彼女の褒め言葉が、私の心にひんやりと染み渡った。太陽みたいに明るい名前、なんて昔はよく言われたものだ。そんな名前を背負っていく運命が、とてつもなく憎らしい。私は名前の通りになんか、育ちはしなかったのだから。
そんな私の葛藤を察する事もないであろう彼女は、子供じみた声で会話を進める。
「吹奏楽部入るの? 私も入ろうと思ってるんだ」
「い、一応……は」
「一緒にやれるといいね。これからよろしく!」
そう言って元気に笑うと、相手は友人の元へと戻っていった。やがてフルートがいいな、チューバとかやってみたい……そんな会話をし出した。
よろしく、か。
多分それは無理だった。だって私は、彼女の様にはなれない。彼女みたいに明るくもないし、会話上手でもないし、友人も作れない。彼女と私は、何もかも違い過ぎた。
窓の外を1人、ぼんやりと眺めた。黒い烏が一匹、春の空の下にとまっていた。