忘れないで欲しい。
一番最初の特別を。
初めてもらったプレゼントは何。
初恋の人は誰。
初めて死んだ好きな人は誰。
剥奪せよ。
揺らせ、揺らせ。
足元よ崩れよ。
最後に最初を取り戻せ。
ダンス、ダンス、ダンス。
雨の降る灰色の夜、青い傘に守られた、一人の男が歩いてた。
信号機は赤だった。雨のせいでにじんで見える。
「思うのだが」それは独り言だった。「アダムとイヴが禁断の木のみをかじるとき、やはり純真無垢だったに違いない。純粋だったゆえ、
騙されたのだ。ところで、もし蛇の言うことを疑えるほどの知能があれば、それはすでに純粋無垢ではないのだ。ああ、蛇に
目をつけられたが最後、人間はもう苦しいようになっている」
そのとき、どこからか歌声が聞こえてきた。
心理学に、パーティ効果というのがあるーー騒音の中で、自分の名前が呼ばれた時に、人の耳はそれを聞き取ってしまう、というものだ。ちょうどそのパーティ効果のように、ガンガンいってる雨音の中、男は、その声を聞きつけた。
ねむれーねむれー
こちらの手違いで大変な目に合わせてしまったね
ねむれーねむれー
わたしのところでねむり目覚めよ
ねむれーねむれー
男は幻聴を聞いたと思った。仕事で、二日寝てないのだ。
「俺の無意識の声が、ねむれーねむれーと歌っているのだ。明日は是が非でも会社を休むぞ」
信号が青になった。帰って、カップラーメンを食べて、ペットボトルのウーロン茶を一本一気飲みして、そのまま服を脱いで敷いたというよりは投げた布団に入った。無意識の子守唄は眠りに落ちる瞬間まで聞こえていた。
目が覚めても例の歌は聞こえていた。
「こりゃ重症だ」
男は会社に電話を入れて、「家庭の事情」で休みますと言った。電話を切って、男は苦笑した。
「家庭の事情!俺一人の家庭!」
病院でも行こうか男は迷ったが、もうしばらく眠って見ることにした。男は夕方目が覚めた。気分はすっきりしていた。それでも歌声は聞こえてきた。
「うるさいわけじゃないし、まあいいかな。この無意識の歌声を楽譜にしたら、俺が作曲したことになるかな。それを初音ミクに歌わせたら、ネットで話題になるかなーーまあ、そんなことは考えないようにしよう」
母親に電話をしたーー何ヶ月ぶりかだった。
「母さん」
「ああ、K君。どうかしたの」
「いや別に」
「それはそうと、彼女はできた?」
「とても彼女どころではないよ」
と言ったものの、別に彼女が欲しいわけですらなかった。自分の性欲など、コンビニで簡単に満たせてしまうのだ、と母親に
言えなかっただけだ。
「お金がないの?」
「ないというかなんというかーーまあいいや。それじゃ」
公園に散歩にでも行こうと思った。あそこで、自動販売機で何か買って、何か飲みながら、無意識の子守唄を聞いて、自分を肯定したら帰ろう
と決めた。
滑り台を子供達が滑っていた。滑り台ーー芸術とは、滑り台のようなものではないか。滑り台の上に立つ子供の目に見えるのは、世界の実相だ。耳に聞こえるのは真実の音だ。世界が美しく見える。
成長すると、いつしか滑り台が冒険でもなんでもなくなるポイントが来る。そこで、ある者は山登りを始めるかもしれない。ある者は宗教の門を叩くだろう。またある者は馬鹿でかい滑り台を作る。
「俺には滑り台がない」
と男は気づいたのだった。「瞑想するだけの余裕もないのだった。これからもないだろう。今日は特別だ。」
気がつけば暗くなっていて、公園には誰もいないのだった。世界よりも街灯の方が明るい。
男はキョロキョロ辺りを見回してそれから滑り台に登った。
一歩一歩登るごとに、歌声は大きくなる。自分を肯定したら帰ろう、なんて馬鹿なことを考えたものだ、と男は思った。本来全ては肯定されているのに。月光が、滑り台のてっぺんだけを照らしている。男はそこに立った。
同時に消滅した。