西暦2035年。
急激な人口爆発により、食糧不足や資源の欠乏が問題となった未来の世界。
日本政府は資源を確保するべく、使えない人材を切り捨てるために"人類間引き計画"を強行。
中学高校において、国が定期的に行うようになった"生存試験"は、問題を解いて『解魔』という怪物を倒すことで点数が入る特殊な試験。
トータル点数によって生徒はランク分けされ、上位は優遇、下位は冷遇される。
そして学年下位5名は不要な人材として"殺される"。
いらない人間に与える資源はない。
冷酷非道で残虐無道な間引きが始まった。
そんな中、とある中学校に一人の問題児が転入してきた。
>>02 登場人物
[国立王井学院中等部]
3-δ(3年デルタ)クラス…特定の科目のみ優秀な生徒を集めたクラス。
【虎威 康貴(とらい やすき)】♂ 15歳
何らかの目的を成し遂げるためにδクラスへ入ってきた転入生。
社会科が得意で、特に歴史が大好きな歴史バカだがその他の科目は壊滅的。
貧乏ゆえ食い意地が張っており、守銭奴。
双子の兄がいるらしい。名前の由来はトラヤヌスより。
【伊賀 理零(いが りれい)】♀ 14歳
歴史のテストは常に最下位だが理科が得意な少女。
自身の名前は0点の0からきていると自嘲している。
名前の由来はガリレオ・ガリレイから。
【赤染 萌李(あかぞめ もえり)】♀ 15歳
京都で有名な名家の子女で、京言葉を話す。
国語、特に古典が得意だが理数系が苦手。
名前の由来は赤染衛門から。
【バンジョー・バターリン】♀ 14歳
オーストラリアから留学生としてやってきた少女。
英語は学年トップレベルだがまだ日本語に不自由があり、歴史や国語が不得意。
世界的に有名な企業の会長を父に持つ。
名前の由来はバンジョー・パターソンより。
【有久 律兎(ゆうく りつと)】♂ 35歳
3-δクラスの担任。以前は最高成績者が集まるSクラスの担任だったが、ある理由から2年間教壇を降りていた過去を持つ。
担当は数学。名前の由来はユークリッド(エウクレイデス)。
【理事長 ???】
学院の理事長を務める。
普段表に出ることはなく、生徒や教師ですら対面したことがない謎多き人物。
【第一話 Try康貴】
テスト返しは嫌い。
教卓を挟んだ向こう側にいる教師を、震える瞳で見上げた少女は心の奥で毒づいた。
赤い雨が降る。
ひとつ、またひとつと、彼女の心を突き刺していくように。
教卓の向こうに聳え立つ男性教師の顔は険しく、テスト用紙を受け取った彼女は怯えながら眉間に増えていく皺の数を数えていた。
「伊賀! また社会のテスト最下位だぞ」
「……はい」
丸がひとつあったと思ったら『0』だった。
ぬか喜び。
赤ペンの斜線、斜線、斜線。
紅の大洪水。
彼女は受け取った答案用紙をすぐにでもグシャリと潰すか、ビリビリと切り裂きたい衝動を寸手で抑えた。
社会の小テスト。
しかも今回の範囲は彼女が最も嫌悪している歴史で、公民や地理ならまだ──0点という惨劇は回避できたかもしれなかった。
テスト用紙を軽く握りしめた彼女はクラス中の視線を気にしつつ、重い足取りで席へ戻った。
たとえその眼球があさっての方を向いていようとも、臆病な彼女は気にせずにいられない。
「クラスメート名前すら覚えられてないのに、顔も知らないジジイの名前なんか尚更覚えられるわけないじゃん……」
3年に進級してから約1ヶ月が経っても、30人近くいるクラスメートの名前は未だうろ覚えな状態だ。
ましてや、一週間前に予告された一問一答歴史人物50人小テストなんかできやしない。
難しい漢字、似通った名前、紛らわしい事件や反乱。
これだから歴史は大嫌いだと、少女──伊賀 理零は盛大にため息を吐きだす。
理零の零は、0点の零。
彼女は自身のことをそんな風に自嘲するが、歴史はともかく理科の成績に関しては学年でも10位以内に入るレベルだ。
だが逆を言えば、歴史が彼女にとって成績の重い枷となっており、それを克服しない限り彼女は最低クラスのDクラスから抜け出せないのである。
現在の日本は超学力主義。
一に学力二に学力、三に学力四に努力。
それはこの王井学院中等部だってもちろん例外ではない。
上位クラスに行けば行くほど、下位に下がれば下がるほど待遇の差は扇のように広がっていく。
最も優秀とされているSクラスは、図書室や自習室の優先権、良質な設備を持つ寮の使用、希望参考書の購入など数々の特権を付与され、鬼に金棒という具合である。
それに対し、成績不振者が集められたDクラスの待遇はというと、自習室や図書室の使用が認められていないだけに留まらず、休み時間や放課後に掃除や雑務を課せられる。
設備も十分ではない。
雨漏りが絶えない天井、歩けば軋む床、鼠色の塗装が剥がれた壁。
とても集中できるような環境ではない。
雑務によって勉強時間の確保は難しくなり、ますます成績が下がる。
Dクラスに落ちるというのは蟻地獄に落ちると同義で、もう落ちた時点で終わりなのだ。
後はただ、間引き対象にならないようDクラス内でどんぐりの背比べをするだけ。
「先週の『生存試験』の間引き対象者を発表する!」
生存試験による"間引き"。
そもそも生存試験というのは、人口の爆発的な増加により、食糧、資源が不足したこの世界で導入されつつある全国模試のことである。
3ヶ月に1度、国が出す生存模試を受け、トータルスコアが低かった者から5名は学力のない無能とみなされ、資源の浪費を抑えるために殺されてしまう。
これが2035年代を騒がす『人類間引き計画』である。
固唾を飲んで祈る者、ガタガタは震えて俯く者、泣き出す者。
伊賀理零もそのうちの一人で、5月中旬の昼下がりと、さほど寒くもないのに奥歯をカタカタ小刻みに震わせていた。
ピンと張り詰めた緊張の中、男性教師は真顔で教卓に手をつき、ピシャリと言い放った。
「出席番号2番、浅田美咲!」
クラス中の眼球が、ギロりと一斉に窓際の方へ向かった。
憐れむような、蔑むような、そして安堵するような、目。
「いっ……や、い、いや……ゐぃやあぁぁぁあっ!」
青ざめた顔面で阿鼻叫喚する彼女を、いつの間にか出入りしていた警備員が二人がかりで取り押さえる。
激しく蹴ったり叩いたり噛み付いたり、とにかく拘束から逃れようと死に物狂いで暴れている。
その細い手首に不釣り合いなほど重く錆びた手錠が嵌められてもなお、彼女は破壊をやめない。
机が蹴り飛ばされ、分厚い教科書が勢いよく床に散乱した。
「じにだくない! 死にたぐない゛ぃぃいっ! やめて! 離して、離してゑぇっ!」
警備員が慣れた手つきで彼女の口に布を当てると、彼女は抵抗をやめ、ぐったり力なくその場に崩れ落ちた。
先程までの暴動なんてなかったような、穏やかな寝顔だ。
浅く肩を上下させながら呼吸し、人形のように項垂れる。
それを見るクラスメートも2年間経験していれば慣れてきたようで、怯えつつも入学当初のような悲鳴はあげなかった。
鉛のように重い雰囲気の中、強面の教師は淡々と名前を読み流していく。
「出席番号12番、木村 勲」
「……はい」
「出席番号25番、野村 真波」
「そんな……そんな……っ」
浅田美咲のように悲鳴をあげて最後まで抵抗する者、覚悟していたのかすんなりと受け入れる者、諦めたように項垂れて涙を流す者。
いつ死んでもいいよう、事前に遺書を書いておく生徒もちらほらいる。
どんなに訴えても、もがいても、抗っても、行き着く先は皆同じ。
学院の地下、厳重に施錠された『抹殺室』。
そこでの殺害方法は秘密裏に隠されているが、命を奪われることに代わりはないのだ。
そして空いた分の席には、代わりの人間が絶えず補充される。
Cクラス辺りから落第してきた生徒かもしれないし、編入テストが振るわなかった生徒の場合もある。
次に命を奪われるのは自分かもしれない。
そんな恐怖に身を震わせながら、死刑宣告を受けた人の背中を見送るのだ。
こうして計5人の命が、今月も消えていく。
「今回残った者もかなり危ないぞ。油断はするな!」
昨日までクラスメートだった子が、友人が、取り押さえられ、連行されていく。
そして次の日には見知らぬ人が座っている。
そんなことが当たり前になったこの世界で、少年、少女達は今日も生きていかねばならない。
「伊賀、ちょっと職員室へついてこい」
「……ゑ?」
「五分程度で終わるから、掃除はそれから行け」
テスト返却が終わり、理零がDクラスの日課である放課後の校内掃除へ向かおうとした刹那だった。
担任の教師からの唐突な職員室への呼び出し。
教師の少し急ぎ目の大きな歩幅に合わせるよう、理零もちょこちょこと小幅ながらも着いていく。
職員室に来い、というのは呪いのフレーズだとしばし思う。
教師はその一言を放つだけで、生徒を凍てつかせることが可能だ。
当然理零は凍てついた。
思い当たる節が、多すぎる。
社会のテストとか社会のテストとか社会のテストとか。
まともな返事もできずに固まっていると、彼女の考えていることを察したのか男性教師は言い放つ。
「固くなるな。悪い話じゃない」
「そう、ですか」
無表情のまま言われても信用できるはずもなく、職員室へ到着する頃には不安と緊張で彼女の心臓はバクバクと暴れていた。
Dクラスの証である白のリボン。
王井学院では制服でクラスの色が分かるようになっており、Dクラスのそれを付けるということは、「私は馬鹿です」という看板を下げて歩いているようなものなのだ。
この時代、馬鹿は嫌われる。
リボンの色で察したのか、職員室中の視線が怜悧になった。
理零にとっては非常に居心地が悪く、一刻でも早く抜け出したくて歯がゆい面持ちになる。
「まぁ、そこにかけてくれ」
「はぁ……」
ただ間抜けな声で返答することしかできない。
理零が教師のデスクのすぐ横に予め用意されていたパイプ椅子に腰かけると、パイプ椅子はギシッと不吉な音をたてながら軋んだ。
ところどころ錆びついており、少し鉄の臭いが漂った。
クッション部分も破れて穴が開いており、黄色いスポンジがはみ出している。
理零は落ち着きなく黄色いスポンジを握ったりつまんだりを繰り返す。
教師は自身のデスクの引き出しを開けて分厚い茶封筒を取ると、そのまま理零に手渡した。
「あの、これは……?」
「まぁ開けてみろ」
理零は言われた通り、糊付けされた封を丁寧に剥がす。
すると『δクラス 年間授業予定表』と印字された紙と、十数枚程度の書類が顔を出した。
なにやら小難しい単語が何行にも渡って並んでおり、読む気が失せる。
「急で悪いが、お前は明日からDクラスから異動してδクラスで授業を受けてもらう」
「クラス異動……ですか!? どうして私が? そもそもδクラスって……?」
思わず理零は質問攻めになるが、それも無理はない。
そもそもδクラスなんてクラスは王井学院には存在していない。
何度も言うように王井学院中等部のクラスは成績順に上からS、A、B、C、そしてD。
ギリシャ文字のクラスなんて怪しい、実に怪しすぎるクラスである。
「δクラスというのは……成績不振だが特定の科目のみ優秀な生徒を集めたクラス。今回お前は理科枠としてδクラスに選ばれた。δクラスに関する情報は明日の全校集会で生徒会から発表される事項だから知らなくて当然だ」
そんな理零の反応も想定内だったのだろう、予め用意していたと思われるようなほど流暢な説明だ。
とても、面白いです!
続きが、楽しみになってきます‼
「お前は文系科目……特に社会科に関して苦手意識があるだろうし実際成績も芳しくないが、理科に関しては常にトップ10に入っている。それに数学の成績もまぁ良好だ。理数系に至ってはDクラスの授業では物足りないだろうという配慮から、お前のδクラス行きが決まった」
「しかし先生……! 私はそんな……」
そんな、特殊なクラスでやっていける自信がない。
そう抗議しようとする理零を遮るかのように、男性教師は一枚の紙をバッと彼女の前へと掲げて見せた。
「さっき採点した理科の小テスト、化学反応式10問。見事満点だ。そして今回の生存試験理科部門は学年3位。Dクラスに留めておくには勿体ないと、δクラス担任から直々の指名だ」
「えっ……δクラスの担任から……!?」
男性教師は半ば押し付けるように答案を理零に返すと、不敵な笑みを浮かべた。
お前なら、ついていけるだろう?
言葉こそなかったが、そんな含みを持った笑みに理零はためらう。
決断を下せる時間はそう長くはない。
彼女は茶封筒と返却された満点の答案用紙を交互に一瞥した。
理零は思う。
幼い頃から好きだった科学実験。
太陽はどうして落ちないのか、この生物はなんて言う名前なのか、磁石はどうして引き合うのか。
この世の真理である当たり前のことに疑問を持ち、念入りに調べては実験した。
結果、小、中と理科の勉強や実験ばかりにかまけて他の科目を疎かにした結果が現状。
深く後悔した頃にはもう遅くて、周りの子達との差を埋めることが難しくなっていた。
──けれど、もしδクラスで自身を変えることができるのなら。
私が全てを費やして手に入れた理科の知識を見込んでくれる人がいるのなら。
迷っている暇なんか、ない!
「入ります。入らせてください……δクラス!」
今まで費やした時間が──理科の知識が、無駄じゃないって証明できる気がするから。
>>07 匿名さんありがとうございます^^
亀更新ですが気が向いた際にご覧頂ければ幸いです!
「話は以上だ。清掃に戻れ」
「はい」
一通り説明があったがまだ不明瞭な部分も多い。
しかし理零にとってはDクラスから脱出できるというだけで嬉しいものがあった。
δクラスに関しては放課後の清掃や雑務がなく、自由時間として使える。
その分を少しでも勉強時間にすることができれば、生存試験で下位5名に入ることもないだろう。
「明日から掃除しなくていいんだぁ〜!」
思わぬ吉報により理零の足取りは軽く、このまま空にでもふわりと浮きそうなくらいだった。
意地の悪いSクラス生徒にゴミ捨てを押し付けられても、その足取りは崩れない。
軽く口角を釣り上げたまま、校庭の横にあるゴミ捨て場へと向かった。
生臭い臭いが立ち込める中、理零はすだれのように垂れ下がった青いネットをくぐった。
ビン、カン、燃えるゴミ……と種類別に分け隔てられたブースの奥に、ペットボトル専用の置き場を見つけると、袋を杜撰に投げ捨てる。
「よし、これで今日の掃除も終わり! 早く寮に戻ろーっと」
時が経つのは早いもので、授業終了時までは青かった空が既に眩しい飴色へと移り変わっていた。
暗くならないうちに帰ろう。
そう思って理零は再びネットをくぐって校庭の方へ出ると、異変を感じた。
突如、足首に不思議な感触を覚えた。
生暖かいような、柔らかいような。
「えっ、なに!?」
足首を何者かに掴まれている、と理解するのにさほど時間は要さなかった。
理零は額に脂汗を噴き出しながら、恐る恐る足元へと眼球を滑らせる。
「な、なに……ゐやああぁああっ!」
「ほけ……ほけ、んし……っつ……」
「ぎゃあぁああ! ゑっ、なに!?」
足元を掴んでいた手の正体は、見知らぬ少年だった。
理零は少し後ずさったものの、彼の様子を見た瞬間、気の毒になって手を振り払えなくなった。
王井学院指定の学ランを着ていることから学園の生徒であることは察せるが、それ以上の情報は見出せない。
学ランの下に着用しているオレンジ色のパーカーは校庭の砂で薄汚れ、長時間地面を這いつくばっていたことが伺える。
顔立ちは幼く童顔だが、弱々しくやつれている上に目の下のクマも濃い。
「あの……」
理零は幼い顔立ちに警戒を少し解いたのか、やおらしゃがんで目線を近づけた。
よくよく見れば、足首を掴む彼の手は細い。
「すっげー腹減って……校庭に゛植ゑてあるトマトの実食ったら゛、腹……壊し……」
絞り出すような声で途切れ途切れに紡ぐ彼の言葉を拾ったところ、校庭に生えているトマトを食べたら腹を壊したという。
──校庭に生えているトマト、とは。
そもそも校庭とは運動する場所であり、作物を育てる地ではないはずだ。
不審がった理零に説明しようとしたのか少年は黙りこくったまま、か細い指で明後日の方向を指す。
「あれって……!」
校庭の隅にひっそりと身を潜めながら風に揺られている植物。
確かにプチトマトより一回り小さい実がいくつか成っているが、まだ緑色だ。
一見トマトに見えなくもないが、理科に精通している理零は瞬時に見抜いた。
「マサカズあれ……フユサンゴ……!?」
「え、あれ、トマトじゃねぇの?」
プッツリ緊張の糸が切れたかのように、理零の足首を掴んでいた手が力なくうなだれた。
少年はドサリとうつ伏せになる。
「あれはフユサンゴっていって、ナス科ナス属の植物でトマトに似た小さい実をつけるけど毒があるの!」
「へっ……毒……?」
「幸い猛毒ではないけれど……とにかく保健室に行こう!」
理零はうつ伏せになった少年を素早く引き上げると、自身の小さな背中に乗せた。
が、背中の重みに物足りなさを感じ、顔を顰める。
「……軽い」
中学生男児とは思えないほどの軽さで、小柄な理零でも少々よろめくが背負って走れてしまえるほどの軽さ。
恐らく中学生男子の平均体重には到底行き届いていないだろう。
見てくれもやせ細っているし、軽いのも頷けるが……。
圧倒的に重みが足りないが、そんなことをとやかく言っている暇はなかった。
「お、俺……」
「いいから、そのまま乗っかって! 保健室すぐだから」
理零は少年を背中に乗せると、ふらつきながらも保健室へと直行した。
理零と少年が保健室に到着したのは閉鎖ギリギリの午後5時で、ちょうど養護教諭が保健室を閉めようとした時だった。
約2年間在籍していながら一度も保健室の世話になったことのない理零は、慣れない薬品の臭いに眉根を寄せる。
「すみません、ちょっと緊急で!」
「あら、ひどい顔色じゃない!」
「なんか校庭に生えてたフユサンゴを食べてお腹を壊したみたいで……」
「校庭に生えてたフユサンゴ!? これまたなんて奇怪なお客なのかしら……」
これまた理零にとっては初対面の養護教諭で、かなり童顔な女性がスリッパをパタパタと鳴らしながら忙しそうに駆けずり回っていた。
少年を見るや否や汚れた学ランやパーカーを脱がせてベッドに寝かしつける。
彼女は体温を測ったり濡れタオルで軽く顏周りを拭いたりと、手際よく一通り処置を済ませた。
理零もお湯を沸かして湯たんぽの用意を手伝う。
「しばらくお腹をこの湯たんぽで温めながら安静にして。トイレに行きたくなったら、保健室を出てすぐ横のトイレを使ってね」
「ありがとござま……す……」
「それと……かなり痩せこけているけど、食事は?」
「あー……5日間なにも食べて……ないっす」
「なっ、5日間何も口にしていないの!?」
これには理零も度肝を抜かされた。
いくらクラス別で待遇に差がある王井学院とはいえ、Dクラスでも食事にはありつける。
上位クラスに献立は劣る物の、栄養バランスも分量も申し分ない。
飢え死にする、なんてことは一切あり得ないはずなのだ。
それに理零が知らないということは、少なくともCクラス以上には在籍しているはずなのだが。
「ちょっと寮に行ってお粥を用意してきてもらうわね。いきなり固形食だと胃に負担がかかるから。腹痛が収まり次第食べるといいわ」
「お、お粥なんて贅沢……! 罰当たっちまう!」
「何言ってるの! 餓死寸前なんだからしっかり食べなさい!……えーっとそこの連れてきた女の子」
養護教諭は頭を抱えながら理零の方を一瞥すると、軽くため息を吐いた。
「わ、私ですか?」
「そう。ちょっと寮へお粥を貰いにいってくるから、この子のこと看ていてくれないかしら?」
「あっ、はい。構いませんが……」
「じゃあよろしく。なにか異変があったらすぐに連絡して! 番号はホワイトボードに書いてあるから!」
養護教諭は勢いに任せて言うだけ言ってしまうと、すぐに保健室を飛び出していった。
保健室内には少年の荒い吐息と、刻々と時を刻む長針の音だけが残された。
「……大丈夫?」
なんとなく気まずい静寂の中、重い雰囲気を拭おうと理零は少年に声をかけた。
彼は軽く奥歯を噛んで寝がえりをうつ。
「大分マシ……になった」
「ならよかった。でも、なんで5日間何も食べてなかったの?」
単純に疑問をぶつけただけの理零だが、少年はその質問に快い顔をしなかった。
眉根を下げて困ったような面持ちをする少年に、理零は失言をしてしまったのでは、と焦る。
「今月、すっげー出費……かさんじまって給料なくなって……。制服代と、か、教科書代とか……俺、この学校に転入するから、さ……」
この国──2030年の日本では、労働に年齢制限を設けていない。
従って、働こうと思えば小学生でも働くことが可能なのだ。
といっても資格や専門知識のない学生ができることといえば、力仕事や単純作業といった低賃金の仕事ばかり。
学校に通ってある程度の学歴を持った方がより高所得の仕事口に就けるのだが、そう単純な話でもなかった。
就職が厳しくなった現在の学歴主義の日本において、親の稼ぎが良くない場合は幼少期からの労働を強いられることがある。
恐らく少年も親の稼ぎの足しにと労働させられていたのだろう。
「やっと抽選に当たって王井学院……入学、できたんだ」
「そっか……」
生存試験で間引きされた分の生徒を補うため、三ヵ月に一度抽選が行われる。
抽選に当選した者は学費や寮代無料で入学することができる。
入学時の制服代や教科書代は生徒側の負担であるのだが。
「飯代浮くし、勉強もできんなら……って、思ってたけど……やー、制服高ぇな。すぐ、汚れちまったし」
「なんの仕事してたの?」
これ以上踏み込むのは無礼だと理零の脳内が警鐘を鳴らすも、好奇心には抗えなかった。
理零の予想に反して、彼は唇に緩く弧を描いて微笑む。
「歴史博物館の、清掃員」
「ヴッ……歴史……」
たった二文字の単語で、先刻の苦い結果がフィードバックした。
赤い雨。
0点の歴史小テスト。
「もしかして、歴史嫌いなのか?」
よほど苦虫を噛み潰していたような顔をしていたのだろうか、少年は理零の正鵠を射った。
理零はきまりが悪そうに俯きながら頷く。
「だって……人の名前とか紛らわしいし、戦争とか事件名の年号もたくさんあって覚えられないし……暗記帳とか見てもあんま頭入らないし」
三・一独立運動? 五四運動?
徳川家康? 徳川家光? 徳川吉宗? 徳川慶喜?
藤原家や徳川家に至っては誰が何をやったのか混乱するし、五・四運動や三・一独立運動は同時期に起きてるからどちらがどこで起こったのか混同してしまう。
名前は覚えているが、それが一体なんなのか、誰なのかまでは頭に入れることができない。
「もう、歴史なんて嫌い……っ!」
フィードバックした赤い雨に苛立ちを覚え、理零は自身の太ももに拳を打ち付けた。
ギッと音をたて、錆びたパイプ椅子が軋む。
「歴史ってさ」
少年はぽつりと小さく呟き、仰向けにしていた顔をベッドサイドの理零の方へ向けた。
俯いていた理零も、曇ったままの顔をやおら上げた。
「過去と今を繋ぐ、すっげぇ学問だって思うんだ」
「過去と……今……」
「だってすげぇじゃん! 1000年も2000年も前の人たちが何をして、どうやって生きていたのかが分かるんだ。今の俺達を創った先人達が積み上げてきたものを一つ一つ拾い上げて、噛みしめていく。歴史って、そんな学問だろ?」
歴史を学ぶ意味なんて考えたことのない理零にとって、彼の言葉はストンと心におっこちきた。
それは、ただ学校で強制的にやらされていた学問に意義を見出せなかった彼女の穴に丁度はまったのだった。
つい先刻まで腹痛でしかめっ面だった少年の顔は、いつの間にかほころんでいた。
すっごい面白いです!!
葉っぱで見てきた小説の中で一番いい作品だと個人的に思います!
ゆっくりでも続き楽しみにしてます!
>>17
すぴかさんありがとうございます!
そう言って頂けると活力になります(;Д;)(;Д;)
のろのろ更新していきますのでよろしくお願いします!
「あの……名前はなんて……」
「お待たせ! おかゆ貰ってきたわよ!」
理零が少年の名前を問おうと口を開いた刹那、保健室のドアが勢いよく開いた。
養護教諭は両手にお盆を乗せながらゆっくりベッドサイドへ歩み寄る。
トレーには梅干しがちょこんと添えられたおかゆ、緑茶が入った湯呑、リンゴが乗っている。
もやもやと薄い湯気を立ち昇った。
「ご飯……久々に見た……」
「とんだ不摂生な生活ね。食べられそう?」
「あ、はい。腹痛もけっこー収まってきたし」
少年はトレーの上に置かれたレンゲを震える手で握ると、ゆっくりと口へ運んだ。
二口、三口ほど味わうように噛みしめ、少年の双眸に塩水が溢れだす。
「うぅ……米が……うまい……っ、こんな贅沢が許されんのか……!」
「お、おかゆで贅沢って……」
「昔、貧しい平民は米が足りず、重湯(おかゆよりさらに薄い汁)にしていたんだ……おかゆを食える俺は恵まれてんだ……」
学校にも行かずに労働していたくらいなのでかなりの貧困層であることは分っていたが、ここまでとは。
理零は呆れを通り越して憐みを抱く。
本日更新します〜
21:菜梨◆azw:2018/12/22(土) 08:53 わーい(≧∇≦)
楽しみです‼
「えっと、じゃあ私はこれで……」
理零は養護教諭が戻ってきたのを確認すると、タイミングを見計らってお暇することした。
一刻でも早く寮に戻り、新クラスの授業に向けて予習や準備をしておきたいのだ。
さらにクラスを変えると寮も変わるので、荷造りもしなくてはならない。
「あっ、わざわざありがとね〜!」
「まじでありがとな。命の恩人だわ! このお礼はいつか必ず返す!」
彼の顔色は最初に会った時に比べて随分明るくなっていた。
満面の笑みでサムズアップできるくらいだから、もう大丈夫だろう。
「別にいいよ。では、失礼します」
一礼して静かにドアを閉める。
恐らくクラスも違うだろうし、と特に期待していたかった理零だが──。
>>21
菜梨さんありがとうございます!
本日はまだまだ更新続けていきます
「よぉ! 昨日の親切な人じゃねーか!」
「あなたは……!」
翌日、新クラス──δクラスの教室に行くと、昨日の少年が椅子にふんぞり返って笑っていた。
予想以上に早すぎる再会に、理零はスクールバッグを握ったまま教室の入口でたじろぐ。
「校庭のフユサンゴを食べて保健室のお世話になった人!」
「おい、あんま大声で言うなよ!」
一応非常識な行動だということは認識しているようで、少年は顔を少し紅潮させながら左右をキョロキョロと落ち着きなく見回す。
少年の席の左右隣には他にも生徒が2人おり、少年を珍しいものを見るような目で眺めていた。
右隣には、金髪碧眼の少女。
肩までの髪を緩やかにウェーブさせている。
窓から差す陽で白い肌は眩しく、少年と理零が思わず目を細めてしまうくらいである。
異国の血の影響か、組まれた脚は理零や他の女子中学生に比べて長い。
左隣に座っているのは、黒髪の少女。
腰まであるストレートの黒髪は太陽に照らされ、緋色に染まっている。
よく見ると左右で瞳の色が違う、所謂オッドアイになっており、右目が若干赤っぽいのに対して左目は青い。
凛とした佇まいは美しく、まさに大和撫子を体現したような美少女である。
初対面であれば話しかけることすら戸惑うようなオーラを纏う少女2人だが、理零は躊躇うことなく二人に歩み寄る。
「バンジョーさんと……赤染さん!?」
「なんや、伊賀さんもこのクラスかいな」
「理零もクラス異動になったのね? Dクラス出身が二人もいて、ちょっと安心したわ」
理零は元Dクラスの知人がいることに胸を撫で下ろした。
いきなりのクラス異動で、知らない人ばかりだと思っていた理零にとって二人の存在は救いである。
「赤染さんとバンジョーさんもδクラスに異動したんだね」
「せやで〜。放課後の雑務免除されるっちゅうから」
「私も英語枠で話がきたから受けたの。雑務免除はありがたいわね」
やはり思うことは同じで、放課後の時間を少しでも長く使えるようクラス異動をしたらしい。
雑務の免除はDクラス生徒にとって
「なんだなんだ? 知り合いか?」
三人の間に割って入ってきたのは、例の少年だった。
彼女達の会話についていけない少年はつまらなさそうに眉を下げ、理零に尋ねる。
「うん。同じDクラスだったからね」
黒髪と金髪の少女は理零の隣にいた少年の存在を認めると、少年の方に歩み寄った。
「ウチは赤染萌李(あかぞめもゑり)や。得意科目は国語。長いこと京都に住んどったから京言葉抜けへんけど堪忍してや。ほな、よろしく」
「よろしくでい!」
キリッと意思の固いツリ目が特徴的な少女だ。
少なくとも理零は、その眉が下がったところを見たことがない。
理零が小耳に挟んだ噂によれば、京都でも有名な名家の娘らしい。
厳しい教育を受けてきたため、責任感が強くて真面目な性格も頷ける。
萌李が紹介し終えると、隣にいた金髪の少女が待ってましたとばかりに自己紹介を始める。
「Hey! 私はバンジョー・バターリン! オーストラリアから留学生として来たわ。バターって呼んでね! 日本語はまだ慣れてないの。フツツカモノですがヨロシクお願いしマス!」
「おう、よろしく!」
英語が堪能で人当たりもよく、間引きを免れようと必死で殺伐としたDクラスでも円滑な関係を築いていたと理零は記憶している。
各科目の学年トップが集うと聞いて身構えていたが、性格に難のなさそうな人々でよかったと理零は安堵した。
「で、お前は?」
「ゑっ、あ、私!?」
ほっと息をついて安堵していると、少年が
そういえば知り合いばかりで気が抜けていたため、名乗っていなかったことを思い出す。
「伊賀理零(いがりれい)です。得意科目は理科で……特に星とか、宇宙とか……」
「いがりれい、いがりれい……なんかどっかで……」
少年は理零の名前を何度か連呼すると、ハッと瞳孔を見開いた。
「ガリレオ・ガリレイだ」
「ゑ」
「お前の名前、ガリレオに似てねぇか? 星とか宇宙が好きって言ってたし!」
「なっ……あんな天才を私なんかと一緒にしちゃだめだよ! 失礼すぎるでしょ!?」
宇宙についての勉強をしていれば知らない者はいないであろう超有名学者、ガリレオ・ガリレイ。
数々の衛星の発見、望遠鏡の作成──。
天文学だけに留まらず、物理学においても功績を残した偉大な科学者ガリレオ・ガリレイは、理零の最も尊敬する学者と言っても過言ではない。
よりによってそのガリレオ・ガリレイと同一視されるなど、言語道断。
「ん〜そうかぁ?」
「伊賀理零とガリレイ……確かに似とるな」
「赤染さんまで……!」
「そういえば、あなたの名前聞いてないんだけど……」
「おい、お前ら!」
理零が少年の名前を尋ねようとしたところを、低い男性の声が遮った。
一斉に声のする方に振り向くと、長身で気だるげな表情を浮かべた男性が立っていた。
くたびれた紺色の背広に身を包み、長い足をクロスさせている。
「悪いが自己紹介は後だ。まぁ後もなにも、お前らにはこれから行われる全校集会で新設されたδクラスの生徒としてステージで自己紹介してもらう」
「ステージに出るんですか……!?」
「聞いとらんで、んなこと!」
理零と萌李は難色を示した。
「聞いてなかったのか? まぁお前らは前に出て一言発表するだけでいい、緊張すんな」
「せやけど……!」
「いいじゃん萌李。ステージなんて初めて! ワクワクしちゃう!」
抗議しようとする萌李を宥めるように、横からバターが躍り出た。
人前に出ることを苦としていないのか、口角も上がって随分と楽しげな様子だ。
「てなわけで、さっさと講堂に移動だ。転入生は迷子になんないよう他の奴らについてけよ〜」
背広を着た男性に促され、4人は急ぎ足で講堂に向かう。
他のクラスの生徒も移動を始めており、少し混雑していた。
「さっきの男の人、2年前に1年Sクラスの担任してた先生ちゃう?」
渡り廊下を一列になって歩く途中、ふと萌李が思い出したように言った。
「Yes,私も見覚えあるわ。でも確か途中でやめたわよね?」
「なんだっけ、数学の先生だった気が……」
中等部一年時から在籍していたバターと理零は記憶にあるものの、Sクラスの生徒ではなかったためさほど濃く印象には残っていないようだった。
Sクラスの教師とは、集会で見かけたり廊下ですれ違うくらいしか接点がない。
それにしてもなぜ元Sクラスの担任が……?という疑問が3人の中に渦巻く。
そんな疑問符を打ち消すように割って入ったのが、娼年の一言だった。
「あー悪い、そこのトイレ行ってきていいか?」
少年が指さしたのは、渡り廊下の突き当たりに設置されてある男子トイレだった。
「but,タイムリミットはあと2分よ」
「せや、うちら先行ったらアンタ講堂まで辿り着けへんやろ」
バターと萌李が言うように、転入生の少年はまだ校内の地理に明るくない。
だから先程の男も3人と共に行動するよう促したのだ。
しかし、少年の顔色は青い。
「な、なんとかならないかなぁ?」
「ゔぅ……でも我慢できねぇよ〜! すぐそこにあるから行っときたいんだ! 確かここ渡って階段降りてけばすぐ見つかるんだよな!?」
「そうだけど、心配だよ」
昨日のフユサンゴの件と言い、少年は考えずに突っ走っていくきらいがある。
トラブルメーカーになりつつある少年を一人にするのは、理零としても気がかりだった。
「しゃーない、ステージで漏らされるよりマシやからな……ほな、行っとき」
萌李は呆れて苦いため息をひとつ落とすと、顎をしゃくって男子トイレを指し示した。
「ありがとよ! すぐ行っから!」
別行動をとることになった少女達は急ぎ足で講堂に向かい、少年は男子トイレに駆け込んだ。
「大丈夫かな……」
「ま、うちらが壇上に上がる頃には戻るやろ。校長の話長いし」
女子3人は無事チャイム前にステージ袖で待機できたが──。
「やっべぇ〜! 誰もいなくなってる!」
少年が用を足してトイレから出る頃には、廊下の人影はすっかり消え失せていた。
1人でも講堂へ向かう生徒がいればあとを付けて行くことが出来たのだが、1人もいないとなると厳しい。
「講堂って……? あぁ、ここは食堂? てかここ何階だ?! 下の階だったよな……?」
とりあえず階段を下るものの、膨大な部屋の数にパニックに陥る。
国立王井学院が誇る設備は大学規模で、体育館やトレーニングジム、広い食堂など約50以上の部屋がある。
手当たり次第に一つ一つ確認するも、何処もガランとしたもぬけの殻。
1人でも人がいれば講堂の場所を聞けるのだが、あいにく教師を含めたほとんどの人間が出払っているらしい。
「ん〜、この階じゃねーのかなぁ……?」
やがて少年はもう一段下り、一階から地下室へと迷い込んだ。
「うっわ、ここ絶対違ぇよな……」
窓がひとつも無いため、外界から遮断されたような錯覚に陥る。
灯りはところどころ天井に備え付けられた古い蛍光灯のみ。
その蛍光灯も長い間替えられていないのか消えているものやゆっくり点滅しているものが多く、蛾が舞うところも多々あった。
道路の途中にあるトンネルのように、静寂の中自分の足音だけがコツ、コツと響く。
長い廊下を少し進んだところで少年は怖くなり、引き返そうと背を向けた瞬間だった。
「いっ……ゐやぁあ! いやぁ! 助け、助けてゑぇえゞ」
「ぎゃぁあ゛、いやだ、やめてぇ!」
耳を劈くような激しい慟哭に、少年は足を止める。
額から脂汗が滲み出た。
声のする場所は近い。
「は……っ!? なんだよ、この悲鳴……!」
振り返ると、数メートル先に木製のドアが見えた。
声の源は恐らくその部屋だろう。
「何が起きてんだよ……!」
逃げ出したい気持ちもあったが、扉の向こうを確かめたいという好奇心の方が大きかった。
切り裂くような悲鳴に何があったのか確かめようと、少年が恐る恐る歩み寄ろうとした、その刹那に。
「──君、こんなところで何をしているんだ?」
「ぎゃあ゛あ゛あぁあっ!?」
突如ぽんっと軽く肩に手を乗せられ、少年は驚きのあまり、部屋から聞こえる悲鳴をかき消すような大声をあげた。
トンネルのように反響する空間だから余計にうるさい。
少年の悲鳴はこだまし、二重、三重となって耳に跳ね返る。
落ち着きを取り戻してよく見ると、話しかけてきたのはただの男性だった。
50歳ほどだろうか、白髪の交じった黒髪をしているが肩幅は広くて背も高く、体格はしっかりとしている。
先程の若い男性教師と違って、きっちりアイロンがけされたYシャツのボタンは白蝶貝。
スーツもそれなりに上等そうで、貫禄がある。
薄暗い中だったが、なんとなく身分がやんごとないのは伺えた。
「こっ、講堂探してたら、迷っちゃいまして……! お、俺転入生なんで……」
震える声は小さかったが、十分響き渡った。
カタカタと足を小刻みに震わせてなんとかそれだけ言うと、男性から少し後ずさった。
男性はというと、眉を少し下げて苦笑している。
「そうか、ならば私が案内しよう」
「あっあっあっあっ、ありがとうございます!」
少年は裏返った声で礼を述べた。
男性はこっちだ、と反対方向を向くと、着いてくるよう促す。
足音が二人分響いた。
「にしても随分と校舎端まで来たね。講堂は反対だから、少し歩くよ」
「は、ははっ……」
少年は苦笑いを浮かべた。
ひとまず階段をのぼり、2人は地下室を後にする。
窓から差し込む日光が、なんとも言えない安心感を生み、少年はほっと胸を撫で下ろした。
地下にいたのはたった数分だが、10年ぶりに地上に還ってきた気がする。
少年は静かにそう思った。
少し歩いて中庭に足を踏み入れる。
丸い石畳の硬い感触が、上履き越しに伝わる。
「あのっ、あの、さっきのってまさか……」
「見てしまったか」
男性は呆れとも諦めともつかないような苦笑いを浮かべた。
「あれは"抹殺室"。成績不振で役に立たない人材を葬る、馬鹿の墓場さ」
「やっぱりあれが……!」
「普段地下は立ち入り禁止で停学処分なんだがね。まぁ君はまだ説明を受けていなかったみたいだし、見逃してあげよう」
抹殺室、という単語を聞いて、少年は眉間に皺を寄せて男性を見上げた。
それを見て男性がどんな表情をしたのか、少年は分からない。
逆光が、眩しい。
「怖い顔だね。君も間引きが怖いか」
「いーや、怖くなんかないね。俺はあいつとの約束……この学校の間引きを止めるために転入したんだ。」
「ほう? どうやって?」
小馬鹿にしたような笑みに、ムカついたが、少年は負けじと口角をつり上げ不敵な笑みを浮かべた。
「この学院はクラス対抗で校内戦をして、勝たったら条件を飲ませることが出来るって聞いた。教師も例外じゃねぇ。だから理事長の座を奪って、間引き指定校から外す」
「ほぉ〜、理事長の座を……ねぇ。この時代にこれほど大きな夢を持つ若者がいるとは」
男性は感嘆の声を漏らすと、ぱちぱちと小さく拍手した。
「君、クラスは?」
「デルタだ!」
「ほう、じゃあ有久(ゆうく)の言っていた社会科枠の転入生とは君か。これは面白い」
中庭を通って校舎内に入ると、逆光が消え失せて男性の横顔が明瞭になる。
少年は聞いたことのない有久(ゆうく)という名前に疑問を覚えて尋ねようとしたが、男性は続けた。
「理事長を倒すのは、不可能だよ」
微笑を浮かべていたものの、その声は低くて怜悧で。
少年の鳥肌がたったのは、その冷たく寒い声のせいか。
「え、どうして「さぁ、ここが講堂だ」
男は少年の言葉を遮ると、身長を遥かに超えるほど大きな扉の前で立ち止まる。
「早く行ったほうがいいんじゃないか? 確かデルタクラスは登壇と聞いた」
「いっけねぇ、そうだった!」
すっかり頭から抜け落ちていたのだろう、焦燥を滲ませながら扉のノブに手をかける。
男性は壁に寄りかかって腕を組み、一向に動こうとしなかった。
「入らないんですか?」
「私はまだやることがあってね」
「そうですか……あの、ありがとうございました! じゃ、行ってきます!」
少年は一礼してから扉を勢いよく開けると、堂々と歩き出した。
少年が案内を受けていた一方、理零、萌李、バターの3人はステージ袖で焦りを感じていた。
見渡す限り生徒が並ぶ講堂に、自然と手に汗を握る。
「緊張するなぁ……講堂のステージなんて登ったことないよ」
「ウチもやで。そもそもこんな自己紹介いらんとちゃう? クラスだけ発表したらええのに」
「まぁまぁ、二人ともrelax(リラックス)! あげぽよで行きまショー!」
「あ、あげぽよ……」
覚えたてのギャル語を使いたいのか、あげぽよを強調させるバターに萌李と理零は不思議なものを見るような目で見た。
硬くなっている理零と萌李と対象的に、バターの笑顔は崩れない。
「それにしても遅いなぁ、あの人……そろそろ校長の話終わるのに」
「絶対迷ったで。やっぱウチが待っときゃ良かったんや……」
「続いて、連絡事項。δクラスの四人は壇上へ上がってください」
「Oh,もう登壇みたい!」
男性のアナウンスがしたかと思うと、先程の男性──担任(仮)がマイクスタンドの前でだるそうに進行させていた。
「とりあえず、うちらだけでも行かんとな」
「そうだね」
「YES♡゚」
3人は事前に渡されたマイクを握り、ステージに登って行った。