第1話:始皇帝の死
陽城県の陳勝と言えば、野望の大きい男であった。
彼の字(あざな)は渉という。渉とは至る、届く、経験する、関わる、動かすなどの意味がある。
その言葉通り、彼は、
「俺はいずれ富める身になる」
だとか、
「俺は天下を動かす。それか天に関わるる人間になる」
そう言って期待に応えようというのか。それは定かではないが、ともかく大人物になろうとしていた。
だが、周囲の者からは、農民ごときが何を言うか。としか思われない。
そう、陳勝は富貴でもなければ豪商でもない。しかも、農民は農民でも豪農ではなく日雇い農夫である。
収入も、位も下の下である。そんな人間が大言壮語するのだから、周囲の者−−取るわけ雇用側からしたら失笑するしかなかった。
そして、大言壮語も1、2回ならば、嘲笑するぐらいで済むだろうが、しつこいと頭にくるものである。
雇用側の豪農は少し嫌がらせをしてやろうと思って、
「お前のごとき日雇い農夫が栄えるものか。寝ぼけたことを言うでない……ほら、布団を用意しておいたから、眠気が覚めるまで好きなだけ寝るといい」
と戯けた声で言った。すると陳勝は一つため息をついて、
「嗚呼……燕雀安知鴻鵠之志哉(ああ、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや……ああ、燕や雀のごとき小者がどうしてヒシクイや白鳥のごとき大人物の志を分かるというのか、という意味)」
と呟く。バカにされて豪農は顔を赤らめつつも、このような見事な返しを思いつく陳勝の頭の良さに驚嘆したので、何もいえなかった。
そう、陳勝はただ貧しいだけで馬鹿ではない。むしろ多少の教養や地頭はあったのだ。
だが、下手に賢かったことが彼を不幸な目に合わせることとなる。
紀元前209年。秦の二世皇帝・胡亥(コガイ)の治世である。
人が死ぬるのも、誰かが後を継ぐのも当然のことである。しかし、この胡亥が後継になったことは秦の民だけでなく秦そのものにとっても不幸であった。
そもそもこの男は皇帝になれるはずもなかった。
第2話:大秦帝国の凋落
第2話:大秦帝国の凋落
彼は、先代の始皇帝・嬴政(エイセイ)の風格を何一切継いでいなかったのだ。
嬴政は腐れ儒者を排除する、度量衡を統一するなど、利己主義的な君主であっても、有能であった。
だがこの胡亥は、父・嬴政に愛されていただけの男に過ぎない。天下が望む本来の皇帝は嬴政の長子である扶蘇(フソ)であった。
扶蘇は慈悲深い男で、治世の名君と言えた。だが、父とは相容れず関係は悪かった。
彼は諫言によって不興を買い、蒙恬(モウテン)将軍率いる辺境の国境警備軍の監督役に左遷されていた。
だが、嬴政は英雄である。いかに扶蘇が憎く、胡亥が可愛くとも長子を跡継ぎに立てることは常識であるし、扶蘇の方が優れることもわかっていた。
嬴政は頭を抱えて考えた挙句、扶蘇に継がせることを決めていた。
だが、これを喜ばなかった人物がいる。宦官(皇帝の世話係)の趙高(チョウコウ)である。
趙高は戦国七雄(燕、趙、斉、楚、魏、韓、秦のこと。嬴政の代に統一された)の一つ、趙の人である。
趙と言えば、秦の将軍白起によって40万もの働き盛りの男が殺戮された国である。これは嬴政の代の出来事である。
人(あくまで支那の)とは同郷のものに強い親近感を覚えるものである。同郷であるというのは、兄弟も同じだ。同じ国の人間が大量に殺されて黙っていられる人間はそうそういない。
趙高もその一人であった。彼は趙の公族であったから、恨みは特に大きかった。
彼はその恨みを晴らすべく、宮刑を受けて宦官となり、秦に仕えたのだ。
だから、彼としては扶蘇のような有能な人間が上に立つと、復讐が難しくなる。
復讐をするなら−−国を滅ぼすならば、とことんバカな人間を上に付ければいい。それが、胡亥であった。
嬴政の5度目の巡幸の折、天下の英傑・嬴政は突如病死した。
君主が死んだならば、後継者が必要である。
今動けば復讐が出来る。そう考えた趙高はまず、影響力のある丞相・李斯(リシ)を、
「私の言う通りにしないとあなたの命はありません」
と言って、私兵を使って拘束した。李斯は命が惜しくなって、
「分かった。言う通りにする」
と返答した。彼としては趙高ごときの言いなりになるつもりはなかったが、命を人質にとられてしまったら如何に謀の得意な彼でもどうしようもない。
見事李斯を抱き込んだ趙高は嬴政の車に乗って、食事を取り続けた。それは、時間を稼ぐためである。復讐のためなら死体と食事をしても良かったのだ。
ある程度時間を稼ぐと、捏造した遺言書を掲げ、胡亥を帝位につけ、扶蘇を自殺に追い込んだ。
彼の作戦は簡単に成功してしまったのである。
このような経緯で立てられた皇帝がまともに政治なぞできるわけがない。
胡亥は駄々をこねて宮殿を建てさせたり、対抗勢力となる親族を大量に粛清したりするなど暴虐を極めた。
名将の蒙恬までも趙高の言われるがままに殺してしまった。
さらに民に異常なほどの労役を貸した。
民衆にとっては悪魔のような政治であるが、胡亥は、
「権威をつけるためだ。仕方ない」
と言って全く省みようとしなかった。ずっとのほほんとしている。
この労役のために呼ばれた民衆の先導役として陳勝が選ばれたのだ。これは、陳勝が読み書きができ、素養もあった故の人事である。
タイトルが重複してしまいました。申し訳ありません。
4:伊168:2018/12/25(火) 21:26 第3話:漁陽への道
「全く陛下は何を考えているのか……」
陳勝は指揮官に聞こえないように小声で愚痴った。流石に大声で言えば斬り殺される。死んでしまっては意味がないことくらい陳勝は分かっていた。少なくとも今の陳勝には滅びの美学なる概念はない。
後ろの農民たちをチラリと見て陳勝は胸を押さえた。姓名は愚か顔も知らぬものばかりであるが、農民だった陳勝にとっては強制的に労働か兵役に付かされる彼らが不憫でならない。彼らにとっては気ままに土を掘って水を運んで年を取っていくことが望みであるはずだ。
平穏に暮らすという望みすら叶えて貰えぬのは不憫でならない。しかし、彼らがちっぽけな夢しか持たなかったから自分のような先導役の兵士ではなく使い捨ての−−辺境警備の雑兵にしかなれんのだろうとも思う。自分も恐らく辺境警備に当てられるだろうが、先導役であるので、伍長か什長には慣れるだろう。ちょっとした部隊を率いることもできるかもしれない。
考え込むうちに陳勝は、
(こんなことを考えているよりも彼らを無事に届けてやることを考えねば)
と思うようになり、小休憩の間に、もう考えないように決めた。
自分の役目は1人の脱走者も出さずに期限内に漁陽(ギョヨウ、現在の北京市密雲区)まで送り届けること。1人でも脱走者を出したり1日でも遅れると連帯責任で全員処刑だ。いや、指揮官の2人だけは都で有力な朝臣にコネがあるから助かるだろう。
「まあいい。俺達の努力次第だ。な、呉広?」
陳勝は隣にいた男に話しかけた。この男は呉広(ゴコウ)と言い、陳勝の知己である。陳勝と同じ先導役だ。
「ああ、そうだな……」
呉広は力なく言う。不思議に思った陳勝は呉広の目線を追いかけた。
すると、その先には黒く広がった雲があった。自分たちの進路へと連なっている。
案の定、雨が降った。それも豪雨である。ここらの立地も災いし、道が水没してしまった。
今は野営しているが、今までの早さから考えて、期日までの到着は絶望的である。
農民たちは戦々恐々としている。死ぬのが怖いのだ。それは陳勝も同じだ。だが、陳勝は怯えない。
雨の音が強くなるにつれて陳勝の顔が野心家のものになっていく。
第4話:陳の鬼
陳勝は何を思ったか、幕舎を出て飛雨の中に躍り出た。泥に塗れた陳勝の顔を岩のような雨が洗う。
足元の泥土が西へと流れていく。激流が地を這うも陳勝は微動だにせず西を凝視する。
鉛を背負っているように体が重く感じるも、陳勝は動かない。汚れた服からも雨が降る。
「おい、呉広。こっちに来い」
陳勝は幕舎のふちに留まって小さくなっている呉広を呼んだ。呉広は恐る恐る出て、
「一体どうした?」
とぶるぶる震えながら聞いた。
「呉広……この刁斗、秦のために使うべきではないのではないか」
陳勝の目が稲妻のように光る。呉広はその意を汲み取ると、恐れて足元の泥濘や水溜りも気にせずにへたり込んだ。
「お前……正気か!?武関、函谷関は天下の要害。他の要所だって簡単に落とせないぞ!」
呉広は陳勝の胸ぐらを掴んで、周章狼狽した。呉広の目は左右に揺れ、焦点がつかない。
だが、陳勝は一つも慌てず、ただ西方を臨んで、
「そんなに不安ならば……ここらに有名な易者がいた。それに聞こう。悪ければ一緒に脱走しよう」
呉広はほっと一息ついて陳勝の後について行った。
一里も行かんうちに易者の元へついた。2人は、秦に反旗をひるがえすことを言って、占ってもらった。
易者の許負(キョフ)は顔色一つ変えずに淡々と、
「あなた方の事業は成功するでしょう。また鬼となるでしょう」
これを聞いた陳勝は、喜ぶよりも先に頭を抱えた。鬼とは何かの喩え、それか暗号であろう。
陳勝は事業は成功するという言葉に引っ張られて、この暗号を良い意味だと捉えた。そして、
「呉広、わかったぞ。これは、事の成就のために鬼の力を−−要するにそのような演出をせよということだ」
すると呉広は手を叩いて、
「おお! お前は天才だ!」
と言った。
2人が鼻歌を歌って出ていった後、許負は哀れに思った。
(ああ、2人は意味を取り違えていた。本当は、事業の成功の後に鬼籍に入ると示したのだが)
彼は占いの結果を詳しく教えてやらないように誓っていたが、この時ばかりは出て行って教えてやりたくなった。
ご意見、ご感想お待ちしております
7:伊168:2018/12/27(木) 22:18 第5話:鬼神
(いや、ここで教えては贔屓になってしまう。彼らが気付く事を祈るしかないか……)
許負は奥歯を噛んで幔幕の中へ戻った。ゆっくりと。
陳勝らは膝を強く曲げて幕舎まで走った。滔々流れる泥水の激流が100の山、10の関のように立ちふさがった。
なに、負けるものかと2人は水を蹴り飛ばして、ひたすらに駆ける。これには雨も恐れ入ったか、幾度となく戦場を駆け抜けた猛将のような地面が姿を現した。
だが、雨は意地悪く泥濘を繰り出して、最後の抵抗を試みる。しかし、汗血馬(カンケツバ)のごとき疾風の2人には通用しない。抵抗むなしく、あっという間に乗り越えられ、2人は幕舎の温かい懐に飛び込んだ。
幕舎に入った陳勝は辺りを見回した。妖の演出をするならば周囲の状況をよく見ることが肝要である。
彼はこの幕舎でいい事を聞いた。
「今日は魚料理にするってよ!」
と誰かが言ったのだ。このような何気のない話に旨味がある。陳勝は一計を案じた。彼は突然料理長に近寄って、
「おい! 俺にもやらせてくれ!」
すると料理長は、人手不足だったこともあって快諾した。陳勝は腕を小さく上げて成功を喜んだ。
陳勝は捌いた魚の中に、
「陳勝王」
と書いた布切れを忍ばせた。包丁を持つ手が小刻みに震える。武者震いか成功を喜んだものか、さまざまな感情をすり潰したような挙動だ。
準備が出来たところで魚を焼いた。布切れがおかしくなっていないか不安になって、何度か火から離したが。
出来上がると、陳勝は大きく呼吸をして、下っ端に持っていくように告げた。
なにも知らない下っ端は平然と料理を運ぶ。他の農民らも口笛を吹いて料理を迎えた。彼らは垂れるヨダレを拭いながら次々に刃を降ろしていく。柔らかい魚は煙を立てながら腹のなかを曝け出す。
この魚を裂いた農民たちは我先と中を見たが、一目見ただけで、皇帝や王を見た時のように恐れ、ひれ伏した。
ほかに集まりからも悲鳴に紛れて完成が聞こえる。
春の水田を馬鍬で引いたように場が濁った。そこで声真似のうまい呉広が狐の声を真似て、
「陳勝が王になる」
と言った。人ごみに紛れているが、不安は拭えない。むしろ余計にバレやすいのではないか。臆病な呉広は唇を震わし、ぎこちなく火の周りを去った。
指揮官たちはこれを聞いても、
「あいつら馬鹿だから。勘違いだろう」
としか言わなかった。だが肝心の農民たちに与えた効果は大きかった。彼らが陳勝を見る目が明らかに変わったのだ。陳勝は人目を避けて、呉広とともに厠(カワヤ、今で言うトイレ)に入った。
「呉広……」
陳勝は重々しく話し出した。長い付き合いの呉広はその口調の変わりようから嫌な予感を感じ取る。
陳勝は胸の奥で土下座をしながら呉広に次の作戦を告げた。
コメント失礼します...!
漢字が多かったので、難しい話かな?と思い読ませてもらったのですが、
凄い面白かったです...!!完結まで、影ながら応援してます!
>>8
ご清覧ありがとうございます。
そう言っていただけると励みになります!。
楚漢戦争は三国志の陰に隠れがちですが、魅力的です。
宮城谷氏の作品は駆け引きなどが上手ですからおススメです。
第6話:血潮
「帰ったら指揮官に『俺は故郷に帰る』といってくれ」
陳勝はさらりと言った。それが呉広の気に触ったか、彼の目は血走っている。彼は、腕を組んで真横を見ると、
「それは俺にしねと言うことか!」
厳しい口調で言うと、陳勝の両肩を掴んだ。余りにもすごい剣幕だったので、流石の陳勝も暫く言葉を発せなかった。
いつもならここで、
「狙いが外れてしまったではないか」
と戯けて言うのだが、そんな状況ではない。
無論、陳勝としてはこの友人をころす気は無い。しかし、感情的になった人間を理論でねじ伏せる事が出来るのか。陳勝は唾をゴクリと飲んで、
「違う。そんなことはない。正当な手続きを経なければ処断はできん。言うだけなら鞭打ち程度で済む。なに、その痛みの代償は事がなったら払ってやる」
「あの豚どもが守るとは思えんな!」
呉広はまだ怒っている。それどころか、火に油を注いでしまったようで、先ほどよりも表情が険しい。
肩を掴む手に物凄い力が入っている。今にも骨がバキバキと音を立てそうなぐらいの力である。
「頼む! 俺を信じてくれ!」
こうなればこっちも感情で対抗するしかあるまいと思った陳勝は、汚い床に伏して懇願した。
呉広は、感激したのか引いたのかわからないが、なんとか了承してくれた。
陳勝は呉広の差し伸べた手に捕まって厠を出た。
2人は目も開けられぬほどの豪雨を乗り越えて、指揮官用の豪勢な幕舎に入った。
「どうした……汚らしい。用がないなら出て行け!」
指揮官の一人、黄敬(コウケイ、実際の名前は不詳)が研ぎたての刃のような目をむけた。たとえ先導役の2人であっても彼らからしたらゴミ同然なのだろう。
目の奥にある軽蔑の感情がありありとわかる。
すかさず呉広が指揮官の前にフラフラと寄って、
「俺は故郷に帰る! 俺は故郷に帰る! 俺は故郷に帰る!」
と三唱した。指揮官の尹敏(インビン、実際の名前は不詳)は食べカスで薄汚れた歯をむき出しにして、
「黄敬殿!こいつを鞭打ち30回の刑に処せ!」
黄敬は卑しく笑って鞭を大きく振った。空気を切り裂かんばかりの音と共に呉広の体が腫れていく。
二人共痛がる呉広に夢中で陳勝のことなど視界にすら入れていない。やるなら今だ。
黄敬が大きく鞭を振り上げた瞬間、陳勝が床を蹴り込んで飛び出した。勢い盛んなまま陳勝は彼の懐に飛び込んだ。突然のことに2人の指揮官は、
「わっ!」
とだけ言って、呆然としている。我が策成れり。陳勝は黄敬の剣を鞘から引き抜いて、勢いそのまま彼を天辺から股まで切り裂いてしまった。
口をあんぐりと開けたままだった尹敏が、我に返って襲い掛かる。しかし、彼のように豪華な服など着ておらず、粗末な服のみの陳勝は初弾をあっさり躱した。そしてすぐに彼の体を半分に切り離してしまった。
陳勝は動かなくなった二人を見て目を何度もこすった。自分でも殺した実感がなかったのである。
何度かこすり、これが現実であると理解した陳勝は後戻りできない絶望からか、初めて人を殺した気持ち悪さからか剣をパタリと取り落として床に伏せてしまった。
呉広は鞭打ちの痛みも忘れ、ドクドクと血を流す黄敬の死体から匍匐前進で遠ざかっていた。
粗末な服のみというのは身軽ということです。もし、意味がよく分からなかった方がいらっしゃいましたらこの場を借りてお詫び申し上げます。
−−−−−−−−−
第7話:王侯将相寧有種也
足元の血溜まりを踏みしめて、陳勝は決意した。こうなったら本当に独立してやろうと。
不慣れな手つきで両指揮官の首を切り取る。その首は適当な布に包んだ。
陳勝は呉広の頬を引っ叩いて、共に幕舎を後にした。
2人は身体中を赤黒い血に染めたまま、兵卒用の幕舎に戻った。
下劣な話をしていてもの、故郷を懐かしんでの事か身の上話をしていたものも誰もが2人の異様な雰囲気を感じた。そして、注目した。
陳勝は布から首を取り出して大きく掲げた。そして、
「王侯将安くんぞ種あらんや!」
と叫んだ。人は王や諸侯、将軍、になると最初から決められているわけではない。つまり誰でもなることができるのだ。という意味の言葉だ。
陳勝が即興で考えた言葉であったが、この言葉は秦に不満を抱いていた彼らの心に深く刻まれた。
感激し泣いているものや、この前の布やキツネの声を思い出したのか平伏しているものもいた。
案外、上手くいったではないか。陳勝はほくそ笑んだ。
だが、まだ課題がある。彼らの心を掴むより何倍も険しい課題がある。
ここにいるのは所詮数100人。たとえ全員が武霊王(戦国七雄の趙の国王。名君とされている)の騎馬兵士のごとき武勇を誇っているとしても100万を超える秦軍には太刀打ちできない。
アリが象に体当たりするも同然だ。
しかし、象にも弱点がある。蟻であっても束でそこを付けば象をも斃せるはずだ。
それは相手が国家であっても同様、数がなければ話にならない。
力持ちの大男100人より1万の弱小兵を率いた名将の方がずっと強い。
ならば陳勝軍に必要なものは駒と棋士だ。残念ながら陳勝も呉広も矛を扱ったことはあるが兵士を率いた経験なんてない。戦史研究もしたことがない。
今ここにいる農民たちなんて文字すら書けない奴が大半だ。こんな状態で兵士を増やしても意味がない。
陳勝は兵士を集めることと名将を抱える事を同時に考えねばならなくなった。
第8話:蔡国の知恵者
陳勝は食料の確保が必要だと思ったため、即座にこの大沢郷の地を占領させた。
ただ、守備戦力がほぼなかったので、戦争の練習にならなかったことは、少々残念であった。
とりあえず、陳勝は役場に入った。前にも何度か入っているが、一人で入るのは初めてだ。
−−−−なかなか居心地が良い
こいつは、なかなかいい案が浮かぶんじゃないか。
陳勝がそう思ってから、眠りにつくまで大した時間を要さなかった。
陳勝軍の中に蔡賜(サイシ)という男がいた。彼は、農民の中にいたのではなく大沢郷占領の際に仲間になった。陳の方の豪族で、陳勝の噂を聞いて駆けつけてきたのだ。
彼はなかなかに頭が良く、それが陳勝の人材欲を刺激した。結果、仲間になっただけでなくそこそこ優遇されている。
むしろ、それだけ陳勝軍に頭脳がいなかったことが分かるだろう。
この日、彼はもう夕方なのに陳勝が全く姿を現さないことを不思議に思って、役場まで出向いた。
余談だが、陳勝以外は基本的に路上生活である。それだけ貧しい軍隊なのだ。
目的地に着いた蔡賜は役場が嫌に静かなことに驚いた。中も真っ暗である。
普段の陳勝は、わざわざ役場にいた部下を連れて来て、幕舎で他の兵士と一緒に寝るので、ここで眠ったことはない。
−−−−こりゃ一大事かもしれんな
蔡賜は大きく唾を飲んで役場に入った。
すると、目の前の大きな部屋で陳勝は机に伏しているではないか。もしや、武器がないことに絶望して服毒自殺をはかったか。
蔡賜は慌てて陳勝に駆け寄って、
「陳勝殿!大丈夫ですか!?」
と彼の肩をさすった。思いのほか、温かい。
死後間も無くかと蔡賜が考えた時だった。
「まって、あと半刻寝かさせて!」
と陳勝は、ウウンと唸りながら言った。まるで都会の童である。
蔡賜は生きていたと喜ぶ一方、こんなところで居眠りしてしまう彼の体を心配した。頭のイキが悪くては生魚は売れない。反乱軍だって首領には健康にしてもらわねば瓦解してしまう。
蔡賜は、
「ほらほら、こんな所で寝ていたら風邪ひきますよ」
と言って、彼を幕舎まで引きずった。
第9話:扶蘇と項燕
翌日、陳勝は役場に呉広と蔡賜を呼び出した。2人が同時に呼び出されたことなどないので、今度こそ一大事であろうと2人は身構えた。
正面の大部屋に入ると陳勝は、
「二人とも、速く座ってくれ。ほらほら」
と上機嫌で迎えてくれた。悪い報せではなさそうだと思った2人は、緊張をほぐして席についた。
前から使っている椅子なのに、いつになく座りやすい。
「今回2人に来てもらったのは、兵力集めについて協力してほしいからだ。じゃあ早速、そこにある歴史書を読んでくれ。2人、どうしても欲しい人物がいるのだ。そのうち片方がまだ決まっていない。だから、そこから探してくれ。ただし、今でも生きている可能性があるものだけだ」
果たして陳勝は史書を人材登用の道具にしようというのか。呉広は頭を抱えた。史書に載っている人間なんて、殆ど死んでいる。第1、こんな田舎軍隊に来てくれる者が有ろうか。
正直、今すぐ函谷関(カンコクカン、難攻不落の関として知られる)を落とす方がよっぽど簡単に思える命令だ。
だが、呉広は何分臆病な男であるので、陳勝を諫めることはできなかった。
しかし、幾度となく陳勝を諌めている蔡賜は、本を強く閉じると、
「陳勝殿、史書に載っている人物を登用することなどほぼ不可能です。陳勝殿がそれほど人材を欲しておられるのであれば、私が探してきましょうか? これでも豪族ですから、人脈には自信があります」
終始厳しい口調で諌めた。それと同時に、自分の売り込みをするのだから蔡賜という男は本当に隙がない。
至極真っ当な諫言であったので陳勝は褒め称えたが、
「蔡賜先生、俺が欲しているのは生きた人間ではない。死んだ人間の名前だ。だから、2人には楚人に人気があって、まだ生きていてもおかしくない人物を探して欲しかった。どうだ? やってくれるか?」
呉広と蔡賜は互いに顔を見合わせて、深く頷いた。そして、すぐに作業に取り掛かった。
余談だが、陳勝がここで楚の人に人気のある人間を上げるように言ったのは、陳勝の目指す道中はかつて楚であったからである。楚人の秦に対する恨みを利用するのだ。
目的がはっきりしているので、作業効率ややる気も上がり、作業は素早く進んで行った。
夕暮れの頃、蔡賜が、
「千歳!」
と言って立ち上がった。彼の手元にあるのは秦の王族(現在は皇族)についてまとめられたものであった。
彼は陳勝にどうしたのかと聞かれると、扶蘇と書かれたところを指差して、
「扶蘇は楚の王族の血も受け継いでいます。これは、使えるのでは? 彼は楚人だけでなく天下万民に人気がありますし、今でも生きていると信じているものもおります」
すると陳勝は立ち上がって、蔡賜を抱きしめた。
3人は無邪気に笑いながら互いを讃え合っている。楚に人気のある人間を使えば、元々将軍だった人間も来るかもしれない。募兵や人材登用を一挙にできるのだ。
特に陳勝と呉広は天にも昇るような気持ちであった。なぜなら、陳勝の戦略では2人の死人の名を借りるというものだからだ。
陳勝は名君の扶蘇。呉広は名将の項燕になる。こんなことは何度輪廻転生しようが叶わないはずのことである。
陳勝は、その日のうちに、
−−−−密かに生きていた扶蘇と項燕が秦を討つ
と大々的に宣伝した。
これで大体1/3が終わりました。
これが終わったら次は異世界物を書く予定です。今、設定を練っているところですが、結構しんどいです。
第10話:葛嬰の秘策
陳勝は蘄(ヨウ)という地を次なる目標としていた。だが、蘄には大沢郷と違って武装した正規兵がいる。大沢郷では役人が邪魔立てするぐらいであり、非武装の陳勝軍でも十分撃破可能であったが、正規兵に素手で殴りかかって勝つということは考えられない。
武器さえ手に入ればなんとかなるのだが、大沢郷で調達した武器は十数名分のみ。その上、大沢郷には武器を作る職人も工場もない。
蘄以外の地は戦略的価値がないため、イナゴのように各地を転々として武器を略奪することは大義に反する。
楚の復興を目指すという大義名分を掲げてしまったので、山賊のようにしていては、人心が離れてしまう。そうなれば兵士が集まらず、武器の数が兵士の数を上回る。それでは本末転倒ではないか。
陳勝は自分ではとても思いつかないので、案を募集したが、これだけの条件を満たす案など考えるだけでも難しい。所詮は元農民揃いで武器のことなど完全なる門外漢なのだ。
一応農民であるからか、鍬などの農具を武器として使えばいいという案を出したものは多くいた。
しかし、この地の農民から農具を取り上げれば耕作が捗らない上に、民衆から反感を買ってしまう。そのため、あっさり却下された。
陳勝は、第一印象を重んじるあまり一切の妥協を許さなかったのだ。いくらか案が却下されるだけで部下たち全てが知ることとなった。
妥協は許さんと言われると、どうにも気が引けてしまうもので、誰も案を出さなくなった。蔡賜もこれにはお手上げであった。
陳勝も、妥協してもいいよと言ってしまうと、かえってだらけてしまうのではないかと思ったので、厳しい態度を崩さなかった。
何も案が出ない日が続くにつれて逃亡を企てるに者も出てきた。彼らは陳勝ならやってくれると思って付いてきたのであって、陳勝がダメなら死ぬまで伴するなど考えていなかった。
そんな中、葛嬰(カツエイ)という男が自信満々に案があると言い出した。この男は元農民のうちの一人で、腕っ節は強かったが頭はずば抜けて悪かった。そのせいか周囲も、
−−−−あの愚者、正気か
としか反応せず、陳勝すら期待していなかった。
陳勝が葛嬰を呼び出すと、葛嬰は、
「来ていただきたい所があるのです」
と言った。陳勝は、
−−−−単なる愚者の戯言ではなさそうだ
と思い、気を引き締めて彼について行った。
彼が立ち止まったところの眼前は緑と褐色で埋まっていた。天まで届きそうなぐらい高く、城の柱のように太い木々が特に目を引いた。
すると葛嬰は目の前の木に優しく手を当てて、
「これをつかいます。木剣、木槍、木盾を作って戦うのです」
−−−−何を言っているんだこいつは
得意げに話す葛嬰を見て、陳勝は言葉にならないほど感激した。頭が悪すぎるあまりに常識から逸脱した素晴らしい案を出せたのだ。天才と愚者の差など紙一重だというのは本当であったか。と陳勝は優しく笑った。
「よくやった! 君は我が軍の精華だ!」
と陳勝が労いの言葉をかけたのはやや後になった。労うまでの間、陳勝はずっと呆然としていたのだ。
陳勝はこの案を採用した。次の日には幕舎も全て森の近くに移し、兵士を総動員して木の武器を作っていった。
第10話:蘄城攻撃
宣伝工作により2000人に昇る小軍団にまで成長した陳勝軍はついに蘄城占領に動き出した。
武装は時間がなかったため丸太か棍棒だが、数にものを言わせれば勝てるだろう。
陳勝軍は数日のうちに蘄近郊に布陣した。そして、敵軍に気づかれないうちに出撃した。
不意をつかれた蘄城の兵士たちは驚いて城内に隠れ、逃げ遅れたものは身体中を棒で打たれて死んで行った。
勢いの止まらぬうちに陳勝は、
「よし、いけるぞ! 丸太部隊は城門を突き破れ!」
「承知!」
と葛嬰が叫ぶや否や大勢の丸太を持った、農民にしては屈強な男たちが飛び出した。
彼らの繰り出す喊声や足音に秦兵は心底恐慌し、弓兵すらもたじろいでしまった。
男たちは丸太のように隊列を組んで次々と城門に激突して行った。ゴーンという音が響くと、城門が冬場の老人のように震える。そして、5度打たれたのちについに斃れた。
城門という堰堤を破壊した陳勝軍は激流の如く城内に突入した。
秦兵は蜘蛛の子を散らして潰走し、逃げ遅れたものは次々と棒の餌食になった。
そのうちに秦兵は全て消え去り、ここに陳勝軍の旗が翻った。
「うまくいった方だな。では、ここで一晩寝たら次の目標を攻撃する」
この勢いを切らしてはならんと思った陳勝は急進策を取ったのだ。
反乱軍により始めてまともな城が落とされたのだが、咸陽の方ではさほど問題にならなかった。それは、趙高が反乱軍脅威論を唱えるものを粛清したことと胡亥が恐ろしく愚かだったからである。
趙高としてはもっと反乱軍に力を付けて貰わないと復讐ができないので、脅威論者は面倒であるし、胡亥としてはそんなめんどくさい事よりさっさと後宮で遊びたかったため、すんなりと脅威論が消えていったのである。
丞相の李斯は流石にいかんと思って諌めようと思ったが、自身の支持者も、思想の近い馮去疾右丞相や馮劫将軍の支持者も粛清され、すでに宮中が趙高派に牛耳られていたので何もできなかった。
このことも宮中の腐敗に拍車をかけた。
ファンタジーの方、書いてしまおう。設定も煮詰まったし。