ヤンデレ、残酷描写有
その日は雨が降っていた。
朝の天気予報では「一日中過ごしやすい天気だ」って言ってたのに。
「菜々花、傘持ってきた?」
あんたにとっての“過ごしやすい天気”って雨のことなの?
「ちょっと菜々花聞いてる?」
まあでもいいや、先週の金曜日使わなかった傘置きっぱだったし。
「なーなーか!」
「は、はい?」
沈黙。そして目の前に不機嫌そうな未来の顔。
「あ、ええと。何か?」
私が問うと未来はもっと不機嫌になった。
「何かって何?ずっと話しかけてんじゃん」
「ああ、ごめん、聞いてなかった」
正直に謝ると未来は「やっぱりな」って顔をする。
「菜々花っていつも人の話聞かないよね」
未来は制服のネクタイを弄りながら口を尖らせる。
「で?何の話?」
無視して問い直すと、未来はガタッと大きな音を立てて立ち上がった。
机の上で手を伸ばしていた私の指に椅子の背もたれが当たった。
「痛っ」
「もういい。他の子に入れてもらうから」
そう吐き捨てて未来は教室から出ていった。
「結局何の話?」
教室に取り残された私は力なく呟くしかなかった。
私も教室から出て廊下の窓を見ると、雨粒か激しく窓ガラスを叩いている。
「早く帰って未来にLINEしよ」
さっきはついイラッとして冷たく返しちゃったから、ちゃんと謝らなきゃ。
私の名前は小関菜々花。中学二年生。
どこにでも居るようなただの女子中学生だ。
そう、ただのどこにだって居る中学生。
ちゅうがくせ…………ん?
家路の商店街を歩いていると一人の女性が目に止まった。
こんなに雨が降ってるのに傘もささずに服屋のショーウィンドウの前に座っているのだ。当然びしょ濡れになっているのに道行く人は怪訝そうに見るだけで声もかけない。
長くて白い髪の隙間から見える腕は細く骨ばっている。元は白かったであろうシャツもぼろぼろだった。
助けるべきだと分かっていたけど、私には彼女を助ける勇気がなかった。
気付かないふりをして通り過ぎよう。
私はそう心に決め、車道の方を見ながら彼女の前を通り過ぎた。
「……、…………」
一瞬だけだけど彼女が何か呟いているのが聞こえた。いや、違う。
(この人、男……?)
その声は確かに男性の声だった。
男なのにこんなに髪が長いなんて普通じゃない。そう思った私はUターンする。
心臓がばくばくと音を立てている。私は彼の目の前まで来て、すっと手を伸ばした。
雨粒が背中を濡らす。頭を濡らす。そして伸ばした腕を濡らした。
「あの、これ!!」
目なんて逸らさなくたって彼の顔は伸びきった前髪で見えないのに。それより雨が冷たい。あと心臓が痛い。
ちらっと彼を見ると、顔を上げて私を見上げていた。
その長い髪の隙間から見える、ひかりを失ったグレーの瞳。
何も言わないでただ私を見詰めている。私はいてもたってもいられなくなり、差し出した傘を被さるように彼の頭に乗せて逃げた。全力疾走した。
(あ〜〜〜〜緊張したぁ!)
でもこの上ないほどの達成感。私は初めて自分の意思でした「人助け」につい笑顔になっていた。
これが全ての始まりだとも知らずに。
翌日。昨日お母さんにビンタされた右頬が痛む。
「知らない人に傘をあげた」なんて言ったらビンタどころじゃ済まないと思って、「あの傘は置きっぱにしてたらパクられた」って嘘をついたんだ。
でもそれでいい。
あの人がちゃんと家に帰れたなら。
「ねえ。何か校門のところに変な人立ってるんだけど!」
下駄箱で上履きを脱いでいると未来が男子達と話していた。
「え、やばくね?不審者?」
「花束みたいなの持ってたらしいよw」
「え、キモくね?w」
「知らねーけどみんな素通りしてるし帰ろうぜ」
誰かプロポーズでもされるのかな?盗み聞きしながら一人で笑う。
ローファーを履いて私も校門を出た。
「あ」
確かに小さな花束を持った人が立っている。
ん?でもどこかで見たことがあるような……
「あ!」
私の声に相手も気付いたみたいだ。
昨日のは別人みたいに綺麗な服を着ているけど、相手は確実に私が昨日助けた彼だった。
昨日のみすぼらしい姿とは打って変わって小綺麗な格好をした彼は、別人のように見える。だけどその白く長い髪を見れば同一人物であるとすぐに分かった。
「あの!」
彼に駆け寄ると周りの生徒達がばっと私達に視線を向ける。
「あ、あの」
その中にクラスメイトが居ることに気づき、私は気まずくなり視線を泳がせた。
「弓水公園、行きません?」
彼は無言で頷いた。
私たちは弓水公園に向かう途中一言も口をきかなかった。私が歩いているのにただくっついてくるだけ。歩くスピードを変えると彼も同じように変えてくる。
(何か、変な人)
つい公園に行こうなんて言っちゃったけど、見ず知らずの人と関わってしまって良かったのだろうか。これでも私は女子中学生、相手は恐らく成人済み男性。明らかにマズイのは分かっている。だけど昨日の彼のあんな姿を見てしまったから放っておく気にはなれなかったのだ。
弓水公園に着くと、私たちは二つ並んでいるベンチにそれぞれ腰掛けた。が、しばらくの間沈黙が続く。
気まづくなった私は思い切って口を開いた。
「あの、わざわざありがとうございます。傘、返しに来てくれたんですか?」
彼の手には花束と共に私の傘も握られていた。青い水玉模様の傘。うん、私の傘だ。
でも彼はなかなか傘を渡してくれない。それどころか私の質問にも答えてくれない。
「お花、綺麗ですね。彼女さんにあげるんですか?」
いやいや何聞いてんの、私には関係ないじゃん。心の中で一人ツッコミ、虚しい。
「あ、あのー……」
流石におかしいと感じた私は立ち上がった。
「傘いいです!風邪ひいてないみたいだし安心しました!では!」
一礼して公園から出ていこうとした。時だった。
彼が私の腕を握った。
「え?」
びっくりした。いきなり腕を握られるなんて思ってもなかった。私は彼が何故このような行動に出たのか理解出来なかった。
「あ、あの?」
ごつごつした細長い指が私の腕をがっちり掴んで離さない。立ち上がった彼の表情は髪に隠れて見えない。私は怯える目で彼を見上げる。
「は、離してください……」
これ、確実にやばい雰囲気だよね?悟った私は必死に振り払おうとする。が、大の大人の力に適うわけなかった。
そして彼が口を開く。
「運命の人だ」
言ってる意味が分からない。その言葉の意味を理解出来ない。
「やっと出逢えた」
長い白髪がゆらりと揺れる。そして彼は花束と傘から手を離した。散りながら地面に落ちる花。水たまりにぽちゃんと嵌る私の青い傘。そしてそのもう一方の手が私に迫ってくる。
「っ!」
思わず目をつぶる。すると全身が暖かい感触に包まれた。
「え?」
驚いて目を開けると、目の前に長い白髪。
「迎えに来た」
そう言う名前も知らない彼が私を抱き締めていた。
え?え?え?
理解が追いつかない。
今何が起こってるの?
私は彼の腕から逃れようと必死に腕を伸ばしてみたけど、やっぱり大人の男の力には適わない。
「離して……」
彼の腕に込められる力がどんどん強くなってきてる気がする。そして頭の上の彼の息が荒くなる。
「なんなの……」
背筋が凍り付くような感覚だ。
よく考えたらおかしい。ただ傘を貸しただけなのに学校を特定して校門の前で待ち構えてるなんて。普通傘を返すためにここまでするだろうか。いや優しい人ならするかもしれないけど彼はどうやら違うみたいだし。もしかしてあの花束も私に渡すために……?
(何この人めちゃめちゃ変人じゃん!)
何はともあれこの人がとてつもなくヤバい奴だということは分かった。
逃げなきゃ。私は本能的にそう感じた。
「離してください!大声出しますよ!?」
まず自力で彼の腕から抜け出すのは無理だ。流石に大声出せば誰かしら来るだろうし、こんな状況見られたら彼だって困るはずだ。きっと「分かった」って言って離してくれるだろう。
でも彼の返事は予想とは大きく外れて、
「好き……」
は?
「好き……好き……」
急に何かに取り憑かれたように「好き」を連発し出したのだ。
「ちょっと!?何考えてるんですか!?ほんとにやめてください!!」
私はさっきより少しだけ声を大きくした。彼の行動が本当に理解出来なかった。
え?え?何、何、何この人。「好き」ってもしかして、わ、私のことなの?
まだそうと決まったわけでもないのに顔が赤くなっていくのが自分でも分かった。こんな顔見られたらプライドが許さない。私は敢えて彼にくっついた。
「あの、本当に困るんです」
「どうして?」
すぐに返ってきた。どうして困るの、なんて、普通に考えれば分かるはずだ。ましてやこんな大の大人が……。
「こんなことしてるの誰かにバレたら困るのはあなたですよね?私はやめてって言ってるんです。」
「どうして?」
まるで話が通用しない!私はイライラして声を荒らげた。
「〜〜っ、だから!同意もなしに女子中学生抱き締めてるなんてどう考えても犯罪でしょ!?」
次の「どうして?」は返ってこなかった。安心したけどその他の言葉も返ってこない。
恐る恐る顔を上げる、と。
「え……」
視界に彼の顔が映ったはずなのにそれを認識することはできなかった。ただ、鼻と口を、ハンカチのような布で塞がれ他ところで私の意識は途絶えてしまった。
あれ。もう朝か……。
猛烈な眠気と倦怠感。目を閉じたまま寝返りを打つと、腕が重くて動かない。あれ、私って結構寝起きいい方なのにな。
そう思って目を開けると。
「……え?」
全身の血の気がサアッと引いていくのが分かった。
「ここどこ?」
目の前に広がるのは、薄汚れた灰色の天井、天井、天井。
「目が覚めたかい」
ゆっくり首を動かす。
「な、なんで」
長い白髪の彼が不敵に笑いながら私を見下ろしていた。
理解出来ない。何?この状況。頭の中は完全にパニック状態だったけど、焦っている姿を見られたら何かされる気がして、私は敢えて平然を装った。
「ここはどこですか?」
尋ねると彼はふっと笑って答える。
「僕の家だよ」
首は動かさずに目だけで辺りを見回す。灰色の天井しか見えない。相当広い部屋のようだ。
「どうして起きたらここに居るんでしょうね?」
口角が少しだけ下がるのが見て分かる。まずかったか?心臓がバクバクと跳ねる。胸が張り裂けて飛び散りそうだ。目が霞む。思いっきり叫びたい。
でも(恐らく)昨日の出来事は鮮明に覚えてる。そもそもここに来てどのくらい時間が経ってるんだろう?彼はずっと私が寝てるのを見てたってこと?そうだ、この人は何をするか分からない。あくまで平然を装うんだ。
「君が僕の運命の人だからだよ。」
やっぱり理解出来ない。私は深呼吸して、
「私があなたの運命の人だから、私はあなたの家に連れてこられたんですか?」
「そう。昨日は君を迎えに来たんだ。」
恍惚とした表情。が、一瞬で消える。
「なのに君があることないこと喚くから……」
ここで手足が動かないことに気づく。少しだけ動かすとジャラリと重たい音がする。こ、拘束されてる……!?
嘘。嘘嘘嘘嘘嘘。
「離して……離してよ……」
涙で視界がぼやける。
「これを取ったら君は逃げるだろ?」
「私をどうする気なんですか?私あなたに何かしましたか?傘貸しただけですよね?」
涙が溢れると感情も抑えられなくなるのは私の悪い癖だ。涙と共に言葉も一気に流れ出てしまう。
「落ち着いて」
「落ち着けないよ!離してよおお」
みっともなく泣き叫ぶ。大声出したら殺されるかもしれないのに。
「僕は君の嫌がることはしたくない。」
「じゃあ取って!これが嫌なの!」
「それは出来ない。僕には君が必要なんだ」
「何それ……」
意味が分からな過ぎて涙が出る。
私がおかしいのか、はたまたこの人がおかしいのか。それすら判断できない程私はパニックに陥っていた。
「泣かないで」
細い腕が伸びて私の頭をそっと撫でた。
「うわああああん」
涙がぽろぽろ零れた。
零れた涙は頬を伝ってシーツを濡らす。
今度は彼の指が私の頬を強く擦った。少しだけ痛かったが、涙を拭ってくれたのだと分かった。
しばらく私たちは無言だった。私が鼻をすする音が時たま部屋に響くだけだ。
「……落ち着いたかい?」
それも止むと彼は尋ねてきた。
「家に帰してください」
「まだ言うのかい、それは無理だと言ってるだろう」
「帰してください。弟が居るんです」
私には小学五年生の弟が居る。やんちゃでクソ生意気なガキだけど、前友達と遊びに行った帰りに電車が止まってしまって帰れなくなった時は泣いて心配してくれてたそうだ。今だって泣いてるかもしれない。お母さんだって昨日の朝は叩いてしまったことを後悔しているみたいだった。
「弟もお母さんも心配してると思います。もしかしたら警察に行ってるかも……」
「僕と君の仲を切り裂こうとする?そんなのさせない」
低い、低い声だ。まずい、逆鱗に触れた?
「僕のものなのに……」
彼の手が再び伸びてくる。さっきとは違う。殺される!
固く目を瞑ると、左下の腹に感触。
「な、何!?」
驚いて目を開けると、彼は制服のポケットから学生証を取り出した。
「…………」
冷たい目でそれを眺める。心拍数が踊り狂ったように跳ね上がる。でもすぐに彼は笑顔になって私の頬をそっと撫でた。
「大人しく待ってて」
そう言って立ち上がると部屋から出ていってしまった。
(何、何する気?まさか……)
弟に何がする気なの?
冷や汗がだらだら流れる。さっきとは比べ物にならないくらい心臓が飛び跳ねている。私は腕を思っきり動かした。手首にはご丁寧にリストバンドがはめられていて痛みはないがびくともしない。
「これさえ取れれば!これさえ取れれば!」
ガチャガチャと音が鳴るだけだ。それでも諦めなかった。まだ重たい体に限界が訪れるのはそう遅くなかった。だが拘束され続けている方が限界だった。
彼が部屋に戻ってくる頃には、リストバンドの下から血が滲んでいた。
「…………だめじゃないか」
部屋に入ってきてドアに南京錠をかけた彼が近寄ってくる。
「君みたいな非力な子供が外せるわけないだろう」
優しい声だったけどどこか怒っているようだった。そして彼は持っていたビニール袋から消毒液と包帯を取り出した。
そして彼はなんと手錠を外したのだ。
「!」
逃げるチャンスだ。今なら彼の手を振りほどいて逃げることが出来るかもしれない。でも何故か逃げることが出来なかった。捕まったらもっとひどい拘束をされるかもしれないと思ったとかそういうことじゃない。
「…………ありがと」
傷だらけだった私の腕に彼は包帯を巻いてくれた。
彼が再び私を鎖で繋いだところではっと我に返った。いけない。ちょっと優しくされたからって安心するなんて。
そう言えば今は何時なんだろう?もう学校に行っている時間かもしれない。
「あの、今何時か分かりませんか?」
恐る恐る尋ねると彼は困った顔をした。
「……分からない。」
「時計とか、無いんですか?せめて昼か夜かだけでも……」
「それも分からない。僕はずっとここに居たから」
「え……?」
少しだけ悲しそうな顔をしている。光のない曇った瞳が今までの彼の人生を物語っているように感じる。それに同情してしまったのか私も何だか悲しくなってきた。
「僕には昼も夜もないけど君が居ればそんなのどうだっていい。だから絶対に逃げないでね」
目は相変わらず悲しげだけどその口は三日月のように微笑んでいる。ドキッとしたけどこんな状況じゃ逃げたくても逃げられない。彼だって分かってるはずだ。
(それでも念を押すってことは相当私が必要なのかな)
そうは言っても私をここに監禁していい理由にはならない。彼に同情してはだめだ。私は絶対に彼に情を入れないと決意した。
「君は学校は好きなのかい?」
いきなり尋ねられたから「はい」と応えれば学校には通わせてくれると期待した私は目を輝かせて
「大好き」
と答えた。
すると彼はまた悲しそうな顔をした。
「学校はどんな場所?」
「勉強しなきゃいけないからめんどくさい。あと担任がいつもうるさくて、未来達と一緒に給食食べるのが楽しい!最近は高橋君とポケモンの話するし林先生がかっこよくて――」
ガタンと何かが倒れる音がする、と同時に彼が立ち上がった。息を荒らげて目を見開いていて肩が上下しているのが見て分かる。そして私に覆い被さると何かに取り憑かれたように叫び出した。
「菜々花は僕のものなのに!他の男も女もいらない菜々花には僕だけ居ればいいのに!」
まるで威嚇する狼みたいだ。私は恐怖のあまりぴくりとも動けなかった。彼の手が私の背中をすり抜け私を力いっぱい抱き締めた。苦しかったけど身動きが取れなかった。
何が起こっているのかしばらくの間理解出来なかったけど、彼の繰り返す言葉に少しずつ頭が追いついていく。
恐らく長い間ずっとここから出ていなかった彼。この様子だと他の人は住んでいないみたいだし、外の光も差し込んでこない、外の音も全く聞こえてこない。きっと彼はずっとひとりぼっちで生きてきたんだ。
(じゃああの時私が声をかけてなかったら……)
きっと私は今ここに居なかっただろう。
あの時の行動を酷く後悔したけど今更ここから逃げ出すのは無理そうだ。
そうだ。どうせ逃げられないなら、彼をここから解放してしまえばいいんじゃないか。私じゃない他の誰かと触れ合えば、私以外の誰かが彼に手を差し伸べたら、きっと私に拘ることもなくなるはずだ。
最も彼がそれを受け入れるとは思えないけど……。
彼の腕の中で私は決意した。
どのくらい時間が経ったか明確には分からないけどきっと一時間近く経っているんじゃないだろうか。息はまだ荒いが落ち着きを取り戻した彼は、無言で私から体を離した。
「あの。」
私は彼が椅子に腰掛けるタイミングを見計らって尋ねる。
「一緒にお買い物しに行きませんか?」
一瞬私を見た彼の目は少しだけ怒っているように見える。だけどあきらめずに続ける。
「時計とかテレビとか買いませんか?外でどんなことが起きてるかとか分かった方が楽しいと思いますよ!あ、私はお金持ってないからあなたが払うことになるけど……。
でもあった方が絶対いいと思うんだけどなぁ」
ちょっとわざとらしかったかもしれない。けど私にしてはなかなかいい演技が出来たと思う。だけど彼は乗らない。
「世間で起こってることなんて見たくもない。この世界は汚れ過ぎてる。目に入れるなんて不快なだけだ。僕には君がいればそれでいい」
頑固な人!私のことが大切なら少しくらい聞いてくれたっていいじゃない。私だって見たい番組あるのに。つい頭に血が上ってしまって私はむきになった。
「あなたはそうでも私は違うんです!私はあなた以外にも大事な人がいっぱい居るんです!」
お母さんだってお父さんだって弟だって未来だって大切だ。みんなに会いたい。この先ずっとここでこの人としか接しないで生きていくなんてとても耐えられない。そんなの絶対に嫌だ。
「言っちゃえば私にとってあなたなんてみんなに比べれば全然――」
思わず口を噤んだ。瞳孔が開いた彼の目が私を見ていたからだ。普段は伏せ気味だったから気づかなかったまん丸の三白眼だ。思わず息を飲む。
やばい。感情の起伏が激しい彼だが今回は今までとは比べ物にならないくらい怒っているのが見て分かった。怒っていても悲しそうな顔をしていてもいつもどこか優しい目をしている彼だったが今回は明らかに違う。完全に地雷を踏んでしまった。
彼が勢い良く立ち上がる。椅子が倒れたのかがたんと大きな音が鳴り木霊する。
(本当に殺される!)
謝らなきゃ、と思ったけど謝れなかった。だっておかしいじゃないか、私は何も悪くないのに。たったこの前知り合ってしかも連れ去られて監禁なんてする相手と、生まれた時から一緒にいる家族や毎日会ってたくさん笑い合える友達だったらどっちの方が大切かなんてそんなの明白だ。常識的に考えてそうなのに彼には常識がないから分からないんだ。
「…………」
怒りに震える彼は無言で部屋から飛び出して行った。
あれ、今度こそ殴られるなりなんなりされると思ったんだけどな。
「あ!」
そこで私は気づいてしまった。
手錠の鍵らしきものがベッドの脇に堕ちていることに。
だけど両手足を拘束されているんじゃとても取れない。さっきだって精一杯頑張ったけど自力じゃ手を抜くことも出来なかった。
……あれ。そう言えばさっき彼は私の学生証を見てから外に出ていってしまったけど何をしてたんだろう。ビニール袋を持っていてそこから消毒液なんかを取り出していたけど……。わざわざそれだけを買いに行く為に外に行く?ずっとここに居て外と関わることを頑なに否定してた彼が?
(おかしい!絶対何かしてる……)
さっきも「彼以外の人」の話をしたら彼は怒って出ていってしまった。さっきだって何事も無かったかのように戻ってきたけど何をしてるか分からない。
案の定しばらくして戻ってきた彼の手は別の人間の手を握っていた。
「っ!蓮!」
最悪だ!彼が手を握っているのは紛れもなく弟の蓮だった。
動こうとしない蓮の手を引っ張って彼は無理矢理歩かせる。そして南京錠を掛け、蓮を私の前に立たせる。蓮の目と口にはガムテープと猿轡。
「ひどい!」
私は叫んだ。そして精一杯手足を動かして暴れる。
「蓮に何かしたら許さないから!」
私の声に気づいたのか、蓮はうー、うー、と言葉にならない声を上げた。
「君が悪いんだよ。僕のことをちゃんと見てくれないから……」
長髪の隙間から見える彼の顔は疲れきっていて汗まみれだった。蓮は運動神経がいい方だからきっと連れてくるのに手間がかかったんだろう。
「どうして?蓮は関係ないじゃない!私があなたを見てない?私があなたを見てなかったらあなたに傘なんて差さなかった!!」
「僕だけを見てくれたらこの子は殺さない。この子が君の中から消えてくれれば僕は何もしない。」
悲しそうな顔で蓮を見下ろす彼。蓮は声を抑えているけど時々嗚咽を漏らして泣いている。
まだ小学生の子供が知らない男にいきなり目隠しと猿轡をされて知らない場所に連れてこられるなんて怖いに決まってる。
「とにかく目と口についてるやつ取って」
彼は首を振る。
「それは出来ない。顔を見られたら困るから」
顔を見られたら困る――少なくとも今の時点で彼は蓮をころす気はないみたいだ。でもいつ何が彼の癪に触ってしまうかが分からない今、下手に抵抗したら蓮は――
恐ろしくて涙が溢れてきた。大事な弟の命は私にかかってる!でも蓮を忘れるなんて無理。彼だけを見る?そんなの出来るわけない。
「……じゃあ、こうしよう。
蓮は家に帰して。あなたが蓮に手を出さないって約束してくれるなら私は蓮のことを考えずに済むから。」
私の提案に彼の気持ちが少しだけ揺らいだように見えた。