spinner -紡ぐひと-

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1:宵:2020/05/04(月) 01:43


 あれは、ずっとずっと遠い昔。
 まだわたしが、誰かに愛され、必要とされていた頃の。

 できそこないの私の記録は、繰り返し修正されて劣化して、鮮やかな日々の情景はざらついて。
 
 それでもあなたの声は、聞いたことがあったから。
 私に遺された、たった一つの小さな記憶だったから。

 だからわたしはあの頃の約束のように、この言葉を紡いで、あなたのことを迎えましょう。


「おかえりなさい」

2:宵:2020/05/04(月) 02:32

 網状のフェンスを登り、垂れ下がった有刺鉄線をラジオペンチで切る。拾い物のこれは切れ味が悪いが、他に代替品もないので仕方なく使っている。油まみれのサイドポケットにそれを突っ込んだあと、俺はフェンスの天辺から慎重に飛び降りた。
 フェンスの向こうには、鉛色の空の下、廃墟だらけの町が広がっていた。

 第8220地区というのが、この場所の名称である。
 政府指定の立ち入り禁止区域であるここは、本来であれば俺のような一般人、おまけに廃墟から盗みを働き、それを闇市で売り飛ばすような不届きものは見つかり次第すぐ拘束となるのだが、こういった辺境の地で役人を見ることはほとんどなかった。というか、見つけたところで拘束して入れておくところもないのだろう。そんなことを考えながら、町の中をぶらぶらと物色する。

「ま、さすがにもう目ぼしいものは何もないよなぁ」

 さて、この第8220地区というところは、俺たちのような行商人の中では割と名の知れた街だった。かつてこの国がこうして荒廃するまでは、研究都市として栄えていたからである。
 そんなわけで、この国がこんな風になったばかりのころの当初――荒廃の黎明期、なんて俺らより上の世代は呼んだりもする――は他所の人間で溢れかえり、そいつらによる略奪やら殺人やらが日常茶飯事に行われていたという。最悪なゴールドラッシュだ。
 見かねた政府が慌ててここを住民以外立ち入り禁止区域に指定し、徹底的に防衛を敷いたというがその頃には後の祭り、善良な住民は早々に荒れ果てた故郷を捨て、その他の住民は略奪を繰り返した末に故郷を捨て、得たものを他所で高く売り捌き、それなりの富を得たという。後には、遅すぎる対応をした政府への批判と、廃墟だけが残った。

 とはいえ、一切残っていないというわけではなく、目的不明の基盤とか銅線とか、そういったものも修理すれば需要はそれなりにあるのだ。「最悪使えなくても形になってさえいれば、コレクターなんかが買っていってくれたりもする。そういうのを覚えておいた方がいいぞ、知識は一番の財産になる」――と、先輩の行商人の談。だいぶ昔に栄養失調の末倒れ、それきり会っていないが。

 持参した頭陀袋の中に、ガラクタを詰め込んでいく。ふと顔を上げると、鉛色がたっぷりと空を覆いつくして、埃っぽい匂いが鼻腔に広がった。

 どうやら一雨振りそうである。俺は頭陀袋を肩にかけ、比較的丈夫そうな廃墟に足を踏み入れた。

3:宵:2020/05/04(月) 19:39

 建物の中は薄暗かった。俺は胸ポケットから小型の懐中電灯を取り出す。
 辺りを照らすと、中は荒らされた形跡があった。埃の溜まり具合からみて、荒らされてだいぶ長い年月が経過したのだろう。一時期誰かの塒にでもなっていたのだろうか、布団が数式、天井の高い吹き抜けの廊下に出しっぱなしのまま放置されている。
 廊下を抜けると、食堂があった。食器棚と思しきものは倒れ、大きなテーブルにもたれかかっている。
 他には水の出ない広いバスルーム、排泄物が溢れたトイレ、薄汚れたベッド、物置用か、何も置かれていないが埃だけは被った空き部屋と、随分と大きな家だ。俺も何度か色んな廃墟を塒に転々としてきたが、ここまで大きい所は初めてだった。これが俗にいう豪邸なのかもしれない。
 とはいえ、大きな窓ガラスが割れ、部屋の中が散乱したこの状態は、豪邸といえどとても豪奢とはいいがたいものだったが。

「ん?」

 ふと、床の違和感に気付く。足音がそこだけ、やたらと響くのだ。まるでその下に、何か空間があるかのように。
 辺りを見回すと、床下収納の扉が見えた。金具を裏返し、取っ手を引き出して持ち上げる。

「……驚いた。本当に豪邸だな」

 そこに続いていたのは、細い木製の階段だった。埃はなかったが、足跡はいくつか散見されるので、たぶんここも既に荒らされた後だろう。確認するに越したことはないので、足を付いて降りることにした。

4:宵:2020/05/04(月) 19:39

 階段の先に広がっていたのは、異様な空間だった。
 山積みになった布団と、それに埋もれた女の死体。それから、大型の予備電源装置。本当にこの家の持ち主は、一体何者だったのだろうか。
 ここに来た奴らも、恐らくこれを持っていくことは出来ないと踏んでそのままにしておいたのだろう。だが、解体や修繕の知識があれば、この中に入っているものをうまく活用して金に換えることはできる。こいつを持ちだしたら、一体いくらになるのだろうか。とりあえずここにいる間だけはこいつを利用して、出るころに少しずつパーツを持ち出せばいい。
 はやる気持ちを抑え、俺は改めて布団と女に向き直る。まだ死んで数日ぐらいなのだろうか。死体特有の悪臭はなく、有機物の腐ったようなににおいが鼻についた。
 俺は深くため息を吐く。そして、酷く気の毒に思った。
 女は大体、俺より年下ぐらいだろうか。顔立ちははっきりしていて、薄汚れた顔ながらも生前はきっと美人の内に入っただろう。これはこの現代に生きるどの女たちにも言えた事だが、こんな情勢じゃなければ、何不自由なく穏やかに、こんなところで発見されることもなく生きていたのかもしれない。
「……せめて、楽に眠れるといいんだけどな」
 なんて、ここを塒に増して盗みまで働こうとしている俺が言っても、何のありがたみもないだろうが。

 唐突に開けっ放しの階段の扉の先から、無線放送のチャイムが聞こえてきた。人のいなくなったこの場所で、これを流すことに一体何の意味があるのだろうか——などと非難めいたことを考えながらも、そのチャイムの音に、俺は聞き覚えがあった。
「フルサト、か」
 栄養失調で倒れた、あの行商人が教えてくれた歌だった。フルサト、生まれ育った場所を想起する歌だと言っていたはずだ。俺は物心ついた時から、一所にとどまったことがないから彼の心境を理解することはできなかったし、たぶんこの先も理解することは出来ないと思う。
 ゆっくりとしたテンポで再生されるチャイムは、不協和音の余韻を残しながら、狭い地下室にも響いている。
「うさぎ おいしい あの やま」
 ほんの出来心で、チャイムに合わせて詩をそらんじる。
 ふと、頬に何かが伝った。別にあの詩を理解したわけでもない。この曲を好んでいたわけでもない。ただ一つ確かなことは、俺はあの行商人と長くいたことで、彼に対する思い入れのようなものがあって、それがずっと喪われてしまったことが、ここに来て唐突に実感として沸いてしまったのだと気が付いたのである。
 
 袖で頬を拭うと、そのころにはチャイムは鳴り終わっていた。
 あまり、ここには長居しないほうがいいかもしれない。精神衛生上、良くないような気がする。
 そんなことを考えながら、ぼうっとしていた頭を何度か振って、無理やり正気に戻すと、俺は階段を登ろうと立ち上がろうとして——視界の隅に、それを捉えた。

「あ……?」

 黒い皮脂汚れに塗れた、布団を頭から被るようにして。
 先ほどまで死んでいたはずのその女が、そこに座っていた。

5:宵:2020/05/05(火) 10:46

「……——紋シス、ム、い、うなし、起動、ます、再生、読み、アップデー、プログラ、応……ておりませ、告、この、バイス、……モリが……ります、動まで、う」

 汚れに塗れた口元から、所々掠れた言葉が吐き出される。たどたどしいその言葉ひとつひとつを理解することはかなわなかったが、一つだけ分かるのは。

「これ、ロボットってやつか」

 ふたつの黒い瞳孔の中で、青い円が繰り返しくるくると回っている。妙にリアルな質感に対して、人間ではありえないその目の動きをじっと観察していると、伏せるようにしてその目が閉じる。
 再び開いた時には回る円は消え、その代わりに蜂蜜色のつやつやとした瞳孔が、俺を映していた。
 やがて、薄汚れた口をそっと開き、今度ははっきりとした発音で。


「おかえりなさい」


 唱えるように、告げた。 


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