初めまして、お茶です☺️
この小説は密室ミステリーがテーマとなっており、いじめ要素も含まれています。苦手な方は読まないことをおすすめします。
感想やアドバイスを書いてくださったら嬉しいです。
※誹謗中傷などは控えてください。
波打つことのないぼんやりとした意識のまま、志乃は手探りに自分の身に起きていることを理解しようとしていた。
赤黒い視界のまま、手は硬くてひんやりとしたものに触れていた。
その次は同じく冷たくて細長く、先端に触れると危ないと無意識に手から離した。さらに片手を這わせると、また同じ感覚だ。下の辺りは細いが上へ上へと指を動かすと、それは極端に太くなる。
……もしかして、今触っていたのって。
触覚に縋って、その縁らしき当たりから内部へ人差し指を侵入させていく。途端に冷たい液体の感触がして、反射的に手をそれから離した。
曖昧だった意識は、もうとっくにクリアになっていた。
今度は、自分の頭を覆うものに触れてみる。これだけは何なのか、正体がすぐに分かった。赤い布袋を引き剥がすと、自分がさっきいじっていたもの達が視界に現れた。
丁寧にセッティングされた皿とその上に乗っているナプキン。左にはフォークが二つ、右にはナイフが二つとスプーンが一つ。横には水の入ったワイングラスもある。その下には、真っ赤なテーブルクロス。まるで高級フランス料理店のテーブルである。
しかし、そんな感心は目の前に広がる光景によってかき消された。
布袋を頭に被せられたまま、椅子にもたれかかっている少女達がいる。
驚きのあまり、自分と同じ制服を着ているから、同じ学校の人達だと気付くのに時間が掛かった。顔も見えない正体不明の人物達が、死人のように力なく腰掛けている姿はなかなかの鳥肌ものである。
「……ここ、どこ?」
志乃は辺りをきょろきょろと見回した。
一言でいえば、そこは西洋の屋敷のようだった。
学校の教室を少し細長くした程度の広さの部屋には、煌々と輝きを保つシャンデリア、自分とは離れた位置にある暖炉、壁に掛けられたいくつもの剥製がある。
そして志乃達が囲む最後の晩餐で描かれたようなテーブルは、日本の高校生ではなかなかお目にかかれない。しかし、照明が薄暗いせいか、全体的に不気味だ。
初めて生で見る鎧も、好奇心よりも恐怖心が勝っている。本棚や壁に掛けられたいくつもの絵画、時計をじっと眺めていると、ふいに鹿の剥製と目が合ったような気がして志乃は小さく声を上げた。
耳が不快な音を拾った。人の悲鳴にも聞こえるそれは、そばのドアがゆっくりと開いている音だ。しかし、ドアを開いた人物がいないことに気付いた瞬間、勢いよくそれは閉まった。
「……何なの!?ここはどこ?」
湧き上がりる恐怖に志乃は立ち上がって逃げ出そうとするが、足に強烈な違和感を覚えた。
足が動かない。
テーブルクロスをめくってみると、足は床下に入っており、鍵の掛かった足枷が取り付けられているのが一目で分かる。これでは、椅子から立ち上がることは不可能だ。
人は身体の一部の自由を失った時、尋常ではないくらい取り乱すのかもしれない。
「嫌だ!助けて!誰が!」
パニックになりかけた志乃の声に反応したのか、布袋を剥がした人物がいた。即座に志乃はその人物を凝視する。
雪のように白い肌に、二つ結びの長い髪。トレードマークの黒縁メガネをかけている少女の名前を叫んだ。
「美和!」
志乃の席は一番端、向かい側の美和は反対側の一番端と、二人の間にはかなりの距離があるが、美和が眠そうに目を擦るのが鮮明に分かる。
やがて美和の表情は険しくなった。
「……ここはどこ?」
「私も分からない」
志乃の隣から布袋を引き剥がす音が聞こえてきた。
「加奈!」
「……志乃?」
加奈が怪訝そうに志乃を見つめる間に、また一人また一人と、彼女達は布袋を取っていった。
加奈の隣の桃、志乃の真正面の杏樹、美和の隣の遥、遥のすぐそばの誕生日席の玲、杏樹の隣の園子、園子の隣の亜矢。
顔を露にしたのが全員クラスメイトだということに、志乃は僅かに安堵した。彼女達はやはり、異世界のような部屋に困惑していた。
「何、ここ……」
「今、何時?」
「これ夢じゃないの?マジで現実なの?」
口々に彼女達は疑問を吐き出していく。
桃がまだ隣で眠りについている一番端の席の人物に目をやった。
「まだ寝てる……誰?」
玲が正体不明の人物の肩を優しく叩く。だが、その人物はだらしなく椅子にもたれたまま、一向に起きる気配はなかった。
彼女達は黙ってその様子を眺めていると、嫌な予感が芽生え始めた。
「まさか……死んでるんじゃ」
「袋被ってるから、窒息死とか!?」
「いやいや、そしたら私達も死んでるから!」
ヒートアップしていくネガティブな言葉に、玲の肩を叩く力は徐々に強くなる。
「起きてよ!起きて!」
その瞬間、肩を叩いていた玲の手は乱暴に振り払われた。
その人物は噛み付くような勢いで布袋を引き剥がすと、苛立ちのこもった眼差しで彼女達を睨んだ。
「うるっさい!眠いんだよこっちは!」
「なんだ、真由かぁ……」
桃が目を見開いて彼女、真由の名前を呟く。
真由は状況を把握しようと辺りを見回すが、眉間に皺を寄せるだけである。真由にもここがどこなのか分からないようだ。
「皆、最後の記憶は分かる?」
遥の言葉を発端に、志乃達は記憶を辿った。
「家に帰る途中だった」
「犬の散歩をしてたと思う」
「そういえば、ゲーセンに寄ってた」
「私は確か……学校に残って明日の卒業式の答辞の練習をしていた」
玲の回答で、志乃ははっと胸を突かれた。
そう、明日は卒業式で志乃達が高校生でいられる最後の日なのだ。
「明日は卒業式なのに、何で私達こんなところにいるの……」
亜矢が深い溜め息を吐いた。
志乃はポケットからスマホを取り出す。時刻は二十三時五十分を示していた。
ホーム画面を開くとすぐさまLINEのアイコンを押したが、画面上に圏外と表示されている。
「圏外だから、誰かと連絡取ることも出来ないよ」
スマホをホーム画面に戻しながら、志乃は言った。
「私、最後に時計を見たのは十七時頃だけど、大体七時間は眠らされていたってことだよね」
園子もスマホで時刻を確認した。
何種類もの壁時計を見上げると、それらはなぜか時間がそれぞれズレていることに気付いた。
「これ夢だよね?」
真由が誰ともなしに問いかけるが、夢ならどんなにいいかというのが全員の答えである。黙り込む志乃達の反応が不満だったのか、真由は仏頂面のままテーブルクロスをめくって床にしゃがみこんだ。足枷を外す気だ。
つられるように、志乃達もテーブル下にしゃがみこんで足枷を壊そうと試みるが、それらはびくともしなかった。
「何か他に方法は無いの?」
加奈は足枷から手を離し、席に着くとスマホの画面を開いた。志乃も着席して、画面を覗き込む。
「足枷の鍵はあるわけないし、スマホは圏外、WiFiも繋がらない……」
それにしても、と志乃はもう一度辺りを見回す。
改めて奇妙な部屋だ。
暖炉の上にはたくさんのキャンドル、テーブルの中心には綺麗に並べられたフルーツや薔薇、ゴシック風のソファは外国の洋館に訪れたような錯覚に陥りそうになる。
いや、そもそもここは日本なのだろうか。それすら、今の自分達には分からない。
「そういえば……」
亜矢が口を開いた。
「この席順って、前にもどこかで見たことがある気がする」
「確かに!」
桃が何度も頷いた。
「でも、いつだったかなんて覚えてないよ」
玲が眉を八の字にする。
「一つ誰も座っていない席があるけど、そこに座っていたのは?」
園子は玲から遠く離れた向かい側の誕生日席を指した。
「あ!」と加奈が声を漏らした。
「クラスメイトは三十人だけど、ここにいるのは十人で全員。このメンバーに、何か意味があるのかな?」
「……思い出した!この席の並び方!」
亜矢が慌ててスマホで画像を探すと、それを隣の園子に見せた。志乃もその画像を見る。
画像には今の席順でカラオケで遊んでいる自分達が映っていた。そして、園子が指摘した空席に座っていたのは……。
「梨穂」
玲が無表情のまま、席の主の名前を口にした。
部屋中が凍りついた。ある者は目を泳がせ、ある者は顔を青ざめている。
沈黙が流れる中、志乃はあの画像をこの状況に結びつけようと思考を巡らせた。
このメンバーには、きっと何か理由があるはずだ。
志乃は部屋中を見渡した。ふと、無秩序にキャンドルが置かれた暖炉台の中心に据えられている一冊の本が目に留まった。
「あ、それ!」
志乃は目を輝かせながら、スマホでその本の写真を撮った。
「本がどうかしたの?志乃」と玲。
「この本、ヘミングウェイの著書『I Guess Everything Reminds You of Something』ってタイトルなんだけど、翻訳すると『何を見ても何かを思い出す』って意味なの。同じクラスの中からこのメンバーが集められたのは、きっと何か理由があるはず。このおかしな部屋にもきっと意味があると思った時、この本を見つけたの。この本は、私達へのメッセージじゃないかな。私達を連れてきた犯人は、何かを思い出せって言ってるんじゃない?」
志乃は間を置いて斜め右の空席を見つめ、続けた。
「もしかしたら、ここにいない梨穂のことを思い出せってことじゃない?」
彼女達が一瞬後ろめたそうな表情をしていたのを、志乃は見逃さなかった。『あんなこと』があれば、そうなるのも仕方がないが。
「……尾澤梨穂、十八歳。県内最大の総合病院の理事長で、県議会議員の娘として生まれた。その親譲りのカリスマ性でクラスの中心的な存在だった。六月に学校内で事故があって車椅子生活になった。その後不登校がちになって、去年末に失踪した」
ナレーターのように淡々と梨穂について記憶の限り説明するが、特に部屋に何も変化はなかった。
「海外に留学したって聞いたけど」
「私は精神科に通ってるって噂で聞いたよ」
「父親の夜逃げじゃなかったっけ?」
予想はしていたが、やはり皆聞いたことはバラバラだった。実際梨穂が失踪した時、様々な噂が流れていたのは知ってはいる。
正面に座る杏樹は声が出なくなっているため、スマホのメモアプリに文字を打ち込んで見せてくれた。
『私も本当はどうなのか分からない』
そのメモを読むと、志乃は軽く頷いて彼女達に向き直った。
「梨穂が今どこにいるのか、自分達はなぜここにいるのか、考えようよ。だって、ここにいるのは梨穂をいじめていたメンバーだよ!」
志乃の目を見て話を聞く者はいなかった。
「これは梨穂をいじめていた報いじゃないかな。私は直接はいじめていたわけじゃないけど、黙認していたから同じだよ」
志乃が話し終えるのと、テーブルにある時計のベルが鳴り出したのは同時だった。
止まることのないベルは、志乃達の顔を歪める。
「何なのこれ!」
「止められないの!?」
不快感に顔を顰める真由が、時計に手を伸ばした。
ふいに、けたたましいベルとは違う音が志乃の耳に届いた。ガタガタと何かが揺れている音。
「ちょっと、どういうことなの、これ!」
亜矢が足元を見ながら叫んだ。
志乃はテーブルクロスをめくって、亜矢の足元を覗く。亜矢の足枷がガタガタと動いている。いや、動いているだけではない。床下からじわじわと噴水のように水が溢れ出していた。
もしかして亜矢の足枷の鍵が解除されるのではないか、と淡い期待が浮かんだ。しかし、本当にそうなのだろうか?
「足枷どうなってるの!私、どうなるのよ!」
亜矢はテーブルクロスをぎゅっと握り締めると、向かい側の席の加奈に懇願の眼差しを送った。
「助けて、梨穂に謝って!」
「……え?」
明らかに動揺を見せる加奈。
加奈に「どういうこと?」という視線が注がれる中、「私じゃない、やったのは加奈だから」と亜矢は呪文のように繰り返した。
その瞬間、部屋に暗闇が訪れた。誰かの悲鳴が上がる。停電だろうかと考える隙間すら与えずに、部屋の明かりはすぐ点いた。
明かりが点って、志乃は安堵する。
しかし、本来空いてるはずのない空席が視界に入って、志乃は目を大きく見開いた。
亜矢の席には誰もいない。
「何で亜矢がいないの!?」
「消えた!?」
主を失った椅子を志乃達は呆然と眺める。
やがて、その視線は椅子から加奈に移っていった。
とても面白いですっ!続きがとても気になりました♡
7:お茶:2020/05/26(火) 23:49 >>6
ありがとうございます!☺️
「『やったのは加奈だから』ってどういう意味?加奈」
志乃が隣の加奈に顔を近付ける。
加奈は唇をぷるぷると震わせている。動揺している証拠だ。
「里穂をいじめていたのは皆も一緒だけど、『やったのは』っていう言葉には引っかかるよ」
頬杖をつく遥。
加奈が白なら、すぐに否定に入るはずだ。それなのに黙っているのは、黒の可能性が高い。
正直、パニックになった亜矢が責任逃れのつもりで、誰か一人を責めようと仕向けたことも考えたが、それは有り得なさそうだ。
「前から思っていたけど、加奈と里穂の間には絶対何かあるな、って感じてた。さっさと白状しなよ!」
真由が眉を吊り上げて怒鳴った。
「ていうかさ」
美和が話題を切り替える。
「杏樹の声が出なくなったのは、三ヶ月前くらいで、ちょうど里穂が失踪した時期と重なるよね」
「確かに……」
真由の相槌を皮切りに、今度は杏樹に疑惑の目が向けられた。
当の杏樹はというと、わかりやすく唇を歪めている。声が出ないため、加奈と違って白か黒か見極めるには難しいが、美和が言いたいことも一理あるだろう。
その時だった。それは、テレビで見るスローモーションのようにも感じた。五つはあるであろう緑と灰色それぞれの物体が天井から落ちてきた。
ボトボトという音とともにテーブルクロスや食器、フルーツ、薔薇の上に着地したそれらは、志乃の視界にひょっこりと現れた。それらは、蛙と鼠だった。
「嫌!!」
「何で天井から降ってくるの!」
蛙と鼠、特に鼠は着地した瞬間、テーブルの上で暴れ回っていた。
それは人にも連鎖反応していく。悲鳴を上げたり、捕獲しようとするけれど、綺麗にセッティングされていた食器達が規律を乱していくだけである。
志乃の食器の上でこちらを見つめる蛙と目が合い、思わずゾワッと鳥肌が立つ。
志乃はテーブルの下に隠れると、既にそこには園子、遥、美和、桃、真由はいた。下にも蛙と鼠が落ちてくるかもしれないのに、完全に避難出来たと言わんばかりか、彼女達は妙に落ち着いた顔をしている。
「そういえば、蛙と鼠で思い出したんだけど……」
「園子?」
「美和と遥が里穂の鞄におもちゃの蛙とか鼠を入れていたよね」
「そういえば、そうだったかも……」
どこか他人事のように美和は頷く。今度は真由が口を開いた。
「里穂が図書館横の階段から落ちた車椅子の原因になった事故で、当時一人挙動不審な亜矢を私は疑っていたけど、もしかしたら加奈も共犯者じゃないの?ちなみに、あの現場には蛙のおもちゃが落ちていた」
志乃の中で、絡まり合っていた無数の糸がようやく解けた。あの言葉がリフレインする。
『I Guess Everything Reminds You of Something』
「ここで起きていることは全て、里穂からのメッセージなんじゃない?蛙と鼠、さらに部屋にたくさんある本は図書館を連想させるもの、この足枷も立って自由に動けない、里穂の狙いは自分を車椅子生活にした人じゃないかな」
真由は思い立ったように椅子に座り直した。志乃達もそれにならって席に着く。
ふと辺りを見回すと、蛙と鼠は何かに誘われるように、部屋の端の小さな穴へと消えていった。
「この部屋の中の一番の嘘つきを今から吊るし上げてやる。ここから出たいなら、黙って従って」
真由は加奈を見ながら、そう宣言した。
加奈の顔色は、明らかに悪い。
「加奈、私にスマホ渡してくれる?」
真由が加奈に手を伸ばした。
真由の考えは大体予想出来た。きっと、里穂が事故に遭った後に亜矢なら、加奈にLINEの個人チャットで何か送っているはずだと。
真由の要求にどうするんだと猜疑と好奇の眼差しを耐えるように、加奈はスマホをぎゅっと握り締めた。
「……分かった。その代わり、真由には見せない。志乃だけになら見せるよ」
名前を呼ばれた志乃は、反射的に加奈に向き直った。
「どうして……私、嘘つけないよ。皆に見せなよ」
「私を疑っているの?私達、春から大学も同じだよ」
「早く罪を認めなよ。私だって助かりたいんだから」
自分から加奈に対して、こんなに冷たい声が出るとは思ってもみなかった。
加奈とは一年の時から仲が良く、お互い国立大学を志望していたため、よく勉強会をしたりしていた。穏やかで真面目な彼女とは相性が良く、親友とも呼べるような関係だった。それなのに、このような形でそれは壊れてしまうのだろうか。
「さっさと謝りなよ!」
行き場がなくなりつつある加奈を、真由がさらに迫る。
加奈はキッと真由を睨みつけた。
「……そういう真由も、里穂の顔を傷付けるために里穂の近くでガラスを割ったじゃん!」
「あれは違う!わざとじゃない」
身を半分乗り出しながら、必死に真由が弁解すると同時に、再びあの耳障りな時計のベルが鳴り響いた。
「また!?」
「まさか、また誰かが消える?」
美和のその言葉は、ほぼ正解だと言えるだろう。隣にいる加奈の足元から、異様な振動を感じたのだから。
「足枷が……!!」
テーブルクロスを両手で掴みながら、加奈は顔を歪めた。
志乃は加奈の足元を覗いてみると、やはり足枷はガタガタと揺れ動き、水が溢れ出ている。亜矢の時と全く同じだ。
「何で……私は何もしてない!」
「謝ってよ!」
再び真由が迫った。
「ただ驚かせようとしただけ、里穂が自分からわざと階段を落ちたんだよ!私見たんだから!」
「そんなの信じられないよ」
美和が吐き捨てるように言う。
加奈が信頼を失った今、彼女の言うことは眉唾ものである。志乃には、加奈を庇う気はなかった。
「謝ってよ!謝れば皆助かるんだから!」
真由に続いて、遥も謝罪を要求する。
加奈の顔からは、大量の汗が吹き出ていた。彼女達からの軽蔑の眼差しには我慢していたようだが、足元から這い出てくる恐怖には打ち勝つことが出来なかったようだ。
「……ごめんなさい。ごめんなさい!ごめんなさい!!ごめんなさい!!ごめんなさい!!」
加奈は謝った。自分自身を抱きしめて、狂ったロボットのように何度も何度も。
加奈の過呼吸のような激しい呼吸音、鳴り響くベル、ガタガタと音を立てる足枷から逃げるように、目を閉じて耳を塞いだりする者もいた。
いつの間にか恐怖に怯えていた加奈の瞳は、憎々しげに里穂の空席を見つめていた。
「ふざけんな里穂!全部あんたが悪いんだ!」
その言葉を最後に、電気はバチンと消えた。
暗闇が保たれる中、志乃の耳には何度もさきほどの加奈の言葉が跳ね回っていた。
憎しみのこもった瞳。荒らげた声。きっと、あれが加奈の本性だったのだろう。全身がぞわぞわする。
電気が点灯すると、加奈は消えていた。これを予想していたせいか、不思議と驚くこともなかった。
志乃はただ、ぽつんと寂しそうに据えられた椅子を眺めていた。
「……結局、足枷外れてないじゃん!」
唇を噛み締める真由。
「このまま順番に消されていくのかな」
不安そうに桃が志乃達を見渡す。
「そもそも、消えた後どうなったんだろう……まさか」
玲がそう言いかけた時だった。ぽたぽたと天井から、何かが降ってきた。
蛙や鼠と違ってそれは液体だった。真っ黒な液体はテーブルクロスを汚し、ある者のナプキンを、ある者のワイングラスの水を黒く染めていた。異様な臭いが辺りを漂う。
「もしかしてこれって油?」
園子が黒く染まったワイングラスを眺めた。
「いっそ火を点けて、全部燃やしちゃえばいいかも」
投げやりな桃の呟きに、遥も首を縦に振った。
「火事を起こせば、消防車が来てくれるから良いアイデアだね」
遥はポケットからライターを取り出した。が、それは呆気なく美和に奪い取られた。美和の表情には、怒りや焦りが現れている。
「馬鹿なことしないで。そんなことしたら、消防車が来る前に死ぬよ」
低いトーンでそう叱咤すると、美和は本棚の上に目掛けてライターを投げた。
しかし、桃はまだ諦めてはいないようだ。
「どうせ順番に消されるなら火事を仕掛けてみたい。ライターが無くても、部屋にはキャンドルがあるから、それを倒せばいい」
「やめなよ!ねぇ!」
真由が止めに入るけれど、何かに取り憑かれたように、桃は無表情のまま食事用のナイフを一本キャンドルに向かって投げ出した。幸いそれは的を外れた。
悲壮感に溢れたこの光景を、志乃はただ黙って見ていた。
少しずつ彼女達は正常という領域から、離れようとしている。完全に志乃達の気持ちはバラバラでめちゃくちゃになっていた。
どこか懐かしいメロディが耳に入ってきた。遥がスマホから流しているのだ。曲調や歌声から、合唱曲のようである。Aメロが終わりを迎えようとしていた時、この曲が何か思い出した。
「それ、去年の学園祭で歌った曲だ」
「うん、『COSMOS』って曲。結構気に入って、何か嫌なことがあるといつも聴いていたんだよ」
「里穂から何か嫌なことされた時とか?」
桃の質問に黙って遥は頷く。
「この油も何か里穂からのメッセージだよ」
園子が未だに天井からぽたぽたと落ちていく油を眺めて、そう訴えた。すると、園子は隣にいる杏樹に目をやる。
「ねぇ……杏樹、どうして声が出ないの?受験で忙しかったけど、皆心配してたよ。それなのに、電話もLINEも無視して、一体どうしちゃったの!?」
園子の声色は酷く心配しているようにも、怒っているようにも感じられた。
杏樹が何やらスマホに必死に何かを打ち込んだ。伝えたいメッセージでもあるのだろうか。打ち終えると、杏樹は園子に画面を見せた。
「『犯人は里穂じゃない。別にきっといる』……?」
必死に首を縦に振る杏樹。
「里穂じゃないとしたら、何でこのメンバーなの?」と桃が問う。
再び杏樹はスマホに文字を打ち込むと、それを桃にかざした。
「『学園祭、ラクロス部が揚げ油をこぼした』?」
文字をゆっくり読み上げる桃だが、何のことだが理解していない様である。
「ラクロス部が学園祭でめちゃめちゃ怒られたの覚えてる?ドーナツの屋台をやろうとして、それ用に使う揚げ油が全部こぼれちゃった事件」と園子が杏樹の代わりに説明した。
「それって、管理が甘いって先生に怒られたよね?」
志乃が尋ねる。
『この油はその事件を思い出せというメッセージ』と杏樹は伝えた。
「その事件って、あれの一つでしょ?」
「あれって、あれ?」
「あれで見た覚えある」
「あれだとしたら、犯人って……」
その時、全員のスマホのバイブ音がした。
ここは圏外でWiFiも繋がっていないのになぜ、という疑問を隅に置きながら、志乃はホーム画面を開いた。
そこにはTwitterの通知に『真っ白な正義さんがツイートしました』と表示されていた。この通知に、誰もが「何で?」と思ったのは間違いないだろう。
亜矢が放課後の教室でイヤフォンから流れる音楽を聴いていると、ドアがゆっくりと開いた。
里穂と加奈だ。亜矢はイヤフォンを外して、こちらに近付いてくる二人に尋ねた。
「どうしたの?」
「私達の仲間にならない?」
何気ない笑顔で加奈は言った。
「仲間?」と亜矢が聞き返す。
「一緒に汚れた世界を真っ白にして行こう」
里穂はまるで小さな子供のように、瞳を輝かせた。説明をしようと里穂が口を開きかけたところで、ポケットにしまっていた里穂のスマホが鳴った。研修医の彼氏から電話が掛かってきたらしく、加奈にこの場を任せて去って行った。
『真っ白な正義』というTwitterのアカウント、通称『マッシロ』。メンバーは皆里穂に選ばれた者で、その人のみIDとパスワードを教えてもらい仲間となれる。一つのアカウントを共有しており、各自が行った行動を投稿していてパスワードは絶対他の人に教えてはいけない。また、その投稿は誰が投稿したものか詮索するのも、暗黙のルールで禁じられている。
「それで、私は何をすればいいの?」
「気に入らないことがあったら、ここに写真や動画をアップするの。真っ白は正義のアカウントで、世の中の間違ったことを正して世界中に広めていくんだよ」
例えば、と歩き煙草をしている人に水鉄砲で水をかけた動画を、自分がやったと加奈は見せた。他にも、点字ブロックの上に停められた自転車をどかして、山積みにした写真もある。
「凄いけど、私がやったってバレたら……」
亜矢が表情を曇らせた。
「でも、他の人には秘密だから大丈夫だよ。いざとなったら、里穂の父親もいるし」
「なるほど……」
加奈が亜矢にかざしたスマホには、悪を懲らしめる様々な活動内容が羅列していた。
それをじっと見つめていた亜矢の唇も、少しずつ綻びを増していった。
*
「マッシロの通知だ……」
「そんなことより警察!」
WiFiが繋いでいることに気付いた真由が、警察に電話するよう指示する。しかし、繋がることはなかった。無機質な待機音がするだけである。
助かるかもしれないという期待が打ち砕かれ、志乃は大きな溜め息をついた。
「ねぇ、今のマッシロの投稿見て」と園子。
志乃はTwitterを開いて、マッシロのアカウントを表示させると、思わず口をぽかんと開けた。
そこには『I Guess Everything Reminds You of Something』というメッセージとともに、さっき亜矢が見せてくれた写真が投稿されていた。
このアカウントのIDとパスワードを知っているのは、里穂とここに集められた者だけだ。
「里穂が投稿したのかな?」
「それとも、亜矢か加奈?」
「でもここは圏外なんだから、里穂以外のメンバーは投稿出来ないでしょ」
この写真とメッセージ。やはり、自分達に何かを思い出せとアピールしているのだろうか。
「分かった!」
園子が壁をじっくりと眺めて閃いた。
「部屋にある複数の時計のどれかが十二時丁度になった時、灯りが消えて人が居なくなるんだよ」
志乃達はすぐさま時計の数を数え始めた。
部屋の時計は十一個、椅子の数も十一個、マッシロのメンバーも十一人。園子の推測は、間違っていないかもしれない。
「じゃあ待ってよ!あと六分で十二時になる時計があるよ!」
桃がその時計を見上げながら、焦燥感を露にした。
また、この中の一人が消失する。それは自分なのかもしれない。恐怖が志乃達を蝕んでいく。
「何かを思い出させってこと?マッシロの投稿についてじゃない?そのことを反省しろってこと?汚れた世界をマッシロにしようとか言っといて、最後には軽犯罪みたいなことまでやらせて!?」
真由が半ば混乱気味に問う。
「みたいなって完全にアウトだよ!」
「私達、里穂にやらされていただけだし」
「脱線するのやめようよ!時間無いんだから!」と志乃が苛立ちながら、止めに入った。
杏樹がメッセージを志乃達に見せた。志乃がそれを読み上げる。
「『マッシロの被害者かもしれない』……」
「確かに、その可能性は有り得る」
遥が同意した。
「早くマッシロでやったことを告白しよう!」
園子が鬼気迫る表情で全員の顔を見渡すが、それに応える者は誰もいなかった。今更犯罪に近い行為を自白したくないだろう。責任逃れという言葉が相応しい空気だ。
痺れを切らした志乃は、マッシロのある投稿を彼女達に見せつける。
「ブラック企業の社長の車に白ペンキを塗った投稿は誰のもの?ちなみに投稿日は、七月二十日。流石に敵に回すにしては、悪過ぎる相手だよ」
「それ、やったのは亜矢と加奈だから」と真由。
真由はスマホを操作すると、雑音混じりの音声が流れてきた。
学校の廊下で撮影した動画のようである。動画には桃が映っており、流行りのダンスを踊っている。
一見普通の女子高生らしい動画に見えるが、二十秒を過ぎた辺りで、見慣れた二人の横顔が桃の後ろを通り過ぎて行った。亜矢と加奈だ。亜矢の手にはしっかりと白ペンキのバケツが握られていた。
動画が撮影された日も七月二十日と表記されているため、二人がやったのは確定だ。
「もう時間ないから、私が告白する!」
園子がテーブルクロスを握り締めた。額から汗が流れている。
「私は古文の先生の誤字脱字集を作った」
「それまだマシな頃のマッシロじゃん!」
呆れたように真由が指摘する。その瞬間にも、時間は刻一刻と迫っていた。あと十秒だ。
「時間ないよ!!」
志乃が叫ぶとともに、ベルが鳴り出した。十二時がやってきたのだ。
部屋の灯りは消え、瞬く間に点灯した。
志乃は席を見回すと、目を見開いた。亜矢と加奈以外の席にはきちんと全員いた。部屋に異変も見られない。
途端に、耳障りな音が扉の方から聞こえてきた。
誰かがやって来たのだろうか。自分達を閉じ込めた犯人か?それともいなくなった亜矢や加奈か?
志乃達は恐る恐るドアの方に目をやった。
そこには、最初自分達が被せられていた赤い布袋を頭に被っている一人の男がいた。男は黒いスーツを身にまとっているため、この洋館のような部屋だと執事に思える。しかし、布袋の目だと思われる部分は小さく切り取られており、不気味さを醸し出している。
志乃を含め皆、謎の男の登場に言葉も出ない状態である。
男は入室する際に運んできたワゴンを押し始めたと思いきや、床を叩きつけるような音が部屋中に響き渡った。
志乃は男の足元を見てみる。男は左足を引きずりながら、一歩ずつゆっくりと歩いていた。その男が一歩一歩進む度に、ガタンという音が志乃達の恐怖心を煽っていく。
志乃は自分の後ろを通り過ぎようとしている男の足音を、びくびくと感じていた。
すると、男の手は志乃の肩に伸びた。危害を加えられるのではないか、と冷や汗をかいたが、それは杞憂であった。
男は油で汚れた食器を持ち上げたと思いきや、それをワゴンに乗せたのだ。志乃のワイングラスやナイフなど、全ての食器をワゴンに乗せると、今度は加奈がいた席の食器を片付け始める。
「あの……誰ですか?」
園子が加奈の席から離れようとする男に問う。男は立ち止まると、園子の方をじっと見つめたが、無言のまま桃の食器を片付け始めた。
その様子を見ていると、志乃ははっと目を見開いた。桃の横の真由だ。真由は俯いたまま、テーブルにあったナイフをこっそりとスカートで隠したのである。
男を刺す気だ。いや、もしかしたら園子の質問に答えされるための脅しに使うのかもしれない。
志乃は止めることなく、その様子を固唾を呑んで見ていた。
やがて男は真由のところに移動する。真由の男を睨む鋭い眼差しは、こちらからでも窺えた。
その時だった。男は真由の食器を片付け終えると、テーブルクロスを捲りあげた。それによって、真由が隠し持っているナイフが露になる。
流石の真由も顔を青ざめていた。ナイフを持つ手が、痙攣したようにぷるぷると震えている。
しかし、男は何事も無かったようにテーブルクロスを元に戻した。真由のナイフを取り上げることも、真由に危害を加えることもなく、今度は玲の食器をワゴンに載せている。真由は額から流れ落ちる汗を拭うと、安堵の溜め息をついた。
やがて男は全員分の食器を片付け終え、テーブルの中心にあるフルーツや薔薇もワゴンに載せていった。
最後は油で黒い染みができたテーブルクロスを、同じ色の清潔なものと交換し、一人一人の前に何も入っていない透明なティーカップを置いた。そして片足を引きずりながら、重厚な扉を開けてワゴンとともに去って行こうとする。
志乃は慌てて、身を半分乗り出した。
「待って!どうすれば解放してくれるんですか?」
男は足を止めた。切り込まれた布袋の奥の瞳から、志乃をまじまじと見る。
しかし、男は何も言わずに部屋を出て行ってしまった。
緊張の糸が解けた美和が伸びをした。
「あの人、もしかしてマッシロの被害者じゃない?」
「いや、もしかしたら自分達と同じで無理矢理連れて来られたんじゃない?」
「でもそしたら、あんな覆面被ったりしないし、私達の質問に答えていたはずだよ」
玲の言う通りだ。同じ境遇なら、すぐに助けを求めようとするだろう。わざわざあんな犯人側の人間だと思われるような格好も行動もしないのが普通だ。
「思い出した!マッシロで告発されたスーパーの店長が確か足が悪かったよね」と桃。
「やっぱりマッシロの被害者に懺悔しろってことなんじゃ?」
そう言って、志乃は時計がまたすぐに十二時になっちゃうから早く、と促す。
「でも、さっき誰も消されなかったよ!」
遥が眉をひそめて言った。
二人連続消えたにも関わらず、さっきは全員無事だった。それがあってか、誰も告白する者はいない。
どうして皆こうも罪から逃げようとするの、と志乃は唇を噛んだ。
「スーパーが消費期限を偽装している投稿をしたのは誰?」
苛立ちを含んだ声で、志乃が問いただした。
すると、扉がギイという耳障りな音を立てて、再び男がワゴンとともに現れた。
今度は何なんだ、と周囲に緊張の糸が張り詰める。ワゴンに載っている透明なポットには、コーヒーが入っていた。
この男は、自分達にとって味方なのだろうか。それとも敵なのだろうか。どちらにしろ、この男が鍵となることはほぼ確定だろう。
「……あの、あなたも拉致されてここにいるんですよね?私達に協力して下さい!一緒に逃げましょ!この足、どうすれば外れるの?」
桃が最後の女神に縋るように、男の姿をじっと見た。
男は片足で不器用に志乃に近づいたと思いきや、テーブルの上に置いていた志乃のスマホを手に取り、志乃に渡した。
そして、本来里穂の席であろう椅子に座り、無言のまま人差し指を机に叩いて志乃に指示を出す。
スマホにはさっき投稿主を尋ねた投稿が表示されている。もしかして、この投稿主を探せということだろうか。
「この消費期限切れの投稿をやったのは?」
「亜矢じゃない?確か亜矢の従兄があのスーパーでバイトしているって言ってた」と遥。
「犯人は亜矢です。だから、私達を解放して下さい」
桃がテーブルクロスをぐしゃりと掴みながら訴えた。しかし、桃の要求を無視するように男は『次』と無言で再び机を叩く。
「投資詐欺した人の財布を盗んで、全額募金箱に入れた写真を投稿したのは誰?」
志乃の質問には答えず、彼女達は視線をテーブルに落とすばかりであった。
その時、床の方から金属音が聞こえた。真由がスプーンを落としたらしい。
スプーンが置かれていた場所を考えると、真由はわざと落としたのかもしれない。
男はスプーンを拾うために真由に近付くと、志乃の口からはっと息が漏れた。
真由は結局回収されることのなかったナイフを、まだスカートに隠し持っているのである。銀のナイフは鈍く輝き、少し震えている。志乃はごくりと唾を呑み込んだ。
その瞬間、真由の向かい側でガラスが割れるような音がした。音の主を探してみると、どうやら園子がティーカップを割ってしまったらしい。それは故意なのだろうか。
一見プラスチック製に見えるティーカップだが、造りはガラスであったため、音からして粉々になっているだろう。
「ごめんなさい」
わざとらしく園子が謝ると、ガラスを拾おうと屈む。
男は園子の元に近付くなり、園子の指が切れているのを確認し、ハンカチを渡した。そして、ガラスを丁寧に片付け始めた。
その様子に、志乃達は驚愕した。園子に優しくするところを見ると、もしかしたらこの男は味方側なのかもしれない。何かしらの理由で自分達の質問には答えられないが、最低でも安全は保証してくれる存在なのだろうか。
だが、園子が一瞬の隙をついてガラスの破片を男の首に突きつけた瞬間、志乃の希望は消え去った。
「今すぐ全員解放して!じゃないと……」
男を睨む園子の顔は、普段のおっとりした表情と比べて、断然険しかった。
男は先端が震えているガラスを奪い取り、園子の後ろに立つと、彼女の足元からガタガタと振動を感じた。園子の足枷が動き出したのだ。
「ねぇ!何で!?何で解放してくれないの!?」
園子は頭を抱え込んで絶叫した。園子の目からは大粒の涙が溢れ、それは頬を伝って流れ落ちていく。
そんな園子に、彼女達は哀れな視線を注いでいた。三度目のこの光景には、良くも悪くも慣れてしまった。
男はスーツの胸ポケットからハンドベルを取り出し、それを思いきり鳴らした。時計のベルに似た音が部屋に響き渡る。
志乃が耳を塞ぐと、やがて電気は消えた。そして、すぐに点灯する。
園子の席には、誰もいなかった。
それは、よく晴れた日の朝だった。
教室に入るなり、このクラスの担任の水瀬は白い歯を見せて生徒に挨拶をした。HRが始まるため、生徒達は一斉に席に着く。
もう一度教室の扉が開くと、あくびをしていた生徒も眠気が吹っ飛ぶくらい目を大きく開けた。
教室に足を踏み入れたその女子生徒は、緊張した面持ちである。しかし、注がれるたくさんの好奇の眼差しを全て受け止めるように、女子生徒はしっかり前を見据えていた。
水瀬は「お待ちかねの転校生だ!」と紹介する。四十代であろう水瀬の額には、皺が寄っていた。
女子生徒は軽く頭を下げると、口を開いた。
「鴨原園子です。よろしくお願いします」
園子は水瀬に促され、窓際の一番奥の席に座った。
隣の少女に目をやる。その少女はキリッとした端正な顔立ちをしているが、園子に向けた柔らかい笑みは近寄り難い雰囲気を感じさせない。ショートボブの髪もよく似合っていた。
「よろしくね」
園子は挨拶すると、少女は声を控えめにして言った。
「世界を変えることに興味ある?」
園子は首を傾げた。胡散臭い宗教の勧誘のようだと、少しばかり警戒する。
「私達と一緒にこの汚れた世界を真っ白にしていこう」
*
「何が目的なの!何とか言いなよ!」
机を叩きながら男を問い詰める真由を、男は無視する。
男は一人一人のティーカップにコーヒーを注ぎ、それに白い粉末を加えて配膳していった。再び里穂の席に着席し、指を机に叩きつけて何かを促した。
「……飲めってことだよね」
「でも明らかに白い粉は毒でしょ!」
「違う!これを見て何かを思い出せってことだと思う」と志乃。
志乃は『I Guess Everything Reminds You of Something』と心の中で何度も繰り返し呟いた。きっと、この飲み物も里穂と何か関係しているのだろう。
桃が声を出した。
「マッシロの活動は元々正義のためで、最初は良いことをしていたけど、里穂が暴走してこうなったんです」
「あのさ、覆面野郎!私達にどんな恨みがあるか知らないけど、さっさとここから出してよ!早く!」と真由が挑発する。
男は片足を引きずって真由の元へ向かった。その間、真由が桃に耳元で何かを囁いていること、真由が桃にナイフを渡したのを志乃は見逃さなかった。
真由が何を考えているのかわからないが、三度目のリベンジが始まったのは確かだ。
真由はさらに挑発するようコーヒーを男に投げつけた。ガラスが割れる音が響く。
男は濡れたスーツを気にも留めない様子で真由の前に立つと、その後ろでは背後からナイフで男を刺そうとする桃がいた。
志乃はさっき真由が桃に何を呟いたか、なんとなく想像出来た。多分、真由は自分が囮になるから男を刺せとでも言ったのだろう。前よりも確実な方法に、志乃は緊迫感を忘れて感心してしまった。
しかし、瞬時に男は背後から忍び寄るナイフを察知し、それを取り上げた。一瞬の出来事である。男は取り上げたナイフを桃の首元に突き付け、コーヒーを飲むようティーカップを指さした。
脅しがかかっても、桃は明らかに怪しいコーヒーを拒もうと、ティーカップから目を逸らした。
「無理です!飲めません!」
だが、男はしつこく指示する。
桃の目から涙が溢れ出そうにになったところで、真由は桃のティーカップを自分の方に引き寄せた。
「やめて下さい、お願いします。私が飲むから許して!」
真由はこれまで男に対して見せたことのない必死な顔で懇願した。
男が許可を与える隙も作らずに、真由はコーヒーを半分口にしてみた。志乃達はその姿をじっと観察するように見つめる。
真由は苦しそうに咳き込んだと思いきや、「口がザラザラする」と顔を歪めた。
粉末が加えられた際は毒だと危惧していたが、真由の様子を見る限り、その心配はなさそうだ。志乃は胸をほっと撫で下ろした。
「何かの錠剤?」
遥の問いに答えたのは、杏樹だった。杏樹はスマホに文字を素早く打ち、それを見せた。
『睡眠薬かもしれない。最近よく飲んでるから』
「ねえ、もしかしたらこの投稿が関係しているかも」
遥は志乃達にスマホの画面を見せると、ハッシュタグに『悪いやつほどよく眠る』『金髪DV野郎』と書かれた動画を再生した。
動画にはカラオケに集められたいかにも柄の悪そうな四人の男子高校生が映っていて、金髪の男は女性に暴力を振るったことを自慢げに話し、豪快に笑っている。
一人の男がコーラを飲むと、顔を歪ませて「苦っ!」と声を漏らした。他の三人も試しに飲んでみる。
数分後、男達は眠りにつき、彼等の顔には『クズ』『サイテー』『ゴミ』『#マッシロ』と白いインクで一人一人に落書きされていた。
動画が終わった途端、男は立ち上がって遥と美和の間に立った。男の手にはスケッチブックと黒いペンが握られており、それを遥の前に差し出した。
「どういうこと?何かを書けってこと?」
遥は首を傾げて、誰ともなしに尋ねた。
「マッシロって書かせて、筆跡鑑定するんじゃない?」
答える志乃に、不安げに遥が頷く。
遥はペンを手に取ると、ぷるぷると震える手でマッシロと書いていく。書き終えてペンをテーブルに戻し、遥は男の方を見た。
「コーラと睡眠薬でこの投稿を思い出しただけで、犯人は里穂と亜矢なの」
遥の弁解に、美和も同意する。
「私達は里穂の指示で、あの男達をカラオケに誘い出しただけ」
二人の言葉に納得したのかしてないのか、判別出来ないまま男は再び歩き出す。全員の飲み物を回収して、ワゴンを押し運びながら部屋をあとにした。
「……あの男、誰なんだろう」
完全に閉められた扉を横目で見る桃。
「普通に考えれば、あの投稿された四人のうちの誰かでしょ」と美和。
「名前は覚えてないけど、不良で有名な高校の人達で、金髪がクラスの誰かと付き合っていてDVが激しかったらしくて、それを噂で聞いた里穂が行動したんだよ」
遥が頬杖をつきながら言う。
杏樹はスマホに打ち、『落書きだけでこんなことする?本当に金髪かな?』と疑問を投げかけている。
「するかも」
遥が即答した。
「あの投稿の後に金髪から電話があって、面子潰してぶっ殺してやるってめちゃくちゃ怒ってたよ。里穂に伝えると、口だけでしょって言ってたけど」
「そうだとしたら、かなり危ないよ。またあの男が戻ってくるかもしれないから」
玲が足をばたつかせると、それに伴って足枷もガタガタと揺れる。せめてこの足枷が外れれば良いのだが。
「……真由、もう危ないことしないで」
桃が真由の肩を掴んだ。
真剣そのものの瞳に、最初は合わせなかった真由の視線も、やがて交錯した。
「今日は卒業式で、きっと自分達がいなくて大騒ぎになるよ。ただでさえ、里穂が失踪して担任の水瀬もクビになって、めちゃくちゃなのに」
桃が口を閉じるのと同時に、扉の奥から床を叩きつけるような音がした。聞き慣れたその音に、志乃の肩は縮こまり、心拍数が徐々に上がっていく。
扉が開くと、あの男は金属バットを片手に再び現れた。正装には似合わない使い古された金属バットに、彼女達の注目はいった。
「……もしかして、水瀬の事件と関わっているんじゃ」
真由が呟く。
志乃は学校や家のテレビで耳にタコができるほど聞いたあの事件の概要を、脳内で整理した。
水瀬は他校の生徒と暴力事件を起こし、解雇処分が決定した。事件の際、水瀬はバットでその生徒を殴ったとも聞いている。
男は里穂の椅子に腰を落とすと、タブレットを取り出して、動画サイトでその事件のニュースを流した。画面上に事件の現場だと思われる歩道が映し出される。
水瀬は路上で口論になり、突き飛ばして怪我を負わせたと自供、生徒側は水瀬に金属バットで殴られたと主張していたとニュースキャスターが淡々と告げた。
「その引きずる足は、水瀬に金属バットで殴られたせいとか?」
「ていうか、誰か水瀬の居場所知らない?」
「わかんないよ。事件以降、会ったことないし」
「たとえば、クラスの中に水瀬と付き合っていた生徒がいて、水瀬の代わりにその生徒に復讐するってこと?」
志乃達が思考を巡らせて話し合っている中、男は杏樹の背後に立った。
杏樹は男に何かを伝えようと文字を打ち込み、遥に読み上げさせた。
「『水瀬は体罰とかしていたから無理』……」
男は今度は遥の後ろに移動した。遥の顔が強ばる。
「……水瀬は依怙贔屓とか激しかった。美和とか凄い気に入られていた」
すると、男は話を振られた美和の後ろに立つ。
「体育の個人指導受けてたけど、身体をいつもべたべた触ってきて気持ち悪かった」
男は無言のまま、美和に顔を近付け覗き込んだ。覆面の奥から見つめられている眼差しを逸らすように、美和は俯いた。
「水瀬は本当に、最低最悪な教師だった」
「気持ち悪い」
「裏で皆笑ってた」
彼女達の口からこぼれ出る水瀬への悪口に、志乃も目を細めて頷いた。
「別に嫌いじゃなかったけど、暴力事件に関しては失望した」
男は美和から離れると、再びハンドベルを取り出して、玲の後ろに移動した。男がベルを鳴らす。
玲は背後からの恐怖に耐え抜こうと、唇を強く噛み締めた。しかし、肩や手の震えから、怯えているのが手に取るようにわかる。
「玲!」
誰かの叫びとともに、部屋は暗転した。五秒足らずで点灯し、志乃は遠く離れた玲の席に即目をやった。
玲はそこにいた。幻覚でもなんでもない、本物の玲がちゃんといる。
玲は自分が消えていないことを確認して、ほっと胸を撫で下ろした。
しかし、志乃はようやくここで気付いた。玲の後ろを見つめる美和の目が極限にまで見開いていることに。玲もそれを察知し、恐る恐る背後を振り返った。
そこに立っていたのは、幽霊のように生気を感じられない表情をした水瀬だった。
放課後の静かな教室では、加奈と園子が亜矢に英語を教えていた。
過去問に苦戦しているのか、亜矢は力なく机に突っ伏した。
「rewindの意味は?」と、参考書を片手に加奈が訊ねる。
「再び風が吹く」
「違うよ、巻き戻す」
「えー、風を吹かそうよ」
亜矢はやる気のなさそうにあくびをする。そんな亜矢に、加奈と園子は苦笑した。
「ちょっと!英語教えてって言ったのは誰?」
「そんなだと、本当に受験受からないよ」
「明日は明日の風が吹くだよ」
懲りずに亜矢が呟いた。
すると、「お!」というボリューミーな声とともに、水瀬が姿を現した。驚いたように三人は水瀬を見る。
「先生、今度の夏祭り行くんですか?」
亜矢は手に持っていたシャーペンを机に置いて尋ねた。
「部活の合宿だから行けないなぁ。他の日も部活だらけだよ」と水瀬が頭を掻いた。
「プライベートは?」
「娘ももう大学生だし、プライベートは真っ白だな」
『真っ白』という単語に、亜矢は面白おかしく二人に「『真っ白』だってさ」と囁いた。
亜矢とは対照的に、加奈と園子は気まずそうに押し黙る。
ご機嫌だった水瀬の表情が僅かに暗くなると、
「鴨原、ちょっといいか?」
と園子に手招きをし、廊下に呼び出した。
きょろきょろと周囲を見回して人の目を気にしつつ、水瀬は控えめな声で話し始めた。
「尾澤のことなんだが、俺は本人から大事にはしたくないと言われているけれど、突き落とした人間を知っておきたいんだ。受験もあるし大事にはしないが、見て見ぬ振りをするのは自分の正義に反するんだ」
それに、と水瀬は続ける。
「普通は家族の方が騒ぐが、あそこの家は特別だから」
園子は視線を床に落とした。
「……私には、話すことは無いです」
期待とは離れた回答に、水瀬な溜め息を吐いた。しかし、それは怒りや苛立ちからくるものではなかった。
「仲間を売らないのも、一つの正義ではあるけどな」
*
「嘘……どうして」
美和が呆然と独り言のように言う。
水瀬は足を引きずって里穂の席に戻った。志乃は、その様子を警戒心を含んだ瞳で見つめる。
「た、助かりたい一心で嘘をついたんです!」
「まさか先生だと思わなくて」
「本心じゃない」
明らかにデタラメな言葉を必死に彼女達は水瀬に投げかけてる。それを無視するように、
「皆!覚えてたんだな、俺のこと」
と、水瀬は笑っていないのに嬉しそうな声色で口を開いた。
「先生?水瀬先生なんですよね?」
確認を取るように志乃が聞く。
「そうだ」
「私達をここに監禁したんですか?」
志乃は、ずっと聞きたかったことを質問した。
水瀬は意味ありげに笑った。
「俺は教師は天職だと思っていた。ところが、結果として未成年を殴った暴力教師か、あるいは生徒に手を出したセクハラ教師と呼ばれるようになった。俺は最低教師だ。例えば、そこに教え子を拉致監禁した変態教師という呼び名が増えても、それほど大した違いはないと思わないか?」
水瀬は手にしていた金属バットを軽くトントンと床を叩き、「神崎美和!!」と美和の名前を叫んだ。
「俺のことを一番最初に気付いてくれて嬉しかったぞ」
水瀬は金属バットを持ったまま、美和との距離を詰めていった。
「やめて、来ないで!」
金属バットで危害を加えられることを恐れた美和は、唯一自由に動かせる手で抵抗しようとしている。
「俺の何が怖いんだ?」
「バット持って言うセリフじゃないよ!」
真由の指摘に、水瀬は黙って金属バットを床に投げ捨てた。
「言ってくれ」
「……私がマッシロに『セクハラ教師』って投稿したから」
観念して告白した美和の投稿を、志乃は記憶の片隅から引っ張り出した。
確か、去年の九月か十月辺りの投稿だった気がする。『セクハラ教師』『ボディタッチ多い』『ロリコン』などとハッシュタグを付けられ、顔にモザイクをかけられた美和の柔軟体操を手伝うように、彼女の肩を掴んでいる水瀬が載っていた。
「その足の怪我について教えて下さい」
志乃が両手をぎゅっと握り締めた。
「私達はずっとあの金髪が先生にバットで殴られたと思っていましたが、その怪我が事件で受けた後遺症なら全部がひっくり返ります」
「どういう意味?」
真由が聞く。
「被害者は先生の方だったんだよ!被害者だったのに、相手の言い分が通ってしまった。そのことを私達に伝えたかったんですか?」
水瀬は有理の問いかけを無視して、
「佐久間玲!!」
と表情のないまま再び叫んだ。
玲の肩がびくりと震えた。
「この真っ白な正義の意味について教えてくれ。それが正義の活動だと言ったが、既に学校をクビになっていた俺のことをセクハラ教師と世間に知らしめることにどんな正義がある?」
水瀬は皮肉めいた笑みを向けると、タブレットを取り出した。
水瀬の唇は真一文字に戻り、タブレットの画面を志乃達に見せた。閉店と書かれている張り紙をされたスーパーの写真だった。すぐにそれがどこのかわかり、志乃は水瀬の意図を探る。
「マッシロに投稿されたスーパーだ……」
「ああ、これは食品偽造を指摘されたスーパーの末路だ。マッシロに投稿されてから、四ヶ月後に潰れたんだよ」
「ニュースで観たから知ってます。自業自得じゃないんですか?」
「……ニュースをきちんと観るべきだな。正確には偽装したのは精肉担当の社員で、スーパー全体でそれを許していたわけじゃない。店長には娘がいた。お前達と同じ高校三年生、だが目指していた大学を諦めるしかなくなった」
水瀬はさらに続ける。
「愛車をペンキで真っ白にされたブラック企業の社長は、自分に恨みを持つ社員の仕業だと勘違いし激怒。疑われた社員はさらなるパワハラに合い、今は過労で入院している」
水瀬は唇を歪めた。心ここにあらずという状態だった水瀬の目が鋭くなる。
「教えてくれ、お前達の活動にある正義の意味を!」
「正義はありません」
玲がきっぱりと答えた。
「じゃあ、あの九月の投稿は一体何なんだ!なぜ俺はセクハラ教師だと世間に流される必要があった?」
「正義を履き違えた里穂が暴走した結果です。美和も他の皆も彼女に踊らされてたんです。マッシロは私と里穂とそれからもう一人、小学校からずっと一緒だった幼馴染みと始めたんです。あるときその人が、スマホだけで悪人を退治出来るかもと言い出したのがきっかけでした。ちなみに私は、里穂が暴走し出してからは投稿していません」
最後の一言に桃が眉をひそめ、尖らせた口が開いた。
「里穂のいじめも校長に密告して、こうやってマッシロのことも水瀬に告げ口出来て良かったね」
「いつも自分は悪くないって顔して、自分だけ良い子になろうとしているから、ハブられるんだよ!」
同調する真由の言葉に、玲は口をつぐむことなく負けじと反論する。
「私は皆のためを思って言っているだけ。無理矢理マッシロをやらせたのは里穂だけど、だからってあんなによってたかっていじめるなんて……」
玲は確かにずるいかもしれない。
里穂と幼馴染みだからマッシロに入っていただろうが、大して親しい関係ではなかったなら、絶対里穂の姿を遠巻きに眺めるだけだっただろう。
もともとあまり前に出る性格ではない玲を嫌っている人は多かった。成績がずば抜けて良いとか、それを全く誇示しない態度にやっかんでいるだけであったり、里穂に近付きたい人が無条件で里穂と仲良くしている玲を敵視したりと、志乃からすればかなりくだらない理由ではあった。
しかし、里穂の様子がおかしくなり、いじめが始まった頃の見て見ぬ振りをしつつ良い子ぶる玲の姿勢に、マッシロのメンバーもイライラしていた。
「いいな、こうしていると教室に戻って来たみたいだ」
水瀬が恍惚とした笑みを浮かべる。
「真っ白な正義とは何だったんだ?悪人はどうやって決める?学校の先生や親は皆悪人なのか?」
水瀬は志乃達を問い詰める。
「尾澤里穂が教室でいじめられるようになったのは知っている。お前らもそれに参加したわけだよな?ムカつくからか?」
「あんただって、ムカつく高校生がいたからバットで殴りつけたんでしょ!実際どっちが殴られたかなんてどっちでもいい。高校三年の大事な時に担任が事件を起こしたのは間違いないんだから!」
噛みつくように真由が怒鳴る。志乃が口を挟んだ。
「それが私達のためだったとしたら?睡眠薬事件の金髪から電話でぶっ殺してやるって、それを止めようとしてあの事件が起きたんだとしたら全部つじつまが合うでしょ?そのことを私達に言わなかったのは、事件の詳細を言えば私達も事情を聞かれることになるかもしれないから。そうですよね?私達を庇ってくれてたんですよね、先生」
志乃の問いに、水瀬は首を縦に振って、
「その通りだ」
と、壁に掛けられた鹿の剥製を見つめる。
「学校を辞めさせられたことに後悔はない」
水瀬は目を閉じて、白い手袋を取った。
志乃ははっと息を止めた。水瀬の人差し指には、婚約指輪がはめられていた。
水瀬は金属バットを手に取り、桃と距離を詰めた。
「ここにいる人間から一人を選べ。そいつを今から処刑することにする!」
くく、と水瀬は残酷に笑った。目尻に皺が寄っている。
発想力凄いですね!!
これからも頑張ってください!!!
<<21
ありがとうございます!頑張ります!
「無理です!出来ないですよ!」
「自分の名前でも良いぞ!お前達は全員いじめをした悪人だろ?俺が代わりに真っ白な正義を遂行してやるよ。さあ、早く選べ!」
唇をわなわなと震わせる桃を、水瀬はさらに煽っていった。血走りかけた瞳を、志乃に向けた。
「佐々本志乃、動画を撮影しろ!お前達がいつもマッシロでやっていたように、後で投稿してやる!お前達は問答無用で悪人を懲らしめてきた、そして俺の人生を奪った!教師一筋の五十近くの男が再就職をするために、どんな手段があると思うか?唯一知り合いがやっている塾で講師として雇ってもらい、また教師としてやり直せると思っていたが、保護者から指を差され『こいつはセクハラ教師だ!』と言われ、妻も俺を信じきれずに出て行ってしまった。お前達は俺の人生を奪った!俺から家族を奪ったじゃないか!」
水瀬は憎悪のこもった瞳で一人一人を見渡すと、桃に対して満足げに微笑んだ。
「誰の名前も上げないんだな。責任転嫁しなかったことは褒めてやる、偉かったぞ!」
そう言って、バットを振り上げる水瀬。
桃の顔が恐怖に歪んだ。
「ごめんなさい、許して!!」
助けを桃が乞う。
真由がテーブルを思いきり拳で叩いた。
「やめなよ!あんた本当におかしくなっちゃったの?確かに私達はマッシロのその先のことなんか考えてなかった。それは謝る……でも、許せない奴等が一杯いたのは本当なの!見て見ぬ振りをするのは正義じゃないって、教えてくれたのはあんたじゃない!!」
水瀬はバットを振り上げる手を止め、バットを床に置いた。
「……俺にも分からないんだよ、坂井真由。教えてくれ、俺はどうしたらいい?殺してやりたいんだ。俺の人生を奪ったお前達を……」
すすり泣く音が聞こえてきた。水瀬は誤魔化すように、顔を伏せた。
「水瀬……先生……」
呆然とした表情をして真由が水瀬の名前を呟いた。
「償います。何も考えてなかった。先生がどうなるかなんて……ただ先生は悪人だって聞いたから、だから悪人はきちんと懲らしめないとって」
どこか遠くを見つめるように、桃は視線をテーブルに落として言った。
水瀬はもう一度、鹿の剥製に目をやる。
「何を見ても何かを思い出す。お前達がここから出ていけるとすれば、それしかない」
「私達をここに閉じ込めたのは、先生じゃないんですか?」
志乃が水瀬に問いかけるとともに、分厚い扉の外から悲鳴に似た音が聞こえてきた。床が軋む音だろうか。
「里穂なんでしょ?先生そうなんですよね?」
玲が鋭い眼差しで尋ねるが、水瀬は耳が全く聞こえないかのように、黙って鹿の剥製を眺めている。
それは、あっという間の出来事だった。気付けば、水瀬は金属バットを振り上げて、鹿の剥製に殴りかかろうとした。
その瞬間、部屋の灯りが一瞬にして消えてしまった。すぐに灯りはついた。
志乃は水瀬の手によって破壊されることのなかった鹿の剥製に目を向ける。そこに水瀬の姿はなかった。
「消えた……」
志乃が独り言のように呟いた。
「あのさ、水瀬が消える姿が少しだけ見えたんだけど、何かに吸い込まれるみたいに下に落ちていったよ」
少々興奮気味に桃が言った。
その時、突然部屋がガタガタと激しく揺れ始めた。地震に似た揺れに桃が悲鳴を上げた。シャンデリアがゆらゆらと左右に揺れ、本棚から本が数冊落ちていく。
「今度は何!?」
「地震!?」
一向に止まない揺れに不思議と恐怖は感じなかったけれど、志乃は無性に泣きたくなった。
苛立ち、焦り、怒り。様々な感情が融合し、それは悲しみとなっていた。
「もう……何を思い出せばいい?」
「誰でも良いから、私達をここから出して!!」
悲鳴に近い遥の叫び声が、振動音に紛れて響き渡る。
ふと、志乃は消える直前まで水瀬が見つめていた鹿の剥製に視線を向けると、はっとした。開いた口が塞がらなくなる。
「剥製の目に……監視カメラが埋め込まれてる?」
志乃の小さな声は、収まりつつある揺れによってかき消された。
「だから、それは僕だけのせいじゃないですよね?これは僕だけの問題じゃない、『僕達』の問題ですよね?よろしくお願いしますよ、理事長」
鳩井颯太は電話相手にそう告げた。
不機嫌そうな顔の口元に微笑みを作ると、広場のベンチで待っている里穂の方に足を運んだ。
涼しい風で、里穂の髪と純白のワンピースがふわりと揺れる。
「ごめん、お待たせ」
鳩井の呼び掛けに、里穂は持っていたスマホをポケットにしまった。
「これからどうする?食事にでも行く?」
鳩井が明るく提案する。しかし、里穂は無表情のまま広場の植物や噴水をぼうっと眺めているだけで、返事はしなかった。
鳩井は里穂の隣に座り、顔を覗き込んだ。底の見えない暗い瞳がそこにはあった。
「……そりゃ、友達が死んだら誰だって悲しいよ。だけど、僕は里穂の笑ってる顔が好きなんだよ。だから、僕といる時だけでもいいから、笑顔でいてくれたらダメかな」
里穂はしばらく黙って鳩井の顔を見つめる。空っぽだったその表情には、少しだけ笑みがうかがえた。
「……そうだよね。前に進まないと」
「そうだよ、その調子」
二人はとりあえず食事をとることになり、昔行った海の見えるレストランに行くことにした。
ベンチから立ち上がり、広場を後にしようと歩を進めた。途端に、里穂の目がどこか遠くを捉えた。
「……正義感の強い子だった。死ななくていい奴が死んで、死んでもいい人間が生きてるなんて間違ってる。もっと、もっともっと真っ白にしてやる、この世界を」
*
「もう嫌だ、もうどうでもいい、もう限界!誰でもいいから早く落としてよ!」
遥が両拳を二回テーブルに叩きつけた。
「私達をここに連れてきたのが水瀬でないなら一体誰が?マッシロのことを告白すれば、許してもらえると思っていたのに……」
美和が嘆くように言う。
「この床の下はどうなってるの?地震は起こるしさぁ……」と桃。
「地震の揺れとは違うような気がする。それにあの軋む音も気になる」
志乃が冷静に指摘した。
しかし遥は、
「ここがどこだろうがどうでもいいよ!」
と声を荒らげた。そんな遥の肩を美和が優しく叩いて宥める。
思えば、遥が取り乱したり慌てている時、美和がいつも彼女をフォローしていた。逆に勉強の得意な遥は、定期テスト前では美和に苦手科目を教えていた。二人はいつも一緒で、絵に書いたような親友である。
志乃の脳内に、かつての親友である加奈の顔が浮かび上がり、ゆっくりと俯いた。
「水瀬が壁の剥製を壊そうとしていたんだけど、あの向こうには誰かがいるのかもしれない。それに、水瀬が何を見ても何かを思い出すって言っていた」
志乃は剥製が掛けられた背後を振り返りながら言った。
その時、本棚から一冊の本が落ちてきた。医学書のようだ。
「……ねえ、この部屋って姉妹の絵が多いね。でも、皆仲は良さげだけど悲しそう」
壁に掛けられた絵画を見回す桃。
桃の言う通り、年齢が近かったり遠かったりと多少の違いはあるものの、どれも姉妹を描いていることに間違いなさそうだ。家族愛を確かめ合うように抱き合ってる絵もあるが、その表情に笑みはなかった。どれも鑑賞者に憂いを帯びた眼差しを送っている。
美和は姉妹が抱き合ってる絵を指さした。
「あの絵、どこかで見たことある気がする」
「え、嘘!どこで?」と真由。
「えー……思い出せない」
「なによ、早く思い出してよ!」
「そう急かさないで」
二人のやり取りを聞いている間、志乃はスマホのある写真を探していた。
大量に保存された画像や動画の中から、記憶の奥底にあるものに縋っていると、やがて目的の写真は見つかった。
「これだ」
志乃は彼女達にそれを見せた。
それは、里穂の彼氏の鳩井の別荘に行った時の写真だった。集合写真を撮ったパーティールームの壁には、ばっちりさっき美和が指摘した絵が映り込んでいる。
美和がもう一度確認するように、壁に掛けられた絵を一瞥した。
「何でこの写真の絵がここに……」
「あとね」
志乃が続ける。
「今、ここに残っているメンバー……私、玲、桃、真由、美和、遥、杏樹の七人は里穂の彼氏の別荘に行ったメンバーなんだよ」
「偶然じゃない?」と真由が言う。
「もしかしたら、この七人が残るように仕組んだのかもしれない。というか、犯人は鳩井さんかもしれない。里穂をいじめて失踪に追い込んだ私達への復讐じゃないかな」
志乃がそう推理すると、美和のスマホから賑やかな音声が流れてきた。美和が画面を志乃達に見せる。
そこには、バーベキューの肉を食べている杏樹が映っていた。撮影主だと思しき美和が「美味しい?」と尋ねると、「うん!めっちゃ美味しい!」と何度も頷いた。
「この時は杏樹、声出てたんだよね」
ぽつりと真由が呟く。 杏樹の視線が真由を捉えた。
玲は関連する写真や動画を探しながら口を開いた。
「あの日、里穂と鳩井さんは二人が付き合って一周年記念だって言っていたっけ。別荘に行くきっかけは、私と里穂の幼馴染みが亡くなって落ち込んでいたから、皆を誘って行ったんだよね。里穂を元気づけようって」
「その幼馴染みって、さっき言っていたマッシロのきっかけを作った人?」
真由の質問に、玲はこくりと頷いた。
志乃は皆がバーベキューに夢中になってる間、里穂と鳩井がテラスの隅でなにやら楽しそうに話し込んでいる動画を再生した。
動画が残り十秒となり、この動画は手がかりにならないだろうと志乃が別の動画を再生しようとした時だった。
志乃の目はある一点に釘付けになる。反射的に動画を停止した。
残り五秒の静止画に、その人物は映っていた。二人を奥から見つめている複雑そうな表情。再生してみると、その人物は背を向けてカメラから消えてしまった。
「だけどね」
玲が声のトーンを下げた。
「里穂を元気づけるつもりがその後、鳩井さんに彼女がいるんじゃないか、って更に元気がなくなっちゃって……」
玲の言葉に、志乃はある確信を持った。
目を針のように細くして、あの動画に映り込んでいた人物の名前を呼ぶ。
「ねえ、遥。さっきから黙ってるけど、どうしたの?」
「は、はぁ?な……何でもないけど」
顔を強ばらせ、肩を縮める遥。動揺しているのは明白だった。
「別荘に行った日、私、遥の様子が変だったと思うんだけど」
「は……どこが?」
「どういう意味?」
玲が割って入ってきた。
「なんかわからないけどさ……」
そう言って、志乃はあの動画を再生しようとスマホを操作した。
「ちょっと、志乃!適当なこと言わないでよ!」
「……遥、スマホ見せてよ」
志乃に気を取られている隙に、美和は素早くテーブルに置いていた遥のスマホを奪い取った。遥の顔が真っ青になる。
「ちょ、美和!やだ、返してよ!」
美和が握り締めた遥のスマホを、遥は無理矢理にでも奪い返そうと美和の腕を強く掴んだ。
「遥、何するの!」
戸惑った顔をする美和。
「返して!返せ!返せ!返せ!!」
「ちょ、やめて、痛い、痛いってば!」
なんとか遥はスマホを取り返すと、目の前で呆然とする美和の姿に我に返った。「ごめん」と小さな声で謝る。
「遥、どうしたの?何でそんなに興奮してるの?」と桃が指摘する。
「まさか……鳩井の浮気相手はあんた!?」
「違う、違う!」
遥が真由の推測に、首をぶんぶん横に振った。
「あ、そういえば……」
志乃が切り出す。
「あの日の帰り、遥と鳩井さんが遅れてきた」
「あー、そういえばそうだったな」
真由も呆れたようにため息を吐いた。遥に鋭い視線が向けられる。
居場所がどんどん失われていく遥は、助けを求めるように美和を見た。
「ねえ、美和は信じてくれるでしょ!?」
しかし、美和は視線を落として、
「……あの時、遥の顔は火照っていたかも」
と静かに告げた。
絶望的な目を美和に向ける遥が志乃にとって哀れに思えてきた。
「……何でそんなこと言うの」
遥の問いかけに、美和は答えなかった。
遥は自分を囲む猜疑の眼差しを見渡した。
「ちょっと……本当に私は何もしてないんだよ!」
反応する者はいなかった。
代わりに、桃が新たな話題を持ち出した。
「遥が里穂にいじめられ始めたのって、このバーベキューの直後だった気がする。里穂は遥が自分の浮気相手だと知って……」
遥が顔面蒼白で首を左右に振る。
美和は呟くように言った。
「……そのせいで、私まで里穂に嫌がらせされてたわけ?」
「ち、違う……!」
半泣き状態の遥。
乾いた高い音が部屋に響いた。遥は美和に殴られた頬を押さえた。
「ふざけんな!ふざけんな!ふざけんな!!何が違うよ!!ふざけんな!!」
美和が遥の肩を何度も揺さぶった。「違う!違う!」と遥が弁解しようとしても、美和の憎悪は加速していった。誰も美和を止めることはできなかった。
すると、二人が揉めている隙に桃が遥のスマホを奪い取った。それに気付いた遥が取り乱した。目が血走っている。
「ねえ、返して!返してよ!返してってば!!」
遥の叫び声を無視して、桃は遥のスマホの写真をチェックしてみる。
桃は信じられないという顔でスマホを眺めていた。それを真由にも見せると、真由は軽蔑を含んだ眼差しで遥を一瞥した。
「私にも見せて」
「やめて!!見ないで!!」
志乃は桃から遥のスマホを受け取ると、写真フォルダを確認してみる。
そこには、別荘の日の鳩井の写真だらけだった。しかも、それは遥や誰かとのツーショットではなく、完全に隠し撮りだ。
「返して!!ちゃんと話すから!!返してよ!!」
志乃は遥を見た。
髪はボサボサになっており、額から冷や汗が流れている。流石に哀れになり、志乃は遥の言葉を信じてスマホを返した。
遥は返却されたスマホを取られまいと腕で隠すと、乾いた唇を舐めた。
「……鳩井さんのことが好きだった。好きになっちゃったんだよ。里穂が鳩井さんと付き合い始めた頃たまたま街で会って、三人でカフェに行ったんだけど、その時点で私は一目惚れしていたの。そして、Twitterで里穂と鳩井さんがデートで行った場所を調べに行ってみたり、鳩井さんが働く病院に働く姿を見に行ったりしていた。あと、里穂のスマホの暗証番号が二人が付き合い出した五月三日だと分かって、里穂のスマホから鳩井さんの携帯番号を調べて無言電話を何度かしたこともあった」
「あのさ、それ完璧にストーカーだから!」
真由が呆れ果てる。
「……人を好きになったことがないから、どうしていいかわかんなかったんだよ。それで抑えきれなくなって、あの日鳩井さんを呼び出して告白した。勿論振られたけど。でも、嫌いじゃないよって言ってくれただけでも嬉しかったの。そのことを里穂は知らないけど、バーベキューの後に里穂に『最低な彼氏だから別れた方がいい』って自分のものにしたくて言っちゃって、その日からいじめられるようになって、気付いたら仲の良い美和まで巻き込まれてた……」
遥は美和の方に向き直った。
「私が全部悪かった。ごめん」
美和はもう怒鳴ったり体当たりすることはなかった。静かに俯いている。
その時だった。
「きゃっ!な、何!」
遥の方から足枷の音がした。それに伴って、水が湧き出るような音も加わっていた。
志乃はテーブルの下から、遥の足元を覗いてみる。やはり、『また』だ。
「助けて!誰か!」
「鳩井さん、もう許して下さい!」
桃が天井に向かって叫んだ。だが、遥は即座に首を左右に振った。
「違う!鳩井さんじゃない。鳩井さんは里穂と別れて新しい彼女がいるの!だから里穂のためにこんなことしない」
桃に向けられていた遥の視線は、いつの間にか杏樹に移っていた。そこには、憎しみと怒りが混ざり合っている。
「鳩井さんのことなら何でも知っているんだよ!卑怯だよね!喋れないのをいいことに、ずっと黙ってて!」
杏樹の顔が険しくなった。遥を見る目が睨んだ。
「全部知ってるよ。あんただって鳩井さんと……」
遥がそう言いかけると、部屋の照明がチカチカと点滅を始めた。全てを観念したように、遥は黙って天井を煽いだ。
そんな彼女を無表情で見ていたのは、美和だった。美和を守ろうとすることもなく、かといって罵ることもなく。
タイムリミットは刻一刻と迫っていた。
「ごめん、私のせいで……」
遥がそう告げたところで、部屋は闇と化した。そして、灯りがつく。
美和はもう誰も座っていない遥の席を呆然と見つめていた。
「鳩井さんと何があったの?」
杏樹に問いかける玲。
「何を隠しているの?」と志乃。
すると、美和が目の前にあった小物を杏樹の頭に投げつけた。
「痛っ……」
最後に聞いたのはいつだっただろうか。久しぶりに聞いた気がする。杏樹の声を。
誰もが口が塞がらない状態で、目を大きく開けていた。
杏樹をこれでもかというくらい迫力ある形相で睨みつけ、「許さない」と言い放つ美和以外は。
放課後の教室に、透き通るような音色が響き渡った。
仰げば尊し。来月の卒業式に歌う曲で、明日の歌のテストの課題曲でもある。
歌声の主である亜矢は、教科書を開いて教室の後方をうろうろと歩きながら歌っていた。一人机で問題集と向き合っていた加奈が溜め息をつく。
「ちょっとうるさいよ。音楽室でやって」
「そうだよ」
スマホを片手に遥も同意した。
「でも、音楽室は吹部が使ってるんだよ。もう明日なんだからいいじゃん」
「なんなら、杏樹みたいに声が出ません、って嘘つけば?」
遥がスマホを操作しながら呟いた。
「杏樹が声が出ないのって嘘なの?」
「知らない」
加奈の疑問に、遥はぶっきらぼうに答えた。
「なんかさ、このクラス呪われてるよね」
内容に反して、亜矢の口元は綻んでいた。楽しそうに亜矢は続けた。
「水瀬も辞めちゃって、里穂も行方不明じゃん」
「私は海外に転校したって聞いたけど」
「夜逃げじゃなかったっけ」
「そういえば、死んだ説もあったよ」
*
「どういうことなの!声出るんでしょ!ふざけんな!」
さらにテーブルにあるものを投げようとする美和の右手を、玲が慌てて制した。
「本当のこと言って」
志乃は顔面蒼白の杏樹を見つめて言った。青くなっていく唇を徐に杏樹が開いた。
「……声が出なかったのは嘘じゃない。最初の一ヶ月くらいまでは」
「最初の一ヶ月!?」
「ずっと黙ってたってこと!?」
真由と桃が杏樹を凝視した。再び杏樹は押し黙った。
「この嘘つき!なんとか言えよ!」
美和が苛立ちを堪えきれず怒鳴った。
「鳩井さんとどういう関係なの?大事なことだから答えて」と志乃が尋ねる。
「え?そんなに大事なこと?」
真由が首を傾げた。
「大事だよ!それ本当なら、犯人は里穂だから」
「浮気相手への復讐?」
桃が訊く。
杏樹は、以前とは打って変わったボソボソとした声で話し始めた。
「……私が鳩井さんと関係を持つようになったのは、里穂と鳩井さんが別れてから。お互い好きなアーティストが同じでよく一緒にライブとか行くような仲になったの。特にバーベキューの後、鳩井さんからLINEがよく来るようになって頻繁にやり取りしたし外出もした。だけど、向こうから恋愛感情を寄せられていることを知った時、里穂のことを考えて出かけの誘いも連絡も無視した。だけど、里穂がいじめられ始めた頃、鳩井さんに里穂と別れたから付き合わないかって……」
「杏樹は本当に、鳩井さんのことが好きで付き合っていたの?」
「うん……鳩井さんに好意を寄せていたのは事実だよ。それに、皆が里穂をいじめていて自分も何かしなきゃいけないって空気になっていたから、いじめの一環だった」
「何それ。こっちは別にそんなことまで頼んでないから」と美和。
「でも、犯人は里穂じゃない」
杏樹がきっぱりと言い張った。顔色は悪いが、その瞳には意志の強さを感じる。
「それ、どういうこと?」
志乃が身を半分乗り出した。
杏樹は志乃の視線を交わらせることなく、ゆっくりと俯いた。ぎゅっと自分自身を抱きしめている。
「犯人は里穂じゃない……だって、里穂は死んでるんだから」
「冗談でもそんなこと言わないで!!」
激昂する玲の声が部屋に響いた。
玲は杏樹を鳥肌が立つくらい鋭い目付きで睨んだ。ここまで激怒する玲を初めて見た志乃は、驚いたように彼女を見た。
「だけど本当なの、玲……」
「言ってることも、やってることも無茶苦茶!!何でそんな嘘つくの!?」
「嘘じゃない。『今から死ぬ』ってメッセージが来て、港の写真が送られてきた」
「いつの話?」と志乃。
「十二月に入ってすぐだよ」
十二月。それは二つの出来事が重なり合った月だった。もしかして、それらはリンクしているのかもしれない。
志乃が切り出した。
「その頃だったよね。里穂が学校に来なくなったのも、杏樹の声が出なくなったのも」
「……最初は何かの冗談かと思った。気分が悪くなって返信はしたけど、ずっと既読にならないから写真の場所に行ってみたら、埠頭の先端ギリギリに里穂の車椅子だけが残ってたの」
杏樹の肩がぷるぷると震えている。
きっとそのショックで声が出なくなってしまったのだろう。
「そのLINEのやり取り、見せてくれる?」
「充電切れだから無理……」
杏樹は真っ暗な画面を見せて首を左右に振った。
「実際に飛び込むところを見たんじゃないなら、悪戯として里穂がやったんじゃないの?」
真由が首を傾げた。
「でも、十二月以降里穂を見た人はいないから、本当の可能性は高いよ」
志乃が反論した。
「……もうこの話はやめよう。絶対嘘だから。声が出ないって嘘ついていた人を信じちゃダメだよ」
玲が唇を噛み締めた。そして、俯いてさらに続けた。
「大体仮に自殺したとしても、何で私じゃなくて杏樹なの?何でそんなに仲良くない杏樹に連絡するの?そんなのおかしいよ……」
「何でって、彼氏盗られた当てつけしかないじゃん」
美和が冷たく言い放つ。
「里穂はそんなことで死なない!杏樹の言ってることは全部大嘘だから!」
「……それは私が完全に悪かったよ。だけど、まさか死ぬなんて」
杏樹が右手で力強くテーブルクロスを握りしめた。
杏樹が右手で力強くテーブルクロスを握りしめた。
「LINEが来る前日、里穂に呼び出されて会いに行ったら、鳩井さんを返せって迫られて別れたことを教えると、別れた理由を聞かれて、鳩井さんが医療ミスで人を死なせたけど事故だって平気な顔して話すのが嫌で別れたことを伝えたら、里穂が急に泣き出したの」
「そのショックで自殺したの?」
「確かにショックだけど、死ぬほどのこと?」
志乃の問いかけに、真由が冷静に指摘した。
その時だった。前触れもなく、突然灯りが消えた。ただ、キャンドルの灯りは点いてあるせいか、僅かに部屋は明るい。
志乃は自分が消えていないことを確認すると、向かい側に青白い顔が浮かんだ。
「うわ、眩しい」
真由のスマホの明かりによって顔を照らされた美和が、眩しそうに目を細めた。
「誰か消えた?」
「消えるなら杏樹でしょ」
美和の言葉を確認するように、志乃はスマホの明かりを正面に向けた。そこにはしっかりと杏樹の姿がある。もともと顔色が悪いせいか、幽霊のようにも感じられた。
「杏樹ならいるよ!」
「じゃあ、全員無事ってこと?」
「だね。単なる停電かもしれない」
玲の声に、志乃は頷いて答えた。
すると、桃がスマホを天井のガラス張りされた部分に照らした。群青色だったそこが、朝日が現れたように明るくなった。
「嫌!!」
突然、桃が叫び声を上げた。
「どうしたの?」
「い、今、一瞬だけ人影が見えた!」
「変な冗談やめてよ!」
「……もしかして、里穂の幽霊とか?」
「だから死んでなんかない!」
玲の言葉を最後に、その場に沈黙が流れた。
ふと、志乃はある記憶がよみがえった。
「去年にもこんな風に長い停電があって、街ごと真っ暗になって信号機も消えて怖かったよね」
「あったね、そんなこと」
桃が同意する。
「いつだっけ?」
「二月二十七日」
玲が即答した。
「よく覚えてたね」
感心しているのか、驚いているのか、興味深そうに真由が言った。
杏樹が重い口を開いた。
「鳩井さんの医療ミスも、その停電の時だった。病院で非常電気に切り替わるまでの間、真っ暗で医者も患者も大騒ぎになって、そんな時に限って喘息の発作を起こした患者がいて、急いで点滴をしないといけなくなった。それを鳩井さん一人でやることになって、真っ暗の中で薬の載ったトレイを落としてしまって、喘息の薬と麻酔の薬が入れ替わったのに気付けなかった」
「嘘……」
玲が絶句した。
その時、部屋の灯りが一斉に点灯した。一応辺りを見回したが、やはり全員いる。
志乃の視線はやがて顔面蒼白の玲に移動した。
「……鳩井さんが死なせた患者って喘息だったの?」
半信半疑に尋ねる玲に、杏樹は静かに頷いた。
「絶対嘘だ!!」
玲は現実逃避するように、頭を抱え込んだ。
志乃は躊躇いながらも玲に聞く。
「もしかして……亡くなった玲と里穂の親友の人が、鳩井さんの医療ミスで亡くなった人じゃないのかな」
「やめてよ、志乃!変なこと言わないで!」
「嘘……でしょ……」
力ない声で呟く杏樹。二人のショックに追い討ちをかけるつもりはなかったが、志乃はさらに続けた。
「彼氏が親友を死なせたと杏樹の話で気付いて、そのショックで自殺したのかもしれない」
「もうやめてよ、志乃!どうかしてるよ、こんなの。何で他人事なの?全部鳩井さんのせいにして、皆だって里穂をいじめてたじゃん。何も思わないの?私達が里穂を追い詰めたかもしれないんだよ?」
「……ごめん。だけど、ずっとここにいたくないでしょ?」
志乃はそう言って、
「親友が亡くなった日はいつなの?」
と尋ねた。玲は怒るどころか、もはや何も言わなかった。静かに項垂れている。
志乃はスマホを開いて、Twitterのアイコンをタップした。過去の投稿を一気に遡る。
「『いいことしてる人間が死んで、死んでもいいようなクズ共がのうのうと生きている。そんな世の中、間違ってる!腐った世界を変えるんだ!』この投稿を境に、正義のアカウントだったマッシロは暴走し出した。そして、投稿の日付は去年の二月二十八日、停電の次の日だよ」
玲が徐に口を開く。
「停電の少し後に、私にも連絡は来た。私も里穂もあの停電の時何かあったんじゃないかって思ったけど、鳩井さんは病院で停電が起きた時のことを凄く丁寧に説明してくれて、これ以上は父親や鳩井さんに迷惑かけたくないから信じようって、里穂が言ってた」
「里穂がそんなことで引き下がる?」
真由が眉間に皺を寄せた。
真由の真横にいる桃は首を横に振った。
「大好きな人から言われたんだから、信じちゃうよ」
「……でも、結果的に私が余計なことを言わなければ良かった話だった」
杏樹が自虐的な笑みを浮かべる。
「だけど、杏樹はそのことを知らなかったんでしょ?」
志乃の言葉に、杏樹は頷く。
「大体鳩井さんはどうしてんの!?そもそも悪いのはあの人でしょ!」
真由が勢いよく机を叩いて、怒りの矛先を変えた。
その時、杏樹の肩がびくりと揺れた。黙って足元を凝視している。水音が微かに聞こえてきた。
「私も消えるってことか……」
チカチカと点滅するシャンデリアを見つめながら、妙に落ち着いた様子で杏樹は呟いた。
「やっぱり里穂の呪いなんだよ」 と美和。
「呪いなんてあるわけないじゃん!」
志乃が反論したところで、電気は一気に消えた。
やがて灯りはついたが、志乃の向かい側の席に杏樹の姿はなかった。
夕日に染まる教室に、杏樹と亜矢と美和はいた。
亜矢は窓の外の景色を眺めながら、深い溜め息を吐いた。
「学園祭も終わって残すは卒業式だけか。しかも、私達全員彼氏出来ずじまいだし」
美和も頷いて同意するが、杏樹は無言のまま視線を床に落とした。
突然、慌てて遥が教室に入ってきた。ただ事ではないと知らせる遥の表情に、三人は呆気にとられた。
「S大の指定校推薦に私達のクラスから願書が二つ出たんだって!」
「マジで!?」
亜矢が目を見開いた。
「S大の指定校推薦は一枠しかなくて、里穂が狙っていたのにヤバくない?てか出したの誰?」
杏樹が言い終えるのと同時に、廊下側の様子を気にしながら遥が人差し指を唇に置いた。美和が廊下側に振り返る。
そこには車椅子に乗った里穂が無表情でこちらを見つめていた。瞳には、何の感情も宿していないように感じる。
時が止まったかのように、全員の動作が一時停止した。やがて里穂は視線を教室から外すと、さっさと車椅子を動かしてしまった。
「……聞こえてたかな」
「別に聞こえててもいいでしょ」
心配そうにもう里穂の姿はない廊下を一瞥する遥に、亜矢が笑って答えた。
*
「なんでもいいから、早く里穂に謝ろうよ!」
「里穂が自殺したのは鳩井さんのせいなんだよ!」
「だから里穂は死んでなんかないってば!」
桃、真由、玲がまた一つ増えた空席を見つめながら叫んだ。真由は玲に鋭い視線を向ける。
「いい加減に事実を受け入れなよ!あんたと里穂の親友は鳩井さんのせいで死んだ!それを知った里穂は自殺したんだよ!」
「もうやめて!!」
玲が涙混じりの声で叫ぶと、再びシャンデリアがグラグラと揺れた。地響きのような音とともに、棚から本や小物が落下していく。すぐに揺れが収まったが、部屋の惨状は悪化していた。
桃は目を瞑ると、
「神様、お助け下さい」
と祈りを始めた。そんな桃の手を真由は優しく握った。
「里穂が死んで一番悲しむ人間……」と志乃は思考を巡らせる。ちらりと暖炉台に据えられた本を見た。
「ヘミングウェイ。ヘミングウェイは最後ショットガンで自殺した。ヘミングウェイのお父さんの職業は有名な医者だった。里穂のお父さんは議員で病院の理事長で、元々は医者だった。つまり、里穂の家族と一緒」
「里穂のお父さんが犯人だって言いたいわけ?」
玲の問いに、志乃は黙って頷いた。
「そんなわけない!ただの偶然だよ!」
「この部屋に偶然なんかない。この部屋の全てには意味がある」
志乃は剥製、時計、絵画へと視線を移していった。
「今度は里穂の父親に謝れってこと?」
「もう分かんないよ。これ以上何を謝るの?」
目頭を押さえる真由とテーブルに突っ伏す桃。
美和は志乃を睨みつけるように目をやった。
「志乃が思い出そうって言うたびに、今まで何人落ちた?里穂にしたことを思い出して、亜矢と加奈が落ちた。次はマッシロでしたことを思い出して園子と水瀬が落ちて、鳩井さんのことで遥と杏樹が落ちた。次は誰が落ちるの?私はもう耐えられない……」
「『何を見ても何かを思い出す』。ここから出るにはそれしかないよ。水瀬も言ってたんだから」
「水瀬が言ったからって、鵜呑みにしていいの?」
真由の言葉に、玲も何度も頷いた。
志乃は眉ひとつ動かさず、全員をゆっくりと見渡した。
「私は間違ってなんかない」
「まあ、落ちた人も自業自得だけど」と真由。
「遥はただ人を好きになっただけじゃん」
美和が反論する。
「真由だって里穂をいじめてたじゃん」
玲の指摘に、
「それは全員一緒。自分はいじめていないって玲は言うけど、何もしないで傍観していたのは罪じゃないの?玲が里穂を助けていたら、そもそもこんなことになってなかったんじゃないの?」
と、玲を責め立てる真由。しばらく重い沈黙が流れる。
志乃は独り言のように呟いた。
「尾澤和博、県議会議員のドンであり、県内一の病院の理事長だった。しかし、様々な疑惑によりその地位を追われることになる。街で里穂の父親に逆らえる人はおらず、里穂があれだけヤバいことが出来たのも父親がバックにいたお陰だった。自分達も里穂に逆らえなかったけれど、建設会社から賄賂を貰っていたことや隠し子がいたなど様々な噂が流れて、父親の失墜と共に里穂もいじめられるようになった。里穂の自殺のことは誰も知らなかったから、父親が世間体を気にして揉み消したのかも」
「……里穂のお父さんは悪い人ではなかった。恵まれない国の子供達にワクチンを送ったり、正義感もあって優しかった。里穂がマッシロの活動を始めたのは、お父さんへの憧れもあったのかもしれない」
そう告げる玲は「だけど」と続ける。
「昔は仲良かったけど、最近は自分がいなくなれば父親は清々するんだって言っていた」
「そもそも鳩井さんの医療ミスを揉み消したりしなければ、里穂は自殺しなかったんじゃない?娘の自殺の原因が自分にあるのに、何で自分達に復讐なんてするの」
真由がそう疑問を口にした。すると、美和が閃いたように言った。
「そういえば、学校で補習している時に何度か水瀬と父親が話しているところを見て、水瀬に聞いたら家のことで相談されているって言っていた。内容までは教えてくれなかったけど」
「水瀬も金で買われてここに来たってこと?なんなら、里穂の父親もマッシロで懲らしめてやれば良かった」
真由が溜め息をつく。
「……何の話?」と志乃が尋ねた。
「里穂のマッシロが消滅した後も、自分達だけでマッシロを続けていたんだよ。パーティのコンパニオン、パパ活、キャバクラとか色々やって鼻の下を伸ばした汚いおっさんに桃が囮になって、おっさんを連れ出してホテル街を歩いて写真撮って罰を与えた。相手が差し出した金を貰ったこともあったけど、今はもうしていない」
開き直るような口調で真由は言った。
しかし、桃は真由の方を向くと、申し訳なさそうに頭を下げた。
「実は私、真由には内緒であの後も続けていた」
真由は口をぽかんと開け、やがて心配そうに桃を見つめた。
「……大丈夫だった?」
今までのキツい口調とは違い、穏やかで心から桃を心配しているように思えた。
「今はしていないけど、パーティに一人で来たら、男の人に家庭環境とか凄い聞かれてホテルの方に歩いて行くと、『まさかホテルに行くつもりじゃないよな?』って思いっきり怒られた。ファミレスに行って、お金あげるから二度とこんなことするなって言われた。援交と勘違いされたみたい。その人、自分にも同じくらいの子供がいて、最近大人びてきて何話したら良いかわからないって相談されて、大人も悩んでるんだなって思った」
「何でその人がそんなとこに来てたの?」
玲が問う。
「貧困調査の仕事なんだって」
玲はスマホから一枚の写真を探して、それを桃に見せた。
小中学生くらいの頃の里穂と父親のツーショットだった。高い地位の割には堅苦しい雰囲気はなく、ごく普通の父親としての姿がそこにはあった。
「この人が里穂のお父さん。生活向上とか地位向上とか色んなところに出向いて話を聞いて回っていたんだって。桃が言っているおじさんは里穂のお父さんじゃないよね?」
「ごめん、顔までは覚えてない」
顔を伏せる桃。
その時、志乃達のスマホが一斉に鳴った。すぐさまスマホを開いてみると、マッシロからのツイートを知らせる通知が表示されていた。
再びTwitterを開いてみると、そのツイートには里穂の父親が未成年の少女とホテル街を歩いて週刊誌に撮られた写真が載せられた。
「色々疑惑はあったけど、これが失墜の発端になった」
志乃がツイートを見つめて呟く。
「ていうかこの女子のバッグ……私が桃にあげたやつだ」
真由が画像をまじまじと見る。
桃は黙って真由を横目で眺めていた。その顔に表情はない。
すると、志乃は真由と桃をギロりと睨んだ。
「分かった!全部里穂への復讐だったんでしょ!さっきの話には嘘がある!真由達はさっき里穂から距離を取っていたって言っていたけど、今は真由と桃はその後、またマッシロに戻ったって言っていた。矛盾してるよね。説明してよ」
二人は俯いて黙り込んだ。
「言えないなら私が代わりに言うよ。二人が付き合っていてキスしているところを里穂に見られて、親にバラされたくなかったらマッシロに戻れって脅されたんでしょ!」
「付き合ってる?何言ってんの!ただの友達だから!」
顔をしかめて反論する真由に、美和は、
「いやいや、二人が付き合ってるなんてクラス皆知ってるから」
と乾いた笑いを漏らした。志乃はさらに付け加える。
「追い詰められた二人は里穂をどうにかして窮地に陥れようと考え、里穂のバックにいる父親をハニートラップで嵌めようと思いつき、桃がホテルに誘い週刊誌に写真を撮らせ、結果里穂の父親は失墜し、いじめが始まった。全ては二人の目論見通りに事は進んだんだよ!」
「デタラメ言わないで!」
「デタラメじゃない、真実だよ。早く懺悔しなよ!」
そう言い、志乃は天井に向かって、
「里穂のお父さん、早くこの二人を落として下さい。そして私達を解放して下さい!」
と思い切り叫んだ。
「志乃?あんた狂ったの?」
状況についていけないという真由。
桃は「もう分かったよ!」と志乃を睨んだ。
「写真の女子は私だって認める。軽はずみな行動で里穂のお父さんに迷惑をかけたことは謝るけど、わざとじゃないの!本当に里穂のお父さんだとは知らなかったの!」
弁解しようとする桃の足元から、水音と足枷がガタガタ動く音が聞こえてきた。
故障したように点滅を繰り返す照明に、志乃達はこれから起こることを悟った。
「私……落ちるんだね」
涙ぐむ桃の手をしっかりと真由は握った。よく見ると、二人の指には指輪がはめられている。
「大丈夫だから!絶対この手を離したりしない」
「ごめんね、マッシロなんてどうでも良かった。もう少しだけお金が欲しかったの」
どうして、と切なげな表情で真由が桃を見る。桃は溢れ出る涙を頬に伝わせながら、口元に笑みを浮かべた。
「だって、卒業したら一緒に住もうって約束したじゃん。お金、貯まったんだよ!これからはずっと一緒にいられるよ」
電気が消えた。
真っ暗な部屋には真由の「桃」という声だけが微かに耳に届いた。
車椅子に乗りながら誰もいない教室にやって来た里穂は、ゴミを詰め込まれた机の中を漁っていた。その表情は危機迫っている。
机に目的のものはなかったのか、今度は黒板前に置かれたゴミ箱をひっくり返そうとすると、車椅子から落ちてしまう。
それでも構わず里穂は無我夢中で何かを探すが、出てくるのはペンや文庫本や教科書ばかりだった。全部彼女達がゴミ箱に捨てた物だ。
やがて茶色い手帳を見つけると、中から一枚の写真を取り出した。
里穂の口からは荒い息が漏れている。里穂は目を閉じると、その写真を大切そうに胸に抱きしめた。
*
真由が掴んだ桃の手はなかった。
真由は空間の出来た桃の椅子を無表情で見ると、机に突っ伏した。
「私達が助かるために懺悔させようとしていたけど、結局誰も助かってなんかない。むしろ犠牲者が増えただけ」
美和が静かに志乃を責める。
「思い出したら消されるから思い出さない方がいいって忠告したのに、桃は助けてあげられたかもしれないのに、責任取ってよ。真由も志乃になんか言えば?」
美和に促され、真由は身体をむくりと起こすと、怒りのこもった眼差しを志乃に向けた。
「私達に思い出せ思い出せ思い出せって言い続けて嵌めるつもりだったんでしょ!!」
「あれは皆で助かるために、最善の手を打っただけだよ!」
「話を逸らさないで!桃が死んだら何にもならいんだよ!!」
怒りに任せてテーブルを何度も拳で叩くと、真由は再び突っ伏した。
「……卒業したら一緒に住もうって私が適当に言った約束を、桃は覚えてた。ずっと可愛げがないって周りに言われ続けられた私を、桃は初めて可愛いって言ってくれた」
真由は顔を上げると、志乃を見つめて訴えた。
「私が勝手にマッシロの活動をしておっさん達を嵌めて、結果里穂の父親まで巻き込んだことは謝るよ。里穂へのいじめが始まった原因が私達だというなら、それは全部私の責任だから。だから……全部謝るから、桃を返せよ!!」
その時、真由の足枷が揺れ、水音も混じった。自分の状況を真由は一切気にすることなく、志乃を睨んだ。
「何が思い出せだ!!最初から全員消すつもりだったんだろ!!」
「そうじゃない!私はここから出たいだけ」
やがて部屋の灯りは点滅し出した。憎々しげに志乃を見ていた真由の目は、もう志乃をとらえていなかった。
真由はさっきまで桃の手を強く握り締めていた自分の右手を見つめ、その温もりを頬で感じた。
真由が目を閉じて指輪にキスをするのと灯りが消えたのは、ほぼ同時だった。
点灯すると、真由の姿はなかった。ここにはもう、志乃と玲と美和しかいない。
「……皆いなくなった」
美和が小さく呟いて頭を抱えた。
「玲、他に里穂の父親のことで思い出せることはある?」
「またそれ!あんたいい加減にしてよ」
美和が志乃に食って掛かった。
「黙ってよ!私達にはそれしかないの!」
「今度は玲を消すつもり!?」
美和の怒鳴る声を無視して、「信じて」と玲に訴えかける志乃。
「……志乃は、里穂のお父さんが犯人だと思っているの?」
玲が尋ねた。
「さっき投稿されたマッシロのツイートは、きっと私達に里穂のお父さんのことを思い出せって強く訴えてるんだよ」
「思い出せって言うけど、そんなのもかしたら水瀬が言っていたことは真犯人に脅されて言ったことで、罠かもしれないじゃん」と美和。
「それを言っていたらキリがないから」
うんざりしたように息を吐く志乃に、美和は頬杖をついて皮肉めいた笑みを向けた。
「志乃って頭良さそうだけど、残念な子だよね。いつも適当なことばかり言ってさ」
「美和、志乃は助かろうとして色々考えてくれるだけだよ」
「は?玲はこんな奴の味方をする気?」
「私は敵味方じゃなくて、自分が助かりたいだけ。里穂のお父さんは多分、犯人じゃないと思う。医療ミスは里穂のお父さんにとっては知られたくないことで、それを思い出させようとしてるなら矛盾している」
「じゃあ、このマッシロの投稿の意味は何?」
「それは私にも分からない……」
その時、再び部屋が激しく揺れた。三人は悲鳴を上げたり頭を守ることもせず、互いに見つめ合っていた。
揺れが止まると、志乃と玲は部屋を見回した。
「また何か思い出そうとしているならやめて!」
美和の懇願を無視し、二人は記憶に値する物を探した。
玲はそばにあった鳥籠に目を向け、スマホで何かを調べようとする。しかし、その様子を志乃は気付けなかった。
「そういえば、里穂のお母さんは?」
「里穂が小さい時に亡くなっているよ」
志乃は後ろの鹿の剥製の方に振り返った。
「あの剥製の目には監視カメラが埋め込まれているの。確実に私達を監視している誰かがいるはず」
「……この中だよ」
美和がぽつりと言った。
「可能性があるとしたら、それしかない。この三人の中に真犯人がいるんだよ」
「でも、水瀬がとった最後に剥製を壊そうとした行動が理屈に合わない。水瀬が私達のためにあれを壊そうとして落とされたんだから」と玲が言う。負けじと美和が反論する。
「仮にカメラだとしても、誰も見ていない可能性だってある。カメラを置くことでカメラの先に人がいると思わせているだけで、本当はこの中に犯人はいるんでしょ。私達の苦しむ姿を見るには一番の特等席だから」
「どうしてそこまでして、私達の中に犯人がいるって思いたいの?」
訝しげに志乃が聞くと、美和はスマホに保存された画像をスクロールした。
「まだ皆がいた時、私達の共通点をあげて里穂をいじめていたメンバーだって志乃は言っていたけど、玲も志乃も実際には里穂に対して直接いじめをしていない」
名前を呼ばれた玲は、びくりと肩を揺らした。
「……私は直接的ないじめはしていないけど、親友を見捨てたと思われても仕方ない。でも、私達が目指していたマッシロはこんなのじゃないって分かって欲しかっただけ」
「私も玲と同じで、見て見ぬ振りをしていた」
「全然意味が違う」
美和が歪んだ笑みを浮かべた。
「だって、玲は里穂の親友だったんだから。ねえ、何で志乃はいじめに参加しなかったの?」
「あんなの、馬鹿馬鹿しいと思ったから」
「そう思うんなら、止めることだって出来たよね?」
「でも、皆の里穂に対して仕返ししたいって気持ちは知ってたし……」
「偽善者!本当は私達のこと見下してたんでしょ」
「そんなこと……」
「私が聞きたいことはそんなことじゃない。ねえ、本当は何か別の理由があったんでしょ」
「疑うの?」
「自分だって散々人を疑ってきたくせに」
「私は罪を償わなきゃいけない人にそうするよう言ってきただけ」
美和は志乃を視線から離すと、自分の横に並んでいる空席を見つめ、「遠い」と呟いた。
「今のこの席だって、志乃は私と玲とは遠く離れている。どうしてなんだろうね。自分が犯人と分かっても危害を加えられないようにしている保険なのかな?」
「そんなのは本当に偶然だよ」
「席のことだけじゃ強引過ぎるよ」
志乃の言葉に、玲も頷いた。
「美和、この部屋にある物から思い出してきたのは里穂のことで、それが偶然だと思う?私や里穂のお父さんや鳩井さんが犯人なら納得出来るけど、志乃には動機が無いよ」
途端に美和は口元を綻ばせた。
「隠し子は?」
「隠し子?」
志乃が聞き返す。
「前に水瀬と話していた時に、里穂の家が凄い金持ちだから、隠し子とかいたりしてって冗談で言ったら、真顔で軽はずみなことは言うんじゃないって注意された」
「そりゃ、そんなこと言ったら注意されるよ」
「違う、本当はいるんだよ。クラスの中に隠し子がいたからなんだよ。もしかして、志乃って本当は里穂の姉妹だったりして」
「だから違うってば」
「そうだ!志乃はお金で雇われたんだ。水瀬も志乃も尾澤家に雇われたんだよ。里穂の父親って失墜したって言っても、まだ病院が残ってるくらいでしょ?お金ならいっぱいあるはず」
「……お金のために、私がクラスメイトを消していったって言いたいの?」
「飛躍し過ぎだよ、美和」
「志乃、前言ってたよね。将来は都会の高級マンションの最上階に住んでみたいって。それにはお金がいるって」
「馬鹿馬鹿しい。そんなのちょっとした願望だよ。それに、いくら貰ったって割に合わないよ」
「そう?美味しいバイトだと思うけどなぁ」
再び美和がにやりと微笑んだ。
「あ、思い出した」
「いい加減にしてよ」
「私が目覚めた時、他の皆はまだ眠っていたのに志乃だけ起きていた」
「は?」
「絶対確かだよ。私が二番目だって思っていたけど、違うんだ。志乃はずっとこの部屋で起きていた。ここで私達を監視してたんでしょ!」
「違う!私だって眠らされていた」
「ずっと私達に思い出せ思い出せって、言い続けていたのも志乃だった。そうやって私達に里穂に対して懺悔させようとしてきたんだ!」
「違う!」
「返してよ!皆を返してよ!!」
「どうすれば分かってくれるの?」
「しらばっくれないでよ!」
美和がテーブルを叩いた。
「志乃、無実を証明したいなら何かを思い出して」
玲が不安そうに志乃を見つめた。
「だから言ってる!私は皆のいじめを黙って見ていた」
「そんなことでここまで残る?」
「知らない」
「他の皆はとっくに落とされてるのに」
「そんなの犯人に聞いてよ」
「うるさい……うるさい!うるさい!!うるさい!!うるさい!!うるさい!!」
美和が足をばたつかせているのか、足枷からガタガタと音がした。
「お前がやってんだろ!お前が犯人なんだろ!!全部里穂のための復讐なんだ。違うっていうなら証明しろよ!お前がやったんだろ!!何とか言えよ!!」
男子みたいに乱暴な言葉遣いだった。
美和の理性と人格が壊れていくのを、志乃は肌で感じた。
「……そういうの『悪魔の証明』っていうんだよ」
諭すように志乃は言った。
「そうだよ、お前は悪魔だ!!」
「美和、もうやめよう」
玲が仲裁に入るが、
「玲も悪魔の味方なんだ?」
と顔を玲に近付けて問う美和。
目は血走っており、額からは大粒の汗が流れている。
「……やっと卒業なのに。うるさい親から離れて一人暮らしをして、好きな人作ったりして、好きなこといっぱいするはずだったのに!これからだったのに!!私、高校生活の中で何もなかった。何もいいことなんてなかった」
「玲……」
「うるさい!!」
玲に宥めるように声を掛けられ、癇に障られる美和。美和は縋るような目で志乃を見た。
「さっさと解放しろよ!お前が犯人なんだろ!!」
志乃は何も答えなかった。
「……分かったよ。お望み通り言うよ。私が里穂へのいじめを始めたんだよ。ずっとパシリみたいな扱いされて、そのせいで皆まで私を使うようになって、クラスの雑用は全部私。『あれやって』『これ買ってきて』。そんなのばっかり!ずっとずっと嫌だった!里穂の父親のことがあってから、もう里穂のこと気にしなくていいんだって。だから私、噂を流してやった。亜矢が里穂のこと馬鹿にしてたとか、真由が里穂の背中を蹴り飛ばしたとか!」
「そんなこと……」
半ばショック気味の玲。
「どう、志乃。満足?里穂をいじめた張本人が分かって満足だった?」
「知らない。だから関係ないって」
志乃の美和への視線に哀れみがこもっていく。
「志乃、私、思い出したよ。お願い!お願いだから、私を早く落してよ!!志乃、お願い、志乃が犯人なんでしょ?いつだって、私達のこと消せちゃうんでしょ?」
志乃は黙って首を横に振った。美和の瞳は僅かに潤んでいる。
わけのわからないことを喚き散らしながら、最終的に自ら落とされることを望んだ美和に、志乃は心から同情の念を抱いた。
「お願いだから、『そうだよ』って言ってよ!!そうじゃなきゃ、私達どうなるの……ずっとこの部屋でこのまま……死ぬまでずっとここにいるってこと?」
美和の問いかけには、誰も答えなかった。美和は頭を下げて叫んだ。
「ごめんなさい!私がいじめのきっかけを作った張本人です……ごめんなさい!ほら、ほらほらほらほら!!だからお願い!お願いだから!!」
美和の悲痛な叫び声が響き渡る部屋に、水音と足枷の音が混じった。美和が目を輝かせて足元を確認する。
「……やった。やった!やった!やった!!これでやっと……!!」
満足げに美和は目を閉じて椅子にもたれかかった。
やがて電気は消えた。そして、すぐさま点灯する。
ここにはもう、志乃と玲しかいなかった。
志乃と玲の二人だけになった部屋には、熱気が帯びていた。じっとりとした汗が玲の額から流れ落ちる。
「部屋の温度上がってきたかも」
玲が呟いた。
それに志乃は何も反応しなかった。ただ黙って頭を抱え込んでいる。
「志乃……」
「何を見ても何かを思い出す。私達を監禁した人間は里穂でもマッシロの被害者でも鳩井さんでも里穂の父親でもなかった。私は全部間違っていた。そのせいで……」
志乃の声は震えていた。
「志乃のせいじゃないよ」
「……もう……何も思い出せない……」
すすり泣く志乃の声が静かな室内に響いた。
「嫌だった……ここにいるのがずっと嫌だった……だから思い出そう思い出そうと……美和が言った言葉、頭が良さそうで残念な子だって言葉、その通りなんだよ……本当の私は何も出来ない」
「そんなことない!志乃が誰よりも努力しているなんて皆分かっていた!ありがとう、志乃。今まで皆を引っ張ってくれて。志乃の力が必要だよ」
精一杯の励ましの言葉を与えられた志乃は、肩を震わせてテーブルの上に突っ伏した。制服の袖が涙で濡れている。
「……ごめん。もう大丈夫だから」
「いいんだよ」
志乃が泣き腫らした目を擦りながら顔を上げると、玲は優しく微笑んだ。そして、何やらスマホを操作する。
「さっき、WiFiが一瞬繋がった時メールが来て、知らないアドレスから写真だけ添付されていたの。昼間の部屋から撮った海の写真で、手前に鳥籠、窓際に写真立てが置いてあって、女の子二人が手を繋いでいる写真なの。これって犯人からのメールだと思う?しかも、何で私にだけなんだろう」
「分かんない……それもそうだけど、何で私達二人が最後に残されたんだろう。でも、マッシロのメンバーの中で里穂をいじめなかったのは私達だけじゃなかったはず」
「え?」
「きっとそれを気付かせたくて……」
そう志乃が言った瞬間、明かりは突然消えた。すぐに電気はつく。
「は……」
玲の口から変な息が漏れた。辺りを見回すが、どこにも志乃の姿は見当たらない。
ここには、玲一人しかいない。
「志乃!!」
玲の叫び声だけが無情に響き渡った。
突然、向かい側のドアが耳障りな音を立てて開いた。玲の呼吸が激しくなる。手は痙攣しているのかと思うぐらい、震えていた。
「何で……ここに……」
ドアの前で微笑するその人物は、自らが座っている車椅子をゆっくりとこぎ出した。
薄暗い部屋で、九人の少女達は最後の晩餐で描かれたような机を椅子に座って囲んでいた。
彼女達は冷静に回顧し始めると、一人の女子が口を開いた。
「里穂に初めて会ったのは、高校の入学式の時。とにかく目力が凄くて」
「カリスマ性っていうのかな。オーラがあって」
「……特に好きでも嫌いでも」
「初めて会った時から、『この人とはライバルになるな』って思った」
「うーん……あんまり印象ないな」
「私は真由のことが気になってたから、里穂のことはあんまり……」
「自分と同じにおいがした」
「初めて会ったけど、『初めて』って感じがしなくて」
「『人の目を見て話す人なんだな』って。私が目を逸らしても、ずっと私の目を見てて。でもそれは『この人の信頼の形なんだな』って、いつからか気付いて」
「里穂、学級委員に推薦されたりして」
「すぐに教室を支配した」
「里穂にいきなりカフェに誘われて、『すごい!私達スクールカースト上位グループに入っちゃった』って」
「里穂、彼氏が出来てキラキラしてて」
「高二の夏休みが終わったあとくらいで、里穂が『腐った世の中を良くしたい』って言い始めて」
「里穂は玲と幼馴染みだったけど、私達といる時間の方が長くなってきて」
「『真っ白な正義』っていうネーミングがいいなって。里穂がどういう人なのか、それだけですぐに分かった」
「『一緒に汚れた世界を真っ白にしない?』って。初めは何のことだか……でも、話を聞いてたらすぐにワクワクしてきちゃって」
「それまで『自分の手で世の中が変わるなんて有り得ない』って思ってたから」
「すっごい興奮した」
「何でマッシロはこの十一人だったんだろう?」
「私は転校生だったから、マッシロに誘われた時も『転校生が何で?』って。玲なんかは不思議がってたみたい」
「マッシロでいろんな人を懲らしめたよ」
「マッシロで投稿した人達、どうなったんだろう」
「何となくやってただけで」
「人にはそれぞれ正しいと思うことがあって、私達の正義が世の中的に?絶対的に?正しいとか有り得なくて」
「正義のことを考えるきっかけになったのは、水瀬だった」
「水瀬は学校の中では、一番私達のことをわかってくれる人だったよね」
「女子に触るのはちょっと……お父さんみたいな臭いがしたし」
「教師の言うこと聞くなんてかっこ悪いみたいな雰囲気もあって」
「何で里穂の父親は、水瀬にいつも会いに来ていたんだろう?」
「いつか水瀬は大きな事件を起こすって思ってた」
「よく相談に乗ってもらってた。家のこと、学校のこと……色々なこと」
「そんなに鳩井さんって良い男?正直、里穂も杏樹もセンスない」
「鳩井さんに告白して振られた。だから里穂に言った。『鳩井さんは最低な彼氏だから別れた方がいい』って」
「別に……羨ましくなんてなかった」
「里穂があんな人を好きだったなんて、信じられない」
「あの停電の日、大好きな彼氏が自分の親友を医療ミスで死なせた。しかも黙ってた」
「高三になるくらいかな。里穂が変わり始めたのは」
「いつからか、里穂にパシリみたいな扱いされて、そのせいで皆まで私を使うようになって 」
「里穂に『お茶買ってきて』って言われて買ってきたら、『熱い!』って怒り出して、マジ有り得ない」
「里穂、何かが壊れたみたいになって、マッシロも過激な方向に向かっていって怖くなった。だから私と真由は里穂から離れたの」
「玲は里穂を説得しようとしたみたい。でも里穂は変わらなくて、私は里穂から距離を取り始めた」
「中間テストの時、カンニングをした。玲から学年一位の座を奪うチャンスだったし、その時里穂に……私がカンニングしてるのを見られた」
「図書館の脇にある階段に、里穂と加奈がいるのが見えてさ」
「階段の上から里穂の嫌いな蛙のおもちゃを落として」
「里穂は驚いて足を踏み外して、階段の下に落ちていった」
「あれって自分から落ちたようにも見えたけど」
「あんなことになるなんて思わなかったから」
「里穂はそのことを誰にも……何で?」
「亜矢がわかりやすくキョドってた。『こいつ、犯人だな』って」
「里穂は私にばかり『車椅子押して』って言ってきて、『ヤバい。バレてるのかな』って」
「最初は皆同情してあげたよ。水瀬も『協力しろ』って言ってたし」
「里穂の車椅子押してあげようって思ってたら、『触るな!』って言われて」
「歩けなくなるって、どんな気持ちだと思う?」
「里穂はますます変わっていった」
「私達の街で里穂の父親に逆らえる人なんて誰も……その空気は学校にも流れてて」
「里穂から聞いたことがある。里穂のお父さん、ハンティングが趣味なんだって」
「桃とキスしてるところを里穂に見られて、桃には内緒で里穂を陥れる方法を考えたけど、何も思い浮かばなくて。その頃、里穂の父親に色んな疑惑が発覚したの」
「隠し子、贈収賄、未成年とのスキャンダル」
「里穂にどう接していいか分かんないっていうか」
「でも、皆絶対喜んでた」
「なんか里穂の父親があんなことになって、いつからか空気が変わった気がして」
「学校に行ったら、黒板に里穂の悪口があって、笑いが起きた。『あ……笑ってもいいんだ』って」
「里穂が車椅子で教室に入ってきて、私何も気にせず教室の窓を開けた。そしたら里穂、次の日から『くさい子』になっちゃって」
「里穂がいじめられてるのを黙って見てた。私は何もしていない。でも、自業自得だと思ってた部分もある」
「正直『やった!』って思ったかも」
「一度、里穂の目の前で誤ってガラス瓶を割っちゃって……本当にわざとじゃないんだよ」
「毎日授業中に、里穂の教科書とかノートが回ってきてさ、仕方なく教科書を真っ黒に塗り潰したり、ノートを破ったりした」
「私は転校生だったし、いじめの対象が自分になるのが嫌だったから。でも、あの時私を見た里穂の目が忘れられなくて」
「散々嫌なことされてきた仕返し。ただそれだけ」
「玲は何でいじめを止めなかったの?絶対怪しい」
「誰がいじめを始めたんだろう」
「里穂を一番憎んでいた人間」
「分からない。私でも真由でもないよ」
「全員の責任だよ」
「マッシロのメンバーじゃないんじゃないかな」
「『自分はいじめてない』って言ってる人間が、きっと影でいじめを誘導したんだ」
「何でいじめをしたんだろう。鳩井さんのこともあった。憂さ晴らしっていうか、自分にモヤモヤしてたっていうか」
「あの時の流れとか空気としか言いようがない」
「受験でイライラしてたのもあったと思う。でも、里穂をいじめていい理由にはならない」
「里穂は私から色んなものを奪った。でも、私はそれ以上のものを里穂から奪った気がする」
「里穂への憧れと嫉妬がグチャグチャになって、気付いたら」
「『嫌われたらどうしよう』って」
「もう一度同じことが起きたら、絶対に里穂を助けたい」
「皆がやってたから、好きでやったわけじゃ……」
「あんなに仲が良かったのに……里穂に会いたい」
「次は、里穂と友達になれるかもしれない」
「恋のライバルとして、正々堂々と鳩井さんを取り合いたい」
「私はまた、新しい人生をやり直す」
「里穂が生きてたら……」
「昔みたいに話したい」
「里穂のこと、たくさん考えた。どういう人だとか、どんな風な気持ちだったんだろうって」
「良い思い出もあったけど、高校生活はもうたくさん!」
「里穂ともっと正義について話したかったな。ちゃんと話して。で、まずは謝りたい」
そして彼女達は口々に言った。
___ごめんなさい。
ただ、一人を除いては。
*
車椅子を押しながら、その人物は玲のところに近付いてきた。逃げ出そうと両足をバタバタと動かすが、到底無理な話であった。
やがて玲の席の隣に車椅子を止めると、その人物からあの笑顔は一瞬にして消え去った。
そして、ゆっくりと車椅子から立ち上がり、冷たい眼差しで玲を見下ろした。
「何で……園子がここに……」
静かな室内にカチャカチャという食器の音だけが響く。園子が里穂の席で、ハンバーグを切り刻んでいる音だ。
ナイフとフォークを上品に切り分けると、それをゆっくりと口に運ぶ。その動作を数回繰り返すと、穏やかに微笑んだ。
「お腹空いたよね?」
「……園子、どうして……ねえ、いなくなった皆は?」
園子はデミグラスソースのついたナイフをしばらく眺めていると、戸惑う玲をじっと見つめた。
「食べないの?」
玲は自分の前に置かれた食事を見下ろした。デミグラスソースのかかったハンバーグと添えられた野菜。油分がシャンデリアの明かりでキラキラと光っているオニオンスープに、バター付きのパン、ワイングラスに注がれた水も並べられている。
何時間も食べ物を口にしていないため、お腹が空いていないと言えば嘘になるが、この状況では食べる気が全くなかった。それに、薬が仕込まれているのではないかと危惧しているのもある。
「里穂が一番好きだったハンバーグだよ。最後に玲と食べたくて、準備したんだけど」
その時、激しい地響きがした。
しっかり椅子を掴んで園子に目をやる。園子は笑っていた。歪んだその笑みは、玲を戦慄させる。
しばらくして揺れが収まると、園子はクスクスと笑い声を漏らしながら立ち上がった。
「どう?足が思うように動かないってどんな気持ち?」
園子は再び玲に近寄った。
崩れ落ちた写真立てのうち一つを大切そうに拾うと、それを暖炉台にひっそりと置いた。
園子はそこに据えられた本を見つめ、玲と背を向け合った状態で呟いた。
「何を見ても何かを思い出す。皆に思い出して欲しくて、色々準備したんだよ」
「ここ……どこなの?」
「どこだと思う?」
「この部屋……一人で作ったの?」
「そんなわけないでしょ」
園子が鼻で笑った。
「私、ただの女子高生だよ」
「もしかして、里穂のお父さんと?」
「有り得ない。お金は出させたけど。『里穂を捜す』って嘘ついて」
「先生は?共犯だったんだよね?でも……だとしたら何で!?」
園子は玲に歩み寄ると、テーブルの上にすとんと腰掛けた。
「玲、落ち着きなよ」
「ほら」と水の入ったワイングラスを玲の頬に寄せる。玲は顔を退けてそれを拒否した。
園子はワイングラスをテーブルに戻し、大きく溜め息をついた。
「こんな大掛かりなこと、流石に一人じゃ出来ないからね」
園子は少し間を開けると、続けた。
「私だよ。噂の隠し子って」
「……え?」
玲は自分の耳を疑った。
「水瀬は私と里穂が姉妹だって知ってたから、私の気持ちすぐに理解してくれた」
「じゃあ……何で途中でいなくなったの?」
玲の脳裏に、剥製を壊そうとして消えた水瀬の姿が浮かんだ。園子は顔を伏せる。
「……予定にないことしたから」
「先生どこに行ったの?皆は!?」
玲の言葉に園子ははっと顔を上げ、玲を見つめた。その顔には、悪戯っぽい笑顔があった。
「そんな顔で見ないでよ。大丈夫、今のところは」
意味深なことを言い残して、園子は暖炉台の辺りを歩き回った。
「覚えてる?二年の学園祭でやったお化け屋敷。あの時、皆凄い気合い入ってて……」
そう言って、園子は化け物の仮面を被って玲に見せた。思わず驚いて、肩がびくりと跳ねる。
「そういえば、里穂にビビって失神しかけた人もいたよね」
仮面を外してそれを投げ捨てると、椅子に腰を下ろした。
「この部屋にはいじめのことだけじゃない。皆が仲良かった頃の思い出もいっぱい詰め込んだんだよ……だけど、そのことは誰も思い出してくれなかった。皆が仲良くて、マッシロで本当に正義の活動をしていた頃。あの頃のまま、卒業出来たら良かったのに」
寂しそうに園子は視線をテーブルに落とした。すると、身を乗り出して玲に顔を寄せる。
「何でこんなことになったと思う?」
玲は黙ったまま、園子から視線を逸らした。
園子は苛立ったように軽く机を叩く。
「何で黙ってるの?親友の玲が里穂を守ってれば」
「そういう園子はどうなの?血の繋がった姉妹なんでしょ?そっちの方がよっぽど……」
「そんなの分かってる!」
園子は玲を睨むと、くるりと背を向けて歩き出した。
「他人には分かんないよね。大切な姉妹を失う悔しさなんて」
「他人!?園子は姉妹かもしれないけど、私だって里穂と十二年も親友なんだよ!!」
怒りを込めた玲の反論に、園子は何も言わずに部屋をぐるりと一周回った。 そして、静かに美和が座っていた席についた。
園子は沈黙したまま、どこか一点を見つめている。
その様子が玲には不気味で仕方なかった。言いようのないもどかしさが込み上げてくる。
「……もっと早く知ってたら、助けてた」
「え……?」
「私が里穂と姉妹だって知ったのは、里穂がいなくなった少し後だった。私さ、この学校に来るまでは、東京でお母さんと二人暮ししていたんだ。だけど、私が高二になった頃、お母さんの地元に一緒に戻ることになった。でも、里穂が姉妹だなんて誰も教えてくれなかった」
「お互いに知らなかったってこと?」
「里穂は知ってたみたい。でもお父さんから、絶対に私には言うなって口止めされてたんだ」
玲の中に、今まで心の隅にあった疑問が解消された。
「……だからマッシロに入れたんだ」
呟く玲を、園子が目にやる。
「マッシロってね、里穂が認めた人しか誘ってなかったの。ずっと不思議だったんだ。園子が転校してきてすぐにマッシロに誘われたの」
園子は玲から視線を落とした。玲が続ける。
「園子はどうやって、里穂が姉妹だって知ったの?」
「……お父さんが会いに来たの。十何年か振りに突然。里穂がいなくなってすぐ『何か知らないか』って。何で私に?って思ってたら、突然そのことを告げられて……里穂のこと、必死になって捜した」
園子は再び鋭い眼差しを玲に向けた。
「毎日毎日里穂のことが心配で、なのに皆は何もなかったかのように笑ってた。皆、あんなに酷いことしたのに、里穂のことなんて忘れて卒業しようとしてる。そんなの許せる?」
園子は椅子から立ち上がると、暖炉台から本を手に取った。
後ろ姿しか見えないため、表情はうかがえない。
「何を見ても何かを思い出す。里穂をいじめてた全員が自分の罪を思い出して心から里穂に謝ってくれたら、そしたら全部許すつもりだった。私も皆と笑って卒業したかったから」
園子の言葉に、玲は思わず目を見開いて振り返った。
「じゃあ皆は?」
本を持つ園子の手がぷるぷると震えている。
「……けど里穂は……」
そう言って、園子は乱暴に本を暖炉台に戻した。そしてまた、部屋をぐるりと一周歩き回る。
「確かに里穂は悪いこといっぱいした。でも、あんな酷いことされなきゃダメ?皆は言ってた。『そういう空気だから』『なんとなく』『皆がやってたから』『そういう雰囲気だったから』。雰囲気って何?里穂はそんなもののせいで死んだの?」
園子が重い溜め息を吐いた。
「何でこんなことになっちゃったの!?あんなに仲良かったじゃん!!私は推薦決まってたけど、受験勉強皆でやったりして仲良くしてた頃だよ!?」
園子が歩を速めて玲に再び近寄った。
「親友なんでしょ!?十二年も里穂のそばにいたんでしょ!?なのにどうして!?一番悪いのは玲だ!!」
鬼気迫った表情で思いきり机を叩く園子に、玲はたじろいだ。
やがて冷静な瞳で園子を見つめる。
「……思い出した。園子だよ」
「……え?」
「あの空気作ったのは園子だよ。願書出したよね?S大の指定校推薦。あの枠ね、里穂のものって決まってたんだよ、暗黙の了解で」
「え……」
目を見開いて園子が俯いた。追い討ちをかけるように、玲はさらに続けた。
「ちょうど里穂のお父さんのスキャンダルが出た頃だよね?皆、里穂に逆らってもいいのかな、って様子見してる感じで、そこに園子がしれっと願書出して、皆里穂にはもう何してもいいんだって気が付いたんだよ」
「……嘘」
園子の顔は、絶句という言葉が相応しいかった。唇が小刻みに震えている。
園子は真実から逃避するように瞳を閉じた。
「もうやめよう!こんなこと。こんなことしても誰も救われないよ!」
園子が目を開くと、必死に説得しようとしている玲をじっと見た。
園子は玲から少し距離をとり、悲しみを秘めた笑みを浮かべた。
「……もし玲の言ってたことが本当なら、私も里穂に謝らないとダメだよね」
と言って、再び美和の席に座る園子。
「……皆で里穂のところに行こう」
「……え?」
「このまま時間が来れば、皆沈んで里穂のところに行ける」
ふと、玲は閑散とした辺りを見回してみた。嫌な予感が芽生えた。背中に虫が這うようにぞわぞわする。
「もしかして、ここ……」
時折起こる揺れと『沈む』というワード。玲は、今自分達が船の中にいることに気付いた。
そして、『このまま時間が来れば、皆沈んで里穂のところに行ける』というのは、つまり自分達を乗せている船は沈没する、死へのシナリオが玲の中で完成した。
園子は何も言わなかった。どこか遠く、いや、ここにはないものを見つめている。
「園子、里穂はそんなこと望まないよ!」
「……里穂、ごめん。もうすぐ私もそっちに行くから」
逃げたいという気持ちよりも足が動く方が早かった。
玲は床下の足を左右や上下に動かすが、やはり痛みが増えるばかりである。それでも命乞いせずにはいられなかった。
「園子、お願い!!」
助けを求める玲の視線をシャットアウトするように、園子は目を閉じた。状況に不似合いな安らかな笑顔を浮かべながら。
「ねえ、園子!!お願いだから!!」
ぱちりと園子が目を開けた。表情を変えずに、椅子から立ち上がると、玲を優しく包み込むように抱き締めた。
「落ち着こう、玲。どうせ最後なんだから、楽しい話しよう」
泣き喚く子供を宥める母親のような口調だった。
「何言ってんの……お願い、助けて!!」
どこからか、汽笛の音が聞こえてきた。港に行った時によく耳にする音にそっくりだ。
「そうだ、まだ言ってなかった。玲を最後までこの部屋に残した理由。何でだと思う?」
「……親友なのに、いじめを傍観してたから?」
「それもある。けど……一番の理由は、玲には最後まで思い出し続けて欲しかったから」
玲の息が荒くなる。
涙も出ないのにぼんやりとしていた視界がクリアになったのは、大きな地響きだった。
天井のガラス張りされた部分のガラスが割れ、ガラスを押し流した大量の水がテーブルに惨状を招いた。
悲鳴も上げず、目を大きく見開いてその様子を玲は眺めていた。水がほんの少しだけ口の中に入る。それはとてもしょっぱかった。
園子は腕を玲から離すと、テーブルの上に腰かけ、玲の顎を掴んだ。ぎょっとする玲。
「ねぇ、玲。私の知らない里穂のこと、いっぱい思い出して教えてよ」
玲は答えない。その瞳には、じんわりと涙が浮かんでいた。
「早く……早く聞かせてよ」
「嫌だ!言いたくない!!里穂はこんなこと望んでない!!」
玲は園子を思いきり突き飛ばした。我に返ったように、すっと園子の顔から笑みが消え去った。
園子は暖炉台から写真立てを一つ持ち出した。
その写真を玲は凝視すると、はっとしたように園子の肩を掴んだ。
「……ちょっとそれ、見せて」
そこには、顔の部分が削られて白くなった幼い女の子二人が写っていた。繋がれた二つの手や服装、古ぼけた画質からすぐに過去の記憶が引っ張り出されてきた。
「ようやく気付いてくれた」
園子は右の女の子、次に左の女の子を指さした。
「右が私で、左が里穂。って言っても、顔分かんないか。お父さんが里穂と私に一枚ずつ『大切に持ってなさい』ってくれたんだ。けど私の家、ずっと貧乏だったから隣にいるキラキラしたこの女の子が憎らしかった」
玲は慌ててスマホを開き、メールボックスを表示する。
ガラスが割れた天井からは寒々しい風が吹き、部屋には潮の匂いが漂っていた。
「園子……里穂、生きてるかも」
「は?いい加減なこと言わないで!」
溜め息混じりに園子が言う。苛立ちを込めて、園子は乱暴に美和の席に着いた。
「だってこれ!」
玲が園子に渡したスマホの画面には、さっき志乃にも話した画像が映っている。
開け放たれた窓には青空と群青色の海、そして窓際にそっと置かれたあの写真と隅に映る鳥籠。写真の女の子の顔は削れていなく、二人とも見覚えのある顔立ちである。仲良く手を繋ぐ姿は、微笑ましかった。
スマホを持つ園子の手がわなわなと震えている。
「……何これ」
「さっき、最後にWiFiが繋がった時に届いたの。知らないアドレスだし全然意味わかんなかったけど」
「……でも、何で?何で玲に?私には?」
玲のスマホを閉じると、すぐに自分のスマホを園子が開く。数回のタップ音とともに、園子の口から息が漏れた。瞳が潤んでいる。
画面には確かに、玲と同様の画像があった。
「里穂……」
嗚咽する音がする。音の正体が自分か園子かなど、分からなかった。
ただ、ぐにゃぐにゃと歪んでいる世界を作っている原因が涙だということはすぐに理解出来た。
「里穂……生きてるんだ……」
「……ごめん……里穂……」
天井から落下してきた水を口に含んだ時のように、口の中はとめどなく溢れる涙でしょっぱくなっていた。
それを拭うと、斜め横には顔を伏せて静かに嗚咽を漏らす園子がいた。
里穂が生きている。
その真実は、玲と園子に大きな希望をもたらした。しかし、知るには遅すぎたかもしれない。
汽笛の音がする。
口の中にしょっぱさが増していった瞬間、視界は真っ黒に染まった。最後に聞こえたのは、何かが崩れ落ちるような大きな物音だった。
[End]