十数年前の掲示板で、ひと夏だけ流行った都市伝説があった。
三十人分の魂を売れば、魔法の力を売ってくれる人(?)が居るらしい。
1-Bは、クラスの誰かに売られた。
『〜……♪』
爆音で流れる大好きなバンドの曲で目が覚める。
そのまま画面を開いて、大量のインスタとLINEの通知をスワイプする。Twitterを開いて、推しの自撮りツイにいいねとリツイート。
これが私の一日の始まりだ。
私の名前は首藤(すどう)りんね。女子校に通う高校一年生。
周りには男勝りって言われるけど、オシャレすることは誰よりも好きだし、自分では結構女の子らしいところもあるって思ってる。
根元が伸びてきたアッシュのショートヘアを無造作に掻き上げて階段を降りる。寝癖が酷いんで毎朝セットするのに三十分かかる。面倒だしそろそろ伸ばそうかなぁ。
「おはよー」
リビングで食パンを齧りながらスマホを弄る妹に無視されながら洗面所に入る。
眠気と浮腫で開かない目を擦りながら鏡を見ると、
「……?」
何か、今日は顔の調子が良い気がするぞ?
私ってこんなに目でかかったっけ?こんなにまつ毛ばっちりだったっけ?あ、この前買った韓国のまつ毛美容液の効果かな。最近お風呂入る時マッサージしてるし。
「今日は顔のコンディション良いな〜っと」
適当にツイートして、私は学校の支度を始めた。
電車を乗り継いで学校に着くと、友達のしみずを見付けた。
「しみず!」
名前を呼ぶとしみずは気が付いて振り返った。
「りんね!おはよー」
大きなたれ目を更に垂れさせて笑うしみず。私達は肩を並べて歩き出した。
するとしみずはじろじろと私の顔を覗き込み始めた。
「何だよ?顔になんかついてる?」
私が尋ねると、しみずはんーんと首を横に振った。
「りんね、メイク変えた?」
「え、やっぱ思う?今日は何か顔のコンディション良いんだよね〜」
自慢げにスマホの画面で自分の顔を見ていると、誰かに肩をぶつけられた。
「痛った……」
ぶつかってきたそいつを見ると、肩の下で綺麗に揃えられたさらさらの黒髪が目に入った。しみずがふと呟く。
「同じクラスの……」
「ちょっと、ぶつかってきた癖にごめんも無しなの?」
振り返りもせずにそのまま歩いていくそいつの肩を掴むと、そいつは不機嫌そうな顔で私の顔を見上げた。伏し目勝ちの切れ長の瞳に、朝日に照らされて白っぽく見える豊富なまつ毛。向こうが透けて見えそうなほど透明な陶器のような肌。
「……道の真ん中で自分の顔眺めてる方が悪いと思うけど」
そいつはそう言って私の手を払った。そして私の目をじっと見上げた後、歩いて行ってしまった。
「何あいつ」
「同じクラスの弓槻さんじゃない?ほら、出席番号一番最後の……」
しみずはそう言うけど、あんな奴クラスに居たっけ?そう言えばあの黒髪には見覚えあるような気がするけど、いつどこで見たかはよく思い出せない。
「弓槻さんが来るなんて珍しいね……」
しみずは不思議そうな顔をしながら弓槻さんとやらの後ろ姿を眺めている。
「あ、そろそろ行かないと遅れるよ」
スマホの画面を見るともう一時間目が始まりそうだった。私達は慌てて校舎に駆け込んだ。
一時間目は英語だった。一番嫌いな科目だ、最悪。
当たりませんように、当たりませんように、と心の中で唱えていると、運悪く先生と目が合ってしまった。
「答えたそうにしてるね、首藤?」
嫌味ったらしい笑顔で私を見る教師。私が英語苦手なの知っててわざと当ててんな?
「分かりませーん」
答えたところで合ってる訳ないし恥かくだけだから私は適当にそう言った。
「ちょっとは真面目に考えなさいよ?」
教師は呆れながらもそれ以上は何も言ってこなかった。
「じゃあ、……弓槻。分かる?」
私の代わりに答えることになった可哀想なクラスメイトは、どうやら今朝ぶつかってきた嫌味女らしい。
私はちらりと弓槻を見る。
文句一つ言わずに立ち上がって、
「私たちは十年の間友達です。」
どうやら和訳らしき文を答えて、涼しい顔で座った。
「すごい、完璧。首藤もちょっとは見習いなさい?」
うるさいなぁ、余計なお世話だよ。
周りがくすくす笑う中、一瞬だけ弓槻と目が合う。慌てて前を向くけど、弓槻はまるで虫けらでも見るような目で私を見ていた。
やっぱ嫌な奴だな、あいつ。
昼休み。各々がお弁当を広げている中、弓槻はぽつんと一人で座っていた。昼ご飯を食べる素振りも見せず、文庫本サイズの本を読んでいた。
今まで気にも止めてなかったけど、あいつぼっちなんだなぁ。
「今日はオムライスだよぅ」
目の前で嬉しそうにお弁当箱を開けるしみずを見ながら、私もカバンからコンビニで買ってきたランチパックを取りだした。
「しみずってほんとに料理上手いよなぁ」
感心してそう言うと、しみずは照れ臭そうにはにかんだ。
「そんなことないよぅ?ただ好きだからやってるだけで」
「それがすごいんだってば」
私は毎朝料理する気なんて起きないよ。だから買って済ませちゃうし。
「りんねん家は、色々大変だからね……」
「何しんみりしてんだよ、いただきまぁす」
それ以上ウチの話題は出さないでよね。私はランチパックを頬張った。
そう言えば、としみずが私の背後を覗き込む素振りをした。
「何で急に来れたんだろうね、弓槻さん」
どうやら隅で本を読んでる弓槻を気にしているようだ。
「え?弓槻ってずっと学校休んでたの?」
「うん。入学式から数日は来てたけど、急に来なくなっちゃったじゃん。」
へー、どうりで見覚えなかったわけだ。確かに入学式の時にあの後ろ姿を見たような気がする。顔まではよく覚えてないけど。
「ほぼ来てないクラスメイトのことなんてよく覚えてるな」
「だって弓槻さん綺麗じゃん。入学式の時はびっくりしたなぁ、あんな綺麗な人が居るんだって思ったもん」
目を輝かせながら弓槻を見るしみず。
「来れるようになって良かったよね!」
しみずは嬉しそうに笑った。
「お人好しだよな、しみずは」
「え〜?何それ、褒めてんの?」
少しからかうとしみずはぷりぷり怒り出した。
……でも、確かに。弓槻は何だか目を引く何かを持ってる気がする。悔しいけど顔も整ってるし、あの黒髪は本当に視線を引きつける。
「…………」
椅子の背凭れを脇に挟んで弓槻を見ていると、バチンと目が合ってしまう。
「何よ」とでも言いたげな弓槻がまた見下すように睨み返してきた。
やっぱ嫌なやつだな。
放課後。
部活を終えた私は、教室に忘れ物をしていたことに気付いて慌てて戻ってきた。
やば、最終下校時刻とっくに過ぎてる!
幸い教室のドアは閉められてなかったが、真っ暗で何も見えない。
電気を付けると、人影が見えた。
「誰か居るー?」
急に明るくなって驚いたのか、その人物ははっと顔を上げた。
「……あ、」
「あ」
私の机の中に手を入れている弓槻(ゆづき)と目が合った。
「ちょ、何してんだよ?」
つかつかと歩いていき弓槻の腕を掴む。私の机から引っ張り出した弓槻の手には私が探していた定期が握られていた。
「お前、まさか盗むつもりだったのかよ?」
怒りで弓槻の腕を掴む手に力が入る。
「なんなんだよ?もしかして今朝のことずっと恨んでんの?ぶつかってきたのはそっちじゃんかよ」
あんなの根に持ってここまでするか?有り得ない、嫌なやつどころじゃない、サイテーだ。
「違うわよ。離して。」
「言い訳かよ?」
「痛いから。」
「あ、ごめ……」
思わず手を離してしまう。弓槻は顔を歪ませながら赤くなった手首をさすった。
「盗むつもりじゃなかったけど、勝手に漁って悪かったわ。でもお陰様であなたの疑いは晴れたから。帰って」
「は、はぁ?何だよ疑いって?もしかしてこうして他のみんなの机も漁ってたの?何か失くしたならまず誰かを疑うんじゃなくてさぁ――」
ばっと長い黒髪を振り払って顔を上げた弓槻が、キッと私を睨んだ。
「何も知らないなら口出ししないで!自分の身も守れないあなたなんかに――」
そこまで言うと、弓槻は持っていた私の定期を私の胸に投げ付けた。
「私はこのままただその日を待つなんて出来ないから。」
そんな訳の分からない言葉を吐き捨てて、教室から飛び出してしまった。
教室に取り残された私は、落ちた定期を拾っても、しばらくその場から動けなかった。
何も知らない?自分の身も守れない?
何言ってんのかさっぱりだったけど、何故かそれがとても重大な何かを意味しているように思えた。
けどいくら考えても分からない。弓槻が言ったことは何を示してるんだろう。
『〜……♪』
今日も大好きなバンドの大好きな曲で目が覚めた。
が、今日は最悪の目覚めだ。
クラスメイト達と、必死に何かから逃げる夢を見たんだ。
いつも通り授業が終わって帰ろうとした時、いきなり教室が赤く点滅し出して、サイレンが鳴った。教師も居ないから私達は教室を飛び出して必死に逃げた。何かに追い掛けられているような感覚だった。階段を下りるたびにどんどんクラスメイトが減っていって、一階に着く頃には、私ともう一人しか残っていなかった。
そのもう一人が誰なのかを確認するところで目が覚めた。
何なんだよ、もう!
表しようのない不快感に、わざと大きな音を立てながら階段を下りた。
「うるさい!」
リビングで朝食を食べていた妹に怒鳴られたけど、私は気分も悪かったし昨日の仕返しだと思いわざと無視した。
「…………ぶっす」
洗面所に入って鏡に映った私の顔は、昨日とは相反して物凄いブスだった。
大量の泡で洗い流しても、クマは落ちなかった。
コンシーラーを塗りたくり、それ以上のメイクはする気になれずに洗面所を後にした。
電車の中で推しのツイートにいいねとリツイートする。バンドの曲を聞いていると、ガタンと車体が大きく揺れた。
と思ったら、キキーという音と共に急停止した。
『えー、お客様にお知らせします、ただいまこの電車におきまして人身事故が発生しました。……』
そんなアナウンスが流れた。
ざわざわと騒然とする車内。
こんな平日の朝っぱらから人身事故かぁ。学校遅れるかもなぁ。
なんて呑気なことを考えながら、何気なくTwitterを開く。
「……え?」
タイムラインの一番上に表示されたのは、この人身事故の動画だった。
しかも、どうやらこれはただの事故じゃないらしい。女子高生が、自ら飛び込んだらしい。その一部始終が、物凄い勢いで拡散されていたのだ。
動画はタップしなくても勝手に再生される。どうやら反対側のホームから撮っているようだ。
「間もなく二番線に各駅停車……」とアナウンスが流れた後、普通にホームに並んでいたポニーテールの女の子が急に駆け出し、人目もはばからず線路に飛び込んだ。私も毎朝見掛けている制服だった。
ホームに並んでいた人達がぎょっとしてこちらを見たと同時に、電車で画面が埋め尽くされた。
そこで動画は終わった。
「…………」
再び最初から再生される前に私はTwitterを閉じた。
吐き気がする。今、この私の足元に、ぐちゃぐちゃになった女の子が居ると思うと。もしかしたら、その子とは昨日すれ違っていたかもしれないと思うと。
最悪。こんな動画見なければよかった。
…………待って。
私ははっとして再びTwitterを開いた。
そしてさっきの動画をもう一度再生する。
並んでいる人達。
電車が到着することを知らせるアナウンス。
そして、駆け出してホームに飛び込む女の子。
…………え?
この子、アナウンスが入る直前まで、普通に並んでた。飛び込む素振りなんて見せてなかった。
これを撮影してるのは、誰?
どうして、この子が飛び込むって分かったんだろう……。
この動画が添付されたツイートには、「友達から送られてきた!」と書いてある。主のプロフィールを見ると、高校名が書いてあり、プロフィール画像は飛び込んだ女の子と同じ制服を着た二人組のプリ。
……あの子と、同じ学校の人ってこと?
私は思わずカーディガンで覆われた手で口元を抑えた。心臓がバクバクと踊り狂う。
何か知ってはいけないことを知ってしまった気がして、吐きそうになった。
最悪だ。今日は人生最悪の日だ。
何故か私の頭には、昨日の弓槻の言葉がチラついていた。
「私はこのままただその日を待つなんて出来ないから。」
「その日」って何だろう。
「その日」になったら、何が起きるんだろう。
嫌な予感が、する。
結局、電車が動き始めた頃には正午を回っていた。
私は学校に行く気になれなかったけど、家に帰る気にはもっとなれなかったので、仕方なく学校に行った。
「りんね〜!」
教室に入るや否や、しみずが抱き着いてきた。
「大丈夫?りんねが使ってる電車で飛び込み自殺あったって聞いてびっくりしたよぅ」
「あー、」
お願いだから傷を抉らないでほしい。私は抱き返す気にもなれずにされるがままだった。
「えー、まじ?りんねあの電車乗ってたってこと?」
「やば!だから遅れたんじゃね?」
近くに座っていた沙里(さり)と珠夏(しゅか)がニヤニヤ笑いながらそう言った。
「やばいんでしょ、あの飛び込んだ子。魔女に売られたんだって」
「えー、まじ?あの都市伝説まだ死んでなかったんだ」
沙里と珠夏の会話に、私に抱き着いたままのしみずが首を傾げる。
「え、何?魔女って?」
二人は目を真ん丸にして顔を見合わせてから、またにやにや笑い出した。
「しみず知らないの?昔掲示板から流行った都市伝説だよ!」
「何十人かの魂を差し出せば、魔法の力を与えてくれる『魔女』の都市伝説だよ!」
「ええ、何それ〜」
しみずは「怖いよぅ」と言って私の影に隠れた。
「あの飛び込んだ子のクラス、やばかったんでしょ。どんどんクラスメイトが死んでいってたんだって。なのに学校は死に始めてから数日しか休校にしなかったらしーよ。あんまニュースにもなってないし。絶対闇あるよね。」
「それ絶対そのクラスの誰かがクラスメイト売ったじゃん!
魔女は警察とか大統領とか、国の偉い人達とも繋がってるって噂だし。怖くない?うちのクラスも誰かに売られちゃったりして〜!」
きゃはははと甲高い笑い声が教室中に響いた。
「は、はは……」
普通に怖いって。笑えないって。私としみずは乾いた笑い声を出すしか出来ず、そそくさと沙里達から離れた。
「何あれ、本当なら怖くない?」
私が言うと、しみずはうんうんと何度も頷いた。
「でも、ただの都市伝説だよね?今朝のもただの偶然だよね?」
本当に怖がってるみたいだ。確かこの前ホラー映画が流行った時も、一緒に見に行ったらすごい怖がってたし。なんなら泣いてたし。
「偶然だし嘘に決まってるって。もし本当なら大ニュースでしょ、もっと大々的に報道されてるって」
そう言って宥めたけど、私だって怖い。
今もまだ拡散され続けているあの動画の不可解な点と沙里達の会話が、とても無関係だとは思えなかった。
「あくまで都市伝説だし!あんまマジにならないでよ?」
珠夏が怖がるしみずに気付いてそう叫んだ。
「もー、怖がらすなって!」
私がそう返すと、沙里と珠夏は謝りながらも笑っていた。
暗い雰囲気になっていた教室がいつも通り明るくなった。
そんな私達を、弓槻がずっと凝視していたことに、私は気付かなかった。
その夜、沙里と珠夏が死んだ。
それを知らされたのは、翌日のホームルームだった。
沙里と珠夏が死んだ。
昨日まで普通に元気だった二人が。
昨日授業が終わって教室から出ていく時はあんなに笑ってたのに。
信じられないけど、説明する担任の額にはいくつもの汗の粒が浮かび上がっているから、どうやら真実のようだ。
「夜中に二人で川に飛び込んだんだって……」
「二人がいっせーのって叫ぶ声を聞いた人が居たみたいで……」
「そういえばあの二人薬やってるって噂あったしね……」
訃報を知らされてすぐに臨時休校になったけど、クラスメイト達はみんな教室に留まっている。
二人と割かし仲が良かった子は机に突っ伏して声を漏らしながら泣いていた。が、過半数の子は死んだ二人の噂話や憶測で盛り上がっている。
あー、誰も帰ってないけど帰ろっかな。ここに居てもあんま気分良くないし。
「しみず、帰ろ?」
立ち上がってしみずの席に歩いていくと、しみずはこくりと無言で頷いた。
しばらく廊下を歩いていると、私達に続いて誰かが教室から出てきた。
振り返ると、弓槻だった。
つかつかと私たちに向かって歩いてくる。
「な、何だよ」
ずいっと弓槻の顔が近付いてくる。
「あなた達、昨日から何か変わったことはない?」
いきなりそんなことを言い出した。
「何だよこんな時に」
弓槻は表情ひとつ変えないが、どこか焦っているように見えた。
「帰った後も気を付けて。あなた達はあの二人から直接あの話を聞いてしまったから、もしかしたら……」
「何言ってんだよ!脅してんならやめろよ!今あんな作り話にかまってる余裕ないのは分かるだろ!」
思わず叫んでしまった。しみずがびくりと肩を弾ませた。弓槻は表情を変えずに私をじっと見ている。
「あなた、まだ作り話だと思ってるの?」
「……え?」
心臓がどくんと大きく脈打った。
「あれは真実よ。あの二人は、あの都市伝説に殺された。」
「……は?」
どくん、どくんとゆっくりとした心臓の音が頭の中で鳴り響く。
殺された、って何?二人は薬の幻覚症状で自分達から川に飛び込んだんでしょ……?
「あなた、昨日は事故があった電車に乗ってたらしいじゃない。偶然だと思う?身近でもう三人死んだのよ。そして、三人ともニュースになってない。」
弓槻の声がまるで耳から直接流し込められたような感覚になった。
頭が痛い。目の前がクラクラする。
「昨日も言ったけど、自分の身も守れないからあの子達は死んだの。あなただってもうすぐ死ぬかもしれないのよ――」
「やめてよ!」
弓槻の言葉を遮ってそう叫んだのは、私ではなくしみずだった。
「やめてよ弓槻さん。りんねが死ぬなんて冗談でも言わないで!」
目に涙を浮かべながら肩で息をしている。こんなに怒ったしみずを見るのは初めてかもしれない。
「冗談じゃないわ。だって私はこの目で見たんですもの。」
「見たって、何を……?」
上半分はまつ毛で覆われた瞳が私達を捉えて離さなかった。
「このクラスは、クラスの誰かに魔女に売られた。」
弓槻の口から出てきた言葉と、昨日沙里達が言っていた言葉が重なった。
『何十人かの魂を差し出せば、魔法の力を与えてくれる『魔女』の都市伝説だよ!』
『うちのクラスも誰かに売られちゃったりして〜!』
「……本当に、うちのクラスが誰かに売られたってことかよ?じゃあ……」
これからもどんどんクラスメイト達が死んでいくかもしれないってこと?私も、しみずも、弓槻も、だ。
「弓槻さん、見たってことは誰が売ったのか知ってるってこと?」
しみずが尋ねると、弓槻は目を伏せて首を横に振った。
「顔までは見れなかった。でもそいつが着てたのはうちの制服だったし、会話は聞き取れたから『私以外の一年B組全員の魂を』と言ってたのは聞こえた。」
「何だよ、それ……」
絶対うちのクラスの誰かじゃんかよ。
さっきまで教室で泣いてたり噂話をしてた誰かの中に犯人が居るってこと、か。なかなか怖いな。
「じゃあ、急に学校に来始めたのも、私達を助けてくれるために……?」
しみずが尋ねると、弓槻はまた首を横に振った。
「助けるなんてそんな大それたことは出来ない。でも死ぬ前に犯人を突き止めたいと思った。たった一人の願いが叶うためだけに何十人もの命が犠牲になるなんてバカみたいじゃない。私はそんな下らない理由で死にたくない。誰かのために命を落とすなんて屈辱、絶対嫌」
弓槻は忌々しそうに顔を歪ませて片方の唇を噛んだ。
「私があのやり取りを目撃したことはすぐに向こうのやつらにバレるだろうから、私ももうじき消されると思うけどね。」
弓槻は自虐的に笑った。
「どうしてそんなに詳しいの……?」
「……一年前、私の姉も誰かに売られたからよ。」
弓槻はそう言うと、私達の横をすり抜けて行ってしまった。私としみずは止めることも出来ずに立ち尽くしたままでいた。
……ああ、これは本当に現実なのか。
隣でぶるぶる震えているしみずを見る限りはどうやら現実のようだ。
「どうしたらいいのかな……」
「どうしようもないよ。弓槻に、任せるしか……」
私達はきっと何も出来ない。でも弓槻ならもしかしたらほんとに助けてくれるかもしれない。そんな気がした。
「三十人分の魂を売れば魔法の力を売ってくれる魔女が居るらしい……」
その都市伝説は、ググれば簡単に見付かった。関連する記事がいくつもヒットした。
正直調べるのも怖かったけど、少しぐらい検索したところで消されることはないよね。
「あれ?」
一番上に表示されていた有名なネット掲示板のスレッドを開いてみたけど、『このページは存在しません』という文字だけが表示された。
「え、え、え?」
他のサイトやスレッドも開いてみたが、どれも存在していないようだ。
「何、こわ……」
急に背筋が冷たくなった。今は夜中の一時。自分の部屋でベッドの上に座って壁に背をつけていたけど、何だか怖いから頭から布団を被った。
どういうことなんだろう。これじゃこの都市伝説について何も分からない。これ以上深く追求するのは怖かったけど、何も知らないまま死を待つのはもっと怖い。
……そうだ。
Twitterを開く。そして検索欄に『三十人 魂 魔法の力』と打ち込み、検索する。
「……ビンゴ?」
ずらりと大量のツイートが表示された。
『三十人の魂を売れば魔法の力が手に入るって都市伝説知ってる人居ない?』
『三十人か四十人か忘れたけど魂を捧げれば魔法の力を貰えるらしいよ
俺が高校生の時に流行った都市伝説』
『魂売れば魔法の力くれるって都市伝説昔見たような気がするけど三十人って多くね?w
てか魂ってどうやって売るんだよな、作るならもっとまともな話作れよ』
そんなツイートが表示される中、私はふと一つのツイートに目が止まった。
『私のことをいじめてるクラスのやつらの魂を売ったら魔法の力が手に入るかな。三十人どころじゃない、私なら百人は差し出せる』
プロフィールを開くと、どうやら都内住みの女子高生みたいだ。しかも一年生、私と同い年。
過去のツイートを遡ってみると、この子はどうやら酷いいじめを受けているようだった。
「うわ……」
目を背けたくなるようないじめの数々の内容が事細かに書き込まれている。たまにある画像ツイには暴言で埋め尽くされたグルラのトーク画面のスクショや自傷行為の様子が添付されていた。
あれ。これって。
『縫ってもらった〜』と縫合された傷の写真の隅に、ぼんやりと制服のスカートらしきものが映っていた。
「うそ」
今まで何度も、いや毎日見掛けてきたスカートだ。
これは、昨日自殺した子と同じ制服だ。
スマホが手からずるりと滑り落ち、壁とベッドの隙間に落ちてしまった。
「あ、」
慌てて拾おうとベッドを少し動かして覗き込む、と。
画面には、『早く幸せになりたいな』と言う文と、真っ黒なカラコンの大きな瞳の自撮り画像。
ゾッとした。
カラコンのせいで本物の瞳が全く見えないせいだろうか。それともカラコンのサイズが大きすぎるせいだろう。それともこの子の顔色があまりにも青白過ぎるから?
「……違う」
この子が、あの自殺した子の魂を売ったんだ。
『こんばんは。
みなさん今日もお疲れ様です、今日はどんな一日でしたか?
今日も一日のことをまとめようと思います。
今日は上履きに履き替えようとしたら後ろから押されて下駄箱に顔をぶつけた。唇が少し切れて血が出た。
去り際に『邪魔』って言われた。
廊下で知らない子とすれ違ったら、顔を見てくすくす笑われた。一緒に居た子に『今のさぁ……』って言ってたけど、私のことを知ってたのかな。気のせいか、最近はずっとみんなが私のことを見てる気がする。
そう思ってたけど、原因が分かった。クラスの子達が私を盗撮して裏垢のストーリーに載っけてるみたいだ。たまたま田村さんのスマホの画面が見えちゃって、すごい睨まれて、舌打ちされた。
お昼も後ろから押されて、目の前にあった子の机に手をついちゃった。そしたらその子が『うわっ』って言いながら机をさって引いたの。私は床に倒れ込んだ。『きも、触んな』って言われて、他の子達にもくすくす笑われた。
この前クラスの子全員にLINEをブロックされた。なのに通知が止まない。
誰かが私のIDを流したんだ。知らない人からどんどん追加されてる。アカウント作り直そうかな。
寝たら明日になっちゃう。明日になったらまた学校に行かなきゃいけない。
転校したいなぁ。転校したところでまたいじめられるのかな。
もうやだ。
早く死にたいなぁ。』
「うっわ、ひど……」
彼女が毎日綴っていたブログは、どれも悲惨なものだった。私と同い年の子が、毎日学校でこんな目に合ってるなんて。もし私が同じ目に合ってたとしたら、魔女に魂を売りたくなる気持ちも分かってしまう。
「そりゃこれだけ酷いことしてれば魂売られたって自業自得じゃない?」
ふとそう思ってしまった。
きっと電車に飛び込んで死んだあの子も、この子のことを死ぬほどいじめてたんだ。
でも、私は?
私やしみずやクラスのみんなは、何も悪いことなんてしてないじゃない。
弓槻も言ってたけど、他人の願いを叶えるためだけに死ななきゃいけないなんて絶対やだ。
ネットニュースを見ても、飛び込み自殺したあの子や沙里と珠夏のニュースは特に出てこない。
「…………」
この間まで普通の生活を送ってたのに、どうしてこんなことに巻き込まれなくちゃいけないの?
「まぢ無理……」
私はスマホ放り投げて抱き枕に顔を埋めた。
明日から、どんな顔をしてみんなに会えばいいんだろう。
きっとうちのクラスが魔女に売られたことを知ってるのは、弓槻と私としみずだけだ。あ、売った本人も知ってるだろうけど。
他のみんなは、何も知らないまま死ぬのか。大切な人に別れも言えずに、いきなり、死ぬんだ。
「はぁ……」
みんな一気に死ぬのかな。それとも毎日一人ずつ死ぬのかな。
「…………」
体を動かす気にもなれなかった。私はそのまま眠りに就いた。
沙里と珠夏が死んでから三日後。
休校が終わり、またいつもの日常が始まった。
電車もいつも通り動いた。
いつも通りの、朝だった。
学校に入ると、ちょうどクラスメイトがローファーを脱いでいるところだった。この子は確か、綾瀬さん。
「あ、おはよ」
特に親しいわけでもないし入学式後に少し話した程度の仲だったけど、無言で通り過ぎるのも気まずいような気がして、何となく挨拶をした。
「…………」
が、綾瀬さんは泣き腫らしたような真っ赤な虚ろな目で私の胸元を見ただけで、何も言わずに階段を上がっていってしまった。
……そうか。あの子は沙里や珠夏と仲が良かったんだ。
無視されたことに対する怒りの感情は全く浮かんでこなかった。代わりに、大切な人を失ってしまう恐ろしさを知らしめられた気がした。
教室に入ると、先に来ていたしみずが駆け寄ってきた。
「おはよう、りんね」
「おはよ。休みの間、大丈夫だった?」
しみずは頷いて、心配そうに机に突っ伏している綾瀬さんに視線を向けた。
「無理して学校来たのかな。」
必死に声を押し殺しているようだけど、思いっきり漏れている。さっき会った時目が真っ赤だったのは、やっぱり休みの間もずっと泣いてたってことか。
「大事な友達が死んじゃうなんて、耐えれないに決まってるよね」
しみずがぎゅっと私の手を握ってきた。
「……そうだね」
私も握り返した。
授業が始まっても教室はお通夜状態だった。どの教師もどこか憔悴しているように見えた。
暗い雰囲気のままお昼休みになり、私としみずはいつものように対面してご飯を食べていた。
教室では誰も言葉を発していない。私達も何となくその空気に合わせて、無言で咀嚼する。
ちらりと弓槻の方を見ると、立ち上がって教室から出ていくところだった。
「っあ、」
思わずつられて立ち上がってしまった。静まり返った教室に椅子と床が擦れる大きな音が鳴り響いた。みんなの視線が私に集まっているが、そんなことは気にならなかった。私は弓槻を追い掛けて教室から飛び出した。
弓槻は黒髪を靡かせながら廊下を走っていた。
そのまま階段を下っていく。私が一階に着くと、A棟とB棟を繋ぐ通路のドアを開けて出ていこうとしているところだった。
「……!?」
私も続いてドアを開けるが、弓槻の姿は見当たらない。
何で、今確かに……。
「やっぱり着いてきたのね。」
背後から声がして、驚いて振り返る。ちょうど日陰になっていて見えなかったが、腕を組んで柱に寄り掛かる弓槻が居た。伏し目勝ちの目でじろりと私を見ている。
「やっぱりって何だよ、私が着いてくるって分かっててわざとここに来たのかよ?」
何となく見透かされているような気がしてムッとした。
肩で息を整えながら弓槻をじっと見詰める。
「そうよ。」
弓槻も私を見詰め返してきた。
透き通るような瞳だ。
「……聞きたいことがあるんでしょ。」
「……うん」
悔しかったけど、私は頷いた。
私は周りを見渡して近くに人が居ないことを確認した。
「この前、お姉さんが一年前売られたって言ってたでしょ。その時、お姉さんと周りの人は一緒に……亡くなったの?」
ざあっと風が吹き抜ける。弓槻の黒髪が靡いて表情を隠した。遠くの方で誰かの談笑する声が聞こえてくる。
「姉は、教室ごと消し飛んだ」
弓槻はそう言うと、こちらに向かって歩いてきた。日陰から日向に移るとその肌は眩しいほど真っ白に見える。そこに浮かび上がる二つの瞳は、赤く燃え上がっていた。
「家庭科の授業中、爆発事故が起こった。当日欠席していた一人を覗いて、全員が死んだ。」
「それって……」
「その残った一人は、次の日海外に引っ越していった。学校に聞いても、個人情報だからって名前すら教えてもらえなかった。」
そう言う弓槻の声は震えていた。
「姉の場合はそうだったけど、みんないっぺんに死ぬとは限らないみたいよ。現にこの前飛び込み自殺した女生徒の周りでは一人ずつ死んでいったみたいだから。うちのクラスはどっちになるのかしら」
そう言う弓槻の声はもう震えていなかった。
弓槻はくるりとUターンした。
「こんなことを聞いてどうするつもりだったの?あなたも協力してくれるのかしら」
振り向きざまに弓槻はじろりと私を見上げた。伏せられたまつ毛のせいで黒目がほとんど見えない。
「どうせ何も出来ないなら、こんなこと聞いたって意味ないでしょ。」
またあの虫けらでも見るような目で睨み上げられた。ムカついたけど何も言い返せなかった。だってそうだ、私には何も出来ない。
「正直、私はあなたが犯人かもしれないって思ってる。」
「は!?」
いきなり飛び出してきた弓槻の言葉に私は思わず声を上げた。
「何でだよ、この前私の疑いは晴れたって言ってたじゃん。あれってそういうことじゃなかったのかよ?」
「あの時はそう思ってた。けど次の日の放課後、全員の机を調べたけど、誰の机にも何もおかしな物は入ってなかった。」
「おかしな物、ってそもそも何だよ……」
「魔法の力を手に入れた者は、黒い水晶玉を持っているってどこかで聞いたから。でも持ち運んでいなかったみたいね」
弓槻はそう言うと、ドアを開けて後者の中に入ろうとした。
「でもあなたじゃないって何となく分かったわ。」
そう言って、ドアから手を離した。ゆっくりと閉まろうとするドアを慌てて掴む。
「何でだよ?」
弓槻はふっと笑って、
「だって、初めて私の姉の話を真剣に聞いてくれた人だから。」
弓槻は階段の影に姿を消した。
その日からしばらくは、平和な日々が続いた。
少しずつクラスの雰囲気も元に戻ってきている。みんな会話を交わすようになったし、笑うようにもなった。
「綾瀬さん、もう来なくなってから一週間経つね。」
誰かがそう言った。ああ、綾瀬さんが来なくなってからもうそんなに経つのか。
日常が戻りつつあったけど、もう元には戻らないこともあるみたいだ。
「あのぉ、ちょっといいですか?」
ぼーっと宙を眺めていると、誰かにとんとんと肩を叩かれた。
驚いて見上げると、そこには珍しい人が立っていた。
「あ、ああ、えっと……」
「あ、ごめんね、私の名前知らないよね。
湯川です。湯川結(ゆかわむすび)。」
「ああ、湯川さん……」
びっくりした。湯川さんとはこの高校に入学してから一度も言葉を交わしたことがなかったから。今聞くまで名前すら知らなかった。
急にどうしたんだろう。
「むすびでいいよ?」
湯川さんはにこっと笑った。
「じゃあむすびで……」
断る理由もなかったので名前で呼ぶことにした。
むすびは大人しい印象だった。
栗色の髪をゆるく三つ編みにしていて、縁が太い真ん丸の眼鏡を掛けている。いつも教室の隅で二、三人で固まってゲームか何かの話をしているから、正直暗い子なのかと思ってた。
「りんねちゃんとずっと話してみたかったんだぁ」
でもそう言ってにっこりと笑う。むしろ明るい子なのかもしれない。
「え、ええと?」
満足げににこにこしたまま突っ立っているむすびにおずおずと尋ねる。
「話し掛けてくれたってことは、何か用事でもあるの?」
するとむすびは「あ」と声を上げて、またにこにこし出した。
「ごめんね、ただ話してみたいなぁって思ってたから話し掛けただけなの」
「そ、そか」
何か掴みどころがない子だな。
「良かったらこれからも仲良くして?」
「あ、うん、それはもちろん」
「えへへ〜?」
むすびはにこにこしながら制服のポケットからスマホを取り出す。
「LINE交換しよぉ?」
「そう言えば同じクラスなのに交換してなかったね、」
私もLINEを開いてQRコードを表示する。
むすびがそれを読み込んで、私達はスマホを閉じた。
「じゃあ、またね〜」
むすびは嬉しそうにスマホを抱えながら、いつものグループの中に戻っていった。
ここ最近は殺伐とした気持ちだったから、少しだけ和んだ気がした。
何か不思議な子だけど、悪い子ではなさそうだな。
「りんねちゃんって英語苦手なの〜?」
「りんねちゃんって髪の毛短いよねぇ」
「私もりんねちゃんみたいに足細くなりたいなぁ!」
それから、むすびと私は仲良くなって、よく一緒に居るようになった。
……いや、これは仲良くなったと言えるのか。ほぼ一方的に付き纏われてる感じなんですけど。
むすびは何かと私に話し掛けてくるようになった。夜中は毎日LINE送ってくるし、一緒に居ない時も気のせいかずーっと視線を感じる。
「はぁー」
私はむすびがトイレに行ったのを確認して、大きな溜め息を吐いた。
何だろう、ほんとに悪い子ではないんだけど、疲れるってゆーか……。
「りんね、大丈夫?」
心配そうな顔をしたしみずが近付いてきた。そう言えば最近はずっとむすびと一緒に居るから、お昼以外はほぼしみずと話していなかった。
「湯川さん、最近明るくなったよね。りんねとよく話すようになってからかな」
「そー?確かに前までは存在も知らないくらい大人しかったけど……」
「最近りんね達すごい仲良いもんね。」
「見てて分かるでしょー?ほぼ一方的に絡まれてるだけってゆーか……」
「りんねちゃんひど〜い!」
いつの間にか教室の前に立っていたむすびがぷぅと口を尖らせて駆け寄ってきた。そして私に抱き着く。
「ちょっと最近塩じゃない〜?」
「あー、あはは」
最近は疲れ過ぎて嫌な顔を取り繕う気力もなくなってしまった。でもいくら冷たくあしらっても、むすびは傷付いた顔一つせずにずっと絡んでくる。
しみずはそんなむすびに遠慮してるのかお昼休み以外は話し掛けてこなくなったし。今だってむすびが来た途端そそくさと自分の席に戻ってしまった。
その時、ガラッと半開きだった扉が開かれて、誰かがひょっこりと顔を覗かせた。
「湯川さーん?さっきこれ落としてたよ?」
そう言って教室に入ってきたのは、別のクラスの子だった。
「えー?ありがと〜!」
その子がむすびに手渡したのは、
「ッ!?」
私と弓槻が同時に立ち上がる。
「待って、むすび、それ」
ものすごい勢いで弓槻が近付いてきて、むすびが受け取る寸前でそれを奪い取った。
「ちょっと、何するの〜」
身長が低いむすびが飛び跳ねて必死に奪い返そうとするけど、それを弓槻は軽やかに躱していく。
「あなた、これ、どこで手に入れたの?」
弓槻が握っているそれは、確かに真っ黒な水晶玉のように見えた。
むすびは驚いて弓槻の顔を見た。
……何かバレちゃまずい理由でもあるのだろうか。
「どこで、って、それ聞いてどうするつもりなんですか」
むすびは小さな声で早口でそう言った。いつもの語尾を伸ばす特徴的な喋り方じゃなくなっている。
「あなたが答えた内容によっては、私はあなたを――」
「教えないもんん!」
「あっ!」
むすびが無理矢理弓槻から黒い水晶玉をひったくった。そして大事そうにそれを抱えて教室から飛び出した。すぐに弓槻も無言でそれに続いた。
「待っ……」
私も追い掛けようとしたけど、誰かに腕を掴まれた。振り返ると、不安そうな顔をしたしみずがぶんぶんと首を横に振っていた。
「何でだよ、むすび……」
……まさか、うちのクラスを売ったのは、本当にむすびなの?
次の授業が始まっても、お昼休みになっても、午後の授業が終わっても、むすびと弓槻は戻ってこなかった。
心配だったけどずっと待っていても仕方ないので帰る支度をしていると、ふと肩を叩かれた気がした。触れるか触れていないか分からない程度の力加減だったから気のせいかと思ったけど、次に「あのぉ」と小さな声で話し掛けられたから、どうやら気のせいではないみたいだ。
「ええと、岡田さんと倉野さん?だよね」
少しぽっちゃりした細長い形の眼鏡を掛けた岡田さんと、細くてちょっと赤いニキビの多い倉野さん。前までむすびと一緒に居た子達だ。
「え、名前、覚えててくれたんだ」
二人は嬉しそうに目を輝かせた。
二人のことはたまにむすびから聞いていたから話したことはないけど名前は覚えている。
「で、何か?」
二人は「あっ」と小さな声を上げて、「ええと」と顔を見合わせてから話し出した。
「休み時間、弓槻さんとむすびちゃんが揉めてたでしょ。むすびちゃん、多分朝から並んでやっと買ったグッズだから無闇に触られたくなかったんだと思う……」
「数量限定品だったし、取られると思ったんじゃないかな。てか弓槻さんもツイスタ好きだったんだね……」
「え?ちょっと待って。グッズ?ついすた?何それ」
私が尋ねると、二人は目を見開いた。
「ツイスタ知らないの?今流行ってるバトルゲームだよ」
「むすびちゃんが持ってたのはツイスタに出てくる魔法の玉のグッズで――」
いきなり立ち上がった私を見て二人はびくりと肩を震わせた。
「ごめん、ありがと!」
私はそれだけ言って、机の上に置いてあった鞄を掴んで教室から飛び出した。
二人が言ったことが本当なら、むすびは何も悪くない……!
すぐに弓槻に知らせないと手遅れになるかもしれない。いや、二人が出ていってからもう既にかなり時間が経ってるけど……。
取り敢えず私はどこに居るのかも分からない二人を探しに走った。
教室を飛び出したは良いものの、二人がどこに居るかなんて見当もつかない。それにまだ学校の中に居るとも限らないし。
「あ、そうだ」
むすびに電話掛ければいいんじゃん!
何度か呼出音が繰り返されて、ブツリと言う音の後にむすびの声が聞こえた。
『もしもし〜?』
「あ、むすび!今どこ?」
普段と変わらないむすびの声にほっとした。
『一階の通路だよ〜』
「そっち行っていい?」
『うん!』
「じゃあ行くね」
私は通話を切って、階段を駆け下りた。
一階に着くと、A棟とB棟を繋ぐ通路に人影が見えた。
「!むすび」
栗色の柔らかな三つ編みの後ろ姿。他に誰かの姿は見当たらない。弓槻ももう居ないみたいだ。
私は通路のドアを押し開けた。
「むすび!」
私の声に反応して、笑顔のむすびが振り返った。
「りんねちゃん!」
むすびが抱き着いてきたので私も何となく抱き返した。良かった、何もされてないみたいだ。
「むすび、大丈夫だった?ずっとここに居たの?あの後弓槻に何化されなかった?」
私が尋ねると、むすびはふにゃふにゃと笑いながら私の顔を見上げた。
「何もないよ〜?」
「え、でも弓槻だったら……」
弓槻だったら、犯人かもしれない証拠を持っていた人に何も言わないわけないんじゃ?そう思ったけど、いつも通りにこにこしているむすびを見る限り本当に何もなかったみたいだ。
「あの後弓槻とどうなったの?」
「さぁ〜?弓槻さんすぐ帰っちゃったよ?」
「あの黒い水晶玉は?大事な物だったんでしょ」
「あ、もしかして岡田ちゃん達から聞いたんだ?」
むすびの顔からふっと笑顔が消えた。私は見間違いかと思って二度見したけど、表情は消えたまま。
こんな顔をしたむすびを私は初めて見た。
「ダメだよ、あの子達と喋っちゃ」
そう言うと、目の前にずいっとむすびの顔が現れた。
咄嗟にそれを避けた。そして、思わずそのまま後ずさる。
だって、今のは明らかに、唇が触れそうになったから。
むすびはそのままとんとんと二歩ほど進み、振り返って私を見た。そしてまたにこっと笑った。
「あれなら返してもらったよっ。三時間並んでやっと買えた推しのアイテムだもん」
むすびはそう言って、校門の方へ歩いていく。
「またね、りんねちゃん。」
きっと今のむすびじゃなければ、「一緒に帰ろ〜」と言われてたに違いない。
何だろう、今のむすび、まるでむすびじゃないみたいだ。
「…………」
近付いてくるむすびの顔が脳内で再生される。
目を細めて、にんまりと笑った口元。いつもの粘土みたいに柔らかい笑顔とは全然違った。
そして、何故だか私は分かってしまった。
むすびは、私に嘘を吐いていた。
家に帰って、久しぶりにあのブログを開いた。
あ、更新されてる。
ここ最近はパタリと更新されないようになってしまっていた。まるで急にいじめがなくなってしまったようだった。
最新のブログに目を走らせる。
『こんばんは。お久しぶりです、元気にしてましたか?
私は最近、久しぶりに嬉しいことがありました。
いや、最近はずっと楽しいです。死にたいなんて言っていた頃が嘘みたいって思うくらい幸せです。
何でかって言うと。
私はいじめっ子達に立ち向かいました。
そしたら、いじめはなくなりました。
みんな私に謝ってくれて、私に優しくしてくれるようになりました。
でも、やっぱり学校では友達が出来ませんでした。
でも大丈夫です。違う高校の友達が出来ました!
その子にこのことを話すと、『一人で立ち向かえるなんてすごいね』って言ってくれました。
でも、本当は私一人だけの力じゃなかったんです。協力してくれたその人のことを話すと、友達はとても興味を持ってくれました。
明日、その子を協力してくれた人に会わせようと思います。
それが終わったら、一緒にショッピングしたり、カラオケ行ったり、プリ撮ったりしたいなぁ。
今からでも遅くないよね。
今までやりたかったこと、全部やるんだ。
私のブログを見てくれていた皆さんも幸せになれますように。
私が魔法をかけときますね。
それでは。』
読み終えて、私は言い表せない不快感を覚えた。
この子はところどころ濁してるけど、事情を知ってる人には分かってしまう書き方だ。
いじめがなくなったのは、いじめっ子が消えたからだ。
協力してくれた人っていうのは、きっと魔女のこと。
『魔法をかけときますね』は、……いじめっ子の魂を売って手に入れた魔法の力でも使うつもりだろうか。
しかもこの子は関係ない友達まで巻き込もうとしている。魔女に会わせるなんて簡単に出来るの?そもそも会っても大丈夫なの?たくさんの命を奪ってるような人なのに。
更新日を見ると、どうやら今日投稿されたようだ。
と言うことは、この子が友達と魔女に会いに行く日は、明日ってこと。
もしこの子を見付けて、後をつけることが出来たとしたら――?
不可能じゃない。だってこの子の制服は毎朝見掛ける。学校名だって知ってる。場所を調べればすぐにでも行けるはずだ。
ごくりと唾を飲み込む。
手がひんやりとして汗が滲んできた。
「これ以上クラスのみんなが死ぬのを止めるには、やるしか……ない」
ブログが表示されたままのスマホをぎゅっと握り締めた。
翌日。
大好きなバンドの曲で目が覚めて、顔を洗って、制服に着替える。メイクをして、髪をアイロンで整えて、ワックスとスプレーでセットする。
いつも通りの朝だ。
「ねぇ、りん姉」
いつも通り家を出ていこうとすると、リビングでテレビを見ていた妹が話し掛けてきた。
妹から話し掛けてくるなんていつ以来だろう。それどころか最後にちゃんと言葉を交わしたのもいつか覚えていない。
「なに?」
妹が振り返る。あ、久しぶりに顔見たな。何か大人っぽくなった気がする。
そんなことを思っていると、妹が立ち上がってテレビを消した。
「駅まで一緒に行こ。」
「あ、うん。」
ずっと口も聞こうとしなかった妹が、どうして急に?
心臓がどきどきと高鳴る。
家から出ると、しばらく私達は微妙な距離感を保ちながら無言で歩いた。
うう、気まずい。何を話せば良いんだろう。
「…………」
ちらりと妹を見る。
こうして一緒に家を出るのは、お父さんが家を出てってからだ。
妹はあれからずっと私を避けているように思えた。もちろんお母さんのことはもっと避けてる。お母さんが朝帰ってくる時間はずっと部屋に居て、お母さんが寝ると朝の支度を始める。まぁ、私もそうだけど。
お父さんと離婚してから何の仕事をしてるのかも分からないし。
そうだ、家族と話すのなんていつぶりだろう。最近はずっと家に居てもひとりぼっちだった。
「ちょっと、何泣いてんのよ」
不審そうに私を見る妹。いつの間にか涙がこぼれていた。
「いや、ごめん、何か感動した」
「はぁ?バカじゃないの」
「相変わらず生意気だな。」
私が言うと、何故か妹は吹き出した。そして声を上げて笑った。久しぶりに見た妹の笑顔は、生意気だったけど昔と変わらなかった。
あ、やば。また泣きそう。
私はこっそり妹に背を向けた。
駅に着くと、改札で妹と別れる。
「……気を付けてね」
別れ際に、小さな声でそう言われた。
まるで妹に、今日しようとしていることがバレているみたいだ。
「……うん。あんたもね」
私達は、それぞれ階段を降りた。
心臓が高鳴る。階段を下りる足も震えている。
『間もなく二番線に各駅停車……』
アナウンスが流れる。電車が来て、停止する。
やば、今日は妹に合わせて家出たから……。これ逃したら遅刻確定なんだけど!
慌てて残りの段を駆け下りて、電車に飛び込んだ。
「はぁ……」
良かった、遅刻は免れたみたいだ。安堵の息を漏らすと、目の前に居た人に鞄がぶつかってしまった。
「あ、すみませ……」
慌てて顔を上げると、大学生くらいの女の人だった。ホワイトブロンドのボブがふわりと揺れる。
「こちらこそすみません。」
その人はにこりと笑ってそう言ってくれた。私は軽く会釈した。
学校に着くと、見慣れた顔が校門の前に立っていた。煉瓦の塀に背をつけて、まるで誰かを探しているみたいに、通り過ぎる生徒達の顔を確認している。
「あ。」
目が合う。もしかして、探しているのは私?
「待ってた。」
弓槻が、こちらに歩み寄ってきた。
どうして弓槻が私を待っていたのか、何となく予想はついていた。
「むすびと、あの後どうなったの?」
下駄箱で上履きに履き替えながら訊いた。目を伏せた横顔に艶やかな黒髪が垂れている。不覚にも見蕩れてしまったけど、弓槻にじろりと見上げられて慌てて目を逸らした。
「あなた、湯川さんと仲良いの?」
じ、と見詰められて、私は一瞬迷ったけどこくりと頷いた。
「じゃあ傷付くかもしれないから言わない。」
さらりとそう言って、さらりと黒髪を翻して階段に向かっていく弓槻。
「待てよ。言う気ないなら何で待ってたのかよ」
階段まで走っていって尋ねると、弓槻は、
「あなたは湯川さんを友達と思ってないように見えたから。でも違った、だから言わなかった。」
そう言って、階段を昇っていく。
「何だよ、じゃあ私が頷いてなかったら話してたってことかよ……」
そう呟いた私を細長い目で見下ろして、弓槻は無言で二階に姿を消した。
「優しさのつもりかよ。」
あくまでも一人で解決しようとしているらしい。真実を知っている私に頼ろうともしない弓槻に、少しだけ腹が立った。
「ねえ」
休み時間。私が席の前に立つと、弓槻はいつもの表情で、……目だけ見開いて、私を見上げた。
「ちょっと来て。」
無理矢理弓槻の手を掴んで立ち上がらせた。バカみたいに細い手首だ。放課後机を漁っていたのを止めた時は気付かなかったけど、力を入れれば簡単に折れてしまいそうだ。
「りんね」
しみずが心配そうな顔で私を見ていたけど、私はわざと無視した。
ごめん、しみず。しみずだって真実を知ってるけど、そこまで深く知ってるわけじゃない。だから巻き込むわけにはいかない。
私は弓槻の手を引いて早足で教室を出た。
突き当たりの階段の踊り場で、私は立ち止まった。弓槻の手を離すと、弓槻は息を弾ませながら目を細めて私を見た。
「急に何?」
周りに誰も居ないことを確認する。
「魔女に、会えるかもしれない」
私がそう言った途端、弓槻がばっと私の肩を掴んで、
「どうして?」
と私を見上げた。さっきみたく表情はいつもみたいな無表情なのに、目だけ見開いていて少し怖い。
「これ、見て。」
私は弓槻にスマホを渡して、あのブログを読ませた。ツイートも見せて、この子が飛び込み自殺をした子の魂を売ったかもしれないこと、今日この子を見付けて後をつければ魔女に辿り着けるかもしれないことを話した。話し終わると、心做しか弓槻の目が輝いているように見えた。
「すごい、よく見付けたわね」
「いや〜、やっぱ私天才?」
「……でも」
スっと弓槻の瞳から光が消えた。
「魔女に会って、どうするつもりだったの?」
「え……」
弓槻は半ば投げ付けるようにスマホを私に押し付けた。これは癖なんだろうか。
「後をつけて、魔女に会ったら、私達は消されるだけよ。それにもし仮に魔女が話がつく人だったとして、消されなかったとしても、もう売った本人に魔法の力を与えてたら、どっちにしろ魂を売ったことは取り消せない。消されるだけ。」
「じゃあもうどうしようもないんじゃん……」
「魔女に会ったってあんなに大きな力を持った相手に敵うわけないもの。犯人を特定するのを優先した方が早いわ。」
「でも、魔女に会えば何か手掛かりが分かるかもしれない!」
「重要なのは魔女じゃないわ。……そうね」
弓槻は私が握っているスマホをじろりと見た。
「その女子高生に近付きましょ。」
授業が終わってすぐに私と弓槻は学校を抜け出した。向かう先は決まっている。ブログの子の高校だ。
「私立城雲高校だから、ここから三駅で乗り換えて……」
弓槻とスマホで調べながら校門を出る。
ふと後ろに気配を感じたけど、私は気にしないで城雲高校への道を調べた。
普段乗らない電車に乗るのはとても新鮮だ。地上に出ると暖かな太陽の光が差し込んでくる。もう五時近いけど、夏だからまだ明るい。少しだけ眩しい。
人は疎らで、椅子もがらりと空いていたけど、私達は何となく一つのドアの両側に立っている。
ガタン、ゴトン、と、車体が微かに揺れる。
「弓槻」
名前を呼ぶと、弓槻は窓から私へ視線を移す。
「ブログの女子高生に近付く、って、どうやって近付くんだよ」
尋ねると、弓槻ははぁっと短く溜め息を吐き、
「あなたが話し掛けるのよ」
「はぁ?私頼みかよ、弓槻がやればいいじゃん、言い出しっぺでしょ?」
すると弓槻は、
「……友達のなり方が分からない」
俯いてそう言った。
「あー……」
否定して慰めようとしたけど、言葉が思い付かなかった。
『××〜、××〜』
城雲高校の最寄り駅に着いた。
電車から降りて改札を出て、右へ曲がる。ここからずっと真っ直ぐ進んでいけば、私立城雲高校があるはずだ。
「あ、あの子がツイートしてる。
『五時にこっちまで来てくれるらしいから、もうすぐだよね。楽しみだなぁ。』
だって。間に合うかな」
私達は自然を足を早めた。
城雲高校の校舎が見えてくる。私達は次々と校舎から出てくる城雲高生の並に逆らいながら、目立たないように校門付近に向かう。
するとふと校門の向こう側に立っていた女生徒と目が合った。
「…………」
その子は不思議そうな顔で私達をじっと見詰めた。 けど、すぐに視線は足元に戻った。
「あの子かしら」
弓槻がそう囁いてきたけど、画像ツイに映る子とはまるで別人だ。画面に映ったこの子はタピオカみたいな真っ黒で大きな瞳で二重だけど、あの子は三白眼で一重だ。肌の色も、病的な白さと健康的な小麦色でまるで違う。
弓槻に見せると、「違うみたいね」と納得した。
「でも誰かを待ってそうな子って言ったらあの子くらいだよね。もしかしたら待ち合わせ場所は駅なのかな――」
「あれぇ?りんねちゃん?」
背筋が一気に凍り付いた。心臓が一瞬大きく脈打って一瞬泊まった。
ぎぎぎ、と機械的に首を動かして声のした方を振り返る。そこに立っていた人物が、カバンを胴の後ろに持って前かがみになって笑っていた。
「む、むすび……」
にっこりと笑うむすびが、そこに立っていた。
むすびがにっこりと笑って、ゆっくりと私達に近付いてくる。
「なんで……?」
昨日の出来事もあって、私は少し警戒した。
「弓槻さんまで。どうしてこんなとこに居るのぉ?」
むすびは人差し指を頬に添えて小首を傾げる。
「むすびこそどうして?方向逆でしょ……」
「私はね?おーい、水純ちゃん!」
たたた、と校門の向こう側に立っていた女の子へ駆け寄っていくむすび。その子ははっと顔を上げて、嬉しそうにむすびに手を振った。
「むすびちゃん……!」
どういうこと???
「この子達は同じクラス弓槻さんと親友のりんねちゃん!こっちは城雲高の戸川水純(とがわみずみ)ちゃんだよ!」
「親友って」
満面の笑みを浮かべるむすびが、丁寧に私達を紹介してくれた。戸川さんは小さくお辞儀をしてくれたけど、顔を引き攣らせていて私と目を合わせようとしてくれない。
「まぁ、よろしく、ね?」
気まずい空気の中、私はそう言っておいた。
そして確信した。
この子が、飛び込み自殺をした子達の魂を売った張本人だ。
私達は何となく、むすびと私、戸川さんと弓槻で肩を並べて歩いた。
「ちょっと、何でそんなくっつくの」
むすびがぐいぐいと体を押し付けてくる。
「だってりんねちゃん大好きなんだもんん」
「いや、普通戸川さんと弓槻二人っきりにしないっしょ……」
私たちの後ろを歩いている戸川さんと弓槻はさっきから一言も言葉を発していない。それがすごく気まずい。むすびは戸川さんと友達なんだから二人でくっついてほしい。
「でもびっくりだなぁ。まさか水純ちゃんの学校にりんねちゃん達が来るなんて」
どき、と心拍数が跳ね上がる。
「ま、まぁ、ね?」
乾いた笑いを漏らす。
「せっかくだから四人で遊ぼうよぉ?」
「え!?」
いきなり戸川さんが叫んだものだから私は思わず前に転びそうになった。
「なぁに?嫌なの?」
むすびがちらりと振り返って戸川さんを見る。
「でも、そしたらあの人に会えなくなっちゃうよ……?」
「いいのいいの!りんねちゃんとせっかく会えたんだから遊びたいもん」
「う、うん……。ならいいけど……」
戸川さんは納得出来ないようだ。俯いてしまった戸川さんを、弓槻がちらりと横目で見ていた。
やっぱり、戸川さんはあのブログの女子高生で、今日魔女に会わせようとしていた友達はむすびだ。
でもこんな偶然ある?と言うことは、むすびは魔女の秘密を知っているってことになる。そして、戸川さんが何十人もの命を犠牲にして魔法の力を手に入れたことも。うちのクラスが売られたのを知っているかは定かではないけど。
隣で鼻歌を歌いながらスキップするむすびを見る。
戸川さんとむすびをこのまま放っておくわけにはいかない。戸川さんはきっとむすびを巻き込もうとしている。
何としてでも、止めなきゃ。
私達は大通りに出た。するとむすびが大きなビルを指差す。
「ここ入ろぉ?」
「あ、カラオケ!」
ずっと無言だった戸川さんが嬉しそうにそう言った。
「……じゃあ、入るか」
ビルに入ろうとすると、弓槻にシャツの裾を引っ張られた。
「ちょっと。」
「りんねちゃん?」
むすびが振り返って私達を見る。
「ごめん、先入ってて。」
私がそう言うと、むすびは「先受け付け済ませとくね〜」と言って、戸川さんの腕を引っ張りながらビルに入っていった。
「なんだよ」
弓槻は私の胸ポケットを指差して、
「あの子のアカウント、開いてみて。」
そう言った。
言われるままにTwitterを開いて、戸川さんのアカウントを見る。
「!?」
すると、さっきまでなかったツイートが一番上に表示されていた。
『なんかいきなり友達の友達が来て一緒に遊ぶことになった。何で邪魔するんだろう。あの子達も消しちゃいたいなぁ』
「これって、私達のこと?」
スマホを持つ手がぶるぶると震える。
「いつの間にツイートしてたんだよ……」
「さっきあなた達が話してる時、あの子がスマホを弄ってて、少しだけ画面が見えたの。きっとその時ね」
「はぁ……マジかよ」
完っ璧に嫌われてんじゃん。怪しまれてる訳じゃないみたいだけど、どうやら私達を消そうとしてるみたいだ。
「魂売られる前にあの子に魔法で殺されるんじゃないの?」
はははと乾いた笑いが出る。
「これ以上近付くのは危険かもしれない。帰りましょ」
弓槻はそう言うや否や、私の返事も聞かずに大通りへ戻っていく。
「ちょ、待てよ、無言で帰るとか非常識だろ!」
私はどんどん遠ざかっていく弓槻を追い掛けながらスマホを取り出し、むすびに電話をかける。
「もしもしむすび?ごめん、弓槻が急用思い出したみたいだから私らは帰るわ」
『えー?何でりんねちゃんまで帰っちゃうのぉ?一緒に歌おうよぉ』
「いや、ちょっとそれは無理かな」
適当に言い訳すると、むすびがはぁっと溜め息を吐いた。
『……せっかくここまで来たのに戻っちゃうんだね。』
「……え?」
心臓が凍り付く。そんな私を弓槻が横目で見てくる。
『……まぁいいや。また今度遊ぼぉ?りんねちゃん』
むすびはそう言うと、私が何かを言う間も与えずに通話を切った。
「……まただ」
また、一瞬だけむすびがむすびじゃないみたいだった。何なんだろう、その時のむすびは、まるで全てを知っているみたいな感じだ。
……まさか、全部知ってるのかよ。
私は弓槻肩を掴んだ。
「ねぇ!仲良いとか友達だからとかどうでもいいから、昨日むすびと何があったのか教えて!」
弓槻がゆっくりと振り返る。そして私をじろりと見上げた後、ゆっくりと視線を外す。
「……話して何になるの?」
「またそれかよ。最初は話してくれるつもりだったんでしょ?だったら話してくれてもいいじゃん」
「でも」
まだ話そうとしない弓槻に流石にイラッときた。
「一人で解決なんて出来る訳ないでしょ!」
私がそう叫ぶと同時に、信号が青になる。
弓槻がばっと顔を上げると、あからさまに怒っていた。細く形の綺麗な眉毛は吊り上がり、元々細長い目は更に細くなり、桜色の唇を噛み締めている。こんなに感情的な弓槻の表情を見るのは、初めてだ。
「あなただったら出来ないでしょうね。」
「何だよそれ、どういう意味だよ!」
私は思わず弓槻の肩を掴んだままの手に力を入れる。
「……痛い」
弓槻はそっぽを向きながらそう言う。私は無言で手を離し、鞄からルーズリーフを取り出し、端の方をちぎる。
「何してるの」
無視してペンを走らせる。そしてそれを弓槻の手に無理矢理握らせた。
「これ、私の連絡先だから。」
「いらない」
弓槻はそれを私の胸に押し付ける。
「いいから持ってろよ!何でそんなに他人に頼ろうとしないんだよ!」
ムカつく。
「他人に頼って、失いたくないのよ」
弓槻は透明な瞳で私を見上げた。そしてそう言うと、すたすたと信号を渡っていってしまう。
追い掛けようとしたけど、信号は赤に変わってしまった。
通り過ぎる車達の隙間から見える弓槻の後ろ姿は、小さくなり、やがて見えなくなった。
「何をだ、よ」
最後の言葉がやけに気になったけど、あそこまで言うなら、弓槻が一人で解決すればいい。あんなに大口叩いたんだから、相当な自信があるはずだ。
「かーえろ」
……ムカつく。
私はポケットからイヤホンを取り出して、最大音量で好きなバンドの曲を流した。
夕焼けが、痛いほど赤い夕焼けが、私を見下ろしていた。
夜。
『今日は楽しかった〜♪』
戸川さんが、そうツイートしていた。
「ユーザー名、『みずめろ』、か……」
改めて画像ツイを見る。最近のメイクと加工技術はすごいな。
「はー、何かもう疲れたわぁ」
ごろんとベッドに寝そべる。まぁ、後は弓槻が一人で解決してくれるんだから、私はもう余計なこと考えなくていいかな。
最近はしみずともあんまり話せてなかったし、久しぶりに遊びに行きたいな。
ふと、手に握っていたスマホが振動した。
「?」
知らない番号だ、誰だろう。でもどうやら都内からかけられているみたいだ。
「……もしもし?」
何となく出てみると、嗄れた女の人の声だった。
『もしもし。』
「あ、はい。どなたですか?」
『すみません、弓槻の祖母ですけれども……』
「弓槻の?」
思わず聞き返してしまった。どうして弓槻のお婆ちゃんが私に電話を?
『そちらは?』
「あ、同じクラスの首藤です。どうかされたんですか?」
『それがねぇ、さっき孫が――』
目の前が真っ暗になった。
『孫が、交通事故に遭ったんですよ』
息が上手く吸えない。
「あ、の、それで、様態は?」
声も震えた。ちゃんと聞き取ってもらえだろうか。
『それがねぇ……』
弓槻のお婆ちゃんは言葉を詰まらせた。
つまり。そういうことだ。
「そんな、なんで」
『いきなりごめんね、でも弓槻の携帯に唯一入ってた番号だったから。あの子あんまり愛想良くないでしょ?それにずっと学校行ってなかったみたいだし、仲良い子は居ないのかと思ってたの。仲良くしてくれてありがとうね』
「そんな、こと……」
あの後、弓槻はちゃんと私が渡した番号を登録してくれてたんだ。……あいつ、今どきLINE使わないなんて遅れすぎだっつの。
『ごめんね、夜遅くに。』
「あ、いえ」
そこからの会話はよく覚えていない。気が付いたらツー、ツー、と言う音が耳元で鳴っていた。スマホを持つ手がだらりと力なく垂れ下がる。
「何でだよ、何で」
何で、さっき一緒に帰らなかったんだろう。もしあの時無理矢理にでも一緒に帰ってたら、弓槻は死ななくて済んだんだろうか。
弓槻なら、本当に犯人を突き止めてくれる、なんて本気で思ってた。
でもその弓槻は、もう居ない。
「……私が」
私が、絶対に、犯人を突き止めなきゃ。
静かな夜に、二筋の涙が零れた。
『もしもし〜?あ、りんねちゃん!』
「ごめんむすび、ちょっと今から出れる?そっちまで行くから」
『いいよ〜?』
「××区だよね?今から行くから」
私は自転車に股がった。
夏の夜の風はひんやりしている。一漕ぎするたびに頬を優しく撫でてくる。
待ち合わせ場所の公園に着くと、ブランコに乗っていたむすびが立ち上がって手を振ってきた。
「りんねちゃーん!」
私は自転車から降りて、ゆっくりと押しながら近付いていく。
「りんねちゃんから誘ってくれるなんて嬉しいなぁ。どうかしたの?」
「むすび」
私を見て、むすびの表情からすっと笑顔が消えた。
「え、と。どうか、したの?」
きょとんと首を傾げるむすび。
「昨日、弓槻と何があったの?」
「え〜、昨日も言ったじゃん、何もなかったって……」
たははと頬を掻きながら苦笑いするむすび。
「嘘吐かなくていいから。」
私が言うと、すっとむすびの表情から笑顔が消えた。
じっと私を見詰めてくる。眼鏡の分厚いレンズの奥の瞳が私を捕らえて離さない。
「弓槻さんから、何か聞いたの?」
「弓槻が死んだって」
しん、と、一瞬だけ全ての音がシャットアウトした。
再び車の音が鳴り出すと、むすびは歪に口角を上げる。
「何それ、嘘?」
「嘘じゃない。さっき交通事故に遭ったって」
「え、え、え。」
むすびは明らかに戸惑っていた。そりゃそうだ、クラスメイトが死んだんだ。でも私にはその反応すら偽りに見えてしまった。
「だから教えて、むすび。弓槻と何があったのか。
知ってること、全部教えてよ」
「そんな、私は何も知らないよぉ……」
「そういうのいいから。」
私が言うと、むすびは驚いたのか目を見開いて数秒間私を見詰めた後、視線を逸らして、くすっと吹き出した。
「なーんだ、りんねちゃんって何も知らないんじゃん。」
「……ほんとにむすびなの?」
「そんなにいつもと違うかな。寧ろこっちが本当の私だよ。いつもはぶりっ子してるだけだよぉ」
むすびはいつもみたいにふにゃふにゃと笑う。
「私の前ではもう取り繕わなくていいから。だから全部話して。私が何も知らないって、むすびは何を知ってるの?」
むすびは目をうるうるさせて私に抱き着いてきた。
「りんねちゃんは何も知らなくていいんだよぉ」
「は?何それ」
「りんねちゃんは、知って、どうするつもりなの?知ったところで死ぬのは確定なんだよぉ?助かるなんて絶対無理だもん。」
「むすび、やっぱりうちのクラスが売られたこと、知ってんだね」
「もちだよ。でも私だけは助かるから!でもりんねちゃんも助けてあげてもいいよ?ただ私以外の友達全員と絶交してくれたらだけどぉ」
むすびは笑顔で突き立てた親指で私の首のある空間をなぞる。けど私は無視した。
「助かる方法があるの?」
「あるよぉ?」
「じゃあクラスの他のみんなも助けてよ」
「やだ♡」
むすびは一点の曇りもない満面の笑みで、
「だってアイツら全員嫌いだもん♡」
そう言い放った。
「何でって顔してるね。りんねちゃんには分かんないでしょ、教室の隅で、なるべく目立たないように生きてる私達の気持ちなんて」
「そんなこと……」
むすびは笑顔を崩さないまま続けた。
「私だって好きであそこに居たわけじゃないんだよ?入学式の時、ちょっとゲームが好きって話したら仲間に取り入れようとしてくんだもん、あいつら。」
「岡田さんと倉野さんのこと?あんなに仲良さそうだったじゃん……」
「向こうは必死に仲良くなろうとしてきたけど、私は友達なんて思ったことないよ。最初から嫌いだったし。他のあいつらと一緒に居るだけで見下してきたクラスの子達もみんな嫌い。
りんねちゃんは、最初から嫌な顔しなかったから好き。最近は塩になっちゃったけど。」
むすびはブランコを漕ぎ始めた。
キィ、キィ、と鎖が軋む音がする。
「でも、弓槻さんがこんなに早く死んじゃうなんてびっくりだなぁ。執念凄かったもん」
「いつから気付いてたの?」
むすびはんー、と一つも星の見えない黒い空を見上げながら、
「りんねちゃんと星野さんに弓槻さんが話してたのをたまたま聞いた時、かな?」
はぁ、あれ聞かれてたのかよ。
「それから結構影で聞いてたんだよぉ?今日だって二人が学校出ていくの追い掛けてたもん。全然気付かなかったよねっ」
校門から出る時視線を感じたのはやっぱり気のせいじゃなかったんだ。てかそんな前から知られてたなんて。
「じゃあいきなり私に話し掛けてきたのも計算ってこと?」
「計算なんて酷いなぁ。ほんとにりんねちゃんとは友達になりたかっただけなんだけどなぁ」
むすびは悲しそうに笑いながら、キコキコとブランコを小刻みに漕いだ。
「……で、弓槻とは何があったの?」
逸らされた話を戻す。
「弓槻さんとはほんとに何もなかったよ。黒い水晶玉を持ってたから疑われて、ちゃんとツイスタの公式サイト見せたら納得してくれたし。」
「本当?むすび嘘吐いてないよね?」
「うん。」
むすびは即答した。どうやら本当に嘘は吐いてないみたいだ。
でもおかしい。ほんとにそれだけだったら、どうして弓槻は私に話すのをあんなに躊躇ったんだろうか。仲良いからって話さない理由が分からない。
「あのさ、むすび……」
「あ、もう十一時だ。そろそろ帰んないと怒られちゃう。続きは明日でもいいかな?」
突然思い出したようにスマホの画面を見るむすび。
今、はぐらかされた?
「あ、うん、まぁ、そうだね」
流石にいつ補導されてもおかしくないし。
「じゃあね、むすび」
「うん、また明日〜」
明日、か。また臨時休校になるのかな。それとも噂通り普通に、何もなかったかのようになって、普通の日常に戻るだけなのかな。
ニュースにもならないのかな。そしたら犯人はどうなるの?
分からないことだらけだ。むすびはどこまで知ってるんだろう。でも簡単には教えてくれなさそうだ。
「……帰ろ」
夜の風が、酷く冷たかった。
翌日。
「何?うるさ……」
スマホがひっきりなしに鳴っていた。私は目覚ましだと思って画面をスワイプしたけど、それは鳴り止まない。
「ほんと何?」
寝起きで目がぼんやりして画面がよく見えない。
「クラスグル……?」
何やらクラスグルが騒がしい。
トーク画面を開いてみる。
『ねえ!昨日クラスの子が事故ったらしい!
多分ずっと学校来てなかった子だよ。
え、出席番号最後の子?
ニュースで流れてたよね?やっぱ
やばくない?』
私は思わず飛び起きて、夢中でトークを遡る。
うそ。弓槻の事故がニュースになってるの?魔女に売られたせいで死んだんだったら、報道されないんじゃなかったの?
私は布団を跳ね除けて階段を駆け下りた。驚いた表情の妹が私を凝視している。気にせずにテレビをつける。
『昨日、東京都××区の交差点で、高校生が跳ねられました。跳ねられたのは都内に住む――』
がちゃん。私は持ってたリモコンを落とした。その衝撃で勝手にチャンネルが変わる。
でも一瞬だけ見えた。画面に映った「弓」の字が。
「弓槻……」
どういうことなんだろう。間違いなく弓槻は誰かに魂を売られたせいで死んだはずだ。なのに報道されるなんて。事故なんてそう珍しいことじゃないのに、弓槻の死は報道されて、あの女子高生の飛び込み自殺や沙里達のことな何も報じられなかった。絶対におかしい。
「可哀想だね。犯人飲酒運転だったらしいよ」
パンを齧りながらスマホを弄っていた妹がぽつりと呟いた。
「はん、にん……?あ」
そうか、犯人が居るから流石に隠蔽出来なかったのかな。だから今まで魔女の力のせいで死んだ子達はみんな自殺で死んだのだろうか。でもだとしたらどうやって自殺-するように仕向けてるんだろう。魔法の力、なんかが存在するんだから、それも可能ってことか。
じゃあ、弓槻は何で事故死なの?
「……」
昨日の夜、弓槻のお婆ちゃんの悲しそうな声を思い出す。
……弓槻のお婆ちゃんは、大丈夫だろうか。
学校に着くと、教室はいつも以上にざわついていた。
「またうちのクラス?」
「怖いよね……」
クラスメイト達はみんな弓槻の死を知ってるみたいだ。
でも、沙里達の時とは違い、誰も涙を流していなかった。
「りんねちゃん!」
ぱたぱたと音を立てながらむすびが近付いてきた。
「どういうこと?おかしいよね、どうして弓槻さんのことがニュースになってるの?」
むすびは小さな声でそう囁いてきた。
「……分からない。」
私は自分の席に座って頭を抱えた。
「昨日りんねちゃんに弓槻さんが事故で亡くなったって言われた時も、実はおかしいって思ってたの。だって魔女に魂を売られて死んだ子は、みんな他殺じゃなくて自殺になるはずなの。」
「何、それ」
「他殺だとどうしても犯人が出てきちゃうじゃない?だから都合良く隠蔽出来るように自殺させられるんだって。」
「じゃあ弓槻のは何だって言うんだよ……」
「もしかしたら、本当に偶然だったのかも。魔女が魂を抜き取る前に、不慮の事故で死んじゃったってことじゃ……」
「じゃあ弓槻が死んだのは、魔女のせいじゃないかもってこと?」
じゃあ、弓槻はまだ死ぬ必要なかったってこと?妹は飲酒運転のせいで事故が起きたって言ってたっけ。犯人が恨めしい。
「ふざけんなよ、まだ何も分かんないままなのに」
むすびがじっと私を見詰めてくる。鋭い視線に、私はちらりと見返す。
「むすびごめん、放課後付き合ってもらえる?」
するとむすびはぱっといつもみたいな明るい笑顔になり、
「いいよぉ」
嬉しそうに私の手を握ってきた。
放課後。むすびと私はファミレスに入った。
「弓槻さんって、何でこのクラスが魔女に売られたって知ったんだろうね。」
店員にドリンクバーを二つ注文した後、むすびが突然そう零した。
「弓槻は取り引きの現場を偶然見ちゃったらしいんだよね。」
私はおしぼりで手を拭きながら話した。
「え!?じゃあ弓槻さんは犯人知ってたってこと?」
「いや、制服と会話からうちのクラスって分かっただけで顔は見えなかったって。」
「えー、髪型とか声の特徴とかで分かんなかったのかな」
「ずっと学校来てなかったし分かんなかったんじゃない?」
「なーんだ、わざと隠してるんじゃないかって思ったのにな〜」
「弓槻が?」
むすびはにこにこ笑いながら立ち上がる。
「だってそこまで見えたのに顔だけ都合良く見えないなんてそんなことあるぅ?学校で再会したら流石に分かるんじゃない?まぁいいや、とりまジュース取りに行こっ」
「ああ、うん」
言われるまま私も立ち上がった。
……弓槻が、嘘を?
まさかね。
「……そう言えば、むすびは助かる方法を知ってたみたいだけど、何で?」
カラカラと氷を掻き混ぜながら尋ねる。きっとまたはぐらかされると思ったけど、案外すんなりと答えてくれた。
「えー?水純ちゃんの魔法で助けてもらおうかなーって!」
「水純って、昨日の子だよね」
「そ!あの子クラスの子達の魂売って魔法の力手に入れるらしいから、その力で助けてもらうつもりなんだぁ」
「え、まさかとは思うけど、その為に戸川さんに近付いたの?」
おずおずと尋ねると、むすびは純粋な笑顔で、
「もっちろん!」
そう言い切りやがった。
この子、私に話し掛けたのも本当は計算だったんじゃないの?
「どうやってあの子が魔法の力手に入れたって分かったんだよ……」
「ツイ廃なめないでよぉ。りんねちゃんだってTwitterから水純ちゃん知ったんでしょ?あの子鍵もかけないで検索避けもしないでベラベラ書き込み過ぎだよね」
「まぁ、確かに……」
ズズ、とメロンソーダを一口飲む。むすびってほんとにこういう性格なんだなぁ……。
「水純ちゃんのおかげでギャル二人が死んだ時にうちのクラスが売られたんじゃって疑えたし感謝はしてるけどぉ、あの子やっぱいじめられっ子だから暗いし苦手だなぁ……」
「あのさ」
私が遮ると、むすびはきょとんと不思議そうな顔をして首を傾げた。
「むすび、昨日は私達と弓槻の会話を聞いたのがきっかけで知ったって言ってたよね?」
「あ……」
指摘すると、むすびは虚ろな笑顔になった。
「どれがマジでどれが虚言か分かんないけど」
私が言うと、むすびは「あー……」と小さな声を漏らして、何故か泣きそうな顔になった。
「ごめん、昨日のが嘘……。まだりんねちゃんに本音で話しても良いか分かんなくてぶりっ子してた……」
「あ、そ」
「でも今日話したのは全部ほんとだよ!?」
「じゃあ昨日話してた中にはまだ嘘があるってこと?」
「あ、弓槻さんと揉めた時の話はまぁ……」
ごにょごにょと濁そうとするむすびを睨み付ける。
「は?それはちゃんと話してよ。弓槻がもう喋れないからって改変しようとしてんの?」
「ちょっとぉ、そんな怒らないでよぉ……」
むすびは大粒の涙を零した。何、私が悪いの?バレなければ隠し通すつもりだったんじゃないの。無性に腹が立った。
「この前、ほんとはね……」
教室を飛び出したむすびは、そのまま階段を駆け下りて、A棟とB棟を繋ぐ通路に出る。
「待って」
弓槻がむすびの手を掴む。むすびは物凄い形相でばっと振り返り、弓槻の手を振りほどこうとする。
「触らないでよぉ!」
「それ、どこで手に入れたの?」
息を切らした弓槻を、むすびはキッと睨み付ける。
「じゃあ逆に聞くけど、何でそんなに必死になってんですかぁ?」
にたぁとむすびが笑う。
そんなむすびをじろりと見上げながら、弓槻はあくまで冷静に言う。
「あなたがそれを持ってるってことは、あなたが魔女に売った張本人ってことだからよ」
「魔女?売った?何のこと?」
「死んだ二人が言ってた都市伝説よ。あなただって教室に居て聞いてたじゃない。」
むすびは歯を食いしばる。
「あんなの信じてるなんて、あなたも案外バカなんだねぇ。」
「だったらあなたもバカってことになるわね、湯川さん。」
「はぁ!?意味分かんない、てかムカつく!」
「あなたってほんとに可哀想ね。いつも取り繕って疲れないの?ヘラヘラ笑って、誰かに媚びて、よく平気で居られると思う。私だったら耐えられない」
むすびが眉間に皺を寄せてわなわなと震える。そんなむすびを見下ろしながら、弓槻は無表情を保つ。
「あなたに何が分かるのよ。あなただって学校が嫌で不登校だったんでしょ?なら私の気持ちも分かるでしょ?笑って良い顔して何が悪いの?誰かに媚びて何が悪いの?平気なわけないじゃん。そうしないとまたいじめられるかもしれないじゃん。」
目に涙を浮かべながら吐き捨てるようにそう言う。弓槻はそれでも冷酷な鋭い視線をむすびに突き刺した。
「過去に何があったか知らないけど、それじゃどうしてこのクラスを売ったのよ。」
むすびはその問いに一瞬目を見開いた。そしてすぐににやりとほくそ笑む。
そしてお腹を抱えて笑いながら、弓槻の手を振りほどいた。
「魔女に売った犯人は私じゃないよばーか。嘘の情報に流されちゃうなんて、弓槻さんも可哀想だね」
けらけらと笑いながら弓槻を見るむすび。
「魔女に魂を売ったら黒い水晶玉を貰う、って、どこで知ったの?」
「掲示板。もう削除されてるけど。」
弓槻がそう答えると、むすびは更に笑い出す。
「いいこと教えてあげる。その掲示板にカキコしたの私だから。」
「……」
弓槻はぴくりと一瞬目を細める。むすびはそれを見逃さなかった。
「しかもあれ、何の根拠もない嘘だから。あの書き込みすれば、うちのクラスが売られてることに気付いた人を炙り出せると思ったの。きっと“私みたいに”必死になって情報掻き集めてると思ったから。だからこれを落としたのもわざと。全部私の計算。」
むすびはにたりと笑う。
「ほんとに信じちゃうなんて思ってなかった。弓槻さんが馬鹿で良かったぁ」
「あ、そう。でも良かったわ。あなたが犯人じゃないみたいで」
むすびの表情からスっと笑顔が消えた。
「何?どういうこと?」
弓槻は長い黒髪をさらりと翻して、
「だってもしあなたが犯人だったら、『お友達』が悲しむと思って。」
弓槻はそのまま校門を出ていった。
むすびがそこまで話すと、私達の間に静寂が訪れた。むすびは気まずそうに尻込みする。私は膝の上でスカートを握り締めた。
なんだよ。むすびの自作自演だったってことなのかよ。弓槻はきっと私に話したかったんだ。でも私とむすびが友達だと思って言わなかったんだ。
「あの、りんねちゃん……」
私はわざとらしく溜め息を吐いた。
「ごめんむすび、私もうあんたと関わりたくないわ」
吐き捨てるように言うと、むすびは「待って」と叫ぶ。
「りんねちゃん待ってよ、私だって情報持ってるんだよ?協力して弓槻さんの為にも一緒に頑張ろうよぉ」
「は?そもそもあんたが最初から事を知ってるって教えてくれてれば良かったんじゃん。何?今更。白々しい」
慌てるむすびを目を細めて睨む。
……待って。むすびは魔女に魂を売ったら黒い水晶玉を与えられるってでっち上げたじゃない。弓槻がクラスの机を漁ってたのはいつ?そうだ、弓槻が初めて学校に来た日だ。と言うことは、むすびはそれより前から魔女のことを知ってたことになる。
沙里と珠夏が死ぬ前から。
「……むすび」
私がぽつりと呟くと、むすびの肩がびく、と跳ねる。
「また嘘吐いたでしょ」
「ごめんりんねちゃん、違うの」
「違う?あんたが言ったことは違うだろーね。もう良い。私払っとくからむすびも帰りな」
私は立ち上がって、何度も呼び止めようとするむすびを無視して、レジへ向かった。
そしてそのままファミレスを出る。
「……」
ポケットに入っていた紙切れを取り出して、そこに書かれた住所をググッた。
Googleマップに頼って辿り着いたそこは、小さな木造住宅だった。インターホンの前で深呼吸して、音符マークのボタンを震える指先でそっと、強く押し込む。
キン、コン。と硬い音が聞こえてすぐ、ガチャリと重たい音を立ててドアが開く。
「あら」
白髪の、小さな、優しそうな顔のお婆さんが出てきた。
「昨日電話を頂いた首藤です。」
私がそう言うと、弓槻のお婆ちゃんは泣きそうな顔をして、
「あら……」
私を家に入れてくれた。
「わざわざありがとうねぇ、まだ何も準備してないんだけど……」
どうやら私がお線香をあげに来たと思ったらしい。申し訳なさそうにそう話す弓槻のお婆ちゃんを見てると、お線香すら用意しないで来てしまったことがすごく恥ずかしくなった。
「お茶でいい?」
台所に入っていった弓槻のお婆ちゃんに、私は「はい」と小さな声で答えるしか出来なかった。
古びた緑色の床を、オレンジ色の電球が照らしている。小さな小さなテレビと、一人用のソファが二つ並んでいる。真ん中には卓袱台。
ここが、弓槻の家。
「本当にありがとうねぇ。来るの大変だったでしょ。先生に言われて来たの?」
弓槻のお婆ちゃんは二つの茶碗を並べて、私と向かい合うように座った。
「いえ。私が来たくて先生に勝手に住所教えてもらっちゃって。すみません」
私が言うと、弓槻のお婆ちゃんはぶんぶんと手を振る。
「そんなことないわ。むしろそこまでして来てくれて嬉しいもの。あの子にこんな素敵なお友達が居たなんて」
弓槻のお婆ちゃんは、茶碗を両手で包み込みながら寂しそうな目で話し出した。
「私もついてないわね。娘にも孫達にも先に逝かれちゃうなんて」
心臓の辺りがずきりと痛くなった。まるで小さな針を何本も突き刺されたような鋭い、一瞬の痛みだ。
「娘、って、弓槻のお母さんは……?」
聞いちゃまずかったかも、と言った後に後悔した。でも弓槻のお婆ちゃんは嫌な顔一つせずに答えてくれた。
「ゆずかがまだ小学生の時、事故で両親とも亡くしてるのよ。」
「あ……」
そう言えば弓槻の下の名前知らなかったっけ。ゆずかって言うんだ。なんて思った。
「あの子、去年姉を亡くしてから塞ぎ込んじゃってたの。最近どうしてか急に学校に行くって言い出したけど、まさかこんなことになるなんてねぇ……。」
私は思わず弓槻のお婆ちゃんから目を逸らした。
ずっと頭のどこかでは気付いてたんだ。
私があの日、魔女に接近しようとしなければ、弓槻にそのことを話していなければ、弓槻が交通事故に遭うこともなかったかもしれない、って。
弓槻が死んだのは私のせいだ。お婆ちゃんを一人ぼっちにしてしまったのは、私だ。
ぎゅっとスカートを握り締める。
「そう言えば、あなたなのかしら」
いきなり弓槻のお婆ちゃんがそう言った。
「え?」
思わず聞き返すと、
「ゆずかがね、もし私に何かあってグレーのショートカットの女の子がうちに来たら、渡してほしいって言われてた物があるのよ」
「弓槻が?」
弓槻のお婆ちゃんがゆっくりと立ち上がる。そして私は二階に案内された。
入れられた部屋はどうやら弓槻の部屋らしい。ベッドと机しかない、地味な部屋。
「これなんだけど……」
弓槻のお婆ちゃんは、机の引き出しから何やらノートのようなものを取り出して私に手渡した。
ぱらぱらと捲ると、何やら計算式のようなものがずらりと並んでいた。
?何これ。
「あんなこと言うんだから、まるで自分がこうなることを知ってたみたいと思っちゃってね」
弓槻のお婆ちゃんは、私が持っていたノートの反対側を握った。ぎゅっと皺になるくらい強く。
「もし何か分かったら、教えてほしいの。あの子には悲しい思いばっかりさせてたから。ごめんね、あの子と仲良くしてくれてありがとうね。」
弓槻のお婆ちゃんはそう言うと、
「もう暗くなるから帰りなさい。」
そう言って、弓槻の部屋の電気を消した。
「今日は本当にありがとうございました。突然押しかけてすみません。」
玄関でそう言い一礼すると、弓槻のお婆ちゃんは、にっこりと笑った。
「また来てね。」
私はまた一礼して、暗い夜道を歩き出した。
帰りの電車は酷く混んでいた。
「うわ」
スマホを開くと、むすびから何件も着信があった。一瞬ブロックしてやろうかと思ったけど、それは流石に可哀想かと思って辞めておいた。そうしてしまったら、何だかもっと暴走してしまいそうな気がした。
私は通知をスワイプして、イヤホンを耳に押し込んで、好きなバンドの曲を頭に流し込んだ。
翌日。一人で学校への道を歩いていると、前を歩いていたしみずが目に入った。
……そう言えば、最近しみずと全く話していなかった。お昼休みもしみずはどこかに行ってしまって話し掛けられていなかった。
何となく気まずくて気付かないふりをしようと思ったら、しみずが振り返った。
「……」
数秒間目が合う。
「あ」
私が何か言おうとしたのを察してか、しみずは無言で顔を背けた。そして早足で校門をくぐり抜けていく。
「あ……」
もしかして。てかやっぱ怒ってる?
……そっか。しみずをずっと無視してたのは、私の方なんだから。
憂鬱な気持ちのまま教室に入る。しみずの姿はない。数人のクラスメイトが既に登校していて、何やら塊になって話している。
私がその横を通り過ぎようとすると、その中の一人が私に駆け寄ってくる。
「ちょっと」
「何?」
いきなり呼び止められて驚いていると、その子は、
「沙里と珠夏のお葬式の話、誰かから聞いた?」
いきなりそんなことを言い出した。
「え、聞いてないけど」
そう言えば担任からも何も言われてないっけ。クラスメイトなら呼ばれたりするんじゃないのかな。
「そっか、ありがと……」
残念そうな顔をして、その子は項垂れる。艶々の不自然な真っ黒の髪がだらりと垂れ下がる。
「あれ、真中ちゃん、だよね?」
私が尋ねると、その子は首を傾げて頷く。
「髪色変わってるから一瞬分かんなかった」
すると真中ちゃんはにこっと笑って、
「清楚系になりたいなって」
スクランパーがちらりと見えた。
菊池真中(きくちまなか)ちゃんは、比較的沙里や珠夏と仲が良かったクラスメイトだ。いつも日本人離れした色素の薄いカラコンを付けている。ピアスも好きで、両耳はもちろん唇や舌にも空いているらしい。
紫色のロングヘアにティンセルを付けたのが彼女の特徴だったから、黒染めしただけでも誰だか分からなかった。
……綾瀬さんと違って、二人が死んでから、真中ちゃんはすぐに立ち直ってたみたいだった。あれから毎日学校にも来てるし、誰にも弱気な姿を見せていない。元々明るくてムードメーカー的存在だったし、相当無理してるのかな。
「あのさぁ……!」
真中ちゃんは次々と教室に入ってくるクラスメイト全員に同じことを尋ねていた。
けど、誰一人二人のお葬式について聞いた子は居なかった。
四時間目が終わり教師が教室から出ていくと、私は真っ先に立ち上がった。同時に立ち上がり小走りでどこかへ行こうとするしみずを追い掛ける。
「しみず!」
廊下に出てしみずの名前を呼ぶ。しみずははたと足を止め、振り返らずに「何?」とだけ言った。
心臓がどきどきと音を立てる。しみずの表情は全く見えない。私は息を整える。
「ごめん。ずっと話し掛けようとしてくれてたのに、無視してて……」
自分でももっとちゃんとした言い方が出来ないのかと呆れてしまった。でも私がそう言うと、しみずはココアブラウンのボブをふわりと揺らして振り返った。
「……りんね」
そして駆け寄ってきて、泣きそうな顔をしながら私の指先を見た。
「私こそごめんね。最近はわざと避けてたの。私に話してくれないのが悲しくて」
しみずは大きな瞳に涙を浮かべながら、にっこりと笑う。
「私だって知ってるんだから、頼ってくれたって良かったんだよ?」
「あ……」
しみずのその言葉に、どきんと心臓が大きく脈打った。
私も、弓槻に同じことを思ってた。一人で解決しようとして、秘密を共有している私にすら頼ろうとしてくれなかった弓槻に酷く腹が立ってた。
しみずから見たら、私もそうだったの?私も、しみずに同じことをしてたんだ。
「ごめんしみず、ありがとう」
しみずは頷いて、私に抱き着いてきた。
あ、何か、この感じ。懐かしいな。私はいつもみたいに抱き返す。
またあの頃みたいに、楽しい毎日が戻ってきたらいいのに。
私はしみずの腰に回していた腕にぎゅっと力を込めた。
「りんねちゃん」
聞き慣れた声に名前を呼ばれ、はっとしみずから離れた。
その声の主は、教室のドアから半分だけ顔を覗かせ、私達をじっと見詰めている。
「……むすび」
「湯川さん?」
むすびは、大きな三つ編みを揺らしながらゆっくりと私達に近付いてくる。私は何となくしみずの手を握って二、三歩後退った。
「離れてよ!」
そう叫んだのは、私ではなくむすびだった。廊下を歩いていた他のクラスの生徒達が驚いて私達の方を見る。むすびは息を荒らげながら、私達につかつかと歩み寄る。
そしてしみずの手を握っている私の手を掴んで、無理矢理引き剥がそうとし出した。
「ちょっと、痛いって」
私はそう言って腕を振り払った。小柄なむすびの手は簡単に振りほどけた。
むすびは私を睨みながら歯ぎしりする。
「何でまた星野さんと仲良くしてるの〜っ」
じろりと視線をしみずに移すと、しみずはびくりと肩を跳ねらせた。
「……ちょっとむすびと二人で話したいから」
しみずにそう言うと、無言で頷いて、小走りで教室に戻っていった。
私はむすびの腕を乱暴に掴んで、階段を降りていく。
一階の通路に出て、私はむすびの腕を離した。
「何で電話出てくれなかったの?」
むすびは乱暴にスマホの画面をいじくる。爪が液晶画面に当たってカチカチと音を立てている。むすびは私とのトーク画面を見せ付けながら、うっすらと目に涙を浮かべている。
「酷いよ!りんねちゃんも結局そうだったんだ!」
「は?言ってる意味が分かんないんだけど。」
フー、フー、と肩で息をしながら私を睨むむすびは、まるで小動物が威嚇しているみたいだ。
私ははぁっと短い溜め息を吐いた。
「私に何を期待してるの?嘘吐く人となんて関わりたくないに決まってるでしょ?」
「違うもん。私は吐きたくて嘘吐いてるんじゃないんだもん」
「はぁ?言い訳すんの?」
イライラしてきた。もうむすびの言うことなんて何も信じられない。何回嘘吐かれたと思ってるの。
「りんねちゃんまで私のこと突き放すんだ!りんねちゃんとは本当に友達になれると思ってたのに……」
両手で顔を覆って泣き出すむすび。
わかんない。今もまた取り繕ってるの?計算で友達になろうとする子だし、これだって演技かもしれない。
「今まで散々演技されて、嘘吐かれて、どうやって信じろって言うの。」
「それは――」
その時、むすびが持っていたスマホが振動した。
むすびは忌々しそうにスマホの画面を見て、小さく舌打ちした。そしておもむろにそれを耳に当てる。
「……もしもし?」
『あ、りんねちゃん……!』
相手の声がはっきりと私にも聞こえた。……戸川さんだ。
「何?」
『あのね、今日の放課後会えないかなって――』
「何で?」
むすびはイライラしているように見えた。
『この前邪魔が入って会わせられなかったから、私に協力してくれた人に会わせたいなって』
邪魔って。思わず苦笑いした。
むすびはその言葉を聞いてにたりと笑った。そしてチラッと私の方の見て、
「いいよ。でも二人きりは嫌だから、りんねちゃんも呼んでいい? 」
「は、はぁ!?」
思わず声を上げたのは私だ。
『え?何で?』
戸川さんも驚いてるみたいだ。
「何、嫌なの?」
『嫌じゃないけど、その人関係ないのに会わせてどうするの……?』
「関係なくないよ。ね、りんねちゃん。」
むすびは目を細めて笑う。私は無言で見返した。
『わ、分かった……。じゃあ今日は私がそっち行くから。放課後校門で待ってて。またLINEする』
「りょー。」
むすびはそう言って、通話を切った。
「良かったね。これで魔女に近付けるよ」
「これで私が許すとでも思ってるの?」と口から零れそうになったけど、何とか飲み込んだ。
弓槻は魔女に近付いたって意味ないって言ってたけど、やっぱり何か手掛かりが掴めるかもしれない。
ただ待ってるだけじゃ、また誰かが死ぬだけだ。
「……行けばいいんでしょ」
私は自分に言い聞かせるようにそう言った。
授業が終わり、各々が教室から出ていく中、しみずが私の席に来た。
「りんね、駅まで一緒に――」
「りんねちゃん〜」
そう言いながら駆け寄ってきたむすびが、私としみずの間に割り込んでくる。仲良くなったばかりだった頃の、ふにゃふにゃした笑顔で。
「星野さんごめんねぇ、りんねちゃんと約束あるから、今日はいいかなぁ?」
むすびは両手を合わせてしみずを拝む。しみずは引き攣った笑顔でかくかくとぎこちなく頷く。
「うん、それなら仕方ないよね……。分かった」
「あ」
一瞬、しみずが悲しそうな目で私を見た気がした。そのままドアの方へ歩いていこうとするしみず。
「ま、待って」
私は咄嗟にしみずの肩を掴んだ。その途端ぎょろりとむすびが私を見る。
「むすび、しみずも知ってるんだから、三人で行こ」
「だめだよぉ。水純ちゃんはりんねちゃんだけだから許してくれたのかもしれないんだよぉ?勝手に一人追加したら会わせてくれないかもしれないじゃんん」
ほっぺたを風船みたいに膨らませながらむすびはそう言う。
「何かよく分からないけど、私は帰るよ。じゃあね、りんね。湯川さんも」
遠慮がちにそう言うと、しみずは苦笑いしながらそそくさと教室から飛び出してしまった。
残された私に、むすびが腕を絡ませる。
「じゃあ行こっかぁ」
「……何で、仲間外れにしたがるの」
わざとらしくむすびの腕を振り払うと、むすびの表情からスっと笑顔が消える。
「友達が他の人と仲良くしてたら嫌な気持ちになるじゃん。」
「友達に友達が居るのは当たり前でしょ?」
「りんねちゃんって友達のこと大切にしてないんだね。」
眼鏡のレンズが、窓から差し込む夕日に反射して、奥にあるむすびの目を隠した。それがやけに不気味で、私はむすびから視線を逸らす。
それと同時に、頭に血が昇った。「友達を大切にしてない」、その言葉がぐるぐると頭の中を回る。
「何それ。友達がたくさん居たら大事にしてないって言うの?私はみんな平等に好きなだけなんだけど。」
「へー。私はみんな平等に好きになるくらいなら、全員分の好きを一人に捧げるなぁ」
握り締めた拳が小刻みに震える。私は目を細めてむすびを睨む。
「何でそうなっちゃったの?私だって最初はみんなと同じくらいむすびが好きだった。友達だと思ってたし。なのに何でそんな意地汚くなったの?」
私が言うと、今度はむすびが私を睨み付けてきた。
「だからそれは好かれるために思ってないこと言ってただけだってば。りんねちゃんなら私を受け入れてくれると思って素で話してるんだよ」
「好きになるわけないじゃん。」
間髪入れずに言うと、むすびは目を見開いて私を見た。まるでむすびだけ時間が止まってしまったかのように動かない。
「こんな性格ゴミみたいな奴と友達になるわけないでしょ。」
こんなこと言ったらむすびが傷付くかもしれない、なんて、この時の私には考える余裕もなかった。何度も何度も嘘吐かれて、他の友達との関係まで邪魔しようとしてくるむすびが本当に許せなかった。
「…………」
むすびは俯いて口を固く結んだ。
……最悪だ。
私は机の上に置いてあった鞄を掴んで、咄嗟に教室から飛び出した。
むすびは、追い掛けてこなかった。
下駄箱でローファーに履き替えて校舎から出ると、見覚えのある女の子が校門に立っていた。
「あ」
キョロキョロと周りを見回しながら頻りにスマホを弄っている。
「戸川、さん」
そうだ、今日はこっちまで来るって言ってたんだっけ。
戸川さんが用があるのはむすびだし、私が一人で話し掛けても迷惑か。そう思って気付かないふりをして通り過ぎようとすると、戸川さんに肩を叩かれた。
「あ、あの」
おどおどしながら吃る戸川さん。
「あなたが、りんね……さん、だよね?」
私と目も合わせようとしない戸川さんを見下ろしながら、私は必死に笑顔を貼り付けた。
「そうだよ、戸川さんだよね。ごめん、気付かなかった」
そう言って笑うけど、戸川さんは数回頷いただけで何も返してこなかった。
……気まずい。
「あれ、むすびちゃんは一緒じゃないんですか……?」
「何で敬語?同い年なんだしタメでいいのに。」
私が言うと、戸川さんは何故か「ごめん……」と言って俯いてしまった。
「何かむすびと気まずくてさ、もしアレなら二人で行けば?」
「で、でも、むすびちゃんはりんねちゃんも知ってるって……」
「あー、私は別に関係ないから」
「待って、ほんとに知らないの?私、もうあの人に話しちゃったんだけど……」
私は顔を動かさずに横目で戸川さんを見た。怯えているように見える。
「あの人」って、きっと魔女のことだ。私が都市伝説について知ってるって魔女に教えちゃったってこと?この都市伝説について深く知り過ぎた人は死ぬんじゃないの?
「……何勝手なことしてんだよ」
ぽつりと呟いたけど、戸川さんには聞こえなかったみたいだ。
代わりに、息を切らしたむすびが校舎から飛び出してきた。
「水純ちゃん、行こぉ」
むすびは膝に手をついて肩で息をする。そして顔を上げて戸川さんを睨み上げた。戸川さんはびくりと体を硬直させ、二回頷いた。
「うん。取り敢えず、りんねちゃんも来て……」
二人はゆっくりと歩き出したけど、私はその場から動けなかった。このまま着いて行ったら魔女に会うことになる。そしたら私は殺されるに決まってる。わざわざ殺されに行くなんて冗談じゃない。
「……あ。あの人は優しい人だから、心配しなくて大丈夫だよ」
まるで私の心を読み取ったみたいに、戸川さんはそう言った。二人の後ろ姿を見据えながら、私は鞄の持ち手をぎゅっと握る。
そして、重たい重たい一歩を踏み出した。
私とむすびは、学校から徒歩数分の場所にある人気のない路地裏へ連れ込まれた。学校の近くにこんな場所があるなんて知らなかった。
「連れてきましたよ、アリスさん」
「アリ、ス……?」
これが魔女の名前?
鼓動がどんどん速くなっていくのが分かる。私は汗ばむ手をスカートで拭った。
暗闇から姿を現したのは、私より少しだけ背の高い女の人だった。が、頭から上はパーカーのフードとマスクで隠れていてよく見えない。大きな青いクマのイラストがプリントされた黒いパーカーに、網タイツに、ガーターベルト。十センチ程ありそうな厚底のヒールの靴を見る限り、女の人で間違いなさそうだ。
その人はゆっくりと歩いてきて、フードを取った。
しなやかな白いボブがふわりと現れる。
「……?」
あれ。この人、どこかで見たことあるような気がする。こんな服装の人なんて原宿に行けばわんさか居るけど、原宿なんて滅多に行かないし。
「……あ!」
私は思わず声を上げてしまった。むすびと戸川さん、そして白髪の女の人が私に視線を向ける。
「この前、××線の電車に乗ってましたよね?朝……」
むすびと戸川さんは何の話をしているのか分かっていない様子だった。でも間違いない、この人は弓槻が死んだ日の朝、電車でぶつかったあの人だ。
白髪の女の人は、数秒間黙った挙句、「ああ」と笑顔になった。
「あの時ぶつかってきた子だ。思い出したよ。」
ウィスパーボイス、と言うのだろうか。少しハスキーだけど優しげな声だった。
あれ。この人って本当に魔女なんだよね?何百人もの命を奪ってきた人が、こんないい人そうな人なの?
「改めて自己紹介した方がいい、かな。
私は関口アリス。大学生だったけど、この前中退しました。理由は、分かるよね。」
アリスさんは目を細めて首を傾げた。……笑ってるつもりなんだろうけど、全く笑えてない。それが逆に威圧的に感じる。
「水純ちゃんから聞いたけど、二人とも雫萌高校の一年B組の生徒だよね。湯川結ちゃんと、首藤りんねちゃん。」
私とむすびは、同時に頷く。それを確認したアリスさんは、また目だけ細めて笑った。
「残念だね。自分達が死ぬのを知りながら生きるの、辛いでしょう。」
私とむすびは、反応に困って黙りこくった。
「それで。今日呼び出したのは何か用事があるからだよね。二人と私を会わせてどうしたかったのかな。」
戸川さんの方を見てアリスさんはそう言う。どうやら二人はかなり関係が深いみたいで、私の時みたいに吃らずに戸川さんは答えた。
「むすびちゃんが、私がアリスちゃんに助けてもらったことを話したら、会ってみたいって言ったの。りんねちゃんは、むすびちゃんが連れて来て、まぁ、成り行きで」
「そっかそっか。むすびちゃんも魔法の力が欲しいのかな。」
「魔法の力がほしいって言うかぁ〜」
むすびはちらりと戸川さんを見る。私には分かってる、むすびは戸川さんの魔法の力を利用して自分だけ助かろうとしてるんだ。
「どの道もうそろそろ話さないといけない時期になってきたし、二人も冥土の土産に聞いてったらいいよ。
魔女に魂を売ったら手に入る『魔法の力』の本当の意味をね。」
今まで一度も形を変えなかった綺麗な桜色の唇が、ぐにゃりと三日月形に曲がりくねった。
ぞわりと背筋が凍り付く。
「魔法の力の、本当の意味……」
ごくりと唾を飲み込んだ。
「『三十人分の魂を売れば、魔法の力が手に入る。』
表向きではそういうことになってるけど、本当の意味は関わった人しか知らない。
『魔法の力を手に入れる』それはつまり、あなたが魔女になるってことよ。水純ちゃん。」
「私が、魔女に……?」
「そう。魔法が使えたら、それはもう魔女でしょ。都市伝説で言われてる魔女は、欲に駆られて魂を売った人のことを指す。」
焦点の合わない目で空を見詰め、淡々と喋るアリスさん。私とむすびは黙って聞くことしか出来なかったけど、一番驚き戸惑っているのは戸川さんだった。
「水純ちゃんが魂を売った魔女である私も、過去前の魔女に魂を売ったってこと。
次は、水純ちゃんが魔女になって、誰かが捧げた三十人の命を奪う番。」
「嘘、でしょ……」
顎の先からぽたぽたと汗の雫を垂らす戸川さんを見て、アリスさんはくすりと笑う。
「本当にアニメみたいな魔法の力が手に入ると思ったのかな。でも別にプリキュアになりたくて魂を売ったわけじゃないでしょ。魔女に魂を売りに来る人は、みんな『魔法の力』じゃなくて『三十人の魂を売る』のが目的だもの。魔法の力が欲しくて魂を売る子なんて、きっと居ない。」
「そん、な……じゃあ」
むすびは消え入りそうな声で呟いた。その後ぱくぱくと口を動かしていたけど、声は掠れて消えていった。口の動きを見る限り、「水純ちゃんに助けてもらうのは無理ってこと?」と言ったつもりなんだろう。
戸川さんはぶるぶると体を震わせて、くすんだコンクリートの地面を凝視していた。そんな戸川さんを見て、アリスさんはまたくすりと笑う。
「たくさんの命を奪っておいて、幸せになれるとでも思ったのかな。
違うよ。あなたはイジメっ子が消えて救われたんだから、それで充分でしょ。だから今度は別の誰かを救ってあげるの。」
「そん、そんな、私は……」
震える戸川さんの肩をアリスさんが掴むと、戸川さんはびく、と全身を跳ねらせた。
「大丈夫、友達を殺/すのはあなたじゃない。雫萌高校一年B組は、私の持ち場だから。でも私はそれで終わり。」
瞼を伏せて、どこか悲しげな表情をするアリスさん。
「大丈夫だよね、魂を売られた人達は自殺してくれるんでしょ?だったら私は人を殺/すなんてしなくていい……」
ぽつりと呟く戸川さんを見て、アリスさんは目を見開いた。
「何言ってるの。魂を売られた人は自殺/する、なんて有り得ないよ。それに水純ちゃんはもう既に三十人殺してるのと変わりないんだよ。
そうか。水純ちゃんのせいで死んだ子達はみんな自殺で死んだと思ってるのか。
あの子達を殺したのは私だよ。」
さらりとアリスさんは言ったけど、私は耳を疑った。
「え?何、それ」
戸川さんは小さな声で呟いた。
「だから、あなたが売ったあの子達を殺したのは、私。もう忘れちゃったのかな。教室の窓から飛び降りた澤田くんと東さん、除光液を飲み込んで死んだ吉沢さん、お互いの首を絞めて殺し合った大西さんと濱口さん、線路に飛び込んだ内田さん……」
「やめてやめてやめて」
「昨日も鈴木くんがお腹切って死んだよね。あれ、私が切ったんだよ。鈴木くん暴れるし叫ぶしで大変だったんだから。」
「待ってよ、じゃあ沙里と珠夏……私のクラスメイトも、アリスさんが殺したってことなんですか?」
思わず話に割って入ってしまった。アリスさんは私に視線を移し、目だけ細めて微笑む。
「そうだよ。それに、前々からあの二人にお薬あげてたのも私。いつもより飛べるよって言ったら、二人とも飛び付いてきて、ほんとに飛んじゃった。橋から川に飛び込んで、もがいて、流されてったよ。」
「流されてったよ?よくそんなこと言えるな」
「りんねちゃん、怒っても仕方ないよ。私は魔女なんだから、殺さないといけないの。」
アリスさんは沙里や珠夏や戸川さんのクラスメイトを殺していることを、悪いことだと思ってないみたいだ。それどころか、その表情には「私はちゃんと使命を全うしている」という誇らしささえ見える。
「魂を売られた子は元々みんな悪い子だったんだし仕方ないよ。売られるようなことした人も悪いんじゃないかな。」
その言葉に、思わず乾いた笑い声が出た。
「はっ、何が悪い子だよ。私達は誰にも何もしてない。なのに売られたんだよ。おかしいと思わないのかよ」
「ほんとに、何もしてなかったのかな。」
「え……?」
アリスさんは虚ろな瞳で私を捉えた。まるで蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。
「りんねちゃんが気付いてないだけで、ほんとはイジメがあったかもしれないよ。」
アリスさんの口元がぐにゃりと歪曲する。
「は……?」
私が気付いてないだけ?ほんとはいじめがあったかもしれない?
「知ったような口聞かないでよ、うちのクラスのこと何も知らないくせに!」
まるで侮辱された気分だ。何も知らない部外者にそんな風に言われたら腹立つに決まってる。
「さっきから黙ってるけど、どうなのかな。むすびちゃん。」
アリスさんはちらりとむすびを見る。さっきからずっと俯いたままで一言も言葉を発していなかったむすびは、はっと顔を上げて私達の顔を見回す。そしてはははと笑いながら、顔を粘土みたいに歪ませた。
「確かにいじめはなかったけど、岡田とか倉野は話し掛けてもらえないだけで泣いてたような被害妄想強めな陰キャだったし、思い込んで売ったりしちゃうんじゃないの?」
むすびは早口でそう言うと、また俯いてしまった。
「だって。案外自分が周りが見えてないだけかもしれないよ。」
何も言い返せなかった。確かに、私は沙里や珠夏、他のクラスメイトが岡田さんや倉野さんの悪口を言ってるのを聞いたことがある。あの二人はオタクだから、根暗だから、ブスだからって、影で笑ってた。Twitterで「グループワークで一言も話さないのウケる」ってツイートしてる子も居た。体育で同じチームになったら、あからさまに二人にだけ態度を変える子も居た。
でも、それだけで?関係ない人だって居るのに、それだけでクラス全員の魂を売るなんて、そこまでする?
「やられた方の気持ち、私なら分かるな。りんねちゃんには分からないみたいだね。」
アリスさんは私の肩に手を置く。
「考えすぎでも思い込みでも、いじめられた方がいじめだと思ったら、それはいじめなんだよ。」
「何それ。
おかしいでしょ、みんなだって努力してたんだよ。入学してすぐは話し掛けてたじゃん。なのにちゃんと目も合わせないし返答するだけで話を続けようともしてくれなかったんだよ。だからみんな少しずつ離れてっただけなのに、それをいじめって言うの?おかしいでしょ。」
「向こうが傷付いたのは事実。あなた達にそのつもりがなくても、ね。」
「それだけで普通殺さないでしょ。あなたは簡単に殺せるかもしれないけどね」
私はアリスさんの手を振り払った。こんなこと言ったら殺されるかもしれない、なんて思ったけど、ふつふつと湧き上がる怒りの感情を抑えられなかった。
でもアリスさんは怒った様子はなく、目を伏せて短い溜め息を吐いただけだった。
「まだその二人が売ったって決まったわけじゃないからあんま怒らないであげて。」
……白々しい。あんたは誰が犯人か分かってるんでしょ。そう思ったけど、睨み付けるだけで声に出さなかった。アリスさんはそんな私を見てにやりと笑い、ホワイトブロンドのボブをふわりと揺らす。
「てことで。私は今教えられることは全部教えたから。またその時が来たら、簡単な処理の仕方とか教えてあげる。これから頑張ってね。新人魔女さん。」
アリスさんはそっと戸川さんに耳打ちした。
そしてそのまま、コツコツと厚底のヒールを鳴らしながら路地裏の向こう側へと姿を消していった。
取り残された私達は、黙ってその場に立ち尽くした。
「あのさ、むすび、戸川さん……」
私は二人の手を取って、歩道の方へ歩いていこうする。けど二人は足を動かそうとしなかった。代わりにむすびがぽつりと呟く。
「全部滅茶苦茶だ。」
「え……?」
むすびが顔を上げると、涙で潤んだ瞳が髪の隙間から見えた。歯を固く食い縛って、戸川さんを睨み上げる。
「何も知らないくせに間違ったこと教えてんじゃねーよ!私だけは助かると思ったのに、計画が滅茶苦茶だよ!」
「何言ってるの、むすびちゃん……。計画?」
「もう終わったから言わせてもらうけどさぁ。DMで少し煽てたら自慢げに魔女のこと全部話してくれて助かったよ。あんたが魔法の力が使えるようになったって言うから私だけでも助けてもらおうと思ってたのに……。なのに何も出来ないんじゃん。コミュ障で自撮り詐欺で役立たずとかただのゴミじゃん。」
むすびは吐き捨てるようにそう言った。掴んだままの戸川さんの手が一気に汗ばみ、震え出す。
「え、え……?私達友達だよね、むすびちゃん……?」
「はぁ?違うし」
「じゃあ、私と友達になったのは、……私にTwitterで話し掛けてくれたのは、計算だったってこと……?」
「逆に計算じゃなかったらどうしてあんたと友達になるのよ」
「そん、な……」
「ちょっとむすび、言い過ぎだって……」
むすびは今度は私を睨み付けた。そして私の手を振りほどき、スマホを取り出して、物凄い勢いで画面をタップする。
「私だけは死なない、私だけは死なない……。他の魔女は居ないの?」
ぶつぶつと呟きながら指を止めないむすび。隣では戸川さんがしくしくと泣いている。
……最悪だ。私は戸川さんの手をそっと離した。
「あ!」
途端に戸川さんは鞄に手を突っ込む。そしてそこから、鈍く光るサバイバルナイフを取り出した。
「え、うそ」
「何かあった時のためにって持ってて良かった」
涙でぐしゃぐしゃの顔でへらへらと笑う戸川さんから、私とむすびはじりじりと後退る。
「やっと分かった。私がいじめられたのは、全部私が悪いんだ。だから、結局いじめっ子が居なくなっても、私は幸せになれないんだよね。」
「そんな、ことは……」
さっき自分が発してしまった言葉を思い出して後悔した。
「でも、むすびちゃんだって私と同類だよ。ううん、私以上にむすびちゃんはゴミだよ。自分がいじめられて辛い思いしたのに、今度は私に同じことしたんだもん。」
「いじめられてたって言うのもあんたに近付くための嘘だよ。何マジになってんの?」
「それが嘘でしょ。むすびちゃんはほんとにいじめられてた。見れば分かるよ、 この子は私と同類だって」
「黙れ、一緒にすんな……」
「虚言が酷くて嫌われたって感じかな。あとは一人に執着するからウザがられてそうだし。」
「うるさい、お前に何が分かるんだよ!」
むすびが戸川さんに掴みかかる。そのまま二人は地面に倒れ込み、むすびは戸川さんの顔を殴る。相手が刃物を持っていることを忘れてしまうほど、むすびは興奮していた。
「分かるよ。だって――」
スカッ。戸川さんがサバイバルナイフを持った手を右から左へ払っただけで、むすびの頬は簡単に切れた。
むすびの白い顔に赤い線が刻まれる。脂肪のようなものが見える傷口から、赤黒い血が流れ出す。
「いってーな!」
むすびは何度も戸川さんの顔を殴り付けた。白い歯のようなものが弾け飛ぶのが見えたけど、私はただそんな二人の様子を見てることしか出来なかった。
「いじめられる子の気持ちは、分かるよ」
「私をあんた達と一緒にするな!」
「でも、傍観してるだけのりんねちゃんの気持ちは、分からないなぁ。」
名前を出された途端、どきりと心臓が凍り付いた。
「見てるだけのりんねちゃん。今どんな気持ちで私達を見てるの?」
真っ赤でぼこぼこに腫れ上がった顔で私を見て、にやりと笑う戸川さん。ぞく、と背筋に悪寒が走る。
「私、は」
声が出ない。
「ずっとそうやって見てればいいよ。それで取り返しのつかない頃になってようやく気付け」
そう言うと、戸川さんはむすびの胸元にサバイバルナイフの刃をねじ込んだ。
グズ、と黒い血が制服を濡らす。むすびは声も上げずに、ぐらりと横に倒れ込んだ。
そして、戸川さんはすぐにナイフを引き抜き、自らの胸も刺して、倒れた。
「君、大丈夫?」
そう言って誰かに肩を掴まれた。私は反射的にそれを振り払ってしまう。
「顔色悪いし、それ、血じゃない?」
三十代くらいのサラリーマンらしき人が、私の制服を指差してそう言う。言われるままにそこを見ると、確かに白いシャツに数滴の赤黒いシミが着いていた。
「だ、大丈夫なので」
呂律が回らないし、上手く声が出なくて裏返った。サラリーマンは近くの交番を指差しで、「何かあったなら一緒に着いてくよ」と言う。
「ほんとに大丈夫ですから」
私はそう言って、走った。せっかく心配して声を掛けてもらったのに、お礼も言えなかった。
でも、どうせ交番に駆け込んだって、警察に全て話したって無駄だ。どうせ揉み消されて、結局私も殺される。
もうこんなの、どうしようもないじゃん。
無我夢中で走った。学校の最寄り駅を通り越して、知らない商店街を抜けて、知らない駅も過ぎて。
空が暗くなる頃には、私は知らない街の公園に辿り着いた。
肩で息をしながら、小汚いベンチに倒れ込む。砂利とアリンコにまみれても気にならなかった。それよりとにかく、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
怒りで抑え込まれていた恐怖の感情が、一気に押し寄せてきたのだ。
ふとシャツの赤黒いシミが目に入る。私は飛び起きて、蛇口に走って飛び付いた。ハンドルを最大限まで捻って、滝のように流れ落ちる水にシャツをさらした。シャツ全体に水が染み渡っていく。シミは周りが少しオレンジ色に滲んだだけで、消えてくれなかった。
「消えろ、消えろ、クソ!」
喉の奥が締め付けられているような感覚になり、一気に涙が溢れてくる。鮮明に脳裏に焼き付いた血の色が、視界を真っ赤に染めた気がして、吐きそうになる。
もうやだ、誰か助けて……!
「あれ?りんねちゃん?」
空耳かと思った。だってあまりにもタイミングが良かったんだもん。私はゆっくりと顔を上げた。
公園の入口から、自転車を押しながら歩いてくる見慣れた顔が見えた。
「ま、真中ちゃん……」
「どうしたのー?」
笑顔の真中ちゃんを見て、また涙が溢れてきた。
「ちょ、えぇ!?」
驚いた真中ちゃんが駆け寄ってくる。蛇口の横に自転車を止めて、しゃがんで私の顔を覗き込む。
「何でもない、ほんと、ごめん」
話せるわけない。
「……そっか。じゃあ無理に聞かない!誰だって人に話したくないことくらいあるよね」
真中ちゃんはそう言うと、私の腕を掴んで立ち上がった。
「私だってあるし!てか冷た、りんねちゃん水被った?」
「あ、まぁ……」
「あはは、それで電車乗ってもヤバい奴だし送ってくよ?」
「え、いいよいいよ」
「何遠慮してるの!ほら、私も早く帰んなきゃだし、はよ乗れ!」
私は流されるままに真中ちゃんの自転車のキャリアに跨った。
「最寄りどこー?」
「××駅」
「意外と遠かったwしっかりつかまっててね!」
真中ちゃんはそう言って一漕ぎすると、ふわりと夕方の冷たい風が頬を撫でた。
度重なるブリーチの末黒染めされた長い髪が、私の顔をばさばさと叩く。あ、枝毛だらけだ。普段は遠くからしか見ないから、何回も染めてる割には綺麗な髪だなって思ってたけど、やっぱり傷んでるんだ。私もまたブリーチしようと思ってたけど、そろそろ辞めないとなぁ。
なんて考えてたら、お腹の底から何かが込み上げてきた。
あれ。こういうこと考えたのっていつぶりだっけ。ずっとクラスが売られたことばっか考えてたけど、ほんとは私、オシャレが大好きなんだ。前は学校から帰ったら、毎晩インスタやYouTubeでコスメやメイク動画を欠かさず見てたのに。
そう言えば、最近は日焼け止めとパウダーしか塗ってなかった。毎朝メイクして、髪もちゃんとアイロンして、それが大好きでモチベだったのに、最近はそんな余裕もなかった。
魔女と全く関わりのない、魔女の存在すら知らないクラスメイトと喋るのが久しぶり過ぎたんだ。話題に魔女や都市伝説のことが一言も出てこないのが新鮮過ぎたんだ。私は真中ちゃんにバレないように、声を押し殺して泣いた。
でも、うちのクラスが魔女に売られた事実は、消えない。
きっと、もうあの頃には戻れない。
「……ウチね、お父さんが居ないんだよね」
いきなり真中ちゃんがそう言い出した。
「だから、そのせいで色々あって、私も中学ん時は毎日泣いてたんだ。」
「あ」
風がより一層強くなる。信号が赤になった横断歩道の手前で、今度は止まった。
「だからさぁ、泣いてる子見ると何かほっとけなくなるんだよね。気持ち分かるから。」
信号が青になる。真中ちゃんは力一杯ペダルを蹴った。
「最近、うちのクラスばっか問題起きて嫌んなるよね。りんねちゃんも弓槻さんと仲良かったもんね。まぢウザいよね、何で私達の友達ばっかあんな目に遭うのかな」
真後ろに座ってるから、真中ちゃんの顔は全く見えなかった。でも声は少しだけ震えていた。
沙里と珠夏が死んでからも明るく振舞ってたから、すぐ立ち直ったのかと勝手に思い込んでたけど、平気なわけないよね。友達が死んだんだもん。それなのに真中ちゃんは無理して明るく振舞ってたんだ。
「……ほんとそれ。何でこのクラスなんだろうね」
ぽつりと呟いたけど、風の音に掻き消されて、真中ちゃんには聞こえなかったみたいだ。
「この辺でいい?」
私の家の最寄り駅の入口で、真中ちゃんは自転車を停めた。私は降りて、真中ちゃんを拝んだ。
「ほんとありがと、助かった」
「いえいえ〜!私があそこ通らなかったら迷惑客になってたんだからな?感謝しろよ〜」
冗談交じりに「明日いちごミルク奢って」とほくそ笑む真中ちゃんを見て、私は思わず吹き出した。
「覚えてたらね。」
「あは。じゃあね、りんねちゃん」
「ほんと、ありがと」
私は自転車に股がって手を振ってきた真中ちゃんに手を振り返した。立ち漕ぎしながら、横断歩道を渡り、真中ちゃんは姿を消した。
あ、やば。また泣けてきた。
私は家路を走った。
家に着いて鍵を開けると、玄関に妹のローファーが脱ぎ捨ててあった。
「ただいま」
小さな声で呟いたけど、部屋に居る妹に聞こえるはずもなく、返事は返ってこなかった。
私もローファーを脱ぎ、揃える気力もなくそのまま階段を昇った。その足取りも鉛のように重かった。
脳裏にあの赤黒いシミがじんわりと広がっていくような感覚になり、私は目を瞑って残りの段を駆け上がった。
手も洗わずに自分の部屋に飛び込み、ベッドにダイブする。記憶を搔き消すように枕に顔を埋めて足をバタバタと動かす。当然消えてくれるわけもなく、次第に足も動かなくなった。
知り合いが目の前で死ぬなんて考えたことなかった。沙里や珠夏や弓槻が死んだのを知らされただけでもショックだったのに、こんなの耐えれるわけない。昨日まで普通に喋ってたむすびや普通にツイートしてた戸川さんが、死んじゃうなんて!
そうだ、二人はまだ生きてるかもしれない!戸川さんが刺したのは、もしかしたら私の見間違いで胸じゃなかったかもしれない。もしかしたら誰かが通報していて、病院に運ばれて、助かってるかもしれない……!
震える手でスマホを取り出し、画面を操作する。そしてむすびとのトーク画面を開いた。
「出て、出て、お願いだから……」
呼出音がしばらく鳴り続ける。回数を重ねる毎に私の心拍数も上昇していく。
「…………」
プツリ、という音と共に、ザアっと雑音のようなものが聞こえてくる。
「!むすび!」
思わず泣きそうになった。私はスマホを縋るように耳に当てる。
『りんねちゃん。』
ドキリ、と心臓が凍り付いた。
電話越しに伝わってきたその声は、むすびじゃなかった。
「……何で?」
声を何とか振り絞ってそう呟くと、相手の顔は見えないのに、にやりと笑うあの顔が目の前に浮かんできた。
『それはりんねちゃんが一番よく分かってるでしょ。』
少しハスキーなウィスパーボイス。
アリスさんが、電話の向こう側で笑っていた。
『りんねちゃん、だめだよ。目の前で人が刺されたら、ちゃんと通報しなきゃ。』
「何であんたが出るの……」
『今ね、警察の人がお片付けしてるから付き添いしてるの。二人の遺体はもう片付いたから、もう帰るとこなの。』
淡々と喋るアリスさん。どうしてこんなに冷静で居られるのか私には分からない。だって、さっきまで目の前に戸川さんとむすびの死体があったはずなのに。
『水純ちゃんも酷い子だよね。せっかく助けてもらったのに無駄にしちゃうんだもの。それに私の仕事横取りするし。』
不服そうにそう呟くアリスさん。囁くような喋り方だから、息遣いまで聞こえてきて気持ち悪い。
スマホを少しだけ耳から話して、私は震える声を絞り出した。
「ああそうかよ、次は誰殺/すつもりだよ。人の幸せ奪うのがそんなに楽しいかよ」
『楽しいって言うか、これが私の使命なんだもの。それに売られた子達の幸せなんて、誰かの不幸の上で成り立ってるものばかりじゃない。』
「だからうちのクラスは何もなかったんだってば……」
語尾が消え入りそうなほど弱々しく呟いた。
本当に、私のクラスにはいじめも問題もなかった。些細なトラブルや喧嘩は確かにあったけど、それは個人個人の問題だったし、クラス全体を巻き込むような問題は一つもなかった。
それにみんな良い子だったし、クラスメイトを売るような子も居なかったはずなのに。なのに何で。
「何が不満だったんだよ……。今からでも取り消せよ」
こんなことをアリスさんに言ったってどうせ「仕方ない」で片付けられると分かっていたけど、思わず口から零れてしまった。犯人が分からない以上、アリスさんにぶつけるしかないじゃん。
『……りんねちゃん。明日って空いてるかな。』
沈黙の末、突然アリスさんがそう言い出した。
「え?空いてるけど……」
びっくりして思わず普通に答えてしまった。そう言えば明日は土曜日で休日だ。でも突然何だろう。
『じゃあ遊ぼ。十一時に××駅に来て。』
「は、はぁ?何でいきなり――」
『ドタキャンはなしね。じゃあ。』
ブツッ。私が何かを言う隙も与えずに、アリスさんは電話を切った。
「はぁ?」
仮にもアリスさんは私のクラスメイトを殺してきた人だ。自分のことも殺/すかもしれないような人と遊ぶわけないじゃん。
と思ったけど、ふと頭の中を過った。……アリスさんの連絡先知らないし、ほんとにドタキャンしたら、逆に怒りを買って殺されるんじゃないか。
「あーもう、クソ!」
私はスマホを枕に投げ付けた。
アリスさんが何を考えてるか分からない。何が目的で私を遊びに誘ったのかも全然分からない。何がしたいの、あの人。
結局私を殺/すなら、さっさと殺せばいいのに。深く関わり過ぎた人は消されるんでしょ?私はまだそこまで真実を知らないってことなの?
……待って。アリスさんが死/ねば、私のクラスメイトを殺/す魔女は居なくなる。そうすれば、もう誰も死ななくて済むんじゃ……?
ドクドクと自分の心臓の音だけが聞こえる。ふと浮かんできた自分の考えにそっと身震いした。
「人殺/すなんて、アイツらと同レベになっちゃうじゃん。でも」
そうでもしないと、きっとまたクラスの誰かが死んで、誰かが悲しい思いをすることになる。
真中ちゃんの悲しそうな声と後ろ姿が浮かんでくる。私と同じで父親が居ないのに、大事な友達が死んだのに、暗い顔をせずに明るく振舞ってた真中ちゃん。あんな良い子まで誰かの勝手な都合で死ぬなんて、冗談じゃない。
このクラスが魔女に売られなければ、沙里と珠夏が薬に溺れて死ぬこともなかった。沙里や珠夏が死ななければ、綾瀬さんが不登校になることもなかった。弓槻が死ぬことだってなかったかもしれない。むすびだって。
全部全部壊されたんだ。絶対に許せない。
「……一刻も早く、クラスを売った犯人を突き止めてやる」
弓槻のお婆ちゃんにもお願いされたんだ。弓槻の為にも、絶対に犯人を――
「あれ」
そう言えば、弓槻のお婆ちゃんから受け取った弓槻のノートって、何の意味があったんだろう。パラパラと捲っただけだけど、中身は計算式がずらりと並んでるだけで、特に私に向けてのメッセージなんかは何も書かれてなかった。
鞄に入れたままだったノートを取り出して、表紙を見る。鉛筆の跡も折り目もない。まるで新品みたいに綺麗だ。端の方に小さく「弓槻ゆずか」と書かれていなければ、完全に新品と見間違えるだろう。
表紙を捲ると、まるでパソコンで打ち込んだフォントのような綺麗な文字が、几帳面に整列している。
なんだこれ。ただの数学のノートじゃん。何でこんなものを私に?
と思いながら一ページずつ読み進めていくと、とあるページの計算式の下に妙な空白が出来ていた。次のページからはみっちりと計算式が書かれているのに。
「?」
よく分からないけど、きっとここで日付が変わったりしたから空けといたのかもしれない。私はそのまま最後のページまで読み進めた。
「……はぁ?」
結局最後のページまで計算式が書かれてただけで終わってしまった。
意味分かんない、あのお婆ちゃんボケてきてるのかな!?
なんて失礼なことを思いながら、私はそのノートを勉強机の上に放り投げた。
そのままベッドに寝転んで、真っ白な天井とLEDを見詰めていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。
そして、また夢を見た。
誰かが言い争うような声が聞こえてくる。でも、まるで水中に居るみたいにぼやけて内容は聞き取れない。
ゆっくりと目を開ける。ここは教室だ。多分、うちのクラスの。
目の前で何かを必死に言い合う二人の少女は、ゆっくりと振り返って私を見た。
え、待って。この二人って――
「…………」
さっきまで二人の顔を覚えてたはずなのに、今はもう思い出せない。
遠くの方で、子供の燥ぎ回る声が聞こえてくる。それを頭の隅でぼーっと聞き流しながら、ゆっくりと体を動かす。
ベッドのコンセントに繋がれた充電器を外して、スマホの画面を見る。
九時半だ。
九時半。
九時半?
「やば!」
思わず飛び起きた。
やばいやばいやばい、アリスさんとの待ち合わせは十一時だから、今からシャワー浴びて髪乾かしてスキンケアしてメイクして髪整えて服選んでたらどう考えても間に合わない。
私はベッドから飛び降りて、階段を駆け下りた。
「おはよ。」
駅に着いてホームから出ると、先にアリスさんが待っていた。私は息が切れて声が出ないので、無言で右手を上げた。
「ギリギリだね。今五十九分。」
アリスさんは呑気にスマホの画面を見せてきた。いや、ちょっとは気ぃ使えって。
「はぁ。すみません、遅れて……」
一応相手の方が年上だし、時間には間に合ったとは言え待たせてしまったから謝っておいた。
「いいよ。へー、りんねちゃんの私服、結構好きかも。ピープス系の女の子、好き。」
そう言いながら私の頭から爪先まで眺めるアリスさん。何だか恥ずかしくなって苦笑いする。
「はは。アリスさんは何か雰囲気違いますよね」
今日のアリスさんは、無難なミルクティーベージュのワンピースを着ていた。昨日の原宿に居そうなファッションとは打って変わって、普通の女子大学生みたいなファッションだ。靴もぺったんこで、そのお陰か昨日より威圧感がないし、背の高さも今日は私の方が高い。きっと私が厚底じゃなければ、アリスさんと私は同じくらいの身長なんだろう。
「じゃあ、行こっか。」
「は、はい」
言われるままにアリスさんに着いていく。
「大通りのドトールでいいかな。そこにりんねちゃんに会いたいって言ってる人が来てるから。」
「え、えぇ!?何すかそれ」
聞いてないし!てか誰だよ。
「きっとりんねちゃんもすごく会いたい人だと思うから。」
アリスさんはそう言ってにこりと微笑んだ。あれ、こんな風に普通に笑えるんだ、この人。
てか待ってよ。私もすごく会いたい人ってそもそも誰だし。アリスさんと私の共通の知り合いなんて居たっけ?いや、居たには居たけど、二人は昨日――
「う」
思わず口元を抑えてしゃがみ込んだ。頭がぐらぐらする。目の前に砂嵐のフィルターがかかったみたいな感覚になる。
「りんねちゃん。」
いきなり道端に座り込んだ私を、道行く人達が怪訝そうな顔で見て素通りしていく。そんな私に気付かずに数歩先を歩いていたアリスさんが戻ってきて、私の隣にしゃがんだ。
「気分悪くなっちゃったかな。」
そう言いながら背中をさすってくれる。それでも吐き気と眩暈は治まらなかった。むしろ昨日の会話や風景がフラッシュバックして、余計気分が悪くなる。
「無理、無理……」
「りんねちゃん。あの横断歩道渡ればドトールだから、もう少し頑張って。ね。」
すはぁ、すはぁ、と、自分でも異様な息遣いなのが分かる。
「大丈夫。大丈夫だよ。」
そう言ってアリスさんは私の肩をぽんぽんと叩く。大丈夫じゃないっつーの、と心の中で言い返したけど、それを声に出す気力はなかった。
私は何とか立ち上がって、アリスさんに腕を掴まれながら横断歩道を渡った。
ドトールに入って、アリスさんがケーキとコーヒーを二つ注文する。「窓際の一番奥の席だから、先座ってて。」と言われるままに私はイートインスペースへ向かった。
窓際の一番奥の席、窓際の一番奥の席……と頭の中で唱えながらそこを見ると、女の人の後ろ姿が見える。
あの人が、私に会いたがってた人?そして、私も会いたいと思う人。
全く見当がつかなかったけど、その後ろ姿にはどこか見覚えがあるような気がした。
あんな綺麗な黒髪のボブなんて、知り合いにいなかったはずだ。でもやっぱり、絶対に見た事がある。
あれ、もしかして――
「りんねちゃん。」
ガクンと体が床に崩れ落ちた。他の客が私を迷惑そうにじろじろ見ている。
注文を終えたアリスさんが、私の体を起こして席まで運んでくれた。
「お待たせ。りんねちゃん具合悪いのに来てくれたから、感謝しなくちゃね。」
アリスさんは私を奥の席座らせ、自分は待っていた女の人の隣に座った。
「ありがとう……、あなたにずっと会いたかった。」
その人は優しそうな声でそう言った。座ったおかげで少しずつ目の前がはっきりしてくる。私はゆっくりと顔を上げた。
「っあ」
何で?
私は思わず口元を手で抑えた。
ここに居るはずのない人が、目の前に座っていた。
どうして?何で?どういうこと?
思わず目の前が涙で霞む。
「ゆ、弓槻……!」
陽の光を受けて白っぽく輝く長い豊富な睫毛、同じく艶々と煌めく癖のないストレート。
髪の長さこそ違うけど、確かに弓槻だった。
込み上げてくる涙を必死に飲み込んで、私は弓槻を見詰める。
夢じゃないんだよね?幻覚でもないんだよね?
「ニュースでも報道されてたのに生きてるわけないじゃん」「弓槻のお婆ちゃんが言ってたことはどうなるの?」そう思ったけど、そんなのどうでも良かった。だって、ちゃんと目の前で今生きてるんだもん!
「りんねちゃん。ごめんね」
そう言いながら透き通るような瞳に涙を浮かべる弓槻。でも、ふとその姿に違和感を覚えた。
弓槻の泣き顔を初めて見るから?いや、違う。弓槻は私のことを“りんねちゃん”なんて呼んでなかった。
「ゆ、弓槻……?」
目の前に座っているその人は、見た目は確かに弓槻そのものだった。でも、表情や小さな仕草、話し方が微妙に違う気がする。
「だ、誰……?」
確信した。この人は弓槻じゃない。
どきどきと鼓動が速くなる。
「私は、弓槻ゆずは。ゆずかの、姉です。」
「え……?」
目の前が真っ白になる。
だって弓槻のお姉さんは、一年前魔女に売られたせいで、爆発事故に巻き込まれて亡くなったんじゃなかったの……?
「……ゆずかから聞いてるよね。私は一年前、あの爆発事故で“死んだことになってる”。」
ゆずはさんは、まるで一文字一文字を絞り出すようにゆっくりとそう言った。
「ことになってる、って……?」
「あの爆発事故の日に学校を休んで、唯一助かったクラスメイトと言うのは、私。
そして、あのクラスを売ったのも、私。」
どきんと心臓が大きく脈打った。その言葉の意味がしばらく理解出来なかった。
「は……?」
やっとの思いでその一言だけ口に出すと、ゆずはさんは額にいくつもの脂汗を浮かべながら話した。
「あの事故が起きた後に犯人が引っ越したっていうのも聞いたかな?でも海外には行ってなくて、ずっと日本の施設に入ってたの――」
「待って待って待って。家族にも黙って、死んだことにして逃げてたってことですか?」
「りんねちゃん。そんな言い方だめだよ。」
アリスさんが割って入ってくる。
「いいの、ほんとのことだから。
でも、これ以上お婆ちゃんとゆずかに迷惑かけなくなかったから。私が三十人の命を奪った挙句、更にこの手で人を殺/すことになるなんて思われるくらいなら、死んだことにして姿を消した方がいいって。それが最善だと思ったの」
「何が最善だよ。何もかも間違ってる。あなたのせいでお婆ちゃんがどれだけ寂しい思いしたと思ってんですか?弓槻だって、あなたの仇と思ってずっと――」
そうだ、弓槻がうちのクラスを売った犯人を突き止めようとしてたのだって、元はと言えばお姉さんも魔女に殺されたからだった。それなのにほんとは死んでなくて、弓槻は再会も出来ずに死んでしまったなんて、酷過ぎる。
「何で会いに行かなかったんですか?妹のクラスも売られたことだって知ってたんでしょ……?」
「……言えるわけない。私はゆずかが必死に探してる犯人と同じことをしてたんだから。今更やっぱり生きてて、私がみんなを殺しました、なんて言ってのこのこ出ていけるわけないじゃない」
「それは……」
分からなくもなかった。確かに妹には自分が死んだと思われてるのに、やっぱり生きてました、そしてあなたが恨んでる犯人こそ私です、なんて言い出せない。それは分かるけど、それにしても酷いんじゃないか。
「だったら最初から売るなよ、そうすればみんな不幸にならなくて済んだのに」
ぽつりと呟くと、ゆずはさんは泣きそうな顔で苦笑いした。口元と瞼がぶるぶると痙攣している。
「ほんとにそうだよね。ほんとに馬鹿だと思う。でもどうしようもなかったの」
「…………」
黙ってそんなゆずはさんを睨み付ける。
みんなそうだ。魔女に他人を売った人は、みんな「仕方なかった」って顔をする。
そりゃ、私だって戸川さんのブログを見た時は、あんなに酷いいじめを受けてたら、クラスメイトを売りたくなる気持ちも分かるって思ってた。
でもそれで戸川さんは救われたの?私には根本的な問題は全く解決していないように見えた。だから結果的に――
「っ」
また目眩がする。頭がぐにゃりと弓形に捻り曲がってしまったような感覚になる。
「りんねちゃん。」
「っ、大丈夫ですから」
アリスさんがそんな私に気付いたみたいだけど、私は掌を向けて制止した。
「私は、こんなことしたって不幸が増えるだけだと思ってます。」
「……」
アリスさんとゆずはさんは黙って私を見詰めている。
「りんねちゃんの言うこともすごぉく分かる。でも、私は後悔はしてなかった。」
ゆずはさんは真っ直ぐな瞳でそう言った。
「『かった』?今はそうじゃないってことですよね」
ついつい揚げ足を取ってしまった。言った後に少し後悔したけど、ゆずはさんは頷いて、
「うん。ゆずかのクラスが売られたって聞いて、物凄く後悔した。それをアリスから聞いた時、目の前が真っ白になったの。大切な妹が殺されるって宣告されたようなものだからね」
「助けようとは思わなかったんですか?都市伝説通り魂を売れば魔法少女になれるわけじゃないんだし、別に三十人じゃなくたって良いんでしょ。」
そもそも何で三十人なんだろう。「魔法の力が手に入る」が、売られた人を殺/すだけの魔女になるってことなら、こんな意味もなく人が死んでいくのに何の意味があるんだろう。
「……だめなの。売られた三十人は、全員死んでもらわないといけないの」
「意味分かんない、妹が無意味に死ぬのに平気だったんですか?」
「平気なわけない!でもそう言う決まりなんだから仕方ないでしょ!」
ゆずはさんは半ば叫ぶようにそう言った。
「ゆずはちゃん、静かに。」
アリスさんが人差し指を唇に添える。
「あそこに高校生が居るでしょ。聞かれたらだめだから。」
「え……?」
その意味がよく理解出来なかったけど、ゆずはさんは解ったみたいで、無言で頷いた。
「そうだね。あの子達が消されちゃうとこだった」
「……?」
高校生らしき女の子二人は、随分遠くの席に座っている。真後ろにはお爺さんとお婆さんが座っていて、左斜め後ろにはサラリーマンらしき人も座っている。
そう言えば、さっきからこの人達には普通に会話は聞き取られてるはずなのに、それは平気なの?
「ほんとはりんねちゃんにも話しちゃいけなかったけど、どうせ死んじゃうし。いいよね。」
何やら不吉な笑みを浮かべるアリスさん。
「え、あ、はは」
反応に困る。
「お待たせしました〜、遅れて申し訳ございません……」
そして店員がやって来て、さっきアリスさんが注文していたケーキとコーヒーをテーブルに置いていった。
それからしばらく沈黙が続いた。アリスさんが二つ届いたケーキとコーヒーを、一つは私に差し出して、もう一つを自分の方に寄せた。私は無言で軽く頭を下げた。
「……取り敢えず、食べようか」
アリスさんがゆっくりとコーヒーを啜る。私も無言でそれを真似た。
黙々とチーズケーキを口に運んでいると、ゆずはさんが「そう言えば」と呟いた。
「りんねちゃん、LINE交換してくれない?」
スマホを取り出してQRコードを私に見せるゆずはさん。私は咀嚼しながら頷いて、スマホを操作する。
「あ、私も。いいかな。」
アリスさんもQRコードが表示された画面を私に向けてきた。
私は二人のQRコードを読み込んだ。
って、二人は仮にもたくさんの人の命を奪ってきた魔女なんだぞ。普通に繋がっちゃったけど大丈夫なの?特にアリスさん。
「てか、何で結局殺/すのに連絡先交換するんだし」
何気なく呟くと、ゆずはさんとアリスさんは顔を見合わせてプッと吹き出した。
「何がおかしいんだよ」
「いや。確かに言われてみればそうだよね。」
テーブルの上に鎮座する手付かずのチーズケーキを眺めながらそう言うアリスさんは、どこか悲しげな目をしている。
「仲良くなっちゃったら、殺/す時辛くなっちゃうのにね。」
「やっぱりりんねちゃんも殺/すつもりなのね。」
ゆずはさんにそう言われたアリスさんは、一瞬間を空けて、ゆっくりと頷いた。
「だってそうでしょ。売られた三十人は、一人残らず絶対に殺さないといけない。」
「……でも」
「自分の持ち場じゃないからって私情は挟まないで。りんねちゃんと妹さんを重ねちゃうんでしょ。」
「……はは、お見通しか」
ゆずはさんは自虐的に笑う。
そんな二人の会話を聞きながら、私は残りのチーズケーキを全て口に詰め込んだ。
……二人は人の命なんか簡単に奪えるような人なんだと思ってたけど、どうやら違うみたいだ。そりゃそうだよね、まだ成人するかしないかくらいの年齢でこんなことをしなきゃいけないなんて、平気な訳ない。
二人だって、まさか魔女に三十人の魂を売ったら、今度は自分が魔女になることになるなんて知らないで売ったんだろう。そう思うと可哀想に見えてくる。この連鎖を止める方法はないのかな。どうして魔女になった人はみんな、こんなに律儀に売られた人を殺していくんだろう。二人の会話からして、誰かに命令されてやってるようにも見える……。
この都市伝説についての情報を書き込むとそれはすぐに消されてしまうこと、大量に人が死んでもニュースや新聞で報道されないこと、真後ろに座ってさっきから私達の会話を聞いている大人は無反応なこと。こんなの普通じゃない。
『魔女は警察とか大統領とか、国の偉い人達とも繋がってるって噂だし。』
沙里と珠夏の言葉を思い出す。これはきっと事実だ。そして二人が真っ先に消されたのも、さっきアリスさんとゆずはさんが女子高生に会話を聞かれそうになったらまずいと言っていたことにも関係あるんだろう。
何で?何で高校生に知られたらまずいの?高校生……子供?
「りんねちゃん」
その声にはっとして顔を上げると、アリスさんとゆずはさんが私をじっと見ていた。真ん丸に見開かれた、カラコンが仕込まれているはずなのに、真っ黒な瞳。
「無駄なことは考えないで。そして、今日話したことや“何か気付いたこと”があっても、絶対に他人に話さないで。」
ゆずはさんがそう言うと、隣でスマホを弄っていたアリスさんが、無言でその画面を見せてきた。メモに『りんねちゃんは大人に見えなくもないからここで話せたの。子供が気付いたなんてバレたら、私があなたをすぐに殺さないといけない。だから絶対に誰にも言わないでね。家族にも、教師にも、友達にも、赤の他人にも。』
スマホの画面の奥にあるアリスさんの口元がにやりと三日月形に歪む。初めて会った時に見せたあの笑顔だった。
「……はい」
私は頷くしかなかった。
深く知り過ぎたら、やっぱり消されるんだ!
やっぱり殺/す気満々なんじゃん。……少しはいい人達かも、とか思ってたのに。
しばらく駄弁ってから、私達はドトールを出た。二人の後ろ姿を追い掛けて、涙を浮かべた瞳で思いっきり睨んでやった。
月曜、私は重い足取りで学校へ向かった。
学校の最寄り駅から歩いていると、誰かに肩を叩かれた。驚く気力もなかったので、ゆっくりと振り返る。
「りんね、おはよ。」
「しみず……」
私が力なく返すと、しみずは不思議そうな顔をして首を傾げた。
「りんね、元気ないね?」
「うん、ちょっとね」
しみずはまだ知らないんだ。むすびが死んだこと、ホームルームで聞かされるのかな。また吐いたらどうしよう。
アリスさんとゆずはさんに会った土曜日の夜から、ずっと吐き気が続いている。日曜は丸一日部屋から出られなかった。
むすびと戸川さんの姿が、声が、匂いが、頭にこびり付いて離れないのだ。
「でも久しぶりだな、今日は湯川さん居ないんだね」
「あー」
しみずに悪気は全くないって分かってる。でも思わず叫びたくなった。今はその名前を話題に出さないで。
「りんねと二人で喋れるの、久しぶりで嬉しいよう」
しみずはそう言って満面の笑みで私を見上げてきた。
「そうだね、そうだよ……」
ずっとむすびに邪魔されてたから、しみずと二人きりで喋るのは本当に久しぶりだ。まだ魔女なんかと無関係だった頃に戻ったみたいで、自然と視界が潤んでくる。
「ずっと不安だったの。もし私よりりんねが先に死んじゃったらどうしようって」
長く繊細な睫毛を伏せて、しみずは低い声でそう言った。どきりと心臓が脈打つ。
「都市伝説のこと、まだなんにも分かんないから、頑張って調べてたんだけど……。どれも曖昧な情報ばっかで、何も分からなかった」
「あ……」
そっか。しみずは弓槻にこのクラスが売られたことを言われただけで、後は何も知らないんだ。ほんとは魔法の力なんて存在しないことも、売られた私達を殺/す魔女の存在も、魔女が生まれる連鎖も。
話すべき?と思ったけど、やっぱり大切な友達を巻き込むことになるかもしれないのが怖かった。
「私も、よく分かんない」
私はわざと知らないフリをした。
しみずには、このままで居てほしい。
「今日の連絡は以上。それじゃ」
ホームルームが終わり、担任が教材を纏める。
「うわー、数学まぢ無理!」
「課題やってきた?写さしてよ」
「教科書忘れた〜」
クラスメイト達がざわめく中、私は机の下で握った手をわなわなと震わせた。
何で?担任はむすびの件に関して一切口に出さなかった。クラスメイトが死んだのに、何の報告もなしってそんなことある?しかもむすびが死んだのは金曜日だ。まだ情報が入ってきてないなんてこともないはず。
「……」
どんどんクラスメイトが死んでいくから、みんなを悲しませないようにわざと喋らなかっただけ?私は無言で教室から出ていこうとする担任の後ろ姿を睨み付ける。
「今日はあの三人休みなんだね」
誰かがふとそう呟いた。私は思わず声のした方を見る。
「あー。三人で遊んでんじゃね?」
「真面目そーだからサボらなさそうなのにねw」
「興味な。居ても居なくてもそんな変わらんし」
きゃははと甲高い笑い声を上げながら笑う。私は空白の席に視線を移していく。
岡田さん、倉野さん、むすび。むすびは分かるけど、岡田さんと倉野さんまで休みなんだ。
その時、ふとどこからか視線を感じた。思わず振り返って教室を見渡すと、不思議そうな顔をしたしみずと目が合う。
「どうしたの?」
「何でもない」
私は慌てて視線を戻した。しみずに余計な心配掛けちゃだめだ。
でも、何だろう。何か嫌な予感がする……。
次の日も、その次の日も、むすび達三人は姿を現さなかった。
むすびは当然だけど、岡田さんと倉野さんまで来ないなんておかしい。二人は今まで学校を休んだことはなかったし、サボるような性格でもなかった。
……まさかね。頭の中に浮かんできた最悪の事態を必死に取り払う。
たまたまだよね。だってもしそうだとしたら、アリスさんが私と会った後に二人を……したことになる。さすがにそんな酷い人じゃないよね。うん、ただの偶然だ。
が、ホームルームで担任から解き放たれた言葉で、一瞬で希望は絶たれた。
「えー、突然だが、岡田と倉野と湯川は転校することになった。」
「は?」
一瞬思考がフリーズする。私は思わず口をあんぐりと開けて固まった。
むすびが、『転校した』???
「それじゃー。気を付けて帰れよー」
担任はそれだけ言ってそそくさと教室から出ていってしまった。
「三人まとめて転校なんてある?」
「あそこ仲良かったしクラスでも馴染んでなかったからじゃない?」
「にしても急だよね〜」
クラスがざわつく中、私は一人で机とにらめっこしていた。
むすびは死んでるんだ、なのに転校なんて有り得ない。私はこの目で見たんだもん。
担任は、絶対嘘を吐いてる!
私はすぐに教室を飛び出し、女子トイレの一番奥の個室へ飛び込んだ。
呼出音が鳴るスマホを耳に当てて、カタカタと貧乏ゆすりをする。
しばらくして、気だるそうなアリスさんの声が聞こえてきた。
「もしもし。」
「酷いよ、何でまた殺/すの!」
私はすぐに声を抑えて浅ましく叫んだ。
「えぇ。何のことかな。」
それでもアリスさんはしらばっくれようとしている。
「また死んだんだよ。岡田さんと倉野さんが、転校したことになってる。」
「それはほんとに転校したんじゃないのかな。」
「違う……。むすびも転校したことになってんだよ」
私が言うと、アリスさんは「えっと。」と呟く。
「それはそうなるよ。でも待って。だとしたら岡田さんと倉野さんもそうなるのはおかしいよ。」
「?さっきから何言って……」
その次の瞬間放たれた言葉に、私は耳を疑った。
「だって私、その二人はまだ殺してないもの。」
『え……?』
二人の声が重なった。電話越しにアリスさんの息遣いが荒くなるのが聞こえる。
「私は殺してない。じゃあ誰がその二人を殺したの。」
「それってつまり、誰かがアリスさんの代わりに殺したってことになるんですか……?」
さっきとは違う、自然に脚がガクガクと震え出す。
「そういうことになるよね。」
そう言うアリスさんの声も少しだけ震えていた。
もしそれが本当だとするなら、一体誰が?何のために?
「他の魔女に何か知ってないか聞いてみる。ごめんね、連絡ありがとう。」
アリスさんはそう言うと、私の返事も待たずに通話を切ってしまった。
私はそっと耳からスマホを離し、そのまま膝の上に手を載せる。
魔女にうちのクラスを売ったのは、岡田さんと倉野さんじゃなかった!
心のどこかで疑ってたんだ。むすびがあんな風に言ったのは出任せだって頭では分かってた。でも本当に二人ならやるかもしれない、なんて思ってしまっていた。
何の証拠もないのにクラスメイトを疑うなんてサイテーだ。そして実際に死なないと疑いが晴れないなんて、もっと最悪だ……!
「なんだってんだよ」
ほんとに、うちのクラスが何したって言うんだよ。
暗い気持ちのままトイレから出ると、鏡の前に誰かが立っていた。
「あ」
鏡の前で頻りに前髪を直していたのは、真中ちゃんだった。
やば、いつからここにいたんだろ。今の会話、もしかして聞かれてた……?
「りんねちゃん、教室に鞄置きっぱだったよ?」
真中ちゃんはにこりと笑ってそう言う。
「ありがと。もしかして私の声聞こえてた?友達と電話しててさ」
さりげなく尋ねると、真中ちゃんはポーチからティントを取り出して唇に塗布しながら、
「んー?ずっと音楽聴いてたから聞こえなかったよ」
そう言って自分の耳を指差した。
確かに両の耳にAirPodsが差し込んである。
「ピアスのせいでさ、入れるの大変なんだよね〜」
そう言いながらティントの蓋を閉める真中ちゃん。
「よし!じゃあね、また明日!」
真中ちゃんは洗面台に置いてあった鞄を肩に掛け、手を振りながら階段を降りていった。
「バイバイ」
私も手を振り返した。
「はぁ……」
教室に戻ると、もうほとんどのクラスメイトが下校していた。唯一残っていたのはしみずだった。
「りんね!」
私の鞄を持って廊下に出てきたしみずは、それを私に渡してくれた。
「ありがと」
「うん、一緒に帰ろ〜」
私達は肩を並べて廊下を歩いた。
「はー、湯川さん達がまとめて転校なんてびっくりだよね」
しみずの言葉にびく、と肩が跳ね上がる。それを悟られないように肩を回して誤魔化した。
「転校先も同じ学校なのかなぁ」
笑顔でそう話すしみずを他所に、私の心臓はゆっくりと、どく、どくと音が聞こえる程強く脈打っていた。
玄関でローファーに履き替え、校舎を出ようとした時、ふと胸ポケットに入れていたスマホが振動した。
飛び付くようにスマホを取り出し、縋るように画面を見る。予想通りアリスさんからLINEが来ていた。
「りんね?」
不思議そうな顔でしみずが私を見る。
トーク画面には、『家に着いたら連絡くれないかな。電話したい。』と書かれていた。
「ごめんしみず、用事あったの忘れてたから先帰るね」
「あ、うん、分かった〜」
有難いことにしみずはそれ以上追求してこなかった。私は手を振ってガンダした。
最寄り駅に着いて地上へ出てすぐ、私はアリスさんに電話を掛けた。
『もしもし。』
アリスさんはすぐに出てくれた。
「もう最寄りなんで大丈夫です、何か分かりましたか?」
そう尋ねると、アリスさんは弱々しい声で、
『誰も何も知らないって。それどころかちゃんと私が殺したことになってた。』
「そんな……」
僅かな希望は一瞬で打ち絶たれた。
『もし私じゃないってバレたら、きっと私は処分される。りんねちゃんには先にさよならを言っておくね。』
「そんなのいいから早く犯人を――ちょっと待ってください」
私は電柱の前できょろきょろと周りを見回している女の子を見て、ふと足を止めた。
黒髪のシースルーバングに、軽く巻かれたポニーテール。面識のない顔だったけど、その制服は今まで死ぬほど見てきた。
「城雲高校の子だ……」
『え?』
アリスさんがそう呟く。そしてその女の子とふと目が合った。
「あ」
何故かその子は私を見た途端こちらに駆け寄ってきた。狼狽えていると、その子はいきなり頭を下げてきた。
「すみません、白いボブの女の人の連絡先とかって分かりませんか!?」
いきなりそんなことを言い出した。
「え、えっと?」
白いボブ、って、確実にアリスさんのことだよね。
「困ってるんです、ほんとにお願いします!一昨日その人と一緒に歩いてたでしょ?」
知らないふりをしようとしたけど、どうやら私達が知り合いなのはもうバレてるみたいだ。
電話は繋がりっぱなしだし、ミュートにもしてないからきっとアリスさんにも筒抜けだろう。でもどうしてこの子はアリスさんを探してるの?
「勝手に個人情報教えるのはちょっと、」
「お願いします、信じてもらえないかもしれないけど、友達があの人に殺されたかもしれないんです……!」
この子、もしかして戸川さんに売られた人達の友達?
「それってどういうことですか?」
思わず尋ねてしまう。
「一ヶ月くらい前、友達と駅のホームでティックトックを撮ってたんです。私は反対側のホームから友達を撮ってたんですけど、そしたらその子が急に線路に飛び込んで……。後から動画を見たら、白いボブの女の人が友達のスマホを奪って線路に投げ捨ててたんです。多分反射的に拾おうとして、そのまま……。」
「あ」
あの日だ。私が乗ってた電車で起きた人身事故のことだ。
「警察に証拠の動画を渡しても取り合ってくれないし、焦ってつい友達に送ったらツイートされて、でもすぐに消されたんです。後からフォロワーが多い友達に頼んでまた拡散してもらってもすぐに削除されて。
お願いします、名前だけでも教えてください!」
「な、名前くらいなら……」
別にそれくらい教えてもアリスさんは困らないだろうし。こんなに切実そうなんだから、名前くらいならいいよね。
「関口アリスさんです。でも私もそんなに親しいわけじゃないし、また待ち伏せしたりするのはやめてもらえると嬉しいです」
私がそう言うと、その子は泣きそうな顔で、
「ありがとうございます、突然声掛けてすみませんでした。じゃあ」
そう言って何度も頭を下げて、駅の階段を下っていった。
『勝手に名前教えちゃうなんて酷いよ、りんねちゃん。』
「すみません、でもちょっと同情しちゃって」
『でも別にいいよ。あれ本名じゃないから。』
「は?何それ」
何だそれ、私が嘘吐いたってことになるじゃん。グルだと思われたら嫌だなぁ。
「まぁいいけど。でも大丈夫ですか?顔覚えられてるみたいだし、見付け出されて刺されるかもしれませんよ」
ちょっとだけ脅してやると、アリスさんは「それは困るなぁ。」と笑った。
『それより、問題はりんねちゃんのクラスメイトを殺した人が分からないことだよ。どうしよう、関係者じゃないなら大変なことになる。』
そう言うアリスさんの息遣いは荒くなっている。
「とにかく、どうにかして探し出しましょ。また誰かが殺されるかもしれないですから。」
私はそっと手を握り締めた。
また、探さなきゃいけない“犯人”が増えてしまった。
「えー、古谷が留学することになった。」
「下館と柏木が退学することになった。」
「間宮がしばらく休学することになった。」
「矢田と山本が――」
それから、どんどんクラスメイトが教室から消えていった。その理由は様々だったけど、きっと本当の理由はみんな同じだ。
教室から消えたクラスメイトは途端に連絡も途絶えてしまったので、流石にクラスメイト達も不審に思い始めたらしい。教室の雰囲気はクラスメイトが一人減る度に暗くなっていった。
「何でうちのクラスだけ?」
「絶対おかしいよね……」
「もう半分くらいしか居ないじゃん。」
「何も言わないまま居なくなるなんて有り得ない。それに何でLINEも返してくれないの?」
やっぱりみんなも気付き始めたか。そりゃそうだよね、このクラスばっかり転校や留学なんて絶対おかしいよね。
この中に、全ての真実を知っている、このクラスを魔女に売った犯人が混ざってるんだ。
そして、もしかしたらクラスメイトを魔女のふりをして殺していっている人も居るのかもしれない。
あの子は怖がってるふりをしてるだけ?あの子は嘘泣き?あの子は全部気付いてるかもしれない。
私はクラスメイトを疑いの目でしか見れなくなっていた。
憂鬱な気持ちのままテスト期間に入り、それからは何も起きないまま終わった。
勉強する気にもなれなかった私は、当然最悪の結果をクラスメイトの前で公開処刑される羽目になった。
「首藤、どの教科も最下位ってどうなってるんだ?」
担任は呆れながら成績表を私に渡した。私は無言でそれを受け取り、見る気力もないのですぐにクリアファイルに挟んだ。
もう担任なんて信じられない。他の教師だって、きっと真実を知ってるはずなんだから。
周りの大人も、みんなみんな信用出来ない。
そして私は確信した。
テスト期間は何も起こらなかったってことは、消えたクラスメイト達を殺して回ってるのは、この学校の人間だ。そしてそれは、多分……このクラスの生徒だ。
「誰なんだよ……」
教室に居ることが苦痛だった。
そんな風に思ったのは、生まれて初めてだった。
「すみませーん、首藤さん居ますかー?」
突然知らない生徒がそう言いながら教室に顔を覗かせた。
首藤、って、私しか居ないよね。
「何ですか?」
立ち上がって駆け寄ると、その生徒は「外で呼んでるよ」と言って手招きしてきた。
言われるままに黙って着いていくと、洗面所の前に誰かが立っている。
その子を見て、私は思わず小さな声で尋ねてしまった。
「あの、人違いじゃないですか?」
「えー?でも首藤りんねってあなたでしょ?ほら、連れてきたよ、じゃあね!」
そう言われて振り返ったその子は、にこりと笑って後れ毛を耳にかけた。
「会いたかった。」
そして柔らかい声色でそう言った。
「え、えぇ?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。それでもその子は微笑んだまま。
「橘奈那(たちばななな)。同じクラスなんだけど、分からないか」
「ああ、はい……」
名前は初めて知ったけど、確かにこの子は同じクラスの子だ。バージンヘアと思われる漆黒のロングヘアを巻いたツインテールに、茶色い三白眼。下まつ毛が長くて、少しだけ丸い団子鼻。そして目を引く真っ白な肌に浮かぶ、さくらんぼ色のグロスを塗った唇。
間違いない。たまにしか学校に来ないあの子だ。
「ええと、どうかしたの?」
尋ねると、橘さんは恥ずかしそうに口を横に広げて、
「私と喋ってたら首藤さんまで誤解されちゃうよね。後で連絡したいからLINE教えてくれない?」
「別にいいけど、何で誤解なんてされるの?」
そう言いつつスマホを取り出すと、橘さんは大きな目を更に大きく見開いた。
「……え?だって私、みんなに……」
「え?」
しん、と二人の間に沈黙が訪れる。私達はしばらく見詰め合った後、同時に視線を逸らした。
「いや、知らないならいいけど……」
気まずそうにスマホを両手で握る橘さん。
「何かあったの?」
思わず訊くと、橘さんは一瞬間をあけて、あははとわざとらしく笑った。
「な、なぁんだ。てっきりもう気付いてんのかと思ってたぁ……」
「……」
一頻り笑った後、橘さんは深呼吸して、
「私が援交してるって噂、ほんとに知らなかったの?」
にこりと微笑んで首を傾げたけど、その表情にはどこか影があった。
「えん、こう……?何それ、知らない」
「ほんとに?」
橘さんは疑り深く私を見るけど、本当にそんな噂なんて聞いたことなかった。
「その噂ってさ。本当、なの?」
恐る恐る訊いてみると、橘さんはわざとらしく意地悪い顔をした。
「さぁね。でもこれで気付いたでしょ?」
「何が?」
どきんどきんと心臓が脈打つ速度を上げていく。
「私はこの噂を流して私を白い目で見てきたクラスの子達を恨んでるのよ。この意味、分かるよね?」
「な、何で」
声が震える。
「ほんとに知らなかったの?誰かが気付いたら真っ先に疑われると思ったのになぁー。」
橘さんはくるりとUターンし、背中越しに私を見据えた。
「一年B組を魔女に売ったのは、私だよ。」
耳ではその言葉をちゃんと聞き取れたのに、頭ではよく理解出来なかった。
いや、理解したくなかっただけかもしれない。
「!」
気が付いたら、私は廊下に倒れ込んでいた。
ゆっくりと目を開ける。真っ先に目に入ってきたのは真っ白な天井。そして私を取り囲む淡いピンクのカーテン。
「あ、起きた?」
そして私の顔を覗き込むように見下ろす、橘さん。黒いツインテールの毛先が私の顔を擽った。
「カミングアウトしたら急に倒れちゃったからびっくりした。そんなにショックだった?」
そうか、橘さんに自分が犯人だってことを打ち明けられたら、急にフラついて倒れたんだっけ。
覚えてる。倒れる瞬間、この数ヶ月で見た色んな風景が頭の中を過ぎった。
沙里と珠夏の最後の笑顔。魔女に近付くに連れどんどん変わってしまったむすび。私を見ながら自分を刺し殺した戸川さん。泣きそうな顔の弓槻のお婆ちゃん。私に相談出来ないまま死んじゃった弓槻。
全部全部、この子が魔女なんかに売らなければ起きなかったんだ。顔がどんどん熱くなっていく。
「よくそんなのこのこと出てこれたよね。神経疑うわ」
小さな声でそう言うと、橘さんは寂しそうな顔をしながらぐしゃりと笑った。
「もっと。もっと言いなよ。私に言いたいことたくさんあるんでしょ?」
「…………」
何がしたいんだろ、この子。責めてほしいの?それとも許してほしいの?何の為に名乗ってきたの?それにどうして私が気付いてたって分かったの?
「謝れよ。今まで死んだみんなに謝れ。それから今からでも取り消せよ。何で売ったりしたんだよ。」
「……ほんとに何も知らなかったんだね、首藤さんって。」
「だから何が――」
「クラスのみんなが私が援交してるって噂流したんだよ。酷いでしょ、みんなして私を汚い目で見るんだもん。」
橘さんはギリリと歯ぎしりする。
「んだよそれ、私はみんなが橘さんを笑ってるとこなんて見たことなかったけど」
「首藤さんは見て見ぬふりしてただけじゃないの?」
橘さんはにやりと笑う。
「ほんとに知らなかったの?思い出してよ、入学してすぐのこと」
「は……?」
入学した頃なんて、もう半年近く経ってるし覚えてる訳な……
「あ、もしかして、」
私がふと呟くと、それを聞いた橘さんはまたにやりと笑う。
「ほら。『あの子中学の時人の彼氏取ってばっかだったんだよ』って。」
「あ」
確かにそんな話を聞いた気がする。
入学してすぐ、もう既にグループが出来始めていた頃。
『あの子中学の時人の彼氏取ってばっかだったんだよ。』
確かにそんな噂を耳にした。
でも私は、ここは女子校だしそれが事実だとしても関係ないと思ってすぐに忘れてしまった。
それからしばらくして、橘さんは学校を休みがちになった。
「ね。首藤さんは忘れてたかもしれないけど、ずっとずっと私はみんなから避けられて陰口もたくさん言われてきた。……根も葉もない嘘なのに。」
言葉が出なかった。ずっとこのクラスはみんな仲が良くていじめなんて絶対にないって信じてたから。
「じゃあ、ほんとに」
消え入りそうな声で呟いた。
「何で、私に話したの」
橘さんはつまらなそうな顔をしてカーテンを弄る。
「クラスを売った犯人を探してる子が居るって知って、嬉しかったの。私を嘲笑ってたクラスメイトが、やっと反省して謝ってくれると思ってたの。でも違ったね、首藤さんは私を笑ってなかったけど、見てすらいなかったんだからね」
「それは、アリスさんから聞いたの……?」
「アリス?ああ、そう。」
「今アリスさんの代わりにクラスメイトを殺してるのも橘さんなの?」
「……それは残念だけど違うよ。あの魔女も必死に探してるみたいね。まぁ私はみんなが死んでくれれば誰でもいいけど」
「……なんなんだよ」
私は橘さんの視線から逃れるように頭まで布団を被った。
うちのクラスを売った犯人がようやく見付かったのに。なのに責め立てる気になれなかった。だってクラスメイトを恨むようなクラスメイトなんて存在しないと思ってたんだもん。恨んでないのにどうして売ったの?って問い詰めることは出来ても、実際にいじめ紛いなことをされてた子に問い詰めたって「いじめられたから」って返ってくるだけだ。
あれ、私、何でこんなに必死になって犯人探してたんだっけ。ただ見付けて責めたいだけじゃなかったはずだ。もっと大切な理由があったはずなのに――
「……弓槻」
そうだ、元々犯人を必死になって探してたのは弓槻だった。他人の願いを叶える為に死ぬなんて嫌だって思ったけど、実際は魔法の力なんて手に入る訳じゃなかったし。それに弓槻は姉が同じようにして殺されたと思って真実を突き止めようとしてたけど、その姉は生きてたんだから、もう良かったんじゃないか。
「何の為にここまで……」
バカみたいだ。私はどこに向かってこんなに必死になってたんだろう。
「なんかもういいや。早く殺してよ」
疲れた。
みんなで教室で笑い合ったり、友達と休日遊びに行ったり、そんな楽しかったあの日々が返ってこないなら、もういっそのこと死んでしまいたい。でもそれを口に出すことは出来なかった。クラスのみんなから虐げられてきた橘さんにそんなことを言ったら、きっと傷付けてしまうことになる。
「ごめん、首藤さんは何も悪くなかったのに巻き込んじゃって。謝っても許せるようなことじゃないか」
橘さんはそう言いながら決まり悪そうに髪を指にくるくると巻く。その態度に少しだけ腹が立った。
「何だよ今更――」
その時、枕の横に置かれていた私のスマホが振動した。
画面を見ると、しみずからの着信だった。
「……もしもし」
『りんね、大丈夫?もうすぐ授業始まるけどどこに居るの?』
「ああ、今保健室に居る」
『えぇ!?具合は大丈夫なの?』
「うん、もう平気だよ」
そう答えると、しみずは安堵の息を漏らして「良かったぁ」と言った。
『まだしばらく休んでる?そしたら先生に伝えとくけど』
「あ、頼むわ、助かる」
『任せてよぅ』
しみずはそう言ってから、何かを思い出したように「あ」と呟いた。
『具合悪いんだったらちゃんと寝ててよぅ、無理しちゃだめだからね』
「分かったって、お母さんかよ」
『もう!じゃあね!』
茶化してやると、しみずは少し怒り気味にそう言って電話を切った。
「はぁ。」
スマホを胸ポケットに入れていると、私をじっと見ていた橘さんと目が合った。
「何だよ」
「いや。何でもない」
「……?」
何だよ、じゃあじろじろ見るなっての。
「はぁ、教室戻ろっかな」
しみずにはちゃんと寝てろって言われたけど、もうそこまで調子悪くないし。ただの貧血だろうから授業くらいは受けられるでしょ。
「保健の先生は?」
「居ないよ。会議があるんだって」
「ふーん。ごめん、何か付き添ってもらっちゃって。私は教室戻るけど橘さんはどうする?」
一応尋ねてみると、橘さんはうーんと頭を悩ませて、
「私はいいや。ねぇ、首藤さんも一緒にサボろーよ」
どこか寂しそうな笑顔でそう言った。私はその表情を見て、「やだ」なんて言えなかった。
「いいよ。でもサボって何すんの?」
「それは、……待って。静かに」
橘さんはそう言って、カーテンの外に顔だけ出した。
「……何か聞こえない?」
橘さんはそう言うけど、私には何も聞こえなかった。
「待って、これって」
橘さんがそう言った次の瞬間。
耳を劈くような大きな爆発音が、私の鼓膜を突き破った。
思わず耳を塞いだ。体が大きく揺れる。いや、これは校舎自体が揺れているんだ。地震かと思ったけど、その揺れはすぐに収まってしまった。
「何?今の音」
口からやっとの思いで出てきたその声は、震えた掠れ声で自分でもよく聞き取れなかった。
そしてすぐに火災報知器が鳴り始める。
「……避難しなきゃ!」
私は橘さんと一緒に保健室を飛び出した。
廊下に出ると、たくさんの生徒達が流れるように校舎から出ていく。その波に乗りながら外に出て、校舎を見上げる。
「……嘘でしょ」
どうやら爆発音の原因は四階の教室らしい。窓にヒビが入っていつ割れて落下してきてもおかしくない状況だった。真っ黒な煙のせいでその教室の中の様子は全く見えない。
「待って、あそこって、」
隣で同じように校舎を見上げていた橘さんが、その教室を指差す。
「あそこ、今うちのクラスが授業してるんじゃない……?」
「……ヱ」
たった一言発するだけなのに、舌が上手く回らなかった。私は文字にすらならない声を出して、地面に座り込んだ。
嘘だ、そんな。でも確かに今は英語の授業をしている最中だから、あの教室で間違いない――
「早く!早く避難!」
怒声を上げる教師達を見て、橘さんが私の腕を引っ張った。半ば引きずられるようにして校庭へ向かう。
「しみずが、しみず、が、みんなが」
顎が外れそうなくらいガクガクと震えた。そのせいで舌を噛んだ。じんわりと暖かい血の味が口の中に広がっていく。
「ちゃんと訓練の時みたく並べ!1-Bは二人だけか!?」
他のクラスや他学年の生徒達が異様に短い一年B組の列をじろじろと見ている。
「ぅゎぁぁぁ」
私は声を漏らして浅ましく泣き叫んだ。
サイレンの音が鳴り響き、すぐに消火と救助活動が行われる。担架に乗せられ運ばれていくクラスメイト達の姿を見て、私は瞬きも出来なかった。
皮膚が欠けた白い脚や、指の数がおかしい手。呻き声のようなものもたまに聞こえてくる。ずっと見ていたら頭がおかしくなりそうだったけど、目を離すことが出来なかった。
カチカチと歯を鳴らしながら指を噛んでいると、 校庭に消防隊員と小柄な生徒が駆け込んでくる。
「トイレに居て逃げ遅れたみたいで……」
消防隊員は教師に何やら手短に説明して、すぐに校舎へ戻って行った。
がくがくと震えるその生徒の顔を見て、私は思わず息を飲み込んだ。
「し、み、ず」
一文字一文字をやっとの思いで紡いでその名前を口にした。
「……りんね!」
涙でぐちゃぐちゃになった顔を私に向けるしみず。その途端しみずはその場に泣き崩れた。
わぁわぁと人目もはばからず泣きじゃくるしみずに這うように近付く。私も声を漏らして泣いた。
しみずが生きてた。
でも、他のクラスのみんなは?
それから数十分が経ち、他のクラスメイトが戻ってくることはなかった。
それからしばらく休校が続いた。
犠牲者の数は明かされず、当然のようにニュースにもならなかった。ただ申し訳程度に新聞の端の方には載っていたらしく、他のクラスの誰かがストーリーに載っけてた。
あの爆発は誰の仕業だったんだろう。アリスさん?それともクラスメイトを殺して回ってた誰か?それとも橘さんだろうか。
分からないけど、きっと私としみずと橘さん以外のクラスメイトは全員死んだ。学校からは詳しいことは何も教えてもらえなかったから、詳しいことは何も分からないままだ。
「はぁ……」
深い深い溜め息をお腹の底から吐き出した。
ベッドの上から動けない。たまにインスタやTwitterを眺めるだけで意味もなく過ぎていく時間。
「疲れたなぁ……」
天井を仰ぎながら溜め息混じりにそう呟くと、ベッドの隅に転がっていたスマホが振動し出した。
「……え?」
通知画面を見て私は思わず口をあんぐりと開けて固まった。
「な、何で!?」
私は慌ててスマホを操作し、その通知を開いた。
「え……?」
ずっと動いていなかったクラスラインが動いていた。
『ねぇ、誰か居ない?』
そうメッセージを残していたのは、真中ちゃんだった。
「うぅぅ」
その画面を見た途端、私は思わず声を漏らして泣き出した。スマホを両手で握って、液晶画面にぽたぽたと数滴の涙を垂らす。
もうあの時教室に居たクラスメイト達はみんなだめだと思ってた。でも全員が死んだわけじゃなかったんだ。真中ちゃんは生きてたんだ!
私は無我夢中で文字を入力する。
『真中ちゃん、怪我は大丈夫なの?』
何より先に訊きたかったことを送信した。するとすぐに既読が付き、返信が来る。
『スマホ打てるくらいには平気だよ!
個チャ行ってもいい?』
それを見て、私は真中ちゃんとの個チャに返事を送った。
『良かった、今は病院?』
『そ、入院中
何か手術もしたみたいだけど全然記憶ないww
りんねちゃんはどこの病院なの?』
『あ、私は保健室居たから怪我はしてなかったんだよね、』
『そうなんだ!よかったよかった。』
何だか申し訳ない気持ちになった。
『他のクラスの子達から何か連絡あった?』
『今のとこ真中ちゃんだけだよ
あ、でもしみずと橘さんは教室に居なかったから無事だったよ』
そう送った途端、さっきまですぐに返信が来ていたのに、いきなりぴたりと止まってしまった。
どうしたんだろう、既読は付いてるのに。もしかして急に様態が悪くなったとか……?
嫌な予感がしてたけど、私が返信してから三分後に返信が来た。
『橘さんって奈那のことだよね?』
『うん』
『え、あの日奈那学校来てたの?』
『来てたよ、授業には出てなかったっぽいけど』
『何でりんねちゃんが知ってるの?もしかして事故があった時一緒に居たの?』
『え、うん』
何だろう、真中ちゃんの文面はどこか焦ってるように見える。
『奈那、何か話してた?』
『別に何も話してないよ?』
『誰かに何かされた、みたいこと言ってなかった?』
『え、別になかったけど』
そう返信した後に、ふと橘さんが根も葉もない噂を流されたせいで学校に来れなくなった話を思い出した。「誰かに何かされたみたいなこと」って、その話のことだろうか。
真中ちゃんは何か知っててこんなことを訊いたんだろうか。クラスメイトだしあの噂を知らないなんてこともないだろうけど。
『橘さんと何かあったの?』
何気なく尋ねると、真中ちゃんは、
『いや、変な噂とか聞いたことあったから気になっただけ。
ごめん、変なこと聞いて』
と返信してきた。
そうだよね、クラスメイトがあんな噂立てられてたら気になるに決まってるよね。やっぱり真中ちゃんは優しいんだなぁ。
『病院暇だし良ければまた話そ!』
『うん、お大事にね』
私はそう返信してスマホを閉じた。
真中ちゃんが生きてて良かった。もしかしたら他のクラスメイトもまだ生きてる子が居るかもしれない。諦めちゃだめだ!
その時、またスマホが振動し出した。今度は誰かからの着信だった。
画面を見ると、アリスさんからだった。
「もしもし」
『……もしもし。』
少しやつれたような弱々しい声が出てきた。
「どうかしたんですか?」
『りんねちゃんの学校で爆発事故が起きたって聞いて。』
アリスさんはゆっくりとそう言った。そこで私はふと違和感を感じた。
「アリスさん、体調大丈夫ですか?」
『あー、ごめん。最近ずっと吐いてたから喉痛くて声変かも。』
「いや、それは大丈夫ですけど……」
やっぱり。何かいつもと声が違うと思ったんだ。がらがらしていてまるで風邪でも引いてるみたいな声だった。ずっと吐いてたって、体調不良の原因はやっぱりうちのクラスだろうか。きっと毎日死に物狂いで犯人を探してるんだろうな。
『りんねちゃんが無事で良かったよ。他に生き残った人って居るのかな。』
「居ますよ。今分かってるのは三人だけですが」
『そっか。爆発の原因が何で誰のせいなのかは分からないよね。』
「はい、でもうちのクラスを売った子が名乗り出てくれましたよ。橘奈那ですよね。」
私が言うと、アリスさんは小さな声で笑った。
『ああ、あの子ってそんな名前だったんだ。知らなかった。』
「はぁ?黒髪ロングの子ですよ!ツインテールの……」
『取り引きの時しか会わなかったからよく覚えてないけど、その子で間違いないと思うよ。』
「いやいやいやちゃんと会ってくださいよw」
こんな大事な秘密を共有している仲なのに名前すら知らないなんて。そう言えば橘さんもアリスさんの名前を聞いてもピンと来てない様子だったっけ。
『でも一応連絡は取ってるよ。多分りんねちゃんに名乗り出たのも私がりんねちゃんのこと話したからだと思う。やっと誰かが反省してくれたって喜んでたよ。言ったでしょ、案外自分が周りが見えてないだけかもしれないって。 』
「……はい。悔しいけどそうでした」
私がそう言うと、アリスさんはまた小さな声で笑う。
『りんねちゃんって素直だよね。悪意がないって言うか。』
「は?馬鹿にしてるんですか?」
『してないしてない。褒めてるんだよ。だから奈那ちゃんもりんねちゃんのこと許せたんじゃないかな。』
アリスさんは笑いながらそう言う。
「許せたって?」
『ああ。昨日事故があった日にりんねちゃんに会ったって聞いて。『他のクラスメイトはまだ許せないけど、首藤さんは噂のこと覚えてすらなかったから、許したい』って言ってたよ。』
「許したところで、結局私は殺されるんですけどね」
嫌味混じりにそう言ってやると、アリスさんは『そうだね。』とくすくす笑った。
『でもりんねちゃんは殺せないよ。“私はね”。』
「?何それ」
私が返すと、アリスさんは『私はだけどね。』と言ってすぐに話題を変えた。
『そうだ。事故があった時、りんねちゃんと奈那ちゃんは教室に居なくて無事だったんだよね。すごい偶然だよね。あの爆発事故に奈那ちゃんも私も関わってないのに。』
「確かに。あの時しみずにちゃんと休んでなって言われてなければ、教室戻ってたかもなぁ……」
『そっか。その子には感謝しなきゃね。生きてたらお礼言えたのにね。』
「いや、しみずは生きてますよ。しみずはちょうどトイレに行ってたみたいで、もう一人生きてた真中ちゃんって子は怪我はしたけどさっきまでLINEしてましたし。多分他にも生きてる子が居るかもしれないし……」
『そのしみずちゃん、怪しくないかな。』
アリスさんのその一言で、一瞬で全身が凍り付いたように硬直した。汗ばんで滑り落ちそうなスマホを持つ指が上手く動かない。私はもう片方の手でそれを持ち直して、乾いた笑い声を漏らす。
「ははっ、何言ってんすか。しみずがあんなこと出来るわけないっしょ……」
自分でもびっくりするくらいおかしな声が唇の隙間から漏れ出す。まるで五時間カラオケした後の声みたいだ。
『しみずちゃんはりんねちゃんのお友達なのかな。』
「しみずはあんなことしない。それは私が一番分かってますから。会ったこともないアリスさんに疑われるような筋合いありませんよ」
久しぶりにアリスさんに対して怒りの感情が湧き上がってきた。しみずのこと何も知らないのに分かったような口をきかないでほしい。しみずはクラスの誰よりもクラスのみんなに優しかった。橘さんの噂話だって口にしたことは一度もなかった。一番一緒に居る時間が長かった私でさえ、しみずが誰かの悪口を口にしているところなんて一度も見たことがなかった。
『そっか。二人は仲良しなんだね。ごめんね、でも今一番怪しいのはその子だよ。爆発事故の時にたまたま教室に居なかった、なんて都合良すぎると思わないかな。』
「それ言ったら私と橘さんだって怪しいじゃん……」
『でも二人は違う。でしょ。』
「っ」
何も言い返せなかった。
「でももししみずを疑うなら、私は橘さんやアリスさんのことも疑います。」
『でもりんねちゃんは、あの時奈那ちゃんと一緒に居たんでしょ?』
「そんなのいくらでも細工できるじゃないですか!橘さんは教室に戻りたがらなかったし、それって自分は巻き込まれたくないからなんじゃないですか?」
『奈那ちゃんが教室に入るのにどれだけ勇気がいるのか、りんねちゃんには分からないんだね。』
まるでバカにされてるかのような口調にイラついてくる。
「……は?じゃあアリスさんには分かるんですか?」
橘さんと一回しか会ったこともないくせに。名前すら知らなかったくせに。
『分かるよ。私がそうだったから。だって魔女に救済を求めた者同士だもの。会ったことない他の魔女の気持ちだって分かる。』
「んなこと、」
『ごめんね。でも私は私情は挟んでないつもりだよ。それにしてもしみずちゃんは怪しいと思う。充分疑われるような言動をしてると思う。』
「そんなの、アリスさんがしみずと関わりないからじゃないですか。」
『りんねちゃんこそ、友達だからって目を背けてないかな。』
ギク、と心臓辺りに柔らかい何かを突き刺されたような感覚になる。
分かってるし。クラスメイトの誰しもが疑いの対象になりうるって頭では分かってる。でも、それでもしみずは絶対に違う。
『しみずちゃんがりんねちゃんに教室に戻らないように言ったのも、友達だから巻き込みたくなかったんじゃないかな。』
「は?だったら最初からクラス売ったりしないでしょ?」
『何言ってるの、クラスを売ったのは奈那ちゃんでしょ。』
「じゃあ何でわざわざ他の誰かがみんなを殺してってたんだよ」
『……待って。それだよ。何で今まで気付かなかったんだろ。』
「……何言ってんですか?」
『りんねちゃんのクラスを売った子が、もう一人居たってことなんじゃないのかな。』
「そんなの、まさか」
うちのクラスを魔女に売ったクラスメイトがもう一人居るってこと?
「それがしみずだって言いたいのかよ」
『……しみずちゃんか、真中ちゃんか。他に生きてる子がまだ居るとしたら、その子達も容疑者になりうるよね。』
「怖い思いして怪我までしてる子まで疑うなんて無理だよ」
『死んだ子にだって可能性はあるよ。』
「そんなのもっと出来ないじゃん!分かれよ!」
『今は犯人に情けをかけてる場合じゃないよ。』
「……はっ、犯人が見付からなくて困るのはアリスさんだけでしょ。結局死ぬんだったらもう私は別に誰が何してようがどうでもいいし。犯人じゃないかもしれない子を疑うくらいなら何も知らないまま死んだ方がマシ」
息を吸うことも忘れて一気に言葉を吐き出すと、アリスさんは黙り込んでしまった。
「……私は、クラスを売った子は橘さんだけだと思いますから」
『……分かった。でももし他に生き残った子が分かったりしたら連絡して。あの爆発も私がしたってことになると思うから。』
「……分かりました。」
私がそう言うと、アリスさんは無言で通話を終了させた。
苛立ちが残ったままベッドに身を投げ出す。
アリスさんの言葉が妙に頭から離れなかった。
「犯人がもう一人居る」か。
有り得ない話ではないんだろうけど、せっかく生きててくれたクラスメイトや無関係かもしれないのに巻き込まれて死んだクラスメイトを疑うなんて無理。
「はぁ」
クラスメイトがたくさん死んでるのに涙も出ない自分が嫌になった。感覚が麻痺してるのか、自分が他人が死んでも悲しめない人間なのか。
噂が流れ始めたあの時、みんなに「そんな噂話やめなよ」とでも言ってればこんなことにならなかったのかもしれない。
「あー、自業自得だな」
橘さんにとって、噂話をしてたクラスメイトも、見て見ぬふりをしてた私も大して変わらなかったのかもしれない。許してはくれたみたいだけど、クラスを売ったってことは少なからず私のこともよく思ってなかったからだろうし。
もう誰も責められないよ。
アリスさんももう一人の犯人も、さっさと私を殺してくれればいいのに。
「疲れたぁ……」
溜め息と同時に漏れ出した言葉と共に、零れた涙がシーツを濡らした。
けたたましく鳴り響くスマホのバイブレーションで目が覚めた。寝起きの頭に鳴り響くその音に飛び起きてスマホを見る。
「え……?」
夥しい量の不在着信。しかも全部同じ人からだった。
「ゆずは、さん?」
未だに鳴り響くスマホの画面には「弓槻ゆずは」の文字。
「もしもし?」
『りんねちゃん!やっと出てくれた!』
息を切らしたゆずはさんの声がダイレクトに頭の中に響いてきた。寝起きでぼーっとしていた頭が一気に覚める。
「何かあったんですか?」
欠伸をしながら尋ねると、ゆずはさんは慌てた様子で、
『りんねちゃん、お婆ちゃんから貰ったノート、私にくれない?』
いきなりそんなことを言い出した。
「え、お婆ちゃんから貰ったノートって、弓槻の数学の?」
『そう。今からそっち行くから住所教えて』
「ちょっと待ってくださいよ、いきなりそんなこと言われても……」
弓槻がお婆ちゃんに私に渡すように託したノート。ただの計算式が書かれたノートだったけど、弓槻が「自分に何かあったら私に渡せ」って言ったってことは、きっと何か意味があるはずだ。いくら弓槻の姉だからって簡単にゆずはさんに渡せない。
『お願い。あれは元々私のものなの。』
「え……?」
あのノートがゆずはさんの物?
「そんなの信じられませんよ、だって弓槻はお婆さんに私に渡してって言ったんですよ?」
『それはゆずかが私が死んだと思ってたからでしょ。私は生きてるんだから、あのノートは私が持ってるべきなの。』
切羽詰まった様子のゆずはさんの声色に、私はごくりと唾を飲み込む。
「……あのノート、何なんですか」
ゆずはさんにバレないように、音を立てないように、机の上に置いてあったノートに手を伸ばす。ページを捲ってみたけど、やっぱりただの計算式が並んでるだけだった。
こんなに必死になるなんて、そんなに大事なノートなの?やっぱりどこかに何か重要なことが書かれてるんじゃないの……?
目を凝らして必死にノートを見回していると、ゆずはさんが震えた低い声でぽつりと何かを呟いた。
「え?」
私はそれが聞き取れなくて聞き返した。いや、聞き取れはしたけど、頭では理解が出来なかった。
『……お婆ちゃんが、亡くなったの』
二度目の言葉で、それは鮮明に頭の中に溶け込んでいく。
「……は?」
ばさりと派手な音を立ててノートが手から滑り落ちた。
『さっき。買い物中に倒れて病院に運ばれて、私の目の前で亡くなったの。』
「目の前で、って」
『お婆ちゃんに会いに行ったのよ』
「え……」
スマホも手から滑り落ちてフローリングの床にごつりと跳ね返った。
『りんねちゃん?』
小さな小さな声がスピーカーから聞こえてくる。
「す、すみません」
慌ててスマホを拾う。
『りんねちゃんに言われたことがどうしても忘れられなくてね。でもどうしても勇気が出なくて会いに行けてなかったの。来月の二日がお婆ちゃんの誕生日だったから、その日に会いに行こうって決めてたらこんなことになっちゃった。ベッドに横たわるお婆ちゃんに私が認識出来てたかどうか分からないけど、きっと私だって分かってたと思う。『おかえり』って言ってくれたの』
ゆずはさんは震える声でそう言いながら鼻を何度も啜った。
私の心には、ぽっかりと大きな黒い穴が空いていた。
「弓槻のお婆ちゃんが亡くなったなら、もうほんとに私の目的は何も無くなっちゃったよ。ただ死ぬのを待つだけだ」
ははは、と乾いた笑いが出てくる。
「ゆずはさんが生きてて、弓槻のお婆ちゃんが死んじゃったなら、もうほんとに私には何も無い」
『りんねちゃん!』
ゆずはさんの声にはっと我に返る。
『もしかして、お婆ちゃんに何か言われたの……?』
「……弓槻の死について何か分かったことがあったら教えてほしいって言われてて」
私がそう言うと、ガチャンと耳を劈くような雑音が頭に鳴り響いた。今度はゆずはさんがスマホを落としたのだ。
『そんな……』
そして遠くの方でそう言うゆずはさんの声が聞こえてきた。
『馬鹿だ。私馬鹿だ……』
はー、と長い溜め息を吐く。
『りんねちゃんの言う通りだ。最初っから魔女なんかにクラスを売らなければ良かったんだ……』
私は黙ってゆずはさんの次の言葉を待つしか出来なかった。
『もっとゆずかやお婆ちゃんと一緒に居ればよかった。魔女の仕事に専念して家族のことは忘れてたのに。私が死んだことになってから一年間、二人はどんな気持ちで生きてたんだろう。』
語尾につれてどんどん大きく早くなっていく声。
『今更気付いた。何もかも遅い。バカだなぁ……』
自虐的に笑いながら泣くゆずはさん。私は心臓の辺りがギュッと痛むのを感じた。もうこのまま電話を切ってしまいたい気持ちだった。
別にゆずはさんに同情してるわけじゃない。むしろ今更気付いたの?って軽蔑すらしてる。でも何の罪も無い弓槻やお婆ちゃんはそんなゆずはさんが大切だったんだ。なのに。
「弓槻、何で死んじゃったの?あの時死んだのが弓槻じゃなくて私なら良かったのに」
ぽつりと呟いた。
『そんなこと言わないでよ、りんねちゃん。』
ゆずはさんがぐすんと鼻を鳴らしながらそんな言葉を漏らす。……やっぱり、少しだけ同情してしまうかも。
『りんねちゃんは何も悪くないんだから自分を責めないで。』
何も悪くなくない。だって弓槻が事故に遭ったのは、元はと言えば一緒に戸川さんを尾行しようと誘った私が原因だったんだから。ゆずはさんはきっとそれを知らないからそんなことが言えるんだ。
「……ノートは渡します。でも私にもちゃんと真実を教えてください。」
せめてもの償いだ。ゆずはさんはあんなに頼み込んでて、このノートは元々ゆずはさんの物なら、もう返す以外の選択肢はないよね。
『ありがとう、分かったよ。』
「渡すのは明日でもいいですか?昨日は色々あって疲れたので」
『うん。突然ごめんね。住所はLINEで送っといてくれると助かる。じゃあ』
「分かりました。」
私がそう言うと、ゆずはさんは何度も『ありがとね』と言い、電話を切った。
カーテンを開けて窓の外を見る。アリスさんと電話した後、いつの間にか寝ちゃってたんだ。外はもう明るくなっていた。きっと一晩中眠ってたんだ。
ゆずはさんと電話して、久しぶりに弓槻のことを頭に思い浮かべた。
伏し目勝ちの切れ長の瞳に、朝日に照らされて白っぽく見える豊富なまつ毛。向こうが透けて見えそうなほど透明な陶器のような肌。初めて喋った時の不機嫌そうな弓槻の顔だ。
最初は嫌な奴だと思ったし、むしろ嫌いな部類だった。でも実は誰よりも早くクラスが魔女に売られたことに気付いて、一人で解決しようとしてた。弓槻は全て自分のためにやってるみたいだったけど、見方を変えればクラスを助けてくれようとしてたんだ。
弓槻は橘さんがうちのクラスを売っている現場を見た日から、何を思いながら毎日を過ごしてたんだろう。
あの私を睨むように見上げる伏し目がちな目が私をじっと見詰めていた。
頭の中にある弓槻のイメージは、掴めそうで掴めない。
「弓槻……」
弓槻に会いたい。
初めてそう思った。
翌朝、私はインターホンの音で飛び起きた。
「何ー……?」
浮腫んで開かない目を擦りながら、感覚で階段を降りていく。インターホンの画面を覗き込むと、さらさらの黒髪が目に入った。
「弓槻?」
はっとして目を見開くと、そこに映っていたのはゆずはさんだった。
「……ああ、そっか」
今日は弓槻のノートを取りにうちに来るって言ってたんだっけ。
それにしても弓槻とそっくりだなぁ。そりゃそっか、姉妹だもんね。もしゆずはさんが肩の下まで髪を伸ばしたら、ほんとに見分けが付かないかもしれない。
そんなことを考えながら階段を下り、玄関のドアを開けた。
「おはようございます」
「おはよ。もしかして今起きた?ごめんね、確認してから来れば良かったね」
「いいんです、十二時にうちに来るって昨日LINEで約束したんですから。むしろこんな顔と服でこっちが申し訳ないです」
今の私は、完全寝起きのすっぴんに寝癖だらけのぼさぼさの髪。終いには薄汚れた中学のジャージ姿だ。
「りんねちゃんって意外とすっぴん変わるんだね」
ゆずはさんはにこにこしながらそんな私を舐めるように見回す。
「はー!どうせ私は化粧詐欺ですよ。いいですよね、元から美人の人は!」
こんな美人にそんなこと言われたら嫌味に聞こえても仕方ないよな。見た感じ特にメイクしてるわけじゃないみたいだし……。素材がいいっていいよなぁ、とつくづく思う。
「そんなことないよ?私今メイクしてるし、カラコンも入れてるよ?」
ゆずはさんはそう言いながら目を大きく見開く。確かに薄らとカラコンのフチが見える。
「うっそ、じゃあ弓槻もメイクとカラコンして学校来てたってこと?」
割と顔が近い距離で話すこともあったけど、そんな風には見えなかったのにな。
「ゆずかは多分してないよ。あの子生まれた時からほんとに可愛かったから。よく比べられたよ、妹は可愛いのにお姉ちゃんは……って」
はははと少し悲しそうに苦笑いするゆずはさん。
「姉妹だから元々の素材は似てるかもだけど、私はメイクしてもゆずかに追い付けないから」
「そうですか?初めてゆずはさんに会った時、普通に弓槻だと思いましたけどね」
私がそう言うと、ゆずはさんの表情はぱっと明るくなった。
「ほんと!?嬉し〜」
「私なんて二人とは素材から違いますから羨ましいですよ」
「そう言ってもらえると嬉しいな〜。結構コンプレックスだったんだよね、ゆずかと比べられるの。」
また悲しそうな顔になるゆずはさん。普段は弓槻より丸っぽい形の目を伏せると、ほんとにそっくりだ。でも言われてみればマスカラを塗っているのが分かる。
「死んだことにして家に帰らなかったのも、ほんとは帰りたくなかったっていうのもあったんだよね」
そう言いながらヒールの爪先で石ころを転がすゆずはさんを見て、彼女がどういう環境で育ってきたのかが何となく分かってしまった。
私がじっと見ていることに気付いたゆずはさんは、苦笑いしながら両手を合わせた。
「ごめんね、暗い話して。どっか行こっか、りんねちゃんが準備出来るまで待ってるよ」
「いえ、今日は妹も学校行ってて居ないしうちで話しましょ。あんまり外出る気になれませんし。それに……」
誰の目も気にしないで喋れる場所の方が何かと都合良さそうだし。
「……そうだね、そうしよっか」
ゆずはさんもそんな私の思惑を察したのか、素直にそう言ってくれた。
「そう言えばりんねちゃんにも妹さん居たんだね。」
玄関で靴を脱ぎ、それを揃えながらゆずはさんがそう言った。
「やっぱりりんねちゃんしっかりしてるし、お姉さんなんだなぁ」
「全然ですよ。寧ろ妹の方がしっかりしてるくらいですし」
階段を上りながらちらりと妹の部屋の方を見る。
「そう言えば、最近あんまり会ってないなぁ」
私が爆発事故が起きてからずっと部屋に閉じ篭ってるせいだと思うけど。
そう言えばお母さんとも全然顔合わせてないや。毎日帰ってきてはいるみたいだけど。
今私のクラスでこんなことが起きてるなんて、二人はなんにも知らないんだろうな。私が死んだらどう思うんだろう。弓槻や弓槻のお婆ちゃんみたいに悲しんでくれるのかな。それとも私が居なくなったところで二人の生活は何も変わらないんだろうか。
「……やっぱやだな」
もういっそのこと早く殺してくれ。と思うこともあったけど、やっぱり死ぬのが怖かった。自分が死んだ後の世界で、自分を取り巻く環境や周りの人達がどうなるのか、どう思うのかを知れないのは怖い。
「……」
ちらりと私のあとを着いてくるゆずはさんを見る。
ゆずはさんはいいな。自分が死んだ時の周りの反応を知ることが出来たんだから。
「お邪魔します」
私の部屋に入る時、ゆずはさんは律儀にそう言いながら足を踏み入れた。
「散らかっててすみません」
床に鞄や数日前に脱ぎ散らかした制服が落ちたままだった。恥ずかしいな、せめて畳んでおけばよかった。
「いいのいいの、それどころじゃなかったでしょ。」
ゆずはさんは気にしてないみたいだったけど、私は制服を簡単に畳んで隅の方に寄せておいた。
「お茶持ってきますね。」
私はゆずはさんをオフィスチェアに座らせ、階段を降りてリビングへ向かった。
お湯を沸かしながら、髪に軽くアイロンを通して、二重を作ってカラコンを仕込んでおいた。
「すみません、紅茶で良かったですか?」
足で半開きのドアを開けると、ゆずはさんは「ありがとう」と言ってお盆を持ってくれた。
部屋の真ん中に卓袱台を広げて、私達は向かい合うように座った。卓袱台の真ん中に弓槻のお婆ちゃんから貰ったノートを置く。
ゆずはさんはそのノートを見た途端、目をうるうるさせて泣きそうな顔になった。
「懐かしいなぁ……」
か細い声でそう呟いて、よく手入れのされた綺麗な指先でノートを手に取る。
そして慣れた手つきでノートを開く。でもすぐにその表情は固まってしまった。
「……え、何これ」
ゆずはさんは夢中でページを捲る。
「これ、私が思ってたノートと違うんだけど……?」
「え……?」
私達の間に沈黙が訪れる。
「これ、ゆずかの数学のノートじゃない。何でお婆ちゃんはこれをりんねちゃんに渡したの?」
「え、ゆずはさんが思ってたノートって何なんですか?」
私が尋ねると、ゆずはさんは言いにくそうに口をもごもごさせる。
「……私が魔女に魂を売る前に毎日のことを記録してたノート」
「え、じゃあ……」
「考えられるのは、ゆずかが間違えたのか、お婆ちゃんが間違えたのか……。」
ゆずはさんは顎に手を添えてそう呟く。二人共死んでしまった今、どっちなのか確認する方法もない。
「同じ会社の同じ色だからきっとお婆ちゃんが間違えたんだと思う。……じゃあ、本物のノートは」
私とゆずはさんは顔を見合わせる。
「うち、行こっか……」
ゆずはさんの言葉に、私は小さく頷いた。
ジャージから普段着に着替えていると、ゆずはさんは鞄から鍵を取り出し、それを卓袱台の上に載せて睨めっこし出した。
「はぁ。ついにあの家に帰るのかぁ……」
そう言いながら胸を抑えて、少し苦しそうに笑う。
「でも、帰ってももうあそこには誰も居ないんだよね。」
そう言いながら両手で真っ赤になった鼻を包み込む。
「はー。やっぱ怖いな」
「……やっぱり、行くのやめますか?」
少し意地悪く訊いてみる。そんな私を驚いた表情で見上げて、ゆずはさんは悔しそうに笑った。
「……行くよ。」
私達は頷き合って、部屋を出た。
ドアから顔だけ出して空を見上げる。真っ青な空に綿菓子みたいな白い雲がぽっかりと浮かび上がっている。一歩外に出ると、数日ぶりの直射日光に頭がクラクラしてくる。
駅前で捕まえたタクシーに乗り込み、弓槻の家の住所を運転手に伝える。車体が動き出すと、私達は何となく黙り込んだ。ゆずはさんはたまに運転手に道を指示してるけど、私は一言も言葉を発さなかった。
さっきから気になって仕方なかった。本当に弓槻のお婆ちゃんがゆずはさんのノートと弓槻の数学のノートを渡し間違えただけなんだろうか。お婆ちゃん、ボケてるって訳でもなかったと思うんだけどな。でも弓槻が伝え間違えるなんてことはもっと有り得ないと思うし。何となく渡された数学のノートが全くの無関係だとも思えなかった。妙な空白のあるあのページも気になるし……。
モヤモヤしていると、ふと思い出したようにゆずはさんが呟いた。
「……ゆずかは、何で私のノートのことを知ってたんだろう。自分が死んだ時りんねちゃんに託そうとしたってことは、あのノートが魔女に繋がる手掛かりだって気付いてたってことだよね」
「……確かに。弓槻はどこまで気付いてたんだろう」
「ゆずか、もしかしたら私が生きてるってことに気付いてたんじゃないかな。」
じっと助手席に取り付けられた液晶画面を見詰めながら、私は小さく頷いた。
弓槻は何を考えてたんだろう。頭の中に居る弓槻は冷たい目でじっと私を見上げてくるけど、何も言ってくれない。
ねえ、教えてよ。弓槻は何を知ってたの?
「あ、この辺で大丈夫です。」
ゆずはさんがそう言うと、タクシーはゆっくりと道の端に停まった。
ゆずはさんが運転手にお金を払い、私達はタクシーを降りた。
目の前にそびえ立つ、弓槻の家。前に来たのはいつだったっけ。あの時はまだアリスさんやゆずはさんと出会う前で、むすびも生きてたんだっけ。
「……」
心臓がぎゅっと痛くなった。
「はぁ。いつぶりだろ、うちに帰るの」
そんな私の横で、ゆずはさんは大きく深呼吸してそう言った。澄んだ瞳で一軒家を見上げる。
「ただいま」
ガチャリ。
ゆずはさんは、ゆっくりと鍵穴に鍵を差し込んだ。情けない音を立てながら、ドアがゆっくりと開いた。
玄関の前で、ゆずはさんは何度も何度も深呼吸していた。時折胸に手を当てて、「よし。」「行くぞ」などと呟いている。が、一向に家の中に足を踏み入れようとしない。
怖いんだろうな。一年以上放ったらかしにしていた家に帰ってきたんだから。
じっとそんなゆずはさんを見詰めていると、ふと目が合った。するとゆずはさんは申し訳なさそうに苦笑いして、無言で両手を合わせてきた。
そんなゆずはさんを見て、居てもたってもいられなくなった。私は一歩足を踏み出す。
「りんねちゃん?」
私は驚いた表情で私を見るゆずはさんの横を通り過ぎて、玄関に足を踏み入れた。
「お邪魔します。」
そう言って靴を脱いで、きちんと端の方に揃えておいた。
薄暗い玄関の中で、明るい屋外に佇んでいるゆずはさんの方を見る。
「大丈夫です。弓槻もお婆ちゃんも怒ってないと思いますよ。」
そう言うと、ゆずはさんは顔をぐしゃりとしながら笑って、大きく頷いた。
そして家の中に駆け込んでしゃがみ込んでしまった。
「……ただいま、お婆ちゃん、ゆずか……」
弱々しい声でそう呟いて、膝に顔を埋めた。
「おかえり」
小さな声でそう呟いてみた。言ってすぐ何か気持ち悪いな、と思って取り消したくなったけど、幸いゆずはさんには聞こえてなかったみたいだった。
「じゃ、行こっか。」
私達は、弓槻の部屋に向かって階段を昇った。
弓槻の部屋は、相変わらずベッドと机しかない地味な部屋だった。あれから何も変わっていなくて、何故か安心してしまう。
「ゆずかの部屋だ……」
ゆずはさんはそう言いながら私に続いて部屋に入ってくる。体を三百六十度回転させて、部屋全体を満遍なく見渡す。
「なんにも、変わってないんだなぁ」
目に薄らと涙を浮かべて、震える声でそう呟いた。と思ったら、ゆずはさんは部屋から出ていってしまう。
「他の部屋も見たいんだけどいいかな」
ゆずはさんはそう言って、向かい側の部屋のドアノブに手を掛ける。
「……はい」
私はそう言って、弓槻の部屋を後にした。
「ここが私の部屋だった場所なんだ。どうなってるのかな、物置にされたりしてるのかな」
ゆずはさんは少し寂しそうに笑いながら、ゆっくりとドアを開ける。カビ臭い空気が私の鼻を掠めた。
「……わ」
電気を付けると、ゆずはさんの後ろ姿が小刻みに震え出した。ちらりと顔を覗き込むと、ぽろぽろと涙を零していた。
「なんにも変わってない、私の部屋だ……」
そう言いながら、部屋の真ん中まで歩いていく。
弓槻の部屋とは打って変わって、ゆずはさんの部屋はぬいぐるみや写真で溢れ返っていた。
棚には参考書や辞書が並んでいて、ベッドにはたくさんのぬいぐるみが鎮座している。壁に掛けてあるコルクボードには、たくさんの友達と写った笑顔のゆずはさんが貼り付けられていた。
「もしかして、お婆ちゃんとゆずかが掃除してくれてたのかな」
ゆずはさんは机の上を指でなぞってそう呟いた。
「電気だって、私が居なくなる前とは種類が変わってる。切れたらちゃんと取り替えてくれてたんだ……」
しゃがみ込んで声を漏らして泣くゆずはさんを見て、思わず私ももらい泣きしそうになった。二人はゆずはさんが帰ってくるのをずっと待ってたんだ。ゆずはさんが生きてるってことに気付いてなかったとしても。
部屋の中を歩き回ってみると、本棚にも埃は溜まっていなかったし、ベッドのシーツも綺麗だった。お婆ちゃんは、死ぬ直前までゆずはさんの部屋を大切にしてたんだな。
一頻り泣いた後、ゆずはさんは立ち上がり、
「先に私のノートを探そう。」
そう言い、私達は頷き合った。
ゆずはさんが机の引き出しを調べている中、私は壁のコルクボードをじっと見詰めていた。
「……そう言えば、ゆずはさんは何でクラスメイトを魔女に売ったんですか?」
何となく尋ねてみる。コルクボードに貼り付けてある写真を見ていたら、どうしても納得出来なかった。あんなに楽しそうに笑ってるのに、どうしてそんなことしたんだろう。
すると、ゆずはさんは恥ずかしそうにはにかんで、
「あの写真、高二の時のなんだよね。高二までは割と上手くいってたんだけど、三年になってクラス替えした途端悲惨でさぁ……」
そう言いながら、コルクボードの前に立って、懐かしそうな顔をしてそれを眺める。
「あんまり詳しいことは話したくないんだけどね。まぁ、ノートが見付かったら結局知られちゃうことになるけど。
バカみたいだよね、いつまでも楽しかった頃の思い出飾って、辛いことがあったら毎日眺めてたなんて」
笑顔の写真の中の自分を少し憎たらしそうに睨むゆずはさん。
「ごめんね、早く探すね。ゆずかったらどこにやったのよ〜」
そう呟きながら引き出しの中を漁るゆずはさん。その後棚やベッドの下の引き出しを見ても、ゆずはさんのノートは見付からなかった。
「となると、やっぱりゆずかが部屋に持ってってたのかな」
私達は弓槻の部屋へ戻ってくる。
「確か弓槻のお婆ちゃんは、この引き出しからノートを出てた気がします」
私がそう言うと、ゆずはさんが引き出しを開けてみる。でもそこにはもう何も入っていなかった。
「……ないね。ってことは、お婆ちゃんが間違えたわけじゃないってこと?」
「弓槻が何か意図があって数学のノートを私に渡したってことになるんですかね」
謎が深まるばかりだ。何も分からないじゃん。弓槻は一体何を私に伝えたかったんだろう。
「あれ、これなんだろう」
ゆずはさんが引き出しの奥に手を入れた。引っ張り出したのは、ファンシーな水色のペンのような物だった。何だかどこかで見たことがある形をしていた。記憶を辿っていくと、小学生の頃に行き着く。
「あ。それ、昔流行ったシークレットペンじゃないですか?」
「何それ?」
「ほら、普通に書いても無色透明だけど、そのキャップについてるライトで照らすと文字が浮かび上がってくるってペンですよ。懐かしいなぁ、昔秘密の手紙とか言ってよく交換してたなぁ」
思い出に浸っていると、ゆずはさんはペンの蓋を開けて手の甲に線を引いた。
それにライトを当てると、薄らと線が浮かび上がってきた。
「ああ。これ、多分私がゆずかにあげたやつだ。こんなの取ってあったんだ」
「意外ですね、弓槻がそんなの今でも大切に持ってるなんて」
「ね。インクももうほぼ残ってないみたいだし、結構使ってくれてたのかな」
「弓槻って意外と乙女ですね、秘密の手紙とかやってたのかな……」
あれ。
もしかして、あの数学のノートの空白って……!
「ちょっと、それ貸してくれませんか!?」
「え、いいけど、どうしたの?」
私は半ばひったくるようにゆずはさんからシークレットペンを奪い取る。
そして手に持っていた弓槻の数学のノートを開く。
空白のある部分にライトを照らす。弱々しい青紫の光が、ぼんやりと何かを映し出した。私達はそれを目を凝らして読み進める。
『お姉ちゃんが生きてるかもしれない
その手掛かりになるノートが出てきた
お姉ちゃんの部屋の洋服タンスの三段目の左奥に隠してある
あのノートに私が知ってることを全て書き込んでおいた
お姉ちゃんがクラスを売った犯人なの?
真実を突き止めたい
私に何かあったら、あなたに託します』
書道の先生みたいな綺麗な文字でそう記してあった。
私は黙ってライトを消した。文字は一瞬で見えなくなってしまった。
弓槻はもしかしたら気付いていたのかもしれない。ゆずはさんがクラスを魔女に売った犯人だってことも、ゆずはさんがどこかで生きているってことも。
いつから気付いてたんだろう。私にゆずはさんの話をしてくれた時にはもう気付いてたんだろうか。それとも死ぬ直前に知ったんだろうか。
どっちにしろ弓槻は一人で全てを抱えてたんだ。もっとちゃんと協力してれば良かった。弓槻は一人で解決しようとしてたけど、もっと無理矢理にでも話を聞いてれば良かった。
「ゆずか……」
隣でぽつりとゆずはさんが呟く。
「……とりあえず、ゆずはさんの部屋に戻りましょ。」
私がそう言うと、ゆずはさんは力なく頷いた。私達はまた弓槻の部屋を出て、ゆずはさんの部屋に入る。
洋服タンスの三段目を開ける。少し前に流行ったような形や色の服が綺麗に畳んで仕舞ってある。
左の奥の方に手を突っ込んでみると、確かにその感触があった。
それを引っ張り出してみると、ボロボロのノートが顔を出した。
「これだ」
ゆずはさんに渡して中身を確認してもらうと、どうやら今度はちゃんと本物のようだった。
「これだよ。はぁ……」
大切そうにそのノートを抱き締めるゆずはさん。
「お婆ちゃんに中身を確認されないようにわざわざここに隠しておいてくれたのかな。」
そう呟くゆずはさんに無言で頷く。
「お婆ちゃんが、ゆずかに『りんねちゃんにあのノートを渡すように』って言われたから渡したって言ってたの。ゆずかがそこまでして私の敵を討とうとしてくれてたんだって気付いてから、本当に本当に後悔した。だからゆずかがどこまで知ってたんだろうって気になってね。」
ゆずはさんの目付きが変わる。
「……もしゆずかが知り過ぎたせいで意図的に殺されたんだとしたら、黙ってられないからね」
ドキリ、と心臓が大きく脈打った。
今の私は、どう考えても生前の弓槻よりたくさん知ってしまっているから。
そんな私の気持ちを汲み取ったのか、ゆずはさんは慌てた様子で話題を変える。
「……ごめん、このノートはやっぱりりんねちゃんには見せられない。ゆずかが書き足したところだけ後で送るんじゃだめかな。」
「偽装したりしませんよね?」
一応疑っておく。ゆずはさんは目を真ん丸にして、複雑そうな顔で微笑んだ。
「私のことは信じてよ。私は魔女だけど、りんねちゃんのクラスとは全くの無関係だから。それに……」
ぼそり、と小さな声で呟く。
「それに私は、りんねちゃんには生きててほしいし」
そして、今度は満面の笑みで私の肩を叩いた。
「だぁいじょうぶだよ!りんねちゃんは良い子なんだから!」
ポンポンと何度も私の肩を優しく叩く。そんなゆずはさんをじっと見る。どうして今そんなことを言われたのかをよく理解出来なかったからだ。
「ね。だから……」
大きく息を吸って、ゆずはさんは窓の方を見た。
「どうか、ゆずかの分まで真実を知ってね」
午後二時の真っ青な日光が、薄桃色のカーテンから透けて見えた。
私はゆずはさんが手配してくれたタクシーに乗り込み、スマホの画面を見た。早速ゆずはさんから画像が送られていた。
拡大して、そこに映された文字を読み取る。
『このノートを見る限り、お姉ちゃんは三年生になってからクラスでいじめに遭っていたらしい
調べてみれば、魔女に魂を売った人達は、みんなクラス内で嫌な思いをしていたという共通点があるらしい
『魔法の力』が報酬だと思っていたけど、本当は『三十人分の魂を売る』の方かもしれない?
三十人は大体一クラス分の人数。これは』
今まで見てきた弓槻の文字とまるで別人みたいな乱雑な文字。筆記体のように書き殴られているから、弓槻がどれだけ感情的になってこれを書いていたのかが分かる。
そしてふと違和感を覚えた。キリの悪いところで文が終わっているのだ。『これは』の後には何か文が続くと思うんだけど、画像はそこで見切れていた。
「……」
ノートの罫線の数を見る限り、まだ下に続いてるはずだ。
もしかして、ゆずはさんはわざとここまでしか映さなかった?
「……」
不信感が募っていく。信じてほしいって言ったのはゆずはさんの方なのに!
まだ続きありますよね?ちゃんと全部撮してください!
イライラしながらダダダと乱暴に返信の文字を打つ。
「この辺でいいですかね?」
運転手にそう訊かれて我に返った私は、慌ててスマホを閉じる。
「あ、はい、ありがとうございました」
私はそう言ってポケットから財布を取り出した。
「お金はさっきのお姉さんに貰ったから大丈夫だよ。」
「あ、はい……」
私はそのままタクシーを降りた。
それとこれとは別。ちゃんとノート全体を映している写真を送り直してもらうからな。
「いつまで待たせんだよ」
家に帰ってきて、もう数時間が経とうとしていた。外はすっかり暗くなり、妹もさっき帰ってきたって言うのにまだ返信は来ない。それどころか既読すら付かないのだ。
「何してんだよ、このまましらばっくれるつもりかよ」
イライラする。もうゆずはさんのことなんて信じてやんない。
「あー、クソ」
私はスマホを投げ出して枕に顔を埋めた。
そのまま、いつの間にか眠ってしまった。
翌朝、目が酷く痛んで飛び起きた。
「うわ、カラコン入れたまま寝てた……」
最悪だ。目がシパシパする。私は寝転んだまま両目をかっぴらいて両手でカラコンを外した。
「もういいや……」
まだ一ヶ月も使ってないけど、洗うのが面倒だったからそのままゴミ箱に放り込んだ。
昨日の出来事を思い出して、憂鬱な気持ちになった。
少しは信じてたのにな。酷いよ。
「……あれ」
スマホで時刻を確認しようと画面を見ると、同時に通知が来た。アリスさんからだった。
何だろうと思って通知を開こうとしたけど、アリスさんともギスギスしていたことに気付いて憂鬱な気持ちになった。まぁ開くんだけど。
「……え?」
私はトーク画面を見て、思わず目を見開いた。
『ゆずはちゃん知らないかな。
昨日の夜から連絡つかなくて困ってるんだ。
何か連絡なかったかな。』
そう書かれていた。
え、え、え?頭の中がパニックになった。
昨日の夜って、私と会った後だよね?
アリスさんに昨日の出来事を事細かに説明した。するとすかさずアリスさんから着信が入る。
「もしもし」
『りんねちゃん、ゆずはちゃんに会ってたんだね。』
「はい……」
『でも良かった、少なくとも昨日のお昼までは無事だったんだから。何か変わったことは言ってなかったかな、どこに行くとか、これから誰かに会うとか。』
「言ってなかったと思います……」
アリスさんは『そっか。』と小さな声で呟き、ふうっと大きく息を吐く。
『りんねちゃん、落ち着いて聞いてね。ゆずはちゃんがね、昨日の夕方、こんなLINEを送ってきたの』
それと同時にアリスさんから写真が送られてきた。どうやらゆずはさんとのトーク画面みたいだ。
『私は今から違反行為をします。もし明日の朝までにあなたにLINEしなかったら、私はもう居なくなったってことだと思ってください。
短い間だったけどありがとう。そしてどうかりんねちゃんだけは助けてあげてください。』
「……」
言葉を失った。
『きっと、ゆずはちゃんはりんねちゃんを助ける為に違反行為を行ったんだと思う。だからきっと、もうゆずはちゃんは……。』
「違反行為、って何だよ」
自分でもびっくりするくらい声が震えていた。
『……魔女に売られたりんねちゃんを助けようとするのは、重大な違反行為だからね。“向こう”も厳重な処罰を科すると思うよ。』
「それ、独り言ですか?」
『……そうだね。聞かなかったことにして。』
スマホを右手から左手に持ち替える。
「それで、アリスさんはそれでも私を殺/すんですよね」
どきどきと鼓動が早くなる。自分で訊いといて、やっぱり訊かない方が良かったかも、と後悔した。
『……私はりんねちゃんを殺せない。これはゆずはちゃんが友達だから、とかじゃないよ。この間までは殺/す決まりだったけど、そうもいかなくなったから。』
「何それ」
『でももう一人の魔女は分からない。教室で爆発事故起こすくらいだし、一人も助けない予定だったんじゃないかな。』
「は、まだ犯人がもう一人居ると思ってるんですか?」
『だってそうとしか考えられない。それに爆発事故で処理しようとする魔女に心当たりがあるの。実際、りんねちゃんのクラスで起きた爆発事故は、“私がやったことにはなってなかった”。』
「え……」
カタカタとスマホを持つ手が震え出す。
『……佐藤聖羅(さとうせいら)。
私と、ゆずはちゃんの魔女だった人。』
その名前を口にしたアリスさんの声も、微かに震えていた。
確かに、弓槻はゆずはさんのクラスでは爆発事故が起きて、そのせいで犯人以外のクラスメイトが全員死んだんだって言ってたっけ。
「でも共通点はそれだけでしょ?爆発でクラスごと消し飛ばすなんて誰でも思い付くじゃん……」
『爆弾を作れる魔女なんてそうそう居ない。私が知る限り、それを出来るのは佐藤聖羅だけ。』
「でも、」
『そもそもただの一般人が爆弾なんて作れるわけないでしょ。あの爆発事故には、魔女が関わってたとしか思えないよ。
私も奈那ちゃんも知らなかったんだから、少なくとももう一人魔女が関わってるのは事実だと思う。』
「テロとか、そういう可能性はないんですか?」
自分でも何て非現実的なことを言ってるんだろうと思った。でもそうでもしないと、アリスさんの「うちのクラスを売った犯人がもう一人存在する」を認めることになってしまう。アリスさんは「もしかしたらしみずが犯人かもしれない」って言ってたんだ。それも認めてしまうみたいで嫌だった。そんなの絶対認めたくない。
『テロならとっくに大ニュースになってると思うよ。テレビは見てた?どこも報道してなかったでしょ。』
「……」
私は何も言えずに黙り込んでしまった。
『……今から、佐藤聖羅に会うの。』
「え!?」
いきなり飛び出してきた言葉に思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
『急だけど、さっき会って話をしないかってLINEしてみたら、今から会おうって言われて。』
どきどきとどんどん鼓動が早く強くなっていく。
『運が良ければもう一人の犯人が分かるかもしれないね。』
「ま、待って」
思わず私は声を上げた。
「私も、私も一緒に行っていいですか」
掠れた震えた声で尋ねた。冷や汗が額を、首を、背中を伝って落ちていく。
『……それは出来ないな。ごめんね。』
アリスさんはそう言って、短い深呼吸をした。
『もし本当にりんねちゃんのクラスに佐藤聖羅が関わってたとして、もう一人の犯人が分かって、それがしみずちゃんじゃなかったら、それだけは教えるよ。約束する。』
「……分かりました」
私がそう言うと、アリスさんはふふっと笑って、『良かった。』と呟いた。
『そろそろ家出るから切るね。……あれ、何だろう、これ。』
がさがさと何かを漁る音が聞こえてくる。
『ポストに何か入ってた。あれ、これって。』
「どうかしたんですか?」
『うん。これ、もしかしてさっきりんねちゃんが言ってたゆずはちゃんのノートじゃないかな。』
「え!?」
思わず手からスマホが滑り落ちそうになった。どうしてアリスさんの家のポストにゆずはさんのノートが入ってるの?
『うん。間違いない。もしかしてゆずはちゃんが昨日入れたのかな。』
「あの、中身の写真送ってくれませんか!?」
『ごめん、もう行かなきゃ。帰って来たら確認する。』
「ちゃんと見せてくださいね?」
私がそう言うと同時に、通話は終了してしまった。
ちゃんと聞こえてたんだろうか。それともまたゆずはさんみたいにはぐらかされるんだろうか。
……ゆずはさんは、本当に居なくなっちゃったの?それも私を助けるために?
だからあんな意味深な言動をしてたの?
「どうか、ゆずかの分まで真実を知ってね」か。今思い返せば、確かに別れの言葉とも取れる。
「何でだよ。勝手なことすんじゃねぇよ」
ぼそりと呟いて壁を殴った。もう一度殴る。指の第二関節が真っ赤になって痛みが走った。
「はぁ……」
天井を仰いでベッドに寝そべる。
今頃、弓槻はゆずはさんに会えてるのかな。
「……アホらし。アリスさんはゆずはさんが“死んだ”とは一言も言ってなかったじゃん」
そうだよ、まだ生きてるかもしれないし。
でも、もうゆずはさんに会うことは二度と出来ないと言うのは何となく察しがついた。
そう言えば、何でアリスさんは「私を殺せない」って言ったんだろう。この間までは殺/す決まりだったけど、今はそうじゃなくなったってどういうことなんだろう。魔女に売られた三十人は一人残さず死ぬって決まりなんでしょ?
「よく分かんないなぁ、もう」
はぁ、と短い溜め息が出る。
……佐藤聖羅って、どんな人なんだろう。所々声は震えてたし、深呼吸なんかしてたし、彼女を語るアリスさんは、どこか怯えているように見えた。
もし佐藤聖羅が爆弾を作ったとして、もう一人の犯人――クラスの誰かがそれを教室に仕掛けたってこと?今まで不審死してきたクラスメイトも、彼女が殺してきたんだろうか。
「……誰なんだろう」
心のどこかでは、もうもう一人犯人がいることを認めてしまっていた。
もうクラスメイトを疑うのは嫌なのに。私はベッドから這い降りて、Bluetoothスピーカーを取り出し、好きなバンドの曲を大音量で流した。
ドラムやギターの音に交じって、微かに物音が聞こえてきた。私は音楽を止め、大きな欠伸をする。
あ。そう言えば、起きてから何も食べてなかったっけ。
「……あれ、帰ってたんだ」
リビングに降りていくと、食卓の前に妹が座っていた。制服を着たまま、じっと空を見詰めている。おかしいな、この時間に家に居るなんて。まだ一時過ぎだし、学校が終わるには早過ぎない?
と思ってたら、妹は首だけ動かして私を見ていた。
「……あんた、学校行かなくていいの?」
虚ろな目でじろりと私を見る妹。
「あー。今休校中なんだよね。学校で事故があってさ。てかあんたも早退してきたの?」
「ふぅん。いいよね、そっちは楽そうで」
私の質問には答えずに、妹は吐き捨てるようにそう言った。そしてゆっくりと立ち上がって階段を降りていってしまった。
「……何アイツ」
何急に嫌味ったらしいこと言ってんだよ。私何か気に障るようなことしたっけ?今までの自分の言動を思い返してみたけど、思い当たる節はなかった。
私から見たらあんたの方が楽そうで羨ましいんだけど。いいよなぁ、地元の中学だから毎朝満員電車に乗ることもないし、中学生は勉強も楽で。
……それに、妹のクラスは魔女に売られたりしてないじゃん。それだけで充分楽だっつの。
「はぁ……」
別に、ほんとは喧嘩したいわけじゃないんだけどな。同じ家の中に住んでるんだから、もっと一緒に過ごす時間が多くてもいいんじゃないのかなって思ってる。まぁ、ご飯を食べる時以外は部屋に籠りっきりだし、妹はそう思ってないみたいだけどさ。
「はぁー」
大きく息を吸って、それを吐き切るまで溜め息を吐いた。
うちの家族はバラバラだ。弓槻家を見ててよく分かった。
きっと私が死んだとしても、お母さんや妹は何とも思わないんだろうな。
とぼとぼと階段を上る。何か食べようと思ってたけど、その気力もなくなってしまった。
家に居ると息が詰まりそうだ。早く学校始まんないかなぁ。……始まったとしても、もう元の学校生活には戻れないんだけど。
一年B組は、もう四人しか残ってないのか。私と、しみずと、真中ちゃんと、橘さん。四人じゃクラスにならないよね。それぞれ他のクラスに配分されるんだろうか。
本当に、もう四人以外のクラスメイトはもう居ないんだ。まだ信じられなかった。毎日一日の半分近くの時間を共に過ごしてきたクラスメイトの大半が死んでしまったなんて。
あれからクラスのグルラは動いていない。もし他に誰かが生きてたとしても、スマホを見られるような状態じゃないんだろうな。
「酷いよ、ほんと……」
自分達が撒いた種かもしれないけど、何もここまですることないじゃん。今更橘さんを責めるようなことはしないけど、もう一人の犯人が分かったら、責め立ててしまうかもしれない。
「犯人、もう死んでたらいいな」
自分の口から飛び出してきた言葉なのに、自分でも驚いてしまった。誰かに聞かれたわけでもないのに、思わず「違う違う違う」と訂正してしまった。
でもそれは紛れもなく私の本心だった。生き残った橘さん以外の二人は、とても犯人だと思えないんだもん。不慮の事故で爆発に巻き込まれていてほしいと願ってしまう。
「遅いな」
まだアリスさんと電話してから三十分くらいしか経っていないのに、何度もスマホの画面をチェックしてしまう。
きっと今頃、佐藤聖羅からもう一人の犯人を明かされてるんだろうな。
「……はぁ」
部屋に入り、いつものようにベッドに身を投げた。
その日の夜、アリスさんから電話が掛かってきた。
『もしもし、りんねちゃん。』
一日中待っていた着信に、私はすぐにスマホに飛び付いた。
「アリスさん!どうでしたか?」
私が尋ねると、アリスさんは小さな声でまるで溜め息を吐くように笑った。
『ごめんね、遅くなって。ほんとは二時間くらい前に帰ってきてたんだけど、何か疲れちゃって掛ける気になれなかった。』
そう言うその声にも疲労が滲み出ていた。会うだけでも相当気力を使うんだろうな、と思った。やっぱり気になるな、佐藤聖羅ってどんな人なんだろう。
「それで、どうでしたか?もう一人の犯人、分かりましたか?」
『それがね。佐藤聖羅が、りんねちゃんに直接会って話したいって言ってるんだよね。全然無理して会おうとしなくていいからね。断ることも出来るし、ほんとに無理しないで。』
「会います!会って直接話したいです!」
私はすぐそれに噛み付いた。それは、クラスメイトを教室ごと吹き飛ばしたことへの怒りではなかった。「佐藤聖羅がどんな人なのか」ただそれが気になるだけの好奇心だった。後から後悔することも知らず、私はベッドに座りながら身を乗り出して目を輝かせた。
『後から会わなきゃ良かったって、私に八つ当たりしないって約束出来るかな。』
少し元気のない声でそう言うアリスさん。
「何言ってるんですか?私が会いたいって言ってるんだからそんなことしませんよ。それでいつにしますか?」
『……ほんとに、りんねちゃんはそれでいいのかな。』
「さっきからどうしたんですか?佐藤聖羅も私に会いたくて私も佐藤聖羅と話したいんだからウィンウィンじゃないですか?」
『りんねちゃん。』
低い声で急に名前を呼ばれて、私は思わずびくりと体を硬直させた。
『感覚、麻痺しちゃってるのかな。』
アリスさんは、低い静かな声でそう言う。
『そうだよね。殺されるのに怯えて生きて、目の前で友達が死んだり、周りの友達もどんどん居なくなったりしてるんだもんね。そりゃ自分で感情抑えてないとやってけないよね。』
「は、さっきから何言ってるんですか。そんなこと……」
ない、とは言い切れなかった。確かにそうだ、私の感覚は、クラスメイトが一人減るたびに、とうに麻痺しちゃってるのかもしれない。アリスさんの言う通りだ、自分で悲しみや怒りの感情を抑えないと、もっとしんどいに決まってるじゃん。
「元はと言えば私が悪いんじゃないですか。私が橘さんへの嫌がらせに気付かないフリしてなければこうならなかったんでしょ。全部自業自得なんですよ」
だからこの悲しみや怒りを橘さんやアリスさんにぶつけられないじゃん。自分の中に溜め込んどかないと、八つ当たりすることになる。
『……りんねちゃんは、やっぱり優しいんだね。でもりんねちゃんのせいじゃないよ。奈那ちゃんはりんねちゃんのことは許してくれてたし。悪いのは他のクラスメイトでしょ。』
「見て見ぬふりしてた私も、橘さんにとっては噂流してたみんなと同類だったと思いますよ。……そう言えば」
橘さんが人の彼氏取った、とか援交してる、とかデマを一番最初に流したのは誰なんだろう。知り合ってすぐそんな噂を流すってことはないだろうから、入学する前から知り合ってた子なんだろうか。そしてそれは、きっとクラスメイトの誰かだ。……橘さんは、あの噂の発端が誰なのかを知ってるんだろうか。
『そうだね。でも今は奈那ちゃんはりんねちゃんを許してる。それが全てだよ。……それで話は戻るけど、りんねちゃんは佐藤聖羅に会いたい、ってことでいいんだね。』
「何かあんなこと言われた後だと素直にはいなんて言えませんね」
はははと笑いながら私はそう言った。
『ふふ。そうだよね。』
アリスさんも笑った。
「でも会います。私に直接会いたいって言ってくれてるなら私も会いたいですし」
『大丈夫なのかな。相手も魔女なんだよ。それに私やゆずはちゃんと違って、りんねちゃんに殺意があるかもしれない。』
「……私はもう一人の犯人が誰なのか分からないまま死ぬのが一番怖いです。結局殺されるなら、全部知ってから死にたい」
『……分かった。佐藤聖羅にそう伝えとく。』
アリスさんはやっぱり私が佐藤聖羅に会うことに賛成し切れないみたいだった。それが見て取れたけど、私はわざと気付かないフリをした。
アリスさんが佐藤聖羅にLINEを送って返信を待ってる間、私はアリスさんに橘さんのLINEを教えてもらった。
『急にごめん、あの時交換しそびれてたからアリスさんに教えてもらった』
そう送ると、すぐに既読が付いて数秒で返信が来た。
『あー!嬉しい!ずっと話したかった!
ほら、私クラスLINEも入れてもらえてなかったからさww』
クラスLINEは入学式の日にはもう出来ていた。やっぱり、入学前から浮いてたんだ。
私はアリスさんが見てるテレビ番組の笑い声をBGMにしながら返信の文字を打つ。すると、私が打ち終わる前に次の返信が送られてきた。
『そう言えば、真中になんか言った?』
「え?」
頭の中が一瞬フリーズした。私は返信しようと思っていた文を消しながら頭の上にはてなマークを浮かべた。
真中ちゃんに何か言ったかって、どうしてそんなことを聞くんだろう。
『何で?』
『いや、真中から首藤さんに何話したの?ってLINE来たからさ』
「何それ……」
私は思わず小さな声で呟いた。スマホはそんな小さな音でさえ拾ってくれるから、アリスさんに聞こえてしまったみたいだ。
『どうかしたのかな。』
「あ、いえ……」
私は真中ちゃんとのトーク画面を開き、遡った。
『橘さんって奈那のことだよね?』
『うん』
『え、あの日奈那学校来てたの?』
『来てたよ、授業には出てなかったっぽいけど』
『何でりんねちゃんが知ってるの?もしかして事故があった時一緒に居たの?』
『え、うん』
『奈那、何か話してた?』
『別に何も話してないよ?』
『誰かに何かされた、みたいこと言ってなかった?』
『え、別になかったけど』
『橘さんと何かあったの?』
『いや、変な噂とか聞いたことあったから気になっただけ。
ごめん、変なこと聞いて』
真中ちゃんは何でこんなに橘さんと私のやり取りを詳しく聞き出そうとしてきたんだろう。それにどうして橘さんに私に何話したのか、なんて訊いたんだろう。
真中ちゃんとのトーク画面を閉じ、橘さんとのトーク画面に戻ってくる。ドキドキと高鳴る心臓に合わせて頻りに深呼吸する。文字を打つ指先とスマホを持つ手が震えた。
『ねぇ、橘さんと真中ちゃんって友達なの?』
すぐに既読が付いた。『既読』の文字が画面に現れた途端、心臓の音は更に大きく早くなる。まるで私の胸を切り刻むかのような強さで。
『友達って言うか、中学から一緒だっただけだよ』
心臓が凍り付いた。
サンシャイン様のょぅそぉもりこみなさぃ
88:匿名:2021/02/24(水) 11:55 >>87
おめー神小説まで駄文で荒らしてんじゃねーヨ!
え。え。え。
喉の奥から心臓がせり上がってきてしまいそうな感覚だった。指先からサーッと血の気が引いていき、全身が冷たくなる。スマホの画面を捉えた視界がぼんやりと霞んでくる。私は自分の息遣いが荒くなるのを感じた。
『りんねちゃん。』
スピーカーから流れるアリスさんの声ではっと我に返った。そして意味もなくきょろきょろと部屋を見渡す。
『何かあったのかな。』
「あ……」
私はその一文字しか声に出すことが出来なかった。まだ心臓がバクバクしている。
早く返信しなくちゃ、と思ったけど、上手くフリック出来なくて滅茶苦茶な文になってしまう。
どうか私の考え過ぎであってほしい。そうだ、他にも同じ中学だったクラスメイトが居るかもしれないじゃん。それに入学前からSNSで知り合ってたクラスメイトとかも居るかもしれないし!
『首藤さんと真中って仲良いの?』
深呼吸して無茶苦茶な文字列を消して文字を打ち直そうとすると、パッと画面にその文章が現れた。私は思わず口元にジャージの袖を当てて黙り込んだ。この質問の意図が全く分からなかったのだ。
『まぁ、クラスメイトの中では仲良かった方だと思うよ。真中ちゃん優しいし』
最後の一文は無駄だったかもしれない、と思って取り消そうとしたけど、一瞬で既読が付いてしまったので手遅れだった。
そしてまたすぐに返信が来る。
『真中優しいもんね!
高校入ってから一気に垢抜けたし、中学の頃は仲良かったのに差出来ちゃって悲しかったわー』
そんな文と一緒に、ファンシーなキャラクターが悔しそうに涙を流しているスタンプが送られてきた。
あれ。別に二人の間に何かあったわけじゃなさそうだな。やっぱり私の思い違い?それとも橘さんが気付いてないだけ?
「……何考えてんだよ」
「犯人じゃないかもしれない子を疑うくらいなら何も知らないまま死んだ方がマシ」、そう言ったのは私じゃん。
『りんねちゃん、ほんとに大丈夫なのかな。』
アリスさんが心配そうな声でそう言った。
「すみません、大丈夫です」
私はそう言って、橘さんに『そっか!だよね!』と返信した。
『あ。返信来た』
アリスさんがぽつりとそう呟いた。私はすぐに飛び付く。
「どうなりましたか?」
『うん。明後日の夕方なら都合いいって。場所は池袋のカラオケで大丈夫かな。それと一応私も同伴しようと思ってるんだけどいいかな。』
「はい、大丈夫です!」
『じゃあ送っとくね。』
「あの、アリスさん、ゆずはさんのノートの中身って確認してくれましたか?」
忘れられてたら困ると思って尋ねてみると、アリスさんは急に気だるそうな声になる。
『ああ、ごめん。今日は見る気になれなかったからまだ見てないんだ。今度見たら送るよ。』
「明日送ってもらえませんかね、それか明後日直接見せてもらうのでもいいんですけど……!」
『ごめん、中身によってはやっぱりりんねちゃんには見せられない可能性もあるから。だから必ず見せるっていう約束は出来ないな。』
「すぐ切られたから聞こえてなかったかもしれないけど、ちゃんと見せてくださいって言いましたよ、私。何でゆずはさんもアリスさんも私には見せてくれないんですか?元々弓槻があのノートを託したのは私なのに……!」
悔しくて涙が出てきた。私は弓槻が私に残したメッセージすら知れないの?後から出てきたゆずはさんに取られて、元々は弓槻や私を殺そうとしてたアリスさんにも横取りされて。そんなの酷くない?
『でも、知らなくていいことまで知っちゃったら、りんねちゃんが危ないんだよ。弓槻ゆずかがどこまで知っていたかに寄って、彼女がほんとうに偶然死んでしまっただけじゃない可能性も出てくるから。』
「え、弓槻が故意的に殺されたかもしれないって言いたいんですか?」
頭の中がフリーズした。小さな小さな震える声で、頭の中に浮かんできた文字を機械的に読み上げる。
『かもしれない、ってだけだよ。』
「でも弓槻のはニュースになってたし……!」
そうだよ。他の死んだみんなは誰もニュースにならなかったじゃん。あんなにTwitterで拡散されてた戸川さんのクラスメイトの自殺の映像だって消去されたんだし。みんなと同じように魔女に殺されたって言うなら、弓槻だけニュースになるなんておかしいじゃん。
『それ、本当なのかな。私は弓槻ゆずかの事故のニュースなんて聞いたことも見たこともないよ。』
「は?私はちゃんと見ましたよ、テレビで女子高生が轢かれたってニュースで、確かに弓槻の名前が……」
『りんねちゃんの見間違えなんじゃないかな。そのニュースなら私も見たけど、名前は公表されてなかったはずだよ。』
「え……?」
確かにあのテレビ画面を見たのは一瞬だった。でもその前にクラスグルでみんなが弓槻のニュースを見たって言ってたじゃん!
私はクラスグルを開いて必死にスクロールした。あの日のトークに辿り着いて、私は全身を硬直させた。
『ねえ!昨日クラスの子が自殺したらしい!
多分ずっと学校来てなかった子だよ。
え、出席番号最初の子?
パトカー止まってたよね?やっぱ
やばくない?』
弓槻のニュースの話なんてどこにも書いてなかった。代わりに、「綾瀬さんの自殺」についての話題で溢れ返っていた。
「え、何、これ。綾瀬さん自殺してたの?」
小さな声で呟く。
『……綾瀬まどかは、友達が死んだショックで自殺したって聞いてた。りんねちゃん、今頃知ったのかな。』
「は、何……」
全然知らなかったし、そんな話聞いたこともなかった。弓槻が死んだ次の日、クラスのみんなは「またうちのクラス?」って言ってたっけ。てっきりあれは弓槻のことだと思ってたけど、みんなが言ってたのは綾瀬さんのことだったんだ。
じゃあ、私が見たテレビの映像やクラスグルのトークは、全部私の勘違いで幻覚だったんだ……。
「そんな」
私は膝を抱えて腕に顔を埋めた。やっぱり弓槻は魔女に殺されてたんだ!それもアリスさんじゃない、もう一人の魔女に。……佐藤聖羅に?
「ふざけんなよ、お前が死/ねばよかったのに……」
『りんねちゃん。』
「念のため聞いておきますけど、ほんとにアリスさんが殺したんじゃないですよね?」
私は怒りと涙で震える声を喉の奥から絞り出した。
『うん。それは絶対私じゃないって言い切れるよ。』
「……分かりました、信じます」
はー、と大きな溜め息を吐く。
『……りんねちゃん。やっぱり明後日はやめよう。りんねちゃんは少し休んだ方がいいと思う。』
アリスさんのその言葉を理解するのに少し時間がかかった。そしてその間に、アリスさんは佐藤聖羅に明後日の予定はキャンセルしてほしいと送ってしまったらしい。気付いたら、『明後日はなしになったから、休んでね。』というLINEと共に、通話は終了していた。
這うようにフローリングの床を移動して、ベッドへ乗り込む。私はそのままふかふかの布団に身を沈めた。
私、ずっと自分が見えてる世界を自分の都合のいいように解釈してたのかもしれない。弓槻が誰かに意図的に殺されたとしたら、って考えたら耐えられなかった。そこにむすびが「不慮の事故だったのかもしれない」って言ってきたから、そうであってほしくて思い込んでたんだ。
あー、懐かしいな。魔女に売られた魂は神様みたいな人に抜き取られるとか本気で思ってた時があったっけ。魔女に三十人分の魂を売れば、その人は魔法の力を手に入れられるだとか。随分ファンタジーな都市伝説だな、と思ってたけど、実際はそんなんじゃなかった。魂を売った人は魔女になって、また誰かが売った魂を殺していく。ただの負の連鎖だ。
Twitterを開いて、いつだったか検索したあのワードを入力する。
『三十人 魂 魔法の力』。
懐かしいな。あの頃はほんとに何も知らなかった。弓槻に任せてればどうにかなるって本気で思ってた。それくらい弓槻は魔女について必死だったし、執念があったから。
でもそのせいで弓槻は殺されたんだ。
出てきたツイートを読み進めていると、戸川さんのツイートが表示された。
『私のことをいじめてるクラスのやつらの魂を売ったら魔法の力が手に入るかな。三十人どころじゃない、私なら百人は差し出せる』
ツイートもブログも全部そのまま残っていた。飛び込み自殺の動画は削除されたけど、“あくまで都市伝説の話”程度の記事やツイートは消されないみたいだ。
自傷行為の写真やスタンプやモザイクで加工しまくった自撮りを流し見する。戸川さんの悲惨な毎日の記録を見ていたら、やっぱり魔女に売られた子達は自業自得なんじゃないかって思ってしまう。
でも、いじめっ子達が全員死んでも、結果的に戸川さんは救われなかった。結局本人も死んじゃったし、大量の人が死んだのには何の意味もなかった。
クラスメイトが死んだら、橘さんは救われるんだろうか。死んでしまったかもしれないもう一人の犯人は、これで良かったんだろうか。
魔女にクラスメイトを売った子達が、後悔したりすることだけは絶対にあってほしくない。せめて救われてほしい。じゃないと死んでいったクラスメイト達が死んだ意味がなくなる。みんなの命が無駄になることは絶対に耐えられない。
「……」
私は背筋がぞぞぞと冷たくなるのを感じた。今こうしているうちに、生き残っているクラスメイトが危険に晒されていたらどうしよう、とふと思った。爆発に巻き込まれる予定だったのに死にそびれたんだから、魔女はきっとまた殺しにくるはずだ。
「しみず、真中ちゃん……」
私は寝転んだまま枕元に転がっていたスマホに手を伸ばした。
久しぶりに開いた、しみずとのトーク画面。真中ちゃんは病院に居るからまだ安全だと思い、私は先にしみずに電話を掛けた。
「……」
呼出音が数回繰り返され、ブツリという音がする。
『もしもし、りんね?』
数日ぶりに聞いたしみずの声に、私は目の奥がじーんと熱くなるのを感じた。
「しみず……」
あ、やば、泣きそう。てか泣いてる。
『久しぶりだね、りんね』
「うん……」
ずびずびと鼻を鳴らしながら、私は情けない声でそう言った。
『りんね泣いてる?どうかしたの?』
「しみずが何かされたりしてないか心配になってさ。ほら、また危険な目に遭うかもしれないから」
『私なら大丈夫だよぅ。りんねも無事そうで良かったし、真中ちゃんとか華乃(はなの)ちゃんも軽い怪我で済んで良かったよね!』
「うんうん、って……。え、華乃ちゃんも無事だったの?」
知らなかった、真中ちゃんの他にも生きてた子が居たなんて。
『あ、うん、この前LINEでそう言われたから』
しみずはそう言ったけど、華乃ちゃんとしみずってそんなに仲良かったっけ。確かに華乃ちゃんは大人しめの子だったから、ふわふわしてるしみずとは気が合うかもしれないけど、確か個人個人でのLINE交換はしない主義だって言ってなかったっけ。私は入学当初、丁寧にそう説明されて断られたなぁ。もしかして私と交換したくなくてわざわざそんな嘘吐いたりしたのかな。うわ、傷付くなぁ。
『それで用事は終わり?切ってもいい?』
「え?あ、うん」
『分かった、またね』
ブツッ。私の返事も聞かずに、しみずは電話を切ってしまった。
あれ。何かしみず、イラついてる?
普段のしみずなら、私が切ろうとしてもぐずるくらい長電大好きだったのに。むしろいつも私が困るくらいだった。なのにこんなにすぐ切りたがるなんて、しみずらしくない。
色々あって疲れてたのかな。そうだよね、自分が教室を離れてる間に爆発が起きてクラスメイトが大勢亡くなった、なんてトラウマになっても仕方ないしね。しみずはホラー映画で泣くくらいだし、性格も優しいし、きっと物凄いストレスになってるはずだ。
「だからこそ、一緒に話したりまたゲームしたりしたかったのになぁー……」
口を尖らせてスマホをいじくる。
よし、次は真中ちゃんに掛けよう。
『りんねちゃーん!』
真中ちゃんに電話を掛けると、ハイテンションの爆音ボイスが鼓膜を直撃した。私は反射的にスマホを耳から離した。
「ちょ、真中ちゃんテンション高ww」
『ちょうど暇してたから良かったー!話したかったよぉー!!』
病院ってこんなに大声で喋ってもいいものなのか?しかも時間は夜の八時半を回っている。
『個室っていいよね〜、いくら騒いでも誰にも迷惑掛かんないし♪』
真中ちゃんは心底嬉しそうだった。でもふと引っかかることがある。
「個室って、そんなに具合悪いの?」
私が幼稚園児の時ジャングルジムから落ちて骨折した時は、大部屋に入ってたんだけどな。それより酷いってことだよね?そう言えば手術もしたって言ってたっけ……。
『あー、うん、ね。足がちょっとないって言うか』
グギャ、っと胸の骨がバキバキに砕け割れてしまったかのように痛んだ。
スマホの向こう側に居る真中ちゃんの姿を想像したら、声が出なくなってしまった。
『何か壊死?しちゃってたらしくて、仕方なく切断ですよ!厚底もう履けないとか死ぬくない?りんねちゃんなら分かるよね〜』
「そ、なん、だ」
やっとの思いでその四文字を絞り出した。まだ胸がバキバキに砕けている。
『あ、やだなぁ、可哀想とか思わないでよ?生きてるだけ有難いもん、私はそれだけで充分幸せだよ?』
真中ちゃんはおちゃらけてそう言う。
『……あれ、もしかしてドン引きの方?足ないとかきしょって感じ?』
「違うよ!それは違う」
私は慌てて否定した。
「ただ、怪我がそんなに酷かったんだってびっくりしただけ……」
私がそう言うと、真中ちゃんは申し訳なさそうに謝ってきた。
『えー、そんな気使わないでほしいんだけど!まじで!』
「いや、そりゃ使うっしょ……」
真中ちゃんはいつも通りの明るさだけど、それに少し違和感を覚えた。明るいのは明るいんだけど、必要以上って言うか、どこかわざとらしい明るさだ。
『てか病室暇だから遊びに来てくれない??下半身布団とかで隠してればそんな酷い見た目じゃないし!』
「あ」
『……もちりんねちゃんが嫌じゃなければ、だけどね?』
真中ちゃんはそう付け足して、少し自虐的に笑った。
心がぎゅっと痛くなる。きっと私なんかが想像も出来ないくらい辛いだろうのに。生まれた時から今までちゃんと在った自分の体の一部がなくなってしまったなんて、私だったら絶対受け入れられない。そうなるくらいなら死んでた方がマシだった、とさえ思ってしまうと思う。いや、もしかしたら真中ちゃんも心の中ではそう思ってるのかもしれない……。
「行くよ。学校始まるまで毎日行く。学校がもし始まっても、終わったらすぐ行くから。」
『え、りんねちゃん部活あるでしょ?そっち優先しなよ〜……』
「どうせ最近は幽霊部員だったし。真中ちゃんの方が大事だから」
『りんねちゃん……』
魔女にクラスを売られたのを知ってから、そればっかりで部活に顔を出す余裕もなかった。一週間無断欠席した辺りから、廊下で顧問や同じ部活の先輩とすれ違ってもシカトされるようになってた。だからもう、きっと私は退部してることにされてると思う。
私は陸上部だった。足のなくなった真中ちゃんに、部活行くから行けない!なんて言えないじゃん。
「さっそくだけど明日行ってもいい?何時から病院開いてる?」
『あ、面会できるの二時からって決まってるんだよね。で終わりが五時だからその間ならいつでも!』
「じゃあそのくらいに行くね」
『あ!りんねちゃん、あのさ〜』
真中ちゃんから画像が送られてきた。
『この限定フルーツ牛乳、買ってきてくれない?』
「あはは。相変わらず牛乳好きだね」
『ねーお願い!これどーしても飲みたいの!!後でちゃんとお金返すから!』
「分かった分かった、毎日買って行くよ」
『やった!やっぱりんねちゃんしか勝たんわー!』
私達は一頻り笑った後、真中ちゃんが消灯時間になったので電話を切った。
ベッドに大の字になって寝転ぶ。急に空虚感が襲ってきて、一筋の涙が静かにこめかみを伝っていく。
「はぁ……」
私だって死ぬかもしれないのに、私を心配してくれる人は誰も居ないんだな、って思ったら悲しくなってきた。橘さんはもう一人の魔女のことを知らないし、しみずは魔女や都市伝説についてあんまり詳しくないし、真中ちゃんはそもそも何も知らないし。
橘さんは私を許してくれて、アリスさんは「私を殺さない」って言ってたけど、もう一人の犯人はきっとそうじゃない。だから多分、結局私も死ぬ。もう一人の魔女に殺されて。
……佐藤聖羅か。アリスさんは私に休んだ方がいいって言ってたけど、そんなに私と佐藤聖羅を会わせたくないのかな。それに何か理由があるんだろうか。まぁ、ほんとに私に休んでほしかっただけかもしれないけど。
「私のストレスの原因には少しはアリスさんもなってるんだからな」
そうボヤきながら、私は何となくスマホの液晶画面を見る。Googleで「佐藤聖羅」と検索する。
「お」
芸能人や名前診断の記事に混じって、インスタのアカウントが出てきた。
同姓同名の他人かもしれないけど、私はすぐにそれを開いた。
投稿数1045、フォロー247、フォロワー2.4万人……。めちゃくちゃすごい人じゃん!
佐藤聖羅はいわゆる“自撮り界隈”のインスタグラマーみたいだ。いくらスクロールしても、投稿は全てピンの自撮りで埋め尽くされていた。
赤みのある明るめな茶髪のボブで、フチありのカラコンがよく映えるまん丸の大きな目。すっきりした二重幅と幅狭めの涙袋に、ずっと通った高い鼻。尖り気味の犬歯が見える笑顔はすごく可愛い。
「えぇ、めっちゃ可愛いじゃん……」
この人がほんとに佐藤聖羅本人だと限らないけど、私は思わず魅入ってしまった。
こんな可愛い人がたくさんの人を殺/すために爆弾を作ってる姿なんて想像出来なかった。
「……あれ」
ふと、一枚だけピンの自撮りじゃない投稿が出てきた。
「え」
佐藤聖羅の横で不器用なピースを掲げているのは、真っ白なボブの見覚えのある顔だった。
「アリスさんだ……」
今より随分幼い顔付きのアリスさんが映っていた。日付けは二年前だった。
笑顔の佐藤聖羅と、ぎこちなく口元を歪ませているアリスさん。アリスさんのその表情は、初めて会った時の、目元だけ笑っているあの笑顔に似ていた。アリスさんは白いシャツグレーのニットに赤いリボンと、制服らしき服装をしている。
これ、アリスさんが高校生の時の写真?アリスさんは最近大学を中退したって言ってたし、二年前ってことはその可能性もあるってことだよね。二人はこんな前から知り合いだったの?……もしかして、アリスさんが佐藤聖羅に売った時?
投稿の下に添えられたハッシュタグには、『#仲良しな後輩 #可愛い後輩 #大好きな後輩』なんて書いてある。二人は仲が悪いわけじゃなさそうだし、むしろ仲がいいように見えるんだけど。でも佐藤聖羅の話をするアリスさんは、どこか怯えてるように見えたし……。
「……何なんだよ、もしかしてこの二人はグルだったりすんじゃねーの」
有り得なくはないと思う。だって元々アリスさんは私の“敵”だったし。いつからか私に色々頼ったり喋ったりするようになったけど。
「……」
何か気分悪いな。アリスさんのことを信用するのはやめた方が良かったりして。
私はこっそりアリスさんとのツーショットの投稿をスクショした。
翌日、私は真中ちゃんが入院してる総合病院へ向かった。受け付けを済ませ、看護師に案内されて真中ちゃんの病室へ向かう。
エレベーターを降り、真っ白な廊下をしばらく歩く。看護師ががらがらと白いドアを開けると、左奥にベッドがあり、そこに真中ちゃんが座っていた。
私の姿を見た途端、真中ちゃんは目を潤ませて口を抑えた。そんな真中ちゃんを見て、私も泣きそうになってしまった。
「りんねちゃん……!」
看護師がドアを閉めて病室から出ていくと、私は真中ちゃんに駆け寄った。
「会いたかった〜!」
私達は抱き合った。
「てか何気りんねちゃんにすっぴん見られるの初めてじゃない?カラコンだけでもしとけば良かったー」
真中ちゃんはそう言いながら恥ずかしげに両手で顔を覆った。私のメイク後より遥かに整ってる顔でそう言われてもな。まぁ、確かに普段のガッツリメイクと高発色なカラコンに慣れてるから、裸眼は見慣れなくてちょっとびっくりしたかも。
「黒染めしといてよかった!これで派手髪だったら顔負けてたよね〜」
「あは、確かに」
私がそう言って笑うと、真中ちゃんは私の手に握られているビニール袋を目敏く見付ける。
「りんねちゃん、それはまさか……!」
漆黒の目をキラキラと輝かせる真中ちゃん。
「買ってきたよ、限定のやつ。」
「はー!神!これで今日は生きれるわー」
私がビニール袋を差し出すと、真中ちゃんはそう言って両手を拝み始めた。
「え!三本も!しかもグミもあるじゃん!」
中身を見て更に目をキラキラさせる。
「私がグミ好きなの覚えててくれたんだ〜」
「そりゃ、ね。真中ちゃんいっつもグミ食べてたし」
「だよねー!あ、お金払うね。レシート見して〜」
真中ちゃんはそう言って、ベッドの脇の机に置いてあったハイブランドの財布を手に取る。それを見て、私は慌てて制止する。
「お金はいいよ。」
「え?それは悪いよ〜」
「いや、前送ってもらったこともあったし。その時のお礼も兼ねてだから」
「あー!そんなこともあったね!りんねちゃん水被り事件ww」
「名前付けんなよww」
私達は広い病室に声が響き渡るくらい笑った。
「こんなに笑ったの久しぶりだなぁ。看護師さんとか先生と喋ってもあんまり楽しくなかったんだよね。みんな変に私に気使うからさぁ。それに毎晩夢に出てくるんだよね、あの日の光景が」
真中ちゃんは短い睫毛を伏せて、外が見えないように目隠ししてある窓を眺める。
「黒板をノートに写してたら、いきなりすごい音がして、床に倒れ込んだら、足が熱くなって。煙が目に沁みたから一瞬だったんだけど、目の前でみんなの体が宙に舞ったんだぁ」
虚ろな目で何も見えない窓を捉えて離さない真中ちゃん。だらしなく開いた口から、だらだらとそんな言葉を垂れ流す。
そんな真中ちゃんをじっと見詰めていると、それに気付いた真中ちゃんははっとして慌てて両手を振った。
「ごめんね!?」
苦笑いしながら両手を合わせる真中ちゃん。
「ごめん、ほんとに。せっかく来てくれたのに暗い話したくないよね。ごめん、初めて誰かがお見舞い来てくれたから聞いてほしくなっちゃった」
その申し訳なさそうな笑顔を見ると、胸がぎゅっと痛くなった。
「彼氏も事故ったって言った途端既読無視するようになってさ。多分ブロられたし、親も忙しいからって全然来てくれないし……。だからりんねちゃんが来てくれるって言ってくれて嬉しかったよ」
真中ちゃんは寂しそうに笑った。私は冷たくなった両手を、体の後ろでぎゅっと握り締めた。
「真中ちゃん。もし嫌じゃなかったら、事故が起きた時のこと、もっと詳しく聞かせてくれない?」
「……え?」
真中ちゃんはびっくりした顔で私を見た。まさかこんなことを訊かれるなんて思ってなかったんだろう。目を真ん丸にして私を見詰める。
「何で?そんなこと聞いても楽しくないでしょ?……まさか誰かが爆弾を仕掛けたと思ってるの?」
真中ちゃんは眉の間に皺を刻んで更に目を見開く。
「もう聞いたと思うけど、あれはただの事故だったんだよ?事件性なかったって学校の関係者から連絡があったって主治医も言ってたし……。」
真中ちゃんは本気でそれを信じてるんだろうか。何の事件性もなくて、誰も悪くなくて、ただ何かの拍子に何かが爆発しちゃっただけなんだ、って。
「ただの事故だったとしても、真中ちゃんが思い出して辛くならないなら話してほしい。あの時誰がどんな行動を取ってたとか、誰の近くで爆発が起きたか、とか」
「そんなのりんねちゃんが辛くなるだけじゃない?だったら私は嫌だよ」
「私が頼んでるんだよ。それとも真中ちゃんが辛いの?もしそうならもうお願いしないけど」
「そりゃ誰かに話を聞いてほしいって思ってたけど、友達に友達が死んだ時の状況詳しく話すなんて無理なんですけど……。」
口元を引き攣らせる真中ちゃん。
「てか何でそんなこと知りたがるの?まさかクラスの誰かが爆弾を仕掛けたとでも思ってるの?」
「……」
それには私は何も答えられなかった。正直に今クラスの裏側で何が起こってるのかを話すべきかどうか分からなかった。もし真中ちゃんがそれを知ったらどう思うか、どんな行動を取るのか、全く予想出来なかったからだ。真中ちゃんに限ってそんなことはないだろうけど、犯人を探して復讐する、なんてことが起きたら大問題だ。中学生の頃から知り合ってる橘さんも犯人の一人だって知ったら、本当に真中ちゃんは壊れてしまうかもしれない。目の前でベッドに座っている真中ちゃんは、きっともう既に壊れ掛けてしまってるのに。
「りんねちゃん……」
だめだ、これ以上追求したら怪しまれる。逆に問い詰められるかもしれない。
「ごめん、何でもない!私は事件性はなかったって聞いてなかったから疑っちゃってただけ!」
私が笑ってそう言うと、真中ちゃんも少しずつ笑顔になり、
「事故の状況詳しく知りたいなんて言うから、りんねちゃんサイコパスなのかと思ったー!」
「…………。」
私の笑顔は消え去った。
それから私達は、一時間くらいゲームをしたりYouTubeやティックトックを見たりして他愛もない話をした。真中ちゃんの体調を気遣った看護師が病室に入ってきたので、私は帰ることにした。
「また暇な時来てねー!」
真中ちゃんはそう言って手を振ってくれた。私は無言で頷いて、看護師にお辞儀をして病室を後にした。
次の日も、その次の日も、私は病院の近くのコンビニで限定のフルーツ牛乳とグミを買って真中ちゃんに会いに行った。相変わらずゲームをしたりYouTubeを見たり、通販サイトでカラコンやコスメを見たり、学校が再開した時のために勉強したり。
今日も病院に行こうと思って電車に乗り、病院の最寄り駅の改札を出ると、階段の前に誰かが立っていた。
「須藤さん」
その人は私を見た途端こちらへ駆け寄ってきた。そして目を細めて苦笑いする。
「橘さん……」
私達は大きな柱の前で立ち止まった。
「へぇ。真中ってまだそれ好きなんだ」
コンビニでグミを手に取っていると、隣で見ていた橘さんがそう言ってきた。
「中学の頃もいつもそれ食べてて先生に怒られてたよ」
懐かしそうな顔で微笑む橘さん。そんな横顔をちらりと横目で見る。
「じゃレジ行って来るね」
私はそう言ってレジへ向かおうとした。
「待って」
橘さんが私の服を引っ張った。
「これも買って!」
いつの間にか大量のお菓子を抱え込んでいた橘さんが、それを私に押し付けてきた。
自動ドアを通り抜けながら私は静かに泣いた。財布の中から千円札が二枚ほど消え去った。しかも自分のために買ったお菓子は一つもない。
「お菓子くらい自分で買えよ……」
私の横を二つのビニール袋を持って笑顔で歩いている橘さんを思いっ切り睨み付けた。
「だって私お金持ってないし〜」
「は?じゃあ買うなよ」
「だって首藤さんお金持ってそうなんだもん。」
「は、どの辺が?」
「髪も綺麗に染めてるし、服もオシャレじゃん。お金掛かってそ〜」
「まあね?やっぱ好きな髪色にして好きな服着た方が楽しいし。この長さと色キープするためにも毎月美容院行ってるし。」
綺麗なグレーを保つためにも毎日シルバーシャンプーを使っているし。二週間に一回は自分でカラートリートメントで色を入れてる。
「てか別にだからってお金持ってないし!オシャレにお金回すために色々やり繰りしてるんだっつーの」
髪や服装を褒めてくれたのは素直に嬉しいけど。私だってこの見た目を維持するために色々我慢してるんだし。
「私は我慢しても出来ないんだよね」
ぼそりと橘さんが呟く。
「いくら我慢しても、私が自由に使えるお金は出てこないんだよね」
そう言って俯く寂しそうな横顔をチラ見する。
「言われてみれば、学校じゃないのに制服だよね。」
「私服買うお金ないんだよね。親は制服があればいいでしょって言うから。バイト代も全部親に取られるし、自分で買う余裕もないんだよね〜」
「……ふぅん」
こういう時、どういう反応をすればいいんだろう。変に同情するのも良くない気がするし、かと言って茶化していい話題でもないような気がする。私だって家族のことを知られて「可哀想」みたいに言われたら嫌だしなぁ。
「だから援交してるって噂が流れた時もみんなすぐに信じちゃったんだろうなぁ!あっははは」
青い空を仰いで高らかに笑う橘さん。口の端が微妙に震えている。
「で、真中が入院してる病院ってここ?」
橘さんは目の前まで来ていた総合病院を指差しながらそう訊いてきた。
「え、もしかして着いてくんの?」
「え?うん」
私と橘さんは数秒間見詰め合った。
「私も真中に会いたいし。」
「え、じゃあ一応言っといた方が良くない?」
そう言いながらスマホを取り出すと、橘さんは慌ててそれを阻止してきた。
「あー!待って!サプライズしたいから何も言わなくていいよ!」
「でも急に来られても迷惑じゃない?」
「真中と私の仲だもん!平気だって!」
「まーそっか。真中ちゃんも退屈そうにしてるし来られて迷惑なんてことはないか」
「そうそう!」
橘さんは何度も頷いてきた。
「じゃあいっか」
私達は病院の建物の中へ入っていった。
病室のドアを開けて中に入ると、真中ちゃんは嬉しそうに手を振ってくれた。何故か橘さんはドアの影に隠れて出てこない。
「四連勤お疲れ様!」
「何それ、バイト代出るんかww」
「時給0.1円な!」
そう言って笑う真中ちゃん。私はチラチラと何度かドアの方を見る。真中ちゃんからは死角になっていて見えていないみたいだけど、私にはこそこそ隠れている橘さんがしっかりと見えていた。ふと目が合うと、橘さんは唇に人差し指を添えて必死に「シー!」と歯を食いしばっている。
「りんねちゃん?」
頻りにドアを振り返っている私を不審に思ったのか、真中ちゃんが心配そうな顔で私の顔を覗き込んできた。
「あ、うん、なんでもないよ?」
一応橘さんが居ることは秘密にしといた方がいいっぽいし、私は知らないフリをしておいた。
にしても橘さんは一体何がしたいんだろう。着いてきたくせに真中ちゃんに会わないの?
「え、もしかして誰か居るの?」
ギクゥ、っと効果音が聞こえてきそうなほど橘さんが飛び跳ねたので、思わず私は吹き出しそうになった。それを見て真中ちゃんは確信したらしく、にやにやしながら、
「え〜、誰だろ?しみずちゃんとか?」
「あー、いや……」
私は橘さんに「もうバレてるから出てきな」と目配せした。橘さんは立ち上がって、ゆっくりとドアの影から姿を現した。
「え……」
真中ちゃんの表情が一瞬で引き攣り、そのまま固まってしまった。
「何で?」
その表情のまま、ゆっくりと首だけ動かして私を見る。私は目を逸らしたまま片方の口角を釣り上げ歪に震わせる。
「何であんたが……」
橘さんは私の横まで歩いてくると、ベッドに座る真中ちゃんを見下ろした。
「ざまぁみろ、バチが当たったんだよ」
橘さんがそう吐き捨てると、真中ちゃんは目を見開いて橘さんを睨み上げた。
「え」
私はそんな二人を見て愕然とした。
二人は友達なんじゃなかったの?
「これでもう大好きなエンコーも出来ないね。お疲れ」
橘さんは愉快そうに微笑みながらそう言う。
「どういうこと……?」
私は立ち尽くしたまま動けなくなった。
真中ちゃんと橘さんはお互いを睨みながらわなわなと震えている。私はそんな二人の間で狼狽えた。
「え、え、ちょっと待ってよ。全然分かんないんだけど。何、真中ちゃんが援交大好きって何?え、何言ってんの?わけわかんないんだけど」
頭の中が混濁して上手く状況を整理出来ない。呂律も上手く回らない。真中ちゃんが援交?え?何それ。
「りんねちゃん違うの、私はそんなの好きでもないしやったこともないから……」
「はっ、そりゃそうだよね。“優しい真中ちゃん”はそんなことしないもんね。」
弁解しようとした真中ちゃんを遮って、橘さんが鼻で笑う。真中ちゃんは物凄い形相で橘さんを見る。それを冷めた目で見返す橘さん。
「どこのどいつだっけ?自分が援交してるのがバレたからってその子に罪被せようとしてきたの。誰だっけなー、『この子が繁華街で知らない大人と手組んでるの見ちゃった』って濡れ衣着せてきた奴。」
橘さんは制服のポケットからスマホを取り出し操作する。
「やめてよ……」
真中ちゃんは橘さんのスマホに手を伸ばそうとする。もう少しで届きそうなところで橘さんはスマホをサッと頭の上に掲げた。
「あっ」
勢い余って真中ちゃんはベッドから落ちそうになってしまった。布団がずり落ち、色の白い脛が露わになる。
「う」
慌てて真中ちゃんは布団を腰まで持ってくる。そして自分の足がある場所を凝視してガタガタと震え出した。
「ほら、見てみなよ。」
そう言って橘さんがスマホの画面を私に向けてきた。目の前で震えている真中ちゃんを見て、それを見ていいのか分からなかったけど、思わずちらりと見てしまった。
「……」
サラリーマンらしき男性と腕を組んで歩く、セーラー服を着た黒髪の少女が映っていた。
「中学の時のこいつだよ。」
顎で真中ちゃんを指す橘さん。
「待ってよ、これが真中ちゃんとは限んないじゃん……」
画質が悪いのと髪の毛で輪郭が隠れていて、この女の子の顔はよく分からない。確かに雰囲気は似てるような気がするけど、別人かもしれないじゃん。
「真中じゃなかったら何で真中は私が援交してるって嘘吐いたんだよ」
橘さんはタタタとスマホを操作する。そして液晶画面を真中ちゃんの目の前に持っていき、にたりと不敵に笑う。
「今からこれ拡散しちゃおっかな。もう一年前の写真だけど、知ってる子が見たら分かるんじゃないかな〜」
「やめて!!」
真中ちゃんの声が病室に響き渡る。
「そうだよね、拡散されたらマズイよね。一瞬で広まって、完全には削除出来なくなるもんね。あんたが昔やったんだから分かるよね」
「え……?」
私が呟くと、橘さんは私の顔を見て瞳孔が開き切った目をぎらぎらと輝かせる。
「こいつ、自分が親父と歩いてる後ろ姿載っけて、モザイクかけて、『同じクラスの橘さんが援交してるとこ見ちゃった』ってストーリー載っけてたんだよ。二人とも似たような体型で黒髪ロングだったからみんな信じちゃったよね」
「何、それ……」
真中ちゃんがそんなことしたの?真中ちゃんをちらりと見たけど、顔を合わせようとしてくれなかった。
「まさか高校まで一緒になるなんて思ってなかったよ。まぁ私もあんたも頭悪かったしそりゃそっか。でも高校にまであの嘘持ち込んでくるとは思わなかったなぁ。お陰様で私は高校でも不登校。あんたは優しいキャラで大人気。何それ、絶対おかしいでしょ」
真中ちゃんは唇を噛み締めながら小刻みに震えている。何も反論しないし、訂正しようともしない。
「高校入ってもまだやってたみたいだね。いつも持ってるブランドのバッグも、財布も、ネックレスも、バイトしてない真中が買えるわけないもんね」
「ちが、それは全部彼氏が買ってくれたやつだから……」
「その彼氏も元は出会い系で知り合ったやつでしょ。」
「そんなの奈那の勝手な想像でしょ!」
「じゃあこれ何?」
タタ、と軽やかにスマホを操作し、またそれを真中ちゃんに見せる。
「あんたの裏垢。バレてないとでも思った?こんなにタグ付けして自撮り晒してたらすぐ分かるっつの」
「……いつから、見てたの?」
「あんたが嘘晒していじめられ出した頃からずーっとだよ」
「何でそこまで……」
「『何でそこまでするの?』??それはこっちのセリフでしょ?」
橘さんがそう叫ぶと、静寂が私達を包み込んだ。零れ落ちそうなほど大きな瞳に涙をたっぷりと溜めて、橘さんは胸を上下させて呼吸する。
「ねぇ何で?友達だったじゃん。何であんな嘘広めたの?」
そう訴える橘さんから、真中ちゃんは目を逸らした。
「あんたが幸せそうに教室で笑ってたの見るだけで吐き気がした。学校を休んだ日の授業がある時間は、今頃真中は友達に囲まれて幸せそうに生きてるんだろうなって思うだけでムカついた。」
橘さんは何度も瞬きする。そのたびに豊富な睫毛からは音が聞こえてきそうだった。透明な涙の粒が睫毛に絡み付く。
「あんたはもっと苦しんで死ぬべきだよ。クラスのみんなが死んだのはあんたのせいなんだからね」
「ちょ、っと……」
私が口を挟むと、橘さんは鼻が真っ赤になった顔を私に向けて睨んできた。
「え、何それ、どういうこと……」
消え入りそうな声で真中ちゃんが呟く。
「今回の事故とか、奈那が何かしたの?」
「教えるかよばーか。」
橘さんはそう言うと、すたすたと病室から出ていってしまった。
「ちょっと待ってよ!」
私は慌ててそれを追い掛けようとしたけど、真中ちゃんを一人残すわけにもいかなくて病室に留まった。
「ごめん真中ちゃん、何かよく分からないけど……」
「何で奈那連れてきたの?」
静かな声で真中ちゃんがそう言う。
「え、っと。駅でたまたま会って橘さんが着いてきたってゆーか」
「私と奈那が喧嘩してるって知らなかったっけ?」
真中ちゃんはそう言って両手で顔を覆う。
「ごめん、そこまでは把握してなかったわ……」
「そっか。でもさっき奈那が言ったの全部デタラメだからね。私は援交なんてしてないから」
真中ちゃんはそう言うと、手から顔を離して窓の方を見た。
「ごめん、今日は帰ってほしい。明日も来なくていいから」
「あ、うん……」
私はゆっくりとドアの方に歩いていく。
「……またLINEする」
返事は返ってこなかったけど、私はそのまま病室を後にした。
廊下を小走りに歩いていき、病院を出る。
「橘さん!」
自動ドアを出ると、出口の前に立っていた橘さんを見付けた。
「……真中のことを信じるか、私のことを信じるかは首藤さんが決めなよ」
橘さんはそう言って歩いていく。
「待てよ、橘さんが言ったのは全部事実なんでしょ?」
「さぁね。優しい真中ちゃんが正しいかもしれないじゃん」
「そりゃ、私だって真中ちゃんがあんなことするような子じゃないって信じたいけどさ……」
真中ちゃんと橘さんが中学の頃から同級生だったって知った時、一瞬真中ちゃんのこと疑っちゃってた。だから真中ちゃんが噂を広めた張本人だったって言われても、割とすんなり受け入れられてしまった。でも流石に援交してたっていうのは予想してなかった。そしてそれが橘さんにバレたから、あの噂を広めたっていうのも。
「びっくりしたでしょ。ごめんね、真中と仲良しだって嘘吐いて」
橘さんは私に背を向けたままそう零す。
「別に騙してたわけじゃないよ。元々は真中と私仲良かったし」
「え……」
そう言えばさっきも「友達だったじゃん」って言ってたっけ。
「真中が援交してるところを目撃しちゃうまでは、真中と私は一番の親友って言えるくらい仲が良かった。真中は家の事情であんまりクラスメイトと遊ばない子だったけど、私とはほぼ毎週遊んでたし。まぁ、それで私は真中のメイク後の顔を知ってたから、あの日街中で見掛けたのが真中だって分かっちゃったんだけどね」
私は黙って橘さんの後ろ姿を凝視した。
「親友だと思ってたから、辞めさせたいなって思って、街で見掛けたこと話しちゃったんだよ。そしたら次の日から私はエンコー少女になった。」
黒いツインテールが風に靡いている。
「昨日の友は今日の敵って感じ?今まで仲良かった友達にもシカトされるようになって、廊下を歩けば知らない他学年の生徒に後ろ指を差されて。高校は私を知ってる人が誰も居ないところに行くぞ!って意気込んでたら、まさかの真中と同じって言う。ウケるでしょ、高校でもまた私はみんなに避けられて生きていかなきゃいけなくなった」
ふわり、と二つの毛束が揺れる。いつの間にか振り返っていた橘さんが、真っ直ぐな瞳で私を捉えていた。
「だから噂の存在すら忘れてくれてた首藤さんは、私にとって希望の光だったんだよ」
大きな大きな瞳が、私だけを映している。
「それにもっと早く気付けていれば、こんなことにはならなかったかもね。クラスメイトが死ぬことも、私が“人殺し”になることも」
橘さんは自虐的に笑った。今度は自分が魔女になることを、もう知ってるんだ。
「私を恨むなら恨んでいいよ。首藤さんは死なないけど、きっと大人になるまでの間“施設”に強制入院させられると思うし。」
「……その“施設”、って何なんだよ」
確か、ゆずはさんがクラスを魔女に売った後、死んだことになってた間は施設に入ってたって言ってたっけ。
「施設は、新人の魔女を養成したり、魔女の情報が外部に漏れないように、情報を持っている子供を管理する場所。」
「何でそこに私が入んなきゃいけないんだよ?」
「管理」って、行動を制限されたりするってこと?私が魔女の情報を漏らさないように?
「それはりんねちゃんが知り過ぎたから。」
橘さんが顔を傾けて私を見た。ドキッと心拍数が一瞬跳ね上がる。
「知り過ぎたら、消されるんじゃないのかよ」
「大丈夫だよ。情報を拡散する危険性がない子は施設に入れられるだけで済むから。漏洩させる危険性のある子は、消されちゃうらしいけどね」
「は?何で弓槻は消されて私は消されないんだよ!」
思わず今自分が居る場所も忘れて叫んでしまった。病院を出入りしていた人達が私達をちらりと見て、そのまま通り過ぎていく。
「しっ、声が大きいよ。
首藤さんは消された方が気が楽なの?だったらそういう手もあるけど」
「違う。どういう基準で弓槻が『情報を漏らす危険性のある子』って認識されて消されたのかを納得出来るように説明してほしいんだよ」
握り締めた両手が小刻みに震える。爪が手のひらの皮膚に食い込んでじわじわと痛みが広がっていく。
橘さんは口を真一文字に結んでじっと私を見続ける。幅広の二重にくっ付いてしまいそうな一直線の眉が、地面と平行になる。
「弓槻さんってうちのクラスの子だよね。そっか、その子もうちのクラスが魔女に売られたことに気付いてたんだ」
「弓槻は私より先に気付いてた。沙里や珠夏が死ぬ前からだよ。」
「え、何で知ってたの?」
「橘さんとアリスさんの取り引きをたまたま見ちゃったんだって。制服と会話しか聞き取れなかったらしいけど、弓槻は不登校だったし橘さんはあんまり学校に来てなかったから、きっと橘さんだって気付いてなかったと思う。」
「え〜、あれ見られてたんだ」
橘さんはくすくすと笑う。今の私にはそれすらもうざったかった。
「弓槻は姉が魔女に売られて死んだと思ってたから、姉の仇だと思って魔女の秘密や犯人についてたくさんの情報を掻き集めてた。まぁ、その姉がクラスを売った本人だったんだけど、弓槻はそれも知れないまま死んじゃったんだよ。でも私以外の誰かに教えたわけでもないし、何で……」
「首藤さんとの会話を魔女の関係者の誰かに聞かれちゃったんじゃない?」
「それは有り得ない。だって学校の中でしか話してなかったし、私以外には誰にも……」
あれ。
「……首藤さん?」
橘さんが私の顔を覗き込む。
とくん、とくん、と、微かな自分の鼓動が聞こえてくる。それに合わせて、額から、首筋から、背中から、冷たい汗がゆっくりと湧き出てくる。
「待って……」
弓槻からうちのクラスが魔女に売られたってカミングアウトされた時、もう一人誰かが隣に居たじゃない。
「……しみず」
しみずが、あの時隣に居た。
『そのしみずちゃん、怪しくないかな。』
『ごめんね。でも私は私情は挟んでないつもりだよ。それにしてもしみずちゃんは怪しいと思う。充分疑われるような言動をしてると思う。』
『しみずちゃんがりんねちゃんに教室に戻らないように言ったのも、友達だから巻き込みたくなかったんじゃないかな。』
電話越しのアリスさんの声が耳の奥に蘇ってくる。
そう言えばアリスさんは、佐藤聖羅に会ってもう一人の犯人がしみずじゃないって分かったら、その時は報告してくれるって言ってたっけ。でもあの日の夜の電話では、その話題については何も触れてなかった。
「嘘でしょ?」
ポロリと自然に口からそんな言葉が零れ落ちた。
まさか、しみずに限ってそんなことないよ。だってもしほんとにしみずだとしたら、クラスメイトが減っていく中悲しんでいたしみずも、爆発事故が起きた時に泣いていたしみずも、全部嘘ってことになる。
そうだ、廊下で話してた時に誰かに盗み聞きされてたかもしれないじゃん。階段の踊り場で話してた時かもしれない。知らない誰かに聞かれてた可能性なんていくらでも考えられる!
「星野さんも魔女についての話を聞いてたってこと?」
無遠慮にはっきりとそう言う橘さん。
「星野さんが魔女と関係ある人だったら、誰かにチクって弓槻さんを殺させることも可能だよね。」
ぐちゃぐちゃと頭の中がかき混ぜられていく。見える景色が二重に、三重になる。
「もしかしてこの前の爆発や勝手に死んでったクラスメイトも、星野さんがやってたりして」
そんな私に気付かず、橘さんは容赦なく言葉を発し続ける。
「星野さん、実は魔女なんじゃないの?」
「待って、それは違う」
私はすぐに声を上げた。やっとはっきりと否定出来ることを橘さんが言ってくれたからだ。
「それは違う。魔女は佐藤聖羅って人だよ。だからしみずは魔女じゃない」
口をウインナーみたいな形にして私は微笑んだ。別に楽しいわけでも嬉しいわけでもない。でも何故か笑顔になってしまった。
「じゃあその佐藤聖羅にクラスを売ったのが星野さんってことかもね。星野さんが佐藤聖羅にチクって、佐藤聖羅がお偉いさんにチクった。決まりだね」
まるで名推理をする探偵みたくほくそ笑む橘さん。私はまた何も言えなくなって黙りこくった。
「でも待って、しみずじゃないかもしれないし……」
「でも星野さんかもしれないよね。」
「っ」
アリスさんよりはっきりした物言いに、私は何も反論出来なかった。
「でも……私はしみずはあんなことしないって信じたい。だって一番一緒に居た友達だし」
「今さっき友達に裏切りられたばっかりじゃん。私も一番一緒に居た友達だった人が一番の敵になったよ。そういうもんでしょ。」
橘さんはにこりと笑ってそう言う。でもその目は笑っていなかった。
「一番一緒に居たとしても、他人より長い時間一緒だったってだけで全てを知ってたわけじゃないでしょ。案外見えないところではすごいことしてたりするんだよ」
その言葉には妙な説得力があった。私は唇を噛み締めて俯いた。
「ま、首藤さんが信じてあげたいなら信じてあげてればいいんじゃないかな。その方が星野さんも嬉しいと思うし。私は星野さんと喋ったこともないから信じてあげられないけどね。」
橘さんはそう言ってゆっくりと歩き出した。
「帰ろ。あんまここにたむろってても迷惑だから」
私は無言で頷いて歩を進めた。
「っ、しみずも、橘さんの噂の話はしてなかったよ」
自分でも何でこんなことを言ったのかは分からないけど、勝手にそんな言葉が飛び出してきた。橘さんは驚いた顔で振り返って、無言でにこりと笑った。
ただ、私の他に「しみずは犯人じゃない」って信じていてくれる人が欲しかった。
「何か騒がしくない?」
橘さんがそう呟いた。確かにサイレンような音がどんどん近付いてくる。私達は何となくその音がする方を見た。
病院の入口の前に救急車が止まり、中から慌ただしい様子の救急隊員が降りてくる。続いて担架に載せられた状態で出てきたのは、どうやら怪我をした女性のようだった。
「ねえ、あの人アリス?だっけ、あの魔女に似てない?」
つんつんと私の肩をつつき、橘さんがそう耳打ちしてきた。びっくりして担架に横になる女性を見る。確かにしなやかな長細い手足はアリスさんに似てる気がした。
救急隊員が運ぶ担架が私達の前を通り過ぎた時、その女性の顔が見えた。
「!!」
白いボブが、風に揺れていた。
「ねぇ、さっきの絶対アリスさんだったよね?」
私は公園のベンチに座りながら頭を抱えていた。一人分の間隔をあけて横に座る橘さんは、無言で砂の地面を凝視している。
「何であんな怪我してたの?」
布のようなものが被せられていたけど、それでも分かるくらい酷い怪我だった。お腹の辺りに、薄らと薄紅色の血が滲んでいたのだ。
「死んだりしないよね?」
足が冷たくなって頻りに貧乏揺すりをする。そんな私をちらりと見て、橘さんが「あのさぁ」と切り出した。
「首藤さん、あの魔女のことムカつかないの?首藤さんのこと殺そうとしてたんだよ?まぁ私が言えたことじゃないけどさ。
でもあんま簡単に信用しない方が良いよ。私だって取り引きの時以来会わないようにしてたんだよ?あの名前だって本名じゃないみたいだし、何か怪しいじゃん」
「そりゃ、私もあの人のことよく分からないけど……」
初めて会った次の日いきなり「遊ぼう」なんて言ってきたり、岡田さんと倉野さんが不審死してから何かと私に頼ってきたり、私にとって敵なのか味方なのか今でもよく分からない。言動もふわふわしてて掴み所がない感じだし、何を考えてるのかも全然分からない。佐藤聖羅との関係もいまいちよく分からないし、きっとアリスさんは私にたくさん嘘や隠し事をしている。分からないことだらけだ。
「でも別に悪い人じゃないと思う。ほんとはあの人も誰かに頼りたいんじゃないの」
見た感じ、アリスさんも過去魔女に三十人を売ったワケありっぽいし。多分戸川さんや橘さんやゆずはさんみたいに、学校か何かのクラスメイトを売ったんだろうな。
「何かみんないじめとかでクラスメイト売るよね。」
ぼそりと呟く。言ってからその“みんな”の内に入ってる橘さんが目の前に居ることに気付いて、後悔した。
「はは。首藤さんって鋭いね」
橘さんはそう言って笑った。そしてぐるりと公園を見渡す。
「ここ、中学の頃は、よく学校帰りに真中と来てたんだよね」
懐かしそうな目で遊具を一つ一つ見回していく。
「私も真中も家に帰りたくなかったから、毎日夜の八時くらいになるまでここで遊んでたんだ」
私は橘さんの足元を見ながら無言でそれを聞く。
「シャボン玉したり、ブランコ乗ったり、その日起きた嫌なこと話し合ったり、家のこと愚痴ったり。」
吹き抜けた風がざぁっと木々を揺らした。硬い葉が擦れ合う音に、どこか懐かしさを感じた。
「あの頃は真中の存在に救われてたけど、それも昔の話だな。今はガチで死/ねって思うもん」
橘さんはそう言って笑ったけど、その笑顔は酷く悲しそうに見えた。私の気のせいかもしれないけど、きっと気のせいじゃない。
「私が次は魔女になるって知った時、実は結構しんどかったんだよね。絶望した、って言うか。でも大嫌いな実家から出られて私の人生めちゃくちゃにしてきた奴らが消えてくれるならそれくらいいいかなって。」
「実家から出る、って、橘さんも施設か何かに入るの?」
「うん。でも首藤さんとは別々になると思う。詳しいことはあんま話せないけどそのうち分かるよ」
橘さんはそう言って少し申し訳なさそうにはにかんだ。
「もうちょっと早く魔女の都市伝説の存在を知ってたら、中学の同級生達を消せたのになぁ」
橘さんは悔しそうに頬を膨らませた。
「首藤さんが苦しんでアイツらがのうのうと生きてると思うと虫唾が走るね」
「ほんとだよ、私の毎日ぐちゃぐちゃにしやがって」
私がそう言うと、橘さんは一瞬目を真ん丸に見開いて、泣きそうな顔で苦笑いした。
「それはほんとにごめん」
私達は何となく視線をずらした。
「私はクラスのみんなは大っ嫌いだったけど、そんなみんなは首藤さんに取っては大事な友達だったんだもんね」
「……そうだよ。でも橘さんがやられてきたこと聞いて、ちょっとはみんなにも非があったんじゃないかって思った。もちろん見て見ぬふりしてた私にもね」
まるで許しを乞ったみたいだ。私ってずるい人間だな、と思った。
「いいの?私が嘘吐いてて真中が正直者かもしれないよ」
「だって証拠見せてきたじゃん。そんなの信じざるを得ないし」
「……私のこと、信じてくれるんだね」
橘さんは潤んだ瞳で私をじっと捉えた。
「……うん。」
ここは真中ちゃんが私を助けてくれたあの公園だった。
戸川さんとむすびが目の前で死んだあの日、私はここで真中ちゃんに救われた。あの時真中ちゃんがこの公園の前を通っていなかったら、きっと私は立ち直れてなかったかもしれない。
でも、きっとさっき聞かされた話や見せられた写真は、どれも紛れもない事実だ。
ごめん、真中ちゃん。私は心の中でそっと呟いた。
私は、真中ちゃんを信じてあげられない。
橘さんは涙で潤んだ目を伏せて、何かをこらえるように口を噤んだ。
「私のこと信じてくれた子なんて初めてだよ。みんな真中ばっか信じてたから、嬉しい」
そう呟いたと思ったら、橘さんはいきなりポケットからスマホを取り出し、画面を操作し出した。
「病院に戻ろう。アリスさん、意識はあるって」
「え、何でそれを橘さんが知って……」
「いいから。行こ」
橘さんはそう言うと、私の手を引っ張って大股で歩き出した。
私はされるがままに着いて行った。
病院に入ると、橘さんは私を待合室に取り残し、受付に向かい何やら懸命に喋り出した。
何を話しているのか聞き取れなかったけど、スマホの画面を見せて何かを説明しているように見える。受付のお姉さんは笑顔で受け答えし、今度は橘さんに何かを説明している。
橘さんはお姉さんに軽くお辞儀をし、小走りで私の元へ戻ってきた。
「アリスさんの病室まで案内してくれるって。」
私は機械的な動きで頷いて、案内のためにやって来た看護師の後に続く橘さんの更に後ろを歩いた。
アリスさんの病室がある階は、偶然にも真中ちゃんの病室と同じ階だった。エレベーターを降りると、見慣れた廊下が広がっていた。
私は歩いているうちにふと違和感を覚えた。あれ。どこまで行くんだろう。そっちは真中ちゃんの病室がある方じゃん……。
ついさっきあんなことがあったんだから、真中ちゃんが居る病室の前を通り過ぎるのは少し気まずかった。もしドアが半開きになってたりしたら嫌だなぁ。さっき出ていく時ちゃんと閉めたっけ。いや、流石に開いてたら看護師が閉めたりしてくれるか。そんなことを考えていると、看護師はぴたりと歩みを止めた。
「え」
私と橘さんは顔を見合せた。
看護師がノックして入っていったのは、真中ちゃんの病室の左隣の部屋だったのだ。
「失礼します。」
私達を病室に押し込むと、看護師はそそくさと出ていってしまった。中にはベッドに横たわるアリスさんと、主治医らしき男性の医者が座っていた。
「びっくりしました。まさかアリスさんが刺されるなんて」
「いきなり悪かったね。家族も友人も居ないみたいだから困ってたんだ。そうしたら君の名前を出したから連絡させてもらったよ」
推定年齢六十歳の白髪の混じった天然パーマの医者は、優しい声色でゆったりとそう言った。
「いい迷惑ですよ。で、誰に刺されたんですか」
橘さんは見下すようにアリスさんを見る。アリスさんはゆっくりと鼻で息を吐きながら笑った。
「奈那ちゃんのクラスの前に受け持ってた学校の子。多分友達が殺された逆恨みでだと思う。」
私は思わず手に持っていたスマホを落としてしまった。カツン、と大きな音が病室内に響き渡る。一気にそこに居る全員の視線が私に集まり、私は慌ててスマホを拾い上げた。
「ああ。奈那ちゃん、りんねちゃんと一緒に居たんだね。」
アリスさんはそう言って、はー、大きく息を吐く。
「りんねちゃんには迷惑掛けないようにしたくて奈那ちゃんに掛けたんだけどな。結局来ちゃったか。」
「やっぱり。この前駅前で私を待ち伏せしてたあの子でしょ。戸川さんの学校の、飛び込み自殺した子の友達。」
そう言う私の声は震えていた。
「私が名前を教えたから?でも“関口アリス”は本名じゃないんでしょ?」
「今どき顔がバレてたら見付け出すなんて簡単だよ。りんねちゃんが『見付け出されて刺されるかもしれませんよ』って言ってたけど、ほんとに刺されちゃったよ。」
「はー、参った参った。」とわざとらしく呟くアリスさん。
「それで、その刺した子は?」
橘さんが尋ねると、医者が椅子に座り直しながら答える。
「もちろん通報されて警察に捕まったよ。街中で刺すんだから、それなりの覚悟はあったんだろうね。今頃処分されてるところだと思うよ。まさか自分が殺されることまでは想像出来てなかっただろうね」
「それにしても探し出したい人をほんとに見付け出すなんてすごいですね。高校生が一人でやったんですかね、どうやったんだろ」
そう言いながら医者と橘さんは笑い合う。
「何で笑ってられるんですか?」
私は思わずそう言ってしまった。だって有り得ない、仮にもこの人は医者でしょ?目の前に怪我人が居るって言うのに。それに何で魔女についてこんなに詳しく知ってるんだろう。
「……君がりんねさん、かな?」
「は、何で私の名前知ってるんですか?」
「この子が運ばれてる間、ずっと君の名前を口にしてたからね。」
そう言ってアリスさんを見る。アリスさんは、恥ずかしそうに頬を少し赤らめた。
「君は色々知っているみたいだけど、この子達とはどういう関係?」
「首藤さんは私のクラスメイトです。」
「へぇ。結局処分されるからと言ってあまり深く関わらせてはいけないよ?情報を漏洩されるかもしれない」
じろりと目を細めて私を見る医者。背筋に悪寒が走った。例えようのない気持ち悪さがあった。
「私のこと何も知らないくせに分かったような口聞かないでくれませんか?」
私は医者を思いっ切り睨み付けた。医者はおどけたように肩をすくめ眉を上げる。くそ、腹立つな。
「それは悪かったね。」
「首藤さんは大丈夫ですよ。それに首藤さんは対象者からは外れてるのでもうじき施設に入ります。情報も盛れる心配はありませんから」
橘さんはそう言うと、長い長い溜め息を吐いた。
「魔女って逆恨みされて刺されたりするんですね。はー、私やっていけるかな」
そんな橘さんを見て、アリスさんはくすりと笑う。
「あの子がよっぽど内田さん――私が殺した子と仲良かったんだと思う。今までは魔女が復讐されるなんて事例なかったもの。行動力がある子だったんだね。」
「感心してる場合じゃないでしょ……」
呆れて私が呟くと、アリスさんは「そうだね。」と言って目を閉じた。
「アリスさんの様態は大丈夫なんですか?」
「うん、傷はそこまで深くなかったし、大きな内臓の損傷もなかったから。」
「普通の女の子は本気で人を刺したり出来ないですもんね。アリスさんがおかしいのがよく分かりましたわ」
小馬鹿にするようにアリスさんを見る橘さん。
「覚悟がないと魔女の仕事は全うできないよ。奈那ちゃんも魔女になったら嫌でもやらないといけないんだからね。そこら辺はちゃんと分かってるのかな。」
珍しくアリスさんが怒っているように見えた。
「何それ。別に私は逃げようなんて思ってないし。勝手な想像で説教しないでくれます?」
橘さんとアリスさんは睨み合う。
「はいはい、怪我人に喧嘩売らない。私はまだ診察の予定があるから戻るけど、暗くなる前に帰りなさい。」
医者はそう言ってモッサリと椅子から立ち上がると、逃げるように病室から出ていってしまった。
病室内の雰囲気は最悪だった。睨み合う二人の間で狼狽える私。あれ、さっきもこんな状況になってた気がする。
「あんたは魔女であることに誇りを持ってるみたいだけど、私はそこまでガチになれないですから。私は自分さえ良ければそれでいいって今までの人生でよぉく分かったので。誰かを助けるために本気になるなんて絶対出来ませんから」
橘さんはそう吐き捨てた。プライドを傷付けられたアリスさんは、無表情のままわなわなと震え出した。
「魔女の仕事を放棄したらどうなるか分かってるのかな。」
「だから別に逃げようだなんて思ってないし!あんたみたいに殺/す相手に情湧いて擦り付くような魔女にはならないってことですよ!」
「奈那ちゃんの魔女になったのが私の運の尽きだったかもな。」
アリスさんはそう言うと、苦しそうに顔を歪ませた。
「いたた。あんまり興奮させないでほしいな。いちお怪我人なんだけどな。」
「ほら、橘さん、あんまエキサイトしないで……」
宥めたけど、橘さんは不機嫌そうな顔をして私を睨み付け、黙り込んでしまった。
「それより、今は奈那ちゃんも危ないってちゃんと分かってるのかな。雫萌高校一年B組を売った子がもう一人居るって、ちゃんと理解してるのかな。」
「へー。今そんなことになってたんだ。私は別に結局みんなが居なくなってくれるなら、アリスさんが殺そーが他の誰かが殺そーがどうでもいいんですけど」
「違う。奈那ちゃんは分かってない。」
アリスさんは静かな声で淡々と喋る。自分を見下ろすスプリンクラーや監視カメラと睨めっこしながら、ゆっくりと瞬きをする。
「もう一人クラスを売った子が居るってことは、奈那ちゃんも死ぬかもしれないってことなんだよ。」
『えっ……』
私と橘さんは同時に呟いた。
橘さんも死ぬかもしれない???
「ちょ、何言ってんすか、橘さんが死ぬって……。」
「よく考えてみて。売られた人は全員死ぬって決まりでしょ。クラスを売ったなら、クラスメイトは一人残さず死ぬ。売った本人を除いてね。」
「それが何で……まさか、」
「そう。もう一人クラスを売った子が居るってことは、必然的に奈那ちゃんも『売られた』ってことになる。」
「はぁ?」
橘さんは首を少し傾けて呆然と立ち尽くしていた。
私は何となく、アリスさんからも橘さんからも視線を逸らした。その結果病室の隅の方に置かれたゴミ箱を眺める羽目になった。
「それで、アリスさんはもう一人のクラスを売った子は知ってるんですか?」
私はゴミ箱を見たまま小さな声で尋ねた。
「……それはまだ分からない。佐藤聖羅は、りんねちゃんに直接会って話せるまで誰にも言うつもりはないって言ってた」
「じゃあ佐藤聖羅に会わせてくださいよ!何かこの前から私と会わせたくないみたいじゃないですか!」
「会ったらりんねちゃんはどんな気持ちになるのかな。そう考えたら簡単に会わせるわけにはいかないって思ったの。」
「は?何それ。優しさのつもりですか?私何回も言ってますよね、何も知らないまま死ぬのが一番嫌だって!」
「知らない方が幸せなことだってあるんだよ。」
「佐藤聖羅が私に会いたくて、私も佐藤聖羅に会いたい。これにアリスさんは無関係ですよね。」
「……それでも私は賛成出来ない。」
「じゃあ勝手に会わせてもらいます。佐藤聖羅のインスタ特定済みなんで」
私はそう言って手に持っていたスマホをくるりと回転させた。そしてインスタのアプリを開いて操作する。
「え。何で知ってるの。」
「ググッたらすぐ出てきましたよ、有名な人なんですね、佐藤聖羅って」
DMの画面に文字を打ち込む。
「……りんねちゃんがいいならもうそれでいいよ。」
アリスさんはそう言って、布団を頭まで被った。
『首藤りんねです。この前はキャンセルしてしまってすみません。良ければ今度会って話しませんか?』
そう送信して、スマホを閉じた。
アリスさんは、布団から顔を出さなかった。
「結局二人とも喧嘩しただけで終わったね」
橘さんはそう言いながら笑った。病院から出ると、空はすっかりオレンジ色に染まっていた。
「で、首藤さんはそのさとーせいらって人に会うの?」
「うん、まだ返事は来てないけど多分会うと思う」
「ふーん。ね、もう一人の犯人が分かったら私にも教えてくれない?」
「うん」
「あんがとー」
私達の会話はそこで途切れてしまった。無言で肩を並べて、赤く染まったコンクリートを同じ歩幅で歩いていく。
「あ、私こっちだから。じゃあね」
「うん」
橘さんは歩道橋の前で立ち止まって手を振ってきた。振り返すと、笑顔になって階段を駆け上がっていった。
「……はぁ」
何か疲れたなぁ。
私は重たくなった足を引っぱたいて、駅への道を歩いていった。
家に着いたら、私は自分の部屋に直行した。病院に行ったんだし手くらい洗わないとな、と思ったけど、洗面所に行く気力がなかった。
部屋に入ってドアを乱暴に閉め、ベッドへダイブする。一日分の疲れがどっと湧き出てきた。
今日は色々あったなぁ。駅で橘さんに会ったと思ったら病院まで着いてくるし、橘さんの噂の根源や真中ちゃんの過去を知ることになって、更にはアリスさんがあの女子高生に刺されて……。
ああ、何かもうしばらくは動きたくないや。真中ちゃんのお見舞いにもしばらく行けそうにないし、数日間は家に引き篭ってよう。
ここ最近は毎日電車を乗り継いで病院まで行ってたからなぁ。長期休み明けは満員電車に乗って学校に行くのが死ぬほどダルいけど、それと同じだ。もう事故が起きて休校になってから何週間経ったんだろう。未だに学校からは何の連絡もない。まぁ、うちのクラスはこんな状態なんだから、そりゃ授業なんて出来たもんじゃないよね。
それに結局橘さんも死ぬかもしれないし。
「……それが一番嫌なんだよなぁ」
だって橘さんが死んだら、今まで死んでいったクラスメイトの死が無駄になってしまうみたいじゃない。橘さんが救われるためにみんなは死んだんでしょ?なのにその橘さんも死んじゃうなら、後は何が残るって言うんだよ。
「もう一人クラスを売った子がいるなら、橘さんも売られたことになる」理論だと、もう一人の犯人も「橘さんに売られた」ってことになる。その子はもう死んでるの?それともまだ生きてるの?
ベッドの隅に転がっていた抱き枕を両手で抱え、真っ白な天井を見上げた。
一体、この都市伝説は何なんだろう。ただの都市伝説じゃないって言うのはもう分かったけど、一体どれだけの人が関わってるんだろうか。
当たり前のように事情を知っていた医者も、アリスさんを刺した女子高生を連行した警察官も、死んだはずのむすびやクラスメイトを「転校した」、「留学した」ってことにして片付けた学校も、きっとみんな……。
「ん」
その時、ポケットに入れたままだったスマホが振動した。ゆっくりと上半身を起こして、ポケットからスマホを取り出す。
画面を見ると、インスタのDMの通知だった。
「あー、忘れてた」
そう言えば佐藤聖羅にDM送ってたんだっけ。疲れ過ぎてすっかり忘れてた。
佐藤聖羅に会うんだったら引きこもれないじゃん……。ぶちぶちと文句を垂れながらDMを開くと、何やらカラフルな絵文字で飾られた長文が送られてきていた。
『きゃーーーーーーっ!!💕
すどうりんねちゃんだよね!?!?話したかったよ〜〜〜ぅ💖💖💖もしかして私のこと探してくれてたのかな!?😳ちょっと恥ずかしい笑笑笑笑🤣🤣
ねねね早速だけどいつ会う?🎶早くりんねちゃん拝みたいんだけど〜〜🥺🥺
アリスにキャンセルにしてほしいってLINEもらった時は超ショックだったんですけど!!😭😭気変わってくれたみたいで嬉しいよ〜〜💘💘
都合いい日あったら教えて?🥺私はいつでも暇してるから🤭てか会ったらプリ撮ろうな👊』
「うわぁ……」
何て言えばいいんだろ。何か、こう……。…………。
もっと怖い人なのかと思ってた。一応仮にも、この人も私のクラスの魔女で、私を殺/すかもしれないんだから。でも見た感じそんな風にも見えないし。それに悪い人ではなさそうだし?
「『私はいつでも都合いいですよ』、っと……」
いよいようちのクラスを売ったもう一人の犯人が分かるんだ。それが誰なのか、知りたいような、知りたくないような。もし知ってしまったら、それからどうなるんだろう。私はその子を責める?それとも責める以前にその子はもう死んでたり?
「……」
私は打ち込んだ文を送信して、DM画面を閉じた。
適当にストーリーを流し見していると、ふと一つのストーリーが目に止まった。
「あれ……」
スマホの画面を指で押さえ、その画面をじっと見る。
「真中ちゃん、ストーリー載っけてたんだ……」
そこにはたくさんの限定フルーツ牛乳のペットボトルの写真に、『心の支え。毎日ありがとう💓』と小さな文字が添えられてあった。
「いつの間に……」
メンションされてなかったから気付かなかった。どうやらこのストーリーは22時間前……昨日私が病院から帰った頃に投稿されたみたいだった。
真中ちゃん、こんなに喜んでくれてたんだ。あ、今日はフルーツ牛乳もグミも渡しそびれちゃったな。橘さんのお菓子と一緒の袋に入れてたし、あのまま持って帰られちゃったかな。
「……ごめん」
本人に届くわけもないのに、私は小さな声で呟いた。
私は真中ちゃんの明るさや優しさにたくさん助けられてきた。クラスメイトが減るたび、どんどん暗く重たくなっていくクラスの雰囲気を戻そうとしてくれてたのも知ってる。沙里や珠夏のお葬式についてたくさん調べ回っていたのも。
ほんとに友達思いで良い子なのに。どうして橘さんにあんなことしたんだろう。
「真中ちゃんの口から、ちゃんとほんとのこと聞きたいよ……」
蛍光灯が眩しくて、腕で目を覆い隠した。
ドンドンドンと突き破りそうな勢いで誰かが私の部屋のドアを叩いていた。凄まじいその音ではっと起き上がり、何度も瞬きをする。
うう、目がシパシパする。またカラコン入れたまま寝てた……。
「何?」
カラコンを外しながらガチャリとドアを開けると、ムスッとした顔の妹が出てきた。
「これ、何か怪しい人が渡してきたんだけど」
そう言って一枚の封筒を差し出してきた。
真っ白な上質そうな紙に、細い黒のボールペンで、綺麗な文字で『首藤りんね様』と書かれていた。
「え、何これ」
「開けない方が良くない?めっちゃ怪しかったよ」
「男だった?女だった?」
「多分女。帽子かぶっててマスクしてたからよく分かんなかったけど。スーツ着た男が運転してる車に乗って帰っていったよ。他にも二人くらい乗ってた気がする」
「えー、何それ」
そう言いながら爪で封筒を開ける。揺すりながら開けた側を逆さにすると、カサリと音を立てて一枚の便箋が顔を出した。
「手紙?」
二つ折りになった便箋を開くと、これまた繊細な文字が並んでいた。
「首藤りんね様、………………、…………、……………………、」
読み進めていき、そのまま視線を一番下の行へ持っていく。
そして私は息を飲み込んだ。喉ちんこごと飲み込んでしまいそうになった。私は噎せて咳き込み、口を抑える。
「……りん姉?」
そんな私を妹は不審そうな目で見てきた。
「待って、これいつ渡されたの!?」
私が叫ぶと、妹は驚いて、
「え、今学校から帰ってきた時家の前に居て……」
私はそれを聞いた途端、階段を駆け下りていた。頭で考えるより、体が真っ先に動いたのだ。
玄関に着くと、靴も履かず裸足のままドアを開け、訳も分からず車道を走る。
どこに居るかなんて分からない。もう車で遠くに行ってしまってるかもしれない。
でも、もしかしたらまだ近くに居るかもしれない!
「ゆずはさん……!」
私はゆずはさんの手紙を握りしめ、住宅街を抜け出した。
ゴツゴツとしたコンクリートの地面が、足の裏の皮膚を容赦なく突き破った。一歩進む度に足が酷く痛んだ。道行く人全員が私をすれ違いざまに見てくる。そりゃそうだ、私だって髪の毛ボサボサでメイクも落ちかけの裸足の女が必死の形相で走ってたら三度見くらいする。それでも私は走り続けた。
「ゆずはさんっ……」
喉の奥が何かが詰まったように痛かった。涙がせり上がってくる。苦しい。息ってどうやって吸うんだっけ。
死に物狂いで走り続けていた脚は次第に動くのをやめ、私は歩道の真ん中に立ち止まった。それらしき車は、もうどこにも見当たらなかった。
ズキズキと心臓の辺りが締め付けられていた。声にもならない嗚咽を漏らしながら、道の真ん中に座り込む。
膝を抱えてそこに顔を埋めると、通行人にじろじろ見られるのも気にならなくなった。私は小さな声で笑って、腕の中で口元をニヤつかせた。
「いっつも、気付いた時にはもう手遅れなんだよ」
無理矢理釣り糸で釣り上げられていたようだった口角は、次第に逆方向に引っ張られ始めた。このまま輪郭を超えて地面に突き刺さってしまうんじゃないか、ってくらい私の口角は引き下がっていた。
「何でいつもさぁ!」
思わず叫んでしまった。はっとして顔を上げきょろきょろと周りを見渡すけど、幸い人は誰も居なかった。
「はぁ…………」
また自分の膝に顔を埋め、涙をぐりぐりと膝小僧に擦り付けた。
ゆっくりと立ち上がって、走ってきた道を戻っていく。
片手に握りしめた手紙を開き、ぐすんと鼻を鳴らしながら改めて読む。
『首藤りんね様
突然姿を消してしまってごめんね。びっくりしたよね。
私はりんねちゃんに生きていてほしいと思っています。なのでそれを相談してみようと思っています。
もしかしたら、私はもうりんねちゃんには会えないかもしれません。売られたりんねちゃんを助けるというのは、実は物凄い違反行為なんです。でも、私はそれでもりんねちゃんには生きて幸せになってほしいです。
私はりんねちゃんが帰った後、家の中を何回も回ってみました。誰も居ない家はすごく広く感じて寂しかったけど、これでもう思い残すことはなくなりました。
りんねちゃんと初めて会った時に言われた言葉、ずっと忘れません。私は家族を不幸にしてしまったけど、私の家族に関わってくれたりんねちゃんには感謝しています。きっとゆずかもお婆ちゃんも幸せだったと思います。
今まで辛いことがたくさんあったと思います。これからはもっと辛いことが待ち受けてるかもしれません。でもどうかそれも乗り越えて、あなたが救われますように。
弓槻ゆずは』
どこかでカラスが鳴いていた。私は何度も瞬きをして、薄らと瞳に滲んだ涙を必死に乾かそうとした。
「何いいこと書こうとしてんだよ、全然響かねーし」
ガラガラに枯れた声を喉の奥から絞り出した。私は湧き出てくる涙を必死に飲み込み、手紙を強く強く握った。涙の跡としわが付いた。
「りん姉!」
道路の向こう側から妹が走ってくる。
「急に飛び出して何してんの!?さっきの人達は何なの?知り合いだったの?」
妹は肩で息をしながら眉を顰める。私は俯いて黙り込んだ。
「バカじゃないの、そんな格好のまま飛び出すとか。どう考えても追い付けるわけないじゃん」
妹はそう言って踵を返した。
「……何かよく分かんないけど、あんまり変なことしない方がいいよ。お母さんが仕事大変なの、あんただって分かってるんでしょ」
振り向きざまにそういう妹。私はそれでも子供みたいに黙りこくった。
「ここ最近は一週間に一回帰ってくればまだいい方だもん。私もあの人のことあんまり好きじゃないけど、余計な苦労掛けるのだけは絶対やめなよ」
そう言ってスタスタと歩いていってしまった。
その後ろ姿をぼーっと眺めながら、私もゆっくりと歩を進める。
そうなんだ、お母さんそんなに帰ってこれてなかったんだ。ずっと部屋に籠りっきりだったから全然気付かなかった。
「でも、向こうだって私のこと全然気に掛けてもくれてないじゃん」
ぽろりと零れた言葉は完全にただの八つ当たりだった。
仕事が忙しいのも、そのせいで疲れてるのも分かってる。それにお母さんを避けてるのは私の方だ。
「……都合良いよな、私って」
鍵が開いたままの玄関のドアを力いっぱい引き、家の中に入る。それが自然に閉まるのを待ち、鍵を閉める。
「はぁ……」
ゆっくりと顔を上げると、階段の前に妹が立っていた。怪訝そうな顔で私を見下ろしている。
「何?」
私がそう尋ねると、妹は無言で部屋に入ってしまった。
「……何なんだよ」
私はイライラして、土埃で汚れた足のままフローリングを踏み荒らした。
階段を駆け上がり、洗面所に直行する。お風呂場に飛び込んで冷たいままのシャワーを足に浴びせた。
ザー、と水滴が足や壁に叩き付けられる音だけが聞こえる。冷たくて足の感覚がなくなってきたところで、私はシャワーを止めた。
床にお尻と脚をベッタリくっつけて座ったせいで服がびちゃびちゃに濡れてしまった。跳ねた水滴が髪の毛先からポタポタと垂れる。
「何でみんな私を置いてくんだろう」
自分で呟いた言葉に自分で身震いした。
もうこれ以上大切な人が消えてくのは耐えられない。
「……」
でもきっと、この先もどんどん私の大切な人が消えていくんだろうな。
「……」
私は湯船の蓋を開け、冷え切った湯船に飛び込んだ。
全身が冷たくなり、筋肉や血液がパリパリと凍っていくような感覚になる。このままお風呂の床が崩れて、知らない海に流れ落ちて、どこかへ行ってしまえばいいのにな。
「ぷあっ」
私は水風呂から顔を上げた。そして一目散に洗面所へ飛び出す。
「さっむ!!」
積んであったバスタオルを何枚も重ねて体に巻き付ける。しばらくぶるぶると身震いした後、私はぼーっと空を見詰めた。
「何やってるんだろうな、ほんと」
バカみたいだ。こんなことして何になるって言うんだよ。
「ははは、はぁ……」
いくら私が頑張ったところでもう何も変わらない。そんなのもう分かりきってるじゃん。
「…………」
濡れた床に寝転び、目を瞑った。そのまま意識はすぅっと沈んでいくかのように消えていった。
あれから数日経った。あの日を境に、私は死んだようにベッドから動けなくなってしまった。この一週間は毎日真中ちゃんの病院へ行ってたから、急に一日中暇になって喪失感に襲われて何もやる気が起きなかったのだ。
あの後、私は自分の部屋のベッドで目を覚ました。びしょ濡れだったはずなのに髪は綺麗に乾いていたし、私服だったはずなのにジャージに着替えていた。寝ぼけながら自分でドライヤーをして着替えてベッドに入ったのかな、と思ったけど、全然記憶にない。妹に「私のこと部屋まで運んでくれた?」って訊いたらすっっごい嫌そうな顔で「は?」って言われたからそれしか考えられない。
「やだなー、夢遊病みたいじゃん」
溜め息を吐いて天井を仰いだ。
「佐藤聖羅に会うのももう明日かぁー……」
あれからしばらくDMでやり取りをして、私と佐藤聖羅は土曜日――明日会うことになっていた。場所は佐藤聖羅の要望でうちの学校になった。何でわざわざ学校で会おうとしてくるのか分からなかったけど、私も久しぶりに学校に行きたい気分だったから満場一致で学校に決まった。
「にしても佐藤聖羅はどうやって校内に入るんだろう」
部活動があるから土曜でも校舎は開放されてると思うけど、関係者でもない佐藤聖羅が無断で入るなんて問題になり兼ねない。そうなったら佐藤聖羅を校内に入れた私も責任を問われたりしそうだよな。そしたら停学処分かはたまた退学処分?それだけは嫌だなぁ。
「……」
私は、ちゃんと高校を卒業出来るんだろうか。
「……みんなと一緒に卒業したかったのにな」
「もうクラスメイトはほぼ残っていない」という事実がリアルに頭の中に浮かび上がってきた。クラスメイトのほとんどはもうこの世に存在すらしていない、という実感が湧いてきて、私はそっと目を瞑った。
憂鬱な気持ちのまま、その日はあっという間に終わってしまった。
翌日。私は約一ヶ月ぶりに制服に腕を通した。ずっと部屋に脱ぎ捨てたまま放置していたから、シワと埃まみれで少し見栄えが悪かったけど、洗濯する気にもなれなかったのでそのまま身に着けた。
家を出て、駅までの道を歩いていく。ホームに入ると、久しぶりに通学に使っていた線の電車に乗り込んだ。本来ならサラリーマンや学生で溢れ返っているぎゅうぎゅうの満員電車だけど、今日は土曜日の午後だからそこまで混んでいなかった。人は疎らで椅子も空いていたから、隅の方に座らせてもらった。
学校に通ってた時のように、イヤホンで好きなバンドの曲を大音量で脳に流し込む。久しぶりだったからか乗り過ごしそうになってしまい、慌てて学校の最寄り駅で降りた。
改札を出てしばらく歩くと校舎が見えてくる。私は思わず一度立ち止まって校舎を見上げた。
「うわ〜……」
何故か緊張感が襲ってきて脚ががくがくと震え出す。
「弓槻とか橘さんって、久しぶりに学校に来た日はこんな気持ちだったのかなぁ……」
だとしたら物凄い勇気を出したんだろうな。私はそんなことを思いながら再び歩き出した。
校門は開いていたので簡単に入れた。玄関でローファーから上履きに履き替え、静かな階段を上っていく。
「てかどの教室に行けばいいんだろ」
佐藤聖羅は「学校」って言ってただけで「どこの教室で会うか」は何も指定してこなかった。もしかしたら新しくメッセージが入っているかも、と思ってDMを開いてみたけど、特に何も届いていなかった。
「はー。」
まぁいいや、先に着いたってことだけ知らせておこう。
ちょっとだけ学校の中を回りたい。爆発事故が起きたあの教室は、今どうなっているんだろう。
私は四階まで階段を駆け上がった。
誰も居ない廊下を歩いていく。あの教室に一歩近付く度、心臓の鼓動はどんどん速くなっていく。何度も深呼吸をしてみたけど効果はなかった。このまま口から心臓が飛び出してきてしまいそうだった。
「……あれ、」
ふと通り過ぎようとした教室に人影が見えた気がした。その教室だけ電気が付いている。そしてその教室は、爆発事故が起きた教室の隣だった。
「何だろ……」
立ち止まって教室の中を覗き込む。確かに二人の生徒が中に居た。見覚えのある長い黒髪の少女が二人。……え?
私は思わず忍者みたいにドアに張り付いた。ガラスの向こう側に居たのは、橘さんと、車椅子に座った真中ちゃんだったのだ。
「何で」
私は思わず小さな声で呟いた。二人は何やら口を動かして喋っている。声が籠っていて会話の内容は聞き取れなかった。
心臓がどくどくと音を立てる。手汗がじっとりとドアに張り付く。息を殺して、耳をすまして、二人の会話を必死に聞き取ろうとした。
「…………」
耳をガラスに貼り付けても何も聞き取れなかった。
「うっわ」
いきなり体が前に傾いた。私はそのまま床に倒れ込んだ。
「いった……」
慌てて肘をついたから肘の骨がじんわりと痛くなった。
「……首藤さん」
名前を呼ばれて顔を上げると、冷たい目で私を見下ろす橘さんが目に入った。教室の奥では、驚いた表情の真中ちゃんが私を見ている。
「何してんの?」
そこでやっと、橘さんがドアを開けて、体重を掛けていたせいで転んでしまったのだと理解出来た。
「あ、はは……」
私は上半身を起こして愛想笑いを浮かべた。それでも橘さんは不機嫌そうな顔で私を見下ろし続ける。
「何で首藤さんがここに居るの?」
「え、いや、それはこっちの台詞だって」
「……真中に呼び出されたんだよ」
橘さんはそう言って真中ちゃんを見る。
「え……」
「この前アリスさんの病室で話してた会話、全部こいつに聞かれてたって。」
橘さんはそう言って顎で真中ちゃんを指す。
「うそ……」
真中ちゃんを見ると、「やっぱりりんねちゃんも知ってたんだね」って顔をした。
「こいつ、早めに処分しないと面倒なことになるよ」
橘さんはそう吐き捨てた。そして教室のドアを閉める。
「ね、首藤さん。どうしよっか。」
逆光のせいで真っ黒になった橘さんが、私をじっと見据えていた。
心臓がどくどくと小さな音を立てる。私は私を睨むように見詰める橘さんと不安そうな目で私を見上げる真中ちゃんを交互に見た。
「待って、待ってよ!?何で私に訊くんだよ!?」
二人の視線に耐え切れず、私は思わずそう叫んだ。それでも橘さんは黙って私を見詰め続ける。
「処分とか気早すぎだって!会話聞かれてたからってそんなに慌てることないじゃん!」
「情報が流れたら終わり。私もアリスさんも、首藤さん、あなただって処分されることになるんだよ。それに結局こいつも処分されるだろーし。こいつと三人が処分されるくらいなら、こいつ一人が処分される方が断然マシでしょ。」
「いやいやいや、真中ちゃんって口硬そーだし大丈夫でしょ!」
そう言ってちらりと真中ちゃんを見る。
「こいつ全部ネットに流すって。」
そして橘さんがすかさずそう言う。
「……え」
驚いて真中ちゃんを見るけど、何も否定してこなかった。
「嘘だよね、真中ちゃん?他人になんか喋る気なんてないよね?」
口角がふるふると小刻みに震えた。それを無理矢理引き上げて私は愛想笑いを浮かべる。お願い、「うん」って言ってよ!
「喋るよ。ネットにも書き込むし、インスタでも拡散する。」
そんな私の願いを真中ちゃんは簡単に裏切ってきた。私は頭の中がバキバキに割れてしまったような感覚になった。目の前が真っ白になる。頭が痛い。
「だそーです。ほんとに自分勝手だよね、救いようがないね」
橘さんは真中ちゃんを鼻で笑って窓の方へ歩いていく。
「ねぇ真中ちゃん何で?拡散なんてしようとしなければ真中ちゃんは助かるんだよ!?なのに何でわざわざ煽るようなこと言うの?」
「りんねちゃんはおかしいと思わないの?一人の勝手な都合のせいで大量に人が死んで、世間は何も言わない。そんなの絶対おかしいでしょ!」
真中ちゃんはそう喚き散らかした。まるで昔の自分を見ているみたいな気分になった。何も知らなくて、ただ自分は理不尽に死ぬんだと被害妄想していたあの頃の私だ。不快な気持ちになって、私は顔を歪める。
「誰のせいだと思ってんの?」
そして気が付いたら、口から勝手にそんな言葉が飛び出していた。
「元はと言えば真中ちゃんが橘さんの変な噂流したのがいけなかったんでしょ?」
私は顔を引き攣らせて笑う。真中ちゃんは目を見開いて私を見上げる。窓辺の橘さんもちらりと私を見ていた。
「真中ちゃんのせいで今までどれだけ大変だったと思ってんの?真中ちゃんが知らないところで私だけいっつも……」
私はそこで言葉を詰まらせた。喉の奥から何かが込み上げてきたのだ。それと同時に瞳からじんわりと涙が滲み出てくる。
「それは奈那がクラスを売ったのがいけないんでしょ!?」
「だから真中ちゃんがあんなことしなければ橘さんもこんなことしなかったんだよ!」
「でもうちのクラスを売ったのは奈那だけじゃない!もう一人いるんでしょ?その子がクラスを売った原因はきっと私じゃない!」
「他に誰か居たら真中ちゃんの責任はなくなるって言うのかよ!?」
「じゃあ何で私だけこんなに責められなきないけないの?私怪我して脚はもうないんだよ?それだけでもう充分報いは受けたでしょ……」
涙声で真中ちゃんはそう捲し立てた。
「もう充分反省したよ。もういいでしょ?許してよ奈那。」
そしてしくしくと泣き出してしまった。けど、橘さんはそんな真中ちゃんを見下すように睨み付けるだけだった。
「……許さない。私はあんたが死ぬまで稼いだ全財産をくれるって言ったとしても、私が病気になった時臓器を提供してくれたとしても、あんたが死んだとしても、絶対に許す気なんてないから。」
橘さんの声は震えていた。逆光のせいで表情は見えないけど、きっと橘さんも泣いている。
三人の鼻を啜る音だけが聞こえる。私達は互いに視線を逸らし合った。
「……別に私だって元々真中のこと嫌いだったわけじゃないじゃん。」
静寂の末、橘さんがぽつりと呟いた。それを聞いた真中ちゃんは、俯いたままぴくりと体を動かす。
「むしろ好きだったし。てか一番の親友だったし。」
真中ちゃんは眉を顰めて膝の上の拳を見据える。
「それを壊したのはあんたの方でしょ?」
「それはああでもしないと私のことバラされると思ったの!怖かったの!」
真中ちゃんが叫ぶ。
「もしみんなに援交してることがバレたら生きてけなかったんだもん……」
「は?だからって私が生きていけなくなってもいいと思ったの?」
橘さんも負けじと言い返す。
「てかバラそうなんて一ミリも思ってなかったんですけど。あんたの勝手な被害妄想が生んだんだよ、全部全部。」
橘さんは目をたっぷりと涙を浮かべて、精一杯真中ちゃんを睨み付けた。
「私があの日援交してるとこを見たってあんたに伝えたのは、辞めさせたかったからだよ。友達があんなことしてたら辞めさせたいって思うのは普通でしょ」
「余計なお世話だし。」
「は?」
橘さんはまるでゴミでも見るような目で真中ちゃんを見る。
「何?もしかして好きであんなことしてたの?」
「そうじゃなくて!私のことを思ってたんなら気付かないふりしてくれれば良かったんじゃん!盗撮までされてたらそりゃバラされるかもって疑うでしょ!」
「証拠見せなかったらあんたはしらばっくれるつもりだったんでしょ?」
「そりゃそーでしょ、バレたくないし!てか何なの、何でそこまでして止めようとしてきたの?」
「真中が心の支えだったんだよ、当時の私は」
橘さんはそう言ってつかつかと歩いていくと、ずいっと真中ちゃんに顔を近付ける。二つの竜巻みたいな毛束が頬の横にだらんと垂れている。
「だから真中が自分を安売りみたいにしてんのが許せなかった」
真っ黒の小さめな黒目が真中ちゃんだけを捉えていた。橘さんは瞬きもせずに淡々と喋る。
「……そうだね。全部私の自己満足だったかもね。でも結果あんたのせいで私は中高でいじめられる羽目になった。私にも少し非はあったとしてもあんたが9.9割悪いでしょ」
橘さんはそう言うと、ツインテールを振り払って顔を上げた。そしてじろっと私を睨み上げた。
「アリスさんも怪我なんかしてもう使えないし、真中は私が殺/す。どうせこれから魔女になるんだし、別にいいよね。」
綺麗に羅列した下睫毛にふと視線を奪われる。が、すぐにはっと我に返って慌てて首を横に振った。
「いやいや、取り敢えず落ち着こ?勝手なことしない方がいいと思うけど!」
「だってこいつバラすつもりだよ。」
「でもさぁ……!」
「もういいよ、首藤さんは黙ってて。元々一人で全部やるつもりだったし。てか首藤さんは何で休みなのに学校来てんの?」
橘さんは不愉快そうな顔で私を睨み続ける。私は思わずその視線から逃れるように顔を背けた。すると今度は真中ちゃんが視界に飛び込んでくる。それもまた気まずくて、また視線をずらす。
「佐藤聖羅に会う約束だったの。あの人がうちの学校で会いたいって言うから待ってただけ。」
「今から会うの?」
橘さんの目がきらりと光る。
「ねぇ、私にも会わせてよ。もう一人のうちのクラスを売った子、誰なのか知りたい」
らんらんと目を輝かせて橘さんはそう言う。
「別に私はいいけど……。でも約束の時間とっくに過ぎてるしほんとに来るかどうか分かんないんだけど」
教室の時計を見ると、約束していた時間から三十分近く経っていた。スマホを見ても何も通知は来ていない。もしかして私、すっぽかされた?
「じゃあさとーせいらが来る前にこいつ片付けちゃお。」
「いやいや待って?何でそうなるの?」
「だってこのまま帰したら確実にバラすよ、こいつ」
「でも勝手なことしない方がいいって――!」
「動かないで。」
真中ちゃんのその声で、私達はぴたりと動きを止めた。そして同時に真中ちゃんの方を見る。
真中ちゃんは車椅子の向きを窓の方に向けて、橘さんにスマホを画面を突き付けた。
「これ。もし動いたら、これ投稿しちゃうから。」
真中ちゃんはそう言うと、私にも画面を見せてきた。
「っ!」
ストーリーの画面に、魔女についての秘密が事細かに書き込まれていた。
「そうなったら困るんでしょ。だったら帰らせて」
「……脅してんの?」
「そうだよ」
真中ちゃんと橘さんは睨み合う。
「帰らせたらバラさないの?どうせバラすんでしょ?」
「どうせ私は死ぬんでしょ?だったらバラしてから死んでやるから」
「だからあんたがバラそうとしなければいいんだよ!」
橘さんが真中ちゃんに掴み掛かろうとする。
「ほんとに拡散するから――」
ガラッ!勢い良くドアが開き、壁にバウンドして大きな音が鳴った。
「――え」
橘さんが顔を上げるより、私が振り向くより早かった。真中ちゃんの首元に、薄汚れたベージュの縄が飾られていた。
「は」
誰かが真中ちゃんの背後でにんまりと笑っていた。
「はーいそこまで。マナカチャン、だっけ?スマホを捨てな」
男性のようなハスキーな低い声でその人はそう言う。
「だ、誰」
真っ青な顔で真中ちゃんはがくがくと震えた。でもスマホは手から離さない。
「質問する前に人の言うことちゃんと聞きなよ。」
そう言うと、その人は真中ちゃんの手から無理矢理スマホをひったくった。
「私もほんとはこんなことしたくないんだけどねー。自分の手で人を殺/すとか。でもあなたが悪いんだよ、確実な情報をネットに流すのは規約違反だからね。」
その人はにっこり笑って縄の端を真中ちゃんの目元にチラつかせた。
「待って待って待って、違う違う言わない!言いませんから!やめて!」
真中ちゃんは気が狂ったように首を四方八方へ振り回した。
「今更死ぬの怖くなったの?だめだよ、あの世でちゃんと反省しな」
「ごめんなさい、許して奈那!お願い!ごめんなさい!」
その人は必死に許しを乞う真中ちゃんを無視して、ぐっと手に力を込めた。呆然と立ち尽くす橘さんが、口を開けて何かを言おうとした。
「よいしょ!」
そして、その人は力一杯縄を引っ張り上げた。
私は反射的にそれから目を逸らした。ギチギチギチと何かがきつく締め上げられる音ははっきりと聞こえてきた。それに混ざって、たまに聞こえてくる真中ちゃんの苦しげな嗚咽のような声。私は思わず耳を塞いだ。
次第にそれも聞こえなくなり、教室は静寂に包まれた。
「……ははっ」
橘さんが小さな声で笑った。それを合図に、突然教室に入ってきたその人は縄から手を離した。
「うん、もう死んだね」
そう言って真中ちゃんの顔を覗き込み、首筋に手を当てた。
ふー、と溜め息を吐き、その人は真中ちゃんの首から縄を取り除き、机の上に放り投げた。
「あー。自己紹介遅れたね。私が佐藤聖羅です。」
最悪の登場を果たした佐藤聖羅が、にんまりと目を細めて笑った。
「どっちがりんねちゃん?」
佐藤聖羅は私と橘さんを交互に見ながらそう言う。私は無言で手を挙げた。
「こっちの子は?この様子だと、アリスが担当してた方の新人魔女さん、かな?」
橘さんは無言で頷いた。
さっきから黙りこくっている私達を見て、佐藤聖羅は苦笑いしながら頬を掻いた。
「あー。流石に目の前でやるのは刺激強めだったか。ごめんごめん」
佐藤聖羅は苦笑いしながら今度はぽりぽりと頭を掻いた。
私はそんな佐藤聖羅をじっと見詰めた。
佐藤聖羅はまるでインスタの中からそのまま出てきたみたいに綺麗だった。どうせ戸川さんみたいに加工強めで現実とはまるで別人なんだろうな、と思ってたけど全然そんなことなかった。実物も滅茶苦茶に可愛かった。
ちょっと面長気味の輪郭に、派手な柄のフチありの大きなカラコン。二重幅は狭めだけどしっかり平行二重で、涙袋も幅は小さめだけど目の縦幅がとても大きいのが印象的だった。ピンクのアイシャドウが元の目の大きさをよく際立たせている。鼻は真っ直ぐで細長く高さもあり、薄めの唇にとても合っている。顎下まである長めの茶髪のボブは綺麗に内巻きになっており、少し厚めの前髪もきちんと巻かれている。顎には白の不織布マスク。身長は170センチくらいあるんだろうか。更に厚底のヒールを履いているから、185センチくらいあるように見える。
声は男性のようだけど、その見た目は完全に可愛い女性だった。
「さて、取り敢えずこの子が情報を拡散してないか調べてみますか」
佐藤聖羅はそう呟くと、床に転がっていた真中ちゃんのスマホを拾い上げた。画面はついたままだったので簡単に操作出来た。
「うん、うん、うん……。TwitterとLINEとストーリーの履歴とChromeの履歴見る限りは大丈夫そうだね。……あれ」
佐藤聖羅ははたりと指の動きを止め、顎に手を添えて口を窄めた。
「何かメモに書いてあるよ。ナナチャン?ってあなた?」
「え……」
戸惑う橘さんに佐藤聖羅はスマホを渡した。
「何かあなたにメッセージがあったみたいだよん」
橘さんは言われるままにスマホの画面を見た。ゆっくりとスクロールしていく度、橘さんの目は大きく見開かれていく。
「何これ……」
そう言う橘さんの目玉は零れ落ちてしまいそうだった。
「何て書いてあったの?」
私が尋ねると、橘さんは無言でスマホの画面を私に見せてきた。
『奈那へ
今更だけど、どうしても伝えたいことがあるからここに書きます。
まず、あの日嘘の噂を流したりしてごめん。奈那に援交のことがバレてたのがショックで、びっくりして、思わず友達に言っちゃった。言ってすぐ最低だと思ったのに、撤回する前にどんどん広まっちゃって、どうしようもなくなっちゃった。
そんなの奈那に取ってはただの言い訳かもしれないけど、私は毎日毎日後悔してた。どこに居ても何をしても、いつもあの噂のことだけが頭の中に張り付いてた。
ずっと謝りたかったけど、タイミングも分からないし私なんかと話したくないだろうなって思ってずっと言えなかった。だからこの前病院に来てくれた時、少しだけ嬉しいと思ったんだよ。結局私は保身のためにあんな態度取っちゃったけど。
きっとまた面と向かったらムキになって素直に謝れないと思うから文面になっちゃったけど、ほんとにごめんなさい。
もう私のことなんて信じられないかもしれないけど、これだけは信じて。高校にまであの噂を持ち込んだのは私じゃないです。』
全て読み上げて、私は思わず橘さんの顔を見た。橘さんは口を半開きにして小刻みに震えていた。
「高校でもあの噂流したのって、真中じゃなかったの?」
小さな声でそう呟くと、橘さんは真中ちゃんの亡骸へ歩み寄った。
「ねぇ何なの?今日呼び出したのはこれを見せるためだったの?」
勿論、真中ちゃんは何も反応しない。
「誰なんだよ!」
橘さんは近くにあった机をぶん殴った。
「出てこいよ!」
椅子を蹴り飛ばす。
そして、声を漏らして泣きじゃくった。
「あーあ、泣いちゃったよ。ほら、出てこいよだってー」
そんな橘さんを見て、佐藤聖羅が半開きのドアに向かってそう叫んだ。
「……え?」
私と橘さんは同時にドアの方を見た。
「……」
ドアの影から、ゆらりと誰かが現れた。
「……?」
雫萌高校の制服だ。スカートを何回か折っている。体型は私より小柄ってくらい?手足はしなやかで白い。
「……!」
ふわりと揺れるボブが視界に飛び込んできた途端、私の全思考はフリーズした。
「……私だよぅ」
その特徴的な語尾を聞いた途端、頭から血の気が引いていった。私はガタリと音を立てて机に手をついた。
「りんね……」
「ねぇ何で?」
私は乾いた笑いを漏らして天井を仰いだ。
「何でそこでしみずが出てくんの?」
気が遠のきそうだった。
でも、ここにしみずが居るってことが、何よりの証拠だった。
「ほんとにしみずだったんだ」
涙がぽろぽろと零れた。しみずはスカートの裾を握り締め、口を噤んで俯いていた。
「何だよ、もう何なんだよ……」
脳味噌に泡立て器を突っ込まれてぐちゃぐちゃに掻き混ぜられたみたいな感覚だった。
「これで全員揃ったね。そろそろあいつも来る頃だよ」
佐藤聖羅はにまにまとほくそ笑みながら私達を見回す。
そして慌ただしい足音がどんどん近付いてくる。佐藤聖羅やしみずが入ってきたのと反対側のドアが開いた。真っ白の綺麗な髪が乱れている。
「りんねちゃん……。」
ドアに手を当てて肩で息をするアリスさんが、佐藤聖羅を睨み上げていた。
「……奈那ちゃん。」
アリスさんは拳を机に乗せてしゃがみ込んでいた橘さんを見て目を見開いた。
「その子が来たのは偶然だけど、生き残ってる子はみんな揃ったよ。だらだら長引かせても仕方ないよ、もう終わらせよう、アリス。」
佐藤聖羅はそう呟くと、アリスさんを教室の中に入れてドアを閉めた。
張り詰めた空気の中、そこに居る五人は綺麗な五角形を描いて見詰め合った。
アリスさんと佐藤聖羅が、真中ちゃんの遺体を引き取るようにと誰かに連絡を入れた。私達はその人達が来るのを待ちながら、隣の教室に移動した。
「流石にあそこに長居するのも気分悪いしね」
佐藤聖羅はそう言いながら笑っていた。
私達はそれぞれ椅子に腰掛けた。何となくお互い距離を空けて。
「……りんね。さっき『ほんとに』って言ってたけど、いつから気付いてたの?」
窓際の前の方の席に座ったしみずが、真ん中の列の一番後ろに座っている私に体を向けてそう言ってきた。私は何となくしみずの顔を見れなかったので、黒板を眺めながら答えた。
「爆発事故が起きて割とすぐ。最初にしみずを疑ったのはアリスさんだった」
「そっか。」
しみずはどこか寂しそうな声でそう呟くだけだった。
「爆発事故が起きる前、りんねちゃん達のクラスメイトが不審死していったことがあったけど、あれはもしかしてしみずちゃんがやってたのかな。」
アリスさんがそう尋ねると、しみずは無言でこくんと頷いた。
「……やっぱり。もし聖羅がやってたとしたら、私がやったことにはなってなかったもんね。」
「そうそう、びっくりだよ。まさか自分が売ったクラスメイトを自分で処理しちゃうなんて」
佐藤聖羅はギシッと音を立てて椅子に寄り掛かる。
「何でそんなことしたの?」
私はぶるぶると震える拳をバレないように机の下に隠した。握り締めた手のひらに汗が滲んでくる。……しみずが、あの小さな手でクラスメイト達を殺してたんだ。その事実に震えが止まらなかった。
「……弓槻さんがクラスの誰かが魔女と取り引きしているところを目撃したって言った時、おかしいなって思ったの。だって私が魔女にクラスを売ったのは、入学して間もない時だったから。
だからすぐにもう一人うちのクラスを売った人が居るんだって分かった。きっと私も売られたんだと思ったら、やられる前にやってやろうって思ったんだ」
……やっぱりあの時だったんだ。沙里と珠夏が死んだ日の廊下でのやり取り。あの時、既にしみずは全て気付いてたんだ。
「入学してすぐ、って、何で知り合ったばかりのクラスメイトを売ろうと思ったの?」
声がどんどん震えていく。掠れてしまっていたから上手く聞き取ってもらえただろうか。
「……幼馴染みに会いたかったの。」
しみずは泣きそうな声でそう言った。その声を聞いて、私はやっとしみずの顔を見ることが出来た。
「幼馴染みが施設送りになったの。」
これまた泣きそうな顔で唇を噛むしみずを見て、胸がぎゅっと痛くなった。
いくら非道いことをしてきたとしても、目の前に居るのは紛れもなく私が知ってるしみずだった。
「ネット依存症だった幼馴染みは、興味本位で魔女についての都市伝説を調べ始めた。次第にネットの情報だけじゃなくて、実際に魔女とコンタクトを取ろうとし出した。そこで止めてれば良かったんだけどね。気が付いたら強制的に施設に入れられて、それから連絡は途絶えちゃった。」
「……それだけのために、何の関係もないクラスメイトを売ったってことかよ?」
私がそう言うと、しみずはばっと顔を上げてぶんぶんと首を横に振った。
「何が違うんだよ」
「違くないけど……!」
「『施設送りになった幼馴染みに会いたい』って、そんなのしみずも真相に近付いて施設に送られれば良かった話じゃん。」
「だって怖かったんだもん!無理矢理連れてかれて何されるか分からないし。だったら『魔女』として正式に入る方が良かったんだもん……」
「は、ははっ……」
思わず笑いが込み上げてきた。しみずの「幼馴染みに会いたい」、たったそれだけのためにクラスメイトが大勢死んだんだぞ?
「しみずの勝手な都合に私達を巻き込むなよ!何考えてんだよ、友達だと思ってたのに!」
涙を飛び散らしながら私は叫んだ。
「全部嘘だったんだな。いつもにこにこしてバカみたいに優しくて、自分のせいで死ぬって分かってる奴とつるんで。どんな気持ちだったんだよ!」
「嘘じゃないよぅ!りんねは本当に友達だと思ってた!ほんとはこのクラスを売るって決めてから誰とも仲良くなるつもりはなかったんだよ。だってそしたら悲しいでしょ?でもりんねはひとりぼっちだった私に話し掛けてくれた。」
「私のせいだって言いたいのかよ?」
「違う!嬉しかったんだよ!だからもう手遅れかもしれないけど、りんねだけは絶対に死なせないから!」
しみずは必死にそう叫ぶ。私は頭を抱えて机に伏せた。色んな感情が混ざり合って、相変わらず頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「……待ちなよ。あんたさっきあのタイミングで登場したってことは、私の噂を高校で流したのはあんたってことだよね?」
さっきまで一言も喋っていなかった橘さんが、静かな声でそう言いながらゆらりと立ち上がった。
「ふざけてんの?てかお前誰だよ?」
「待って、噂って何の話?」
ガタンと盛大な音を立てて橘さんは椅子を蹴り飛ばす。
「しらばっくれてんじゃねーよ!私が援交してるって噂、高校にまで流したのお前なんだろ!」
「知らない!そんなの知らないよぅ!」
「じゃあ何でこいつのこと呼んだんだよ!」
橘さんはそう言って佐藤聖羅を睨む。佐藤聖羅は机に頬杖をつきながらにやにやと笑っている。
「あそこでしみずちゃんが登場したら面白くね?って思っただけだよん」
「じゃあ橘さんの噂を広めたのはしみずじゃなかったってこと?」
「何それ、そんな話今初めて知った……」
しみずはきょとんとしながらそう言った。どうやらほんとに何も知らなかったみたいだ。
「マナカチャンだっけ、あの子が許してほしいがために吐いた嘘かもしれないよ。ほんとは全部あの子が広めてたかもしれないし。本人も他のクラスメイトも死んじゃったからもうほんとのことは分からないね」
佐藤聖羅は楽しそうににこにこしながらそう言った。
「ふざ、けんなよ……」
橘さんは虚ろな目で膝からがくんと崩れ落ち、机に額を打ち付けた。何度も何度も硬い音が教室に響き渡る。
「奈那ちゃん。」
アリスさんがそんな橘さんに歩み寄り肩を抱く。
「触んないでよ!」
橘さんはそれを振り払おうとする。
「望んだ通りみんな死んだのに!何でこんなにもやもやするんだよ!後悔なんてしてないはずなのに……!」
橘さんの肘がアリスさんのお腹に当たる。アリスさんは短い呻き声を上げてお腹を抱えて蹲る。
「奈那ちゃん……。」
脂汗を流しながらアリスさんは小さな声で呟いた。
隣の教室から、誰かが喋る声が聞こえてくる。何かを指示し合い、ガラガラと車輪が転がる音がどんどん遠ざかっていく。
「アリスさん、大丈夫ですか?」
私は苦しそうにお腹を抱えるアリスさんに近付いてしゃがみ込んだ。もしかしたら、さっきの橘さんの一撃で傷口が開いてしまったかもしれない。
「大丈夫だよ。ちょっと痛かったけど。」
アリスさんはそう言いながらお腹から手をどけた。血が滲んだりはしていなかった。
「それより奈那ちゃんを……。」
アリスさんは心配そうな顔で橘さんを見る。橘さんは机の脚を握りながらガタガタとそれを前後に動かしていた。
「もうだめだよ、その子は。完全に壊れちゃってる」
佐藤聖羅はそんな橘さんを眺めながら気だるそうにそう言った。
「橘さんは、その噂話が原因でクラスメイトを売ったんだね」
しみずはぽつりとそう言うと、目を閉じて俯いてしまった。
「にしても今回は失敗だったよねー。」
佐藤聖羅がわざとらしい大きな声でそう言った。
「威力弱めだったからかな、数人生き残っちゃったもんね。そのせいでわざわざ病院まで行って処理し直したし。誰だっけー、あの大人しそーな子」
「……それ、華乃ちゃんのこと?」
「そーそー確かその子!」
佐藤聖羅は嬉しそうに私を指差しで手を叩いて笑い出した。
「……だからしみずは華乃ちゃんも生き残ってたって知ってたんだね」
ちらりとしみずを見る。しみずは顔を上げずに静かに唇を噛んだ。
「でもやっぱり一番効率いいのは爆弾なんだよね〜。あくまで『事故』として処理しやすいし。」
そう言って、まるで馬鹿にするようにちらりと横目でアリスさんを見る。
「だからアリスのやり方は気に入らなかったんだよ。一人ずつ殺してたら周りに勘づかれて面倒になるじゃない。だから逆恨みされて刺されたりするんだよ」
アリスさんは無表情のまま唇をわなわなと震わせて佐藤聖羅を睨む。
「売られてない子を巻き込んだあなたにそんなこと言われたくない。」
「はー、まだあんなの根に持ってんの?あれは仕方なかったじゃん。一人や二人死人が増えたところで変わんないでしょ」
「売られてない人を殺/すのはただの犯罪でしょ。それにあなたはそのせいで魔女の権利を失って施設送りになってたはず。どうしてまた魔女に戻ってこれたの。」
「まぁ今回のは特別だからね。私はただの別の魔女の代理だから。
頼まれたんだよ、『自分はこのクラスの魔女にはなれないから代わってくれ』って」
「それがあの人だって言うの。」
アリスさんと佐藤聖羅は睨み合う。それを遠くで見ながら、私は頭の上に大量のはてなマークを浮かべた。
「だって流石に無理でしょ。あの人にだって人の心はあるんだね。でもかわいそー、結局誰が魔女やっても死ぬ結果は変わらないんだからね」
「ちょっと黙って。」
「はいはい。でも結局知るんだから先にバレたっていいでしょ」
「それだけは絶対に言わないでって言ってるでしょ。」
アリスさんは立ち上がり、よろよろとおぼつかない足取りで佐藤聖羅に近付いていく。佐藤聖羅は満面の笑みでアリスさんを見上げる。
「でもさー、知らないのって逆に可哀想じゃん?てかほんとにりんねちゃんは何も知らないの?」
「?何がですか?」
「えー?」
佐藤聖羅はにやけながら私を見る。
「いいこと教えてあげるよ。元々しみずちゃんの担当だった魔女はねー……」
「やめて!。」
今まで聞いたこともないくらいの声量でアリスさんが叫んだ。佐藤聖羅の口元に手を伸ばす。でも遅かった。佐藤聖羅は手が触れる寸前で立ち上がり、軽やかに回避した。
「首藤蘭子(すどうらんこ)。りんねちゃん、あなたのお母さんだったんだよ。」
「え……」
全身から一瞬で全ての血の気が引いていった。
有り得ないほどの速さで心臓が鼓動を刻んでいく。だらだらと嫌な汗が全身を伝っていく。視界がブレる。今私の体は震えてるんだろうか。それすらも上手く認識出来なかった。
「何してんのよ。」
アリスさんは佐藤聖羅に馬乗りになる。ガタン、と盛大な音を立てて二人は床に倒れ込んだ。
「今自分が何したか分かってんの。」
アリスさんは力いっぱい佐藤聖羅の髪を引っ張り上げる。
「きゃーっ!何すんのよ、千切れちゃうじゃない!」
佐藤聖羅は甲高い悲鳴を上げながらアリスさんの腕を掴んで必死に抵抗する。茶色い髪の毛が何本か千切れはらはらと床に散らばった。
「今回だけは絶対に許さない。」
アリスさんは涙を流しながら足で佐藤聖羅のお腹辺りを蹴る。
「りんねちゃんに今すぐ謝ってよ。」
何度も何度も弱々しい力で、爪先で佐藤聖羅のお腹を蹴り続ける。そんなアリスさんを見て、佐藤聖羅は口を歪ませて笑った。
「はっ、何自分が殺/すかもしれなかった奴なんかに情湧かせてんだよ。そんなにあの子が大事?そっかぁー、アリス人から優しくされ慣れてないもんね。ちょっと協力してくれたからってすぐ好きになっちゃうんだ」
佐藤聖羅は煽るようににやにや笑いながらアリスさんの顔を見上げる。アリスさんは歯ぎしりをしながら佐藤聖羅を見下ろす。
「私やっぱりあなた嫌い。……私がクラスを売ったあの時、あなたの爆弾のせいで無関係だった親友が巻き込まれて大怪我したのも、面白がって奈那ちゃんの気持ち弄んだのも、りんねちゃんを傷付けたのも、全部許さない。」
「えー、あんな昔のことまだ根に持ってたんだぁ。許さなかったらどうすんの?私を殺/すの?そしたらあんたも私と同類だよ」
佐藤聖羅はそう言って拳を握り締める。それを見たアリスさんは、一瞬体を硬直させる。
「……ハンデ負ってる女に攻撃なんてしないよ。一応私にも男としてのプライドあるし?」
「は?男?」
私は思わず素っ頓狂な声で呟いた。そんな私を見て、佐藤聖羅は目をキラキラと輝かせた。
「えー、りんねちゃんもしかして気付いてなかったの?きゃー嬉しー!やっぱり私どこからどーみても美少女だよね?」
嬉しそうに笑うその顔はどう見ても女性だったけど、そう言うその声は確かに男性そのものだった。
「てかさー。りんねちゃんほんとに知らなかったの?自分の親が魔女やってるって」
佐藤聖羅は上体を起こしてアリスさんをどける。そしてぼさぼさになった髪の毛を掻き上げながら、ゆっくりと机と机の間を縫うようにして私に歩み寄ってくる。
「それとも知らないフリしてただけ?」
ずいっと佐藤聖羅の顔が目の前に現れる。整った左右対称の白い顔が視界いっぱいに広がる。乱れた前髪が片目を隠している。
私は必死にぶんぶんと首を横に振った。
「ほんとに知らなかったし……」
思わず瞳に涙が滲んでくる。
「てかそれってマジなのかよ」
「うん。だって私が高校生の時、りんねちゃんのお母さんにクラスを売ったんだもん。」
間髪入れずに満面の笑みで佐藤聖羅はそう言った。
「それっていつ……」
「えー。それ言ったら年齢バレちゃうから言わなーい。まー大体五、六年前くらいかな?」
頭がクラクラしてくる。じゃあお父さんが出てった頃には既に魔女になっていたってことじゃん。もしかしてそれが原因でお父さんは出ていったの?いや、もしかしたらそれよりずっと前から?だってお母さんも誰かを魔女に売ってたってことになる。私が産まれる前から、お父さんと結婚する前からだったかもしれない。
「やだ……」
私は自分を守るように頭を抱えた。
「私もまさかこんな偶然が起きるなんて思わなかったな。あの時私を助けてくれた蘭子さんの娘が蘭子さんに売られちゃうなんて。」
佐藤聖羅は恍惚とした表情で宙を見る。
「蘭子さんは私の神様だから……」
そう呟くと、私に視線を戻してくすりと笑う。
「だから私は蘭子さんのお願いを聞いてしみずちゃんの魔女になったんだ。やっぱり蘭子さんって優しいよね、娘を自分の手で殺/すのを拒否したってことなんだから。娘思いのいいお母さんだよね」
佐藤聖羅の笑顔がどんどん近付いてくるような感覚になった。そのまま私の目の中に入り込んできて、脳味噌全体を支配していく。じわじわと広がっていくようなその感覚から逃れるように、私は思わず目を瞑った。
「でも良かった。しみずちゃんも奈那ちゃんもりんねちゃんを助ける気みたいだし、蘭子さんが悲しまなくて済むよ。……でも」
佐藤聖羅はぐるりと首を回転させて振り返る。ずっと俯いて黙っていたしみずを、冷めた目で見る。
「しみずちゃん。君は重大な規約違反を犯してたみたいだね。」
しみずはゆっくりと顔を上げる。
「……え?」
不思議そうな顔で佐藤聖羅を見る。
「何で?って顔してるね。分からないかな、君はクラスメイトに精神的苦痛を与えられたわけでもないのにクラスメイトを売ったよね?」
佐藤聖羅は私から目を離し、今度はしみずに近付いていく。
「この制度が作られた意味を知らなかったのかな?それにしても酷いよねぇ、何も悪くない人を売るのはただの人殺しだよ?」
しみずは有り余ったシャツの袖で口元を抑える。
「運がいいね。奈那ちゃんがもしこのクラスを売ってなかったら、しみずちゃんはもっと大変なことになってたよ。処分なんて生ぬるい、一生苦しみながら死ぬことになってたかもね」
しみずは怯えるようにがたがたと震え出した。そんなしみずを見下ろして、佐藤聖羅はははっと小さく笑った。
「まぁ、私に断りも入れずに勝手にクラスメイトを殺していったんだから、それなりの処罰は受ける覚悟だよね。」
「……」
しみずは固く口を噤む。
「でもよく誰にもバレずにやったよね。魔女の素質はあったんだろうから勿体ないなぁ。」
「ねぇ。」
視界の右端でゆらりとアリスさんが立ち上がった。
「ゆずはちゃんの妹……弓槻ゆずかちゃんを殺したのも、しみずちゃんなのかな。」
アリスさんはだらりと垂れ下がる白い髪の隙間から、しみずと佐藤聖羅を思いっ切り睨み上げた。しみずはそんなアリスさんから視線を逸らし、一瞬躊躇ってから大きく頷いた。
「……!」
私は教室中の空気を全て飲み込んでしまったんじゃないかってくらいの勢いで空気を飲み込んだ。
「何でだよ……」
私は瞬きをするのも忘れて目を見開いた。コンタクトが乾いてズレてくる。視界がぼんやりとする。
「弓槻さんに私のことが気付かれる前に、って思って」
「じゃあ私も殺せよ!あの時隣で聞いてただろ!」
「それは出来ないよ!だってりんねは……」
「何で弓槻だけ……っ」
ぶわっと一気に涙が溢れてくる。私は鼻水を垂れ流しながら髪を掻き毟った。
「全部お前の勝手な都合じゃん。何で私達を巻き込むんだよ。迷惑なんだよ。お前が勝手に一人で施設送りになってれば済んだ話じゃねーかよ」
声が震えた。止めどなく溢れる涙が頬を伝う。しみずの勝手な都合のせいで弓槻やクラスメイトが死んだのも、大切な友達だったしみずにこんなことを言ってしまった自分も嫌だった。
「私もあの時、倒れてさえなければ爆発に巻き込まれてたのに……」
私は涙を拭いながらそう呟いた。
「……りんねの紅茶に薬混ぜたの私だから。りんねが教室から居なくなるように」
しみずはぽつりと呟く。
「……りんねのことは、元々助けるつもりだったの。」
私はもう何も言い返す気が起きなかった。
「あれもそうだったんだな。しみずは『りんねん家は大変だもんね』って言ってたけど、私は家の話なんて一言も話したことなかったもんな。なんで知ってんだろ、って思ってたけど、しみずは全部知ってたんだな……」
私は椅子の上で体育座りをした。膝を抱えてそこに顔を埋める。全てを知っていて私の隣で笑っていたしみずは一体どんな気持ちだったんだろうか。
「お母さんがずっと帰ってきてなかったのもそういうことだったんだな」
頭をガシガシと掻き毟る。度重なるブリーチで傷んだ髪の毛がキシキシと嫌な音を立てる。
「……何でりんねちゃんばっかり……。」
顔を上げると、アリスさんも両手で顔を覆って泣いていた。何同情していい人ぶってんの、お前だってクラスメイトを殺してたくせに。私はしくしくと泣くアリスさんを睨み付けた。
「さ。もう終わらせちゃおう。そっちの方がみんな楽だ」
佐藤聖羅はそう言うと、アリスさんの腕を引っ張って教室の隅へ移動した。教室の真ん中で歪な三角形を描いて私としみずと橘さんが座っている。
「奈那ちゃん、しみずちゃん。お互いをどうするかはもう決まってるよね?」
佐藤聖羅が尋ねると、二人はじっと見詰め合った。先に口を開いたのは橘さんだった。
「……悪いけど、私は星野さんを助ける気はないから」
橘さんが静かな低い声でそう言った。
「てか星野さんはこの先生きてても辛いだけでしょ。だったら死ぬ方がマシだと思うし。でも別にあなたを思ってそうするとかじゃないから。」
そう言う橘さんを見て、しみずは複雑そうな表情で口角を無理矢理引き上げる。
「私は、……私なんかが選んでいいのかな。でも橘さんが私を殺/す選択をするなら、私も橘さんに同じ選択をするよ。」
しみずはそう言うと、一度大きく深呼吸をした。橘さんは黙って次の言葉を待つ。
「だってもし私が死ぬことになったら、幼馴染みに会えないってことでしょ。」
「……ただの八つ当たりで奈那ちゃんを殺/すんだね。」
佐藤聖羅がそう口を挟むと、しみずは苦しげに顔を歪ませて笑った。
「私のせいでたくさんのクラスメイトが犠牲になった。今更一人増えたところで私が罰を受けるのは変わらないもん」
「……どこまでも勝手な人だね。あんたを助ける気なんてこれっぽっちもなくなったわ」
橘さんはそう言うと、佐藤聖羅とアリスさんを見て立ち上がった。
「さ。早くして。それから首藤さんは教室から出てって。」
「な、何、で」
「……親友だった子が殺されるところなんて見たくないでしょ」
橘さんのその一言で、胸の奥に眠っていた感情が一気に目を覚ました。
「待って待って待って二人とも、もっかいよく考えてよ?
しみず、橘さんは何も悪いことしてないよね?みんなが無意味に死んだからって橘さんまで無意味に死んでいいなんてことないじゃん。橘さんを殺さなければしみずの罪は軽くなるかもしれないし……!それに橘さんが死ななくたって幼馴染みに会えるでしょ!
橘さん、前も言ったけどしみずは橘さんの噂なんて一回も口にしたことなかったよ?さっきだって噂話の存在すら知らなかったみたいじゃん!私のこと許してくれたんだからしみずのことも許してあげようよ?
ねぇ二人とも、その場の感情で全部決めちゃわないでもっとちゃんと考えなよ!」
私の声が微かに木霊する。そして訪れる静寂。しみずと橘さんは無言で見詰め合う。
「考え直してよ?」
必死にそう言うけど、二人は私に目もくれない。
「……お願いだからさ、私を一人にしないでよ」
小さな掠れた声でそう言った。
「自分のせいで、ってちょっとは反省してるなら、一人で取り残される私の気持ちも考えてよ」
また涙が溢れてくる。
「お願い、もし二人とも死ぬなら私も殺して」
私は縋るように机に額を擦り付けた。
「……どうするの、二人とも」
佐藤聖羅が二人に問う。しみずと橘さんは、一瞬私を見てから、またお互い見詰め合った。そして私から視線を外したまま、
『ごめん』
二人同時にそう言った。私の頭の中はバキバキに割れた。
「……ファイナルアンサー?」
佐藤聖羅がそう言うと、二人は同時に頷いた。
「……やだやだやだ、やめてよ、やだ!」
私は子供みたいに喚き散らしながら立ち上がった。そして二人に掴み掛かろうとすると、体がぐわんと後ろに引っ張られた。
「アリス!りんねちゃんを外に出して!」
私の服の襟を引っ張りながら佐藤聖羅がそう叫ぶ。涙でぐちゃぐちゃになった顔で、アリスさんは無言で頷いた。
「やだ!しみず!橘さん!」
私はアリスさんに引きずられながら泣き叫んだ。廊下に連れ出されると、しみずと橘さんの姿は見えなくなった。アリスさんがドアを閉めると、何やらぼそぼそと喋る佐藤聖羅の声が微かに聞こえてくるだけだった。
「アリスさんお願いします、佐藤聖羅を止めてください」
私は何度もしゃくり上げながら必死に懇願した。上を見上げると、真っ赤な目でドアを見詰めるアリスさんが無言で首を横に振っていた。
「……私に恨みがあるわけじゃないのに何で」
何を言ってももう無駄だと頭のどこかでは理解していた。でもそれを認めることは出来なかった。
「死ぬより辛いことがあるの、分かってんでしょ」
こんなこと言ったってアリスさんを追い詰めるだけなのに。でも私は私を殺そうとしないアリスさんに酷く腹が立っていた。
「あんたも元々私を殺/す気だったくせに」
アリスさんの涙が、顎を伝って私の顔の横を落ちていく。
「……ごめんね、ごめんね、りんねちゃん。」
囁くようなウィスパーボイスで、アリスさんは声を零した。
「……行こう。下で施設の人が待ってる。」
アリスさんはそう言うと、私の腕を引っ張って立たせようとした。私はまだ抵抗したくて、わざと力を抜いて立つのを拒んだ。
「りんねちゃん。」
アリスさんはそれでも私を立たせようとした。
「……。」
アリスさんは私の両腕を引っ張って床を引きずった。私はムカついて反対方向に動こうとする。まだ怪我が完治してないみたいだから私の方が有利に決まってる。
「……あれ」
と思ってたけど、体はどんどんアリスさんに引っ張られていく。
「今まで何人の死体を動かしてきたと思ってるの。」
アリスさんは前を向いたままそう呟く。
「りんねちゃんみたいなガリガリの女の子なんて、簡単に抱えられちゃうよ。」
そう言うと、アリスさんは屈んで私の腰に手を回してきた。そして軽々と私を抱き上げる。アリスさんはまだ泣いていた。
「……」
私はもう指先すら動かす気になれなかった。エレベーターに乗り込み、下駄箱を過ぎ、校門を出る。校門の前の車道に黒い車が二台停まっていた。
「……」
私は滝のように流れ続ける涙を飲み込みながら瞼をゆっくりと閉じた。
「……またね」
そう呟くと私は車に載せられ、どこかへ連れていかれた。
電気も付けない真夜中のリビングに、妹とお母さんが向かい合って座っていた。
「……ほんとにいいんだね?ことね。りんねがこの都市伝説のせいで施設に入れられたって分かっててあんたもやるんだね。」
お母さんが、静かな声でそう言った。
「……うん。もう耐えれないの。」
妹は涙を流しながらそう言った。床にはボロボロに引き裂かれた中学のセーラー服が転がっている。妹の手には古びたカッターナイフが握られていた。
「……分かった。でもあんたの担当は他の人に頼むから。それは大丈夫だね?」
「……うん。」
ピンポーン。無機質なインターホンの音が鳴る。
お母さんが一階に降りてドアを開けると、そこには真っ暗闇に浮かぶクラゲのような白い髪の女性が立っていた。
「……お久しぶりです。」
「ごめんね、こんな遅くに」
「いえ。……りんねちゃんの妹さんのためですから。」
その柔らかは話し声は、少しハスキーなウィスパーボイスだった。
リビングへ上がると、妹とアリスさんは目を合わせて軽く会釈し合う。
「……ことねちゃん、だよね。」
アリスさんは泣きそうな顔で笑った。
「……母親から話は聞いています。姉が色々お世話になりました。」
「礼儀正しいんだね。……私があなたの魔女になる関口アリスです。これからよろしくね。」
アリスさんは、妹の小さな手を握って、ぐっと涙を堪えた。
「りんねちゃんが施設から出た時、妹さんも魔女になったって知ったらどう思うのかな。」
小さな声でそう呟き、きっとまた繰り返される悲劇に、アリスさんはそっと身震いした。
「はぁ。やっとかぁ、あの子が退院するの。」
「長かったわね。本当に手の掛かる子だったわ」
「あの子が居なくなるってだけで大分楽になりますよね」
「でもきっとすぐに精神科かどっかに入れられるわよ、あの様子じゃ。」
「ですよねー……」
施設の廊下の隅で、先輩と後輩の二人の女性職員がこそこそと話をしている。
「にしても、この制度が出来てからもうすぐ二十年ですか。こんなとち狂った制度があるなんて、子供の頃は思ってもみなかったですよ。危険な思考を持つ人間を減らすためとは言え、合法的に大量の子供が亡くなるなんて」
「本性を見抜くためにも情報が子供にバレたらいけないからね。
他人を意図的に傷付けたりするような危険な人間は早いうちに処分する、か。子供はこんな制度があるなんて知ったら全員いい子ぶるだろうし、今の時代すぐに拡散したがるからね。」
「にしてもどの子もクラスメイトをまるまる売りに来ますよね。やっぱり見て見ぬふりする子も同罪ですよね〜……」
「学校の全校生徒をまるまる処分してくれって頼んでくる子も少なくないのよ。辞めてほしいわよね、全員殺してたら埒が明かないじゃない。」
「へぇー……。てかネットでも一時期話題になってましたよね、『三十人分の魂を売れば魔法の力が手に入る』って都市伝説。」
「あー。あったわね、そんなのも」
「てゆーか、子供にはこの制度を隠してるのに、売りに来る子はどうやって見付けてるんですかね?」
「子供用の自殺対策の相談センターよ。あれに電話すると、魔女に繋がるって仕組みになってるの。」
「へぇー!そうなんですか……。」
その時、先輩の電話が鳴る。
「……もしもし。え。はい、……はい、分かりました。」
「どうかしたんですか?」
「今日退院するはずだったあの子、外に出た途端車道に飛び出して死んだって。手伝いに行くわよ」
「えー!せっかく退院出来たのに勿体ない……。四年近くここに居たんですよね?」
「この中は色々制限されてて自殺/すら許されないからね。まぁ、私もこんな場所で何年も監禁されてたら頭狂っちゃうと思うけど」
「でもあの子入ってきた時からちょっとおかしくなかったですか?」
二人の女性職員は笑い合いながら建物の外へ出た。
あれ。どこだろう、ここ。何だかとても懐かしい匂いがする。
たくさんの喋り声や笑い声が聞こえてくる。目の前には見慣れた制服。あ。ここ、学校の教室だ。
「りんね!」
名前を呼ばれて振り返ると、そこには笑顔のクラスのみんなが居た。沙里と珠夏も、むすびも、岡田さんと倉野さんも、綾瀬さんも、真中ちゃんも、橘さんも、しみずも、弓槻も居た。みんながそこに居た。
「……みんな!」
思わず涙が溢れてきた。もう一人ぼっちじゃないんだ。やっとみんなに会うことが出来た。私は満面の笑みで、みんなに駆け寄っていく。
「ただいま!」
-END-
続き
【https://ha10.net/test/write.cgi/novel/1616416336/l2】
誤字などが目立つため修正したものをこちらに載せました。
https://ncode.syosetu.com/n8463gz/
とある魔女の話を書こうと思います。番外編みたいなかんじです。
…………。
ゆっくりと、じわじわと、砂糖が水に溶け込んでいくかのように意識を取り戻した。あ、目が覚めたんだ。そう分かった瞬間、私はこの世の終わりのような絶望感に襲われた。
毎朝こうだ。私は朝目が覚めるたびに絶望する。
毎日こう思う。眠ったまま、もう目が覚めなければいいのに。夜が明けないで、朝なんて一生来なければいいのに。
憂鬱な気持ちのまま、視界だけでも明るくしようとカーテンを開ける。が、外は薄汚いねずみ色に染まっていた。ザァァァ、と、微かに雨粒の音が聞こえてくる。
「……くそが。」
私は頭をぐしゃぐしゃと掻き毟った。
リビングに出てくると、床に何かが転がっていた。
……邪魔だなぁ。なんて、口には出せないけど、頭の中でそう言ってやった。もしこれを口に出してしまったら、って考えたら恐ろしくて堪らない。
常夜灯だけが微かにリビングを照らしている。電気、勝手につけたら怒られるかな。シャッター開けたら、うるさいって怒鳴られるかな。
「……。」
考えた結果、私はこのまま朝の身支度をすることにした。
なるべく音を立てないように冷蔵庫を開け、長めに設定した電子レンジは、暖め終わる前に扉を開ける。洗い物と洗濯物は帰ってきたらまとめてやっちゃおうかな。ああ、そうだ、シャツにアイロン掛けないと。それも帰ってきてからでいいかな。
「……ふぅ。」
洗面所に入り、ドアを閉め、洗面台に手をつきながら、私はゆっくりと溜め息を吐いた。
「息止まりそ。」
小さな声でそう呟いた。
「あの人が起きる前に家出なきゃ。」
バシャバシャ、と水を顔に叩き付けるように浴びる。本当に息が止まってしまいそうになったところで、それをやめた。
「……行こ。」
鏡の中に映った自分を見詰めながら、私はゆっくりと頷いた。
「……亜莉紗ぁ」
リビングに出た途端、お腹の底に響くような低い声でそう呼ばれた。途端にびくり、と体が正直に反応する。
「もう学校行くのかぁ?」
気だるげなその声は、欠伸混じりにそう続ける。私はカタカタと震える手をもう片方の手で抑えながら、薄ら笑いを浮かべた。
「……うん。もうそろそろ行かなきゃ。」
「そうかぁ」
私に背を向けているので、目を開けているのか、閉じているのか、どんな表情をしているのか、全く分からなかった。でもそれが救いだった。顔を合わせなくて済むから。
「じゃあ、行ってきます。」
私はそう言うと、すぐさま玄関へ走った。
そしてローファーに踵を突っ込むと、鍵をふんだくって鍵穴に差し込んだ。意味もなくガチャガチャと左右に動かし、ドアを押し上げ、力いっぱい閉めた。鍵を閉めて、それを確認すると、逃げるように家の角を曲がった。
「まぁ、ほんとに逃げてるんだけど。」
そう呟きながら、私は自嘲気味な笑みを零した。
「……今日も、頑張らなきゃ。」
自分にそう言い聞かせて、私は走った。
深夜にもかかわらず一気読みしちゃうくらい面白いです…!!乱入失礼しました!
137:ちゅ:2021/08/23(月) 15:50>>136ありがうございます!
138:ちゅ:2021/08/23(月) 15:55
私の名前は、関口亜莉紗(せきぐちありさ)。公立の高校に通う高校三年生だ。
「ああ、今日はアイロン出来なかったな。」
そう呟きながら、寝癖でうねった髪をいじくる。顎下までのホワイトブリーチをかけた真っ白のボブが、風に吹かれてゆらりと揺れた。
「……はぁ。」
短い溜め息を吐きながら、重たい足取りで歩を進める。横断歩道の前で立ち止まって、ぼーっと赤く光る信号を見詰める。
「最悪だな。」
自分の手を見ると、カタカタと震えていた。ただ普通の会話をしただけなのに。顔すら合わせてないのに。今朝は何もされなかったのに。体は正直だ。
「……早く家、出たいな。」
そう呟くと同時に、信号が青に変わった。でも、私の足は当たり前のようにそこから動こうとしない。
立ち止まったままでいると、疲れた顔をしたサラリーマンやスマホを見ている大学生らしき女の人が、私を追い越して早足で横断歩道を渡っていく。私は自分の足元を見て、ただそこに立ち尽くした。
「あ。」
はっとして顔を上げたら、信号は点滅し出し、赤に変わってしまった。
「あ……。」
何やってるんだろう。
「……。」
目の前を横切っていく車達を眺めて、私は泣き出しそうになった。
学校に着くと、階段の前に数人の女生徒が固まっていた。
「あ。」
その中に見覚えのある顔を見付けて、私は思わず声を上げた。
「あ、亜莉紗!」
すると相手も私に気付いたらしく、手を振って駆け寄ってきた。
「おはよ、亜莉紗!」
「おはよう。」
彼女はクラスメイトの川嶋(かわしま)レミ。レミは所謂「ギャル」って言うやつだ。ベージュのロングヘアをぐりんぐりんに巻いて、つけまつ毛に派手な柄のカラコンのメイク。指先には狂気になりそうなほど長くて鋭いゴテゴテのネイル。足元にはルーズソックス。
「ねー、亜莉紗は知ってた?」
「何が。」
「卯乃羽、好きな人に告白するんだってよ!」
レミはそう言いながら、口元に手を当ててにやにやする。長い爪がカチャカチャと音を立てた。
「卯乃羽、好きな人居たんだ。」
「らしいよー?聞いたら高一の時からずっと好きだったんだって!」
「高一の、時から……。」
「亜莉紗は誰だと思う?やっぱ五組の石田とかかな?あの二人よく一緒に居るじゃん。」
「えー、私は二年の原だと思う!卯乃羽って面倒見いいし懐かれてたじゃん!」
「私も石田だと思うなー。あれはどう見ても相思相愛でしょ!wてか石田は確実に亜莉紗に気ぃあるよねー?」
「それなー!」
きゃはははと甲高い声を上げて笑う三人。私はとぼとぼとその横をすり抜けて行った。
「亜莉紗ー、親友に彼氏が出来るからって落ち込むなよー!」
そんな私の後ろ姿に、レミがそう叫んだ。
階段を上って、一時間目の授業がある教室に向かう。私の通っている高校は単位制なので、クラスは同じでも受ける授業はみんなバラバラだ。
「あ。」
教室に入ると、一番後ろの席に座っている女生徒と目が合った。
「亜莉紗!おはよ!」
その女生徒生え顔で私に手を振ってきた。
「卯乃羽。」
彼女が卯乃羽ーー関根卯乃羽(せきねうのは)。クラスメイトであり、私の一番の親友だ。
私は机と机の間を縫うように歩いて、卯乃羽の前の席の自分の机に学生鞄を置く。椅子に座って、体を卯乃羽の方に向ける。
「卯乃羽。さっきレミ達から聞いたんだけどさ。」
私は足をぶらぶらと前後に動かしながらそう切り出した。
「好きな人に告白するってほんとなの。」
「えっ」
ちらりと卯乃羽を見ると、卯乃羽は元々丸目がちな目を更に真ん丸にしていた。
あ、やば。やっぱり訊かない方が良かったかも。でもちょっと気になってしまったんだ。卯乃羽の好きな人は誰なんだろう、って。だって、卯乃羽は好きな人が居るなんて話、私には一度もしてくれなかったんだもの。
「……レミ、亜莉紗にだけは絶対言うなってあんなに言ったのに……」
「ん。何か言った。」
「ううん、何でもない」
卯乃羽は長い睫毛を伏せて、机の上で組まれた自分の手を見下ろした。
「……ほんとだよ。今日、ずっと好きだった人に告白するつもり。」
そう言う卯乃羽の口元は綻んでいた。それを見た途端、私の心臓はキュッと痛くなる。
「そうなんだ。」
心臓がドッドッと低く静かに鼓動を刻む。それを悟られないようにと、足の動きが自然と早くなる。
「応援してる。卯乃羽の告白なら断る人誰も居ないと思うし。」
「……そうかな。正直めちゃくちゃ自信ないんだよね。多分相手は私のこと何とも思ってないだろうし……」
そう言って卯乃羽は少し悲しそうな表情になる。
「そんな人居ないって。卯乃羽ほどいい子居ないもん。」
「ほんとー?」
「うん。私、ほんとに卯乃羽には感謝してるから。」
「急に何それ〜?」
そう言いながら卯乃羽はニヤニヤする。私は急に恥ずかしくなって、そんな卯乃羽から視線を逸らした。
自分の揺れる足を眺めながら、高校の入学式の光景を思い出す。
「ねぇ、名前何て言うの?」
高校の入学式が終わり、帰ろうと思って立ち上がろうとした時だった。いきなり後ろからトントンと肩を叩かれた。びっくりして振り返ると、そう言いながらにっこりと笑う卯乃羽が立っていた。
「関口亜莉紗です。」
元々人見知りで口下手だった私は、吃りそうになりながら小さな声でそう答えた。
「わ!苗字似てるね!私関根卯乃羽って言うの!」
卯乃羽は目を輝かせてそう言った。
「多分席も前後だし、良ければ仲良くしよう!」
満面の笑みでそう言うと、卯乃羽は私の手を握ってぶんぶんと上下に振った。
「うん。よろしくね。」
そんなやり取りをしたのを覚えている。
明るくて積極的な卯乃羽とは、その後すぐに打ち解けられた。卯乃羽のおかげで、他のクラスメイトとも関わりを持てて、友達と呼べる人も何人が出来た。
二年生に上がると、卯乃羽と私はクラスが別々になってしまったけど、三年生に上がってからはまた同じクラスになれた。クラスが離れても、三年生になっても、卯乃羽は私のことを一番の友達だと言ってくれる。きっと卯乃羽が居なかったら、私は高校で孤立していたかもしれない。もしかしたら、友達が一人も出来ていなかったかもしれない。
「でも、私も亜莉紗には感謝してるなぁ。何だかんだ一番仲良くしてくれてるの亜莉紗だし。」
卯乃羽はそう言いながらニヤニヤする。
「取り敢えず、今日の告白は頑張ろーっと!亜莉紗がそう言ってくれるなら間違いないよね!」
「うん。でも卯乃羽に彼氏が出来たら、私とはあんまり遊べなくなりそうだからちょっと寂しいかも。」
冗談交じりにそう言うと、卯乃羽は少し悲しそうな顔で「そうだね」と言った。卯乃羽も、私と遊べる時間が少なくなるのが寂しいと思ってくれてるのかな。ちょっとだけ嬉しかった。
「あ、もう授業始まるね。」
教室に教師が入ってくる。気が付いたら、他の生徒達も教室に集まっていた。
「それじゃあ授業を始めます。気を付け、礼」
『よろしくお願いしまぁす』
出席を取り、一時間目の授業が始まった。
午前の授業が終わり、私と卯乃羽は教室に残りそのままお弁当を食べることにした。
「……。」
学校に来る途中で買ったサラダを頬張りながら、私はちらりと卯乃羽を見た。
「いただきまーす」
律儀に両手を合わせてそう言うと、卯乃羽は手作りのお弁当の蓋を開けた。
告白、いつするんだろう。てっきり今日は一緒にお昼食べられないかと思ってた。
「どうかした?亜莉紗」
じーっと卯乃羽を眺めていると、いつの間にか卯乃羽が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「あ、ごめん。何でもない。」
我に返って、慌てて誤魔化したけど、卯乃羽はお箸をくわえながら不思議そうな顔で私を見詰めてきた。
「そう言えばさ。」
私はそんな卯乃羽の視線から逃れるように話題を逸らした。
「卯乃羽の今日のアイシャドウの色、可愛い。」
「えー?変えたの気付いてくれた!?さっすが亜莉紗!」
卯乃羽は興奮してそう叫ぶ。
「これ良かったから今度亜莉紗にもあげるね。もうすぐ誕生日でしょ?」
「……あ。」
言われて思い出した。そうだ、私、もうすぐ誕生日だ。毎日がそれどころじゃなくて忘れてた。
「亜莉紗にも似合うと思うよ!」
卯乃羽はそう言ってにっこりと笑った。
「あ。」
何故かその顔を見ていたら、ぽろりと涙が零れ落ちた。
「……あー、目痒っ。」
私はそれを悟られないように、わざとらしく目を擦った。
「亜莉紗も、また落ち着いてきたらメイクしなよ。可愛いんだから」
亜莉紗のその言葉に、また涙が溢れてきた。私は何度も頷きながら、ずっと目を手で隠した。
やっぱり、卯乃羽が、卯乃羽の好きな他の誰かに取られちゃうのが、物凄く寂しくなった。
午後の授業が終わり、私は鞄に筆箱を押し込んで立ち上がった。手にノートと教科書を抱えて、教室を出る。
……卯乃羽、もう好きな人に告白したのかな。午後の授業は卯乃羽とは一緒ではないから、もう告白したのか、まだしてないのか分からない。
LINEで訊いてみようかと思ったけど、そんな勇気はなかった。もし今「成功した」と言われても、素直に喜べない気がしたから。
「はぁ。」
一人で廊下を歩きながら、小さな溜め息を吐いた。
今日は一人で帰ろう。またあの家に帰るのは憂鬱だけど、卯乃羽は新しい彼氏と一緒に帰るかもしれないし。邪魔しちゃ悪いもの。
ロッカーに教科書とノートを投げ入れて鍵を掛け、玄関に向かって歩いている時だった。
階段の前で、背後からパタパタと誰かが走ってくる音が聞こえてきた。
「亜莉紗!」
「っ。」
その声に、私はすぐに振り返った。
「卯乃羽。」
私を追い掛けてきたのは、卯乃羽だった。肩で息をして、何やら疲れ切った顔をしている。
「亜莉紗……」
そう言って卯乃羽は顔を上げた。その目を見て、私は思わず驚いてしまった。卯乃羽の真ん丸の瞳は、涙が浮かんでいるのかうっすらと潤んでいたのだ。
「卯乃羽、泣いてるの。」
もしかして。……卯乃羽、告白に失敗したんじゃないの。
「いや、ごめん、泣いてはないんだけどさ……」
そう言って、卯乃羽は何度も深呼吸をした。顔は真っ赤だし、どこか落ち着きがないし、普通じゃない。
「あ。もしかして、今から告白するの。」
「……当たり〜」
卯乃羽はそう言いながら恥ずかしそうに笑った。
「それでさ、亜莉紗に着いてきてほしいんだけど、いいかな。」
卯乃羽は少し恥ずかしそうにそう言った。私はドッドッと高鳴る心臓を手で抑えて、口角を必死に吊り上げた。
「いいよ、着いてく。」
ほんとは、卯乃羽が誰かと付き合う瞬間はあんまり見たくなかったけど。私はゆっくりと頷いた。
「ありがと」
また恥ずかしそうに笑って、卯乃羽はくるりと体をUターンさせた。
「体育館棟でするんだ。」
そう言ってスタスタと歩いていく。私は無言で卯乃羽の後を追い掛けていった。
体育館棟に着くと、卯乃羽は女子トイレの中に入っていく。
え、え、え。まさかトイレの中で告白するつもりなの。流石にそれはやばいでしょーー
「亜莉紗。」
ドキッと心臓が高鳴る。卯乃羽が、洗面台を指でなぞりながら私の方を見ていた。
「……え。」
ドキ、ドキ、と、頭の中まで響いてくる自分の心臓の音は鳴り止まない。状況が上手く把握出来なかった。
「亜莉紗。単刀直入に言うけど……」
顔を真っ赤にした卯乃羽が、私の顔をじっと見ていた。私は何故か卯乃羽と目を合わせることが出来なくて、視線を泳がせた。
「亜莉紗。私……」
きゃははは、と、更衣室から飛び出していく運動部の女子生徒達の声が遠くの方から聞こえてくる。
「亜莉紗のことが、ずっと好きだったの。」
卯乃羽の口から飛び出してきたその言葉に、私は自分の耳を疑った。
何かの間違いじゃないかと思った。だって有り得ない、卯乃羽の好きな人が「私」だなんて。卯乃羽が私のことを「恋愛として好き」だなんて。レミは、「一年の時からずっと好きだったらしい」って言ってた。ってことは、卯乃羽はずっと私のことが好きでーーってことになる。
「ほんとはずっと隠していくつもりだった。もし告白して亜莉紗が離れてっちゃったらって考えたら怖かったから。でもやっぱり我慢出来なくて……。私の気持ちを隠したまま一緒に居ても、亜莉紗に嘘吐いてるみたいで嫌だったから、告白した。」
卯乃羽は息も吸わずに一気にそう言った。私は半開きになった唇が微かに震えるのを感じながら、同じように震える両手の指を絡ませた。そんな私を見て、卯乃羽は言葉を続ける。
「困らせちゃうのは分かってる!いきなりこんなこと言われたって気持ち悪いってのも……!でも亜莉紗のこと本当に信頼して言ったから!返事がどうであれ、私は受け入れるつもり!」
卯乃羽はそう言うけど、私は頭の中が混乱してしまって返事すらすることが出来なかった。卯乃羽が私を好きでも、私が卯乃羽のことをどう思っていけるのか、分からなかった。
「……ごめん」
卯乃羽はそう言うと、口を抑えて私の横を走って通り過ぎた。私は棒立ちしたまま呆然とそれを見送るだけしか出来なかった。
「……あ!」
トイレの出口で、小さく卯乃羽が叫んだ。
「えー、卯乃羽マジ?」
そして別の声が聞こえてくる。私は思わずバッと勢いよく振り返った。
「え、何、いつから居たの?」
卯乃羽の今にも消え入りそうな声。
「いつから、って……。トイレ入ろうとしたらあんた達が話してたから待ってただけだけど」
「うそ……」
絶望したような卯乃羽の声に呼び覚まされて、私の体は動き出した。五、六歩大股で走って、出口から顔を出す。
「っ。」
そこには、卯乃羽を取り囲むクラスメイト達が居た。みんな運動部に所属するメンバーだった。
「亜莉紗……」
その中の一人が、息を切らして現れた私を見る。ベリーショートの染めてない黒髪に整った中性的な顔立ちの、夢架(ゆめか)。
「盗み聞きした私達も悪いよね。行こ」
そう言って夢架達を引っ張ってトイレの中に入っていくのは、茶髪のロングヘアの綾奈(あやな)。
「待ってよ〜……」
綾奈に続いてトイレに消えていく夢架を追い掛けて走っていくのは、運動部なのを疑いたくなるような、ブルーブラックのボブがよく映える白い肌のモモ。
「……。」
取り残された卯乃羽は、俯きながらその場に立ち尽くした。垂れた綺麗なブロンドの髪の隙間から、絶望に染まった卯乃羽の顔が見えた。
「……帰ろう」
私は卯乃羽の肩を掴もうと思って手を挙げた。けど、卯乃羽は私のことを友達だと思っていないから、安易に触れない方がいいと思って、その手を腰の後ろに隠した。
「……卯乃羽」
私が歩き出しても、卯乃羽はその場から動こうとしない。まるで石の地蔵のように、そこに固定されてしまってるみたいだ。
「……。」
まだ頭の中の整理が出来ない。さっきまでの出来事は、全部夢だったんじゃないかとさえ思う。でも、これは現実だ。卯乃羽が私に告白して、それをクラスメイトに見られてしまった。
「……。」
明日から、どうなるんだろう。
その不安だけが、私の頭の中を埋め尽くした。
「はぁ……。」
溜め息を吐きながら、玄関のドアを開ける。家の中に入ってドアの鍵を閉めて、ローファーを脱ぐ。
結局、卯乃羽に「ごめん、先帰って」と言われて、私は言われるままに先に帰ってきてしまった。
「どうしてこうなっちゃったんだろ。」
ぽつりと呟いてみたけど、その答えは誰も返してくれなかった。
「……学校だけが、私の居場所だったのに。」
ずるずると鉛のように重くなった足を引きずりながら階段を上る。
別に卯乃羽が悪いって言いたいわけではないけど、明日からは、今までみたいに楽しい学校生活は送れないかもしれない。何となくそんな気がして、卯乃羽に八つ当たりしたい気分だった。
今まで学校を私の居場所にしてくれてたのは、紛れもない卯乃羽なのに。
「亜莉紗かぁ?」
二階のリビングに上がると、朝と同じ場所に大きな人影が見えた。
「……ただいま。」
「今日は早かったなぁ……」
大きな欠伸をしながら、その人影がもっさりと動き出す。それを見て、私は体をびくりと跳ねらせ、洗面所へ駆け込んだ。手を洗うふりをしながら、蛇口のレバーを最大まで上げる。
「……腹減ったな」
水の音に混じって、冷蔵庫を開ける音が聞こえてくる。ガサガサと乱雑に冷蔵庫を漁る姿を、鏡越しに睨み付ける。
「……。」
私は洗面所を飛び出し、一階に駆け下りた。
バタンと大きな音を立ててドアを閉め、電気をつけて、私は部屋の真ん中に飛び出した。
「はぁ。」
膝から崩れ落ちるような感覚になり、すとんと床に座り込む。ピンク色のカーペットの毛を握って、無意識にそれを引きちぎった。まるで指で弾かれた人形のように、こてんと床に寝転ぶ。
「……お母さん、何で私を置いて行っちゃったの。」
ぽつりと呟く。脳裏に焼き付いた幼い頃の記憶。どんどん小さくなっていく母親の後ろ姿。
「……あれ。」
ガサガサという音と硬い感触が不愉快で目が覚めた。体を起こそうとすると、全身が痛くてなかなか起き上がれない。
やっとの思いで体を起こすと、私はいつの間にか制服のまま床で寝てしまっていたみたいだった。シャツがごわごわして気分が悪い。
「あのまま寝ちゃってたんだ。」
近くに転がっていた学生鞄からスマホを取り出し、画面をつけると、今はどうやら午前三時を過ぎた頃らしい。
「結構寝てたな。」
帰ってきたのが五時半だから、十時間近く寝ていたことになる。
「……はぁ。」
昨日の出来事を思い出して、憂鬱な気持ちになった。今日は学校休もうかな。ううん、休んだから何て言われるか分からないし……。それに欠時が一個増えただけでも進路に関わるかもしれない。
「……シャワー浴びよ。」
考えれば考えるだけ気分が落ちるだけだ。私は立ち上がって、部屋から出た。
シャワーを浴びている最中も、頭の中には昨日の光景がビデオのように繰り返し流れていた。
「ああもう……。」
切れ掛けのカラーシャンプーのポンプを何度も押す。手のひらに紫色の飛沫が飛び散る。
「はぁ。」
私はそれを髪の毛に刷り込んで、大きな大きな溜め息を吐いた。
朝になり、私はいつもより一時間近く早い時間に家を出た。重たい足取りで校門をくぐる。ちょっと早く来過ぎた気もするけど、遅刻するよりはマシだ。
ロッカーに教科書とノートを取りに行き、階段を上って教室を目指す。一時間は世界史だ。幸い卯乃羽や他のクラスメイトとは誰とも被っていない。
「ふぅ……。」
教室に入ると、先に来ていた二人の女子生徒がちらちらと私を見てきた。この時間に居るってことは、朝練がある運動部の子達だろうか。
「……?。」
気のせいかと思ったけど、私を見てからくすくす笑って、「あの人だよね?」と言っているのが聞こえたから、きっと気のせいじゃない。
嫌な予感がした。
私は鞄を机に置いて、教室を飛び出した。
「告白したとこ見られて逆ギレした先輩ってあの人だよね」
教室を出て壁の影に隠れていると、教室の中からそんな声が聞こえてきた。
「……!。」
背筋がゾクッとした。冷たい嫌な汗が背筋を伝って落ちていく。
「夢架先輩達、朝練の時もまだ怒ってたよね。」
「あの人に嫌われたら終わりじゃない?」
くすくす笑いながら、教室の二人はそう言う。
「……こうなるのかよ。」
私はどくどくと鳴り続ける胸に手を当てて、掠れた声でそう呟いた。
二時間目の授業が終わった途端、私は教室を飛び出してホームルーム教室へ向かった。クラスメイトが集まるのはショートホームルームの五分間しかない。私は卯乃羽が教室に入ってくるのをただただ待った。
何で「私が卯乃羽に告白した」ってことになってるの。夢架達は「卯乃羽が私に告白した」って分かってるはず。きっと卯乃羽に逆ギレされた夢架達が後輩達に愚痴ったことで広まってるんだろうけど、どこで話が拗れちゃったんだろう。そして他に誰がこの話を聞いたんだろう。
心拍数がバクバクと跳ね上がる。足が自然と貧乏揺すりを始めた。
「でさー、その時モモが……あ」
楽しそうに笑いながら教室に入ってきたのは、夢架だった。私と目が合った途端、その表情から笑顔が消えていった。
「なになに、どうしたの?」
続いて入ってきたのは、綾奈。いきなり固まってしまった夢架を見て不思議そうな顔をした後、私を見て同じく黙り込んでしまった。
「……行こ」
夢架が私から目を逸らして自分の席に歩いていく。綾奈も無言でそれに続く。
「待って。」と言いたかったけど、言えなかった。立ち上がろうと思ったけど、体が動かなかった。
心のどこかで、きっと私はこう思っていた。
「私が卯乃羽の代わりになれば、卯乃羽が影で笑われることもない」って。このまま間違った噂が一人歩きしてくれれば、卯乃羽がこれ以上傷付くこともないかもしれないじゃない。
心臓がどくどくと脈打つ。頭の中の血液が脈打つような感覚になる。
冷たい汗が、顎先からぽたぽたと机に滴った。
その日、卯乃羽は学校に来なかった。ホームルームにも、授業が被っている午後の数学にも、姿を現さなかった。
きっと昨日の今日で来るにも来れなかったのかもしれない。
早く知らせてあげなくちゃ、もう卯乃羽は学校に来ても大丈夫だ、って。
別に私は平気。だってあと一年もしないうちに卒業出来るんだもの。
きっと耐えられる。私なら、大丈夫。
だって、私には卯乃羽が居るんだから。
「……え。」
家の前に数台のパトカーが停まっており、私はその場に立ち尽くした。
「あ。娘さんですかね」
玄関付近に立っていた警察官が私に気付き、こちらに歩いてくる。
「何かあったんですか。」
と尋ねつつ、何となく予想は出来ていた。
「お父さんがさっき窃盗しちゃってねー……」
ほら。やっぱり。私は口元がにやけそうになるのを必死に堪えた。
「あー。そうですか……。」
「その際に暴行もしちゃったからしばらく帰ってこれないけど、他にご家族は?」
「居ません。てか、あの人も家族じゃありません。」
「……え?」
「私は元々一人で暮らしてたし、元の生活に戻るだけです。あの人が勝手に転がり込んできただけなんで。」
……私は一か月前まで、この家で一人暮らしをしていた。中学二年生の時、父親と離婚した母親が買った小さな一軒家だ。
高校一年生の冬まで、私はここで母親と二人で暮らしていた。母親はパートで働き、高校生になった私は秋葉原のコンカフェでバイトをして生活費を賄っていた。
が、そんな生活も長くは続かなかった。母親が、私の前から姿を消したのだ。正確に言うと、この家と娘である私を捨ててどこかに行ってしまったのだ。
「ごめんね、亜莉紗。」
そう言って、多額のお金を置いて、母親は消えてしまった。
それだけならまだ良かった。母親と二人暮しの時も、母親はほぼ家に居なかったから、一人で暮らしていくのはそこまで苦じゃなかった。むしろ自分の面倒だけを見ていればいいから気が楽だった。コンカフェの給料は良かったし、少しだけど貯金も出来た。
でも。そんな私の生活を、あの人がぶち壊した。
「新しい嫁に追い出された。」
そう言って私の家に転がり込んできたのは、あの父親だった。
私と母親を捨て、若い女と一緒になったあの父親が。
「本当に悪かったと思ってる。亜莉紗がこんな目に遭ってると思わなかった。」
そう言いながら何度も謝ってきた。憎んでいた父親が頭を下げてきたのは、悪い気分ではなかった。でも、せっかく築き上げた私だけの居場所を邪魔されたくなくて、私は追い返そうとした。
「あいつも俺と同格だろ。お前を捨てて逃げたんだから。」
それを察してか、父親はそう零した。父親は分かっていた。まだ私が母親を好いているのを。
「……勝手にすれば。」
私は何も言い返せなくて、父親を家の中に入れてしまった。
それから、あいつは働きもせずに家に居座った。毎日、私が受験生になった時のために貯めていた貯金を切り崩して酒を買い飲み漁った。
一度、そんな父親にこう言ったことがあった。
「高三の生活費とか受験の費用とか出してくれるの?」
これが起爆剤となった。父親は持っていた酒瓶で私をぶん殴った。頭から血が流れ、私はその場に倒れ込んだ。
「親に金を払ってもらうのが当たり前だと思うなよ!お前はもう自分で稼げるんだから今までの教育費を返してると思ってーー」
などと、ガミガミと屁理屈を並べられた。殴られたのに、不思議と痛みや恐怖心はなかった。
「あの女の代わりに面倒見てやってんだから感謝しろよ。」
そう言いながら背中を蹴られ、父親は自分の部屋ーーだと思い込んでいる母親の部屋に入っていった。
「……。」
額を触ると、ぬるりとした生暖かい感触があった。触れた指を見ると、赤い液体が指の指紋の模様に浮かび上がっていた。
「……。」
背中が冷たくなる。と同時に、視界が曇りガラスのようにぼやけてしまった。
「……。」
一気に恐怖心と痛みが襲ってきた。殴られた頭と蹴られた背中が痛い。そして怖い。殺されるかと思った。
「でも、ほんとのこと言っただけじゃない。」
本人の前では絶対言えないそれを、私はぽつりと口に出した。驚くほど声が震えた。それが何故か滑稽に思えて、寝そべりながら口角を吊り上げて笑った。
「居なくなってよ、早く。」
あいつ、新しい嫁に追い出されたって言ってたっけ。確か窃盗をして捕まり掛けたとか。
……あーあ、誰か早く捕まえてくれよ。
ずっとそう思いながら、私はあいつと共に生活してきた。
「だからやっと。やっとなんだよ。」
警察官を撒いて家の中に入った途端、笑いが止まらなくなった。ドアに背をつけて、私は綻ぶ口元を手で押えた。
「やっと私の居場所を取り戻せた。」
嬉しい。もうあいつに怯えなくていいんだ。毎朝目が覚めた時に恐怖に襲われることも、家に帰ってくるのが憂鬱になることもない。いつあいつの逆鱗に触れるか恐れながら生きていかなくてもいいんだ。
「はぁ……。」
ずるずるとドアに背をつけながら座り込んだ。あ、やば。涙が止まんない。
「うぅ……っ。」
私は一頻り泣いた。今まで流せなかった分の涙を全部流した。
その夜、私は卯乃羽にLINEを送った。
『今から電話出来ないかな。』
数分待った後、卯乃羽から返信が来た。
『うん。掛けていいよ』
私はすぐに電話を掛けた。
『……もしもし』
「卯乃羽。」
電話越しの卯乃羽の声は、いつもより元気がないように感じられた。
『……亜莉紗、今日は学校行ったの?』
やつれた声で卯乃羽はそう言う。
「うん。行った。」
『そっか……。』
卯乃羽は長い長い溜め息を吐く。
『亜莉紗。私さぁ』
「うん。」
『高校辞めようかなって思ってるんだ』
「えっ。」
私は思わずスマホを落としそうになった。それを慌てて両手で抑えて、耳元にあてがう。
「うそ。」
『……マジ。てかもう学校居れないでしょ。』
「何で。そんなことないって。」
『亜莉紗には分からないよね。同性が好きな気持ちを何でずっと隠してきたか分からないでしょ?』
「それは……。」
『だから告白することなんて絶対誰にもバレたくなかった。なのにあいつバラしやがって……』
「待って。『あいつバラしやがって』って、卯乃羽誰かに告白すること話したの。」
私の問いに、卯乃羽は小さな声で「うん」と答える。
『多分そいつがレミ達にバラしたんだと思う。まじ最悪……』
卯乃羽はまた長い溜め息を吐く。
「それって、誰なの。」
私は問うたけど、
『……ごめん、それは言えない』
何故か卯乃羽は答えてくれなかった。
何でだろう。その人物を私に知られたらまずいのか、それともただ単に知られたくないだけなのか。
「……取り敢えず、これだけ言っとく。学校では、“私が卯乃羽に告白した”ってことになってるから。」
『……え?』
「ほんとに何でか分からないけどね。だから卯乃羽はこそこそする必要ないよ。明日から学校来ても大丈夫だから。」
『何それ、何で……』
「分からない。けど多分、夢架達が誰かに愚痴って、それが広まる間に話が拗れたんだと思う。」
『そん、な……』
電話の向こう側で、ガタンという音が聞こえてくる。
「安心して。私は今更卯乃羽の方から告白してきただなんて言わないから。」
『……何、で』
「……卯乃羽が傷付くところなんて見たくないから。 」
『何、それ……』
卯乃羽の声が微かに震えている。
『何それ。そんなの私だって見たくない!亜莉紗がやってもないことでこそこそ言われるなんて絶対嫌だから!』
卯乃羽は涙声でそう叫ぶ。
『私からちゃんと言うから。』
「言うってどうやるの。あの噂を知ってる人達を集めて一人一人に説明するつもりなの。そんなの絶対無理。」
『でも、じゃないと亜莉紗が……!』
「私なら大丈夫。卯乃羽が居てくれるならね。」
『……私、何があっても絶対亜莉紗のそばに居るから』
「……うん。」
そうして、私達は電話を切った。
長い長い一日だった。
でもきっと、明日からはもっともっと一日が長くなる。そんな気がした。
翌日。私は複雑な気持ちで目が覚めた。
朝起きて、家に誰も居ない幸福感。これからの学校生活への絶望感。その二つが同時に襲ってきた。
「……ふぅ。」
久しぶりにストレートアイロンを取り出して髪の毛に熱を通す。寝癖が目立つボブが綺麗な内巻きになった。
朝食を食べ、制服に着替え、今日は久しぶりにメイクもした。と言っても、唇に薄い色のティントを塗っただけだけど。
「……行ってきます。」
誰も居ない家に向かってそう言い、私は玄関のドアを閉めた。
「あーりさちゃん」
「え……。」
トン、と視界に白くて細い脚が現れたと思ったら、誰かに名前を呼ばれた。驚いて顔を上げると、にこにこしながら私の顔を覗き込んでくる女の子が目に入った。
「え、と。」
その子は見慣れた制服を着ている。……同じ学校の人だ。
「一緒に学校行きましょ?」
その子はそう言うと、笑顔のまま私の腕を引っ張った。
「えっ……。」
私はされるがままにその子に着いて行った。
「へぇー、亜莉紗ちゃんって学校の最寄り駅に住んでるんですねぇ!私反対側の最寄りから来てるから知らなかったぁ」
「何なんですかいきなり……っ。」
私は何とか腕を振り払おうとしたけど、物凄い力で掴まれていてなかなか解けない。が、不思議と腕は痛くなかった。それに、気のせいか私の歩くペースに合わせてくれてる気がする。
「あの、あなた誰なんですか。いきなり私の家まで来て何のつもりですか。」
「あー、そっかぁ、私は亜莉紗ちゃんのこと知ってても亜莉紗ちゃんは私のこと知らないんですよね。ごめんなさい、いきなり馴れ馴れしくしちゃって」
その子はそう言うと、パッと私の手を離した。そして、赤信号になった横断歩道の前で立ち止まり、体をくるりとUターンさせてこちらに向ける。
「加藤玲亜(かとうれいあ)ですっ!亜莉紗ちゃんと同じ高校の、夜間学校の生徒です!」
「夜間、の……。」
加藤さんはにししと笑いながら頷いた。
「そうそう。うちの高校、定時制だから夜間もあるでしょ。私はそっちの生徒なんです。だから普段は会うことはないんだけど……」
そう言いながら人差し指を口元に添える。ぷるぷるの葡萄色の唇に、アーモンド型のピンクと黒を基調としたネイルがよく映える。私は加藤さんの全身をぐるりと見回した。
薄いココアピンクのツインテールに、ぱつんと綺麗に切り揃えられた前髪。メイクはぷっくりと仄かにピンク色を帯びたキラキラの涙袋に、真っ黒のアイラインとカラコンが印象的だ。制服は指定のリボンではなくピンク色のリボンで、グレーのオーバーサイズのカーディガンを合わせている。制服なのに網タイツ……。学校に行くのに厚底のヒール……。それにそのリュック、十万円近くするブランドの奴じゃない。ネックレスも五万円以上する惑星型のモチーフの物だった。
「私、亜莉紗ちゃんと仲良くなりたいんですっ!」
加藤さんはそう言うと、バッと深く頭を下げた。頭の両サイドで括られたツインテールが暴れ狂う。
「良ければ、お友達になってください!」
そう言ってリボンの指輪が煌めく手を差し出してきた。
「……え、ええ。」
困り果ててしまった。いきなり家の前で出てくるところを待ち伏せされて、いきなり「友達になってください」だなんて。まずどうやってうちの住所が分かったの。それに学校で会えばいいものをどうしてわざわざうちまで来たの。それに。
「……私が、『あの噂の人』だからなのかな。」
「……えっ?」
顔を上げた加藤さんは、きょとんとした顔で私を見上げた。
「あ。ごめん、何でもな……。」
「実はそうなんです!私、あの噂から亜莉紗ちゃんに興味持ったんです!」
「……え。」
加藤さんは漆黒の大きな目をキラキラと輝かせてから、またにこりと微笑んだ。
「実は……、私も亜莉紗ちゃんと同じ人が好きなんですっ!」
そして、顔を真っ赤にしてそう叫んだ。
「……え。」
思考が一瞬フリーズした。
「それって……。」
「そうです、関根卯乃羽ちゃんが好きなんです、私も……!」
両手で赤くなった頬を抱え、加藤さんは恥ずかしそうにそう言った。
「……え。」
きゃー、と目を不等号のようにしてその場で飛び跳ねる加藤さんを呆然と見詰める。
……何だか、めんどくさいことになりそうだ。
「ふんふんふふふーん♪」
隣で鼻歌を歌いながらスキップして歩く加藤さんを尻目に、私は無言で地面を睨みながら歩いていた。
この子、何を思って私と友達になりたいなんて言ってるんだろう。だって、彼女の中で私は「恋のライバル」だ。同じ人が好きな者同士で、普通なら友達になりたいなんて思うわけない。
……もしかして、私が卯乃羽に告白したんじゃないって気付いてるとか?ほんとは卯乃羽が私に告白したんだって知ってるとか……。
ううん、それじゃもっと友達になりたいなんて思うわけない。「好きな人の好きな人」なんて、邪魔でしかないじゃない。
「……。」
よく分からない。
「あ、そろそろ学校着きますね。じゃあ授業頑張ってね、亜莉紗ちゃん!」
「え。」
いきなりそう言って立ち止まった加藤さんを見て、私も思わず足を止めてしまった。
「私まだ授業じゃないので!近くのカラオケで時間潰そっかなって思います!」
「あ、そっか。」
夜間の授業が始まるのは午後五時半だ。今からだと十時間近く時間が空いている。それにしても、十時間近く一人でカラオケするつもりなんだろうか。
「何か付き合わせちゃってごめんね。」
私は敢えてそれには突っ込まないでおいた。
「いいんです!私が勝手に亜莉紗ちゃん家まで行っちゃっただけですし……。はっきり言って迷惑でしたよね?」
そう言いながらチワワみたいな目で私を見上げてくる加藤さん。一応迷惑な自覚はあるらしい。
「全然大丈夫。それじゃ。」
「あ、待って!」
校門に向かって敷地の塀沿いに歩いていこうとすると、そう叫んだ加藤に手を掴まれた。
「私と会ったこと、卯乃羽ちゃんには言わないでください!」
「……え。」
「私と知り合ったことも、私の存在を知ってることも、全部秘密にしてくれませんか……?」
潤んだ瞳で私を見上げながら加藤さんはそう言う。
「……それはどうしてか訊いてもいいかな。」
「卯乃羽ちゃんの大切な亜莉紗ちゃんに近付いたと思われるのが嫌なんです。……計算高いみたいじゃないですか。」
「それ、どういう……。」
「取り敢えずっ、絶対に私の名前も話題も出さないでください!」
加藤はそう言うと、キッと鋭い目で私を見上げてきた。……気のせいだろうか、睨み付けているように見えた。
「……お願いしますねっ」
と思っていたら、パッとにこにこした笑顔の加藤さんに戻った。
「それじゃ!」
加藤さんは律儀にお辞儀をすると、手を振りながら走って行ってしまった。
「はぁ……。」
一気に全身の力が抜けてしまった。加藤さんか……。変わった子だったな。
「……あ。」
スマホの画面を見て、私は声を上げた。やば、あと十分で授業が始まる。
「急がなきゃ……。」
気分はあまり乗らなかったけど、私は走って校門をくぐった。
今日の一、二時間目は体育だった。私は体を動かす気になれなかったので、生理だと嘘を吐いてサボっている。
体育館の隅で体育座りをしながらレポートを書いていると、入口から誰かが入ってきた。
「すんませーん、遅刻しましたぁ」
靴下のままぺたぺたとこちらに歩いてくるのは、制服姿のレミだった。
「あれ、亜莉紗も見学?」
「ん。」
私がこくりと頷くと、レミは「ふーん」と言いながら私の隣に座った。すると体育の教師がこちらに向かって歩いてくる。
「川嶋、見学か?レポート用紙は?」
「あー、忘れました」
「取りに行ってこい」
「へいへーい」
レミはだるそうに立ち上がると、のそのそと出口に向かって歩いていった。
驚いた。てっきりレミには真っ先に避けられると思っていたから。
レポート用紙を取りに行って戻ってきたレミは、また私の隣に落ち着いた。
「ねー亜莉紗」
レポート用紙に学年、クラス、出席番号と名前を書きながら、レミはそう口に出した。
「あんた、よくあのタイミングで卯乃羽に告白しようと思ったよね。」
「……え。」
「だってあの日、卯乃羽が好きな人に告白するって言ってた日じゃん。あれ聞いて焦ったの?それにしてもやばいでしょ」
……あ。私は必死に頭の中で答えを捻り出そうとした。でもいい具合の嘘が思い付かなくて、笑いながら誤魔化すしかなかった。
「そうなの。卯乃羽が誰かと付き合い始めたらもうチャンスないと思って。」
思ってもないことを言ったものだから、口角が変な風に震えてしまった。けど、レミはレポートに集中していたのでそんな私の顔なんて見ていなかった。
「何か……。亜莉紗って思ってたんと違ったわ」
レミはレポートを書き殴りながら淡々とそう言う。心臓が凍り付いてしまったみたいだった。頭の中が冷たくなり、それが指先へ、足先へとじわじわ広がっていく。
「あんま友達困らせることしない方がいーよ。」
暑くもないのに汗がだらだらと流れ出る。私は誰も見てないのに口角を吊り上げるのに必死だった。
「はは。」
こういうことか。
卯乃羽は、こうなるのが怖くて、「学校を辞める」なんて言ってたんだ。
体育の授業に卯乃羽は来なかった。ああ、今日も休んでるのか。やっぱり気まずくて来れないのかな。そりゃそうだよね、「告白された側」だって行きづらいに決まってる。
「でも、そんなに悪いことなのかな。」
別に、好きになったのがたまたま同性だったってだけじゃない。私が色々言われたりするのは、実質卯乃羽が色々言われているみたいで嫌だ。
「……ふぅ。」
体育の授業が終わり、生徒達が着替える中、私は一人でホームルーム教室へ向かった。レミは、いつの間にか体育館から居なくなっていた。
じんじんとお腹の底が痛くなる。何故か涙が零れそうになった。
「……頑張ろう。」
自分にそう言い聞かせて、階段を一段一段、ゆっくりと上っていった。
ホームルーム教室に着くと、まだ誰も来ていなかった。が、すぐに他のクラスメイト達が次々と入ってくる。
「お前昨日の写真見た?あいつの顔やばくねー?」
そう言ってゲラゲラ笑いながら男子達が入ってくる。
「ねーお前らうるさい!」
それに続いて、夢架と彩奈とモモが入ってくる。
「……」
それから、他のクラスメイト達もぞろぞろと教室に入ってきた。
けど、レミと卯乃羽は、ホームルームが始まっても教室に入ってこなかった。
「それじゃあ、ホームルームを終わります」
結局、ホームルームが終わっても、二人は来なかった。
卯乃羽は単に学校に来てないだけかもしれないけど、レミは確実に私を避けてホームルームに来なかった。レミはいつも遅刻と早退とサボりばかりしているから、今日のもただの気まぐれかもしれない。でも何故か、そうは思えなかった。
「……。」
私は、真っ先に一人で教室を出た。
誰も私に話し掛けてくれるクラスメイトは居なかった。
四時間目の授業が終わり、鞄に筆箱を詰めながら、私は小さな溜め息を吐いた。今日は午後の授業を取っていない曜日なので、いつもより早く帰れる。学校で一人ぼっちでお昼を食べなくてもいいし、気が楽だ。
今日は帰ったら勉強しよう。推薦入試狙ってるから、次のテストでもいい成績を取らなきゃ。
そう思いながら階段を降りていると、下から二人の女子生徒が上ってきた。卯乃羽に告白された日の朝、階段の前でレミと一緒に居たギャル達だった。
すれ違いざまに、二人は私のことをちらりと見て、すぐに視線を逸らして通り過ぎていった。
「あの子でしょー?この前レミと喋ってた子」
「この前あの話聞いた途端見るからにテンション下がってたしそういうことだよね」
頭上からそんな会話が聞こえてきた。私は足を止めずに階段を降り切った。
「……。」
足先が冷たくなった。心臓がキュッと痛くなる。
私は走って玄関を飛び出した。
「はぁっ、はぁっ……。」
じりじりと照り付ける初夏の日差しが私を突き刺した。暑いわけではないのに汗が止まらなかった。本気で走っていたわけでもないのに、心臓がバクバクと鳴り止まない。
「うぅっ……。」
私は歩道側に背を向けて、学校の塀に顔を向けた。目に涙が溢れてくる。それはすぐに決壊したかのように零れ出した。
「卯乃羽……。何で来てくれないの。」
涙は止まらなかった。むしろどんどん溢れてきて収まる気配はない。
「……。」
とにかく、今日はもう家に帰ろう。
帰って、早く一人になりたい。
「……よし。」
鏡に映った自分の目を見詰めながら、私は大きく頷いた。鏡の中の私も、頷きながら同じように私の目をじっと凝視してきた。
「大丈夫。行ける。」
自分にそう言い聞かせるように呟いた。何度も深呼吸をして、必死に気持ちを落ち着かせようとする。
「……行こう。」
私は洗面所を出て、リビングの電気を消した。
今日は月曜日だ。土日を挟んで、状況が変わってるかもしれない。
そうだ。みんなあんな噂なんてもう忘れてるかもしれないじゃない。大丈夫、きっとみんな今まで通り接してくれるはず。
「……行ってきます。」
私はローファーを履き、玄関のドアを押し開けた。
真っ白な太陽の光が、私を出迎えてくれた。
学校に着き、一時間目の授業が始まる。今日は現代文だ。卯乃羽と被っている授業だったけど、やっぱり卯乃羽は来なかった。
卯乃羽、いつまで来ないつもりなの。それともほんとに学校辞めるつもりなのかな。
「……。」
ついイライラしてしまう。
卯乃羽は何も悪くないってことになってるのに。
せめて私のそばに居てよ。ずっとそばに居てくれるって言ってくれたじゃない。
私は肘をついて頭を抱えながら、シャーペンを何度もカチカチと鳴らした。
ホームルームの時間。クラスメイト達が教室に集まっても、先週と同じく、誰も私に話し掛けてくることはなかった。誰も私に目もくれない。まるで私なんてそこに存在していないようにさえ思えてきた。
こんなの初めてた。今までは、誰かしら周りに人が居たのに。
……あれ。何だろう、この違和感。ちくりと胸の辺りが痛くなった。
誰かが私のことを悪く言ってるわけではないのに。みんな、あんな話なんてすっかり忘れてしまってるのが見て分かるのに。誰も、私を見て何かを耳打ちし合ったりしていないのに。
……いや、だからだろうか。“誰も私を見たり私の話をしていない”から辛いのかもしれない。今までは周りに恵まれて生きてきたから、それが急に変わってしまったのが耐えられないのかもしれない。
でもどうして。仮に私が卯乃羽に告白したとして、それを見られて逆ギレしたからと言って、どうしてみんなここまで私を避けるの。
――ああ、違う。その瞬間、私は理解してしまった。
今までは卯乃羽が居たんだ。卯乃羽が居たから、みんなは卯乃羽と一緒に居る私とも仲良くしてくれてたんだ……。
「……ははっ。」
微かに開いた唇から乾いた笑いが漏れる。そんな私の声を聞いたクラスメイトは、誰も居なかった。
あれから、何日経ったんだろう。中間テストも終わり、制服も夏服に変わり、いよいよ受験に向けて準備をしなくちゃいけない時期になった。
あれから何も状況は変わらなかった。卯乃羽はずっと学校を休んでいるし、相変わらず私は空気みたいな存在。学校で話し掛けてくるのは教師くらい。そろそろ面接の練習もしなくちゃいけないのに、家でも学校でも一言も言葉を発さない日が何日も続いたせいで、声の出し方も忘れてしまった。
早く卒業したい。最近はそればっかり考えてしまう。
私も、逃げられるなら卯乃羽みたいに逃げてしまいたい。
「……大学、諦めようかな。」
自分の部屋のベッドに寝そべりながら、私はぽつりとそう呟いた。
高校二年生の時から進学に向けて頑張ってきたけど、何かもう何もかもが面倒に思えてしまった。またコンカフェのバイトを始めて、しばらくはそれで生活していくのもいいかもしれない。今すぐ高校を辞めてそうしてもいいかもしれない。
「疲れたなぁ……。」
明日も、学校に行かなくちゃ。
ごろりと寝返りを打つと、ベッドのシーツに体が沈んでいく。目を瞑ると、そのままベッドを突き抜けて、床も突き抜けて、どこまでも沈んでいってしまうような感覚になった。
「……ん。」
うるさい。遠くで何かがずっと鳴り続けている。
私はむくりと体を起こして、目を擦りながらスマホの画面を見た。
やば。結構寝ちゃったな。勉強しなきゃ……。
ピンポーン。ピポピポピンポーン。
「っうるさ……。」
私の目覚まし代わりになった音の正体は、どうやらインターホンらしい。誰かが連打しているのか、間も空けずに鳴り続けている。
「誰……。」
何か通販で買ったっけ。それとも宗教の勧誘か何かかな。……もしかして、あいつが戻ってきたとか。
「……。」
私は部屋から出て、音を立てないように玄関へ歩いていった。
「……。」
「あいつだったらどうしよう」と思って、居留守しようかと思ったけど、私は恐る恐るドアを開けた。そこにたっていた人物を見て、私は思わず目を丸くして叫んだ。
「あ。」
ドアが開いたことに気付き、その人物は顔を上げた。
「亜莉紗ちゃん!」
「加藤さん……。」
ドアの向こうに立っていたのは、加藤さんだった。私は慌てて髪を撫でて寝癖を整える。
「急に押し掛けてごめんなさい!ちょっと相談したいことがあって……。」
もじもじと恥ずかしそうにそう言う加藤さん。
「相談したいこと、って何かな。」
「卯乃羽ちゃんのことについてなんですけど……」
卯乃羽について……。私はついその名前に反応してしまった。
「家の中で話そ。入って。」
「うん……」
加藤さんはこくりと頷くと、階段を上って家の中に入った。
「お邪魔します……」
厚底のヒールを脱ぎ、十センチほど身長が縮んだ加藤さんを、部屋に招き入れた。
「座ってて。今お茶持ってくるから。」
「あ、はい!」
私は肉球型の座椅子に加藤さんを座らせ、部屋を出て階段を上った。
こんなことならもっと片付けておけば良かった……。と今更後悔したけど、急だったから仕方ない。
「お待たせ。」
私はペットボトルの麦茶とコップを二つ持って、部屋に戻ってきた。
私が部屋に入ると、加藤さんは立ち上がって、
「ありがとうございます!」
と言い、カップを持ってくれた。
「麦茶しかなかったけど大丈夫かな。」
「はい!わざわざありがとうございますっ」
麦茶をコップに注ぎ、私達は向かい合って座った。
「あの……。亜莉紗ちゃん、あれから卯乃羽ちゃんからLINEの返信来ましたか?」
「いや、そもそもLINEしてない……。」
「そうですか……。」
加藤さんは口元を手で隠しながらうーんと唸った。
「じゃあ私にだけ返信してくれてないわけじゃないのかな……」
加藤さんはぽつりとそう呟く。
「何かあったのかな。」
「あ、ただ単に卯乃羽ちゃんから返信が来なくて。あれから学校にも行ってないみたいだし、心配で……。」
「あー……。」
気まずい。まるで私のせいで卯乃羽が学校に行けなくなったんだと言われているみたいだ。私は加藤さんから視線を逸らした。
「亜莉紗ちゃんは学校ちゃんと行けてるんですか?」
「私は、まぁ。」
「……なら良かったです!」
加藤さんは満面の笑みでそう言う。
「亜莉紗ちゃんが居るなら、卯乃羽ちゃんも行けばいいのに。こんなことで単位落としたりしたら勿体無くないですか?」
眉を八の字にさせて加藤さんはそう言う。きっとこの子に悪気があるわけではないんだ。でも、どうしても、私が卯乃羽に告白したこと――すなわち「卯乃羽が私に告白したこと」を下らないことだと思っているように見えてしまった。そりゃそうだ、彼女はそのことを知らないんだから。好きな人が他の誰かに告白されるなんて、プラスに捉えることなんて無理だもの。
「……そうだね。」
結局、この子が家に来てまで私に会いに来たのも、「私のため」じゃなくて「卯乃羽のため」だった。
惨めな気持ちになった。違うのって言いたかった。ほんとは、私が卯乃羽に告白したんじゃないの。
「お願いがあるんですけど、亜莉紗ちゃんから卯乃羽に連絡してもらうことって出来ないですか?……亜莉紗ちゃん?」
ずっと下を向いて黙り込んでる私の顔を、加藤さんがじっと覗き込んできた。
「……分かった、好きにして。」
こんな言い方しなくても良かったのは分かってる。加藤さんは何も悪くないってことも。でも、今はそんなことまで気を使う心の余裕がなかった。
「じゃあ、今ここで電話してみてください!」
「……え。」
加藤さんは身を乗り出して、私の手を包み込むように握ってくる。
「卯乃羽ちゃんに、電話してください。今、ここで。」
漆黒の瞳でじっと私を捉える加藤さんをちらりと見上げる。口角は不自然に吊り上がっている。が、その目は笑っていなかった。何故だか背筋がぞくっとする。
「……分かった。」
スマホをベッドの上から手繰り寄せ、LINEを開き、卯乃羽とのトークを開く。加藤さんは目をらんらんとさせながらその様子をじっと見詰めてきた。
「……。」
呼び出し音が数回繰り返される。その間もずっと加藤さんは私を見詰めていたので、息が詰まってしまいそうになった。早く出て、卯乃羽。
『……もしもし』
「卯乃羽。」
三十秒近く待った後、卯乃羽は電話に出てくれた。加藤さんの目を見ると、加藤さんはスマホを持った私の手を握り、自分の方に引き寄せた。そして画面をタッチする。
『……亜莉紗?』
卯乃羽の声が部屋中に響き渡る。……スピーカーをオンにしたんだ。
「あ、卯乃羽……。ずっと学校来てないけど、大丈夫なのかな。」
取り敢えずそう尋ねてみる。
『ごめん、行こうって思ってるんだけど、やっぱ行く気になれなくて……』
「もう三週間くらい来てないし、テストも受けてないでしょ。専門行くんじゃなかったの。」
『担任からも電話来た……。まじであんなことで進路ドブに捨てるって笑えるよね』
はははと乾いた笑いを漏らす卯乃羽。
『ごめん。亜莉紗にはほんとに迷惑ばっか掛けちゃってる。私のせいできっと嫌な目にたくさん遭ってると思うし……』
「……。」
『もし。もしまた、私が学校に行けるようになって、みんなの誤解も解けたら……』
加藤さんが、じっとスマホの画面を見詰めている。
『告白の返事、聞かせてくれないかな。』
私は思わず手に持っていたスマホを落としそうになった。その手元だけをただ見詰めて、微かに体を震わせる。
ドッ、ドッ、と静かに心臓が鼓動を刻む。鋭い視線が全身に突き刺さるのを感じた。
「……どういうこと?」
加藤さんが、目を真ん丸に見開いて、私を見詰めていた。
心臓が暴れ狂う。私は加藤さんの顔を見ることが出来なかった。スマホに固定された視線が左右にぶれる。
『……亜莉紗?今なんか声聞こえたけど誰か居るの?』
スピーカーから、卯乃羽の声だけが聞こえてくる。他の音は全てシャットアウトしてしまったみたいだった。
静まり返った部屋の中、私は冷や汗を流しながらゆっくりと口を開いた。
「……あ。」
が、その先の言葉は出てこなかった。いや、言えなかった。
「……!」
加藤さんが、中腰になって私の肩を掴んだのだ。ギリギリと音を立てて加藤さんの指が皮膚に食い込む。痛みで顔を歪めて、やっと加藤さんの顔を見ることが出来た。見上げると、長く垂れたツインテールの毛先の上に、物凄い形相で私を見下ろす加藤さんが居た。
「私が居ること、絶対に言うな。」とでも言いたげだ。私は痛みと恐怖で、無言で何度も頷いた。
「誰も居ないよ。私、今一人暮らしだし。」
やっとの思いでそう言うと、加藤さんは手を離してくれた。肩を擦りながら加藤さんを見ると、満足そうな顔で目を細めて微笑んでいた。
『そっか。ねぇ、亜莉紗。』
まだ何か言う気なの。私は今すぐにでも電話を切ってしまいたい気分だった。お願いだからこれ以上余計なことは言わないで。
『こんなこと言ったら重いかもだけど、私、ほんとに亜莉紗が好きだから。』
そんな私の願いも虚しく、卯乃羽は小さな声でそう言った。
『告白の返事、考えといて。』
ブツッ。卯乃羽のその言葉を遮るように、電話が切れる音がした。加藤さんが、スマホの画面をタップして電話を終了させたのだ。
「……」
私は、無言でスマホの画面を見詰めた。画面には卯乃羽とのトーク画面が表示されていた。意味もなくそれを凝視する。
地獄みたいな空気の部屋に、加藤さんと私の呼吸音だけが聞こえていた。最悪の状況だ。私は心の中で卯乃羽を恨んだ。
「……ははっ」
唐突に、加藤さんが口をウインナーみたいにして笑った。
「はー、まじウケる」
私はそんな加藤さんの口元に視線を固定して口を噤んだ。
「ほんとに面白いですね、亜莉紗ちゃんって。」
「……え。」
どうして今私の名前を出されるのかが理解出来なくて、私は思わず素っ頓狂な声を上げた。ゆっくりと視線を上に持っていき、加藤さんの顔を見る。
「……。」
加藤さんは、笑顔だった。二重幅と涙袋に囲まれた目を細めて、真っ白の歯を見せて笑っていた。何でこの状況で笑っているのかが理解出来ずに、私はそんな加藤さんの顔をじっと見詰めてしまった。
「私、帰りますね!」
いきなりそう言って、加藤はすくっと立ち上がった。
「え。」
「卯乃羽ちゃんが元気なことも知れましたし!ありがとうございます、私が掛けてたら絶対出てくれなかったので。」
「え……。」
「お邪魔しましたっ!」
加藤さんはそう言うと、勝手にドアを開けて部屋から出ていってしまった。
「あ、待って。」
私は慌ててそれを追い掛ける。
部屋を出ると、玄関で靴を履く加藤さんの後ろ姿が見えた。
「……それじゃ、またね、亜莉紗ちゃん!」
身長がプラス十センチになった加藤さんが、にこりと振り返って玄関のドアを開けた。
「ああ、またね……。」
私はドアを抑えながら手を振って、加藤さんを見送った。
ばたりとドアを閉め、鍵を閉める。私はまだ暴れている心臓にそっと手を当てた。
「……。」
靴を履いている加藤さんの表情が、全身鏡に映っていた。
「……。」
加藤さんは、笑いながら鏡越しにずっと私を見ていた。
「……はぁ。」
私は、黒板を眺めながら溜め息を吐いた。と同時に、大きな欠伸が出る。うう、目がしぱしぱする。昨日の夜、ちゃんと眠れなかったせいだ。
加藤さんが帰った後も、夜になっても、ずっと昨日の加藤さんの顔が頭から離れなかった。私を見ながら笑っていた加藤さんの顔が、目を瞑ると瞼の裏に浮かび上がってくるのだ。
絶対、私が卯乃羽に告白したんじゃなくて、卯乃羽が私に告白したんだってバレたよね。ずっとそれを望んでいたはずなのに、素直に喜べなかった。
きっと加藤さんは、私を邪魔者だって思ったはず。きっと、今までみたいに私と友達になろうなんてもう思ってないんだろうな。
「……はぁ。」
……友達が出来ると思ってたけど、やっぱり無理だったなぁ。
「関口さん。」
ホームルーム中、名前を呼ばれて私は顔を上げた。教卓の前で担任が手招きをしている。
立ち上がって教室の前に行くと、担任が一枚のプリントを手渡してきた。
「これ、進路指導部の先生からです。そろそろ面接の練習をした方がいいって言ってたので、書いてある日にちの中から日程を決めておいてください。」
「分かりました。ありがとうございます。」
私はプリントを受け取って、自分の席に戻ろうとした。
「あ、ついでにこれ配ってもらってもいいですか?次の授業の準備をしなくちゃいけなくて」
担任は腕時計を見ながらそう言う。
「はい……。」
プリントの束を受け取ると、担任は「よろしくお願いします」と言ってそそくさと教室から出ていった。
私は廊下側の列の一番前の席に座っていたクラスメイトにプリントを渡そうとした。
「これ、後ろに回して。」
「……。」
プリントを目の前に差し出しても、無反応だ。そのクラスメイト――相澤さんはスマホを弄っているので、気付いてないのかもしれない。
「相澤さん。プリント、後ろに回して。」
今度ははっきり名前を呼んでそう言った。ちゃんと聞こえているはずだ。そう思ったけど、やっぱり無反応だった。
「……。」
私は隣の列に移動する。
「大島くん、これ後ろに回して。」
「ははっ、お前それぜってーさぁ……」
輪になって談笑していた大島くんは、私をちらりと見て、一瞬黙り込んだ。
「……はいはい」
そして私の手からプリントを引ったくり、輪の中の男子達に配った。
「なー、プリントだって」
そして他のクラスメイト達にも配っていく。
「えー、何それ」
スマホを弄っていた相澤さんが顔を上げる。
「プリントだってよー」
相澤さんは席を立って、大島くん達の輪の中に入っていく。
「ありがと」
大島くんが相澤さんにプリントを渡した。
「……。」
その様子を見て、私は教室の前で立ち尽くした。
……これ、相澤さんは、本当にただ私に気付かなかっただけなのかな。
「あー、授業だりー」
ぞろぞろとクラスメイト達が教室から出ていく。みんな、後ろのドアから出ていった。……まるで私が教室の前に立っているから、それを避けて通るかのように。
「……。」
私の、思い過ごしだよね。
思い過ごし、なんだよね……。
心臓がぎゅっと痛くなった。
三時間目が始まっても、私はまともに教師の話を聞くことも出来なかった。
何で急に無視されるようになったの。今まではこんなこと絶対なかったのに。
最近だって、みんなから私に話し掛けてくることはなかったけど、事務的な用事で私が話し掛けたらみんな普通に反応してくれた。それなのに、いきなりどうして。
目の奥がじーんとして涙が出てきそうになる。私は喉の奥をきゅっと締めてそれを必死に堪えた。
何でなの。この土日で何かあったっけ。私、誰とも会ってないし誰にも何もしてな――
「あ。」
加藤さんが、家に来たじゃない。
加藤さんに、「卯乃羽が私に告白した」ってバレたんじゃない。
……まさか。
心臓が静かに鼓動を刻む。私は机の上でぎゅっと手を握り締めた。
「……学校、行きたくない。」
ザアアア、と遠くの方から雨の音が聞こえてくる。薄暗い部屋の中で、私は毛布にくるまりながらぽつりと呟いた。
そろそろ起きて学校に行く準備をしなくちゃいけない時間だ。起き上がって、部屋を出て、リビングに行って、顔を洗って、ご飯を食べて……。
いつものようにそれをこなしていけばいいだけなのに、何故か体が動かなかった。もぞもぞと布団の中で芋虫のように蠢くことは出来ても、体を起こすことが出来なかった。
あれから、「学校に行きたくない」と思い始めるまで時間は掛からなかった。今までとは違う、みんながあからさまに私を避けている中学校に居るのは、物凄い苦痛だった。
「もう嫌だなぁ……。」
ほんの一ヶ月弱でこんなに生活が変わってしまうなんて、想像もしたことなかった。
「学校、行かなきゃ……。」
私は精一杯の力を振り絞って起き上がった。
やっとの思いで学校に着くと、足取りは更に重たくなった。足にバーベルでも括り付けられてるんじゃないかってくらい、足を動かすのが辛くなった。
何とか足を動かして校舎に入ると、ロッカーから教科書とノートを取り出す。それを鞄に入れて、ロッカーの鍵を掛けている時だった。
「……ねぇ、やっぱりあいつおかしくない?」
聞き慣れた声が、ロッカーの裏側から聞こえてきた。
「それは私も思ってた……」
私は動きを止めて、ごくりと唾を飲み込んだ。
「やっぱモモもそう思う?」
その声は、夢架とモモのものだったのだ。
何の話をしてるんだろう。「やっぱりあいつおかしくない?」。「あいつ」って誰。分からなかったけど、何故だかこの会話が自分と無関係だと思えなかった。
「流石に怖くない?ここまでやるって相当だよね」
「亜莉紗のこと嫌ってたのかな?でもあの二人って接点なかったよね」
私の、名前。
「取り敢えずめんどくさいことにはなりたくないから、亜莉紗と関わるのはやめよ。」
「そうだね。」
私はロッカーの前で立ち尽くした。そんな私の横を、スマホを見ながら歩いていた彩奈が通り過ぎる。
「あ、彩奈おはよ!」
「何の話ー?」
「んー、いや、ほら……」
「ああ……」
夢架達は声を小さくして会話を続ける。
「にしてもさー、私達巻き込むのもやめてほしーよね。」
「卯乃羽と亜莉紗は私達が嘘吐いてるって分かるじゃん。まぁ、分かったとこで亜莉紗は何も言えないだろうけど」
「卯乃羽にバレたら厄介じゃない?だって卯乃羽って亜莉紗のこと好きだからあの日告白してたんでしょ。絶対亜莉紗守るためにほんとのこと言うじゃん。そしたらあいつはどうするつもりなんだろうね」
「まー、あの子のことだから色々考えてんじゃない?玲亜は計算高いし」
……玲亜。玲亜って、加藤さんの下の名前だ。
「もうこの話やめよ!早く授業行こうよ」
「そうだね。行こ」
三人が歩き出す。私はロッカーに額をくっ付けながら、呆然と自分の足元を見ていた。
「……あ」
足音がピタリと止まる。私はゆっくりと顔を上げて、右側を見た。
「……亜莉紗」
夢架達が、私を見ていた。
「やば、今の聞かれてたんじゃない?」
彩奈がぽつりとそう呟く。
「亜莉紗!」
夢架が小走りで私へ近付いてくる。それに彩奈とモモも続く。
「今の、絶対誰にも言わないでよ。」
私をじとりと睨み付けながら、夢架は冷たい声でそう言った。
「……全部、加藤さんが指示したからこうなったってことなのかな。」
私は掠れた声でそう尋ねた。
「玲亜に言ったら許さないから。」
夢架は、私の質問には答えてくれなかった。そして、踵を返して歩いて行ってしまう。
「あんまり余計な詮索しない方がいいよ?」
夢架に続きながら、苦笑いした彩奈がそう言う。
「……待ってよ。」
私は一番後ろで二人を追い掛けていたモモの肩を掴んだ。
「……ごめん、亜莉紗。」
モモはちらりと振り返ると、そう言って私の手を振り払った。
「……待ってよ。」
さっきより小さな声で私はそう呟いた。三人を追い掛けて廊下に出たけど、三人は階段を上っていって、もうその姿は見えなかった。
「……やっぱり、加藤さんが。」
手に持っていた教科書やノートが、床にバサバサと落ちた。それを拾う気にもなれなくて、私は壁に背中をつけて凭れる。
「でも、どうして。」
私が卯乃羽に告白したって嘘の噂を流したのは、加藤さんだったのかな。夢架達が卯乃羽に逆ギレされたのを怒って流した噂が、どこかで拗れただけだと思ってたけど、違ったのかな。
でも、もしそうなら、彼女は私の家に来た日より前から本当のことを知ってたってことになる。
「……まさか。」
私は口元を抑えて絶句した。
「……卯乃羽……。」
私は胸のポケットからスマホを取り出し、震える指で画面をスワイプした。
『……もしもし、亜莉紗?
……亜莉紗、どうしたの?大丈夫?』
「卯乃羽……。」
カタカタと手が震える。私は何とかトイレに辿り着き、一番奥の個室に潜り込んだ。
「卯乃羽。お願い、学校来て。」
自分でもびっくりするくらい低い声が出た。掠れていたし、ちゃんと聞き取ってもらえただろうか。
『……何か、あったの?』
卯乃羽はそんな私の声を聞いて、心配そうにそう尋ねてくる。
「私が卯乃羽に告白したことになってたの、ただの話の拗れじゃなかった。」
『……え、それって……』
「加藤さん――加藤玲亜が、夢架達にそういうことにしろって言ったみたいなの。」
ガタン。スマホのスピーカーから、耳を劈くような雑音が聞こえてきた。卯乃羽がスマホを落としたんだろうか。
『待ってよ、加藤玲亜って……玲亜のことなの?』
「加藤さんには知り合ったことは絶対卯乃羽には言うなって言われたけど、それも何か悪意があったからかもしれない。それに……。」
『待って待って待って、亜莉紗、玲亜と会ったの?いつ?』
「……卯乃羽が学校来なくなってすぐ。朝家を出た時、加藤さんが家の前で待ってたの。」
『え。え。待って、頭が追い付かない。』
卯乃羽は明らかに狼狽えている。やっぱり、加藤さんがあんなに自分と私が知り合ったことを隠したがったのには、何かわけがあったんだ。
「この前休日に電話した時も、加藤さんが家に来てたの。卯乃羽と連絡つかないから、私から卯乃羽に電話を掛けてくれって言われて。卯乃羽が私に告白したってバレた時、すごいびっくりしてたけど、あれも演技だったのかも。」
『待ってよ、待って……』
消え入りそうな声で卯乃羽はそう言う。私は思わず黙り込んだ。
『話が違うじゃん、玲亜……』
「……卯乃羽、何か知ってるの。」
私はスカートをぎゅっと握り締めながら唇を噛んだ。
「何か知ってるなら、全部話して。」
卯乃羽に訴え掛けるように、両手でスマホを持ちながらそう言った。卯乃羽は数秒の沈黙の末、
『……分かった。全部話す。』
小さな声を絞り出すようにしてそう言った。
『……玲亜と私は、高校一年生の春に知り合った。私は高校に入学する前からSNSで同じ学校の人と繋がってたんだけど、その中に玲亜も居て、DMでやり取りしてた。
話してるうちに仲良くなって、玲亜の方から『卯乃羽ちゃんの授業が終わったら会いませんか?』って言ってきて、私達はリアルでも仲良くなった。何回か会った後、休日に遊びに行ったりもした。
これは後から知ったんだけど、玲亜は私の他にも昼間登校の生徒とたくさん関わりを持っていて、私達の学年の中では結構有名人だった。まぁ、玲亜は可愛いし、いい意味で入学当初から目立ってたし、コミュ力も高かったし。でも、それだけじゃなくて、玲亜は影で恐れられていた。
一年の夏休み明け、玲亜とトラブルがあった子が、学校を辞めたんだって。理由はよく分からないけど、多分玲亜が友達を使って攻撃したから、それに耐えられなくて辞めちゃったんじゃないかって噂が流れてた。
他にも、玲亜は地味めの大人しい子をすごい嫌ってたり、影で色んな子の悪口を言ったりしてたから、みんな玲亜に逆らえない風潮が出来てた。
そのせいで、玲亜は夜間の生徒達からはハブられてたんだって。ハブられてたってよりかは、避けられてたって言った方が正しいかも。みんな玲亜に関わったら自分まで攻撃されるかもしれないって思って、そっと距離を置いたんだと思う。私も、玲亜が攻撃的な性格なのは知ってたけど、それでも友達だし普通に接してた。玲亜がみんなに避けられて病んだ時も、相談に乗ったりしてた。
……それは二年になっても、三年になっても変わらなかったんだけど、それがいけなかったのかもしれない。私も玲亜と距離を置くべきだった。
……この前、玲亜が私に告白してきたの。』
「え……。じゃあ、卯乃羽は加藤さんの気持ちに気付いてたってことなの。」
『そう。でも、玲亜は『私の本当の友達は卯乃羽ちゃんだけだ』って言ってきたから、多分恋愛として好きだったわけではないと思う。ただ、私が他の友達と仲良くするのが嫌だから、『恋人』になれば自分が特別になれると思ったんだと思う。
でも、私は、『私には好きな人が居るから』って言って断っちゃった。玲亜に『誰?』って訊かれたら、正直に『同じクラスの亜莉紗って子』って言っちゃったの……』
卯乃羽の声が徐々に震え出す。語尾は消え入ってしまいそうなほどだった。
『こんなこと玲亜に言っちゃったら、亜莉紗が攻撃されるなんて目に見えて分かるのに。何で言っちゃったんだろ。ほんとに私バカだよね。』
そう言って、卯乃羽は自虐的に笑う。
『そしたら、玲亜は『その子に告白してくれたら、私は諦める』って言ったの。もし私の告白が成功したら、勝ち目もないし流石に引き下がるしかないって。逆にそうしないと諦めがつかないからって言われた。
だから私は亜莉紗に告白したの。ほんとはずっとこの気持ちは隠していくつもりだった。ほんとは告白したかったけど、もし失敗して、今の関係が壊れたらって考えたら怖かったから。でももししなかったら、きっと玲亜は亜莉紗に攻撃する。そう思ったから、するって約束したの。ちゃんと玲亜の言うことを聞けば、亜莉紗に危害が及ぶことはないって思ってた。
そして、いつの間にかレミ達に、私が好きな人に告白することをバラされてた。きっと私がその場しのぎで約束したんじゃないかって疑ってたんだと思う。
それだけならまだ良かったよ。でも、もしかしたら……』
泣きそうな卯乃羽の声が、頭の中に直接流れ込んでくるような感覚になる。
『夢架達が私達の告白を聞いたのも、偶然じゃないかもしれない。玲亜が、偶然を装って目撃するように仕込んだのかもしれない……』
卯乃羽は何度も鼻を啜る。私は無言でそれを聞いていた。
私はゆっくりと目を瞑って、ゆっくりと大きく息を吸い、それをまたゆっくりと時間を掛けて全て吐き出した。
何だ。そういうことなんだ。
「じゃあ、最初っから私が居なければ全部解決してたんじゃん。」
はー、と天井を見上げて溜め息を吐く。目には薄らと涙が浮かんでいた。
「私が卯乃羽から離れていれば、加藤さんは満足してたってことでしょ。」
『……亜莉紗、それは違うよ』
「何が違うの。どうして正直に私が好きって言っちゃったの。加藤さんがそういう人だって、卯乃羽は気付いてたんでしょ……。」
声が馬鹿みたいに震える。スマホを持った指先が冷たい。脚が無意識に貧乏揺すりをしていた。
『全部全部私が悪いよね。ごめんね、亜莉紗……』
「……何で、学校に来てくれなかったの。加藤さんのしてたことを知らなくたって、私が一人ぼっちになってるってちょっとは想像出来たでしょ。」
ぎゅうっとスカートを握り締める。「ずっとそばに居る」って言ってくれたくせに、私が一番辛い時に隣に居てくれなかった卯乃羽に、物凄く腹が立った。
『ごめん。ごめん、亜莉紗……』
卯乃羽は泣いていた。
「……卯乃羽が来なくなってから、ほんとにしんどかった。卯乃羽が来てくれさえしてれば、ここまで辛くなかったと思う。」
『亜莉紗……』
「卯乃羽、告白の返事だけど、今してもいいかな。」
私は壁に凭れながらそう言った。卯乃羽が息を飲む音が聞こえてくる。
『……うん。』
卯乃羽の返事を確認すると、私はゆっくりと息を吸った。
「卯乃羽。私――」
ダァン!私はその音に思わずスマホを落としてしまった。スマホは床をカシャカシャとスピンしながら壁にぶつかり、跳ね返って私の足元に戻ってきた。
『……亜莉紗?』
床に落ちたスマホから、小さな卯乃羽の声が聞こえてくる。私は目を真ん丸に見開いて、ゆっくりと音のした方を見た。
「……。」
ドアの向こうに人の気配を感じる。それも一人じゃない。
私は無言でぶるぶると震えた。スマホを拾わなきゃ。今すぐ通話を切らなきゃ。そう思ってスマホに手を伸ばそうとすると、すぐさま二発目が飛んでくる。
ダンダンダン。立て続けにそれは鳴り響く。その音に合わせてドアが揺れ動く。私は頭を抱えて息を殺した。
「居るんでしょー?関口さーん」
ドアの向こう側からそんな声が聞こえてくる。私はゆっくりと顔を上げてドアの方を見た。
「早く出てこないと玲亜もっと怒っちゃうよー?」
「きゃはははっ」
複数の笑い声がそれに続く。
『……亜莉紗、亜莉紗!』
スマホからは卯乃羽の声。私はゆっくりとスマホに手を伸ばし、それを拾い上げた。そして通話終了のボタンを押した。
「……。」
ギィィ、と、立て付けの悪いドアが軋む音がトイレに響いた。私はぼさぼさになった髪の隙間から、ドアの向こうから現れた女子生徒達を見上げた。
「やっと出てきた」
私を見下ろすのは、レミとよくつるんでいるギャル達だった。
「何でこうなってるのか、分かるよね。」
真ん中に立っていた女子生徒が、にこりと微笑みながら私の腕を掴んできた。
「玲亜が話したいって。空き教室行こっか」
私は無言で女子生徒達の足元を睨んだ。腕を引っ張られ、転びそうになりながらそれに着いて行った。
……何か、もう、何でもいいや。
だらりと垂れ下がった反対側の手で、スマホをポケットに仕舞い込んだ。
「玲亜ー、連れて来たよー」
私が連れられてきたのは、薄暗い空き教室だった。もう一時間目が始まっているので、どこかの教室から授業をしている教師の声が聞こえてくる。
「おっそ。」
聞き慣れた声が、気だるそうにそう言う。何度も聞いてきた声だけど、どこかいつもより低く感じる。
「亜莉紗ちゃん。久しぶりですね。」
私はゆっくりと顔を上げる。私の手を握っていた女子生徒が、突き放すように手を離した。
「みんなありがとう、もう授業行ってもいいよ」
加藤さんがそう言うと、私をここまで連れてきた女子生徒達は無言で教室から出ていく。去り際に、「あの子終わったね」と言う会話が聞こえてきた。
「亜莉紗ちゃん、私との約束、破っちゃったんですね。」
ドアの方を見ていたら、加藤さんが静かな声でそう言った。機械的に首を動かして加藤さんを見ると、にこにこしながら、面白そうに私を見ていた。窓際の席に座り、逆光で全身が黒く見える。
「卯乃羽ちゃんに愚痴っちゃうなんて酷いですよ……」
加藤さんの表情が歪む。どんどん笑顔が消えていき、目は見開かれ、歯を堅く食いしばっている。
「ムカつくので、死んでもらえませんかぁ?」
そう言いながらガタンと椅子を蹴倒して加藤さんは立ち上がった。思わず体がびくりと反応する。そんな私を面白がるように、加藤さんはにやりと笑う。
「ははっ。何もほんとに死/ねって言ってるわけじゃないんですけどね。この学校から、……卯乃羽ちゃんの前から消えてくれればいいんですよ。まぁ、それが出来ないって言うんならほんとに死んでほしいんですけど」
加藤さんは早口でそう言う。そして不愉快そうに爪でコツコツと机を叩く。
「私、亜莉紗ちゃんなんかよりずっと卯乃羽ちゃんが大好きなんです。なので卯乃羽ちゃんが好きな亜莉紗ちゃんがすんごい邪魔なんですよね。」
「……私も卯乃羽のことは好き。でもそれが、『卯乃羽が私のことを好きな気持ちと同じ“好き”』ではないって、加藤さんだって分かってるでしょ。」
私は眉間に皺を寄せ、目を細めて加藤さんを見る。曇りガラス越しみたいに加藤さんの姿がぼやける。そのせいで表情が読み取れない。
「私は、卯乃羽の告白は断るつもりだった。それでもし卯乃羽が離れていくとしても。」
コツ、コツ、コツ。加藤さんは無言で机を叩き続ける。
「卯乃羽が私に告白して成功したとしたら、加藤さんは本当に諦めるつもりだったのかな。……もしそうなら、どうして卯乃羽の告白を邪魔するようなことをしたのかな。」
「……」
机を叩く音がぴたりと止まる。私は途端に心拍数が跳ね上がるのを感じた。言わなきゃ良かったと後悔したけど、もう遅かった。
「ねぇ、亜莉紗ちゃんって、今まで誰かと付き合ったことはありますか?」
突然そう言い出した加藤さんは、机を触りながらその手元を見て立ち上がった。
「……ない。」
「じゃあ、誰かを好きになったことは?」
「……ない。」
「じゃあ、失恋したこともないってことですよね。」
加藤さんはどこか悲しそうな顔で笑った。
「じゃあ、私の気持ちなんて理解出来るわけないですよね。」
加藤さんがつかつかとこちらに向かって歩いてきた。不揃いに並んだ机を器用に避けながら、私に近付いてくる。
目の前に加藤さんの顔が現れた途端、私は思わず体を硬直させた。加藤さんの顔から目が離せなかった。
「分かったような口聞かないでもらえます?」
私は背後にあった机に尻もちをついた。ガタンと派手な音が教室内に響き渡る。
「うざい。初めてあんたの顔を見た時からうざかった。卯乃羽ちゃんを好きなわけでもないのに卯乃羽ちゃんに好かれてるあんたがうざかった!」
捲し立てるように加藤さんはそう叫ぶ。私は瞬きもせずに加藤さんを見上げることしか出来なかった。
「今すぐ消えてください。」
次の瞬間、左頬に衝撃が走った。刹那私の体は右に倒れ込む。そして左頬に熱と痛みを感じ、殴られたんだと気付くのに少し時間が掛かった。
「はぁっ、はぁっ。」
途端に息が荒くなる。過去の感覚が呼び覚まされた。父親に殴られた時のあの感覚が。その感覚はすぐに恐怖に塗り変わっていく。私は潤んだ目で加藤さんを見上げた。
「あー、やっと殴れた。一発殴んないと気が済まなかったんですよね。あ、もちろんこのことは卯乃羽ちゃんにチクんないでくださいね?もし次卯乃羽ちゃんにチクったら……」
加藤さんはぐいっと私の腕を引っ張る。無理矢理立たされた私は、腫れた頬の内側を噛まないように歯を食いしばった。
と思ったら、今度は右頬に衝撃が走る。左に吹き飛んだ私を、面白そうな顔で加藤さんは見下ろす。
「こんなんじゃ済みませんから。」
私は埃まみれの床に寝そべり、じんじんと痛み出す両方の頬を交互に触った。熱い。頬に触れる指に感覚はあるのに、頬には感覚がない。
「あー、あんたを見てると虫唾が走る。」
ぐっとお腹に加藤さんの厚底がめり込んだ。すぐに脇腹が潰れるような感覚になり、踏まれているのだと気付く。そして背中を一蹴りされると、私はごろりと仰向けになる。
「死/ね。死/ね。死/ね」
ゴッゴッゴッ。体の内側から鳴る奇妙な音に、私はただじっと無言で耐え続けた。もうどこを蹴られてるのか、殴られてるのか、それすらも上手く認識出来なかった。
「早く消えろ。お前が消えたところで誰も何も困んないんだから」
「……うぅっ。」
ぶわっと涙が溢れてくる。どれだけ殴られても決して出てこなかった涙が、加藤さんのその一言で溢れ出した。
そんなの私が一番分かってる。私が居なくなっても、誰の生活も何も変わらないって。この数週間で、それは痛いほど理解出来た。
「もう、嫌。」
そう呟くと同時に、ガラッと派手な音を立てて、教室のドアが開いた。
「亜莉紗!」
ガタガタと机がぶつかり合う音がどんどん近付いてくる。見上げると、目を見開いて驚いている加藤さんが目に入った。
「あんた、何してんの!?」
息を切らしながら、加藤さんのツインテールの片方を掴み上げるその人を見た途端、意識が遠のき始めた。
「亜莉紗に何したのよ!」
そう叫んだその人は、
「……卯乃羽ちゃん?」
数週間ぶりに卯乃羽の姿を見た途端、私は意識を失った。
「調子はどうですか?どこか痛むところはありますか?」
看護師が血圧計を私の腕に巻き付けながらそう尋ねてきた。
「……。」
無言で窓の外を眺める私を見て、看護師さんはふうっと溜め息を吐いた。
「腕、きつくないですか?」
「……。」
私は無言でゆっくりと頷いた。
「……うん、ちょっと低めだけど大丈夫だね。もうちょっとで朝食持ってくるので、何かあったらナースコールで呼んでください」
そう言って、看護師は病室から出ていった。
……あの日、目が覚めると、私は病院のベッドの上に居た。空き教室で加藤さんに殴られまくった後、卯乃羽が教室に入ってきたところから記憶がない。後から主治医になった医者に聞いたけど、どうやら卯乃羽が教師を呼んで、教師が呼んだ救急車で運ばれてきたらしい。
加藤さんは退学処分になったと聞いたけど、卯乃羽がどうなったのかは分からない。あれから学校に行けるようになったのか、不登校のままなのか、それすらも分からなかった。
ただ、一つだけ分かったことは、卯乃羽と加藤さんが付き合うことになったってことだけだ。
『私、玲亜と付き合うことになったから、もう連絡してこないでね』
入院してから届いたのは、そんな卯乃羽からの一通のLINEだけだった。
ベッドの上で目が覚めた私には、もう何も残っていなかった。友達も、将来も、生きる意味も、何もかも。
ただただ、絶望と喪失感だけが、私の頭を埋め尽くしていた。
「亜莉紗ちゃん、ちょっといいかな?」
いつものようにベッドの上に横たわりながらぼーっと天井を眺めていると、病室のドアが開いて看護師が入ってきた。私は首だけ動かしてそちらを見る。
「亜莉紗ちゃんに会いたいって人が居るんだけど、大丈夫かな?」
「……そんな人、居るんですか。」
私がそう言うと、看護師は苦笑いしながら頷いた。
「亜莉紗ちゃんに会いたがってる人、実はたくさん居るんだよ。今日はその中の一人が来てくれたの。ちょっとでいいからお話してくれないかな?」
「……。」
私は無言で体を起こした。「私に会いたがってる人がたくさん居る」なんて目に見えて分かる嘘なのに、少しだけ期待してしまった。
「佐藤さん。よろしくお願いします。」
看護師はそう言うと、一歩下がって病室から出た。代わりに入ってきたのは、背の高い女の人だった。
「こんにちは、亜莉紗ちゃん。」
茶色のボブを揺らしながら、その人は付けていたマスクを顎まで下げる。
「……。」
私は思わずその人の顔をじっと見詰めてしまった。
ちょっと面長気味の輪郭に、派手な柄のフチありの大きなカラコン。二重幅は狭めだけどしっかり平行二重で、涙袋も幅は小さめだけど目の縦幅がとても大きいのが印象的だった。ピンクのアイシャドウが元の目の大きさをよく際立たせている。鼻は真っ直ぐで細長く高さもあり、薄めの唇にとても合っている。顎下まである長めの茶髪のボブは綺麗に内巻きになっており、少し厚めの前髪もきちんと巻かれている。身長は170センチくらいあるんだろうか。更に厚底のヒールを履いているから、185センチくらいあるように見える。
まるでモデルみたいだ。こんなに綺麗でスタイルのいい人、初めて見た。
「私は佐藤聖羅。関口亜莉紗ちゃん、よろしくね?」
少し――いやかなり低めのハスキーボイスで、
その人はそう言った。
看護師がドアを閉めたのを確認すると、佐藤聖羅はベッドの脇に置いてあった椅子を、私の前に運んできて、そこに腰掛けた。
「よっと。」
目線の高さが同じになると、ますます見入ってしまう。本当に綺麗だな、この人。コンカフェで一緒に働いてた人でも、こんなに可愛い人は居なかった。
「いやー、会えて嬉しいよ、亜莉紗ちゃん。」
佐藤聖羅はそう言いながらじっと私の顔を見詰めてきた。私は恥ずかしくなって思わず視線を逸らす。髪の毛はプリンになってるし、黄ばんでるし、くまもあるし、ブサイクって思われちゃうかな。
「こんなに可愛い子の担当が出来るなんて光栄だなぁ。」
が、そんな私の心配を他所に、佐藤聖羅はそんなことを言う。
「『え?』って顔してるね。あんたかなり可愛い部類だよ。裸眼なのに黒目は大きいし、目自体もすごくでかい。二重も幅広で平行だし、涙袋もナメクジだし。それ、ほんとにすっぴん?学校で影ではモテてたんじゃない?」
にまにましながら、佐藤聖羅は膝で頬杖をつきながら私の顔を覗き込んでくる。
「……あの。あなたは一体何なんですか。何で私に会いたいなんて思ったんですか。私達、知り合いでも何でもないですよね。」
私はシーツをぎゅっと握り締めて尋ねた。佐藤聖羅は眉毛を八の字に吊り上げて驚いた表情になる。
「ああ、そうだったね。ちゃんと君に用事があってここに来たんだった。
亜莉紗ちゃん、率直に言うけど――」
佐藤聖羅の表情が一変する。黒目の半分が上瞼に隠れ、まるで睨み上げるように私を見る佐藤聖羅。その表情を見ると、一瞬ドキリとしてしまう。
「君をこんな目に遭わせた人達を、私は殺そうと思ってます。」
にんまりと口を三日月みたいにして佐藤聖羅は笑った。
「……は。」
私はぽかんと口を開けて固まってしまった。何、「殺そうと思ってます」???。
「え、ちょ、っと。意味分かんないんですけど。」
「そのまんまの意味だよ。私は、君を虐めたり、君に暴行した奴らを殺/すために君に会いに来たんだ」
「いや、それは分かるんですけど、殺/すって何で――」
「簡単な話さ。人を虐めたり危害を加えるような危険な思想を持った人間は消えるべきだからだよ。」
「でも、殺/すなんてそんな……。」
脳味噌の処理が追い付かない。この人は何を言ってるの。全然理解出来ない。
「うーん、言い方が悪かったね。『殺/す』って言うよりは、『処分する』って言う方が正しいかも。取り敢えず君は深く考えなくていいんだよ。これは別に君のために復讐してあげるとかそういうのじゃないからね。彼女らが生きてると、私達が困るんだよ。」
「でも、何もそこまでしなくても――」
「何か勘違いしてないかな、亜莉紗ちゃん。君の意見はどうでもいいんだよ。それとも何、君が暴行を受けたのは、君がドMか何かで、自分を暴行するように誰かに頼んだのかな?」
「そんなわけないじゃない。」
私は手首に浮かび上がる黄色みを帯びた青あざを見詰めながら、声を絞り出すようにしてそう呟く。
「ふざけたこと言わないでください。誰が好きであんな目に遭うと思ってるんですか。」
全身がわなわなと震える。そんな私を見て、佐藤聖羅は鼻で溜め息を吐く。
「ごめんごめん。でもそれが問題なんだよ。だから協力してくれないかなぁ。」
佐藤聖羅は両手を擦り合わせて、それをこれ見よがしに私の目の前に持ってくる。……何か腹立つな、この人。
「協力って、何をすればいいんですか。」
「君をこんな目に遭わせた人の名前を全部言ってくれれば、後は全部私がやるから。」
「……言ったら、処分するんですよね。」
「うーん、そうだねぇ」
「……それって、私が殺したってことになる気がするんですけど。」
「大丈夫だよ!私が殺/すんだから亜莉紗ちゃんは気にしなくても!」
「……私が言わなければ、その人は死なないってことですよね。」
ガタン。椅子の倒れる音が病室内に響いた。私は目の前に現れた佐藤聖羅の顔を凝視して固まった。
「ごちゃごちゃうるせーな。さっさと言えばいいんだよお前は……」
低い低い声で佐藤聖羅はそう言う。派手なカラコンの柄に吸い込まれてしまいそうだった。目を零れ落ちてしまいそうなほど見開いて、佐藤聖羅は続ける。
「お前の意見なんてどうでもいいんだよ……。強いて言うなら、自分に害を与えたと思わない人の名前は出さなければいいんだよ。まぁ暴行した奴は確実にアウトだけどね。それに……」
佐藤聖羅は顔を上げ、口角を片方だけ吊り上げてほくそ笑んだ。
「君が暴行される原因を作った奴が居たとしたら、そいつもかなぁ。」
ドキリ。心臓が凍り付いた。鼓動が一気に早くなる。それを悟ってか、佐藤聖羅は猫なで声で続ける。
「亜莉紗ちゃん、君がこんな酷い目に遭うなんてあってはならないことなんだよ。君を傷付けた奴らは罰を受けるべきなんだ。亜莉紗ちゃんはそいつらの名前を言えばいい。それだけなのに何でそんなに悩んでるの?」
佐藤聖羅がじっと私を見詰めている。私はシーツを睨み付けながら、静かに唇を噛んでいた。
「……私の口から言わなくても、調べれば分かるじゃないですか。」
「君の口から聞かないと意味がないんだよね。判断するのは君だから。」
「……何、それ。ちゃんと分かるように説明してください。人を殺したら、あなただって罰を受けることになるんですよ。」
「私は罰は受けない。私は『魔女』だからね。」
「魔女……?。」
「そう。でもこれ以上は喋れないなぁ。まぁ、どうしても聞かないと納得出来ないって言うなら……」
佐藤聖羅は目を細めてにやりと笑う。
「亜莉紗ちゃんも魔女になるって言うのなら、教えてあげてもいいけど?」
「私も、魔女に……?。」
私は顔を上げて佐藤聖羅を見た。にまにましながら見下ろす佐藤聖羅の顔は、物凄く不気味に見えた。本当に「魔女」みたいだった。
そもそも、「魔女」って何なの。「魔女」なら、人を殺しても罰せられないって言うの。そんな作り話みたいな話、有り得ない。
佐藤聖羅はふっと不敵に笑うと、椅子を立ち上げて、再びそこに腰掛けた。
「魔女になって私達に協力してくれれば、亜莉紗ちゃんはもう何の苦労もしなくて済むよ。進学するために勉強しなくてもいい。生活費の心配もしなくていい。全部向こうが準備してくれるからね。」
「そんな馬鹿みたいな話……。」
「ま、決めるのは亜莉紗ちゃんだからね。また会いに来るから、それまでに決めといてよ」
佐藤聖羅はそう言うと、鞄からスマホを取り出した。
「LINE交換しよ。話す気になってくれたら連絡してよ」
「……。」
私はあまり乗り気ではなかったけど、机の上からスマホを手に取り、LINEを開いた。佐藤聖羅がQRコードを表示し、それを私が読み込んで、私達は友達になった。
「じゃーね。元気になったらデートでもしようね!」
佐藤聖羅はそう言うと、立ち上がってドアに向かって歩き出した。
「……最後に一つだけ。」
佐藤聖羅はドアの取っ手を掴みながら、ちらりと背中越しに私を見た。
「今日の話、絶対誰にも話しちゃだめだよ。」
ぎらりと光る目が私を捉えた。まるで蛇に睨まれた蛙のように、私の全身は硬直する。
「……じゃあね!」
パッと笑顔に戻った佐藤聖羅は、ドアを開いて、病室から出ていった。
「……魔女って、一体何なの。」
一人病室に残された私は、手に持っていたスマホをぎゅっと握り締めた。
その日の夜、私はベッドに寝転びながらただひたすらスマホを弄った。
「『魔女 人殺し 無罪』……。『魔女 仕事』……。」
佐藤聖羅が言っていた言葉を思い出して、思い付く限りの単語で検索を掛けた。でも、それらしき検索結果は何も出てこなかった。出てきたのは誰かが書いたネット小説やら、アニメの公式サイトやら、作り話ばかり。
「やっぱりデタラメなんじゃ……。」
私は溜め息を吐きながら天井を仰いだ。やっぱりあの人がおかしい人だったんだ。そりゃそうだよね、私を酷い目に遭わせた人に復讐しても無罪になるなんて、そんな都合のいい話があるわけない。
「……それに、私はそんなこと望んでない。」
彼女が死んだところで、私のこの傷達がなかったことにはならない。この傷達が治っても、きっと頭の中にこびり付いた痛みや感覚は一生忘れることは出来ない。彼女が居なくなったところで、元の生活に戻れるわけじゃない。
「だったら、何やったって無駄。」
私はごろりと寝返りを打ち、スマホを枕の横へ置いた。布団を頭まで被って、真っ暗になった視界で脚をもぞもぞと動かした。
「……戻れたら、一番いいのに。」
加藤さんに暴行される前に、加藤さんと出会う前に、卯乃羽に告白される前に、……卯乃羽が私を好きになる前に戻れたらいいのに。
「殺/すなんてしなくていい。ただそれだけでいいのに……。」
目の奥から涙が溢れてくる。
「元の生活に戻りたい……。」
その日、私は涙を流しながら眠りに就いた。
叶わない願いを誓いながら。
「やっほぉ〜!久しぶり!」
「……。」
目を漫画みたいにアーチ型にしてにこにこ笑いながら現れた佐藤聖羅を、私はじっとりと睨み付けた。
「……何でまた来たんですか。」
呼んでもないのに。てかLINEすら送ってないのに。
「心変わりしてくれたかなって思ったから来ちゃいました!全然LINEくれないからわざわざ会いに来てあげたんだよ」
「は。そんなの頼んでないですし。」
自分勝手な人だな。LINE送ってないってことは、心変わりしてないってことなんだってば。
「この前も言ったけど、君の意見は割とどうでもいいんだよね。問題なのは君が実際に暴力を奮われたことと、君の心に出来た傷なんだよ。」
「私の心に傷なんて出来てませんから。帰ってください。」
「いーや、出来てるね。自分で気付いてないわけじゃないんでしょ?この前君を見てたら一発で分かったよ。腕の痣を見ながら震えてたじゃないか」
「分かったような口聞かないでくださいよ。元々あなたは無関係でしょ。」
「無関係だよ。でも仕方ないでしょ、私が亜莉紗ちゃんの担当に選ばれちゃったんだから。私だってこんな可愛げのない奴の担当なんてやりたくなかったわよ」
「……。」
ぎりりと歯を食いしばる。シーツを握り締めながら、私は佐藤聖羅の足元を睨む。
「じゃあもう会いに来なくていいですよ。あなたはやりたくなくて、私も頼んでない。だったらもう私達が会うメリットは何も無い。」
「そうはいかないんだよねー。私らのわがままが通用するほど甘くないんだよ。ま、取り敢えずさ、私の話を聞いてよ。」
佐藤聖羅は小さな鞄からスマホを取り出す。微笑を浮かべながら画面を操作し、その後私を見てにたりと笑う。
「じゃーん、これ何でしょう!」
そう言って得意げにスマホの画面を私に見せ付けてきた。
私はその画面を見て硬直した。頭の中が真っ白になった。ギギギと首を動かして、佐藤聖羅の顔を見る。
「びっくりしたー?会ってきちゃった、加藤玲亜ちゃんに」
「な、な、何で。」
その画面には、佐藤聖羅のLINEの友達欄に表示された、加藤さんのプロフィールが映っていた。
「な、何であなたと加藤さんが……。」
視界がブレる。佐藤聖羅が笑ってるのか真顔なのか、はたまた全く別の表情をしているのかも認識出来なかった。何で加藤さんと佐藤聖羅が繋がってるの。
「画面の通り、友達になったんだよ。あと、彼女、今入院してるから。」
「……は。」
加藤さんが、「入院してる」?。
「私を雇ってる人達が経営する病院に入ったから、簡単に会うことが出来たよ。にしてもモンスターみたいな子だよね、加藤玲亜って。」
「な、何で加藤さんまで入院してるのよ……。」
「うーん、病院って言っても、彼女が入ったのは『精神科』なんだよね。」
佐藤聖羅はわざとらしく口を尖らせ、顎に手を添えながらそう言う。
「せい、しん、か……?。」
言葉が詰まる。どうして加藤さんが精神科に入院してるの。
「彼女、やっぱり精神を病んじゃってたみたいでね。だから亜莉紗ちゃんを陥れたりに暴力奮ったりしちゃったんだってさ」
「な、何でそんなことあなたが知ってるんですか。」
「加藤玲亜と面会したんだよ。ちなみにこの後も会いに行く予定。」
「うそ……。」
佐藤聖羅はスマホをくるくると回しながら得意げに話す。
「他にも色々調べさせてもらったよ。加藤玲亜や君の周りの人間についてもね。」
病室内をゆっくりと練り歩きながら、佐藤聖羅は窓の方を見て微笑を浮かべる。
「君のクラスメイトは酷い人ばかりだね。特に澤井夢架や高橋綾奈は薬物をやってたそうじゃないか。それを加藤玲亜に知られて彼女の言いなりだったらしいね。」
「……。」
「川嶋レミもなかなかいい性格してるね。澤井夢架達から聞いた亜莉紗ちゃん達の話を学校中の友達に広めたらしいよ。まぁこれはまだ可愛い方だよね。」
「……。」
「後は関根卯乃羽かな。好きな人が自分を庇って苦しんでるって言うのに、自分は学校を休んで好きな人を見捨てたそうじゃないか。その好きな人は亜莉紗ちゃんなんだってね。モテモテだね、亜莉紗ちゃん。」
「見捨てたなんてそんな言い方しないでよ。私は見捨てられてなんかない……。」
声が上ずる。そんな私を見て、佐藤聖羅はおかしそうに苦笑いをした。
「もう期待を抱くのはやめなよ。君が苦しむだけだよ。」
ベッドの横に戻ってきた佐藤聖羅は、まるで哀れむように私を見下ろす。その視線が堪らなく不愉快で、それから逃げるように佐藤聖羅から視線を逸らした。
「そんなのあなたに何が分かるんですか。私達の何が。」
「だって関根卯乃羽は、加藤玲亜と付き合い始めたんでしょ?」
「それは……っ。」
「君に告白までしたのに、随分と気が変わるのが早いよね。」
「……。」
それはきっと、私がきちんと返事をしなかったからだ。卯乃羽は「もしまた、私が学校に行けるようになって、みんなの誤解も解けたら、告白の返事、聞かせてくれないかな」って言ってた。私が入院する前、まだ卯乃羽は学校に来れてなかったし、みんなの誤解も解けてなかったけど、きっと卯乃羽は待てなかったんだ。そりゃそうだよね、告白して一ヶ月以上返事が来なかったら、諦めて別の人を好きになるに決まってるじゃない。
「だから、仕方ないんです……。」
私は震える声でそう呟いた。
「ふーん。ま、他人の恋愛事情につべこべ言うつもりはないから私は黙ってるわー。」
佐藤聖羅は興味無さそうに頭の後ろで手を組んだ。
「さ、話を戻そうか。
私は今から加藤玲亜に会いに行く。亜莉紗ちゃん、それに同行してくれないかな?」
大きな瞳で、佐藤聖羅はじっと私を見詰める。
「……断ったら、どうするんですか。」
尋ねてみると、佐藤聖羅はうーんと唸った後、
「そしたら素直に引き下がるかな。ま、同行した方が亜莉紗ちゃんに取ってメリットになると思うけどね。」
「……それは、どうしてですか。」
「単純な話さ。このまま加藤玲亜に会うことを拒み続ければ、君が何の真実も知れないまま一生苦しみ続けることになるからね。」
佐藤聖羅は八重歯を見せながらそう言う。
加藤さんに会わなかったら、私が一生苦しみ続けるって言うの。意味が分からない、私は加藤さんに会って得るものなんて何もない。
「結果を言うと、彼女の処分はもう決まったのさ。」
「……え。」
「彼女は完全な黒だ。だから彼女は近々処分されるんだよ」
「え、え……。」
戸惑いを隠せない私を見て、佐藤聖羅は興味なさそうな顔でスマホの画面を操作し出した。
「だから加藤玲亜が死ぬ前に色々聞いといた方がいいと思って。ほら、催促されてるからはやく決めてよ」
「待って、待ってよ……。」
「何も直接彼女と顔を合わせろって言ってんじゃないよ。君は病室の外から会話だけ聞いてればいいよ。私が全部話すように誘導するから。」
佐藤聖羅はイラついているように見えた。片足で貧乏揺すりをしながら、冷たい目でスマホの画面と私を交互に見る。
早く決めなきゃ。直接顔を合わせるわけじゃないなら行ってもいいかな。でも、加藤さんの声を聞いても正気で居られるか分からない。もし加藤さんが怒鳴り出したりしたら、あの日の光景を思い出してしまうかもしれない。ずっとしまい込んでいた恐怖の感情が、また呼び覚まされてしまうかもしれない。
でも。佐藤聖羅は、もし私が加藤さんに会わなければ、「何の真実も知れないまま一生苦しみ続けることになる」って言ってた。それは一体どういうことなのかな。佐藤聖羅は、その「真実」を知ってるんだろうか。
「その耳でちゃんと聞きな、亜莉紗ちゃん。」
佐藤聖羅はそう言いながらスマホを鞄にしまった。
「……さ、どうする?」
ドッドッと心臓が低い音で鼓動を刻む。私は膝にかけてあった布団を端の方に避けた。
「……おっけー、そうこなくっちゃ」
ベッドの柵を下ろしてベッドから降りる私を見て、佐藤聖羅は満足そうに微笑んだ。
「……。」
車に揺られて約十分。私は、隣で窓枠に肘をつきながら窓の外を眺める佐藤聖羅をちらりと見た。その後、斜め前の運転席に座るスーツ姿の男性を見る。
この人は一体誰なんだろう。佐藤聖羅が連絡したら、すぐにこの人が病院まで黒塗りの車を走らせてきた。その車に乗り込んで、加藤さんが入院している精神科に向かっているところだ。
さっきから誰も何も言葉を発していないので物凄く気まずい。運転手のスーツの男性は、真っ黒のサングラスを掛けていて厳つい雰囲気だし、ずっと無言でガムを噛んでいて何だか怖いし。佐藤聖羅は薄ら笑いしながらずっと流れていく景色を眺めているし。私はそんな二人を交互に見ながら、最終的に視線を自分の足元に落ち着かせた。
「……そろそろ着きますんで」
「は、はいっ。」
いきなり運転手の男性が低い声でそう言ったので、私は思わず返答してしまった。佐藤聖羅がぷすっと含み笑いする。私は恥ずかしくなって顔を上げられなかった。
「じゃ、また迎えに来ますんで呼んでください」
「ありがと〜」
私と佐藤聖羅を病院の前に降ろして、黒塗りの車は走り去っていった。
「さてと」
佐藤聖羅はうーんと伸びをし、病院の建物を見上げる。
「行きますか、亜莉紗ちゃん。」
「……はい。」
私の返事を聞くと、佐藤聖羅は満足げににこっと笑った。そして病院の中に入っていく。
中に入ると、狭い通路が向こうまで続いていた。普通の病院のような受付や待合室はない。ただただ、細長い廊下が続いているだけだった。
私はごくりと唾を飲み込む。佐藤聖羅はそんな私をちらりと振り返って、また前を向いた。
「ここは普通の病院じゃないからね。『病院』って言うよりかは『施設』って言った方が正しいかな。
ここは色んな理由で普通に生活を送らせるのは危険と見なされた人達が入る施設なの。」
「『施設』……。」
「そう。ま、表向きは病院ってことになってるけどね。関係者は立ち入れないようになってるけど。亜莉紗ちゃんは特別なんだよんっ」
佐藤聖羅はそう言いながら廊下を突き進んでいく。すると、突き当たりにエレベーターの扉が見えた。佐藤聖羅は上りのボタンを押す。
「えーと、何階だったっけなー」
佐藤聖羅は、スマホを取り出して確認しながらそう呟く。そのまますぐに到着したエレベーターに乗り込んだ。
「四階押して、亜莉紗ちゃん」
私は言われるままに四階のボタンを押す。エレベーターの扉が閉まり、ゆっくりと上昇し出した。
四階に辿り着くまでの数秒間、私達は無言で扉の上の光る数字を眺めていた。私の心臓は、ずっとバクバクと踊り狂っていた。
ポーンと言う音と共に、エレベーターの動きは止まった。開いた扉の向こうには、無数の部屋がずらりと並んでいた。
「さ、行こう。」
私の後ろに立っていた佐藤聖羅が、私を追い越して歩いていく。
「病室のドアを開ける前に、ドアの影に隠れてね。」
私はそれに無言で頷いた。
佐藤聖羅が一歩歩を進めるたびに心臓が飛び出してしまいそうになった。まるでスローモーションになったみたいに時間の流れが遅くなったように感じた。
大丈夫。加藤さんに会っても、私は大丈夫だ。もうあれから一週間経ってるんだもの。こんなことにいつまでも怯えてたら仕方ないでしょ。
そう自分を励ましながら歩いていると、こつんと佐藤聖羅の背中に鼻をぶつけてしまった。
「った。」
「あ、ごめんごめん。着いたよ、亜莉紗ちゃん」
振り返った佐藤聖羅が小声でそう言う。左側にある白いドアを見ると、手書きで「加藤玲亜」と書かれた白いプレートが貼ってあった。
「じゃ、そこの椅子に座って聞いてて。ちゃんと加藤玲亜からは見えない位置になってるから動かさないでね。」
律儀に椅子まで用意してくれてたみたいだ。私は無言で頷いてそこに腰掛ける。
佐藤聖羅がコンコンと二回ノックをする。中からは何の返事も聞こえてこなかったけど、佐藤聖羅はガラリとドアを開けた。私は太ももの上で揃えた自分の手元を見ながら、じっと息を押し殺した。
「こんにちは、玲亜ちゃん。」
佐藤聖羅はドアを開けたまま、病室に入っていった。相変わらず心臓が暴れ狂っている。
「……何でドア閉めないんですか?」
くぐもったそんな声が聞こえてくる。私はバッと顔を上げて、病室の方を見た。
「いやー、換気した方がいいと思って。窓も目隠しされてて開けれないでしょ?」
佐藤聖羅はさらりとそれっぽい嘘を言う。この人、相当慣れてるな。
「……あ、そ。また色々質問責めしに来たんですか?」
病室の中から聞こえてきた不機嫌そうなその声は、確かに加藤さんのものだった。
「そんな露骨に嫌がらなくてもいいじゃないか。こんな何もない病院で一日中一人じゃ君も退屈でしょ?」
佐藤聖羅は苦笑いしながらそう言う。ちらりと病室の中を見ると、加藤さんのベッドの端っこと佐藤聖羅が見える。どうやら加藤さんの頭はこちら側にあるらしく、見えているベッドは足側らしい。足が動いているのか、シーツがたまに波打っている。
「まぁ、それもそうですね。何で面会もしちゃだめなんですか?」
「規則が厳しいんだよね、ここの病院は。」
「……家族はいいとして、せめて彼女にくらい会わせてくれてもいいじゃないですか。」
「ははは。身内以外と面接させる方が難しいよ」
佐藤聖羅は面白そうに笑う。……「彼女」って、卯乃羽のことだよね。二人が付き合い始めたって言うのは本当なんだ。
震える自分の手を見て、私は顔をぐしゃりと歪ませた。やっぱり本当だったんだ。やっぱり私が居なくなって正解だったんだ。私が居なくなった途端、こんなに簡単に解決するなんて。
「さて。今日は君に訊きたいことがあって来たんだ。単刀直入に言うけど……」
一瞬、佐藤聖羅の目付きが鋭くなる。
「玲亜ちゃん、君はどうしてあの日、被害者の女の子に暴行しちゃったのかな?」
その後、目を細めてにこりと笑う。
加藤さんは何て答えるんだろう。私はごくりと唾を飲み込みながら、加藤さんの返事を待った。
「何でそんなことあんたに言わなきゃいけないんですか?」
「一応、私は君の“カウンセラー”だからね?」
あ、そういう設定だったんだ。
「早めに話した方がいいと思うよ?君が正直に答えるまで帰らないからね。」
佐藤聖羅はそう言って笑顔で圧をかける。諦めたのか、加藤さんは短い溜め息を吐いて、嫌々答えた。
「……ムカついたからですよ。ただ単に、あの子がムカつくからです」
「へぇ?普通はムカついただけであんなに殴ったりしないよね、相当だったんだ。」
「はい。存在自体がムカついたんですよね〜」
まるで鈍器か何かで胸元を思いっきりぶん殴られたような感覚になった。冷や汗が太ももや手のひらに溢れた。……分かってはいたけど、私、加藤さんにこんなに嫌われてたんだ。
「それはどうして?君とあの子は元々面識なかったんだよね?」
探りを入れるかのように佐藤聖羅が問う。
「まあね。私は一方的に知ってましたけど。だから私から近付いたんです」
「ほほう、君は元々その子のことが嫌いだったってことかな?」
「はい。……その子は、今の彼女の好きな人だったんですよね」
一瞬間をあけて、加藤さんが答える。
「今は彼女は私だけを見てくれてるけど、ずっとそいつのことが好きだったので」
「へぇ〜。じゃあ君にとってその子は『恋のライバル』……いや、『邪魔者』だったんだ。」
「……何で言い直したんですか?」
加藤さんにそう訊かれて、佐藤聖羅は煽るかのように目を見開いてははっと笑った。
「だって君は元々はその『彼女』の眼中に居なかったってことだろう?ライバルですらないじゃないか!」
低い笑い声が病室内に響いた。ちょっと、何煽ってんのよ。そんなこと言われたら、加藤さんの地雷を踏むに決まってるじゃない。私は固唾を呑んで病室内を見る。
「……まぁ、それはそうですね。でも結果が全てでしょ、彼女は最終的にあいつじゃなくて私を選んだんだからいいんです」
予想に反して、加藤さんは落ち着いてそう言った。その声を聞いても、怒っているようには感じられなかった。
「君をあそこまで暴力的にさせたのは『彼女』の好きの対象が君じゃなかったからなのかな?」
「……まぁ、そうですね」
「うんうん……。好きな人を他人に取られるのって、結構しんどいもんね。」
「そうなんですよ!それにあいつは恋愛したことないらしいんです。好きな人が他の誰かを好きな気持ちも分からない。なのに卯乃羽ちゃんに好かれてるのがほんとに許せなかったんです!」
じりじりと全身の肌に汗が滲み出してくる。体の内側から響いている心臓の音をBGMに、耳からは二人の会話だけが聞こえてくる。
「私の方が卯乃羽ちゃんを好きだったのに、私じゃなくてあいつが選ばれるなんておかしいでしょ?」
そう言う加藤さんの声は震えていた。……泣いているのかもしれない。けど、それを聞いた佐藤聖羅は、しめしめと言わんばかりにほくそ笑んでいた。
「うんうん、そうだねぇ。辛かったんだね、玲亜ちゃん。」
そう言って加藤さんの枕元に移動し、どうやら背中を撫でたみたいだ。そしてすぐに定位置に戻ってくる。
ぐすんと鼻を鳴らしながら、加藤さんは涙声で続ける。
「……私、ほんとに卯乃羽ちゃんが好きだったんですよ」
佐藤聖羅は無言でそう話す加藤さんを見下ろす。
「私、こんな性格だから、友達が一人も出来なかったんです。入学してすぐの頃は、みんな私と仲良くしてくれました。……でも、私の内面を知った途端、みんな私を避け始めました。
私、ずっと前からこんなんだったから、中学の時もみんなに避けられてたんです。気に入らない子が居ると、すぐ排除したくなっちゃって、攻撃しちゃうんです。
……初めてだったんですよ、一緒に悪口を言う以外で仲良くしてくれたのは、卯乃羽ちゃんだけだったんです。」
思わず聞き入ってしまった。加藤さんは、自分の性格や周りに避けられていることを自覚してたんだ。
「私のことを理解してくれたのは、卯乃羽ちゃんだけだったんです。
なので、ぽっと出の亜莉紗ちゃんなんかに取られるのが許せなかったんです。」
そうか。彼女にとって、私は「ぽっと出」なんだ。私と卯乃羽はずっと友達だったけど、「ぽっと出」なんだ。
「あの日、夢架達に卯乃羽ちゃんの後をつけるように言って、告白の現場に立ち会わせたのも私です。亜莉紗ちゃんを孤立させるために嘘の噂を流すように言ったのも私。多分、私ビョーキなんです。」
早口で加藤さんはそう言う。佐藤聖羅はそれを聞きながら、口を猫みたいにして眉を八の字にした。
「一応自分が病気な自覚はあったんだね。じゃないとこんなとこに強制入院されないしね。うん、君はビョーキだ。」
佐藤聖羅はうんうんと一人で納得したように何度も頷く。
「どんな理由があるにしろ、他人を傷付けようと思ってしまうのは病気なんだよ。昔はそういう人がたくさん居たから問題が絶えなかったんだ。でも今の時代は大丈夫。君もきっと救済されるから。」
にたりと目と口を三日月みたいにして佐藤聖羅が笑う。その笑顔を見た時、背筋がぞくっとした。
「君も辛かったんだね。でももう大丈夫だよ、私が救ってあげるから。
……で、だ。他にもあの子――関口亜莉紗ちゃんを虐めたりしてた人達が居たら教えてくれないかな?」
どきりと心臓が凍り付く。私は病室から視線を逸らして、冷や汗が浮かび上がる自分の手のひらを見る。
「……いっぱい居ますよ。彼女、人気者の卯乃羽ちゃんの隣に居たからみんな優しくしてたけど、ほんとはあんな子誰も興味なかったんですよね」
「おおっとぉ、……くくっ、あんまり悪く言わない方がいいよぉ?」
佐藤聖羅は笑いを抑え切れずに所々で吹き出しながらそう言う。何笑ってんの、と思ったけど、それ以上に加藤さんの発言がショック過ぎた。
「みんな影では嫌ってました。特に彼女のクラスメイトは……」
「名前を聞いてもいいかな?」
「夢架と、綾奈と、モモです。まぁ、モモは多分夢架達に合わせてただけだと思いますけど。二人はいつも亜莉紗ちゃんを見るとイライラするって言ってました」
「へぇ……。小耳に挟んだんだけど、川嶋レミちゃんは?」
「ああ、レミは違います。レミはバカなんで、私が流させた嘘の噂をバカ正直に信じちゃっただけです。元々はレミはイツメン達と居ても、レミだけは亜莉紗ちゃんの悪口は絶対言わなかったですし」
「ふーん。他のクラスメイトは?」
「あとは知らないです。男子達はそもそも興味なかったみたいですし。……卯乃羽ちゃんは、言わずもがなです。」
「そうかそうか、ありがとう。」
「こんなこと聞いて何になるんですか?」
「まぁね。っさ、今日はもう帰ろうかな。」
佐藤聖羅はそう言ってちらりと私を見た。一瞬目が合ったけど、すぐに逸らしてしまった。
「たくさん話してくれてありがとう。次会う時の参考にさせていただくよ。」
意味深な言葉を残して、佐藤聖羅はこちらに向かって歩いてくる。
「……佐藤さん」
加藤さんに小さな声で呼ばれ、佐藤聖羅は振り返る。
「ん?」
「……私の話、聞いてくれてありがとうございました」
そう言われると、佐藤聖羅は眉毛を吊り上げて加藤さんを見た。
「……もちろんだよ。私は君のカウンセラーだからね」
そう言って、佐藤聖羅は病室から出てきた。
「じゃあ、またね。玲亜ちゃん」
佐藤聖羅はそう言うと、病室のドアを閉めた。
「行こう。」
小声でそう言いながら、佐藤聖羅は私の腕を引っ張った。長い長い廊下を歩き、エレベーターに辿り着く。
エレベーターに乗り込んだところで、佐藤聖羅がいきなり大きく息を吐いた。
「っはー、疲れた!」
壁に寄り掛かりながらそう叫ぶ。
「いやー、ただのめんどくさいメンヘラだったね!てかヤンデレ?分かんないけどさー、泣かれてもこっちは困るんですけど!自分で撒いた種だろー?」
佐藤聖羅は駄々っ子みたいに地団駄を踏む。そのたびにエレベーターがガタガタと揺れる。
「ほんと自分勝手だよね。よく今まで売られなかったと思うわ、あの子」
「売られる?。」
「あー、いや何でもない」
一階に着いたエレベーターから降り、私達はまた長い通路を歩いて病院から出た。
「お迎え呼ぼっか。……の前に。」
ぐいっと佐藤聖羅が私の頭を掴んで無理矢理自分の方に向けた。私は驚いて目を見開いた。
「もう決まったよね?誰を処分するか。」
ギラギラと光る瞳が私を捉えた。私は何とか佐藤聖羅の手から逃れようとしたけど、がっちりホールドされて動かすことも出来なかった。せめて視線だけ外して、私は小さな声で答える。
「そんなの、誰も処分しないに決まってるじゃないですか。」
「……はぁ〜?」
素っ頓狂な声を上げながら、佐藤聖羅は私の目を凝視してきた。
「あんた正気?もしかしてあの子が泣いちゃったから同情してんの?『玲亜ちゃんが反省してるなら許してあげてもいいかなっ』ってか?」
ぐぐぐと佐藤聖羅の指が頭皮に食い込む。爪が長くて痛い。
「優しさのつもりかもしれないけど、あの子またいつかやらかすよ。またあんたみたいな怖い思いする人が出るんだよ?」
「そんなのその人が処分してって頼めばいいでしょ。私は加藤さんに死んでほしいわけじゃない……。」
佐藤聖羅は無言で私の顔を見る。が、すぐに視線を逸らして舌打ちをし、突き放すように私の頭から手を離した。
「ふーん、あ、そ。じゃー私はどうでもいいや。勝手にしたら?」
冷めた目で私をチラ見し、佐藤聖羅はスマホを取り出して操作し出した。そしてそれをおもむろに耳に宛てがう。
「あー、もしもし?迎え来てもらえるー?」
どうやらさっきのスーツの男性に電話を掛けているらしい。
「はいはーい、なるべく早く頼むねー?こいつと居ると反吐が出そうだから」
佐藤聖羅はそう言うと、スマホを耳から話して鞄にしまった。
「私、自分は傷付いたくせに他人を……ましてや加害者を気遣って自己犠牲する精神の奴大嫌いなんだよねー。
もうあんたと会うことは一生ないかな。バイバイ、関口亜莉紗。」
感情の籠っていない声でそう言うと、佐藤聖羅は私から十歩ほど離れて建物の壁に寄り掛かった。
数分後、到着した黒塗りの車に乗り込んでも、佐藤聖羅は一言も言葉を発さなかった。
私はただただ自分の足元を見詰めた。さっきの加藤さんと佐藤聖羅の会話が、頭の中を駆け巡っている。
……別に、私は加藤さんを気遣って彼女を処分しない選択をしたんじゃない。普通に考えて、傷付けられたからその人を殺してくれって頼む方がおかしいじゃない。
……この人はそれが当たり前みたいに言ってるけど、人を殺/すのは当然じゃない。悪い人だからって、簡単に死んでほしいなんて思わない。
「……もうすぐ着きますよ」
運転手の声ではっとして窓の外を見ると、私が入院している病院が見えた。
「その子降ろしたらそのまま私ん家向かって」
佐藤聖羅は冷たい声でそう言う。
「……じゃ。足元気を付けて。」
病室の前で降ろされた私は、走り去っていく車の後ろ姿をぼーっと眺めた。
「……。」
その後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと眺めていた。
「……はぁ。」
しとしとと静かに雨が降っている。灰色の窓を眺めながら、私は溜め息を吐いた。
あれから、もう三日ほど経っている。もちろん佐藤聖羅は会いに来てないし、連絡も取っていない。
もう一生会うことはないって言われたけど、ほんとにもう私に会う気はないんだろうな。何か地雷踏んじゃったみたいだし。佐藤聖羅は、傷付けられたら復讐することこそが正義だと思ってるみたいだった。
……あそこまでキレるなんて相当だよね。過去に何かあったんだろうか。私みたいに、誰かに傷付けられたりしたんだろうか。もしそうだとしたら、佐藤聖羅はその加害者をどうしたんだろう。
私、佐藤聖羅について何も知らないな。年齢も、どこに住んでるのかも、学生なのか、何の仕事をしているのかも。「加藤さんのカウンセラー」って言うのは、きっと加藤さんに近付くための嘘だと思うし。ほんとに、なんにも知らない。
逆に、佐藤聖羅は私のことを何でも知っていた。私の名前も、私が入院することになった経緯も、通っている学校も、周りの人や人間関係すら把握されていた。
一体何なんだろう。彼女の目的は何なのかな。私が「私を傷付けた人達を殺して。」って言えば、彼女は満足だったんだろうか。
でも、いくら考えても、何でそうなるのかが分からなかった。私を傷付けた人が居なくなったところで、佐藤聖羅に何のメリットがあるって言うの。他人の復讐を肩代わりしたって、何の得もないじゃない。
あ、もしかして、後から多額のお金を請求されるとか。「代わりに殺してあげましたよね?」って言われて、実家まで差し押さえられちゃうかも。危なかった、怒らせてでも断って良かった。
……でも。私はちらりと枕元に置かれたスマホを見た。
ここに入院してから、唯一会いに来てくれたのが佐藤聖羅だった。誰もLINEの一つもくれない中、佐藤聖羅は二回も私に会いに来てくれた。
「……ちょっとは、嬉しかったんだけどな。」
自虐的に笑う。理由は飛んでもなかったけど、「私に会いに来てくれた」と言う事実が嬉しかった。他の理由だったら、もっともっと嬉しかったのに。
「……ふふっ。」
急に馬鹿らしくなって、私はボフっと枕に顔を埋めた。手探りでスマホを手に取り、画面をつける。
「……久しぶりにインスタでも見るか」
既読がついちゃうからストーリーは見ないようにしよっと。クラスメイト達は私のことを嫌ってるか興味無いかの二択だし、私に見られてもいい気分しないよね。……あ、嫌なこと思い出したな。
そうか、私、みんなに嫌われてたんだなぁ。卯乃羽がそばに居てくれたから、私にもついでに優しくしてくれてたんだよね。
「……。」
画面の上の方に並んだストーリーには、たくさんのアイコンが並んでいた。どれも友達や恋人とのツーショットや、誰かに撮ってもらった後ろ姿や、二つでペアになるペアアイコンだ。きっとそれらをタップすれば、青春を謳歌しているクラスメイト達のストーリーが出てくるんだ。
「……。」
やっぱり見ないでおこう。
「あれ。」
ふと、DMに新着の通知が来ていることに気が付いた。通知欄には新しいフォロワーのアイコンもある。
何気なくDMをタップすると、私は思わず眉を顰めた。
「何これ……。」
一番上に表示されているアイコンと名前を見て、私は絶句した。
『Leia♡』と言う名前の横には、卯乃羽と加藤さんのツーショットのアイコンが表示されていた。
Leia……れいあ……玲亜。やっぱり、これは加藤さんのアカウントだ。でもどうして。加藤さんと私は、インスタは繋がってなかったはず。
「……あ。」
通知欄を開いて、私は納得した。
十日前に、加藤さんからフォローされていた。
「……ほんと、これ見よがしに見せ付けやがって。」
馬鹿らしくなって私は思わず笑ってしまった。DMには、遡っても遡っても、加藤さんのストーリーが延々と表示され続けていたのだ。
十八時間前と三時間前に投稿されたストーリーを見ると、背景に紛れさせて気付かれないようにしてるけど、きちんと私がメンションされていた。
そのストーリーの内容は、両方とも卯乃羽とのツーショットだった。片方は犬のエフェクトで撮った自撮りで、もう片方はプリクラだった。
何これ。私への当て付けなのかな。
「……こんなにアピらなくたって、もう卯乃羽は加藤さんのことが好きなんでしょ。」
スマホを握った指に力が入る。爪が白っぽくなって、画面がギチギチと音を立てる。
もういいよ。卯乃羽は私とは絶縁したんだから、自慢してこないでよ。もう私は関係ないじゃん。二人が幸せならそれでいいでしょ。なのに何で更に私をこんな気持ちにさせるの。
私はスマホを壁に投げ付けた。バキッと音を立てて、スマホは床に落ちる。
「はぁっ、はぁっ、……うう……。」
シーツを蹴り飛ばしてベッドから降り、スマホを拾いに行く。
「……。」
無言で見下ろしたスマホの画面はバキバキに割れていた。
「もうやだ……。」
ガン、ガン、ガン。一定の間隔で病室内に鳴り響く音は、私が足でベッドの柵を蹴っているのが原因である。
「ふざけんなよ。絶対分かっててやってんでしょ。」
ガリガリと頭皮を掻き毟る。根元が黒くなった汚く黄ばんだ白髪がはらはらとシーツに散らばる。
「もう満足したでしょ。何でここまですんのよ。」
ガンガンガン、ガリガリガリ。
「関口さん、他の患者さんの迷惑になるから静かにしてくれないかな?」
いつの間にか開いていたドアから看護師が顔を覗かせていた。くまの酷い目でそれを見て、私はうんと頷いた。が、足は止まってくれない。
「……ふぅ。また拘束かな。」
看護師はそう言って溜め息を吐くと、後ろに控えていた複数の看護師や医者と共に病室に入ってきた。私の足は拘束器具で固定され、動かせなくなった。
「また暴れたら今度は手もだからね。」
そう念を押されて、私はまた無言で頷いた。それを確認した看護師達は、病室から出ていってしまった。
「……はぁ。」
私は手に握ったままだったスマホをぼーっと眺めた。ついたままの液晶には、加藤さんとのDMの画面が表示されている。
「……。」
私がこんな風になってしまったのには訳がある。
『ありさちゃん、ストーリーみてくれたんですね!』
そんなDMが来たのが始まりだった。私が加藤さんのストーリーを見てしまったから、閲覧の部分に私が表示されてしまったんだと思う。
『やっと見てくれて嬉しいです!明日からもメンションするので良かったら見てください♪』
まるで何の悪気もないような文体の裏に潜んだ加藤さんの本性を私は分かっていた。私に見せ付けるためだけに、毎日私にメンションしてストーリーを載せているのだ。
昨日はレミ達との写真に『学校帰りのみんなに久しぶりに会ってきた!あの子どうしてるかなーって話で盛り上がった笑』という文字が添えられていた。一昨日は、夢架と彩奈とモモとのグループLINEのスクショ。今日はと言うと、また卯乃羽とのツーショットだった。加藤さんが卯乃羽に抱き着いて、それを鏡越しに撮ったものだった。
『大好きな親友♪』と書いてある。あ、一応付き合ってるってことは隠してるんだ。確かに傍から見れば、ただの仲良し過ぎる友達同士だ。
「……。」
ふつふつとお腹の底から熱いものが湧いてきた。あ、またこの感覚。卯乃羽と加藤さんのツーショットを見るたびに、この感覚に襲われるようになった。夢架やレミなど私のクラスメイトと加藤さんが仲良くしている様子を見ると、毎回のようにメンタルがバキバキに砕け散ってしまうような感覚になった。私は彼女達と友達になれなかったのに。私だけ、誰とも友達になれなかったのに。
もう、嫌。何も見たくない。なのに毎日インスタを開いてしまう。加藤さんのストーリーを、一つも欠かさず見てしまう。
「もう嫌、死にたい。」
ふと口に出したその言葉は、ずっと言わんとしてきた単語だった。ついに口から零れてしまったのがおかしくって、私はとち狂ったように一人で笑った。
「はははっ、はは……。」
指が勝手に動く。まるで全力疾走した後のように息が上がる。スマホの画面が地震のように大きく揺れる。
「……。」
Googleの検索欄に浮かんだその文字を見下ろして、私は今にも閉じてしまいそうな力の入らない瞼でゆっくりと瞬きした。
もう、何もかもが限界だった。
『自殺 方法』
ずらりと出てきた検索結果を一つ一つ見る余裕もなかった。私は咄嗟に1番上に出てきた項目を押す。
『子供用こころの健康相談ダイヤル』
もう深く考えることも出来ずに、私はそれをタップした。
『もしもし、こころの健康相談ダイヤルです。』
発信音の末、若い女性の声が出た。
『どうかされましたか?』
その柔らかい声色に、私は思わず泣き出しそうになった。
「……あの。」
びっくりするくらい声が震えた。私は何度も深呼吸をし、やっと言葉を発することが出来た。
「もう何もかも嫌で消えてなくなりたいです。」
今までどんなに辛くても誰にも弱音を吐かなかった私が、顔も名前も知らない相手にこんなことを打ち明けるなんてバカみたいだ。心の中でそう自嘲した。
『そうなんですね。こちらもあなたの力になりたいので、まずお名前を教えてもらってもいいかな?』
「……関口、亜莉紗です。」
『関口亜莉紗ちゃんね。関口、関口……ああ。』
何やら電話の向こうの女性はそう呟く。
『関口亜莉紗さんですね。担当の者に代わります』
「え、担当って……。」
その返事は返ってこなく、保留のメロディが流れてくる。
「担当の者」って誰なんだろう。そもそも何の担当?。
プツリ。保留のメロディが鳴り止み、私ははっとしてスマホを耳に近付けた。
『もしもし。』
スピーカーから、低い声が聞こえてくる。
「……っあ。」
私は思わず口を抑えた。何故か涙が溢れてきて止まらない。零れ出しそうになる嗚咽を必死に我慢して、私は目を瞑った。
『……久しぶりだね、亜莉紗ちゃん。』
佐藤聖羅のその声は、気味が悪いくらい優しい声だった。
がらりと病室のドアが開き、息を切らした佐藤聖羅が入ってくる。
「ごめん、待った?」
「いえ、まだ電話切ってから十分しか経ってないです。」
「ははっ……。全力疾走で来たからね。まー走ったのは私じゃなくて車なんだけど。」
佐藤聖羅はそう言うと、ドアを閉めてこちらに歩いてくる。隅の方に置いてあった椅子にどかりと腰掛けた。
「はー、エレベーター待てなくて階段で来たから疲れたぁ。」
そう言いながら、佐藤聖羅は私の方を見る。
「……思ってたより落ち着いてるみたいで安心したよ。」
そして少し苦しそうに笑った。
「……もう怒ってないんですか、この前のこと。」
私はそんな佐藤聖羅の顔を見れずに、自分の膝辺りのシーツを眺めながらそう尋ねる。はぁっと大きな溜め息の音が聞こえてきて、一瞬言わなきゃ良かったと後悔した。
「そうも言ってられないでしょ。まさか亜莉紗ちゃんから電話が来るなんて思ってなかったし」
「何であなたが出たんですか。あれ、子供用の自殺防止のためのダイヤルですよね。それに私の『担当』って……。」
「ずっと言ってたじゃん、私はあなたの『担当』なの。もっと言えば、『担当の魔女』なのよ」
そう言えばことあるごとに担当担当言ってたっけ。
「で、その『魔女』って何なんですか。」
「おおっと、それはまだ話せないな。先に私の質問に答えてくれる?」
佐藤聖羅はオーバーリアクションでそう言う。まるで芝居してるかのように手を私の方に突き出してくる。
「……質問に寄りますけど。」
「ま、私の質問に答えてくれないなら君の質問にも答えないまでだからね」
意地悪く笑いながら佐藤聖羅は言った。
「で、何なんですか。」
「君が自殺防止用のダイヤルに電話したってことは、『誰かさん』に精神的苦痛を与えられて辛いってことでいいんだよね?」
「……はい。」
私が頷いたのを見て、佐藤聖羅はしめしめと言わんばかりにほくそ笑む。
「うん。で、君はそいつらをどうにかしてほしいって思ったんだよね?」
「……はい。ほんとは私が消えれば全部解決すると思ってるんですけど……。」
「あーはいはい、そういうのいいから。君が消えられないなら、あいつらが消えてくれないと解決しないことだよね?」
「…………はい。」
「君は死ぬ必要ないんだよ。君は何も悪くない。何で被害者はずっと苦しむのに加害者はのうのうと生きていけるの?おかしいと思わないかい?おかしいんだよ、そしてそんな時代はもう古い。」
いつの間にか、目の前に佐藤聖羅の顔が現れていた。私は目を満月のようにかっ開いて、瞬きすらしない佐藤聖羅の目を凝視した。
「加藤玲亜達を処分しよう、亜莉紗ちゃん。」
にこり。そんな効果音が聞こえてきそうなほど清々しい笑顔だった。今にも崩れそうな積み木のようだった私の精神に、佐藤聖羅の言葉は甘すぎたんだ。
「……はい。」
涙で霞んだ視界で、佐藤聖羅は悪魔みたいな顔で笑った。
夕日が病室をオレンジ色に染めていた。そんな中、佐藤聖羅はずっとスマホを弄っている。
「……そう言えば加藤さん、退院したんですね。」
ふとそう呟くと、佐藤聖羅は顔を上げずに答えた。
「ああ。彼女、この前私達が行った後外出許可が出たんだよ。君の判断が遅かったから、危険人物から外されたんだよね」
「卯乃羽とプリ撮ったり、学校に遊びに行ったりしてました。みんな、私が暴力奮われても何とも思わないんだなって分かって、ちょっと悲しくなりました。」
自虐気味に笑う。夕日のオレンジが赤に変わり、焼けるように私の右頬を照らした。
「……彼女が退学した理由、学校側が隠蔽してるんだよ。
だから加藤玲亜は、他人に暴力を奮って辞めさせられたことを関根卯乃羽以外の生徒達に知られていない。何も悪くないってことになってるんだよ。……許せないでしょ?」
「みんな自主退学か何かだと思ってるんですね。……だからみんな普通に会ってたんだ。」
「私に暴力を奮ったと知った上で仲良くしている」ってわけじゃなかったんだ。……これは知れて良かったかも。でも。
「加藤さんは退学しただけで後は何も変わらない。友達も居るままだし、好きな人とも両思いになれた。」
喉の奥から硬くて重いものがせり上がってくるような感覚になった。それが涙として目からボロボロと零れ落ちる。
「私は何もかも失ったのに。学校生活も、友達も、大切だった人も、将来も、普通に過ごしてた日々も、全部失った。私はもう元には戻れないのに。」
「……亜莉沙ちゃんは、これから色んなものをまた手にすることが出来るよ。」
佐藤聖羅の顔が、半分だけ真っ赤に染まった。
「でも、彼女はもうこれ以上何も手にすることが出来ない。」
涙が滝のように流れ続ける私の頬を、佐藤聖羅が指で拭った。
「君には、これからたくさんの幸せが待ってる。だから……」
口角が勝手に下がる。私は我慢出来なくなり、嗚咽を漏らして泣き出した。
「私達の『仲間』になってよ、亜莉沙ちゃん。」
止めどなく流れる涙を飲み込みながら、私はゆっくりと大きく頷いた。
この時、もうとっくに壊れてしまった私の心に寄り添ってくれたのは、佐藤聖羅だけだったから。
私は、佐藤聖羅の「仲間」になることを決意した。
めっちゃ良かった!
小説出せると思う!
夜中の3時だけどずっと読んでましたぁw
>>181
ありがとうございます!とても嬉しいです🥲🥲
「亜莉紗ちゃん、今日の体調はどうだい?」
翌日、朝一番に佐藤聖羅がやって来た。私は朝食を食べている最中だった。まだ八時なんですけど。
「まぁまぁです。処方された薬飲んだら気分も落ち着きました。」
「あー、そう言えばそうだったね。」
佐藤聖羅は少し気まずそうに視線を泳がせた。
「『鬱病』って、診断されたんだっけ。」
カチャン。お箸をお盆に置いて、私は黙り込んだ。そんな私を見て、佐藤聖羅は慌てた様子で私の肩に手を置いた。
「大丈夫だよ!私だってこう見えて色々あるし!誰だってなっても仕方ないものなんだから!」
わははと軽快に笑う佐藤聖羅。
「……ずっと気になってたんですけど、佐藤さんってもしかして男の方なんですか。」
ぼそりと呟くように尋ねる。佐藤聖羅は笑顔のまま固まり、笑い声もぴたりと止めてしまった。
「…………バレてたんだね。」
そして、どこか寂しそうな目をして、苦しそうに笑った。
「そう。私は男。体も、心も、正真正銘の男だよ。」
真っ白な朝の日差しが病室を明るく照らす。背中がじりじりと熱くなるのを感じながら、私は佐藤聖羅のお腹辺りに視線を固定した。
「じゃあ何でこんなカッコしてるのって思うよね?……好きな人が、可愛い女の子が好きだったからなんだよね」
「それって。」
「そ。私は同性の友達が好きだったんだ。だからその子の好みの女の子になるように、髪を伸ばしてメイクを覚えて服もレディースの物を買い揃えた。まぁ、それでも彼は振り向いてくれなかったんだけどね」
佐藤聖羅は茶色の髪の毛をくるくると長い指に巻き付けながら喋る。
「……心が女の子だとか、女の子になりたいとか、そういうわけじゃなかったんだ。ただ好きな人の好きな人になりたいってそれだけだったのに、気持ち悪がられてみんなにいじめられたよ。」
こんな寂しそうな目をして話す佐藤聖羅を初めて見たから戸惑いを隠せなかった。いつもヘラヘラしてて、でもたまにすごく怖くて、本当は何を考えてるのか分からない人だと思ってた。簡単に人を殺そうと言うような人だから、自分は悲しいとか、苦しいとか、そういう感情を抱かない人なのかなと思ってた。でも今の佐藤聖羅の表情を見たら、そうじゃないってことが分かる。もしくは、そうなってしまったのには、深い理由があったのかもしれない。
「……ま、私顔も可愛かったしスタイルもいいし、可愛い格好しない方がもったいないでしょ?だから失恋した後もハマっちゃったのよね〜」
そう言いながらモデルみたいにポージングを決める佐藤聖羅。それを見て、私は思わずくすりと笑ってしまった。そんな私を見て、佐藤聖羅は苦笑した。
「ごめんね、亜莉紗ちゃんも友達との恋愛絡みでこんなことになっちゃったのにね。ま、だからこそほっとけなかったって言うのはちょっとはあるかな」
佐藤聖羅は顎に着けていたマスクを鼻の上まで被せる。
「ほんとはあんまり良くないの、本人が望んでないのに無理矢理説得して処分しようとするのは。まぁ、その話はまた後でするけど。
亜莉紗ちゃん、ご飯食べたら出掛けられる?今日は亜莉紗ちゃんに会わせたい人が居るんだ。」
「私に会わせたい人……?。」
「そ。実はね、この一週間で、もう一人私が受け持った子が居るの。」
私はチャウダーをスプーンで口に運びながら首を傾げた。
「君と同い年の女の子なんだけど……」
「同い年の……。」
「そ。君と同じような境遇だったから心配しなくていいよ。もしかしたら友達になれるかもね?」
一瞬胸が高鳴った。
私と同じような目に遭った同い年の女の子に会えるんだ。
……ちょっと、楽しみかも。
電車に揺られて三十分ほど。私と佐藤聖羅は、一軒のアパートに辿り着いた。
「はー、やっぱ車呼べばよかったかな?」
そう言いながら、ボストンバッグをずるずると引きずるようにして階段を上っていく佐藤聖羅の背中を追い掛ける。
「よいしょっと。あ、そこ壊れ掛けてるから気を付けて」
その時私が踏もうとした段は、よく見ると老朽化が進んでいてヒビが入っていた。
その段を飛ばして上っていくと、佐藤聖羅は一室の前でポケットをまさぐっていた。
「ここ私の家なんだー。ボロっちくてごめんね?」
そう言いながらポケットから鍵を取りだし、古びた鍵穴にそれを差し込みぐりぐりと回す。がちゃりと音がし、ドアが開いた。
「ただいまー」
そう言いながら先にボストンバッグを玄関に放り込み、佐藤聖羅が家の中に入っていく。私も恐る恐る足を踏み入れた。
「お邪魔、します……。」
ギィィと低い音を立ててドアを閉め、鍵も閉める。少しカビ臭い空気が鼻をかすめる。
「散らかっててごめんね?」
「いえ……。」
ビールやらチューハイやらの空き缶が詰め込まれたビニール袋がそこらに転がっている。そんな廊下を歩いていくと、狭っ苦しい小さな部屋に辿り着く。その部屋の隅の方に、女の子が座っていた。
「やっほ、待った?」
佐藤聖羅がそう言うと、その女の子は顔を上げて、
「いえ……!」
首を横に振った。
「……わぁ。」
私は思わずその子に見蕩れてしまった。
つやつやの黒い髪の毛が真っ先に目に入った。その次に、ぱっちりと大きな、でも切れ長気味の、豊富な睫毛に包まれた目。溶けて消えてしまいそうなほど白い肌に、少し赤らんだ桜色の頬。お人形みたいだ。
「あ、あなたが関口亜莉紗さん……?」
名前を呼ばれてはっとする。その子は優しい目で私を見上げていた。
「はい、あなたは……。」
「私は弓槻ゆずはです。あなたと同じ、聖羅さんにクラスメイトを売った者です。」
「あ、よろしくお願いします……。」
「売った」?。その言葉にふと違和感を感じたけど、私が軽くお辞儀をすると、弓槻さんも律儀に返してくれた。
「同い年だしタメでいいかな?亜莉紗ちゃんって呼んでもいい?」
少し恥ずかしそうに笑いながら弓槻さんはそう言う。
「あっ、は……うん。私もゆずはちゃんって呼ぶね。」
「何かもどかしいなー、君達を見てると」
そんな私達のやり取りを眺めながら、佐藤聖羅は冷蔵庫を漁っていた。
「今日は大事な話をするために二人を集めたんだから、仲良くするのは後でね!」
そう言いながら冷蔵庫を閉め、手にビールの缶を持ちながらこちらに来た。
「さて……」
私達は三角形を描くようにして座り向かい合った。
「これから君達はどうするのか、一緒に話し合おうか。」
小説の途中ですが宣伝させてください!
このスレに載せていた小説を修正したものをこちらに載せています!今更新している話も少しずつ修正してこちらに載せていきます。
このスレは下書きみたいなもので、誤字脱字を修正したり文を付け足したりしているので、ぜひこちらも読んでくださると嬉しいです!
https://ncode.syosetu.com/n8463gz/
「これからどうするか……?」
ゆずはちゃんが小首を傾げる。佐藤聖羅はカシャリと爽快な音を立ててビールのタブを開ける。
「そ。君達が本当に心から傷付けられたと思った人の名前を改めて聞こうと思ってね。あ、その辺にあるジュース飲んでいいよ、冷えてないけど」
佐藤聖羅が指差した先には、カップ麺やらコンビニ弁当やらのゴミに埋もれたペットボトルがあった。……遠慮しとこう。
「あとはどうやって処分するかを軽く説明しとこうかな。私はなるべく自分の手で人を殺/すことはしたくないんだよね。だから手っ取り早く爆弾使ってドカーンとやりたいんだけど……」
ビールを一口飲んで、佐藤聖羅はふうっと溜め息を吐く。
「それをやるにも色々許可を貰ったりしなくちゃいけなくて面倒なんだよね。あと二年もすれば売られた子を処分するための専用の施設の設備が整うらしいけど、それまで待ってもらうわけにもいかないし」
「それじゃあ、やっぱりみんなを消してもらうのは無理なんですか?」
ゆずはちゃんがそう尋ねると、佐藤聖羅は少し不機嫌そうな顔になる。
「人の話は最後まで聞こうね、ゆずはちゃん。」
じろりと睨まれて、ゆずはちゃんは「すみません……」と小さな声で呟いて俯いてしまった。
「ゆずはちゃん。まずは君に訊こう。
君が売ったのは、井口サトミら42名のクラスメイト全員……だよね?」
ゆずはちゃんはこくりと頷く。
「うん。で、亜莉紗ちゃんは、今回の事件に関わったクラスメイト達――加藤玲亜、関根卯乃羽、澤井夢架、高橋綾奈、松下モモ、川嶋レミ。そして川嶋レミの友人二人だね?」
私は俯きながら頷いた。
「うん。早速だけど、二人まとめて明日決行しようと思ってる。」
そう言って佐藤聖羅は交互に私とゆずはちゃんの顔を見る。
「明日、ゆずはちゃんは家庭科の時間を狙って、亜莉紗ちゃんは学校の教師と協力して全員を一つの教室に纏めて決行する。加藤玲亜も何か理由を付けて学校に呼び出すつもりだ。そこで教室一つが消し飛ぶ程度の威力の爆弾で仕留める。」
「教師、に……。」
私はごくりと唾を飲み込んだ。
教師は、生徒達が死ぬって言うのに協力してくれるってことなんだろうか。
そんなの有り得るのかな。だって校内で人が死んだら大問題だ。それに人が死んでも黙認するって言うの。むしろ佐藤聖羅と協力するなんて、殺人に加担するみたいだ。
「……思うことは色々あるだろうけど、深く考えないでよ。時期に分かるから。」
佐藤聖羅はビールを一気に飲み干しながらそう言った。
「じゃあ、そういうことだ。
明日、君達の人生が大きく変わる。今まで苦しい思いをしてきた分、これからは救われて幸せが訪れるよ。」
にこりと笑った佐藤聖羅が立ち上がる。私とゆずはちゃんは、そんな佐藤聖羅を見上げてから顔を見合せた。
「話は終わりだ。また連絡するよ。気を付けて帰ってくれ」
「あ、はい……」
私とゆずはちゃんは立ち上がって、玄関に向かう佐藤聖羅を追い掛ける。
「あ、亜莉紗ちゃんはそのボストンバッグも持ってってね」
「え。」
「君、今日で退院だから。」
「えっ……。」
何それ、そんなの聞いてない。
「まぁ、でも帰っても荷物はそのままにしといた方がいいと思うよ。」
「?。」
その言葉もよく理解出来なかったけど、私はボストンバッグを抱えて玄関に走った。
「じゃあね。」
一礼して、佐藤聖羅に見送られて、私とゆずはちゃんはアパートを後にした。
しばらく無言で歩いていたけど、ゆずはちゃんは「あの」と小さな声で切り出した。
「亜莉紗ちゃんがどんな経緯で佐藤さんに頼んだのか分からないけど、……お互い幸せになれるといいよね」
悲しそうな顔ではにかむゆずはちゃん。私はその顔を見て、ゆっくりと頷いた。
「最初は人を殺させるなんて考えられないと思ってたけど、やっぱり無理だった。あの子達と私が共存するなんて不可能だって分かったんだよね。」
「それ、分かる。みんなが消えるか、私が消えるか、どっちかじゃないと絶対無理だった。」
ゆずはちゃんの黒髪が風に靡く。
「そして、私はみんなが消える方を選んだ。」
その瞬間、びゅうっと風が強くなった。
夕日が、重たく眩しい。
「……あ。」
今、一瞬だった。靡いたベージュの髪の毛が、一瞬だけ視界に入った。
どこかで見たその色と形状に、私は思わず足を止めた。が、振り返ることは出来なかった。
だって。だって、その髪は……。
「……亜莉紗?」
背後から名前を呼ばれ、私の体は石のように硬直してしまった。
それでも振り返れなかった。
「……レミ。」
ただ、私はその名前を口にした。
微風が私の頬をくすぐった。ゆずはちゃんが、私とレミを交互に見ている。
「亜莉紗!お前入院したって聞いたけど大丈夫なのかよ?」
背後から、レミがそう訊いてくる。私は震える手をもう片方の手で抑えながら、ゆっくりと口を開いた。
「……もう、退院したから。」
小さな声でそれだけ言った。声も馬鹿みたいに震える。
「そっか。じゃあ明日から来いよ。みんな待ってるから」
「……そんなの嘘。」
即座に私はそう言う。否定されたのが癪に触ったのか、レミの声色が変わる。
「嘘って何だよ?」
レミのイラついた声に、私の心臓はバクバクと心拍数を上げた。
「みんな心配してんだよ!夢架も綾奈もモモも!」
「そんなの信じない。」
あの三人が、私の心配なんてしてるわけないじゃない。
嘘だと知りながら、加藤さんに指示されて私が卯乃羽に告白したってことにしたあの三人が。
「……卯乃羽が誰より心配してんだよ!」
「……。」
一瞬の静寂。私は口を開けたけど、声は出なかった。
「卯乃羽は、最近ずっと暗い顔してんだよ。やっと学校来れると思ったら亜莉紗が居なかったからなんじゃねーの?」
レミの言葉に、私は口を噤んだ。
「……あんな言い方しちゃったけど、亜莉紗が卯乃羽を好きでも卯乃羽は困ったりしてないから。卯乃羽が好きなら、卯乃羽のそばに居てやれよ!」
レミのその言葉が、深く深く心臓に突き刺さった。
「……何、それ。好きなくせに、そばに居てくれなかったのは卯乃羽の方でしょ。」
わなわなと体が震える。今にも涙が零れてきそうだった。
「何で一番辛かった時にそばに居てくれなかったのよ!。」
自分でもこんなに大きな声が出るんだとびっくりした。
どこかの家から、カレーの匂いがする。ざわざわと木の葉が擦れ合う音がする。
「……亜莉紗。良くなったんならまた学校来てよ。……それと」
ゆっくりと振り返る。何故か、今振り返らないといけないんじゃないかと思った。
「誕生日、おめでとう。明日だったでしょ?」
レミはそれだけ言って、にこりと笑った。そして振り返ると、小走りに歩いて行ってしまった。
……そうだ。偶然にも、明日は私の誕生日だったんだ。
がくんと膝から崩れ落ちる。そしてぼそりと何かを呟く。
「亜莉紗ちゃん?」
ゆずはちゃんが、そんな私の肩を持つ。
「……私、やっぱり出来ない……。」
さぁっと血の気が引いていく。
「やっぱりレミを殺/すなんて出来ない……。」
ガァガァとカラスが飛び去っていく。
ボストンバッグみたいに重苦しい夕焼けが、沈んでいく。
「私、何てことしようとしてたんだろう。」
目の前に今も同じことをしようとしているゆずはちゃんが居るって言うのに、私はそう呟いて地面を叩いた。膝がコンクリートに擦れる。赤い血が皮膚を破るようにして滲み出る。
「消えるべきなのは、私を傷付けたのは……レミじゃない。レミ達は関係ない。」
ぐっと手の中にある砂利を握り締めた。
黒く変わっていく空を見上げて、私は決心した。
家に着いてすぐ、私は佐藤聖羅に電話を掛けた。
「もしもし……っ。」
『おっ、亜莉紗ちゃん、どうしたー?』
スマホのスピーカーから、呂律の回っていない佐藤聖羅の陽気な声が聞こえてくる。……完全に酔ってるな。私は震える手で必死にスマホを掴みながら、
「あのっ、さっきはあんな風に言っちゃったけど、取り消させてください。」
泣き出しそうな声でそう言った。
『……それは、どういうことかな?』
佐藤聖羅の声色が変わる。また怒らせてしまうんじゃないかと思ったけど、言わなかったら絶対後悔すると分かっていたから、私は喋り続けた。
「やっぱり、私はレミを殺/すなんて出来ません。レミは加藤さんが吐いた嘘を信じただけで、何も悪くない。
処分されるべきなのは、加藤さんと夢架達だけです。」
『ふぅん……。今名前は出なかったけど、関根卯乃羽はどうなんだい?全ての諸悪の根源だろう?』
「……卯乃羽は。」
唇を噛み締めて、私は自分の指先を見た。
「……卯乃羽も、処分されるべきじゃないです。」
喉の奥が締め付けられるような感覚になった。涙がせり上がってくる。
『……それが、君の答えなんだね?』
佐藤聖羅は、静かな声でそう言った。
「……はい。」
涙が止まらない。私は鼻を大きく啜って、目を瞑って顔を上げた。
「卯乃羽も、やっぱり大切な友達なんです。」
やっぱり、卯乃羽を処分するなんて出来ない。確かに私があんな目に遭って、精神を病んでしまった原因は、元を辿れば卯乃羽だった。でも。
「卯乃羽は、やっぱり殺せないよ。」
裏切られても、やっぱり卯乃羽は大切な友達だったから。
涙が出そうになるのを必死に堪えて、私は大きく深呼吸をした。
『分かった。君がそう言うなら、川嶋レミ達と関根卯乃羽は対象から外すことにする。確かに、直接危害を与えたわけでもないのに処分するのもおかしなことだからね。』
「……はい。」
『話はそれだけかな?色々準備をして疲れたから寝たいんだ。』
「はい、すみませんでした。……ありがとうございます。」
『うん。明日、必ず君を救ってあげるからね。』
佐藤聖羅はそう言うと、大きな欠伸をして電話を切った。
私はぎゅっとスマホを握り締めた。スマホの微熱が指の中に伝わってくる。
「……私も」
私も、明日学校へ行こう。
翌日。私は久しぶりに制服に腕を通した。
アイロンを掛ける時間と気力がなかったからシャツはしわしわだ。ネクタイも上手く結べなかった。スカートも変な折り目がついている。
酷い格好だけど、せめて髪の毛だけでも綺麗にしよう。私は白金になった髪の毛にアイロンで熱を通した。
「……行ってきます。」
誰も居ない家に向かってそう呟き、私はドアを閉めた。
学校に向かう途中、私の心臓は踊り狂いっぱなしだった。心臓が胸を突き破って飛び出してきてしまいそうだった。
今日は、一時間目は体育だ。レミと卯乃羽と被っている。二人と顔を合わせることになるかもしれない。
「……やっぱり休めば良かったかな。」
でも、家でただ待ってるだけなんて出来ない。
そうだ、佐藤聖羅はいつ決行する予定なんだろう。「今日」とは言ってたけど、詳しい時間や場所は教えてくれなかった。
……教室一つが消し飛ぶのか。その中に、加藤さんや夢架達が入っていて、四人は……。
……人が死ぬのを分かっていながら、その現場に立ち会わそうとするなんて、私もおかしいのかな。佐藤聖羅はおかしい人だと思ってたけど、案外私もどこかがおかしいのかもしれない。
「だから、私は佐藤聖羅の仲間になろうなんて思ったのかもね。」
自虐的に笑うと、ふわりと風が吹いた。私は横断歩道を渡りながら、込み上げてくる感情をぐっと押し殺した。
「……え。」
学校に着いて、私は呆然と立ち尽くした。
「何で……。」
校門が閉まっていた。そして、校門に張り紙が貼ってあった。
『本日は休校です。』
「どういうことなの……。」
私はスマホを取り出して学校のホームページを見た。
「あ。」
ホームページのトップに、『臨時休業のお知らせ』の項目があった。
「……まさか。」
私はLINEを開いて、佐藤聖羅に電話を掛けた。
数回呼出音が鳴り、佐藤聖羅はすぐに出てくれた。
『もっしー?あ、亜莉紗ちゃん?』
「あの、今学校に来たんですけど、休校ってもしかして……。」
『そうだよーん、一日で処分して片付けもするって約束で今日だけ特別に休校にしてもらったんだよーん』
「え、あの、じゃあ、もう……。」
『落ち着きなよ。まだこれからだから。せっかく来たんだから亜莉紗ちゃんもおいでよ?校門開けたげる。待ってて』
心臓が再び暴れ出す。これから。これから加藤さん達は死ぬんだ。……私のせいで。……私の、目の前で。
「やっほ!」
校舎から佐藤聖羅が出てきて、慣れた手付きで校門を開けてくれた。
「いやー、まさか来てくれるなんて思ってなかったよ!あ、休校になったの知らないで来ちゃったのかな?」
私はこくりと頷いた。
「そっかそっか。でも良かった、これから君も同じことをするんだから、目に焼き付けといてもらわないとね」
「?。」
「ああ、まぁいいや。さ、行こう。もうみんな集まってるから。」
佐藤聖羅に腕を引っ張られて、私は校舎の中に入った。
階段を一段上るのがこんなに苦痛だなんて。まるで足を誰かに押さえ付けられてるみたいだ。一段上がるだけで息が切れそうになる。
そんな私を数段先から見下ろして、佐藤聖羅はにこりと笑う。
「ちょっとだけ休憩しよっか、亜莉紗ちゃん。」
「うわぁ、さっきから思ってたけどこの学校結構汚いね……」
佐藤聖羅は廊下の隅に転がっている虫の死骸を見て顔を顰めた。
「私汚いところ苦手なんだよね!どっか綺麗な教室とかってないの?」
あなたの家も結構汚かったですよね……と言い掛けたけど、私はそれをぐっと飲み込んで、
「食堂なら綺麗かも……。」
「おし!じゃあ食堂に行こー!」
私達は、食堂で一回休憩することになった。
食堂に着くと、佐藤聖羅と私は一つの机に向かい合うようにして座った。
「ふぅ。実は二日酔いで体調悪いんだよね〜……」
佐藤聖羅はそう言いながらぐったりと机に寝そべった。
「しかも夜通し準備してたから寝てないし。でもあんまり待たせたら怪しまれちゃうかもしれないしなぁー……」
佐藤聖羅はそう言いながら大きな大きな欠伸をする。
「退学した加藤玲亜まで呼び出されるなんて、彼女達は自分がしたことが原因で呼び出されたんだって薄々気付いてるだろうしね。あんまりゆっくりは出来ないけど……」
そう言いながら、佐藤聖羅は寝そべったままちらりと私を見る。
「亜莉紗ちゃん、やっぱり立ち会うのはやめとくかい?」
「……私は。」
「離れたところでもいいから見ていてくれた方が、君のためにもなる。爆弾って言っても、威力は最低の物を用意したから君が巻き込まれる心配もないからね。」
「……。」
黙り込んでしまった私を見て、佐藤聖羅はやれやれとでも言いたげに体を起こした。頭の後ろで手を組みながら、気だるそうにまた欠伸をする。
「そろそろ行こうか、さっさと終わらせた方が君も楽だろう?」
佐藤聖羅はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。私も一足遅れて立ち上がる。
重たい足取りで食堂を出て、階段を上って、三階に着いた。
「あそこの教室だから。」
そう言って佐藤聖羅が指差したのは、私が加藤さんに暴行されたあの教室だった。
「じゃあ、私は行ってくるから。亜莉紗ちゃんはここで見てて。」
私が頷く前に、佐藤聖羅は小走りにあの教室に向かって歩いていく。私はストンとその場にしゃがみ込んで、口を手で抑える。
涙が溢れてくる。悲しいのか、悔しいのか、嬉しいのか、苦しいのか、自分が今抱いてるこの感情が何なのかが分からなかった。それが堪らなく気持ち悪かった。
「でも、やっと。」
やっと、わたしの苦しみは終わるんだ。
やっと私は解放されるんだ――
次の瞬間、体が大きく揺れた。
と同時に、鼓膜を突き破るかのような大きな音。
「……!。」
あの教室のドアがビリビリと何度も振動する。ガラスは真っ黒に染まり、少し距離を置いた場所で佐藤聖羅が立っていた。
「やっ、たの……?。」
私は瞬きもせずにあの教室を見た。
「……ははっ。」
乾いた笑いが、ウインナーみたいな形をした口から漏れた。
「はは、はははっ、はは……。あ。」
その時、胸ポケットに入れていたスマホが振動した。
「え……。」
驚いてスマホを取り出し、ホーム画面を見る。
「え。」
そこに表示されていた通知を見て、私は固まった。
「何、で。」
画面には、卯乃羽からのLINEの通知が表示されていた。
『ありさ、おたんぎょうひおめたとう』
「何、で……。」
私はスマホの画面を見ながら愕然とした。何でこのタイミングで卯乃羽からLINEが来たの。爆発してすぐ、どうして。
「ただの、偶然……?。」
私は震える指でその通知をタップした。
ありさ、おたんぎょうひおめたとう……亜莉紗、お誕生日おめでとう?
「う、卯乃羽……?。」
私は首を動かして教室の方を見た。相変わらず中は真っ黒で見えない。佐藤聖羅が誰かと電話をしている。
と、その時。卯乃羽とのトーク画面に、新しいメッセージが表示された。
「!。」
そこに表示された文字を見て、私は目を見開いた。
「『すき』……?。」
その文字を見た瞬間、弾き飛ばされたように体が勝手に動き出した。私は廊下を走った。そして佐藤聖羅の肩を掴む。
「どうかした?亜莉紗ちゃん」
佐藤聖羅は電話を切って、不思議そうな顔で私を見る。
「あの、あの、今、卯乃羽からLINEが来て……。」
ぶるぶると震える手でスマホの画面を佐藤聖羅に見せる。
「ずっとLINEなんて来なかったのに、何でこのタイミングで来たのか分かんないんですけど……。」
「へぇ、亜莉紗ちゃん今日誕生日なんだ!お誕生日おめでとう!」
「いや、そうじゃなくて……。」
「あ、こっちでーす!」
佐藤聖羅は私の話を聞かずに、階段から現れた数人の男性に手を振る。まるで消防隊のような服装で、担架を二人がかりで持っている。
「もう入っても大丈夫だと思いまーす」
佐藤聖羅がそう言うと、消防隊員達は佐藤聖羅に一礼して、教室のドアを工具でこじ開ける。
中から黒い煙が溢れ出す。
「あんまり見ない方がいいかもね。」
そう言って、佐藤聖羅は私の体を窓の方に向けた。
ガチャガチャという音と、消防隊員達の掛け声のような声が聞こえる。窓のガラスには、薄らと担架で運ばれていく何かが映っていた。
「……あのー」
しばらくして、一人の消防隊員が、私の肩を持ちながら一緒に窓の方を向いていた佐藤聖羅に話し掛けてきた。
「聞いてた話より一人多いみたいなんですけど……」
「え?」
佐藤聖羅は目を真ん丸にして振り返る。
「予定では、四人でしたよね?」
「はい、そうですけど……?」
「中に、五人いたんですよ。」
「え……っ!?」
佐藤聖羅の顔が真っ青になる。私も、全身の血がサーっと抜けていくのを感じた。
まさか。まさか。まさか。
「すぐに救出して!」
佐藤聖羅が怒号を飛ばす。
「早く!」
消防隊員は慌てて教室の中へ入っていく。
「担架持ってきて!早く!」
そんな声が、真っ黒な教室の中から聞こえてきた。
「嘘……。」
私は廊下の手すりを握って座り込んだ。足にも腕にも力が入らない。
「嘘、ですよね。」
そして、ゆっくりと顔を上げて、佐藤聖羅を見上げる。
「私、頼んでませんもん。」
呆然と教室を見詰める佐藤聖羅の綺麗な横顔が霞む。
「卯乃羽は、違いますもんね。」
バタバタと担架を抱えた消防隊員が戻ってくる。そして教室の中に駆け込んでいく。
「だから……。」
私はゆっくりと教室の方を見た。
「何で……。」
二人の消防隊員が、担架を持って教室から出てくる。走っていく消防隊員達の後ろ姿を見詰めて、私は声にならない声を漏らした。
一瞬だけ、スマホを握った血にまみれた手が見えた。
あれから一年の月日が経った。
今でも、あの日のことを考えない日はない。
せっかく入れさせてもらった大学も、すぐに辞めた。
だって、卯乃羽は未来を奪われたのに、私だけ大学生になるなんて、おかしいでしょ。
「卯乃羽。」
ガラガラとドアを開け、病室の中に入る。
「今日はすごく天気がいいよ。カーテン開けよっか。」
私はそう言って、窓のカーテンを開ける。真っ白な太陽の光が射し込んでくる。
「……私ね、今度魔女になるんだ。」
振り返って、ベッドの角を見る。
「卯乃羽をこんな姿にしたあの人と同じ『魔女』に、私もなるんだよ。」
じんわりと目の奥が熱くなる。ゆっくりと顔を上げて、たくさんのチューブに繋がれたその体を見る。
「……ごめんね、卯乃羽。」
私はそう呟いて、机の上に封筒を置いて病室を出た。
あの日の爆発に巻き込まれて、卯乃羽は大怪我を負った。何とか一命は取り留めたけど、脳に重い障害が残ってしまった。一年経った今でも、とても人と会話を出来るような状態ではない。
あの日、どうして卯乃羽が教室に居たのかは結局分からなかった。けど、佐藤聖羅は、私達が食堂に居る間に、閉め忘れた校門から入ってきてしまったんじゃないかって言ってた。LINEの履歴を見たら、加藤さんが卯乃羽を呼び出したやり取りが残っていたらしい。
佐藤聖羅は、その後「売られてない無関係の人を巻き込んだ」として、魔女の権利を剥奪されたらしい。午後、ゆずはちゃんのクラスを処理した後、どこかへ連れて行かれてしまった。あの日から、佐藤聖羅とは連絡が取れていない。
それから、私はすぐに施設に入れられた。半年の間、魔女になるための訓練をした。ゆずはちゃんも一緒だった。
佐藤聖羅からきちんと説明を受けないままクラスメイトを売った私達は、この先のことを聞いてショックを受けた。まさか今度は、自分が他人が売った人達を処分することになるなんて。
厳しい訓練を受けている間も、私はずっと後悔に溺れて生きていた。
爆発の直後に届いた卯乃羽からのLINE。きっと意識を失う前、最後の力を振り絞って私に送ったんだろう。
そして、きっと、卯乃羽は、私を守るために加藤さんと付き合ったんだ。加藤さんと付き合えば、もう加藤さんは私に危害を加えようとしない。きっと卯乃羽はそれを分かっていて、わざと私を突き放したんだ。
「……そうだよね、卯乃羽。」
そう訊いたこともあったけど、卯乃羽は焦点の合わない目で天井を見上げるだけで、答えてはくれなかった。
「……あなたが戸川水純ちゃんだね。」
「はい……。」
私が初めて受け持ったその子は、とても内気でおどおどしている子だった。
どうやら、学校中の生徒に虐められているらしい。私と目も合わせようとせず、腕には自傷行為をしたのか、薄汚れた包帯が巻かれている。彼女が今までどんな目に会ってきたのか、それを見れば一目瞭然だった。
この子も、いずれ魔女になるんだ。私みたいに、何も知らないまま。ただ救いを求めていただけなのに、最後はただの人殺しになってしまうんだ。
「……私が、あなたの魔女になる、関口アリスです。」
そう思いながら、私は口元に微笑を浮かべた。あの人の表情を真似をするかのように。
「……これから、よろしくね。」
-番外編 END-
番外編も面白かったです〜!!お疲れ様です〜!!質問なんですが続きや違う作品を書く予定ってありますか、、?
195:るるの:2021/09/29(水) 18:03 >>194
ありがとうございます!
今第二章みたいな感じで本編から一年後の話を書こうと思っています!
だらだらした小説なのに最後まで読んでいただけて嬉しいです……!
>>195
いえいえ〜、!
続き楽しみにしてます!!🙌
第二章を書いていこうと思います。本編から一年後の話です。
↓この小説の誤字などの修正、話の追加などをした小説です。良ければ合わせてお読みください。
https://ncode.syosetu.com/n8463gz/
カタカタカタカタ。
「……うるさ」
カタカタカタカタ。
「……うるさいなぁ」
カタカタカタカタカタ……。
「うるさいっつってんだろ!」
私は思いっ切り壁を蹴り飛ばした。踵に鋭い痛みが走る。おかげで目が覚めてしまった。
「せっかく寝てたのによー……」
ぼさぼさの髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き毟りながらゆっくりと体を起こす。カーテンの隙間から真っ白な太陽の光が差し込んでくる。
「……朝かー」
ぼーっとしながら窓の外を眺める。
いつもこうだ。私は毎朝あの音を目覚まし代わりに起きている。
「お母さん、おはよー」
大きな欠伸をしながらリビングに出ると、お母さんがキッチンで目玉焼きを焼いていた。ベーコンの香ばしい匂いがリビング全体に広がっている。
「お腹空いたぁー」
そう呟きながら食卓に座ると、
「こころちゃん、先に顔洗ってきなさい」
すぐさまお母さんがそう叫ぶ。
「へいへい」
めんどくさいなぁ、と思いつつも、私は立ち上がって洗面所へ向かった。
顔を洗って化粧水と乳液を付けてリビングへ戻ると、お母さんが手招きしてくる。
「なに?」
駆け寄っていくと、お母さんがそっと耳打ちしてきた。
「これ、お兄ちゃんの部屋まで運んでくれない?」
そう言って朝食が並べられたお盆を押し付けられる。
「はぁ?何で私が?」
「ね、お願い!昨日ちょっと口喧嘩しちゃって気まずいのよ。今日だけでいいから!」
「やだやだ絶対無理!あいつキモイもん!」
「お兄ちゃんに向かってそんなこと言わないの!」
「お母さんだってあいつにうんざりしてるから口喧嘩なんかしたんでしょ!」
お母さんは、普段は絶対誰かと言い争ったりしないのに。
「……いいから。ほら、手離すよ」
「わわ、っちょ」
私は反射的にお盆を持った。お母さんはほんとに手を離したから、あと少し遅れてたら床にご飯が散らばってたところだった。せっかくお母さんが作ったご飯なのに。あいつは自分で取りにすら来ないんだ。
「……分かったよ」
私は短い溜め息を吐いて、ぺたぺたと廊下を歩いた。
兄の部屋の前に立つと、あのカタカタと言う音がよりはっきりと聞こえてくる。
「入るよー」
ノックもせずに足でドアを開ける。すると途端にあの音は止まってしまった。
「うえ……」
ホコリ臭い空気が立ち込めた部屋に片足だけ突っ込む。
「朝ごはんだって。」
電気も付いてない、シャッターも開いていない真っ暗な部屋。ダンボールや漫画本などが散らばった床。その奥にはぼんやりと光を放つパソコンのモニターと、その前に座る猫背でストレートネックな醜い兄。
「ねぇ、聞いてんの?」
パソコンの前に座って、こちらに背を向けている兄にイライラしてくる。私はわざとらしく足踏みをした。それでも兄はだんまりだった。
「お前さー、せめて自分で取りに来いよ!」
私はそう叫んでがちゃんと音を立てて床にお盆を置いた。
「さっさと出てけよクソゴミ野郎が」
私はそう吐き捨てて勢い良くドアを閉めた。
「きめーんだよ……」
言い表しようのない不快感に胸がムカムカしてきた。本当に意味が分からない。視界に入れたくないから部屋からは出てこないでほしいけど、うちからは出てってほしい。
まじでムカつく!
私の名前は美沢(みさわ)こころ。ごく普通の中学二年生だ。
別に普段からこんなに荒んだ性格をしているわけじゃない。これにはちゃんと原因があるのだ。
私の兄は、引きこもり――いわゆるニートだ。
中学生の頃からクラスで浮きまくりだった兄は、高校でも浮きまくり大学受験にも失敗した。そして就職活動もせず、高校を卒業してからはずっと部屋に閉じ籠っている。
毎日毎日、朝寝て夕方起きる生活。起きている間はどうやらオンラインゲームやネット掲示板に張り付いているらしい。兄と私の部屋は隣同士だから、嫌というほどキーボードを叩く音が聞こえてくる。
いじめられたせいか元々なのか知らないけど、兄は異常なほど他人を恐れている。さっきみたく私が部屋に入ったり部屋の前を通ったりすると途端にキーボードを叩くのをやめる。「遊んでませんよ」アピールなのかもしれないけどバレバレだ。四六時中パソコンを弄ってるのが恥ずかしいって自覚があるならちょっとは離れればいいのに。
そして私が一番腹が立つのは、あいつは自分より弱いと見なした人に対しては強く出ようとするところだ。あいつはお母さんに対してだけ明らかに当たりが強い。体格のいいお父さんと気の強い私からこそこそ隠れるストレスを全てお母さんにぶつけようとしてる。きっと昨日の口喧嘩の原因も、兄が先に暴言を吐いたからに違いない。
お母さんは「大丈夫」って顔をしてるけど、大丈夫なわけない。何で何も悪くない、むしろ迷惑掛けられてるお母さんが我慢しなくちゃいけないの?あいつが家から出てけば全て解決するのに!
「行ってきまーす」
お母さん特製の目玉焼きとトーストを平らげて歯を磨き、学生鞄を掴んだ。
「行ってらっしゃい」
お母さんが見送りに来てくれる。
「今日も学校楽しみだなぁー」
私は兄の部屋の前を通る時、わざと大きな声でそう言ってやった。
玄関を出てエントランスに出ると、管理人のおじさんが掃除をしていた。
「おはようございます」
そう言って軽く頭を下げると、おじさんは帽子の鍔をくいっと上げて、
「おはよう、行ってらっしゃい」
そう言ってにっこり笑ってくれた。
「行ってきまーす!」
私は自動ドアを出て階段を駆け下りた。
坂道を登って歩いていく。真っ白な朝日がコンクリートの道をてらてらと照らしている。私は横断歩道の前で立ち止まった。
「はぁ……」
そして大きな大きな溜め息を吐く。隣で腕時計を見ていたサラリーマンがちらりと私の方を見た。
「朝から疲れるなぁ……」
気分は最悪だった。ただでさえ学校に行くのが憂鬱なのに、朝っぱらから兄と顔を合わせるなんて最悪すぎる。まぁ『顔』は合わせてないんだけど。
兄への当て付けで「学校が楽しみだ」なんて言っちゃったけど、本当はちっとも楽しみなんかじゃない。むしろ学校になんて行きたくないくらいだ。でももし本当に不登校になったら、兄と同類になってしまいそうで怖い。そんなちっぽけなプライドだけが毎日の糧だった。
私のクラスは、まるで動物園だ。
「……」
無言でドアを開けて教室に入る。廊下にまで響き渡る猿みたいな笑い声がより一層大きくなる。耳を塞ぎたい気持ちを抑えて、自分の席まで歩いていく。
「あ、おはよー、こころん」
背中をつんつんとつつかれ、思わず肩がびくりと跳ね上がった。少しツンとした癖のある声。舌っ足らずな喋り方。私はロボットみたいにぎこちなく首を回して背後を見た。
「あーはいはい、おはよ」
机に突っ伏しながらにやにやと私を見上げるその子に苦笑いをする。
「あれー?あんま元気なくない?もしかして生理?」
気だるそうな横に長いたれ目で、まるで私の心の中を覗き込むように見上げてくる。
「違うっての」
私はそう言って椅子を動かしてそこに腰を下ろす。
「あー、もしかしてお兄さんと何かあったんでしょぉ」
ぎく、と体が硬直する。それと同時に、お腹の底から熱いものがふつふつと湧き上がってきた。
無言でおでこに皺を寄せていると、「あっちゃー」とわざとらしく呟いてから両手を合わせてきた。
「ごめーん、図星だった?」
バカにしてんの?私は心の中でそう叫びながら乾いた笑い声を出した。
「別に」
私はそう言って体を前に向け、机に肘をついた。
私の後ろの席のこいつは、宮下舞宵(みやしたまよい)。胸あたりまである内巻きの髪はいつもぼさぼさで、いつもふわふわした笑顔を浮かべている変な子だ。体育は一年中「生理です」って言ってサボってるし、授業中はいつも寝てるし、不真面目な奴だ。
こいつは何かと私にちょっかいを掛けてくるけど、それには理由がある。
こいつは、私の兄の存在を知っているのだ。ずっと兄の存在が恥ずかしくて隠していたのに、ある日突然「こころんのお兄さんってさ……」と打ち明けてきたのだ。何がきっかけで兄のことを知られたのかは未だに分からない。
「こころん、お兄ちゃんは大切にしないとだめだぞぅ」
机に身を乗り出して私の耳元でそう囁く舞宵についイラッとしてしまう。周りをぐるりと見回すけど、みんな各々の談笑に夢中で聞こえてなかったみたいだ。ふぅっと溜め息を吐いて胸を撫で下ろす。
「誰かに聞かれたらどうすんのよ」
振り返ってぎろりと舞宵を睨み付ける。舞宵は「うわ、怖っ」と言ってわざとらしく口元を手で隠した。
「そんな睨まないでよ、聞こえないように小声で言ったんじゃん」
そう言って机に腕を投げ出しごろんとそこに寝そべる舞宵を見て、私は眉を顰めた。
確かに、舞宵は兄のことをいじってはくるけど、他の誰かにバラそうとはしてこない。むしろ誰かに聞かれたりしてバレそうになったら、私より先に誤魔化すくらいだ。
「…………」
口を猫みたいにして私を見上げる舞宵を見て、私は大きな溜め息を吐いた。
こいつ、ほんとに何がしたいの?
教室に教師が入ってきて、一時間目の授業が始まった。……いや、正確には、「授業」は始まっていない。
「ねー見て、こいつキモくない?」
「あー、鍵掛けてないとそういうDM来るよねー」
「てか昨日のアイツのストーリー見た?ガチキショくない?」
「おいお前早く金返せよ!」
「そう言えば昨日公園でたむろってたらケーサツ来たwww」
今のこの教室は、授業中だとは到底思えない状態だ。私は机に肘をついて溜め息を吐きながら、ちらりと教卓を見た。
「ううっ、お願いだからみんな真面目に聞いてよぉ……」
若い女の教師が涙を流しながら必死に懇願している。が、誰もそんなのに目もくれない。配布物のプリントで作った紙飛行機や誰かの上履きが飛び交うだけだ。
「ちゃんと授業させてよぉお……」
ついに教師は教卓に突っ伏してしまった。ああ、今日も教師の負けだ。
「みんなもよく飽きないねぇ」
私の背後では、呑気にそう呟きながら机の上にごろごろと寝そべる舞宵。
「こころんは真面目に授業受けたいのにねぇ」
「うっさい」
私は背中をつついてくる舞宵の指を背中で押し返した。
うちのクラスは、いわゆる「学級崩壊」ってやつだ。
まともな授業を最後に受けたのはいつだっただろうか。入学して三日目くらいまでだった気がする。それからは、毎日、毎時間、まるで教室内は動物園だった。
どんなに強面な教師が怒鳴っても、校長が直々に注意しに来ても、誰も耳を貸したりしない。教師達ももうお手上げ状態だ。
むしろ影やTwitterで教師の悪口を言ったり、教師達を盗撮して裏垢のストーリーに載っける子も居る。何をしたって悪化する一方なのだ。
「はぁ……」
入る中学、完全に間違えたな。別に私も真面目に授業を受けたいってわけじゃないけど、こうも毎日騒がれると鬱陶しくなってくる。
脳味噌空っぽなの?猿なの?ほんとに毎日飽きもせずによく騒げるよね。
「はぁ……」
キーンコーンカーンコーン。授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。教師が、音も立てずに教室から飛び出していった。誰もそれに気付かずに騒ぎ続ける。私はそんな教師を睨むように眺めて、また溜め息を吐いた。
「そういえばさぁ、あの噂ってマジらしいよ」
給食の時間。各班が楽しそうに会話をしながら昼食を食べていると、斜め前に座っていたクラスメイトがふとそう呟いた。
「部活の先輩が言ってたんだけど、本当に去年この学校のあるクラスが失踪したんだって」
途端にざわざわとざわめく教室。私は無言でコッペパンを頬張りながらそれに耳を傾ける。
確かにそんな噂を聞いたことがある気がする。去年、この学校のとあるクラスのクラスメイトが全員不審死したって……。
私達は今年この中学に入った一年生だし、そのクラスの学年は去年卒業したらしいから、当事者達と面識があったわけじゃない。その噂もただ先輩達が騒ぎ立ててるだけだし、信憑性も何もないからみんなが信じていることに驚いた。
「マジでー?」
そんな中一番大きな声を上げたのは、窓際の前から二番目の席に座っている一際目立つクラスメイトだった。
「あの噂って本当だったんだぁ」
その子はニヤニヤしながら牛乳のストローを噛んで笑う。椅子を傾けてまるでブランコを漕ぐようにギコギコと前後に揺らす。少し傷んだ抜きっぱなしの金髪がそれに合わせて靡いた。
彼女は伊東暁美(いとうあけみ)。いわゆるうちのクラスの『女王様』だ。
彼女はその見た目の通りかなりやんちゃな性格で、未成年飲酒、喫煙の常習犯だ。毎日近所の公園で、バイクを乗り回し高校生と夜遊びをしている。
そして一番厄介なのは、彼女は気に入らないクラスメイトが居るとすぐにみんなを巻き込んで排除しようとする所だ。暁美はその見た目から入学当初から恐れられていたから、誰も彼女には逆らえない。暁美の反感を買ったら終わりだ。その子はクラスメイト全員からハブられる羽目になる。
「まぢウケるんだけど」
暁美がそう言うと、クラスメイト達は「それな」と言って笑いの渦に包まれた。
「え〜、みんなそんな噂ほんとに信じてるのー?」
そんな中、気だるそうな声が教室を静寂に包み込んだ。私は首を左に捻って、隣の班で既に給食を食べ終えているその声の主を見た。思った通り、舞宵が虚ろな笑顔を浮かべながら机に肘をついていた。
「何、舞宵は信じてないの?」
首をぐるりと回して顔にかかった髪を退けながら、暁美は舞宵を見る。
「むしろあんなの信じてる方がびっくりなんですけどー」
舞宵はぷぷぷと笑いながらそう言った。
教室が再び静寂に包まれる。みんな冷や汗を流しながら黙って暁美の次の言葉を待っている。
舞宵、何考えてんの?そんなこと言って暁美が怒ったらどうすんのよ。私はそう目で訴えたけど、舞宵は私の方なんて見てもいなかった。
「……ふーん。ノリ悪」
暁美がそう呟いた途端、教室中のみんなが「あーあ」という顔をした。暁美の機嫌が悪くなったのが目に見えて分かったからだ。
暁美は面白くなさそうにサラダをつつく。一方、舞宵は口を大きく開けて欠伸をしていた。
午後の授業が始まっても、教室の空気は最悪だった。かなりの頻度で暁美の舌打ちが鳴り響き、常に貧乏揺すりのカタカタという音が轟いていた。
私達クラスメイトは背後で呑気に欠伸をして居眠りしている舞宵を恨んだ。心の目で舞宵を思いっ切り睨み付けてやる。
「じゃあ今日の授業はここで終わりにする。宿題忘れるなよー」
無機質なチャイムの音が鳴り、教師が気だるそうに教室から出ていった。
「……クソ気分わりー、私先に帰るから」
と同時に、ガタンと派手な音を立てて暁美が立ち上がった。そしてそう言いながら学生鞄を背負い、黒板の前を歩いていく。クラスメイト達はそんな暁美を固唾を呑んで見送る。
「……じゃ、じゃあね、暁美!」
暁美の取り巻きのゆみかが慌ててそう言った。
暁美はそれを無視して、教室から出ていくとドアを力いっぱい閉めた。壁にバウンドして大きな音を立て、ドアは半開きになった。
「……」
教室が静まり返る。みんなは無言で帰りの支度を始める。
「まじでやめてほしいよな……」
ボソッと誰かがそう呟いた。
「誰かのせいで暁美ちゃん怒っちゃったじゃん」
また、そんな呟きが聞こえてくる。
「まじで空気読めよ」
また。
私は首を少し捻って後ろの席を見る。
「ふわあああ」
当の本人は大きな口を開けながら机に突っ伏していた。そして目尻に涙を浮かべながらゆっくりと上体を起こす。
「あ、授業終わったのー?」
眠そうに目を擦りながら呑気にそう言うと、舞宵は立ち上がって机の横に掛けてあった学生鞄を手に取った。
「あー、ねむっ」
そしてそう呟きながら、また大きな欠伸をして、半開きのドアから出ていってしまった。
途端に教室はざわめき出す。
「あいつマジで有り得なくね?」
「自分のせいで暁美ちゃんが怒ったって自覚ないの?」
「ほんっと迷惑だよね」
クラスメイト達は舞宵への文句をぶちまける。私はそれを聞きながら、机の中の教科書やノートを学生鞄に押し込む。
舞宵のことだから、自分のせいでクラスの空気が悪くなったり、自分がクラスメイト達に陰口言われてるってことにも気付いてないんだろうなぁ。ノーテンキで羨ましいわ。
「こころちゃんも大変だよね」
前の席に座っているクラスメイトの綾(あや)が体ごと振り返って小声でそう言ってきた。
「いっつも絡まれてんじゃん。めんどくさくないの?」
「あーはは、見てた?」
私は口角を引き攣らせながら愛想笑いを浮かべた。
「めんどくさいよ、正直。」
私はわざと綾から鞄に視線を逸らしてそう言った。
「無視すればいいのにー」
綾はそう言いながら笑うと、満足したのか体を前に戻した。
「……」
確かに、めんどくさいなら無視すればいい話なんだろうけど。
もし、有り得ないだろうけど、もし舞宵の機嫌を損ねたりしたら、兄の存在をバラされそうで怖いんだ。
「ただいまぁ……」
玄関で靴を脱ぎ捨て、私はとぼとぼと廊下を歩いた。
今日も疲れたなぁ。舞宵のせいで暁美がキレちゃったし、いつも以上に余計な気を使った気がする。
「ほんと、余計なことすんじゃねーよ」
溜め息を吐いて、洗面所で手を洗う。
「おかえり、どうしたの、暗い顔して」
洗面所を覗き込んできたお母さんと、鏡越しに目が合う。私は苦笑いしながらタオルで手を拭く。
「後ろの席の子がまじ最悪でさ」
思わず愚痴が溢れ出る。
「空気読めなくて、そのせいでクラスの他の子が機嫌悪くなっちゃって」
私がそう言うと、お母さんは眉を八の字にして苦笑いした。
「あんまり悪口言っちゃダメよ?ムカついたとしてもいじめたりしちゃ絶対だめだからね?」
「はー?そんなのしないけど愚痴くらい良くない?」
「言ってもいいけど、絶対本人に聞かれちゃだめよ。言う相手にも気を付けなさい、本人にバラしたり他の子に言っちゃうかもしれないからね」
「別に舞宵にならバレたっていいし」
あいつはどうせ気にもしないだろうし。
「こころ。」
急に低い声で名前を呼ばれてはっとする。いつもの「ちゃん付け」じゃない。ゆっくりと顔を上げてお母さんの顔を見る。いつもは温厚なお母さんの表情はどこにもなかった。冷たく鋭い視線が、氷柱のように私に突き刺さる。
「他人を傷付けるような子に育てた覚えはないわよ。」
「……ごめんなさい」
心臓がどく、どくと鼓動を刻んでいく音が聞こえる。私はそっと胸に手を当てた。
「そ、そんなに怒んなくたっていいじゃん」
そしてお母さんの視線から逃れるように目を泳がせる。背中を冷たい汗が伝っていくのを感じる。
な、何でここまで怒ってんのよ。普段なら、引きこもりの兄にだって絶対怒んないじゃない。何で兄は怒られなくて私は怒られなきゃいけないの?おかしくない?
「私はね、こころのために言ってるの」
お母さんはそう言いながら短い溜め息を吐いた。
「こころ。友達を傷付けちゃダメ。絶対に、よ。」
お母さんはそう言うと、私に背を向けてリビングへ歩いていった。
「さ。お腹空いたでしょ、何か食べる?」
そう言いながら振り返ってにっこりと笑ってきた。いつものお母さんだった。
「……うん」
私はゆっくりと歩いて洗面所を出て、電気を消した。
夜になっても、ずっと帰宅後の出来事が頭から離れなかった。何でお母さんはあんなに怒ったんだろう。あんなキツい言い方、絶対しないのに。そんなに怒らせるようなこと言っちゃったのかなぁ。
自分の発言や態度を振り返ってみたけど、どれがお母さんの地雷を踏み抜いてしまったのかは全く分からなかった。本当に何が原因だったんだろう。うーん、モヤモヤする。
ベッドに寝そべっていると、壁の向こうからあのカタカタという音が微かに聞こえてきた。あいつ、またパソコンを弄ってるんだ。一日中弄ってるんじゃないの?
「はぁ……」
いいよな、あいつは一日中好きなことに没頭出来て。私は今日も一日疲れたんですけど。いつも暁美が機嫌悪くしないかずっと気を使って。それだけでも疲れるのに、今日はほんとに機嫌が悪くなったから余計にだ。舞宵のやつ、ほんと、余計なこと言わないでほしい。
「ほんと、疲れたなぁ」
深い深い溜め息をゆっくりと吐きながらそんな言葉も吐き出した。
眠ったら明日になっちゃう。明日になったら、また学校に行かなきゃいけない。
暁美、機嫌よくなってるといいな。
そんなことを思いながら、私は眠りに就いた。
翌日。私はまたあの音で目を覚ました。昨日暁美が不機嫌になったまま学校が終わったことを思い出して、朝から憂鬱な気分になった。
「はぁ……」
大きな溜め息が出る。私はベッドから降りて、半ば蹴るように足でドアを開けた。
「こころちゃん、おはよ」
お母さんがトーストを焼きながら笑顔でそう言ってきた。
「おはよ……」
そう言えば、昨日お母さんに怒られたんだっけ。私はお母さんと顔を合わせないようにして、リビングの食卓に座る。
「先に顔洗いなさいってば〜」
「はいはーい」
あ、良かった、お母さんもう怒ってないっぽい。私は生返事をして、ゆっくりと洗面所に入った。
顔を洗ってリビングに出ると、朝食が並んだお盆を持ったお母さんがにこにこしながら立っていた。
「……まさか。」
「今日もお兄ちゃんの部屋に持ってってあげて!」
「はぁ……」
私はわざとらしく溜め息を吐いて肩を落とした。お母さんの手からお盆を受け取り、精一杯嫌そうな顔をしてから兄の部屋に向かった。
「ほんとに頼むから自分で取りに来てよ……」
私は器用に足でドアを開けて、恐る恐る部屋の中を覗き込む。パソコンに向かってこちらに背を向けた兄が、ビデオを一時停止したみたいにそこに座っている。微動だにしない兄にイラつきながら、私はお盆を床に置いた。
「私が来たからってパソコン弄るのやめるのやめなよ。」
そう吐き捨てて、私はドアを乱暴に閉めた。そして、息を潜めてドアの前に立つ。
床を踏む小さな音が三、四回聞こえてくる。その後、ドアのすぐ向こうでがちゃんという音。お盆を拾ったんだろうか。また床を踏む音が数回鳴り、遠くから机にお盆を置いたであろう音が聞こえてきた。
「……。」
私は自分の足元を睨みながら無言で顔を顰めた。そして、お母さんにバレないようにドアを軽く蹴って兄の部屋を後にした。
「こころか、おはよう」
リビングに戻ると、お父さんがコーヒーを飲んでいた。
「ねぇ、お父さんからも何か言ってよ」
私は自分の朝食が並んだ食卓に腰掛けながらそう言う。
「何か、って?」
「あいつのことだよ。お父さんはおかしいって思ってるよね?」
「うーん……」
お父さんは困ったのか唸りながら黙り込んでしまった。私は納得いかずに食パンを齧りながら続ける。
「……何で?お母さんもお父さんも、おかしいって思わないの?あいつはあんな生活するのが当たり前だと思ってるんだよ?てかお父さんは昔はちゃんと注意してたじゃん!何で最近は放ったらかしなの?」
「別に放ったらかしにしてるわけじゃないよ。お兄ちゃんにもーー洸希(こうき)にも色々あるんだよ。」
お父さんは立ち上がって、ネクタイを結び直しながらそう言う。
「意味分かんない。色々あるからって怠けて生きていいって言うの?」
私はウインナーにフォークを突き刺しながらそう呟く。そんな私を見て、キッチンに居たお母さんが短い溜め息を吐いた。
「こころったら、昔はお兄ちゃんお兄ちゃんって言ってたのにねぇ……」
「は、はぁ!?」
私は振り返ってお母さんを見る。
「そうだよなぁ、ずーっと洸希の後ろについてってたもんなぁ……」
「はぁぁ!?」
体を前に戻して、遠い目をしながら微笑を浮かべるお父さんを睨む。
「何急に!キモ!私そんなの全然覚えてないから!」
私は目玉焼きを口いっぱいに詰め込んでそれを飲み込んだ。
「ごちそうさま!」
私は勢いよく立ち上がって洗面所に駆け込んだ。歯ブラシに歯磨き粉をつけてシャコシャコと歯を磨く。
「何か、今日は機嫌悪いみたいだね?」
「そう言えば昨日、クラスメイトがどうのこうの言ってたっけ……」
そんな両親の会話が聞こえてくる。ふんだ、私の気持ちなんて分かってくれないくせに。
「……。」
私、間違ってるのかな。
「……ううん、確実にあいつがおかしいよ」
自分にそう言い聞かせて、口に水を含んでうがいをする。
「実際、お母さんやお父さんに迷惑掛けてるもん。」
髪の毛をブラシで梳かしながらそう呟き、私は洗面所を後にした。
憂鬱な気持ちのまま学校に着いた。私は下駄箱で上履きを履きながら、首をぐるりと回した。
「あ、おはよ、こころ」
すると、背後から誰かに挨拶された。その声に思わず肩がびくりと跳ね上がった。
私はゆっくりと振り返って、愛想笑いを顔に貼り付けた。
「おはよー、暁美」
「ん」
私が挨拶し返すと、暁美は満足そうに口元に笑みを浮かべた。そしてスニーカーを脱ぎ、それを靴箱に放り込む。
「こころさぁ」
暁美は上履きをすのこに投げ捨てる。ひっくり返ったそれを足で表に戻しながら、ちらりと私を見上げてくる。
「舞宵のことウザイって思ってるでしょ、ぶっちゃけ」
そう言われた途端、私の視線は魚のように泳ぎ出した。それを悟られないように、壁の上の方に取り付けられた時計を見る。
「あー、あはは」
誤魔化すように笑ってみたけど、暁美は騙されてくれなかった。
「ウザイっしょ、毎日絡まれてんじゃん」
あー、見てたんだ。めんどくさいなぁ。暁美は上履きに足を突っ込んで爪先をとんとんとする。その足元を眺めながら、私は口元だけにさっきの愛想笑いを浮かべる。
「空気読めないよねー。あーいう脳天気なタイプ一番嫌い。見ててイライラするもん。」
暁美はそう言うと、歩いて校舎の中へ入っていく。私は無言でそれを追い掛けた。
「こころもさー、ウザかったら無視しちゃいなよ。」
暁美は振り返ってにこりと笑ってきた。
「……うん」
私はそんな暁美の胸元に視線を固定して、笑顔が張り付いたままの唇を噛んだ。
暁美から数歩遅れて教室に入ると、教室はいつも通りだった。今日も入場無料の動物園だ。馬鹿みたいに手を叩いて笑う声や、大声で何かを叫ぶ声。何だかよく分からない奇声も聞こえてくる。
「あー、こころん、おはよぉ」
自分の席に座ろうとすると、また今日も舞宵が話し掛けてきた。いつものように机に寝転びながら、口を猫みたいにして私を見上げている。
「あー、……」
私はちらりと暁美の方を見た。椅子の背もたれを脇に挟みながら、こちらをじっと見詰めている。
「……」
私はすぐに暁美から視線を逸らして、舞宵を無視した。椅子に座って、机に頬杖をつく。
別に、暁美が怖いわけじゃないけど。ただ、暁美が不機嫌になるのが怖いだけだし。
強がって自分にそう言い聞かせながら、私は指で机を叩いた。
「お前ら、ちゃんと宿題やってきたか?」
一時間目が始まり、教師が教室に入ってきてそう訊いてきた。
「お前ふざけんなよー!」
「あ、そっち飛んでった!」
「きしょ!こっちに飛ばすなって!」
が、誰もそんな教師に見向きもしない。教室には誰かが作った大きなホコリの塊が舞っている。
「宿題、出したの覚えてるか?」
そう言った教師の声は、女子の甲高い叫び声と男子の低い笑い声に掻き消されてしまった。
「宿題やんないと進路に響くぞ……」
教師の声からはどんどん覇気がなくなっていく。
「……前回の続きやるぞー」
どうせ誰も聞いてなかった授業の続きを始め出した。誰もノートを広げてなんかいないのに。誰も机に向かってなんかいないのに。
「ここはこの公式を当てはめて……」
そう説明する教師の顔には明らかな疲労が見えた。くまが浮かび上がった虚ろな目元も、だらしなく開きっぱなしの口元も、見るに堪えない。
「美沢さん」
そんな教師をぼーっと眺めながらクラスメイト達の奇声をBGMに放心していたら、視界の右側からにゅっと腕が伸びてきて、とんとんと机を叩かれた。
「……?」
私は右側を見た。すると、隣に座っていたクラスメイトが同じようにこちらを見ていた。
「あれ、掛け算と足し算っていうのをちゃんと意識すれば理解しやすいよ」
少し恥ずかしそうに微笑みながら、その人はそう言ってきた。私はどうしていきなりこんなことを言われたのか理解出来ずに、頭に大量のはてなマークを浮かべた。
「あ、ごめん。ずっと熱心に黒板の方見てたから、授業ちゃんと受けたいのかと思って」
そう言って苦笑いしながら頬を掻くその子を見詰める。
彼は葉山賢人(はやまけんと)。マッシュヘアーの、黒くて太い縁のメガネを掛けたクラスメイトだ。いつも文庫本を読んでいて、一人で行動することが多い印象だけど、だからと言って友達が居ないわけではないらしい。少し変わった子だけど、彼の陰口は一度も聞いたことがないし、読書している時以外は常に周りに人が居る。
葉山くんから話し掛けてくるなんて珍しい。入学してからずっと隣の席だったけど、会話なんてしたことなかったのに。
「いや、別に」
私がぶっきらぼうにそう言うと、葉山くんは嫌な顔一つせずに、
「そっかぁ。僕と同じなのかと思ったんだけど違ったね。」
「葉山……くんは授業受けたいの?」
私が尋ねると、葉山くんはにこにこしながら恥ずかしそうに小さく頷いた。
「うん。実はね。」
「ふーん……」
まぁ、確かに見るからに勉強好きそうだし。
「まぁ、今習ってるところは小学生の時に塾で習ってるし、そこまで困らないんだけどね」
「やっぱ頭いいんだ、いつも難しそうな本読んでるもんね」
「そんなことないよ。ただ親が医者になれってうるさいだけでさ」
どこか寂しそうな表情になる葉山くんを横目で見る。
「まぁ、僕もなれたらいいなって思ってるから別にいいんだけどね!」
「すごいじゃん、親の期待に答えようとして、それが自分の夢でもあるって。」
何の気なしににそう言うと、葉山くんは目を輝かせて私をじっと見詰めてきた。
「……何?」
「いや、美沢さんって素敵なこと言うなって……」
「は?何それ」
「そういう風に考えられるの、素敵だと思うよ」
そう言う葉山くんの視線から逃れるように私は彼から視線を逸らした。
「……別に、思ったこと言っただけだよ」
何だか恥ずかしくなって、私は黒板を見ながら頬杖をついた。
「こーころん」
休み時間、トイレに行こうと思い立ち上がろうとすると、背後からつんつんと背中をつつかれた。振り返ると、案の定口を猫みたいにした舞宵が机に寝そべりながら私を見上げていた。
「……何?」
視線を前に戻して尋ねると、見てもいないのに私の顔を覗き込んでくる舞宵の姿が目に見えた。
「葉山といい感じじゃ〜ん」
「は!?」
私は思わず勢いよく振り返った。周りにクラスメイトが居ないことを確認して、胸を撫で下ろす。
「こころんが男子と話すなんて珍しいよねーん。葉山、他の男子と違って大人びてるし、こころんとは相性いいかもねん」
「…………」
私は机の下で拳を握り締めた。それをわなわなと震わせて、同じように震える唇を強く噛んだ。
「でも意外だな〜、こころんってあんな風に照れるんだね。こころんが顔真っ赤にしてるとこなんて初めて見たよぉ……」
くすくすと舞宵は楽しそうに笑う。
「……んたって、ほんとに……」
「ん?何か言った?」
ブチッ。私の中で、何かが音を立てて切れた。
「あんたって、ほんとにデリカシーないよね。普通そういうこと言う?頭おかしいんじゃないの?」
「…………ええ。」
ぽかんと口を真ん丸に開けた舞宵が体を起こした。
「な、何で怒ってるの、こころん……」
「人を馬鹿にするのもいい加減にしたら?」
「私、馬鹿になんてしてない……」
「自覚ないんだ、へぇ。あんた頭の病気なんじゃない?空気も読めないし、絶対そうでしょ」
私はそう吐き捨てると、勢いよく立ち上がって椅子を乱暴に蹴った。椅子の脚が床と擦れる音は、クラスメイト達の話し声に掻き消された。
「…………」
マジで最悪。気分悪い!
「……はぁ。」
私は溜め息を吐いて、早足で教室から出た。
ムカつく感情で埋め尽くされた頭の片隅に、何かが引っ掛かっていた。
さっきの、舞宵の焦ったような顔。まるで、ほんとに私が何で怒ったのか理解出来ていなかったみたいだった。
いつも私のことを弄ってくるのは、わざとじゃなかったってこと?ほんとに天然であんな風にウザ絡みしてきてたっての?
何か、舞宵のことが、よく分からない。
「こころ、一緒に帰ろう」
「……え」
ホームルームが終わり、帰ろうと思って立ち上がった時だった。いつも一緒に帰っているクラスメイトの千優(ちゆう)の隣に、暁美が立っていた。
「今日は暁美も一緒に帰りたいんだって!三人で帰ろ!」
「う、うん……」
千優にそう言われて、私はぎこちなく頷いた。
「行こ。」
口元に笑みを浮かべた暁美が、くるりとUターンした。
私はドアに向かって歩いていく二人の背中を追い掛けた。
教室を出る際、ちらりと舞宵の方を見た。舞宵は机に突っ伏していた。どうやらまだ寝ているみたいだ。
「…………」
別に、私が気にすることないじゃん。
ノーテンキな舞宵が、私のあんな一言で傷付くわけないもん。
「ねー、私思うんだけどさぁ……」
帰り道、細い道を縦に並んで歩いている時だった。先頭を歩いていた暁美が、空を見上げながらぽつりと呟いた。
「舞宵って絶対ガイジだよね」
そう言って、暁美は私達に同意を求めるように振り返る。暁美のすぐ後ろを歩いていた千優が、一瞬間を空けてから、
「だよねー!」
と言った。
「私も思ってた。あの空気の読めなさはそうとしか思えないよね」
千優がそう続けると、暁美は満足そうに目を細めて笑った。
「こころは?」
そして、そのまま後ろを無言で歩いていた私を見てくる。
「っえ」
私ははっとして顔を上げた。千優と暁美が私の方を振り返りながら歩いていた。
「あー……」
私はそんな二人と視線が合わないように、道端に落ちている葉っぱを見た。
「絶対こころは舞宵のオキニだもんね。一番分かってるんじゃない?」
「いっつも二人で喋ってるよね、こころと舞宵って」
二人はそう言いながら勝手に盛り上がっている。私は上の前歯で下唇を噛み締め、声を絞り出すようにして呟いた。
「そんなこと、ないよ」
私がそう言うと、千優と暁美は顔を見合わせて、
「ふーん、そっかぁ」
あまり面白くなさそうにそう言った。
……何か、ダメだ。
二人が、うざったくなっちゃった。
「ただいま……」
鍵を開けて家の中に入って、私は鞄を廊下に投げ捨てた。靴を脱いで、それを揃えもせずに、鞄を足で蹴りながらとぼとぼと廊下を歩く。
「おかえり、こころちゃん……って、何してるの?鞄蹴らないの!」
リビングから出迎えてくれたお母さんが、呆れたような口調でそう言ってきた。
「んー」
私はまともな返事をする気にもなれなくて、適当にそう言った。
「ちゃんと手洗いなさいね、それからシワになるからすぐに着替えなさい」
鞄をソファに置いて自分の部屋に向かおうとすると、すぐさまお母さんがそう叫んだ。
「はぁ……」
私はそんなお母さんの言葉を無視して、ソファに倒れ込んだ。
「こーこーろーちゃーん?」
ぬっとお母さんが私を見下ろしてくる。私はクッションを抱き抱えてそこに顔を埋めた。
「だめでしょ、クッション汚れちゃうじゃない!」
お母さんはそう言って私の背中を軽く叩いた。私はクッションの影からそんなお母さんを見上げて、駄々っ子のように口を尖らせた。
「疲れたんだもん」
「もー……。……学校で何かあったの?」
そう言って、しゃがんで私と目線を合わせるお母さん。私はそんなお母さんを見て、首を横に振った。
「別に。ただクラスのみんなが幼稚過ぎて疲れただけだよ」
「こころちゃんもまだ子供じゃないの」
「違うんだって!アイツらほんとにレベル低いの!毎日毎日飽きもせずにさぁ……」
「あんまり悪く言っちゃだめよ、思っても外で言うのは辞めなさいね?」
「言わないよ、そんなこと言ったらハブられるもん。」
「…………。こころちゃん、学校で嫌な思いしてるわけじゃないのよね?」
いきなり深刻そうな顔になるお母さん。
「こころちゃんだけじゃなくて、クラスの誰かが嫌がらせされてたり、いじめがあったりしてないのよね?」
「何、急に……」
「中学生になって二ヶ月になるけどまだまだ心配なの。何かあったらお母さんに相談するのよ?」
「……分かったよ」
私がそう返すと、お母さんは満足そうににっこりと笑って立ち上がった。
「よし。じゃあ着替えて手を洗ってきなさい!」
そしてまた私の背中を、今度はかなりの力でバシッと叩いてきた。
「いったぁ!……もー」
私はじわじわと痛む背中を擦りながら、お母さんの後ろ姿を思いっきり睨み付けた。
……でも、何だかんだ私のことを心配してくれてるんだよね。いつも学校でのことを気に掛けてくれてるし。
でも、言えないな。学級崩壊してて、まともに授業も受けられてないなんて。
それに、舞宵のことだって言えない。きっと、私やクラスメイトが舞宵に冷たくしてるなんて言ったら、お母さんは悲しんじゃう。
「……」
学校で舞宵に放ってしまったあの言葉が頭から離れなかった。その後の舞宵の顔が、目を瞑ると瞼の裏に浮かび上がってくるのだ。
「……明日、謝ろうかな」
クッションに埋めた口元で、ぽつりとそう呟いた。
翌日。学校に着くと、何やら玄関が騒がしかった。
「すぐ体育館に集まれ!」
ロッカーで上履きに履き替えて校舎内に入ると、廊下に立っていた教師が、通る生徒全員にそう呼び掛けていた。
「すぐ体育館に行け、急げー!」
当然私もそう言われたから、教室ではなく体育館へ向かった。
「何だろうねー」
後ろを歩いていた先輩達が声を潜めてそう呟いていた。
体育館に入ると、既に先に来ていた生徒達で溢れ返っていた。ざわざわとざわめく人混みの中を掻き分けて、自分のクラスの列を探す。
「おはよ、こころちゃん」
クラスの列に入ると、前に立っていた綾が振り返って挨拶してくれた。
「おはよう。何かあったの?」
私が尋ねると、綾は首を傾げて、
「まだ何も言われてないんだよねー」
「ふぅん……」
「何か先生達やけに焦ってたよね。何なんだろうねー?」
その時だった。目の前で笑っていた綾の顔が消え、パッと視界が真っ暗になった。
「え!?」
途端に生徒達はざわめき出す。その声に混じって、微かに何かの音が聞こえてくる。
「……カーテン、閉めてる?」
誰かのその声で、やっとカーテンが閉められたせいで真っ暗になったのだと分かった。でもどうして?わざわざカーテンを閉めたの?
「えー、静かに!」
舞台から、聞き慣れた校長の声が聞こえてきた。そしてパッと目の前が明るくなる。電気を付けたのか。私は目が慣れるまで目を細めて、やっとはっきりしてきた視界で舞台の方を見た。
その後ぐるりと体育館の両端を見回すと、何やら暗い顔をした教師達が並んでいた。
「皆さんに、悲しいお知らせがあります」
校長の声が、マイクを通してスピーカーから大音量で流れてくる。私達は固唾を飲んで校長の次の言葉を待つ。
校長はハンカチを取り出して、額に浮かび上がった脂汗を拭い、ゆっくりと口を開いた。
「一年三組の担任の前橋先生が、昨日お亡くなりになりました。」
一瞬の静寂の後、体育館内は途端に再びざわめき出した。
「え?」
「前橋先生が……?」
「何で?」
「病気だったとか……?」
「でも前橋先生まだ若いし元気だったじゃん……」
ざわざわと周囲でそんな声が飛び交う中、私達の列だけは誰一人言葉を発さなかった。
だって。前橋先生は……。
「うちらの担任じゃん……」
綾がぽつりと呟いた。
「えー、亡くなられた理由に関しては、先生のご家族が公開しないでほしいと仰っていたのでー……」
その先の言葉は何も頭に入ってこなかった。気が付いたら集会は終わっていて、舞台から校長の姿は消えていた。
「早く教室戻れー!」
教師達がそう呼び掛けると、他の学年やクラスの生徒達は出口に向かって歩き出した。
が、私のクラスだけは、誰一人その場から動こうとしなかった。
みんな、頭の中では理解していたのかもしれない。前橋先生は、自分達のせいで死んだんじゃないかって。
「……死ぬとかマジだる」
そう思っていたら、背後からそんな声が聞こえていた。
振り返らずとも分かった。声の主は暁美だ。
「え、何?急病とか事故とかでしょ?何みんな暗い顔してんの?」
暁美は笑い混じりにそう言う。
「てか新しい担任誰になると思う?岡村とかだったらだるくない?」
暁美は笑いながら自分の前に立っていたクラスメイトの肩を叩く。
「あー、はは……」
そのクラスメイトは視線を泳がせて口角を引き攣らせた。そんなクラスメイトを見た暁美の顔からどんどん笑顔が消えていく。
「……何?みんなほんとにだるいよ。」
そしてそう吐き捨てると、すたすたと出口に向かって歩いていってしまった。
「……ま、待って暁美!」
ゆみかが慌てて暁美の後を追い掛ける。
「おい、お前らも早く教室に戻れ」
隣のクラスの担任が、体育館に残った私達に駆け寄ってくる。
「ショックなのは分かるが……」
そう言って、隣のクラスの担任は私達の背中を押す。
「……行こ」
誰かがそう言うと、クラスメイト達はゆっくりと歩き出した。私もそれに従って歩く。
「……」
体育館を出る時、ちらりと隣のクラスの担任を見た。
「……」
私には、はっきりと見えていた。
さっきあの教師は、あの言葉の後に、「お前らのせいで死んだんだぞ」と呟いていた。
「……」
やっぱり、ただの急病や事故なんかじゃない。前橋先生が死んだのは、私達のせいだ。
「えー、新しい担任が決まるまで、僕がこのクラスも受け持つことになった。ショックだろうが、どうか気を落とさずに、な。」
隣のクラスの担任は、教卓の前でそう言うと、教室から出ていった。あれからすぐに全員が教室に戻り、一足遅れて隣のクラスの担任が教室に入ってきたのだ。
どうやら新しい担任が決まるまではあの人が担任になるらしい。別に嫌だとかそういうわけではないけど、さっきの言葉が頭から離れてくれなかった。
「このクラスのせいで前橋先生が死んだ」ってあの人が思ってるのなら、まるで私達は「人殺し」だと思われているみたいじゃない。
……いや、それは間違いじゃないけど。
でも、私は学級崩壊に参加してない。なのにみんなと同じだと思われてるのなら屈辱だ。
「私は違うもん……」
机の下で、ぎゅっと拳を握り締めた。
授業後のホームルームが終わり、クラスメイト達は各々教室から出ていった。
結局、タイミングも掴めなくて舞宵に謝れなかったや。私は暗い気持ちのままごそごそと机の中を漁っていた。
「……あれ。」
机の中に入れておいたはずの生徒手帳が見当たらなかった。毎日、朝学校に来たら教科書やポーチと一緒にここに仕舞ってるのに。
制服のポケットの中を探してみても、やっぱり入っていない。もしかして、どこかに落とした?
「だるっ……」
溜め息を吐いて立ち上がる。学生鞄を机の横から引ったくって肩に提げて、教室を出た。
「あ、こころちゃん!」
「綾」
廊下に出ると、友達と喋っていた綾が小走りでこちらに歩いてきた。
「さっき二組の担任……早川先生がこころちゃんの生徒手帳拾ったから取りに来いって言ってたよ!」
「あ、ありがとう……」
げ、よりによって隣のクラスの担任に拾われるなんて。
「じゃーね!」
そう言って、綾は友達と一緒に階段を降りていった。
「……はぁ。」
受け取りに行かなきゃだよね。何だか気まずいからわざわざ会いに行きたくないなぁ……。
私は肩を落としながらとぼとぼと職員室へ向かった。
職員室の前に来ると、私は立ち止まって何度か深呼吸をした。大丈夫だって、早川先生にあの呟きを聞いてたことはバレてないんだから、向こうは何とも思ってないって。自分にそう言い聞かせて、私は大きく頷いた。
コンコン。軽く二回ノックをして、職員室のドアを少し開ける。
「失礼しまー……」
そのまま入ろうとすると、何やら声を潜めて会話をする教師達の声が聞こえてきた。
「……やっぱりこっちで対処し切れませんよね。」
「まさかうちの学校でまたこんなことになるなんて……」
あ、何か大事な話をしてるっぽい。今入っていかない方がいいかな?
「まさか二年連続でこんなことが起こるなんて。」
が、私は思わず聞き耳を立ててしまった。一体何の話をしてるんだろう。
「それで、いつになるんですか?そして今回はどのタイミングで処分するんですかね?」
「去年は三年だったから修学旅行中に起きた事故として処理出来たけど、今年は一年だからそんなイベントもないですしね……」
「校内で爆弾なんか使われたら堪らないですよね〜」
はははと様々な高さの笑い声が沸き起こる。
「でも、こんな事例滅多にないんじゃないですか?まさか大人が売るなんて。」
……「事故」?「爆弾」?「売る」?何だかさっきから妙なワードがいくつか出てきている。
去年の三年生に起きたことが今の一年生に起きるってこと?でもそれって一体何?事故や爆弾が関係してるってこと?
「いや〜、にしてもあのクラスはかなり問題が多かったから、こちらからしても有難いですね!」
「あーいう頭の悪いガキはほっといてもしょうもない問題ばかり起こして何の役にも立ちませんからね。早めに殺しておくのがベストですよね〜」
「ほんと、住みやすい世の中になりましたね!」
ドクン。心臓が大きく脈打った。
何、何?「あのクラス」って、「問題が多かった」って、うちのクラスのことじゃない……?
自分の鼓動がどんどん早くなっていくのを全身で感じた。私は胸元のシャツを握りしめて、頬を伝う汗の雫を凝視した。
教師達のあの口調、異常だ。只事じゃないなのかもしれない。
やだ、やだ。何かよく分からないけど、すごいやだ……!
「あの、せんせーーむぐぅっ」
何とかこの空気を壊したくて、ドアを開けて職員室に入っていこうと立ち上がった時だった。私は誰かに口を塞がれて、後ろに倒れ込んで尻もちをついた。
「いた……っ」
私は自分の口を覆っている手を掴んで、必死に抵抗した。
「しっ!」
振り返ると、そこには今まで見たこともないような顔をした舞宵が居た。
何で舞宵が……。と言おうとしたけど、隙間なく口を塞がれていて言葉を発することが出来なかった。
舞宵は眉を顰めて、ドアの数センチの隙間から職員室の中を覗き込んだ。
「音立てないように立って。逃げるから」
そう言って、舞宵は私の口を塞いだまま立ち上がった。私も釣られて立ち上がると、舞宵は私の腕を引っ張って走り出した。
「……っ舞宵!」
私は廊下の真ん中に来た辺りで、舞宵の手を振り払った。
「何?どういうことなの?」
「それは後で!とりま学校出るからっ」
舞宵はそう言って、廊下を走って階段を駆け下りていった。
「……一体なんだってのよ……」
私はそんな舞宵を小走りで追い掛けた。
「はぁっ、はぁっ……」
涙目になりながら、私は肩を上下させて息を整えた。校門を出て、左に少し歩いたところにある公園のベンチにて。
「……どういうことなのよ、舞宵……」
私はゆっくりと顔を上げて、ベンチに腰掛ける舞宵を睨んだ。
「何なの?……何なの?」
鼻の奥がツーンと痛くなって、目の奥から涙が溢れてくる。私は鼻を啜りながらそれを制服の袖で必死に拭った。「先生達、何の話してたの?」
「……先生達は、前橋先生の話をしてたんだよ。」
舞宵は夕焼けに染まった赤い空を見上げながらそう言った。
「でも、じゃあ、何で『処分』とか『殺/す』とか言ってたの?それも、私達をみたいな……」
「こころん!」
いきなり大声で名前を呼ばれて、私は思わず肩を跳ねらせ黙り込んだ。舞宵を見ると、目を真ん丸に見開いてるくせに口元は真一文字に結んでいた。
「何、その顔……」
「落ち着いて、こころん。」
舞宵は立ち上がって、私の肩にそっと手を載せる。
「こころん。こころんは何も聞いてない。職員室にも行ってない。……だよね?」
そう言って、にこりと微笑む舞宵の顔が視界を埋め尽くす。
ザアッと音を立てて、木の葉が擦れ合う。カラスが鳴きながら飛び立ち、空がだんだんと暗くなっていく。
「…………舞宵は何を知ってるの?」
「……かーえろ、こころん」
私の質問に、舞宵は答えてくれなかった。
家に帰って、私はすぐに部屋に駆け込んだ。
ドアを閉めて、そこに背をつけてゆっくりと床に座り込む。ファンシーな色のジョイントマットの上にぺたりとお尻と脚をくっつける。
胸が跳ね上がるように息をする。何度も深呼吸をしようとしたけど、呼吸が整わない。
みんなどうしちゃったの?みんなおかしいよ!前橋先生が亡くなってみんなおかしくなっちゃったの?
「だって、だって、『殺/す』なんて普通じゃない……」
絶対に私の考え過ぎなんかじゃない。あれは、私達のクラスに向けて言ってた。
「私、殺されるの?」
明日、学校に行くのが怖い。
私は震えながらその夜を過ごした。
翌朝。私は兄のキーボードを叩く音で目が覚めても、布団から出なかった。
ああ、いつもならこの時間はリビングでご飯を食べてるのに。でも今日はとてもそんな気分になれなかった。
目が覚めた瞬間、昨日のことは全て夢だったかもしれないと思った。そう思いたかった。でもやっぱり現実で、教師達の会話が鮮明に脳裏にこびり付いていた。
……そう言えば、舞宵は何であんなことを言ったんだろう。「こころんは何も聞いてない。職員室にも行ってない。」って、まるで舞宵も教師達の会話を知ってるみたいだった。
それに、私の質問には答えてくれなかったし。絶対舞宵は何か知ってるのに。
「……相変わらずよく分からないよ、舞宵は」
「こころちゃーん?」
部屋のドアの向こう側で、くぐもったお母さんの声が聞こえてきた。げ、いつもの時間に起きてこないから起こしに来たんだ。
「こころちゃん、開けるわよー」
そう言って、お母さんは私の返事も待たずにガチャリとドアを開けて部屋に入ってきた。
「起きなさい、こころちゃん」
電気のスイッチを押しながらお母さんはそう言ってきた。私は布団にくるまりながら「んー」と生返事をした。
「遅刻しちゃうわよ?……ショックなのは分かるけど」
「……え?」
「担任の前橋先生、亡くなったんですってね」
あ、お母さんも知ってるんだ。そりゃそっか、担任が亡くなったんだもんね。
「悲しいわよね、私も大好きだった高校の先生が一昨年亡くなったって聞いた時は悲しかったわぁ……」
悲しんでるふりしとこ。そうすれば休ませてもらえるかも。
「ほんとにショックでお腹痛い……」
「じゃあ今日は休むの?」
少し怒ってるような口調でお母さんはそう言う。
「休みたい……」
私は布団の中で体をもぞもぞと動かした。
「そう。じゃあ仕方ないわね……」
お母さんははぁっと短い溜め息を吐き、私の布団に手を掛ける。
「お母さんが車で連れてってあげるから準備しなさい!」
布団が剥ぎ取られ、仮病でお腹を抱えた私が露になった。
「…………」
笑顔のお母さんと目が合った。
……だめだ。行かないとこの圧力で殺される。
私は諦めて体を起こした。
今日はいつも以上に足取りが重かった。まるでダンベルでも足に括り付けられているかのようだった。
「はぁ、キッツ……」
学校に着くまでに何度溜め息を吐いたんだろう。吐きすぎて息が上がってきた。
「…………」
学校が見えてきた。足がより一層重たくなってきた。
いつも通り。いつも通りに過ごせばいいんだ。
「……」
あれ。私、今までどうやって普通に過ごしてたんだっけ。教室では何をしてたんだっけ。そうだ、誰かと喋って、普通に笑って、ーーでも、それってどうやってたんだっけ。
「っ……」
だらだらと嫌な汗が湧き出てくる。シャツがじっとりと背中にくっ付くのを感じた。気持ち悪い。言い表しようのない不快感が全身を襲ってきた。
「大丈夫、大丈夫だから」
自分に必死にそう言い聞かせるけど、心拍数がどんどん上がっていき、足元がふらついてきた。
耳鳴りもする。目の前が何だかぼやけて見える。
「ちょっと、大丈夫?」
あれ。何か地面が目の前にある。
あ、私、倒れてる?いつの間に?どうして……。
「誰か先生呼んできて!」
すぐ近くで誰かがそう叫んだ。それなのに、異様に遠くの方から聞こえてくるように感じた。
「ちょっと、大丈夫ー?」
あ、保健室の先生だ。やば、周りにどんどん人が集まってくる。恥ずかしいのに全身に力が入らなくて立てなかった。
「貧血かしら?」
保健室の先生が、そう呟きながら私の腕を掴み脇を潜った。そしてそのまま立ち上がり、私を支えてゆっくりと歩き出す。
じろじろと生徒達に見られながら、私はぐったりと先生に身を任せた。
保健室に着くと、私はすぐにベッドに寝かされた。
保健室の先生は溜め息を吐いて肩をぐるぐると回し、カーテンを掴みながら私の顔を覗き込んだ。
「一年三組の美沢さんだよね?」
私は無言でこくりと頷いた。
「担任……は、そっか。えーと、代わりの先生に言っとくから休んでなさいね。ちなみに朝ごはんはちゃんと食べた?」
「食べたけど、いつもより少なめでした……」
「そっか。まあ、ただの貧血だと思うから安静にすれば良くなると思うよ。治ったら教室戻っていいから」
先生はそう言うと、シャーっとピンクのカーテンを閉めた。
……保健室から先生が出てくると、室内は静寂に包まれた。
保健室の独特な匂いが鼻を掠める。私は腕で目を覆って仰向けになった。
何か、体が頭に追い付いてくれないや。昨日起こった出来事を、まだ受け入れ切れないよ。貧血になったのも、きっと昨日のアレが影響してるんだ。
担任の死と、教師達の異様な会話。……思い出したくもない。
……もし、あそこで舞宵が止めてくれなかったら、私はどうしてたんだろう。
あれ、何だろう。何かすごく嫌な予感がする。
ガラッ!
その時、保健室のドアが勢いよく開けられた。私はその音に驚いて弾かれるように起き上がった。
「だ、誰?」
自分の鼓動が耳のすぐ近くで聞こえる。まるで全力疾走した直後かのように息が上がる。
「先生?」
ドクン、ドクン。呼吸がだんだん浅く早くなって苦しくなってくる。
「……こころん?」
が、その声を聞いた途端、私は胸を撫で下ろして安心した。
「何だ、舞宵かよ……」
私はベッドから降りてカーテンを開けた。ドアの前に舞宵が立っていた。
「びっくりさせないでよ、ほんとに……」
「こころん、具合悪いの?」
舞宵はこちらに歩いてきながらそう尋ねてきた。
「ん、さっきまでヤバかったけどもう平気かも。授業もう始まってるよね、あんた何でここに居んのよ」
私がそう言うと、舞宵は隣のベッドに腰掛けてじっと私の顔を見てくる。
「……何よ」
思わず私は舞宵から視線を逸らした。
「誰にも何も訊かれてないよね?」
舞宵はバカ真面目な顔でそう言ってくる。
「何、それ」
まだ鼓動が速くなってくる。
「誰かに何か訊かれて、正直に答えたりしてないよね?」
「だから何っーー」
「美沢ー?」
私が言い掛けた時、また保健室に誰かが入ってきた。
私と舞宵はすぐに口を閉じた。そして舞宵は目を真ん丸に見開いて私を見た。そして、
「わっ」
私は、舞宵にベッドに押し倒された。
何するの、と言うより、舞宵がカーテンを閉める方が早かった。
「どうかしたんですか?先生」
どうやら保健室に入ってきたのは早川先生みたいだ。
「いや、美沢が倒れたって聞いたから来たんだが……、お前は何でここに居るんだ、宮下?」
呆れた声色で舞宵にそう言う早川先生。
「親友が倒れたって聞いたから心配して来たんですよぉ」
わざとらしい猫なで声で舞宵はそう言う。いつあんたと私が親友になったって言うのよ。
「で、美沢は?寝てるのか?」
「はい、まだ具合悪いみたいで眠ってます」
舞宵は、「眠っています」を強調してそう言った。……これ、空気読んで寝てるフリしてた方がいい感じ?
「そうか。……」
謎の沈黙。私は静かに鼓動を刻む胸元を手で抑えた。
「宮下、お前は早く教室に戻れ。ただでさえ居眠りが多いんだから進路に響くぞ」
「はぁい」
舞宵はだるそうに返事をし、早川先生と保健室から出ていく。二人分の足音が遠ざかっていくと、私は体を起こした。
「……」
よかった、早川先生、何ともなかった。私のことを心配してわざわざ様子を見に来てくれたんだ。寝てるフリしちゃったけど、ちゃんとお礼言えばよかったかな。後で言いに行こう。
何か、いつも通りの先生を見たら調子が戻ってきた。私も教室に戻ろう。
私はベッドから降りて、保健室を後にした。
「ぎゃはははっ……」
教室に近付くにつれ、クラスメイト達の笑い声も大きくなっていく。昨日担任が死んだって言うのに、悲しんだのは昨日だけか。状況は何も変わらないみたいだ。私はそれに思わず溜め息を零しながらも、教室の後ろのドタを開けた。
ガラッ。派手な音を立てて開けたが、笑い声のせいで、誰も私が教室に入ってきたことに気付いていなかった。
「……」
てくてくと歩いていき、自分の席に座る。そこでやっと、隣に座っていた葉山くんが私を見てきた。
「美沢さん、倒れたって聞いたけど大丈夫なの?」
そして心配そうにそう言ってきた。
「あ、うん。もう大丈夫」
私は淡々とそう答えて、黒板に視線を移した。
……別に、舞宵に言われたことを気にしてるわけじゃないけど。ただ、他のクラスメイトにもそんな風に思われたら嫌だってだけだし。
葉山くんのことは嫌いじゃない。けど、好きでもない。
ただ少し喋っただけなのに、あんなふうに言われたら気にしちゃうじゃない。
「……」
そう言えば、舞宵はまだ教室に戻ってきてないの?後ろの席は空席のままだ。教室に入る時に見回してみたけど、舞宵の姿はなかった。
おかしいな、私より先に保健室を出てったのに。アイツ、さてはどこかで道草食ってるな?
ほんと、不真面目な奴。
休み時間になって、トイレに行こうと教室を出た時、ドアの前でバッタリと舞宵と鉢合わせた。
「あ」
思わず小さな声を上げて舞宵を見て、私はぎょっとした。舞宵は何か思い詰めた表情で下を見ていたのだ。
「……あ」
ゆっくりと顔上げて私の顔を見た途端、舞宵はふにゃりと表情を和らげた。
「こころん、やほ〜」
「や、やほ……」
いつもみたいなマイペースな舞宵に何故か私は安心した。そのまま教室に入っていく舞宵を見ながら私は教室を出た。
トイレを済ませて洗面所で手を洗っていると、何やら鏡に動く人影が映った。私はゆっくりと顔を上げてその影を見る。
「暁美……」
後ろに立っているのは暁美だった。
にっこりと笑顔を貼り付けながら私の背後に近付いてくる暁美。
「こころ、話があんだけどさあ」
暁美はそう言ってじろりと鏡越しに私を睨み付けてくる。
な、何?もしかして舞宵と喋ってるところを見られたとか?暁美は明らかに舞宵をハブにしたがってるし、きっとよく思わないんだ。
「ま、舞宵とは別に仲良くしてたわけじゃないしっ……!」
「今度はウチのクラスだよ、こころ」
私達は同時にそう言った。そして言い終わった後、目を真ん丸にしてお互いを直に見詰め合った。
「え……?」
今、暁美は何て言った?「今度はウチのクラス」???
「何のこと?」
私が尋ねると、暁美は汗をだらだらと垂れ流しながら顔を近付けてきた。息も荒い。こんなに焦っている暁美は初めて見た。
「だからあの噂だよ。去年三年生のとあるクラスが失踪したってやつ。」
ドキン、と心臓が凍り付きそうになってしまった。私も暁美に釣られるように汗を垂れ流している。
「昨日、他校の大学の先輩から聞いたんだけどさ。今いじめとかそう言うのを取り締まるのにヤバいほうりつ?があるんだって」
あ、暁美、自分がいじめをしてるって自覚はあったんだ。つい私はそんなことを考えてしまった。でも待って、法律?
「それが失踪と関係あるの?」
この先を聞いてしまってもいいんだろうか。ドクドクと異様な速さで刻まれる心音を聞く限り、聞かない方がいいのかもしれない。
「……いじめをされて傷付いた被害者は、加害者を殺せるんだって」
「……は?」
「だからっ!前橋に殺されるんだよ私達っ!」
「え……」
静寂が辺りを包んだ。が、すぐに休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。暁美は無言で私の横をすり抜けて走って行ってしまった。
「やっぱり……?」
トイレに取り残された私は、バクバクと踊り狂う心臓を必死に沈めようと抑えた。
「やっぱ、昨日のはガチだったんだ」
昨日の職員室での教師達の会話と、暁美の言ったことがぴったり重なった。
私ーーいや、私達は、死ぬことになるんだ。