人は誰しも夢を叶える力――"悪魔"を心の中に飼っている。
大抵の人間はそれを抑えながら生き、死んでいく。
しかし時として悪魔と契約する者がいる。
大抵は歴史に名を残し、数奇な運命を辿って死んでいく。
「皆さん、パガニーニというバイオリニストがいたんですね」
話を聞いているんだか聞いていないんだか、自分でも分からないくらい上の空だった。
一時限目の歴史の授業はまだ眠気が邪魔をする。
尻は痛いし、ストーブもねぇし、生理痛で腹は痛いしで、一秒でも早く終われと思いながら黒板を眺めていた。
「このパガニーニは人間離れした超絶技巧の持ち主だったため、悪魔に魂を売ったという噂まで流れたんですね。そのせいで死後、教会に埋葬を拒否されてしまうほどでした」
「え〜ひでぇ」
「所詮噂っしょ?」
「実際に魂を売ったかは分かりません。が、晩年のパガニーニは病気により悪魔のような形相だったと言われているので、余計怖がられたのかもしれないですね。うちはミッション系の高校ですから、その類の資料も多いと思います。気になる人は調べてみてください」
そういえばうちの学校は所謂ミッションスクールというやつで、宗教色がやや濃い校風となっている。
入学時には全員に聖書の配布がされるし、立派な礼拝堂が設立されていたりする。
かといって全員が全員熱心な教徒というわけではない。
私みたいにやむを得ず入学した者や、適当に入ったらミッション系でしたーっていう教えに関心のない人も結構いる。
今にも眠ってしまいそうなくらいぼけっとした頭でそんなことを考えた。
生理特有の眠気にうつらうつらしていると、突然バンッと机が叩かれる音がした。
目の前には爪に手入れの行き届いた長い指があって、視線を上げると黒ぶちメガネのレンズ越しに目が合った
「芝塚さ〜ん、眠いのは分かりますがしっかり聞いてくださいね。罰として放課後礼拝堂の掃除をしてください」
「ぅあ、はい……」
眠気はスッと引き、気が付いたら反射的に頷いていた。
やたら広くて掃除する場所の多い礼拝堂は、掃除罰の中でも最も重い。
迂闊だった。
この先生は居眠りしたらやたら掃除させたがることを忘れていた。
「はい、じゃあもうそろそろ授業終わりますね。次の時間の準備をしてください」
朝からツイてないなと肩を落とし、机に突っ伏した。
ウチの高校の礼拝堂はやたらでかくて仰々しい。
年に数回くらいしか使うところを見たことがないパイプオルガンや、ところどころ嵌められたステンドガラスは学校の設備の域を超えている。
正直こんなの作るくらいなら教室にエアコン付けろよと思うが、神様至上主義な校風なので期待はしていない。
「……で、お前は何して礼拝堂に?」
「あぁ、芝塚冥か。ボクは悪魔を崇拝する!と宣言したら物凄い形相で憤慨され、礼拝堂の掃除を命じられた」
「お前まだそんなこと言ってんのか……」
モップ片手に飄々と武勇伝を語るこの男、田中太郎は生粋の厨二……否、"廚弐病"患者だ。
中学の同級生で、出会った1年の時にはもう既に悪魔崇拝やら呪術やらに傾倒していた。
そして『悪魔への崇拝を深めるにはまず神の教えの理解から』という理由でこの学園へ入学したらしい。
よくこんなんで面接通ったなと未だに疑問だ。
「そういう君はまだ暴力沙汰か?」
「またってなんやねん、またって。私がいつも人殴ってるみたいに言うな」
この学校で唯一私の過去を知る田中には、変な噂を流さないか常に警戒している。
まぁ漫画とかでよくある、"人を殴って退学"だ。
でも私は別に何かを守ろうとしたわけでも、誰かを庇ったりしたわけでもない。
完全に――自業自得、だ。
まぁ田中は悪魔以外に興味は無いようだし、人に噂を流す気配はない。
変な奴だけど、悪い奴ではない……のか?
「前から思ってたけど、悪魔の何が良いわけ?」
なんとなく沈黙が気まずくて、私は雑巾を絞りながら何んとなしに言ってみた。
……が、その何んとなしが田中に火をつけてしまったようで、田中はモップを動かす手を止めて矢継ぎ早に語り始めてしまった。
「それはもちろん、神という絶対的存在への反逆が美しいからだ!多くの人が崇拝する神……それは本当に正しいものなのか僕は問いたい!」
「あ、そ……」
自分で質問しといてなんだけど、予想を遥かに超えた崇拝ぶりに若干引き気味だ。
もっとこう、厨二病らしく『かっこいいから』という理由かと思ったら割と真面目?に神への懐疑の念があるみたいで笑えない。
「
「まぁ、つまり結局――"カッコいい"からだ!」
「ですよね〜〜!」
結局そこに行き着いてくれて安心したよ私は。
やっぱ期待を裏切らねぇや。
「それに、この辺には悪魔を呼び覚ます魔法陣の刻まれた石板が眠っているらしいからな。ここに入学したのはその調査も兼ねている」
「はぁ? なにそれ……」
彼の厨二具合は右手の包帯が物語っているが、まさかここまで患っているとは……。
田中はステンドグラスの先をどこか遠い目で見つめながら、ぽつりと語る。
「その魔法陣は人の渇望や恨み、妬みなど強い想いに反応して悪魔を召喚すると言われている」
「バトル漫画のありきたりな設定じゃん。もっとマシなの考えろよ」
「ボクが考えたんじゃない! この学園の旧校舎にある資料室の文献に記されていたものだ!」
「へー文献」
おおかた田中みたいな"患ってるやつ"がそれらしいノートに禁断の書みたいに作って意味ありげに資料室に置いたんだろ、と言おうとしたが、喉奥で潰した。
患者には優しくしないとな……という哀れみがそうさせたのだ。
夢を壊しては気の毒だと思い、私は相槌だけ打ってバケツを片付けた。
「その顔は信じてないなッ! 悪魔の石板は本当に――!」
「ぎゃーやめろ! 汚水が飛ぶ!」
私の適当な態度が気に障ったのか、田中がモップを振り回した時だ。
「こらぁぁぁ! 田中君なにしてるの! 真面目にやりなさい! 罰として2人とも30分延長よ!」
「ああああああ゛っ!」
「はぁぁぁぁぁ!?」
聞き捨てならない発言に思わず持っていたバケツが落ち、激しい金属音がごわんごわん響いた。
タイミング悪く先生にモップを振り回している田中が見つかってしまい、連帯責任による追加罰で下校時間が遠ざかっていくのだった……。
――結局、帰路につけたのは17時過ぎのことだった。
部活も何もしていない私が部活終わりの子達と同じ道を歩くのはなんだか肩身が狭くて、終始イヤホンで何百回と再生したプレイリストを聴きながら下を向いて正門を出る。
私も前は陸上部に所属していて、短距離の県大会なんかも目指しながら精力的に取り組むアオハルな子だった。
が、今は適当に一日が過ぎるのを待つだけの無気力なつまらない高校生になってしまった。
退学の一件から県大会への出場も取り消しになり、目指すもの、夢中になれるものが無くなってしまったからだ。
今思えば、部活に全てをかけすぎた。
転入後もなんだか部活を続ける気は起きなくて、シューズや道具なんかも全て後輩に譲って処分してしまった。
そんな全てをかけた部活ではあったが、喪失感も後悔も、2ヶ月経てば割と忘れる。
「……あ」
駅へと向かう道中、見覚えのあるポニーテールを見つけて思わず駆け寄っていた。
「星子じゃん!」
「あ……冥、ちゃん!」
振り向いた星子の姿に、少しばかりの違和感を覚える。
私が最後に見た時より、だいぶやつれたというか……疲れたような顔をしていた。
部活帰りのそういう身体的な疲れではなく、なにかに苛まれているような、そんな。
初冬だというのに、額には汗が滲んでいる。
「星子久しぶり。なんか疲れてね?」
「もうすぐテスト期間だからね、ちょっと焦ってて……」
「あーそういや私のとこも来週からだな」
星子は私と正反対で成績優秀、しかも陸上部でも好成績を残す優等生だ。
テスト期間前から緊張感を持って挑むあたり、さすがだなと感心する。
「冥ちゃん……学校、楽しい?」
私は星子の方を見たけど、星子は地面に細く伸びた私の影を見ている。
「まーぼちぼち? それなりに友達もいるし。田中も相変わらず厨二全開だし」
「あはは、田中君は相変わらずなんだね」
"あの一件"で、星子の私に対する態度は少しぎこちないものになっていた。
部活という共通の話があの一件でタブーになってしまって話題に困っているというのもあるのかもしれない。
「あ、マック寄ってくー? 前も星子とここで……」
「冥ちゃん」
星子はようやく視線を上げると、私と目を合わせた。
どこか狂気を孕んだような瞳孔に、私はごくりと唾を飲み込む。
「今日……部活、やめてきたんだ」
「え……ぅえええええええええ!? な、なん……」
衝撃で言葉が続かない。
私と同じ――いや、私より陸上部への思いが強い星子が部活を辞めるなんて、豚が空を飛ぶよりありえない。
「中学の頃とは比べ物にならないくらいライバルも多いし、強豪ばっかりだし。それに受験もあるしね」
星子は私が質問するより先に、淡々と理由を述べる。
「そんな……私、じゃあなんの為に……」
――なんの為に、退学したんだよ。
そう言いかけたけど、すんでのところで唇を結んだ。
星子にも星子の理由があり、辞めるのも星子の自由だからだ。
私にはそれを責める権利が無い。
「……ごめん冥。私寄るとこあるから」
「星子!」
星子は自慢の瞬足で、逃げるようにして路地裏へと走っていってしまった。
――私は柚宮星子を殴ったことがある。
「星子……それ」
高校初めての大会前日、誰もいない更衣室。
星子のロッカーから落ちた白い錠剤に、見覚えがあった。
顧問の先生が写真付きで説明していたものだ。
「それ……ドーピングだろ。去年の大会でも使用者が出て、注意喚起された……」
「やだな冥ちゃん……持病の薬だよ? もうずっと前から飲んでるの」
急いで錠剤を拾う星子の声が、僅かにブレた。
「……じゃあ、当然どこの病院で処方されたか、言えるよな……」
否定して欲しくて次の言葉を待つが、柔和な笑みを浮かべていた星子は唇を結んで押し黙ってしまった。
嘘でもでまかせでもスッと言ってくれたら、私だってそれ以上追及するつもりはなかったのに。
遠くで響く吹奏楽部の演奏と、グランドから聞こえる運動部の掛け声だけが気まずく流れていく。
「何でも……何でもするから見逃して。お願い。勝たなきゃ……記録を残さなきゃ死ぬの!」
「……おい星子……星子!」
星子は諦めたように深呼吸すると、包装シートから錠剤を取りだし、ミネラルウォーターの蓋を開けた。
私は錠剤を口に放り投げようとする星子の腕を掴み、無我夢中で叫ぶ。
「星子! そんなものなくても星子は強いよ! 何が不満なんだよ! 私は一生懸命練習して、努力する星子に憧れてるのに……私の目標だったのに!」
部活後、誰よりも遅くまでの自主練を欠かさず、人一倍脚に気を遣い、シューズまで拘り、トラックを駆け抜ける星子。
私はそんな星子の陸上に対する真摯な姿勢が好きだったし、私の目標でもあった。
今までの走りが全てドーピングによる嘘であって欲しくなくて、ひたすら星子の腕を引っ張り続ける。
「……誰から何も言われない冥ちゃんに何が分かるの。勝手に憧れてるだけでしょ、私に理想を押し付けないで! 努力にも限界があるの! 私には絶対記録を残さなきゃいけない理由があるの! 気楽に部活してる貴方達とは背負ってる物が違うの!」
「星子」
共に新記録を目指す仲間達を侮辱されてムカついたからとか、正義感とか、星子を止めなきゃという焦りとか、色んな想いがミキサーにかけられたみたいに混ざりあって、気がつけば私は――星子を右手で殴っていた。
その後私は高校を退学となり……というか星子の父親に退学を迫られ、自主退学という形で学校を去った。
ドーピングのことを言えば多少処遇は軽くなったかもしれないが、私は何も言わなかった。
星子には大会に出て欲しかったから――否、あまりにも覇気迫る星子からの復讐が怖かっただけだ。
結局、星子はこの一件で先生や部員から注目が集まったせいでドーピングの服用をためらい、その上集中できなかったせいか新記録を樹立するどころか最下位から二番目という結果に終わった。
私はと言うと、広いコネと人脈を持つ親戚の口利きにより、現在の学校へと転入が決まったわけだった。
不仲な親戚と顔を合わせることを避けていた両親が、嫌味を言われながらも頭を下げているのを見て、自分が情けなくなったものだ。
「星子……どこ行った?」
私は走り去っていった星子を探していた。
星子にはあの一件後も気さくに話しかけて関係を良好に保とうとしたのだが、また仲良くしたい……というよりかは星子に復讐をされたくないという保身が働いたからだ。
そんな打算的なことを考える自分が嫌になる。
私の視線とかち合った星子の目は狂気を孕んでいて、なにをしてがすか分からない恐ろしさがあった。
なんとなく、あのまま放っておいては取り返しのつかないことになりそうだという胸騒ぎがする。
「寄るとこあるっつってたけど……」
本当に寄るところがあるのか話を切り上げたいが為の方便なのか分からないが、家とは逆方向に走っていったのでまだ帰宅はしていないはずだ。
一緒に走り込みをした河川敷、下校で寄り道したファストフード店、行きつけのスポーツショップ店など、私との因縁がありそうな場所を片っ端から駆けずり回る。
もう日が落ちてぽつぽつ街灯がつき始め、繁華街を過ぎると先程までの喧騒は別世界のように静まっていた。
「もう帰ったか……?」
星子に会ったところで『私に復讐しないでください』だとか言えるはずもないし、諦めて帰ろうとしたその時だった。
「いやぁぁぁぁあぁぁぁ!」
閑静な住宅街に、ホラー映画顔負けの甲高い悲鳴が響いた。
住宅街の中、いつまでも買い手のつかない売地。
そのすぐ横の小道から禍々しいほどの閃光と熱気が漏れており、私は足を震わせながら近づいた。
「あはっ、そう……貴方が悪魔! 私の中の悪魔なのね!」
聞き覚えのある声と目の前の光景に怖気づき、私は唇を震わせた。
「星……子……?」
星子は古びたマンホールの前であひる座りになっていた。
瞳孔がカッと見開かれ、血管が浮きでてるのではないかというくらい血走っている。
マンホールを中心として赤色の魔方陣が浮かび上がり、そこにホログラムのように浮かび上がっているのは――。
「わた、し……?」
1000円カットでばっさり肩まで揃えた紺色の髪、今まさに着ている聖オルテア学園の制服――。
しかしその顔は人間とは思えない。
耳は鋭利に尖り、血の着いた牙を剥き出し、目と口角は嘲笑うようにつり上がっている。
そして私達が想像する悪魔のように、コウモリみたいな羽と凶器になりそうな尻尾が揺れている。
「は……はっ、なんで冥ちゃんがここにいるの……でもいいや……お願い悪魔さん、この子を殺して! 心臓を刺してェ!」
「星子、どういうこと!?」
あまりにも現実離れした状況から逃げ出しそうになったが、自分を模したとしか思えないような悪魔がいては放っておけない。
私は酷く充血した星子の目を見ながら、彼女の震える肩を揺すった。
「おーおー、ち〜せ〜願いだんな? そんなことの為に僕ちんと契約するとか、よっぽどそいつが憎いんな?」
それまで浮いてるだけだった私の形をした悪魔は、以外にも砕けた言葉遣いで話し始めた。
声もどこか私と似ている。
「殺したいのぉぉぉぉ! 悪魔様お願い、殺してェ! もうこいつがどこかで生きてるって事実だけで耐えられないの、殺して!」
星子は両手を擦り合わせ、祈るようにして悪魔へ懇願した。
「まー叶えるのは簡単ね。でも見たところそいつ普通の人間、殺害するくらい簡単。 なーして、わざわざ悪魔と契約して願う?」
「えっ……はぁ!? 悪魔と契約ぅ!?」
星子が悪魔と契約しようとしていること、その願いが私を殺害すること。
赤ちゃんがステーキを消化できないように、私のノミみたいな脳みそでは処理しきれない情報量だ。
「何度も何度も殺そうとした……けど殺せなかった……自分の手で刺す勇気を持てなかった……そんな時、望みを叶えるという悪魔を召喚できる方法を知った……半信半疑でやってみたらあら不思議、本当に来てくれたの……! しかもその悪魔、冥ちゃんそっくり!やっぱり冥ちゃんは悪魔なのね!」
嬉々として語るの星子の顔は、どんなに部活で好成績だった時や定期テストで上位を獲った時より活き活きしていて、救いようがなかった。
元々異常だった彼女を私がきっかけで狂わせてしまったのか、私のせいで彼女が壊れたのかは分からない。
どちらにしろ私が原因で星子という怪物を目覚めさせてしまったことに変わりはなく、恐怖で足がすくんだ。
「星子……悪魔と契約してまで叶えたい願いがそれかよ。どうせならパガニーニのバイオリンみたいに、誰よりも速く走れるようになりたいとか願っときゃ良かったのによ……」
驚いたことに、私は自分の手を汚さず私を殺めようとする星子を軽蔑していた。
いや、ドラマみたいに浮気した男を制裁する女よろしく包丁で真っ向から『死ぇぇー!』とか突っ込んで来られるのも勿論嫌だし怖いけど、そうしてくれた方が星子の抱えていた恨みと少しは向き合えたんじゃないかと思わずにはいられないのだ。
あと単純に悪魔の殺し方が分からなくて怖そうだし。
「冥ちゃんは、自分がしたことで私にどんな影響が出たか知らないからそんなこと言えるの……私は冥ちゃんのせいで、冥ちゃんのせいで……ッ!」
星子は歯ぎしりのし過ぎで、歯茎から血を滴らせていた。
私が退学になった後、星子に何が起きたかは把握しきれていない。
星子が勝利やレコード更新にやたら執着している理由もよく分かっていないのだ。
なにせ彼女は自分のことを話したがらない。
「なぁ星子、私がドーピングを止めた後……大会の後、一体何が……」
「お二人さーん、さっさと契約するならしてくれよね。その石板に手を押し付ければ指紋と手形を認識して契約成立するからな」
私が星子に問いかけた時、狙ってか偶然か悪魔が間に割り込んで話を遮った。
「っあ゛あ゛あ゛あッ! 絶対契約しでやる……契約してやるぁぁぁぁあ! 悪魔に頼めば、確実に地獄へ堕とせるはずッ!」
「ふざけんな、契約させるか!」
お淑やかな優等生は一変、悪魔もドン引きの形相を見せ、死に物狂いでマンホールに手をかざす。
私だって自分の命がかかっているのだから必死になって星子の腕を掴んで押さえつける。
が、星子は地に深く根を張った雑草のように厄介で、ビクともしなかった。
私は星子と比べて多少腕力が勝っているとは思っていたが、星子の執念なのか力は拮抗していた。
「いいからそこをどいてぇぇぇッ! 呪う!呪う!絶対に呪う! 絶対地獄に堕としてやる!」
「ぅぐぁはっ!?」
喉元に手入れされた長い爪が突き立てられ、呼吸が狭まる。
「っ……おい悪っ、魔! 召喚は終わりだ、早く……早く消えろ!」
「あーもしかしてアクマって僕ちんこと? 悪いけど、僕ちんは一度召喚したら契約するまで消えないんね〜」
「んな……!」
悪魔はこちらで繰り広げられている激闘を見向きもせず、心底興味無さそうに返した。
星子との取っ組み合いは激しさを増し、正直私が押し負けるのも時間の問題だ。
「っあ……はっ……このままじゃ……」
絶望感に押しつぶされ、過呼吸を起こしかけた時だった。
「どーしても止めたいんならね、方法は一つだよ」
「……な、に……!? どうすれば……!」
その時私には、極悪を形にしたような面をしているバケモノが、世界を救う神様みたいに見えた。
「君が、僕と契約して阻止するしかないんね」
私はその悪魔の囁きに、覚悟を決めて乗っかってやることにした。
正直、これは世界で1番危ない賭けだ。
悪魔と契約してどうなるかなんて、事前に知識もない私には未知数。
体を乗っ取られるかもしれないし、最悪死ぬかもしれない。
しかし、ここで契約しなければ星子に殺されて終わる。
「契約する……私が!」
そこからはもう、ひっくり返ったマンホールの争奪戦になる。
髪を引っ張り合い、噛みつき、爪を立て、人間と言うよりかは獣の争い。
「そんなの許さない……ッ!あれは私が召喚した悪魔なんだから! 他人が契約できるわけないわ!」
「だからアクマって何? ……まぁ確かに僕ちんはお前さんから生まれたわけね。でも魂さえくれれば契約者はどっちだっていいんよな。クーリングオフは不可でーす」
悪魔はなかなか契約者が決まらない膠着状態に痺れを切らしたのか、苛立ちを見せ始めた。
「私が……っ、私が召喚したんだから! 私が契約するのよぉぉぉッ!」
「うるせー!どけー!」
「いやあ゛ぁっ」
なんとか星子の腕を振りほどき、彼女の右頬を力任せに殴った。
あの一件の後、もう人を殴らないなんて心に決めておきながらも、結局私は星子を殴ったのだ。
「悪魔ァ、お前の契約、ノッてやる!」
「いや、やめてェ!」
星子が呻きながら怯んだ隙に、私はマンホールの魔方陣へと手を押し付けた。
「わっ!」
その直後、マンホールの裏蓋に刻まれていた魔方陣に重なるようにして私の指紋が浮かび上がった。
禍々しい赤い光は、もう取り返しのつかない証拠だ。
悪魔はケケケッと乾いた笑いを浮かべると、私の鼻先が付くんじゃないかというくらいの距離まで詰め寄った。
「指紋認証、契約成立な♪」
前代未聞の悪魔(?)と契約したその日は、月の無い夜だった――。
「契約……で……きた……?」
地獄のような紅の閃光は嘘のように消え、また元の閑静な住宅街へと戻った。
時間にして数十分の出来事だが、あまりの激動に異世界から帰ってきたみたいな気持ちだ。
とりあえず命の危機は免れたという安堵で、心臓が緩んでいる。
「それじゃあ契約完了ってことでな……さっそく望みを言うんね」
「……望み?」
「僕ちんが契約者である君の望みを叶えて、その報酬にこの娘の魂を貰う――つまり体を乗っ取るのな。そういう契約したね?」
悪魔はマンホールに刻まれている変な文字を説明し、地面に横たわっている星子を指した。
あまりにもショックなのか、星子は胎児のように丸まったまま微動だにしない。
「 もったいぶってないで、さっさと望みを言うんね」
「いや……別にないけど……??」
「………?」
目も口もにこやかな三日月形だが、なんとなく笑ってる顔ではないんだろうなと思った。
「だから……私は星子の契約を阻止する為に代わりに契約しただけで、別に叶えたい望みとかはないけど」
「……え……ぇええええええええええええぇ!?」
私はなんだか嫌な予感がして、眉根が寄る。
そして契約書を読まずに契約するとろくな事がないという教訓を、今更思い出していた。
「いやいやいや、君それでも人間ね? 人間なら野望があるよな!? 莫大な資産が欲しいとか、世界征服〜とか! 僕はその女から生まれたわけだから、どうせ乗っ取られるのはその女なのね! 早く願いを言うね!」
「いや、別に……世界征服はちょっと興味あるけど、人の魂売ってまでやりたいとは思わん。つーか星子はいつまで倒れてんだよ」
私はアスファルト屑で汚れたスカートをはたき、蹲ったままの星子を揺すった。
「星子〜、もう少し話し合おうぜ〜? 私がなんか悪いことしたんなら素直に謝る、か……ら……」
ドサッと星子の身体が力なく転る。
意識を失っているのか、まつ毛が伏せられている。
一瞬、死んでいるのではないかと錯覚して手に冷や汗が走った。
「ぃぎゃぁぁぁぁあ!!なになに、し、死んでる……!?」
心做しか星子の頬は血色がないというか、病的に青ざめているようにも見えた。
心当たりといえば私が殴った右頬だが、それだけで死ぬか……!?
「や、やっちゃったの!? 私、そんなつもりじゃ……っ……」
罪状は?刑期は?正当防衛は適用は?!
これからの自分にのしかかるであろう罰に震えた。
今度は退学どころの騒ぎではない。
「落ち着くんね。別に死んではない……死んでは、ね」
悪魔はため息をつくと、星子の真上へと浮遊した。
含みのある言い方だ。
「じゃあなに、気絶してるだけ? お前のせいなわけ?」
どうやら星子が倒れた理由に、この悪魔が一枚噛んでいるらしい。
私が問い詰めると、悪魔は面倒くさそうに説明を始めた。
「……僕ちんはこの女の一部であり魂。葛藤や欲望、悪負の感情が具現化した存在。人はそれをアクマって呼ぶのね?」
「まぁ悪魔……なのか?」
改めて説明を聞かされると、首を縦に振りきれない。
悪魔って地獄とかで暴れていたり神に反乱起こしたりとか、そういうイメージしかない。
果たしてこの謎の存在は悪魔と呼べるのか分からなかったが、田中の言っていた"悪魔を召喚する石版"は恐らくあのマンホールのことだろうし、世間では悪魔と認識されているのだろう。
「悪――それは人間に必要不可欠な要素。だからこの女は僕ちん無しじゃあ生きられないってわけな」
「じゃっ、じゃあ早く星子のとこに還れよ! そしたら星子は動けるようになるんだろ」
「あー無理無理、一度呼び出されたら戻れないね。本来なら望みを叶えた後に乗っ取ることでそいつの身体に戻るわけだけど、望みがないんじゃ戻れないんね」
「んなバカな!」
星子が動いてくれなければ、世間で私は人殺しをしたも同然の目で見られてしまう。
「人間を動かす原動力は、欲望や負の感情ね。それがなければ人間は動かないんな」
「つまり……昏睡状態ってこと!?」
悪魔曰く、星子は今、充電が切れたスマホのような状態らしい。
壊れてはいないが、バッテリーがないために起動ができない。
人間で言うバッテリーは、欲望や悪。
それが抜け出してしまった今、星子は植物状態だ。
「まぁ肉体的には死んでないから安心するね!」
「安心できるかボケ、早く星子のとこに還れぇぇ!」
「だーかーらー、お前が望みを言えばこいつの体を乗っ取って意識は戻る。全て解決! な?」
「……それだとお前、私のこと殺そうとするだろ。」
「まーね♪ 身体を手に入れたからには極悪非道の限りを尽くすつもり!」
あの状態の星子から生まれた悪魔なのだ、パガニーニのような純粋に"バイオリンの上達を願う欲"を具現化した悪魔なら実害はないかもしれないが、人を傷つける欲を持った悪魔が暴れれば大変なことになる。
もしかしたら今までニュースで報道されたりした犯罪者の中にも、悪魔に身体を乗っ取られて犯行に及んだ人が少なからずいたのかもしれない。
「私……どうしたら……!」
「そもそも他人の悪魔と契約なんてイレギュラー、前例が無いだけにどーーしようもないんね〜」
「お前が助かるって言ったからぁ!」
「助かるとは言ってないね、契約を阻止できるとだけ言ったんな?」
「この悪魔!」
「悪魔ですが……?」
色々と方法を考えてみたが、お手上げだ。
まず私が適当に望みを叶えて悪魔に星子を乗っ取らせれば私が殺人犯になるリスクはかわせる。
が、あの悪魔は星子の欲や悪が具現化した存在だ。
星子の身体を乗っ取って実態を持つことができてしまったら、私を殺そうとするだろう。
それを思うと、悪魔に自由な身体を与えるのは危険すぎる。
八方塞がりの状況に、無力な私はなす術もなく頽れた。
契約できそうもない私に興味を無くした悪魔は、何も言わずにただ浮いている。
「とりあえず星子を病院に連れていくか……」
星子を放置して逃げることも考えたが、警察の捜査から逃れられる気がしない。
初冬の夜に放置すれば、それこそ身体的にも死んでしまうだろう。
自分を殺そうとしてきたのだ、私はもう憧れだった星子が死のうとくたばろうと悲しくなったりはしない。
しかし罪が重くなるのは嫌なので、できるかぎりの手を尽くして星子を蘇らせなければ。
とりあえず魔法陣の刻まれたヤバいマンホールを植え込みの茂みに隠してから、119番通報をした。
星子は救急車によって近くの大学病院へと運ばれ、私は素直に医師と駆けつけた星子の父親、私の両親に事情を説明した。
星子と取っ組み合いになったこと、右頬を殴ってしまったこと。
私と両親はひたすら星子の父親に平謝りし、それはもう謝罪というよりどうにかして許しを乞うような有様だった。
「信じられません。以前の件で何も反省していないようですね」
星子の父は、星子と同じ黒縁のメガネのブリッジをくいっと押し上げた。
星子もやるその動作が、私はどうも苦手だった。
「でも、今回は本当に星子の方から手を出されて……私も殴られそうになりました。身の危険を感じたので……」
「星子がそんなことをするわけがないでしょう。星子が起きたら事情を聞きますから」
隣で浮いてる悪魔が腕を組みながらケタケタ笑っているが誰一人として見向きもしないので、どうやら他の人間には見えていないらしい。
悪魔のことを話すわけにもいかず、弁明できないもどかしい思いをした。
優等生である星子と、前科のある私。
そして星子は起きない。
圧倒的に不利な状況に追い込まれてしまった。
両親は私と顔を合わせようともせず、ひたすら下を向いて唇を噛んでいる。
それから数分してようやく、バインダーを持った初老の医師がお待たせしましたと早足で駆け寄って来た。
一気に緊張感が増し、パイプ椅子の軋む音だけが流れる。
「先生、星子は……星子はまた走れるんですか……!?」
「検査の結果ですが……お父様、落ち着いて聞いてくださいね」
医師がその一言を放った瞬間、ピシリと亀裂が入ったような空気になる。
「現在、星子さんは……昏睡状態にあります」
「っ……」
分かってはいたけど、改めて口に出されると事態はとんでもない方向に向かっているのだと思い知らされた。
星子の父親は医師の肩を強く掴み、激しく揺すった。
「昏睡状態……!? 星子は、星子はいつ起きるんですか!?」
「正直、なんとも言えません。外傷はほとんど無く、脳機能に異常も見られません。今のところなぜ意識が無いのか原因が全く不明で、いつ目が覚めるのかも……」
医師の歯切れ悪い説明に、星子の父はさらに眉を釣り上げる。
「彼女が殴ってから星子は倒れたんですよ? 彼女が原因に決まってますよね?」
「いえ……右頬に腫れと、親指に切り傷がありましたが突然倒れたことに関しては無関係かと。脳や器官、その他身体への損傷は皆無で……」
右頬の腫れは間違いなく私がやったものだが、小指の傷に関しては覚えがない。
ふと悪魔の方を見ると、私の尋ねたいことを察したのか勝手に説明し始めた。
「小指の切り傷は恐らく、僕ちんを召喚する血を出すために自分でつけた傷ね。石板に刻まれた魔法陣の溝に血を満たすことで召喚できるからな」
その説明でふと思ったが、星子は一体どこで悪魔の召喚方法を知ったのだろうか。
田中のように一部のオカルト好きなんかは石板の噂を知っていたが、石板の正確な場所だけでなく使い方まで熟知している星子には何かある気がしてならない。
もっとも、肝心な本人は今口も聞けない状態ので何も分からずじまいだが。
「彼女が未成年だからって庇っているんですか? 本当のことを教えてください、彼女のせいですよね!?」
「お父様、気持ちは分かりますが落ち着いてください。後ほど精密検査を致しますので、今日のところは申し訳ございませんがお引き取りを。明日必ず結果をご報告しますので、ね?」
医師は荒ぶる星子の父を慣れた様子で宥めると、看護師に後を任せて逃げるように退室した。
決して私だけのせいではないにしても、なんだか気の毒に思える。
何せ自分の娘を殴られた直後に倒れたのだ、普通に考えれば殴ったやつのせいだが、違うと否定されてしまい、何も責任を問えないのだ。
と同情していると、星子の父は覇気迫る様子で私の方へ歩み寄り、メガネのブリッジを押し上げる仕草をした。
「……もしこのまま原因がわからず、星子が目覚めなかった場合、あなたが原因ということにしますから。卒業までに星子が目覚めて真実を聞けなかったら、あなたが働いて慰謝料を支払ってください」
「そんな……!」
星子の父親は抑揚のない声でそう言い残すと、病室の引き戸を力任せに閉めた。
その夜は、人生で一番昏かった。
帰宅中の車内はお通夜同然だし、帰ったら母は堰を切ったように号哭し、いつもにこやかでお喋り好きの父も無言でぼーっとしていた。
目の前でヘラヘラと浮いている悪魔より、家庭が崩壊しかけている状況の方が何倍も怖かった。
「お母さん……マジでその……星子が倒れたのとは関係ないし、星子の方もその……殴りかかってきて……それに私が原因だとは言われてないからさ、法的に慰謝料とか請求できるって決まったわけじゃ……」
「もういい、何も言わないで! 人をあんなふうにさせといて慰謝料の話なんて、どういう神経なの!どうしてこんな子に……っ……私の教育が悪いの……!? ゔあ゛ぁっ」
母は泣いてばかりで私の話を聞こうとせず、父も黙りこくったままだ。
二人には自分の娘が"人を殴って昏睡状態にさせ、ヘラヘラしている"と見えてるわけだからそうなるのも当然だ。
じゃあ、あの時私は一体どうすりゃ良かった、どう行動してたら正解だったんだよ。
「……お腹空いたから、コンビニでご飯買ってくる」
こんな状態でも飯のこと考えれてやがると思われるだろうか。
でもこれ以上家にいるのが辛くて、私は鍵も持たずに飛び出して行った。
「家を出たはいいけどさー……」
重苦しい空気から逃れられた開放感と同時に、不安や絶望がよぎる。
街行く人はみな自分の帰る家や職場など、目的地に向かって歩いている。
私だけが行く宛てのない浮浪者で、取り残されているような気がした。
とりあえずスマホと財布だけ持って勢いで飛び出してしまったが現在の時刻は午後11時、制服姿で長時間繁華街をうろつけば警察に補導されてしまう。
「で? これからどーすん?」
「とりあえずお前を召喚した場所に戻る。あのマンホール……石板を回収しねーと」
病院にいる間も、置いてきてしまったマンホールの蓋のことが気がかりだった。
病院に付き添う際に持って行くわけにもいかなかったので茂みに隠して放置していたが、あんなやばい代物を放置してはまずい。
それに、石板は今のところ数少ない悪魔に関する手がかりなのだ。
「確か、この空き地の植え込みに……」
街灯に群がる蛾を払い除け、柊の植え込みに足を踏み入れた。
チクチクと尖った柊の葉が肌を刺す。
雑草をかき分けると、読み捨てられた新聞やらエナジードリンクの缶やら見覚えのあるゴミは見当たるものの、マンホールの蓋はどこをどう探しても見つからない。
受験票が風に飛ばされた時以来の大きな焦燥感が、私を襲った。
「ない……! どこにもない……!」
「あらら〜? 本当にここに置いたんね?」
「間違いねー、この植え込みに隠した! てかお前もあの時見てたろ!」
「んあー確かにそうだった気もするし……興味ないから覚えてなーいね」
元のマンホールがあった位置も見てみたがやはりマンホールの蓋はなく、下水管が露出したままになっている。
「誰かがマンホールの蓋を持ち出した……!?」
「ないって事はそういうことなんじゃ〜ないの」
関係ない一般人がゴミとして回収したならまだいいが、石板の正体を知る人間が悪用をする為に持ち出したとしたら。
星子のように人を傷つける欲望を持つ人間が悪魔と契約を結んだとしたら?
最悪の可能性を考えて、過去の自分を呪うように舌打ちをした。
「あの時マンホールをなんとか回収してれば……!」
私は今日だけで何回後悔しただろう。
見て見ぬふりをしときゃ良かったのに星子のドーピングに頭を突っ込んでしまったこと、二度も星子を殴ったこと、悪魔と契約したこと、マンホールを回収しなかったこと。
間違った選択の積み重ねが、とんでもない自体を招いていた。
住宅街を出てからも周囲を散策したり見回ってみたが、マンホールは見つからなかった。
気がつけばもう早朝の4時を過ぎていて、空腹と眠気が一気にのしかかる。
コンビニで肉まんを買い、寂れた公園のベンチに腰掛けた。
事態が事態でも食欲は湧く。
悪魔が肉まんを物珍しそうに観察したり略奪しようとしたが、実体がないので掴めるはずもないので、私はそのまま無視を決め込んだ。
「結局見つからなかった……悪用されてたら……」
心は落ち込んでいるが、こんな時でも肉まんは美味かった。
「……分からんな。お前が石板を回収しそびれたせいで誰かが持ち去り、悪魔を召喚したとして……それで死人が出たとして。なんで他人のお前が落ち込む? 無関係ね。というか、人はどうせいつか死ぬね」
悪魔のその言葉には嘲笑も呆れもなく、本当に心の底から疑問に思っているのだろう。
こいつは生まれて数時間しか経っていない、喋れるだけの赤ちゃんなのだ。
「悪魔には分かんないだろうけど、命って結構重いんだぜ。産むのも育てるのも生きるのも、結構大変」
たかが17年しか生きていない子供の私が偉そうに言えたことではない。
けれど生きられるということが当たり前じゃないことくらい、人生経験の浅い私でも分かる。
「私がマンホールを回収しそびれたことでその命が無くなれば悲しいし、私がマンホールを回収したことで救える命があれば嬉しい。ヒーローなんて柄じゃないけどさ……親切にするって気分良いよ。割と」
自己犠牲をしてまで誰かを救うなんて尊い精神は残念ながらお持ちでない。
けど、自分が少し手を差し伸べれば救える命があるのなら、救いたいと思う。
「僕ちんは……」
ふらふらと漂っていた悪魔が、砂場の上でピタリと止まった。
薄青い空から登る、茜色の朝日を見ている。
「僕ちんは人を傷つけたい欲望から生まれた悪魔だからな。人を傷つけることこそ、最高の悦びだと思ってるね。でも……もし万が一、親切が人を傷つけるより面白いなって思えたら……その時は――」
悪魔は私の方を振り向くと、しっぽをくるりと揺らした。
「身体を手に入れても人を傷つけないね。もちろん、お前のことも」
「じゃあそれって……!」
星子を目覚めさせて慰謝料を回避し、かつ私の命の安全も守れる唯一の解決策。
「あの女を目覚めさせ、生き残りたければ――僕ちんに親切ってやつの魅力を教えるんのね」
悪魔の癖に、実に夜明けの空が似合うヤツだった。
星子を目覚めさせ、私の命も助かる唯一の方法。
それは、悪魔に人を救うことの楽しさを教えて人を傷つけることをやめさせること――なのだが。
「こんな悪の極みみたいなのに親切を教えるとか本当にできんのかなー……」
「おーおー早速ギブアップね?」
「んな事言ってませーん」
改めて考えるとかなり高いハードルに、早くも心が折れかける。
しかも星子の父曰く、卒業までに星子を目覚めさせて私の潔白を証明できなければ、しめて1000万の慰謝料を支払わなければならないので実質タイムリミットがある。
できればマンホールを回収して悪用を防ぎたいので、悪魔についての情報集めも並行して行う必要がある。
「で? お前はどこに向かってるんね。昨日とは違う道を歩いてるみたいだけど」
「とりあえず今日は学校に行く。田中なら悪魔や石板について何か知ってるかも」
結局昨日は朝方家に帰り、数時間だけ仮眠をして学校へ向かうことにした。
検査結果が出るまでは私にできることは何も無いので、いつも通りの生活を送るだけ。
色々あった上に睡眠不足で疲れがとれきれていないが、今日さえ頑張れば明日は土曜日だ。
厨二病の戯言だと一蹴してしまった田中の情報だが、この一件で割と信憑性があることが証明された。
田中曰く旧校舎にある文献に記載されていたらしいので、うちの学校には他にも悪魔の手がかりになりそうな資料があるかもしれない。
「ガッコウ……? なんなんね、それ」
「みんなで勉強したり命令されたり周りに合わせて同じことしたり決められた規則の中で生きていく場所だよ」
「つまんなそ〜」
「つまんねーよ。でも必要なことだよ」
初めに比べて口数が多くなりつつある悪魔に、打ち解けられて少し安心したような、うざいような複雑な感情を抱え、正門をくぐった。
授業中も悪魔の質問攻めやこれからの不安、焦燥感などに邪魔をされ、授業に身が入らないまま放課後を迎えた。
まぁいつも真面目に授業を聞いてるわけじゃないけど。
「おぉ、人間が散っていくんね。随分大きな武器を背負ってるようだが、殺し合いでも始まるんかね? 僕ちんも身体があれば混ざれたのにな〜」
「あれは剣道部。お前の期待するような殺し合いする部活なんかねーよ……」
「ケンドウブ?」
「部活っていうスポーツとか競技とかする団体があるんだよ」
悪魔は学校に興味を示したのか忙しなく動き回っていて、授業中も度々姿を見失う。
ある時はグラウンドのサッカーに、ある時は家庭科室の調理実習に。
他人には見えていないようだし実体がない為無力なので、害を与えるようなことはないと思って放置している。
「田中のクラスは確か……21Rか」
「さっきも言ってたね、タナカ。そいつも契約者?」
「いや。でも悪魔について結構詳しい。石板についても噂程度には知ってたから」
帰りのホームルームが終わってすぐに21Rの教室へ直行したが、21Rは既に半分以上の生徒が帰宅したか部活へ向かってしまっていた。
というか、うちの担任の話が長すぎるので終わるのが遅いのだ。
とりあえず図書委員の知り合いがいたので、田中の所在を聞いてみることにした。
「美希ー、田中ってもう帰った?」
「冥じゃん。田中? 分かんないけど、多分部活じゃない?」
「え、あいつ部活とか入ってんの!?」
失礼だが、私の中での田中は真っ先に帰宅して怪しげな本やら呪術やらをしているようなイメージなので、部活に入っているのは意外だった。
「確かオカ研だよ」
「お……丘研? なにそれ、山岳部的な?」
入るとしたら文化部かと思ったが、意外にも体育会系の部活に……?
「違う違う、オカルト研究部だよ」
「オカルト研究部……? うちにそんな部あったの?」
うちの学校にはフェイシング部や奇術部など他校より珍しい部活が多いが、オカルト研究部は初耳だった。
部活に興味が無かったので私が知らないだけかもしれないが。
「まぁ生徒会からは非公認みたいだけど。旧校舎の図書室で怪しげな研究してるって噂」
美希は自在ぼうきを掃きながら言った。
やはり旧校舎には何かあると確信した私は、急いで旧校舎へと駆け出した。
「ありがと、ちょっと行ってみる!」
「今は旧校舎立ち入り禁止……って聞いてないな。また礼拝堂の掃除やらされても知らないよー……」
うちの学園には、20年前まで使われていた旧校舎がある。
生徒数の大幅な増加に合わせて新校舎が作られた後、取り壊しを惜しんだ前理事長によってそのままの状態になっている。
理事長はこの学園の卒業生なので、中高含め6年過ごした旧校舎を取り壊すのは心が痛むのだろう。
確かに現在の校舎と比べると大幅に狭く、教室もせいぜい20人の収容が限界かというくらいこじんまりとしている。
壁に張られたクモの巣や床に溜まった埃が、長年放置されていたことを物語っていた。
「それにしてもお前友達いたんだな〜」
旧校舎にはあまり興味が無いのか、悪魔は素直に私の後をついている。
「あー美希? 友達っつーか図書委員で一緒で……って、私が友達いなさそうに見えるってか? あぁ?」
「だってあの女から相当恨まれてたもんね」
悪魔の言うあの女は星子のことだ。
「僕ちんが具現化した時の姿は、どうやらお前がモデルになってる。あの女の中の"悪魔"のイメージはお前ってことになるね」
悪魔と私は、顔と口調こそ似ても似つかないが、背格好は瓜二つだ。
不気味だとは思っていたが、星子にとっての悪魔のイメージが私で、具現化された時に私の姿を借りたと言われると気分は悪いが納得はいった。
「正直、なんで星子が私を恨んでんのか全く分からん。ドーピングを止めたことで星子に何があったか……これも調べなきゃだなー」
そんなことを話しているうちに、旧図書室へと辿り着いていた。
上窓からは蛍光灯の光が漏れているので、恐らくオカルト研究部がいるのだろう。
「すみませー……」
「ぎゃあ゛ぁあぁ!!!」
「!?」
立て付けの悪い木製の引き戸をなんとかこじ開けると、断末魔のような叫びが耳を劈いた。
「は!? え、何!?」
「騒がしい人間だなー」
突然の絶叫に私は心臓が飛び跳ねそうな思いだったが、悪魔は至って冷静に呆れていた。
落ち着いて辺りを見回すと、田中と明るい茶髪に染めたチャラそうな男子、ツインテールのアイドルみたいな女の子、制服を着崩して青いメッシュを入れたギャルっぽい女の子が一冊の分厚い本を囲んでおり、4人とも私を見るなり震え上がっていた。
「た、なんだ芝塚か……驚かせるな」
「驚いたのはこっちだわ! 人を亡霊みたいに……」
田中は安堵したのか深くため息をついて、やれやれと呆れたようにこちらを見た。
勝手に驚いておいて何だその態度は。
「パイセーン、そのピーポー平気なの?」
「こいつは違う、安心していい」
「は? 何? どういうこと?」
説明を促すように田中を睨むと、横からチャラそうな男子が申し訳なさそうに頭を下げた。
上履きの色からして1年生だろう。見かけによらず礼儀正しい。
「驚かせてサーセン、生徒会の方かと思ってビビっちゃって……」
「生徒会?」
オウム返しに尋ねると、ツインテールの女の子がおずおずと前に出て答えた。
「オカ研は去年まで正式な部だったんです。旧図書室の資料も自由に閲覧できてたんですけど……」
「今年になって生徒会長が変わり、オカルト研究部は廃部……旧校舎への立ち入りも禁じられてしまった。どうしても閲覧したい資料があった為、こっそり持ち出そうとしていたところにお前が来た」
田中が補足するように続ける。
うちの学校は30以上もの部活があるが、中には顧問不在だだったり部員が2名しかいない弱小部もあると聞いている。
よほどの理由がなければ突然廃部にはならないと思うが……。
「悪魔崇拝とか騒ぐから目つけられたんじゃねーのー? 怪しい儀式とかやってそうだし……」
「そんな! 田中パイセンと一緒にしないでくださいよ! 俺の担当は都市伝説ッス!」
「あーしも未確認生物担当だし〜」
「私は占い・呪術です」
「あ、そう……」
オカ研の研究内容とか心底どうでもいい……。
まぁ、一見テニス部とかにいそうなパリピっぽいチャラ男とギャル子がこんな暗そうな部活に入っているのは意外だったけど。
「で、芝塚は何の用だ」
「あー実は……」
危うく本来の目的を忘れかけたところで、田中の方から切り出してくれたのでようやく話が進む。
悪魔について知っていること、以前読んだ文献について教えて欲しい。
そう頼もうとした時だった。
「全く懲りないですね……立ち入り禁止と注意したばかりですよ」
開けっ放しの入口のから、聞き慣れない男の声がした。
飄々とした口調は冷徹さを含んでおり、棘がある。
「生徒会長……!」
「この人が?」
振り返ると、日本人離れしたミルクティー色の髪に、シルバーの細い六角フレームの眼鏡が特徴的な男性が立っていた。
白い手袋をしており、この学園の独特な制服デザインも相まって学生と言うよりかは執事のような出で立ちだ。
そしてなぜか彼の手にはアルコールスプレーが握られている。
「無法者が一人増えてますね」
嫌がらせのつもりなのか、生徒会長はアルコールスプレーを躊躇なく私たちへプッシュした。
「ぐぅぇぇっ! ちょっ、なんでアルコール消毒!?」
「げほっゔぉぉお゛えぅありえねぇぇ!」
鼻を折るような刺激臭と細霧が充満する。
どうやらバイ菌扱いされているらしく、ゴミを見るような目で睨まれた。
「お?お? ムカつくね? ムカつくなら殺そう、今すぐ殺そう!ね?」
悪魔が色々と野次を入れるが、怒鳴れば傍から見ると一人で急に怒り出す変人に見られかねないので、やかましいが無視を決め込む。
「この旧図書室は施錠します。速やかに退出を」
「そんな!」
私はここであっさり引き下がる訳にも行かなかった。
オカ研部員が読んでいたのは恐らく悪魔に関する文献だ。
この機会を逃してしまえば、悪魔について記されているこの本を読むことは難しいだろう。
私はなんとか本を死守する方法を考え、近くにいた田中にひっそり耳打ちした。
「田中、ちょい時間稼ぎして会長の注意を逸らせ」
「は!?」
田中は訳が分からないという顔をしたが、私が手にしているスマホの画面を見ると、すぐに私のやろうとしていることを理解したのか唇を結んで頷いた。
私は生徒会長に見えないようこっこりスマホを起動し、田中は本を隠すようにして前に立った。
「会長、なぜ我々オカルト研究部を廃部に? 更に旧図書室まで立ち入り禁止。理由を話して貰えなければ納得できませんね」
「禿同〜。ウチらより弱小の部活なんかいっぱいあんじゃん」
強気に出た田中とギャル子が会長に詰め寄るようにして問い詰める。
会長はため息をついて、二人の主張を一蹴した。
「……他の部は部員数こそ少ないが、大会での成果や文化祭での発表で評価を得ています。君達オカルト研究部はなんの功績も残さず、いもしないツチノコを追いかけているだけ。廃部する理由としては十分。よって旧図書室も部活動としての使用許可を出せないので立ち入り禁止です」
「ツチノコはいるッス! 信じるか信じないかはあなた次第!」
「……それから、大麻(おおぬさ)を持ち込んで怪しい呪術をしていることも把握済みです。我が校の校風にそぐわない」
「呪術じゃありません、お祓いです!」
どちらにせよミッション系の学園には合わないのでは?と思ったが、発言は控えた。
部員の影に隠れて身を潜め、ひたすらスマホのボタンを押し続ける。
「つまり裏を返せば……目に見える功績を残せば部の存続は可能――と?」
田中は会長と距離を詰めると、鋭い眼光で睨めつけた。
私は部の存続に興味はないが、オカルト研究部が旧図書室に出入りできれば資料の閲覧が容易になるので都合はいい。
「君たちのような部が何を成し遂げられるんです? 功績を残せる大会も無い。いるはずもない幽霊や未確認生物の証明でもするんですか?」
「功績を残せば存続してもいいのかと聞いています」
嘲笑うような生徒会長の煽りに動じることなく、田中は淡々と尋ねる。
普段は厨二全開でイタいやつだけど、一応慕う後輩もいる部長なんだなと感心した。
会長は煽りに乗らなかった田中がつまらないのか、フッと真顔に戻るとしばらく考え込んだ。
数十秒間緊張で張り詰めた空気が流れ、満を持して、結論は出た。
「……いいでしょう。こちらの説明不足もありましたし、譲歩して特例で半年間だけ仮存続を認めます」
「やっt「ただし!旧校舎への立ち入りは絶対に禁止です。部室として許可できるのは離れのプレバブ小屋のみです。そして半年の間に目に見える功績を残せなければ……今度こそ廃部です」
生徒会長は鍵束から錆びた鍵を1つ外すと、動物に餌でも与えるような乱雑さで鍵を放り投げた。
まるで動物扱いされているようで、不快感が胃の奥からふつふつと込み上げてくる。
部員はその態度に難しい顔をしながらも、ひとまず納得したのか旧図書室から出ていった。
「そこの女子生徒……君もその本を置いて退出してください。ここは貴重な資料が保管されています。君たちが読んでいいような本ではありませんよ」
「……へいへい、分かりましたよ〜。置いてきゃいいんでしょ置いてきゃ」
私は言われた通り"素直に"本を生徒会長に放り投げ、出口へと向かう。
すれ違い際に、彼のレンズの奥の瞳孔が怒りに揺れているのを私は見逃さなかった。
「……随分と失礼な態度では?」
人には散々煽り散らす癖に肝心の本人は煽り耐性0なのでタチが悪い。
「模範的生徒の会長さんを見習って渡してみたんですがね。失礼でしたか、そりゃ申し訳ない」
私は煽るように言い捨てると、早足で旧図書室を後にした。
「……悪魔みたいなやつだ」
一人残された会長の意味深な呟きは、私の耳に入ることは無かった。
「げぇ〜っ、ここが部室とか……ちょーアリエンティーなんですけど〜?」
「うわぁ……酷すぎます……」
新活動拠点となるプレバブ小屋は、それはまぁひどいものだった。
「お? これはなんね? 人間の使う拷問器具?」
壊れたホワイトボードやテレビ、綿のはみ出たソファ、冷蔵庫などが無造作に投げ込まれ、ホコリは積もり、蜘蛛の巣が四隅に張ってある。
悪魔はガラクタに興味津々で、冷蔵庫の中を通り抜けてみたりテレビの周りをぐるぐる回ったりしている。
察するに、旧校舎時代に捨てるのが面倒な粗大ゴミを溜め込む倉庫になり、新校舎に移行した今になっても取り壊されていない、忘れ去られたプレバブ小屋なのだろう。
まぁ部員ではない私には関係ないが、会長も酷いことをするなと同情する気持ちはあった。
「まぁ……あんたらの好きなお化け屋敷みたいでいいじゃん? 悪魔とか……出るかも……よ……?」
「ただのゴミ屋敷だろ! 出るのはゴキブリだ」
今お前の隣に浮いてるんですけどね、悪魔。
励ましのつもりで呟いてみたが、田中は声を荒らげて頭を抱えるだけだ。
「で、でもっ、とりあえず廃部は免れただけマシですよ! 後は呪術で生徒会を呪いましょう!」
「でもさぁ〜、せっかく旧図書室でテンアゲな資料見つけたのにボッシュートとか、まじガン萎えなんだけどぉ〜」
「……その資料ならあるよ」
私が静かにそう言うと、オカ研のメンバーは瞳孔を開いたまま唇を震わせた。
「あの本を持ち出したんッスか?! 会長にバレたら大変ッスよ?! 今度こそ廃部に……!」
「持ち出してはない」
「じゃあページを破いて……?」
「いーや」
私はスマホの写真フォルダを起動し、部員に見えるよう掲げてみせた。
画面には本の見開きページを撮影した写真が数十枚ほど表示されている。
「田中が時間稼ぎしてる間に、こっそり本のページを無音カメラで撮影してたんだよ。これで邪魔なく読めるでしょ」
本の持ち出しが禁止なら、画像としてデータに残してしまえばいい。
咄嗟に思いついた作戦だが、田中の時間稼ぎのフォローもあってすんなりと成功した。
生徒会長も私が素直に本を返却したと思いこみ、気がついていない。
「マージ・マジ・マジーロ……天才? 神?」
「す、すごいです!」
「でかした芝塚」
「姉貴って呼ばせてださいッス!」
「いや大袈裟すぎだろ……」
自分が読みたい一心でやったことが、こんなに感謝されると罪悪感やらむず痒さやらでいたたまれなくなる。