盆からひっくり返ったような、土砂降りの夜半だった。
勢いよく雨粒が地面に打ち付けられる音が辺りに響く中、ぴしゃり、ぴしゃりと水溜りを踏み歩く音が小さく鳴る。
幼い、未だ10代半ばほどの少女だった。
点滅する薄暗い蛍光灯の下、その肌は白く不気味に映えた。
また肢体はその歳にしては細い上、所々痣や切り傷があった。
できたばかりの傷に水が染み込むのも気にせずに、ひたすら人気の無い道を壁伝いに進んでいた。
行く宛なんてある筈ない。
それでも歩かなければ。
1歩でも、どこか遠くへ。
やがて脚がもつれ、少女は小さな悲鳴をあげて水溜りに落ちた。
どこまで歩いただろう。
ここがどこかも分からない。
もしかしたらここで野垂れ死んでしまうかもしれない。
……嗚呼、駄目だ。
考えたら今更涙が出てきた。
いつ死んでもいいやと思っていたのに。
こんなにも自分は、このちっぽけな命にすがっていたいのか。
眠い。眠りたくない。
視界が霞んで見えなくなって、ゆっくりと意識が遠のいて行く。
そうして彼女が最後に聞いたのは、勢いよくこちらに向かってくる足音だった。
※このSSには以下の要素が含まれています。
・文豪とアルケミスト
・主人公の精神が不安定
・ガバガバな口調、呼び方
・一部捏造やオリジナル設定
そこは暗い部屋だった。
厭というほど見馴れてしまった景色。
隣で踞る友達。泣き叫ぶ幼子。死んだような黒い瞳。
鈍い音。流血。
見下ろす大人の冷えた双眸に、まるで自分のものでないかのように身体が動かなくなった。
「お前には何も無い。何も無いから“ゼロ”なんだよ」
*
ひゅ、と不意に冷たい空気が気管に流れ込んできて、目が覚めた。
反射的に勢いよく身体を起こし、呼吸が荒くなる。
長い前髪が額に張り付く不快感と共に、恐怖を覚える。
……どこだ、ここは。
さっきと違って眩しい。明るい部屋だった。
次に気がついたことといえば、暖かい毛布と柔らかなソファ。
ここまできて少女はようやく、今まで夢を見ていたのだと気がついた。
くしゃりと前髪を掴む。
背筋に汗が流れた。
眠ってしまったのか。
「気がついたか」
低音が後ろから聞こえた。
はっと振り返ると、四十は超えているであろう男が立っていた。
目が合った。合ってしまった。
“───何よその目は。穢らわしい”
脳内に声が響いた刹那、少女は顔を下に向けて身体を丸くした。
その肩は小刻みに震えていた。
「あー……怖がらせてスマン。別に取って食おうとは思っていない」
男は困ったように頬を掻いて、少女に近づく。
さらにびくっと、小さい身体が跳ねた。
手に力を込めて、ぎゅっと目を閉じる。
コトリ、と軽い音がした。
いい香りが鼻腔をくすぐる。
少しだけ顔を浮かせると、目の前のテーブルでクリームシチューが湯気を立てていた。
欲望には勝てず、意識した途端に腹から音が鳴る。
それに男がくっくと嬉しそうに笑った。
「よかったらどうぞ。腹減ってるんだろ?」
少女は羞恥心で顔が熱くなって、違う意味でまた顔を下に向けた。
「……ごちそう、さまでした」
結果、少女はシチューを2杯食べきった。
満足そうに男が微笑んで頷く。
「ああ、片付けは俺がやっておくから。先に風呂入って」
「え、でも」
「いいからいいから。風邪ひくぞ?」
そのまま自分のスウェットを渡し、風呂の方を指さした。
物事が急速に進んで、少女は着替えを持ったまま狼狽えた。
「脱いだ服は洗濯機に入れといてくれ。下着は……用意してないから使い回しになってしまうが」
バツが悪そうに言う男を一瞥し、何だかこっちまで申し訳なくなって、顔を下に向けて風呂場へ向かった。
*
スウェットの裾を引き摺って少女は居間に戻ってきた。
目を覆う前髪から雫が落ちる。
「……あの。ありがとうございます」
恐る恐る顔を覗かせると、男が肩越しに振り返るのが見えた。
びく、とまた身体が跳ねる。
「髪はちゃんと拭こうな」
幼子に言い聞かせるような優しい声色で男は言った。
心がむず痒くなる裏側で、微笑む目の前の人物への不信感が拭えなかった。
この男が何を考えているのか全く分からない。
分からないから、恐い。
「どうして。ここまで……してくれるん、ですか」
優しくしないで。微笑みかけないで。
そんな目で、私を見ないで。
大人なんて皆嘘つきなんだ。
「や、そりゃ目の前で人が倒れたら、助けるだろ?」
「……助け、る?」
「そう」
男が何を言っているのか理解が追いつかなかった。
少女はこんな大人と出会ったことがなかったからだ。
「……嘘だ。嘘だっ! どうせ、油断させて、それから……」
言葉が溢れてくる。
しかし彼女は思わず、口を閉じた。
男の目が、あまりに悲しそうだったから。
彼女はその目を知っていた。
「……お前が訳ありなことは分かってるよ。
だから信じろとは言わない。寧ろ疑ってくれ」
また口角を上げる。
未だかつて聞いたことがない言葉に、少女は戸惑いを隠せなかった。
「な……何言って、」
「俺が信じられるようになるまで、とことん疑えばいい」
その目は本気だった。
冗談なんかに聞こえなかった。
何ひとつ言葉を処理できていないが、ひとつだけ分かったことがある。
この男はきっと、今まで出会った大人とは違う。
そんな気がする。
「なんだか娘ができたみたいだな」
男は心底楽しそうに言った。
「宛がないならしばらくウチにいるか?」
「え、でも。迷惑かも……しれない、し」
「気にするなって。子供を外に放り出すほど、俺は腐ってないぞ」
居間に隣接する台所からコップを2つ運びながら、男が応える。
暖かい緑茶だった。
少女はお礼を言って、一口飲もうとした。
コップを傾け、中を覗き込む。
……さっきはつい勢いで食べてしまったが、もし、あのご飯やこの飲み物に何か入っていたら……。
「不安なら飲まなくても大丈夫だぞ」
「え……あ。いや。飲み、ます」
不意にかけられた声が自分の考えを突いていたので、驚いてまた勢いのままに緑茶を喉に流し込んだ。
よくよく考えたら、かなり失礼なことをしてしまっている。
「……ごめんなさい」
「疑えって言ったのは俺の方だからな。謝ることはないぞ」
男の変わらない声色に、ふと少女は泣きたくなった。
今までの環境からか、うつむくことがすっかり癖付いてしまった。
2人は何も言わぬまま、時間だけが過ぎ去っていく。
緑茶で暖まった体から熱が逃げる。
「……ああ、そういや。名前訊いてもいいか?」
先に口を開くのは男の方。
それを聞いた少女は、反射でこう応える。
それはごく自然に、流れるように。
「ゼロ」
口に出してから後悔した。
顔を上げて男の顔を伺うと、彼は目を見開いて呆気にとられていた。
そして困ったように笑う。
「自分の名前、好きか?」
「……よく、分かりません」
少女は膝を立て、そこに顔を埋める。
いささか居心地の悪さと罪悪感を感じていた。
……そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
すると頭に何かが乗った。
一瞬驚いて振り落とそうとしたが、それが男の大きな手であると理解するのに、あまり時間はかからなかった。
「よーし、俺が新しい名前を考えておこう」
少女にはやっぱり、この男が何を考えているのか微塵も想像できやしなかった。
何故この男はこう、何でも楽しげでいられるのだろうか。
今日出会ったというか、拾ったばかりの赤の他人で。
どこからやって来たのかも分かっていないのに。
「さて、今日はもう寝るか。俺は明日朝早いし」
「お仕事、何されてるんですか」
少し気になったので、素直に尋ねた。
「図書館の館長だ。まぁ忙しくてあんまり行けてないんだが」
「図書館?」
「お、気になるか」
少女の顔が少し明るくなる。
ほんの少しの間だけでも現実を忘れさせてくれる、そんな本が彼女は好きだった。
「明日行くから、よかったら一緒に行こう」
その言葉にすぐ頷いた。
少女が年相応の姿を垣間見せた瞬間だった。
男の方が強引にベッドを勧めてきたので、断ることもできずに少女はそこで一夜を明かした。
横たわってみるも、眠ることはなかった。
もうずっと、ずっと昔からろくに睡眠を摂っていない。
体が自然と、眠ることを拒絶してしまうのだ。
そんな夜更けまでの時を、“外の世界”について思いを馳せて過ごした。
かつて彼女の隣にいた友人がよく“外”の話を、皆が寝静まった後にひっそりと話してくれたものだった。
彼が持ち出してきた本も貸してくれた。
“外はたくさんの驚きで満ちているよ。その一冊の本じゃ収まりきらないくらいに。
だからゼロ、僕と一緒に逃げよう”
自分が今こうして生きていられるのも、彼のお蔭である。
今、彼はどこにいるのだろうか。
「……72番」
そっと洩れた呟きは、闇に紛れて消えていった。
*
「毛布にくるまってからも考えて、夢の中でも考えたさ」
「……それは、あの。ちゃんと、眠れましたか」
「ああバッチリ」
朝が来て、彼の身支度を待っていたときにかけられた声だった。
彼はパリッとしたワイシャツに、綺麗な石の装飾が施されたループタイを結ぶ。
これから外に行くのだと考えると、少女の心も少し踊った。
「“縁”っていうのはどうだ?」
「………えにし?」
数少ない頭の引き出しにも、そんな言葉はどこにもなかった。
初めて聞く単語に首をかしげるばかりだ。
「繋がりとか、ゆかりとか、そういう意味だ。俺とお前が会ったのもきっと何かの縁、みたいな。
それにほら、縁起って言葉もあるだろう?」
えにし。えにし。
口の中で言葉を反芻させてみると、心が暖かくなるような、染み込むような感覚がした。
「……も、もったいない、です。私なんかに」
「これは決定事項だ」
いたずらっぽい笑みを浮かべる男の顔がなんとなく悔しいと感じたが、“えにし”という言葉の響きは嫌いではなかった。
やっと自分という存在が画一されたようで、純粋に嬉しかった。
「……さて。服は洗濯できたけど」
男はじっと少女__縁を頭から足の爪先まで眺めた。
「ズボンは長かったから良かったが……問題は上だな」
半袖シャツから伸びる彼女の白く細すぎる腕に、痣や傷は悪く目立っていた。
さらによく見ると彼女の髪は乱雑に切られており、長さは肩の所から背中辺りまでバラバラだった。
流石にこれは、と男も頭を悩ませる惨状であった。
「先に髪の毛揃えるか?」
「え……いや、その。刃物は、ちょっと……」
「ああ、すまない。わかった」
慌てた口調で、そのまま男は自身の部屋へ向かった。
ここまで見ても何も訊いてこないあたり、過度な干渉は本当に控えているようだ。
今の縁にとっては、この距離感は救いだった。
しばらくしてから、男が黒いパーカーを手に戻ってきた。
「取り敢えず俺のだが、それを羽織るといい。でかいからフードも被りやすいだろう」
言われた通りに、縁はパーカーに袖を通した。
サイズが大きすぎて袖がとても余ってしまったが、大きいフードが視界を限定する分、普段より安心できた。
これなら、目を合わせなくても済みそうだ。
「よし。じゃあ行くか」
「は、はい」
まともに外を歩くのは、記憶上ではこれが初めてのことだ。
外に出ると、自分を探すあの大人たちと遭うかもしれない。
それでも今は、この胸の高鳴りを抑えることができずにいた。
「着いたな。ようこそ、帝國図書館へ」
男__館長が運転する車で数時間ばかりかけ、大きな図書館にやってきた。
何でも国が指定する図書館なだけあって、その規模は凄まじいものだと外観からだけでも分かる。
「お、大きい」
「利用客もよく迷うらしいからな。はぐれるなよ」
入り口を進み廊下に出ると、窓から中庭が見えた。
彩り豊かな花が咲き誇り、植木も美しく丁寧に手入れされている。
外にはこれほどまでに美しい光景があるのだと、縁は目が離せなくなった。
「……今日は人が少ないな。あいつらどこいってるんだ?」
ふと館長の呟きが耳に入る。
その目線の先には本棚が連なる図書室があった。
その数は見たことがないほど膨大であり、貸し出しのカウンターやテーブル、椅子が多く並べてあった。
「お客さん、来てませんね」
「……お。ああ、そうだな」
客は愚か、本来カウンターにいるはずの従業員もいない。
折角なので後で見ていこうと縁は決意した。
これだけあれば、かの友人が貸してくれたあの本も多分見つかるだろう。
「さて、取り敢えず館長室に行こう」
本を見るのは後ででもいいだろう。
縁は頷き、館長の後を着いていった。
普段は閉鎖してある、従業員のみが出入りする扉を開け、階段を登ってまた廊下を進む。
たくさんの扉が並ぶ廊下の端に、館長室と書かれた扉があった。
「入るぞ、ネコ」
その声と共に館長が扉を開ける。
館長室は物が少なく、綺麗に整頓されていた。
しかし、そこに館長が声をかけるに値する人物はいなかった。
「久しいな。……そっちの娘は?」
「……っ!?」
疑問に思っていたところに下から声が唐突に聞こえ、縁は軽く跳び跳ねた。
そこにいたのはどこからどう見ても……ただの猫である。
「ああ。俺の娘だ」
「………真面目に答えてくれ」
「本当、そんな感じの存在だぞ」
館長が猫と話している。
猫も普通に人間の言葉を発している。
縁は目の前の状況についていけず、目を白黒させるばかりだ。
「え。あ……えぇ………?」
「……ほう。娘、名は何と申す」
怪しすぎる。
これは猫なのか、それとも未知の生命体なのか……。
脳内で繰り広げられる推論をひとまず放棄し、縁は返事をする。
「ゼ………あ。え、えにし、です」
「縁。我輩はネコである。名前はまだニャイ」
寧ろ“ネコ”が名前になりつつある。
奇妙なこともあるものだ。
取り敢えず縁はこの事実を受け入れることにした。
受け入れざるを得なかった。
「俺は少しここでやることがあるから、縁は図書館を好きに回っていてもいいぞ」
「……! 図書室、行っても……」
「ああ、もちろん。帰る頃に呼びに向かうから」
館長の許可が降り、縁は礼を言うや否や足早に去っていった。
足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなった後、館長は静かに口を開く。
「……どうだ?」
「本当に驚くほど、凄まじい力だ。一体どこで見つけて来たんだ?」
「一昨日、夜中に道で倒れているところを保護してな。丸一日眠っていたよ」
館長はそのまま、机の前の椅子に腰かける。
ネコもいつもの指定席である窓際に向かった。
「……あいつの出所は分かっているのか」
「そんなこと訊けるわけがないじゃないか。多分、どこかから逃げてきたんだろう」
「そうか……」
ネコは小さくため息をついた。
「政府に報告するのも考えものだニャ」
「ああ」
「惜しいことだが……」
そしてゆっくりと視線を窓の青空に移す。
今日は快晴だ。
「本当に……これ以上ニャいほどの人材だ。
“アルケミスト”として」
「……はぁ。すごい………」
二人がそんな言葉を交わしているとはつゆ知らず、縁は図書室の本の行列を眺めていた。
彼女の背丈の倍近くはあるだろうか。
それほどの大きさの本棚に、ぎっしりと本が詰まっている。
年季の入った背表紙を見ては、ただ感慨にふけるばかりだった。
そうはいっても、彼女はこれまでまともに本など読んだことはあまりなかったため、読める字も多くはなかった。
「……えっと……ふうふ? よし……かな……?」
「“めおと”や! “めおとぜんざい”!」
首を捻っていたところに、突如として背後から快活な声がした。
縁は吃驚して跳び跳ねる。
なんだか前にもこんなことがあったような、と恐る恐るブリキの人形の如く振り返ると、長い髪を三つ編みにした青年が立っていた。
「この時期に人が来るんは珍しいなぁ。まぁゆっくりしてってな」
「……あ、あの。どちらさまで……
」
縁はなるべく冷静を装って返事した。
この図書館の従業員だろうか。
にしても距離が近く感じる青年である。
「ここの図書館のもんですわ。“オダサク”って呼んでな! よろしゅうに」
「あ、えっと。あの……えにし、です」
その名前を聞いた青年は、縁を上から下までじっくり見た。
その顔は何かを思考していたようだった。
そうして一通り考え込んだ青年は、ずいっと顔を縁に近づけ、真剣そうな声色で問う。
「……なぁなぁ。今日ここに来たんは客としてか? それとも……」
「っ!!!」
__ドンッ。
いきなり他人がーーーーしかも大人が、物理的に距離を縮めてきたため、縁は彼を思いっきり突き飛ばしてしまった。
「……あ。あぁああ………」
少女の細腕のあまりにひ弱な力に、彼はほんの少しよろけただけだった。
ことを理解した縁は膝から崩れ落ち、頭を抱えてうわ言を繰り返す。
「え、ちょ。大丈夫なん!?」
「……ごめんなさい。ごめんなさい……」
最早、青年のかける声も聞こえてはいまい。
“汚ぇ手で俺に触んなよ虫ケラ!”
記憶がフラッシュバックする。
頭に鈍い痛みが走った。
……ああ、駄目だ。
そんな中、ふと体が温かい何かに包まれる。
「ごめん。ごめんな。大丈夫やから……怖がらんで……」
それが青年の体温であると。
抱き締められているのだと。
数秒遅れてようやく理解できた。
「……わ、わた、し。その……汚い。から……」
触らないで。
先の言葉は出てこない。
自然とこの手を振り払おうとする気持ちもなかった。
「大丈夫、汚ないよ。安心し。な?」
離さないで。
縁の頬に涙が一筋二筋と流れ、次第にそれは溢れていった。
同情とかの話ではなくて。
ただこの温もりが欲しかったのだと、ぼんやり頭で考えた。