議論は喧嘩とは異なる。喧嘩のように相手を煽ったりはしない。むしろ議論で相手を故意にでも煽ることは、議論の障害になる。
なぜ障害になるかというと、それが議論の目的にかなっていないからだ。では議論の目的とは何か?それは、与えられた問題に対する均衡解あるいは最適解の導出である。簡単にいうと、共通了解が得られない点を潰していくことで、どこまで自分達はわかり合えるか、その共通部分を浮き彫りにしていくということだ。
それに対して、喧嘩にはそういった建設性・創造性はない。議論が「肯定のための否定」という行為の繰り返しだとするなら、喧嘩は「否定のための否定」という行為の繰り返しである。喧嘩と議論の本質的な違いはそこにあると思う。特殊な言い方をすれば、議論とはある種の「否定神学」的アプローチをとるものだ、ともいえようか。
そのようにして、「否定のための肯定(議論)」をしつつ「否定のための否定(喧嘩)」に陥らないためには、議論の相手との微妙な距離感をつかむことが重要だと思う。微妙な距離感、つまり、友好的な関係を保ちながらも、友好的になりすぎない、ということだ。否定することが目的化しないためにも友好的になる必要はあるが、友好的になりすぎるとかえって対人論証に走ってしまう危険が高くなるからだ。要は、程度の問題である。