考えよう
2:ウミウシ:2017/05/10(水) 18:50 ID:KdY 岡本太郎の不可能について
岡本太郎は縄文土器を見て開眼し、全裸の人間として魂をカンヴァスに
描き殴った。
ところがポストモダンでは、レヴィ=ストロースのいわゆる「野生の思考」を、
「ポケモン」のなかで実現する始末だ。
一回きりの人生が抽象化されたので、逆に抽象化された生の中から、一回きりを抽出する。
記号から脱出して生きる芸術から、記号の中で生きる芸術に変わった。
僕は岡本太郎を読んで感動するのだけれど、嫌でもインターネットで、彼の絵を見ることになる。
テレビやネットでしか、「太陽の塔」は見たことが無い。もはやメタ・岡本太郎としてしか、僕は
その魂に触れられないのだ。
しかしこれはある意味、生命とテクノロジーの調和である、とも言うことができる。
(動物+テクノロジー)=人間
と考えれば、ポストモダンを
人間=2テクノロジー
の数式で表すことができるというだけだ。人間性ある限り、なにも問題はない。(動物にテクノロジーを代入したのだ)
そして、人間はテクノロジーでありながらも、原始の視点を忘れてはならないだろう。次レスへ
Keyのゲーム「Rewrite」は平成を代表する作品だ。
ネタバレをすれば、この作品には、地球を食いつぶしてでも、地球人よ繁栄しなさい、それが地球の意思である……という
メッセージが込められている。
しかしそれはキリスト教的な、自然を制服した、人工楽園を作り出せ、という意味ではない。
人工楽園の結果、ユートピアはディストピアに変貌し、やがて衰退して行くことになるだろう。
「地球人よ、繁栄しなさい」
と篝が言う時、それは
「調和しなさい」
と言っているのである。実際アニメ版の最終回の、「救済」で死ななかった人々は、力を合わせ、
美しい麦畑を作り、必要なだけの切り株を倒す。
ところで、Rewriteのテーマソング『CANOE』の歌詞は、この作品の神話だろう。次レスへ
Canoeの神話はこうである。
昔、島に住んでいた少年少女が、海を見ていた。
「あの向こうには何があるのだろう?」
そこで、島にある木を切り倒し、高い櫓を建てた。
それにのぼり、海の向こうを見ると、また別の島が、「幻想のように」見えた。
彼らは今度は、そこへ行くために、島にある木をたくさん使って、舟を作った。
島には木が一本だけ残った。
最後にその一本で舟の帆を立て、ついに少年少女は海へ出発した。
彼らの背後で、切り株だらけで、小さくなった島は、進むに連れてさらに小さくなって行き、
やがて消えた。
彼らはそれでも未来を目指す。
これだと>>4の考えと一見矛盾してしまうようにも見えてしまう。
自然と調和どころか、島を破壊してしまった。次レスへ
しかし、重要なのは、自然はあくまでも母親のように献身的なのだということだ。
少年少女は、次の島を見つけて、確かに「繁栄」するだろう。
度が過ぎて、自分たちを逆に苦しめるということだけが問題だったのだ。
さて、少し気になることがある。(かなり個人的なことだが)
それは、今テレビで少しだけ見た、UMAという存在のことである(あまり関係はなさそうだが、RewriteにもUMAが出て来る)。
僕はこのような仮説を建てた。
生物分類学が進歩し、もはや大方の動物は観測された。
しかし、人間には根源的に不安がある。
一見、これで全生物をコンプリートできたように思われても、この根源的な不安が消えるわけではない。
その不安が、この現実(共同幻想)に居場所を失って、架空の生物を生み出すのだ。
勿論、このような迷信は、科学の未開の時代から考えられていた。しかし、科学万能と思われている時代においてさえ、
UMAのようなことを考えるということは、やはり奇妙なことだ。
この、完全な百科全書の中に見いだせない生物を想像する人間の本能は、ポストモダンにおいて、記号の中に生命を見いだそうとする思考回路と平行関係にあるようで、興味深い。
UMAは精神のあるレベルで実在するだろう。
僕がひとりよがりにならないために、よければ皆さんも一緒に考えましょう!
9:ウミウシ:2017/05/10(水) 20:07 ID:KdY ポストモダン文学ーーーというと、もう夏目漱石のような近代文学の美学は通用しない。
ライトノベルのように、評論家大塚英志のいわゆる「アニメ・マンガ的リアリズム」の上に成り立っているのだから。
手塚治虫が、「マンガとは記号である」と言っているが、それが文学である以上、この記号に、いかに血を流させるか、
そこが問題になってくる。(先の、UMA的想像力のように)
ポストモダンでは、「我が輩は猫である」でさえ、二次創作のネタとして使われそうだ。「猫」が変わらなくても、
僕らの方が変わってしまった(森鴎外のウィタ・セクスアリスによれば、当時でも、「我が輩は犬である」が出たりしたとは言うが)。記号になってしまった。
この世界では、少女達は、「萌え要素」という抽象化された記号を持っているだけである。
ドラゴンは現れる。これはどこから来るかというと、無意識である。精神的なドラゴン退治が行われる。
殺人事件も起こり、自然主義(いわゆる空気系)もあり、SFもある。これらは、記号というよりも、歌舞伎などで
言う、「趣向」という視点で理解できる(「オタク学入門」参照)。
綾波レイと長門有希はよく似ている。それが、篝に行くと、どこかにレイのようなクールさを
持ちながら、しかもそれを「キャラ」だと自覚しているような「キャラクター」になる。
これらのキャラクターには、たしかに血縁関係があるようだ。「萌え要素」はイミテーションの連続の中で流動しているのである。
では、「クールなキャラクター」が流行する時、それを享受する人々の心の中では、そのキャラクターの中に、何を
求めているのだろうか。
先にも触れたが、篝には母性がある。フロイド流に言えば、男が求めるものは母親の代わりになるものだ。
その点、篝は、静かな海、静かな月、と言った感じだ。川端康成に、月に童貞を捧げる物語がある。海と言えば、
漢字で書くとその中に母があるし、逆にフランス語では、母の中に海がある。
クール、というのは陰性である。母親は大陰だ。
綾波レイは、アニマの原型のようなものだと言える。そこから全ての萌え要素が展開する。
たとえば一時はやったツンデレは、静かな海に飽きた男が、少しだけ、その愛情を失ってみたいのである(ツン)。
そうして、もう一度デレを得ることで、新鮮な綾波レイを感じることができる、という構造になっているのではないか。
逆にヤンデレは、調度薬物を強めて行くように、綾波レイに求めるものがエスカレートして行き、ついに凶暴になった
場合である。
このように、あらゆる萌え要素は、綾波レイというアニマに還元できると思う。これは、ユング派や、比較神話学等の
研究書で、詳しく調べることができるだろう。
さて、気になるのは、「人間の一生」を、記号が描ききることができるのか?
ということだ。
エヴァンゲリオンの庵野自身、あれは口唇期の作品だ、と言っている。
口唇から肛門へ至るための、イニシエーションとしてのアニメ。
ところが、現在の市場を見る限り、どれもこれも口唇記の作品でしかないように思われる。
対象が中高生だからか?否、大の大人が美少女ゲームに熱中している現状があるのである。
結局、ポストモダンでは、大人になる必要さえないのではないだろうか。
だから、幸福な口唇期にとどまって、ツンとデレのゲームを繰り返していれば、それでいいのではなかろうか。
綾波レイのバリエーション、それだけで彼らの心は満たされる……
13:ウミウシ:2017/05/10(水) 20:39 ID:KdY 謎めいたアフォリズム
鎖職人の鎖を解くまた別の鎖職人
僕たちは便利にコンビニを利用するだろう。
しかし、そうして失われた野生の思考も、またコンビニで買えるだろう。
ガソリンを補給するように、綾波レイを補給するだろう。
七夕伝説を思い出す。男女は離れなければならないだろう。
一年に一度だけ会うことを許されるだろう。
この伝説はもはや人ごとではない。
ポストモダンでも、死ぬときは死ぬのがよい。宇宙>テクノロジー>人間。
人間は貝みたいだ。
遊びだった。すべては遊びだった。