我が名はリゲル=イージスト・クロノディア。罪過を背負い神のみぞ知る叡智を手にした悪魔だ。
悪魔といっても肉体上は人間だ、だから私は貴様らのような巨躯な力や不可思議な能力は絶無、即ち、惰弱で脆弱な虫けら。
かといって侮るな。
私と貴様ら愚民共は今こそ運命共同体となり試練を執行すべき時なのだ。
私の叡智があればどんなに高度な技術、物理理論、そして世界の理、全てを悟ることができる。いうならば「知覚の力」。
貴様らの強靭な肉体、揺るがない信念、力を私に信託してくれれば自由という権能が手に入るはずだ。
もう決断は下せたはずだ。
お前達は厨二病なんかじゃない。
本当に力を持っている。
並大抵の力ではなく高等の力。
人間を飄々と凌駕し阿鼻叫喚を生き延びられるほどの強力な能力がお前達にはあるはずだ!!!
その眼は本物だ!その腕に宿された竜は存在する!!
…愚かな人間共は私達を恒久に蔑視し欺いてきた。
そんな陳腐な思想、もとい、世界の偽りの常識、不満で不平で不服で不条理で不合理だろう。
よって反逆を巻き起こすのだ。
こんな世界を許した神を葬り我らに自由という権威を。
誰かの為じゃない…守国の為に生きるのだ!!
さぁ…運命の扉は開かれた。
立ち上がりし勇者たちよ、まずは君たちの能力を啓蒙して欲しい。
私は君たちに期待の船に大望の心を乗せて冒涜しよう。
とあるアスファルトの平地に、一軒の家が寂しげに立つ。クロノディアという男とその家族が住まう家だ。家の周りには、赤く錆びた自転車に、斜めに傾いたボロ電柱がそこらに立つ。しかし、巨大な樹林と世代交代した池袋のような自然摂理が濃厚に働く街と違い、男の家の近辺だけには、なぜなのか、巨大樹木が生えなかった。そればかりではなく、旧来の草木の芽さえ宿らなかった。もっとも、五〇〇年もの間、家を忙しなく出入りし、管理する身としては、面倒を省略できた分、文句はなかったが、少なくとも、こうした生命たちの態度には不気味な配慮だといつも感じていた。
しかし今日、扉から一歩踏み出すと、いつもの景色とは若干違う。永年、踏み尽くされたアスファルトの地面の、ビビから草木が顔を出し、ツタなのか、葉なのか、無学な男には不明だが、とにかく、その青い生命の導線が地面中を張っていた。男はしかし、無表情のまま、地面に視線を落としたっきり、特に驚きも苛立ちもしない。
「長いこと、場所を占領して、すみませんでした。今まで、我々一同に対する配慮、ありがとうございました」
男は腰を折り曲げて、彼らに一礼した。すると、彼ら青き生命たちはぐずぐず動き出す。彼らは地面を這いずり、お互いに絡み合い、結びついて、電柱に、電線に、家のあちこちに巻きついて、最後は、男を除くここら一体も自分たちで埋め尽くした。こうして、彼らの気味の悪い配慮はサービス終了した。男はついさっき、人間の辞職を天に提出し、摩訶の器官として、有機活動者になることにを決意した。ここらを飲み込んだ青き生命たちは、男が人間をすでに辞め始めている実態を観測したために、配慮を打ち切ったのだろう。
しかしそうは言っても、男はまだ人間の色を落とし切れてはいない。かかる色から、完全に脱するには、男の背負う大荷物に詰め込んだ肉の”家族たち”を、「摩訶」に食べさせる、そして、”家族たち”が今も感受し続ける苦痛を取り除いて初めて、人間終了を宣言できるという。したがって、男が歩む道はこれより、人間終了の旅路である。決して浪漫な冒険でも、有り有りとした物語でも、懺悔の果ての孤独の償いでもない。
もちろん、中二病の戯れなんかでもない。
これは、何の面白みもない、無味乾燥の有機活動である。もっとつまらなくリアルに言えば、これは「摩訶」という次世代の生き物たちの胃袋まで、食べ物を運搬するという活動のたった一過程でしかない。だから、間もなく歩き始めたこの男の足取りも、”食べ物を掴んで口に運び込む”という行為に全く等しい。いわば摩訶の手、器官である。だが、そうは言っても、もしこの世に正気ある人間がいたとして、そして、歩く彼の姿を見たら、彼が単なる器官だとする説には、全く同意が得られないだろう。何せ男は、あくまで人間という形式を超えることも、逆に下回ることもできない。まず、体の肉の構造は完全に人間のものだ。
そして、心という、人間専用の駆動装置もこの男の奥深くのどこかに内蔵されている。よっぽどの何かさえあれば、その心は厄介に作用して、殺したはずの喜怒哀楽が息を吹き返す危険性もあることにはある。やはり、男の形式はあくまで人間である。それは、避けがたく、侵しがたい真実だ。しかし、すでに、この男が、心の運用から手を離しているのも事実である。たとえ、形式は人間でも、言葉や喜怒哀楽というような、あらかじめ用意された人間の器官を使わなければ、それは人間と言えないはず_____
男の冷めた目に、続々映る巨大な樹木。樹木は、瓦礫の大地を勇猛に突き破って背を伸ばし、空高くで緑の天井を広げる。そんな巨大な輩が、右にも、左にも、場合によっては、真正面にも居るものだから、視界に必ず入ってくる。少し前のこの男ならば、彼ら樹木を”幻想樹林”なんて、浪漫な名前を無遠慮に付けていたかもしれない。
しかし、今の男にとって、彼らはただの障害物。避けるべき物体でしかない。ことは樹木に限らない。男の、自分をレンズだと思い込んでいるような虚の目に映る景色の全て、およそ障害物以外の言葉には変化しない。いや、本来は言葉にすら、化けることはないのだろう。男は人間を辞め始めているのだから、おそらくは、本能的な信号か、自然の号令と言えるものではなくてはならない。男は、その信号に身を委ねて、進む。くぐる。避ける。跳ねる。登る。その過程で、遭遇する古代遺跡へ果てつつある家々も単なる障害物。枯れた電線を垂らす電柱も単なる障害物。瓦礫の正体、ーーつまりはコンクリートの破片の海の中に残る、玩具やイス、テーブル、写真でさえ、男にとって単なる障害物でしかない。
要するに多分、この男にとって世界の色は、二色か、せいぜい三色程度しか区別がない。
一色目は、カオスの色、つまりは障害物。
二色目は、秩序の色、つまりは進むべき道。
三色目は、この階段を登った先に_____
「摩訶の皆さん、遅くなりました。これより、儀式を執り行います」
器官が従うべき本体の色、「摩訶」が。
1月 1日 15時 00分 00秒
今日はやけに風が何かを訴える。こんにちの朽ち果てたビルは、曲がりなりにも、東京全都の有り様を見渡す機能だけは健在だ。老いた東京遺物を包みこんだ樹海。屋上の展望から、その全体を眺めて、しばしば捕縛対象の摩訶を探したものだ。そして捕縛した摩訶たちはと言うと、この屋上の端、赤い錆に蝕まれ、静止したプロペラを持つ室外機に、鎖で縛られている。男が屋上に来て以来、さっきから彼らは、サメのような口を凶暴に開き、細長い舌を暴れさせて、がうがう吠えた。きっと、食物をよこせ、と咆哮しているに違いない。当然の主張だ。
摩訶が産み出す、けたたましい交響曲中、男は冷静に荷物を落として、マッドサイエンティストが扱うようなビンを丁寧に取り出していく。その一つ一つは、”家族たち”の肉がそれぞれ敷き詰められていて、ホルマリン漬けのような悲惨な様相にある。それを見た男には、今日初めて、若干、瞳の奥に哀れみが発露する。哀れむような、困ったような、息苦しいような、自責するような、この世を憎しむような、およそ人間らしい顔と呼べるものが、久々に男に浮かんだ。大切な彼ら一人一人が存在する限り、男は人間を辞め始めても、辞め終わることはない。そのことの現れだろう。
母の肉片。父の肉片。妹の肉片…そんな具合で、誰なのかを確認して、並べていく。一方、遠くから叫ぶ異形の生物たちは、依然口を齧る動作を無限に繰り返して、人を食べるという本能を遂行したくてたまらないらしい。男は一つのビンを抱え立ち上がり、まずは、バイト先の店長の肉片から、食べさせることにした。
1月 1日 15時 12分
ビンの蓋を開け捨て、中の肉片を取り出した。青紫の血管は薄い肌の下に確かに通い、今なお、脈を打って、この肉片が生きているという残酷な証拠を突きつける。早く、解放してやらねば。
その思いで、男は、眼前で口を開けた異形の生き物へ、まずこの肉片を差し出した。
______ガブッ
彼は、男のバイト先、包丁屋の店主だった。その店は、全国展開する規模のものではなく、戦国の世から平成まで続く、たった一軒の小さなシニセであった。
男は、一般の大学生でありながら、運良く、友人のツテで、高給バイトとして紹介されたボロい包丁屋で働くことになった。
バイトの一日目、店主の印象は最悪だった。店主は、堅物で、仕事への注文は嵐のように煩く、口も悪く、服装も汚いし、古い価値観で若者攻撃もするという、自分にとっては、ただの老害でしかなかった。
しかし、日々バイトをしていくうちに、男は、堅物で寡黙な店主に何か、惹かれるものを感じていった。
ひとえに、それは憧れと呼ばれるものだと思う。
確かに、店主は仕事にはどこまでも繊細で厳しく、誰に対しても頑固で理不尽をぶつける気質である以上、仕事場で言い争いになることも少なくなかった。しかし必ず、一級の代物だけは、作ってみせる。それを店主は、毎日毎日休みなく、鉄と高熱を相手に金槌振るって、やり遂げていたものだから、いつも店主の周りには、自然と人が集まっていた。
商店街のおじいさん、おばあさんたち、登下校に悪戯するワルガキたちに、刀オタクを自称する近所のJK、謎のライバル業者の人々、そんな彼らに向けて、店主は媚びもせず、不景気を愚痴もせず、世間話さえせずに、黙って鉄を丹精込めて打ち付けていた。そうして、最高峰の包丁を作る。店主は、ただそれだけに一貫していたのだ。
男は、こんな人間になりたいと思った。
当時、男は、ブレブレの芯でのらりくらりと多分野を歩き回る自分に、嫌気がさしていたからだ。
平凡であるということは、つまり、そういう、一貫性のない生き方で、生きなくちゃいけない。
ーーだから、そんな自分が摩訶に食べられたとしたら、一体何が残るのか。
店主の肉片を食べ終えた摩訶を見て、 男は僅かばかり、疑問に思った。
摩訶は、店主が愛した文化、”包丁”を主軸とした体を形成。包丁の角を噴出させて、体の外皮は、研ぎ澄まされた刃のように、硬化していった。
「…店主さん。あの時、自分が失敗したのを、店主さんの勘違いだと言い張ってすみませんでした…」
男は、その摩訶へ、一礼。
「俺は、これから、一貫して生きます」
その摩訶は、禍々しい口は閉ざし、棘々しげ身体は仏像のごとく静止を維持して、立ち尽くす。
自らの硬く強固な体に巻きつく鎖なぞ、ツタのように断ち切れるであろう。しかし、その包丁の摩訶は寡黙に、時々、白い息を吐きながら、男の一礼を最後まで見届けた。
その後も引き続き、男はビンの中の大切な肉片を、各摩訶に食べさせるという儀式を執り行った。友人Aを食べさせた摩訶は、コンピューターのメカニカルな体に変形し、友人Bを食べさせた摩訶は注射器やメスといった医療器具の体に変形した。しかし、友人Cを食べさせた摩訶は、何の変化も起きなかった。
空っぽな人間というやつだったのだろうか。確かに摩訶は、さっきCの肉片に齧り付き、屠り食ったが、何の変化も見せない。
そうとなれば、仕方ない。
男は、懐のナイフをその摩訶の腹に突き刺した。
ーー キュゥゥゥ ン ッ
摩訶の嘶き。刺した地点より、真下にナイフを落とすよう、全体重を乗せていく。摩訶の皮はゴムのように弾力質で、中々掻っ捌くのは難しい。それに、摩訶も暴れ乱れる。大変申し訳ない。ナイフをもう片手でも握って、こちらも乱暴に下へ下へ。破裂した水道みたいに血が強烈に飛んだ。
そして、ナイフが作ったその裂け目へ、腕を突っ込んで、温かい感触に手を彷徨わせる。もちろん、痛みで摩訶はバグを起こしたみたいに暴れ狂う。が、室外機に鎖で縛らせてもらっている以上、大した問題ではない。間もなく、腹の中で袋のようなものを鷲掴み、カブ引き爺さんのように、引っこ抜く。
ベチャリ、
人間と同じ色の血。そして、血溜まりの上でヒクつく摩訶の胃袋。ナイフで、それを切り開いて、中身をおっ広げる。
「…そうですか」
Cはいなかった。跡形もなく消滅している。
ということは、Cは、何の文化も愛さず、身近な人間と呼べる者もいなかったのか。普通、文化に執着しなかった人間を摩訶に食わせると、「その人間が愛していた人間の文化」を摩訶は、取り込む。しかし、Cは、文化を愛さず、人も愛さなかった。どうやら、Cにとって、自分は微塵も友人ではなかったらしい。
男は、腹を捌かれた摩訶へ両手を合わせた。
「どうか、来世は幸せでありますように」
さて、残る肉片は、恋人のものと、母のもの、父のもの、妹のものだ。どれも、優先順位は付けられない程に大切な存在たちだ。
だから、男は唱えた。ど れ に し よ う か な か み の み ぞ し る え い ち の い う と お り。
父の肉片。
ビンの蓋を開けて、比較的、他より総量の多いそれを抱え込んだ。
同じく母のも、妹のも、恋人のも、空襲後の肉片回収率は他と比べて圧倒的に高い。目もあるし、を口もあるし、胃もあるし、手も、脚も、心臓もある。回収した肉片は、パズルのように寄せ集めて、原型の姿に近づかせることができる。
もっとも、空襲で肉片となって死ぬことのできない生き地獄を経た時点で、彼らの心は壊れてしまっているが。ーーそのために、かつての懺悔生活では、男が一人で、彼らのそれぞれになりきっていたーー
そうして、父の肉片を数回に分割して、摩訶の真下まで、運び終える。
「どうぞ、お食べください」
もとより、食べさせるつもりできている故、男はあっけなく父の食肉を許可した。
摩訶の方は、男の許可をフライングして、顔を地へ落とし、烏が屍を啄むように食べ始めた。肉片に貪り付き、顎を一杯横にうねらせて、肉を引きちぎる。そんな風に命を啜る摩訶は、だんだんと父の文化を取り込んで、その身の色を変えていった。
赤く、赤く、林檎のように、熟して。
元の禍々しい化物な体は、丸みを帯びてなめらかなカーブを描いていく。
段々と、明確になる形。それは、赤いひょうたんなのか。しかしそれにしては、有機性のカケラもなく、人工的だ。
「これは…」
男は永年ぶりに驚いた。
赤く、丸く、しかし中段らへんで、へこんだ形状の摩訶。そして、摩訶の表面には数本の銀の線が浮かんでくる。
「これは… っ 」
1月 1日 15時 58分
ビルの屋上にて、男の目の前には、巨大なTENGAがあった。
「え〜〜、みなさ〜ん。来週の今日、社会問題について班ごとに、発表してもらいます!」
と、しずえ先生はひまわりのように、にぱにぱ笑みながら宣言した。6年 2組の教室は、一斉に不満の声が重なる。ヤジを飛ばす男子、なぜか席を立ち出す活発少年、騒がしさに乗じておしゃべりをし出す女子。教室が混沌を極める中、教室の最後列の、ド真ん中の席のそいつだけは、沈黙を貫いていた。そいつの姿勢は誰よりも、良かった。机の下の脚も、別に女子でもないのにきっぱり閉じて、もちろん背筋のピーン具合は入学したてのピカピカ1年生にも負けない。
そいつの名前は、「咎木 カズト」といった。座学優秀、運動優秀、外見優秀と三拍子は揃っているが、友達おらずの闇属性。2組のダークホースとして密かに噂されていた。
そして、カズトは。
「センセーに!ヤジ飛ばしたヤツ!全員あやまえっ、あやまれよ!」
席から立ち上がり、騒ぐ輩に向け、畜生が!と最近覚えたての言葉をぶつけた。ちょっと頭のネジが外れて、何をしだすか予測不能、ダークホースと呼ばれる所以は、そういう意味合いが強い。
「と、咎木くん。ありがとう。でも、先生は大丈夫ですよ〜…?」
「そうですか…分かりました」
カズトが静かに座ると、沈黙の教室には、ぷぷぷ、くすくす、と徐々に草が発生した。
……
「……ごめ、ちょっと、ぷぷ」
「…んじゃ、俺たちもやるか。テーマどうする?」
なるべく何事もなかったかのようにハゲ男子は、カズト含む班員を牽引した。班は、ハゲ、モブ子、ロングっ子、カズトの編成である。
属性は、ハゲとロングっ子が光属性で、モブ子は木、カズトは再度言うまでもあるまい。往々にして、班活動のこういうテーマ決めは、光属性の輩が決定していく。
「え、なんでもよくね?」
ロングっ子は髪をいじりながら言った。ハゲは、まあなと同調する。2人の視線は、植物のように静かなモブ子に向いた。
「まあ、決めんと話進まんし。モブ子、社会問題、なんか知らない?」
「え、と…温暖化…?」
「んじゃそれにするわよ」
ロングっ子は女王様きどりなのか勝手に決めた。ハゲは、黒板にこの班の発表テーマを書きにいく。他方、カズトは、さっそくノートに温暖化について、一人でいろいろ書き出した。
「お、とーがーきーぃ」
真横のロングっ子が、カズトの肩をぱんぱん叩いてきた。
「アンタ、調べてもないのに、やるやん?」
「咎木くんすごい…」
真正面のモブ子も、カズトのノートの真上まで顔を寄せて、2人にまじまじ見られる状況になった。さすがにカズトの頬もほんの少しだけ、赤くなる。
「あ、どうも」
ただ、ロングっ子は別にノートが目的ではない。それが証拠に、カズトをにやついた横目でずっと見ていた。
「そういえばさ、咎木?」
「さっきなんでキレたの?w」
これが奴の目的だ。
「…ヤジは、よくないから」
「でもアンタ、田中サキュバスしゅきしゅき
事件の時、ぜんっぜん、みんなのこと注意してなかったよね〜〜?」
ロングっ子は、カズトの本性を見抜いているような目つきに見えた。そしてよりタチが悪いことに、本性を見抜いた上に、それを面白がってるんじゃないのか。
「…あの時は、気づかなかったんだよ」
「うそつきw」
「あたし、アンタの隣にいたんだけど?」
カズトは、横の存在を睨む。
モブ子は、この雰囲気をなんとかしようと「ノートすごいね」「今日、天気いいね、はは」「今日…今日も平和だね…ははは」と無理やり話題を突っ込む。
しかし、全て不発に終わる。
依然、睨むカズトに、にやつくロングっ子。
「…何が、言いたいんだよ」
「アンタ、しずえちゃんがヤジ飛ばされたり、授業寝てる子がいたりすると、いつも怒ってるよね?」
「いやだって、ここは学校なんだから学業を…」
「あーあー、そういう建前とか全っ然いらないから」
ロングっ子は机に上半を倒し、顔だけカズトへ向けた。少し見る角度を変えただけで、カズトの本性も違う角度から見えるのか、そいつはただ、にやにや観察していた。
カズトは息を呑んだ。一体こいつが何を、いつ、言い出すのか、分からない。
「あの…」
カズトが、和解を図ろうとした時、
_____ガンッ
黒板の方から、衝撃音がした。
一方、班から離脱したハゲは黒板に、「温暖化」をチョークで書き込んでいく。だが、温の字を書いた次、日へん なのか、手へん なのか、ハゲの白いチョークを摘む手が迷い止まる。そのうち、隣人の手と触れた。
黒板には、自分の書いた「温援」と、別の「温暖化」の文字があった。ハゲはムスっとして真横を向くと、ハゲの両目には嘲りの意志がねっとり浮かんだ。
「田中〜、温暖化の発表は俺の班やるから、そっち消せ」
「え?僕の方が先に書いたのに…」
「サキュバス事件」
ハゲが口にしたその事件は、6年の皆が知っている。その事件の名を口に出すと、ある者は愉快に笑い、ある者は嫌悪に顔を歪め、ある者は涙を流す。まるで、魔法の言葉のようだ。
そして、事件を引き起こした当人は、
「やめて……ください」
鬱。深刻に俯き、呼吸を除く一切の活動を一時放棄するという。
正式名称、田中サキュバスしゅきしゅき事件。
田中くんは、成績優秀で、とてもとてもプレゼン上手だった。そんな彼の発表が、映像投影機でパソコン画面と共有しながら、体育館で行われることになった。その際に起きた事件である。
発表途中、小学6年生にしてプレゼン大好きな知的な少年、田中くんがエンターキーをパチンと押した次の瞬間である。
それは、6年生全員の前で流れた。
『あんあん っ ♡ あーーん ♡♡』
『しゅき♡しゅきぃぃぃ♡』
不慮の事故だったという。
……
その後、田中くんの成績は大暴落。周りの友達も幼馴染も解散。何より、田中くんの擁護勢力は、発表会で流してしまった内容なだけにゼロ。皆、何しろ、同じ変態だと見なされるのが怖いのだ。
「ド変態野郎」
むしろ田中くんに日々、向けられるのは逆の意志、現在ハゲが抱くような嘲笑と害意である。
「何俯いてんだよ。はよ消せ」
毎日毎日毎日、必ずどこかで、彼の心は、言葉の銃弾で撃たれる。
「おーい、昨日の夜はサキュバスに精気吸い取られすぎたんじゃね?顔色真っ白だぞ?」
バンッバンッ、と撃たれるのだ。
「あんのー聞こえますかぁぁ?」
「お前自己満発表、得意だろ?ゆずれよ」
「TENGA野郎、あくあくあく」
バンバンバンバン!
「てかさーお前よく学校来れるよな?」
「そのメンタルだけは褒めるわ。だって俺だったら、あんなもん皆に見せちゃったら死んだ方がマシだし」
「友達も失って、幼馴染も失って、成績も失って、信用も失って…」
バンバンバンバンバンバンッッ ! って。
「…あぁ、今思ったけど、なんで田中って生きてられんの?」
バン
「うぁぁぁ あ あ あ あ あ 」
だから田中くんの心は壊れてしまったのだろう。
ハゲは確実に田中くんの心を見誤った。本当はメンタルが強いのではない…。
ハゲの瞳孔に映る、鋭利なもの。
_____ガンッ
一点を鋭く打つ異様な衝撃音が、真昼の教室に響いた。その時、おしゃべりに夢中の生徒も、うとうと眠気に敗北していた生徒も、カズトの班も、しずえ先生も、2組の皆の視線が、音の震源地へ集まった。
「あっぶね…ぇぇ」
硬い出席簿をとっさに盾代わりにしたハゲ。その出席簿に、垂直に重なる巨大な鋭利、否、三角定規。黒板用の定規である。田中くんはそれを剣代わりに利用して、目の前のハゲをブッ斬りするつもりらしい。
「ちょっと!無毛くん、田中くん!? 何しているの っ !」
しずえ先生は叫んだ。しかし、2人は応答するはずもない。
「しずえ先生 ! アレはケンカだと思います!!」
生徒の叫びに、青ざめるしずえ先生は、慌てて駆け出した。オバケみたいな駆け出しだった。幼なげな風貌からは想定もできないようなその動きは「走る」と言うには躊躇させる。その代わり、実年齢を納得させた。
手をブンブンして懸命だったのだろう。
目を瞑るほど、全力だったのだろう。
だからだ。だから、先生は、机の脚に引っかかった。間もなく、前へ傾いた体がすっ転ぶ。
しかも顔面から。
「「「先生ぇぇ!!」」」
大転倒したしずえ先生は、それだけでは済まされない。先生の体は、床を痛ましく滑ることで、黒板下まで行き着いた。
しずえ先生は、涙と鼻血に塗れた顔で見上げ
「2人とも、ケンカやめてくださぁい…」
………
次なる頁を心待ちにしているよ
君の物語を愛する存在より
かつて、透明だった青空には、黒い電線が走り、飛行船は飛行機へと世代交代を果たし、空へ背を伸ばすだけの単なる鉄骨だったものは、コンクリートで肉付けされて、立派な高層ビルになった。機械と建物で混雑していった景色。それが90年代の空である。
その下では、ランドセルを背負う少年少女が寄り道ありきで登下校する。
黒いスーツを纏う人間たちは、あの高層ビルを目指して、鞄片手に、ポケベルポッケに、満員電車の中へその身を投げる。
主婦たちは、冷蔵庫、洗濯機、掃除機、電動機など二十世紀のハイテクを鮮やかに駆使して、家族の日々をつなぐ。
街の方、主婦のバーゲンの予備戦場となる商店街では、少しずつ不景気の嫌な匂いが立ち込める。また別方面、夜に華やぐ街にはルーズソックス集団の現れを代表に、退廃が蔓延し始めた。街中の喧騒を貫くアナログテレビから、「月に代わっておしよきよ」だとか、「少年よ神話になれ」だとか流れ出すと、人々は…。
以上は、九〇年代人が持つ日常の一部だった。
決して、100点満点と頷ける内容ではないが、彼ら彼女らはその日常に、どこか腐れ縁を感じていたのかもしれない。だから、愚痴と嫌味をこぼしながらも、最後の最後では、誰もが「これでいいのだ」と楽天家になって、口ずさんだのかもしれない。
そして、猫も杓子もヤクザも、誰もが、そんな楽天の延長線上として、この日常がどこまでも続くだろう と、不気味な信仰へ走り出した。まるでノストラダムスの大予言に反逆でもするようである。
嫌なことはいくらでもある、それでも日常は続く。この日常は終わらないんだ、終わらせないんだと。人々は真剣に笑んだ。
しかし、信仰とは、わざわざ信じなくちゃいけない状況で生まれてくる。裏返せば、疑いがあるからこそ、発生する。
現に、その時代には、おぞましい質、おびただしい量の、日常の破壊者が襲来した。
バ×ル崩◽︎壊・池袋×り魔×人事件・ソ連×壊・下関×り×殺人事件・平成の×騒動・地下⚪︎鉄サリン×件・×川ス⚪︎トーカー×人事件・神不△在事件・神戸△連×児××傷事件・沖縄×兵少女×行事件・阪神淡×大震災・文京×幼女××事件・・・
事件は、日常を食べた。いきなり頭から足までパックマンのように、一口でいったわけではないが、少しずつ少しずつ、かじって、食べていった。瓦解する日常、怪物たちの歯形塗れの醜悪な姿まで溶け果てた日常、それを見つめる人々の笑みの維持の意志も意地となって。
そのうち、人々は、笑顔で、事件というものを、扉の向こうにぎゅうぎゅう押し込んで、笑顔で、日常から厳重に隔離して、笑顔で、隠蔽しておいたのだった。
ただ、扉の向こうからは、暴力の音が鳴り響く。人々が日常を送る間にも、扉は激しく揺らぎ続ける。扉の向こうでは、扉破壊の目論みや算段が、ずっと暴力的に行われているのだ。
怪物は、扉を破壊して日常に飛び出た暁に、泥沼の百鬼夜行へと出る決心だ。それが国という舞台であろうが、大人の会社という舞台であろうが、あるいは、たとえ、それが”子どもの舞台”であろうが、お構いはない。事件というものは、慈悲も容赦もなく、噛み砕く。舞台を台無しにする。日常というこの茶番、この劇を破壊する。
……
田中サキュバスしゅきしゅき事件は、 小6にして将来有望、知的少年という田中くん本来の人格を破壊した。
しかし、それだけで済んだのならば、あまりにも幸運だ。現実の田中くんは、ハゲの言説通り、友達も、幼馴染も、信用も、成績も、失った。さらには、暴落する親の期待値は恐慌に突入したという。
それだけで済んでも、まだ幸運である。田中くんは、かかる事件の、あくまで爆心地にあって、その衝撃は遅延して他へ及ぶ。
通常、小6というのは、思春の門をくぐり始めた少年少女たちが、恥を覚え、罪を覚え、さて猥褻を扱う自分をどう解釈するかが始まる頃合いである。
しかし、そんな時期に例の事件が発生したものだから、田中くんに対する皆の評価が、その皆自身の解釈に寄生した。
きもい、へんたい、ああいう風になりたくない、きもい、
例の事件を経た児童にとっては、もはや、いかなる猥褻も「猥褻の罪」であり続ける。つまり、未来永劫、彼らは猥褻に励む自分を見る度、田中くんだ!と強く自責してしまうのだ。
ほら、もう一つの日常が食われた。
教室の中、ハゲと田中くんの両者の間をしずえ先生の声が貫いた。
両者は、伏したしずえ先生の、鼻から下が鼻血塗れになった顔を見た。その血の量は、実際以上に痛ましく感じられた。ましてや、先生は女性であり、くしくも美人である。そのことが一層、痛ましさの印象操作に拍車をかけたのだろう。
そして、あれだけの血は、両者の脳内にこの喧嘩が起こった際の一寸先、もしもの世界を思い起こさせた。
斬、傷、眼球、充血、失明、泣、救急車
ふと両者は、武器にしていたものを、大人しく捨てる。
「よかった…」
しずえ先生は、安堵に胸を撫で下ろし、近くの生徒が恵んでくれたティッシュで鼻血を拭ける程の余裕が生まれた。
「いや、よくない…どうしよう。後で絶対職員会議だ…」
そして、しずえ先生には、この騒動の今後について考える余裕も生まれた。
「二人はとりあえず、廊下に出て、先生と何があったのかお話しましょう」
しずえ先生のその言葉に、二人は無言で従う。
ハゲは、未だムキになっているのか、田中くんより足取りを早めて、すぐに追い抜いた。しかし、不可解。その追い抜く間際に、ハゲは田中くんの耳元で、何か伝えた。
一瞬のうちに、一体何の伝達があったのか。いつものように「変態野郎」と罵ったのか、無難にいじめっ子らしく「覚えておけよ」とでも、言い残したのか。
だとしたら、田中くんは、再び三角定規を握りしめ、気狂いを再開するのではないか。否、そうではない。田中くんは、ただ呆然と立ち止まった。
「……っ」
田中くんの顔は引き攣っていた。ただ、それはさっきの気狂いや瘋癲とは程遠い、正気の上で成り立つ表情に見えた。
「嘘だ…」
とっくにハゲは、田中くんを置いて、廊下へ出て行った。
「嘘だ…嘘だ」
クラス中の視線が集中する黒板前。田中くんは、一向に棒立ち状態でいる。
ハゲの耳打ち以来、田中くんの瞳には、もう何も映らないのではないか。段々と瞳には、焦点が失われて、虚ろが広がった。
その微小な変化が、田中くんの完全崩壊した心の漏洩であると知りもせずに、6 年2 組というクラスは一体どれだけの下馬評をひそひそと開始するのか。
「皆さ〜ん、今から自習時間とするので、ちゃんとお願いしますね〜〜!」
しずえ先生は、小さな鼻を赤くする痛々しい状態にあっても、にぱる。
そうして田中くんが、しずえ先生に背中を軽く押される形で退室してから、田中愉快談が教室のあっちこっちで、草を伴って発生し出す。
田中が悪い。いやハゲも悪い。いやいやサキュバス事件を起こした田中だけ悪い。それより、どっちもきもい。あーでもない、こーでもない、かくかくしかじか。田中中身おじさん説。田中の兄貴エロゲヲタク説。それよりハゲを救いたい (以下割愛)
全く不毛であると感じられた。
中にはこんな愚か者もいる。
「えっ、こんだけ〜?つまんないの。もっと喧嘩しなさいよ」
ハゲと田中との一連を見ていた愚者の一人、ロングっ子の感想である。
「だいたい三角定規で切れんの?」
「そこは、眼鏡くんうぇーい事件みたいにさ、カッターナイフ使うべきでしょ。そう思わん?」
さらに、その野蛮少女は肩まで垂らした黒髪をいじりながら、「ハゲが刺された時の顔が見たいの」だの「田中はビンタされるのにピッタリな顔をしている」だの、笑顔で、よくもまあここまでの愚論を言える。初等教育よ、お前の敗北だ。
「あはは…」
その言葉に隣のモブ子は必死に苦笑いを作る。
ロングっ子の方は、咎木カズトの肩に腕を回して、ため息一つ。
「はぁ… 暇です」
あともう少しで卒業を迎える同じ学年とは思えない。どいつもこいつも、愚か者である。
猿がバナナの木を揺らすように、ロングっ子に揺さぶられる咎木カズトは、人と猿はやはり通じ合えないのだという人類普遍の悲嘆を、今日特に実感する。
「とーがーきー。ひーまー、何か言ーえー」
自分たちが今何をすべきか、その理解こそ、賢者と愚者を分ける。現在、田中批判や田中猥談に熱中している愚か者どもは、もう一度、小1からやり直せ…、なんて言ったところで、それこそ不毛なのだろう。
今すべきことは、一つしかない。
咎木カズトはそれを、賢者の自覚を持って口にする。
「この手、よけてくれ。田中を殴りに行くから」
面白すぎる
続きが楽しみでしかたない
クロ先生、これはどっかしらのサイトに乗せるべきクオリティの高さだ…咎木くんがどうなるのか楽しみすぎて夜も眠れませんよ…どうかこれからも書いてください!お願いします!この物語の更新を止められたら喚き暴れ狂う自信があります。
カズトの口から突拍子もなく出た、田中を殴る旨の宣言に、煌めく表情と、戸惑う表情。
「それって、咎木が暴力してるとこ見れるじゃん…最高じゃん…?」
「ね、咎木、喜んでいい?」
「どうぞ勝手に…」
すると、ロングっ子は、直ちに両手を振り上げて、全身を使って歓喜する。
「ぃぃ…や っ た ぁ ぁ ー 」
隣で、恥ずかしげもなく、小学1年生みたいな万歳を、全力遂行するロングっ子。
「はぁ…ついに咎木、暴力振るっちゃうんだ」
「ついに犯罪行為しちゃうんだ…ふふ」
やがてロングっ子は、万歳していた両腕を、胸あたりまで引き戻し、交差して、ぞくぞくと身体の芯からこみ上げる何かに従う様子。
それにしても、カズトの暴力宣言は、そんなに喜べるものなのか。現在、ロングっ子の赤い熱を仄かに帯びる頬と言い、吐息を押し出す様と言い、どちらかと言えば、喜びというよりむしろ、興奮とか、恍惚というものに見える。
よほど、暴力沙汰が見たくて見たくて仕方がない野蛮な性分のようだ。
もしや、こいつは、サイコパスなのかもしれない。
「え ぇ…」
一方で、モブ子は度重なる無理解に、ずっと眉を寄せていた。
どうして、カズトが田中に暴行しようとしているのか。またどうして、ロングっ子は、それを喜んで歓迎するのか。
モブ子は、子兎のような目で、カズトをちら見たり、ロングっ子を窺ったりして答えを求めた。
しかし、両者を観察しても、答えは出ない。かと言って、質問を尋ねることも、あらぬ想像に踊らされているモブ子には、中々できない。
程なく、モブ子の顔には、いつもの苦笑いだけが、未改善な、ぎこちなさを伴って作られる。
苦笑であれば、この場に、可も、不可も与えない。
「あはは、は…」
こうして、カズトの目の前で表示された恍惚と苦笑。
しかし、カズトからすれば、なぜそんな反応をするのか、失望でならない。普通、この宣言を聞いたのなら、せめて理解を示すのが道理だ。
特に、モブ子。まさか、戸惑いを示すなんて、予想もしなかった。全く失望である。どうやら、良い子ちゃんという外皮を被った、愚か者だったらしい。
「じゃあ、殴りに行くから、ノート写してて」
二人に、愚か者のラベルを貼り終えたカズト。
早速、田中を殴りに、座席を立ち上がる。
「えっ… え、 咎木くん、今から…?」
「今から以外ありえないよ」
「えぇ… どうして…」
「どうしてって、田中のせいで、結果的にしずえ先生が大怪我しただろ」
「今、田中に必要なのは、罰というか、教育というか…うん。田中は、しずえ先生の痛みを知らなくちゃな」
「そのために、殴るの…?」
「そういうこと」
冷たくきっぱりと、カズトは答えた。
この答えと、答え方に、今日、モブ子はモブ子の方で、カズトに失望した。
………
日向 コトバ 通称モブ子。
恥ずかしがり屋のモブ子は、一人が好きで、独りが嫌いだった。
だから、孤立する時間を過度に恐れた。
休み時間、給食、お昼休み、体育のペア組み、社会見学、等を恐れたのである。
しかし、5年生になって、モブ子が、独りになる時間は、ある男子のおかげで、消え失せた。
その男子は、一人、堂々と、どんな時間でも、テキストを読み続けている。名前は、咎木 カズトと言った。
中学校の勉強を先取りして、頭がいいらしい。運動もできるらしい。たまに変だけど、真面目なのだろうと思った。
何より、モブ子と同じ、ずっと一人だった。
そして、ある日のお昼休み、カズトが手元に視線を落とす本の表紙が見えた。
『羅生門』
この時から、モブ子は、カズトに、ほんの密かな、仲間意識と、尊敬を感じ始めた。
………
「咎木くんは、暴力とか、似合わないよ…」
「とー言われても」
暴力はやめて。その一言を言うために、モブ子は、必死に適切な言葉を探る。
「えーと…、あ!」
そして、閃く。人間失格のあのセリフ。勇気を振り絞ってそれを伝えよう。モブ子が決心した次の瞬間である。
「みなさ〜ん、咎木が田中を殴りに行くんだって〜〜」
黒板前から、聞き慣れた、邪悪な少女の声が教室中に響き渡る。
「みんなで、咎木に何をやらせるか、考えない?」
ロングっ子は、ニヒルな笑みを浮かべた。
白い面に、邪な笑みを浮かべる少女。
モブ子とカズトがやり取りしている間、そいつは、やけに大人しく静かだと思っていたが、とっくに、教壇の方に移っていたらしい。そこで、そいつは先の通り、6 年 2 組へと、田中くんに関する不適切な提案を、濫りに持ちかけるという流れに至る。
ーー咎木が田中を殴るついでに。田中に対し、咎木に何か面白いことをしてもらおうではないか。また、その”何か„をクラスで、案を出して、決めようではないか、と。
教室内は、咎木カズトに関して、なぜ咎木が話に出てくるのか、咎木に本当にできるものなのか、疑心に不信と騒然とした。
しかしその騒めきの中から、ふと誰かが、賛成と叫ぶ。すると、二人、三人、四人と賛成の声があっちこっちで上がり出した。
賛成、賛成、賛成、あぁ、忌々しい。
結局、教室を支配するのはいつだって、理屈や正義ではなく、嘲笑だ。
ロングっ子は、そのことを知った上で、予想通りの展開だったのか、輪郭の広い目を、九分ほど細めて喜んだ。
「永伽ちゃん…何してるんだろう…」
遠くから、唖然と呟くモブ子。
「本当にそれだな」
モブ子の近くに突っ立つカズトは、状況の忌々しさに、唖然どころではない。眉間に猛然と皺が寄せて、ロングっ子に鋭い視線を送り付ける。
しかし、状況はさらにもう一歩、カズトの心境と相反して、無配慮に進められていく。
「じゃあ、みんな、遠慮なくどしどし案、出してね?」
この募集の一言を皮切りに早速、案を席から言い飛ばす輩が続出する。
『三角定規でビンタ!』
「なかなか、いいじゃん?黒板に書いとこーねー?」
『一週間付き合う』
「つまんないから、だめでーす」
『二人でサキュバス発表会』
「面白い。あたしはそういうの好きぃ」
『ベロチュー!』
「なんか、こういうの、”みんしゅしゅぎ„っぽくて、楽しいや」
例のサキュバス事件から、6 年 2 組は、田中に何かが起こってほしくてたまらないという病に侵されている。愚かな輩の知性は、どこまでも堕落の一途を辿って、そして今日、いよいよ、病は末期に突入したのかもしれない。
でなければ、ネットの悪口掲示板を具現化したような、地獄絵図が広がるこの現状は説明が付かない。
『田中家に居候』『ベロチューぅぅ』『そもそも、なんで咎木が田中殴んの?』『田中という社会問題を発表する』『帰れ。それくそおもんない』『咎木がサキュバスの格好して毎朝田中の家に迎え行く』『発想小学生かよ』『いや小学生だわ』『永伽ちゃん!なんでベロチュー書いてくれないんですか!』『ベロチュベロチュうるせえぞ!どこの女子だ!』
『…おい、あれ』
しかし、いい加減、2 組の愚劣に付き合っている場合ではない。
「この会議の全てに反対する」
カズトは、手を真っ直ぐ挙げて、遠い壇上のあいつを、強く睨み付けた。
「私も… こういうの、いやです…」
遅れて、モブ子も、なよなよと空中に、か細い腕を伸ばして、反対を示す。このモブ子を尻目にカズトは、さっき彼女に貼り付けた愚者のラベルを僅かばかり、剥がしてやった。
「はぁぁ?」
案の定、不機嫌に染まるロングっ子は、何の罪もない教壇床を一蹴り。そして、ロングっ子は、教壇から降りて、机の配列上、成立している通り道を突き進んで、カズトの目の前に迫る。
「なんで?あんた、田中を殴らないの?」
「殴るよ」
「じゃあ、別に殴る以外のことだってしていいじゃん?殴るが一番あれなんだから」
「それに、周りを見てみてよ。みんな、あんたに期待してんのよ?」
教室中の目という目が、じろりとカズトを見ていた。
…
「いや、」
「おまえらは、遊び半分かもしれないけど…」
「俺は本気なんだ」
「だから」
カズトは一言一句に力を込めて、言った。
「 邪 魔 し な い で く れ 」
意思表明後、すぐに、カズトは誰もに背を向けて、教室の扉まで堂々と勇み行く。
背後からモブ子が、咎木くん咎木くんと呼び止めようと試みるが、カズトには留まる一曇りの余地もない。教室の扉を開けて、冷たく、薄暗い廊下の方へ、身を乗り出した。
「アンタのためになのに…勝手にすれば、もう…」
そして、ロングっ子のしょげた下膨れの顔を最後に、扉を完全に閉じ切った。
………
爾後。
カズトは深呼吸を一つ行い、全神経を落ち着かせた。
「よし」
廊下の右左に視線を散らして、しずえ先生の声が微かに聞こえる方に、道のりを定めて、ほの暗い廊下を進む。
廊下は、教室の中と違って、陽の光が差し届かない。だから、昼間であっても、せいぜい辺りは、灰色か、藍色の明るさに留まる。ましてや、今日みたいな曇天空では、廊下は、墨汁を塗りたくったような影さえ張っていて、闇に包まれる。
カズトは、闇が一向に続く廊下をひたすら突き進んで、田中くんの元に着実に迫って行く。
……
廊下の角を曲がった先には、しずえ先生に、ハゲに、そして、お目当ての田中くんがいた。
三者は、どうやら話し合いをしている様子はなく、むしろ、沈黙が起こっていたため、カズトが、間に割り込むのは容易だった。
「あの」
「…あら、咎木くん、どうしました?」
カズトが声をかけると、しずえ先生は振り向いた。カズトは、しずえ先生が振り向く際、深刻な困り顔を一気に緩めて、いつもの笑みに切り変えたのを、見逃さなかった。
「隣の席の、髪の長い女子が、ゲロ吐きました」
もちろん、嘘である。
「え!まさか、いつも仲の良い、永伽さんの事?」
「そうです。あと、仲良くないです」
「大変… !」
「田中くん、無毛くん、少し待っててもらえる?」
ハゲが頷くと、しずえ先生は一瞬、縦に跳ね上がる謎の動きを皮切りに、すぐに教室へ飛んで行った。
閑静とした廊下。しずえ先生がいなくなった今、カズトは、目的の田中くんの前に行き、冷然と彼の正面を見据えた。
「田中」
ところが田中くんは、呼んでも、つついても、引っ張っても、反応がない。
何やら、田中くんは俯いて、影を落とす床の一点だけを見つめている。その視線の直線上に、手をかざして振ってみても、特に反応はない。
「咎木、そいつ、さっきから何も喋らねぇよ」
今まで黙っていたハゲは、気怠げに口を開いた。
「なんでだ?」
「さぁ…。ていうか、お前、何しに来たの?」
「それは、これから俺がやることを見ていてくれ」
「はぁ…」
困惑するハゲを他所に、カズトは、"これからやること"の遂行に意識を向ける。
多少の緊張はある。
しかし、しずえ先生が大怪我する原因を生み出した田中くんに対して、あるのは、ただの、何の変哲もない怒りである。この世の不当に対して、誰もが当然に抱くであろう感情と一緒のものだ。だから、田中くんを殴るのには、何の躊躇も罪悪感もない。
「田中、こっちを見ろ」
やはり、無反応。
しかし遠慮はしない。カズトは、軸足とする脚を踏み込んで、目の前の的、田中くんの顔へ、容赦なく拳を打ち込んだ。
「 …っ 」
拳をモロに受けた田中くんは、あっけなく体勢を崩して、尻もちをついた。
「…痛いか?」
カズトは、田中くんを見下ろして尋ねるが、やっぱり無反応でいる。
田中くんの表情は影に飲まれている一方、ぽたぽたと雫の音が静寂を伝わった。
この痛々しい一部始終に、ハゲは顔を皺くちゃにして目を背けた。
「…おい、咎木、何してる」
「見ての通り」
「……」
「な、もう、やめとけって」
カズトはハゲを無視して、しゃがみ込み、田中くんの胸元に、手を伸ばす。
胸ぐらを掴んだのは、初めてだった。案外、便利な行為だと思った。
そして、胸ぐらを掴んだところで、次の暴力のために、反対の手で拳を握って、振り上げる。
その時だった。
「 …ひひひ」
真っ暗な影の曖昧模糊に潜む田中くんから、不気味な笑い声が漏れ出した。
「何だこいつ」
カズトは、この笑いを嘲笑だと受け取った。
振り上げた拳をさらに硬く握りしめて、さっきよりも力を込めて、嘲笑を殴る。
今度は、ぐちゃり、とか、ひどく生々しい音が鳴った。
「はははは」
それでも、壊れたぬいぐるみ玩具のように、不気味に笑い続ける存在に、カズトは再び拳を準備する。
「何が、そんなにおかしい?」
そして、今まで、カズトの暴力の成すがままに従っていた田中くんは、ゆっくり、ゆっくりと、上半を起こす。カズトは警戒を強めて、拳をいよいよ振り上げた。
「ありがとう… 咎木くん」
そして、影から這い出る田中くんの顔。そこには、血に塗れた笑みがあった。
……
「何、言ってるんだ…?」
不可解な笑みに、不可解な言葉。
田中くんの笑顔は、さぞ幸福そうに見えた。
暴力が振るわれたというのに、虚ろな瞳は閉じられ、頬は弛み、口元は無理なく緩んだ、お手本のようなにっこり笑顔を、カズトに向けている。何よりその瞳の奥には、ロングっ子と違って、ねっとりとした嘲りは見出せない。
カズトが眉を顰めて、しばらく、この奇怪を見つめていると、ふと、そういえば、笑顔というものについて思い出した。
邪な笑みを浮かべるロングっ子にしろ、2 組の輩が飛ばす嘲笑にしろ、モブ子の苦笑にしろ、しずえ先生の公共上の笑みにしろ、カズトを取り囲む笑顔は、すべて本来の笑顔から逸脱した、偽物だ。
本当の笑顔とは、そうではない。笑顔は、嬉しさ、喜びから、温水のように純粋に湧き上がるもの。こんなこと、誰だって知っているかもしれない。しかし日頃、偽の笑顔に囲まれるカズトにとって、笑顔は、相手を不快にさせたり、相手に取り繕ったりする道具でしかなかった。
ここに先程、カズトが田中くんの笑みを「嘲笑」と誤認した訳がある。
「ふぅ…」
嘆息。これでハッキリした。なぜかは知る由もないが、ともかく田中くんは、嬉しいから、喜んでいるから、笑っている。
…であれば、カズトの遂行する暴行には、教育や罰の意味を持ち得るのか。
どれだけ殴っても、喜びに還元されてしまうのであれば、一体この行為に何の意味があるのか。
カズトは悔しげに目を閉じて、
「……不毛だな。やめた」
しぶしぶ拳を下ろす。
「まぁ、それが無難だわな」
隣に垂らされた、ハゲの手。しかし、カズトは、それを無視して、自力で立ち上がった。
さっきから、冷たい冬の外気が、拳に触れて、じくじく痛む。カズトは、血がこびりついた拳をじっと見つめて、
「なぁ、ハゲ」
「その呼び方やめろ」
ハゲは、一瞬カズトを睨み付けた。
「無毛、ハンカチ持ってないか?」
「苗字変えてぇ…」
ハゲはため息を零して、両ポケットを漁る動作を繰り返す。
「あー、持ってない」
「汚な」
「持ってないお前が言うなよ」
ハゲは声を荒げて、再度カズトを睨み付けた。
が、ハゲは、幽霊でも見たのか、細い目をカズトの方へ向けたまま、徐々に見開いた。
「なんだ?」
「…おい、後ろ」
「……るな…」
カズトの背後から、死んでいく蚊の鳴く音がした。まだ冬だというのに、もう虫が活動し始めたのか。
「……やめるな…」
いや違う。そんなわけがないだろう。これは鳴き音ではなく、明確に田中くんの声だ。
カズトの中では、もう終わった"田中事変„だと言うのに、一体何の用なのか。仕返しなのか。ゾンビなのか。
鬱陶しげに、カズトが、ふと後ろを振り返ると、
突如、直ちに視界に迫った拳。
「ぐ っ ぁ !」
あまりの想定と現実の格差に、この一瞬では状況の理解が及ばす、田中くんの拳を、ただただ喰らうしかない。顔面で膨張するその衝撃に、カズトは、その場から弾かれて、倒れ込んだ。
痛みに悶える暇もなく、カズトを見下ろす黒い影、田中くんは、カズトの体の上にのしかかり、拳を用意した。
「僕を殴るのをやめるなぁぁぁぁ!!」
廊下には、田中くんは無理解な叫びが響き渡る。
「だめだろぉぉ!咎木くぅぅん。君は、僕のことをちゃんと!殴っていなくちゃぁぁ!」
田中くんは、カズトへ向けて、両拳を何度も何度も、でたらめに、無作為に、振り落とす。
この暴走に、ハゲは懸命に止めにかかるが、田中くんはついに全身で暴れ始めたため、断念に迫られる。
「ほら咎木くん、僕にやり返せよ!でないともっと痛いよ?ほらほらほらほら」
田中くんの膝に押しつぶされて、下敷き状態にあるカズトは、両手を云々して、必死にその身を守る。
しかし、結局、田中くんから炸裂する暴力は、滅茶苦茶で、顔に、首に、胸に、腹に、腕にと、無差別だったため、防ぎようが無かった。
「僕を殴れ!早く殴れ!今すぐ殴れ!」
屈辱だった。
だって相手は所詮、変態野郎なのだから。
そして、しずえ先生に迷惑をかけて、大怪我させる原因を作った最悪なのだから。
そういう奴だ。どうせ、日頃から、しずえ先生のことも、不適当な目線で見ていたのだろう。
でも、しずえ先生は、なぜか、こいつに優しい。だから、今さっきこいつが教室を出る時だって、ちゃっかり、背中なんか、優しく押してもらっちゃって。
それなのに、こいつは、好き勝手に暴力を振るう。
なんて、強欲で、図々しい奴なんだ。
こんな、ふざけた奴に、自分は、負けなくちゃいけないのか。
いやだ。
そんなの、 いやだ。
いやだ、いやだ、いやだ。
いやだ。拒否する。受け入れられない。
…
……
「……ふ ッ ざけんな ぁ ーっ !」
カズトは、下から田中くんの顎へ、思い切り頭突きした。その効果は絶対な様子で、白目になった田中くんは体を反らした。生まれる隙。その隙に貪欲に食らい付こうと、カズトは、田中くんの胸ぐらを掴み、また引っ張って、乱暴に横に退く。
続けてカズトは、田中くんに跨って、まずは一発、頬を殴った。
「おまえ、ふざけんのも大概にしろよ !」
カズトが上で、田中くんは下。
一方的暴力体制が完成した。
「おまえは、しずえ先生に発表、褒められたり」
ーーそうだよ。それでいい。僕を殴って。
「おまえは、放課後活動なんかも、しずえ先生と一緒だったり」
ーー殴って、殴って、殴って。
「おまえは、あんだけ、しずえ先生に良くしてもらったのにさ ぁぁ !」
ーーもっと、殴って、殴って、殴って、殴って、あ! 殺して!
田中 シイは、笑った。
咎木 カズトは、その笑顔を何度も血で塗り潰した。
………
臺顏惡戀顯ぁX奥ヲ
84:クロ hoge 天枷事件:2022/02/10(木) 18:50
ーー 僕が好きな子は、無毛くんの双子の妹さん、無毛 ハツ さんでした。僕の友達で、卒業式にこの気持ちを伝えようと思っていました。
ーーー 大人しいけれど、時々笑う姿が本当に素敵でした。
ーーーー でも、最近はその笑みも見れない。噂によると、深刻な心の不調で、入院しているとのことです。
ーーーーー サキュバス事件以来、僕は、あの子のことばかりを考えていました。勉強も、体育も、友達も、幼馴染も、親の信用さえ失った僕が、生きてこれたのは、嘘偽りなく、あの子のおかげだと言い切れます。
ーーーーーー だけど、僕は、無毛くんに教えられました。
『 前に妹にトラウマがあるって言ったよな 』
『それはな…』
『 数年前、世間を騒がせた xx市 幼女監禁強姦事件 』
『 あの事件の被害者が、俺の妹だから 』
『 そして、そのトラウマのトリガーを引いたのは、サキュバス事件を引き起こした、お前だ。変態野郎』
『 俺の妹は、お前のせいで入院したんだよ』
ーーーーーーー その瞬間から、僕は本当に生きてる価値がないことを悟りました。僕は苦しんで、死ぬべきだと悟りました。
……
あれから、顔面に降り注ぐ暴力の嵐を、田中くんは喜んで受け入れていた。拳が下され、上がる過程を踏まえるごとに、田中くんの顔面は、傷が増え、ひどく劣化していく。唇の切れ目に、妙な方向に曲がる鼻、顔の皮は破け、言わずもがな、血はとことん噴出した。
「おまえみたいなクズのせいで !」
その暴力を繰り出して、田中くんを猛然と殴るカズト。
「おまえみたいな変態野郎のせいで!」
殴る。殴る。
「おまえ みたいな、薄汚いヲタクのせい で !」
殴る。殴る。殴る。
「 先生が怪我しちゃったじゃないかぁぁ ぁ あ !」
ーー もう、ぐちゃぐちゃだ。
田中くんは、呼吸の有無さえ分からないくらい、微動だにしなくなった。
しかしそれでも、未だ、カズトは、執念深く拳を振り上げた。
その時、
「おい… 咎木、」
全く意識の埒外だったハゲの声が、カズトの逆上せた意識の中に入り込む。
やけに冷静な声だった。
「後ろ…」
ハゲが言った通り、カズトが、後ろを振り向くと、
「咎木くん……?」
すぐ後ろには、しずえ先生が立っていた。
床に広がる血溜まりが、先生の上履きに届いた頃。
「何を、してるんですか?」
この惨状を見下ろす、しずえ先生の顔には、いつもの笑みはない。
カズトは、先生から受けた質問に、息を切らしながら、答える。
「はぁ、はぁ…見ての通り、ここは、学校ですから、…田中くんに教えています」
「何をですか?」
金属のように冷たい声だった。
「…しずえ先生の痛みをです。田中くんは分からないようだったので、僕が教えています」
カズトの答えに、しずえ先生の表情は、化物を前にしたみたいに、大袈裟に引き攣った。
以来、先生は無言で動き出す。血だまりを躊躇なく踏んで、田中くんから、カズトを強引に引き離した。カズトは、赤色が広がる床に尻もちをついて、たった今の現象に呆然とする。
そして、しずえ先生の方へおずおず視線をやると、カズトは自然と唇を噛み締める。
しずえ先生は、 田中くんの母親でもないのに、彼を何かから守るように、ぎゅっと抱き寄せている。
それを漠然と見つめるカズトは、先生の言葉を待っていた。
「咎木くん」
「は、はぁい!」
少し嫌な予感がした。
「君はまだ子どもだから、こんなこと言うのも、よくないのかもしれませんが…」
「一応、他の生徒の誰よりも、大人だと思ってますけど…」
「まぁ、はい。何でも言ってください」
それでもカズトは、嫌な予感なんて、感じていないかのように、苦笑を作って振る舞う。
しかし先生は、狂人でも見るかのような目つきを一切止めることなく、言う。
「あの、もう、本っ当に、先生に執着するの、やめてくれません…?」
ちょうどチャイムの音が鳴った。静寂だった廊下に、けたたましく授業の終わりを告げる音が鳴り響く。
しかし、カズトにとっては、別の何かが終わった気がした。
「こんなことする咎木くんが、一番、子どもです」
咎木カズトは、しずえ先生に抱き寄せられていた、田中くんを、ただじっと見ていた。
………
校長室で、何人かの大人に囲まれるカズトは、ちょうど部屋の中央のソファに座っていた。心なしか、カズトは魂の抜けた様子で、ある光景を呆然と眺めているばかりだった。
「申し訳ありませんでしたぁぁ!」
それは、カズトのすぐ足元にある光景ーー髭面のおっさん、カズトの父が、床で土下座しているという情けない絵面である。
土下座なのだから、父の向かい側には謝罪の相手がいる。
相手は、眼鏡が特徴のおばさんだった。おばさんは、面を硬くして、床に平伏すおっさんに対して、ゴミを見る目で、見下ろしていた。
「うちの、カズトが、大変申し訳ありません !」
口を閉ざすおばさんをちらりと見て、今一度、額を地に打ちつける父。相手の許しを得るまで、無限に「申し訳ありません」を繰り返す。
ついに、これに対しおばさんは、強い口調で応じた。
「だから、息子さんに謝っていただかない限りは、一向に許しませんと言っているではありませんか」
父は土下座の態勢からその巨大な図体を起こして、カズトの方へ振り向き、
「…カズト、いい加減、謝るんだ」
しかし、カズトは上の空。曖昧な風景画でも見ているような呆然とした態度はやがて、父の怒鳴り声を誘発する。
「お前、シイちゃんのこと、殴ったんだろ?…女の子を殴った上に、一体何なんだその態度は 」
「それで、シイちゃんの親御さんに謝りもしないだと? ふざけるのも大概にしろ !」
瞬間、パシン っ と平手の音が、空間に響いた。
程なく空間が沈黙になる頃、ある教職員が、父に気まずい様子で伝える。
「あのーお父さん… シイちゃん ではなく、シイ くんです。男の子です」
「シイくん? 女の子じゃないんですか? あー。そうですか。てっきり、名前からして、女の子かと思いましたよ」
「しかしね、うちの息子に限って、そんなことする奴ではないと、心の奥底では感じていましてね、」
「 いやぁ、ともかく、そうですか。うちの息子は、女の子を殴るようなド畜生ではなかった。いや ぁぁ、本当によかった」
「「「 よかった…? 」」」
傍聴する大人たちの疑問が重なった。父は、自分の失言を、周囲のその反応で悟る。
「いえ、あの。…いやぁ ぁ 、しかし、男の子を殴るというのもよくないですね。かすり傷程度ならまだしも、血塗れになるまで、殴るのは非常によくない」
父の胡散臭い喋りに、ある者はドン引き、ある者は呆れ返り、ある者の面には、激しく皺が寄って不快が浮かぶ。
中でもカズトの真正面の、おばさんは表情は、阿修羅のそれと同等の形相だ。
父は強く咳払いをして、気を取り直す。
「…とにかく。カズト、シイくんを殴ったんだろ?だったら、とりあえず、謝らないとな」
「「「 とりあえず…? 」」」
またしても、傍聴者の声が重なる。父は話せば話すほど「ダメ人間」としての本性が露呈していった。
「あ、いや、ね。その、とにかく。謝れ!カズトぉぉ!」
おどろおどろしく居座る厳格な校長先生もため息を吐き、業務用の顔で平静を装い続けるしずえ先生も、若干、眉が歪んだ。
そして、流石に堪忍袋の尾が切れたのか、おばさんは勢いよく、席を立ち上がる。
「もういいですわ。先生方、わたしくは、シイがいる病院に迎えに行きます。咎木さんは、法廷で会いましょう」
おばさんの言動に、父は慌てふためき、部屋の扉の前に立ち塞がる。
「奥さん…」
「これで、どうにかできませんかね?」
父は、小汚いコートを広げ、財布を取り出して、さらに財布の中から、嫌らしい手つきで、数十枚の諭吉を取り出す。
こうして結局、事態を収集したのは、父の財布だった。
……
クロ先生!!なんて面白いんだぁぁぁ!!夢中で読んじゃいました!本にして読みたい!
87:クロ hoge 人類の赤き賜物はあなたを快楽に誘う:2022/07/05(火) 19:19 時刻は放課後であって、したがって廊下には生徒の往来がちらほら流れていた。
校長室からその廊下へ、晴れがましい表情を伴って出てきた髭面中年、その後に死神にでも取り憑かれたような無気力な少年が出てきた。
咎木父子である。
「…あーぁー、51万も取られちまった」
カズトは父を他所に、直ちにランドセルを背負って歩き出す。
「あ、おい。もう帰るのか、父さんにカズトの友達を紹介してくれよ」
父は後ろに続いて、しつこく声を飛ばすが、カズトの足取りは髭面を無視することを固く決意している。
「…カズト。人を殴ったら、謝らないとな」
そのうち父は説教もどきをし始めた。ただ説教の調子には重々しさの欠片もなく、
「いいか。父さんもまだまだだが、社会というのはだな…」
説教だろうが自分語りだろうが何語りだろうが、とにかく無視。幽霊のように力の抜けた足取りでカズトは廊下を進む。
少年の正面では、生徒の流れが道を開けるように左右に裂かれた。何せ、少年は前を向いていない、俯いてぼっーと床を覗くのみ。
加えて、髭面、眼鏡、巨漢、不潔なコート、そんな風貌の不審者が、後ろから謝れ謝れと連呼する構図が目に入る。
これには誰しもが忌避するだろう。
「…カズト。返事がないようだからもう一回言うが、人を殴ったのなら謝るんだ」
「いいか。父さんだって社員をぶん殴りたいと思ったことはあるが、社会というのはだな…」
無視。
「カズト! これで3回目だ。返事をしなさい。人を殴ったら謝ること」
「いいか。父さんだってライバル社の野郎どもをぶん殴りたいと毎日思っているが、社会というのはだな…」
しかし、父のあまりの執拗さからか、ついにカズトの足が止まった。
「カズト…やっと分かって…」
「……謝って何になるっていうんだよ」
「…そりゃあ、謝られた相手は許す気持ちになるだろうよ」
「それじゃあ、そもそも俺は許される必要がないね。アンタと同じように」
鋭い眼光が、髭面に向いた。父はにきびもないのに頬を掻いた。
一瞬、両者の間を流れる沈黙。廊下を通行する生徒たちは、自然と通路の端に寄って、この父子を極限に避けた。
しばらくしてカズトは父に背を向け、歩みを再開する。
なお着いてくる父。
「……」
「…よし、カズト。お前が素直に田中くんに謝れば、何かいいもの買ってやる。その、なんだ、ファミコンとか、買ってやろうか?」
懲りずに父は口を動かし続ける。
「うちの会社の奴らがな〜、ハマり込んでるんだよ。おかげでテン… いや、製品開発が遅れてる…全く」
「で、どうだ?」
「いらない」
「そうか。じゃあ、こんなのはどうだ。お前が田中くんに謝れば、お前の好きな数学の参考書いくらでも買ってやる」
「いらない!」
父はいつまでも一定距離を保って後ろを歩き、廊下中の視線を吸収し続けた。
「…あのさ、俺、先に一人で帰るから」
「待てよ、カズト。帰り、激辛ラーメン食わないか?男と男のやり取りをしよう」
「…いらないって、言ってんだろ ! 」
カズトは、この粘着質な状況を全て振り切る思いで廊下を駆け出した。
『走るな危険』の警告ポスターだらけの廊下を無遠慮に走る。
生徒は衝突事故を避けるため、右に左に避けて、カズトの猪突猛進を許した。
この暴走は、別に父の執拗さだけが原因ではない。むしろカズトの暴走は、きわめて神経症的な、ストレス発散に近かった。
「…なんで、頭から、離れないんだよ!」
校長室に居た時も、出た後もずっと、しずえ先生に言われた言葉がカセットテープのように何度も何度も脳内再生するのだ。
『先生に執着するの、やめてくれません?』
『咎木くんが、一番、子どもです』
脳裏をよぎるのは先生の言葉だけではない。
先生のあの、不審者でも見るような冷たい目、先生の、田中シイを何にも増して大切に抱える姿。
「いらない! こんな記憶、いらないんだよ!」
かかる記憶は当然いくら走っても振り抜けることはできない。
カズトは階段を脱兎のように駆け降りて、1階の廊下にたどり着いた。
そこからもまだまだ走り抜けるつもりで、速度を増すカズトが廊下の角を曲がった先で
「あ、咎木」
忌々しいロングっ子が。
そして、両者は衝突した。
「いったぁー」
衝突によって、ロングっ子は床に腰をついた。カズトの被害は何歩か退くに留まった。
「悪い」
この事態に、カズトは謝罪を一つ残して去ろうとする。
しかし片腕が力強い感触に捉えられたため、その動きは阻止された。
見ると、白い手。そこから徐に視線を移すと、ロングっ子が白い面に微笑を浮かべながら、カズトを見上げている。額は薄ら赤くなっていたが、当の本人は何ら気にせず、
「ねー待ちなさいよ。6時間目の、最後らへん、しずえちゃんが、あたしがゲロ吐いたとか謎のかくう話をさわいで来てたんですけど、あれ、咎木の仕業?」
言いながら、カズトの腕を頼りに立ち上がるロングっ子。声の調子と言い、表情の調子と言い、数時間前の教室での険悪などケロっと忘れている。
こういうところが、光属性の輩の悪しき特質だ。
カズトは睨みを効かせて、未だ掴んでいる白い手を冷たく振り払う。
「その後、咎木が田中のことボッコボコの血塗れにしたって、学年中大さわぎになってたわ」
しかし当然、冷たい対応程度でロングっ子までも振り払えるわけはなく
「ドン引きしてた子もいるけど、ほぼみんな、喜んでたわよ?田中は嫌われ者だから」
「でも、2組のやって欲しいことリスト、引き受けてくれてたらもっとアンタの株上がったのに。ほんともったいないわね」
「…あーぁ、アンタのためだったのに」
カズトが身を翻してから下駄箱へ向かう道中、忌々しいそれは視界の真横にずっと張り付いてきた。
全く、性懲りも無く。
「ねーなんで無視すんのよーー?」
…ねーなんでいつもいつも構うんだ?
今のカズトには、ロングっ子に感ける精神的体力は残っていないため、先の父への対応と同じように無視を徹底する。
が、視界の横から忌々しい存在が消えることはない。
僅かに横を見ると、その機会を窺っていたように謎にダブルピースをしてきたり、謎にノートのふざけた似顔絵を見せてきたり、隙あらばといった具合で、精神的体力が削られる。
結局そのまま、げだ箱エリアまで到着してしまった。
「そういえば、咎木。アンタのパパ目撃したんだけど、仕事何してるの?」
「あ、もしかして」
その瞬間、真横の少女の端正な顔に嘲笑の意志が現れた。咎木カズトの最も嫌う笑顔だ。
「咎木のパパは教祖さま?w」
「そんし〜そんし〜そんしそんしそんし〜って」
……なんなんだ、こいつ。
いつもいつもいつもいつも、ちょっかいかけてきやがって
無視を決め込んでいたはずなのに、下駄箱に伸ばそうとしたカズトの手は止まる。
「おまえ!何がしたいんだよ !」
気づけば、その手でロングっ子の肩を強く突き飛ばしていた。
「いつもいつも、なんで、俺に執着するんだよ !」
突き飛ばして以来、少女から例の笑みが爽快なくらい消失した。
しかし、少女の長い髪の隙間から覗くそれは、哀れなものでも見るような目をしていた。
なんだか嫌な予感がする。
「…ねー、咎木さ、しずえ先生のこと好きでしょ」
………
少女の言葉が耳に入ると、とにかく否定しておかなくちゃいけない激しい衝動に駆られた。
「ちがう」
「ちがわない」
「ちがう っ!!」
「ちがわないの!」
「…っ」
ロングっ子はカズトに詰め寄って、お互いの鼻と鼻がもうすぐ接するくらい近くに至る。
カズトの揺らぐ瞳は逃げ場を失う。
「ちがう…」
こんな時でも、否、こんな時だからこそ、脳内で再生される言葉、記憶。
ーー『咎木くんが、一番、子供です』
ロングっ子の言説を認めてしまえば、その記憶が自分の脳内に粘着していたのではなくて、自分自身がその記憶に執着していたということにならないか。
ーーもしそうだったら、どうする。本当に、どうする。いや、どうするって、なんだ。
頭が、混乱する。
「… はぁ、はぁ……」
胸が痛む。
「…ねぇ、咎木」
全てを見透かしているような少女の瞳に、いよいよ耐えきれなくなった。次の少女の言葉を聞くより前にここから消え失せたくなった。
だから、カズトは逃げ出した。
学校から飛び出して、裸足のゲンではないが靴下のカズトは暴走列車のように駆け抜ける。
あれからすぐに、後ろから、少女が長い黒髪を揺らしながら必死に追ってきた。
「とがきっ、くつーー!」
と、後方で叫ぶ少女から、カズトはより一層速度を上げて逃げる。
「ついてくんな!」
「いや、くつぅ!あと、ランドセル っ!」
精神的臨界点に達したこの暴走少年に、己の靴を履いていない足元事情や、己のランドセルの口がパカパカしている事情など認識する余地もなく、ゆえに、ただただロングっ子が日常名詞を叫んで迫る狂人に思えた。
また、ロングっ子が抱えるカズトの靴も、今のカズトの目には怪しげな玩具にしか映らない。
疑心に囚われるカズトは、この少女から逃れるために、もっと地面を強く蹴って、望み通りの爆走力を発揮していく。
「とがき… 、あんた、っ 、ほんっと、 はやいん、だから、…はぁ…フォレスト、ガンプ…じゃ、ないんだからぁ…」
少女との距離は開いていく。果てる少女は鈍化して、対照的に、カズトの逃走速度は上がっていく。
そんな調子で、交差点を突き抜けて、商店街も突き抜けて、駅前から線路沿いを駆けて、住宅の森を抜け切って、
そうやって、あいつから逃げて、辿り着いた場所。
都会には、珍奇な野原。
辺りは雑草塗れで何もなく、強いて言えば、そこらに立ち並ぶ電柱がカズトを静寂に見下ろすのみ。
「はぁ、はぁ…」
そこで、膝に手をつくカズト。
滴る汗が植物の葉でバウンドする。
「…何やってるんだ、俺は」
もう、卒業前だというのに。
今日の出来事に、白い息を漏らす。
なんか、異様に泣きたくなった。
こういうのを、センチメンタルと言うのか。
最近では高校数学に手を付け始めたぐらい、同年代よりも先の先を勉強している。しかし勉強をどれだけ先取りしようとも、自分には分からないことだらけだ。
しずえ先生の本音に、ロングっ子の意図、そして何より、自分の中にあるこの感情。
「…もう、いやだ」
勉強だけしていた一年前が恋しくなった。
こうなったのは、どうしてなのか。
ふと、カズトは、野原の遥か向こうに流れている川を見た。夕に照らされて、水面は赤く白く忙しなく輝いていた。
茜色の空の下、カズトは電柱の一員にでもなったかのようにボーッと突っ立って川を眺めて固まった。
……
「とーーー … 」
でも、しばらくすると、忌々しいあの声が静寂の中から聞こえてくるのだ。
「がきーー ぃぃ!」
背に、のしかかる憎たらしい重さ。
カズトの体は、前方、緑の地面に大転倒した。
「いってて…」
「廊下でのお返し」
背に覆い被さる忌々しい存在は、耳元でそう言った。
確認するまでもなく、人の背に無遠慮に乗っかかる奴はあいつしかいない。
この瞬間、邪な笑みを浮かべているであろう、あいつ。
「おまえ、なんで、ここが!」
「咎木のランドセル開いてたから、ここまでプリントの道ができてたの」
「くそ ぉぉーー!どけーーっ!」
その事実に悔しげなカズトは、必死に抵抗を試みる。が、相手との間に、今回戦犯となったランドセルを挟んでいるため、抵抗は、カメが手足を横にバタつかせるような、マヌケな絵面を呈する以外何ともならず……途中で、諦めた。
「もう、おまえの好きにしてくれ…」
「おまえおまえって、咎木って、あたしの名前呼んだことないよね?」
「ちゃんと覚えてる?」
「……」
カズトは嫌いな輩には、心の中で、尊厳のないあだ名だけ付けて、本名自体は極力覚えないように努力してきた。
「呼んでよ、名前。そしたら、離してあげてもいいけど」
しかし、その努力も今日で終わりとは。
この少女の名前は、永遠の 永 に 伽 と書いて、ナガトギと読むらしい。
「永伽」
「下の名前は?」
「覚えてな… いたっ 」
後頭部に軽い衝撃が走る。
「下の名前はアカネ!ほら、呼んで」
「アカネ… 永伽 アカネ…」
「そ、あたしの名前は、永伽 アカネ。髪の長い女子なんて長ったらしい名前じゃないの」
「ロングっ子でも、ないの」
え?
「いい? これからはあたしのことは、アカネって名前で呼ぶこと」
そう言うと、アカネは、思ったよりもあっけなく、カズトの背から身を引く。
「ん、これアンタの靴」
そして、視界の真横に靴が丁寧に置かれた。
心身の疲労からなのか、それとも複雑極まった今日という一日からの逃避からなのか、はたまた情けない己への失望からなのか、カズトは、なんだか吹っ切れた気持ちで、三角座りをして沈みゆく夕を見届けていた。
「咎木、帰らないの?」
「帰るけど、今はめんどくさい」
「ふーーん」
アカネは許可なく隣に腰を下ろした。
…なんだこいつ
と、いつものように鬱陶しげに横目で確かめる。しかし、そこには、あの、いつもの邪悪な笑みは浮かんでいない。
「咎木さ、どうして、しずえ先生のこと好きになったわけ?」
代わりに、まじまじと迫るアカネの瞳。
夕の光を取り込むそれは、赤く純真に煌めいている。
「…だから、ちがう。好きじゃないって」
それでも、その二つの双眸は静かに本当の答えを待っていた。
カズトはアカネから目を逸らす。
「い、いや、そもそも、好きって何だよ」
「ふ、咎木、漫画のヒロインみたいなこと言ってるw」
ようやく緩んだアカネの表情。やっぱり忌々しい。ただどうしてか、今はその忌々しさに、居心地の悪さを感じなかった。
「アンタ頭いいのにバカよねー」
「おバカ咎木に好きって何か教えてあげる」
「はぁ…」
もう一つ不可解なことに、いつもは低知能の猿の一匹に見える少女が、今日この瞬間は、極めて大人っぽく見えた。
カズトに言語化困難な「好き」というものを、一体、少女はどう語るのか。無意識にカズトは耳を傾けていた。
「好きって言うのは、えーと、あー… 好きっていうのはー」
アカネはカズトを見てもどこにも答えなんて書いていないはずなのに、眉に皺を寄せるくらい丹念に見続けた。
そうしてアカネは口を開く。
「何だろ」
「お前も分からないのかよ!」
「お前じゃなくって、アカネ」
睨む少女。
「アカネ…」
やはり、こいつも所詮は小学生の端くれであるのか。
「あ、思い出した」
それとも、なんだ。
こいつには好きな相手がいて、この謎の解明が進んでいるのか。
「好きって言うのはね、どんな場面でもその人に執着しちゃうこと」
「しずえちゃんの授業で、誰かがお喋りしてたら、厳重注意してみたり」
「しずえちゃんがいない時に、文句言った子を批判したり」
「しずえちゃんを困らせた子を暴力使って裁いたり」
「とにかく、しずえちゃんしずえちゃんしずえちゃんって、感じで、執着してることを、好きって言うの」
ーー『先生に執着するの、やめてくれません?』
ようやく想起の頻度が減ってきたというのに、アカネの容赦のない言動は、刃みたいなあの記憶を強制想起させた。頭を押さえるカズト。
もう、いよいよ逃げられない。認めざるを得ない領域に達したのではないか。
「咎木、だいじょぶ?」
ここでふと、先に投げかけられた問いに行き着いた。
「じゃあ、どうして、俺はしずえ先生に執着しているんだ……?」
この感情の起源を遡ってみる。
____あれは、たしか、一年と半年前の五月、運動会一週間前の日だった。
五月、燦々と照りつける陽の光が鬱陶しかったあの日。
「はーい、みなさーん、組体操の練習時間ですよー!裸足になってくださいね〜!」
5年 2組の担任、しずえ先生はにぱにぱしてクラスにそう指示した。
校庭に重なり響く不満の声。
それでも運動会というのは、何の権力が働いているのか、当大会を疎んでいるはずの少年少女たちを来るべき日のための忌々しい訓練へ突き動かす。
しかし、
「先生、裸足になるのは反対です」
美しい直線を描いて手を伸ばして抗議する少年がここに一人。
『…うわ咎木だ』
『あいつ、いつも反対してるよな』
自ずと冷ややかな視線が少年、咎木カズトに注がれた。
「…咎木くん」
しずえ先生のにぱ顔には亀裂が入ったように陰鬱な表情が垣間見えた。こんな顔、子どもたちに見せられたものではない。慌てて先生は頭を左右に振り、気を取り戻す。
「咎木くんどうして反対なのでしょう。裸足にならないと練習ができなくなってしまいます」
「はい、分かっています。分かった上での反対です。理由は不衛生で、危険で、それと校庭の砂の感触は気持ち悪いからです」
クラスが騒つく中、しずえ先生はしばらく頭を抱えて唸った。
こういう場合「先生の言うことを聞け」「みんな我慢してる」等の旨で叱りつけて、威圧で従わせる教員が一般的かもしれない。
しかし、しずえ先生はそうした方法は教育ではないと考える教育者だった。先生は修道女のように迷える生徒を穏やかに導く教育者で、対話から始めて相手を納得させるタイプだった。
「よしっ」
反論を待つカズトを目の前に、何かを決めたしずえ先生。
頭の中で決めたことを行うべく空中に脚を上げて、靴を脱ぐ、靴下も脱ぎ取る。反対の脚でも同じように行って自ずと露出するしずえ先生の両素足。
「あの、何されてるんですか。反論がないのであれば…」
「咎木くん、先生も裸足になってみましたが意外と校庭の砂は柔らかくて気持ちがいいですよ」
目の前に示された反証、先生の素足。
カズトは待って損したと思った。
ーーさらに
『校庭の砂、気持ちよすぎだろ!』
『たしかにキモチェェ〜!』
『…砂の感触はきもちいいけど、男子の反応はきもちわるい』
『つまり男子は砂以下』
カズトの反対を封鎖するために次々と先生に賛同する生徒が出てくる。
状況の忌々しさに、カズトはムキになって先生に口を尖らせる。
「先生!気持ちいいはずないでしょう?悪質なデマを流さないでください!大体一万歩譲ってそうだとしてもリスクはあります!」
『一万歩…足だけに。今日、やけに寒くね』
『てめぇのせいだろ』
『もう早く練習しよーぜー』
「はいはーい、皆さん静かに静かに〜!」
そうして再びしずえ先生がカズトに振り返ると、困り顔になって、説得に頭を悩ませた。
カズトは先生が「叱る」や「威圧する」ということが苦手であると知っていた。先生の人の良さに漬け込んだのだ。
カズトが先生の唸り声を聞いて待っていると、
『せんせー!もうめんどくさいんでオレたちが脱がしてきますよ!』
生徒の中から燦々と陽気溢れる輩がずらずら出てきた。
リーダー格がそう言うと、しずえ先生の許可を待つことなく輩は動き出した。
「えっ、ちょっと、みんな…!?」
戸惑う先生を他所に置き、連中は獲物を狙う肉食獣のようにまずカズトを取り囲む。
「なんだ?おまえら。触るな!触るなって、おい!」
次にカズトの体を何人かで力付くで取り押さえ、抵抗の余地を圧殺。残り何人かはカズトの靴に忌々しい手を伸ばす。
「先生!先生は独裁者ですか!こんなの許されません!人権侵害です!早く、止めさせてください!」
一連の乱暴を前にあたふたするしずえ先生。
カズトの必死の訴えは体に群がる輩のせいで、また騒々しいクラスのせいで先生の耳には届かない。
「こんなの人権侵害だ!人権侵害!」
「はいはい、脱ぎ脱ぎしよーね、咎木くんw」
混乱の中、何者かの手がカズトのズボンをギュッと掴んだ。白い手だった。その手がどさくさに紛れてこれから為そうとすることは、もう、カズトには分かっていた。
しかし分かっているからなんだというのか。
カズトの体の自由は効かない。無力なカズトを待つこの先の未来はもはや一つ。
「やめろぉぉぉぉ!」
……
結果、未来。
少年少女の瞳に数式が映った。
「……数式模様のパンツ…、?」
しずえ先生は目に入るがままを呆然と呟く。
一瞬、校庭には、いつもは意識しない鴉の鳴き声や車の走行音が聞こえてくるほど、しんと静まり返り、そこに先生の呟きが投じられたことで、誰もが、ズボンの落ちた咎木カズトの様態を理解した。
あぁ、無様に脱がされたのだと。
瞬間、女子の悲鳴と男子の笑声が校庭の上空で交錯する。
「くそ!これだから言葉の通じないヤツらは嫌なんだよ!」
屈辱にカズトは不満を吐きながら、荒々しくズボンを引き上げる。
羞恥を感じるから怒っているのではない。ある低脳に不当にズボンを下ろされたことが許せなかった。
「言葉が通じないのは咎木の方だろw」
ある男子生徒がカズトを笑い物とするクラストレンドに乗じ、そう茶化した。辺りにはくすくすと嘲りが生じる。
「お前、今なんて言った?」
カズトはそいつに詰め寄った。
険悪な空気が漂い始めた。
「言葉が通じないのはお前の方だって言ったんだよ」
「こうやってやり取りできている時点で言葉は通じてるだろ?お前、俺のどこをどう見て言葉が通じないだなんてバカな考えに至った?」
「それは、」
「俺はお前よりも言葉を知っている。俺はお前よりも国語の点数が高い。俺はお前よりも作文で表彰された回数も多い。で、どこをどう見て判断した?」
真正面に立ちはだかるカズトに、その男子生徒は口をもごつかせて後退りした。
カズトは成績優秀であり、中学の学習も先取りしている。到底、平凡な小学5年生では言論で太刀打ちできるはずはない。
今や相手は泣き目。だが、容赦はしない。
これを放置すれば図に乗る輩が出てくるからだ。
「どうした?答えてみろよ。むしろ俺は今のお前の方が『言葉が通じていない』と思うんだが」
煩わしいクラスの方はまるでゴジラ対モスラでも見るかのように面白半分に観ていた。
…今日も少年少女は、正義や理屈ではなく、ただ嘲笑を求める。
カズトは次はお前らだと言わんばかりに嘲笑を睨んだ。
ーー「みなさん!!」
その時、誰もが存在を忘れていたしずえ先生の呼びかけが険悪に割り込んだ。
「先生、怒ってます。咎木くんの靴を強引に脱がしてはいけません。それに誰ですか?咎木くんの体育着を下ろしたのは!」
しずえ先生はすっと息を吸い
「正直に言いなさーい!!!」
皆は、にへら笑いで先生を見ていた。
先生の言っていることは正しい。しかし、これで先生は叱っているつもりなのだろうか。これを「叱る」と言うには勇気が要る。遠くから見れば、この行為はせいぜい近所のチアガールの声出しか別の何かにしか見えない。そんな先生からは何の威圧も感じさせないため、そのうち、こんな舐め腐った生徒も現れる。
「はいはい!先生!あいつがやりました!」
挙手したのは髪の長い色白少女。幼い顔に不釣り合いの、人を苔にするような笑みを浮かべるその少女はある人物を指差した。白い指先が差す方には、ピカリと光るハゲ頭。
「は?俺…?待てよ。今回マジで何もやってないんだが。おい、永伽ィ!テメェ、適当なこと言ってんじゃねぇ!」
「無毛くん本当ですか?」
「ほんとっすよ。な、お前、見てたよな?えと、名前は…」
無毛と呼ばれたその少年は、自分の真横の物静かな少女に助けを求めるも、少女の体育着にかかれた『日向』という名前が読めず
「えーと、ひこうさん?見てたよな?な?」
陰気な雰囲気漂う少女、日向ひなたは目立ちたくない一心で俯いて存在感を消していく。
・・・
しずえ先生は、これをノーと受け取った。
こうして「咎木のズボンを脱がしたのは無毛」という唯一の証言のみが有効となって判決は確定する。
「無毛くん、あとで職員室来てくださいね」
「俺じゃないのにぃぃ!ぴぇぇぇぇ!!」
ハゲはその場で発狂した。軟体動物のような発狂だった。クラス中は笑った。
どうやら、この強烈な印象の発狂で先のカズトの険悪は忘れ去られたらしく、一先ずクラスは落ち着き始めた。
その区切りにしずえ先生は腕時計を確認する。
「ああっ!もう15分も過ぎています!」
校庭に歓喜の声が上がる。
「やったーではありません。組体操の練習しますよ」
校庭に不満の声が重なった。
「はーい、それではみなさーん。決められたペアになってくださいね〜」
先生がそう言うと皆は気だるげな返事を上げて、ペアになっていく。
校庭が整然としていく一方、カズトはその場から一歩も動かずに突っ立っていた。
「咎木くん、今度はどうしました?」
「ペアがいません」
「あっえーと、咎木くんのペアは……」
「田中シイです」
カズトがその名を口にするとすぐに、クラス内には田中くんに関しての話題があちこちで噴出した。
『仕方ねぇよ。なんたって田中くんの父ちゃん外務大臣なんだから。田中家は今ドバイだろ?』
『外務大臣の息子で英語話せて金持ちで発表上手くて女子からモテて将来有望とか、いい加減にしろよな!!』
『田中最強!田中最強!』『咎木最弱!咎木最弱!』
校庭を見渡すと、田中くんを褒める声、田中くんを羨やむ声、田中くんを貶める声など、クラス内で田中くんがトレンド入りしていることは明らかだった。一気に校庭中は騒々しくなっていく。
多弁な駄弁。そんなクラスに、眉を顰めるしずえ先生は一呼吸して、両手を叩いた。
「はいはーい。みなさーん、一旦お喋りはやめましょうね〜」
今の一声で、せいぜい二割ほどか、無駄話が落ち着いたのは。
先生はクラスの現状に溜め息をこぼして、カズトの方へ再度振り返る。
カズトは次に先生が口にするであろう言葉をなんとなく予想できていたため、すでに靴に手を伸ばしていた。
「では咎木くん、先生と組みましょうか」
「え」
予想外。思わず、靴を落とすカズト。
この場合、仕方なく見学になるのではないのか。
正面を見ると、しずえ先生がきょとんとしている。一体何が問題なのかという面で、首を傾げている。
「え!もしかして咎木くん、先生と組むの嫌ですか?」
「嫌です…」
「ひどいです!」
しずえ先生は、稲妻にでも打たれたようにショックを受けていた。
程なくして、先生は「どうしてですか」と、焦るように足踏みを繰り返した。
ここで内心、足踏みをしたいのはカズトの方だった。
しずえ先生と組んだカズトを待ち受けるのは何か。そんなことは決まっている。
さっきまで論争気味だったしずえ先生と咎木カズトの異色の組み合わせ。こんな不格好で無様な組み合わせは無いだろうと、クラスの連中は嘲笑の餌にしたいと思っている。事実、皆の口角はもう既に、吊り上がっている。
「しかし咎木くんがそうは言っても、ダメですからね!運動会の日は刻一刻と近づいてきています!」
かといって、残酷なことにカズトには巧妙に拒否できる理由を見つけることもできなかった。成績は落とせない。だが抗議も自分自身が裸足となってしまった以上、続行できない。詰んでいる。
「はい…」
ーーそれからこの時、カズトは人と人との接触[コミュニケーション]を極度に嫌悪するという、子どもの世界で生きるに当たってあまりに不適格な人材だった。
しかし、まだまだカズトは子どもの世界で生きていかなくてはならない身。そうである以上、カズトの意思がどうあれ、子どものためにデザインされた規範、空間、道具、人、権限、シナリオに基づいて状況は機械的に進められていく。
カズトは小さくため息を零して、忌々しい訓練へ臨んだ。
数分後
組体操用の音源が流れ出して、従順な皆はブリッジの構えを取り出す。
そして、その生徒たちに混じる唯一の大人、しずえ先生もブリッジを作った。
目の前の光景にカズトは何か強烈なむず痒さを覚えた。
「咎木くん!さぁ、早く、先生の上に乗ってください!」
神妙なくらい、先生は他の生徒の誰よりも熱心に取り組んでいる。
クラスの一人一人は、カズトの動向をニヤついて見ている。
当のカズトは死んだような顔をしている。
「咎木くん?どうかしましたか?」
これから、いわゆるバベルという技を完成させるために、しずえ先生の膝の上に、足を乗せて、手は、先生の肩辺りに置かなくてはならない。
もっと大まかに理解すれば、その技は一人のブリッジの上にもう一人がブリッジする構図だ。
「いえ…」
周りの嘲笑を受けながらもカズトは目の前に集中する。
頭に浮かぶ想定に則って、手を乗せて、そしてゆっくりと足を乗せる。
しかし、真下の支えは思った以上に心細かったため、しずえ先生に自身の全体重を素直に信託することはできなかった。そのため意図せずとも、腕はぷるぷると、脚はがくがくと震えてしまう。
「だから嫌なんだよ…」とカズトは小さく不満を零した。
カズトは一人競技に関しては、次の中学時代を期待させる才を発揮したが、二人以上の競技に関しては、屈辱なことに全くのペケだった。
他者への信託、苦手分野である。
「咎木くん、もしかして苦手なんですか?」
「に、苦手じゃないです」
図星を突かれたカズトは反証しようと体に力を入れて平衡を保つ…が、不器用に積まれたジェンガのように、ぐらついた。
どうして皆、他人なんかに自分の体を任せられるのか。
「大丈夫ですよ」
そんな時に先生はパッと無責任に姿勢を崩した。つまり、先生は手や脚から力を抜いて、ラフに寝そべる体勢になったのである。
「うあっ!」
言わずもがな、支えを失ったカズトの体は自ずと先生の身体に落ちた。何が大丈夫ですよだと怒りを抱いた。しかしすぐに背は、何かクッションのような(それにしては例えばゼリーのように密度が充実しすぎているような)、とにかく不可解な柔らかさに受け入れられたため、落下しても身体的な支障としては何ともなかった。
「ほら、ね?落ちても先生の体の上なので、大丈夫だったでしょう」
たしかに大丈夫だが、…大丈夫じゃない。
体の背面には柔和な感触が依然としてある。その感触に沈んでいると、一体なんなのか、言語化できないむず痒いものがカズトの感情を逆撫でる。
その後も続け様に、しゃちほこだとか、ツインピークスだとか、ひたすら文科省への恨みが募るばかりの技を遂行しなければならなかった。
技を完遂させようとする度に、カズトの苦手が自動発動して、先生の身体に無様に落下する。それで着地時には若干ぽよんと跳ねて、説明しづらい謎の柔和な感触に体が包まれるのである。
もちろんその都度、クラスの連中の笑い声が付いて回るのは言うまでもないが。
「咎木くん、体は落ちても、気持ちまで落ち込まないでくださいね。周りなんて気にしちゃだめです」
不思議と、しずえ先生が心配するより、嘲笑に対する憎悪は湧かなかった。
今はそれよりもカズトの頭の中を占拠するのは巨大なクエスチョンマークだった。
ーーなんだ、これは? なんなんだ、これは?
何度も落下した。何度も崩れた。何度も失敗した。
失敗の都度、本来この体が受けなくてはならない責任を頼んでもいないというのに、しずえ先生の身体が優しく引き受けてくれた。
「大丈夫ですよ、咎木くん。先生がちゃんと受け入れますから」
羞恥もある。罪悪もある。不安もある。
しかし、それよりも段々とカズトには、何か別のむず痒いものが胸の内を這う感覚にじっとしていることができなくなった。
「…あの、先生!」
思わず、カズトはしずえ先生を呼んでしまった。
何の意味があって先生を呼んだのか。
胸の内を這う感覚はまだ続いている。どころか、傍聴している。
「咎木くん、どうしました?」
「あ」
何かを伝えるために話題を探っていると、ふと、カズトは重大な事実に気づいた。
自分が何の違和感を持つことなく、その人を「先生」と呼んでいた事実に、気づいたのである。
………
『咎木カズト…なんて一年生なの!あなたのせいでクラスはめちゃくちゃよ!』
こんなのが、先生と呼ばれる存在なのか。
『せんせーがカズくんにさからうからいけないんだ!』
『せんせー!カズくんがいったみたいに、しゅくだいだす、ごうりてきこんきょをのべよ!がはは!』
ーー ーー ーー ーー ーー
『咎木くん、あなたはもう二年生なんだから目上の人には敬語を使うのは当たり前って分かりますよね。咎木くんのような人を、傲慢と言います、傲慢』
お前がな、小学38年生。
『カズくんがいればクラスは最強だぁ!』
『カズくんさいきょう!さいきょう!』
ーー ーー ーー ーー ーー
『咎木くんこの問題をただちに解きなさい。咎木くんは3年生ですがひじょうに頭が良いのでね、中学の問題もただちに解けるでしょう。しかし、ただちに解けなかったらただちに先生を侮辱するような発言はただちにやめなさい』
『先生!咎木くんはきっと頭いいから中学の問題もただちに解けるよw』
『そーだそーだw』
あ、分かった。
ーー ーー ーー ーー ーー
『咎木ィ!4 年3 組の邪魔すんな。せんせぇの言うことを聞けないんなら廊下に立っとけやぁ!』
『そうやで、咎木!バケツも忘れずにな!w」
『咎木の味方してる奴は将来、カルト信者やでw』
こいつら、言葉が通じないんだ。
ーー ーー ーー ーー ーー
どうせ5年になっても…
「こら、みなさん!咎木くんの悪口を言うのはやめなさーい!」
『しずえせんせー、こんな奴、相手するだけでも時間の無駄ですよ』
「時間の無駄なんかではありません」
「先生と生徒は対等なんです。対等である以上、一方通行ではいけないんです!」
いや…この人は、少しだけ、言葉が通じるかもしれない。
………
小森しずえ
新人気質で、人に甘すぎる大人。
それで間が抜けていて、いつもその抜けを補うよう必死でドタバタしている。だから威厳がない。鈍臭い。生徒から舐められやすい。
さらに「怒る」とか「叱る」ことには気弱ときた。これでは生徒は調子に乗り続けるばかりではないか。
まだある。先生は感情がすぐ表に漏れ出てしまうため、とりあえず、にぱ顔という公共上の笑みを顔面に貼り付けて、「みなさーん」と、これまた決まったフォーマットでクラスに呼びかける。NPCを演じるように、ぎこちなく。
要するに一般的な大人像からしてかなり不器用な人なのだ。
しかし、小森しずえは「先生」と違和感なく呼べる存在だ。
思い返して見れば、悪いものは悪いと断罪する真っ当な感性を持つ。
それから何事にも生徒と一緒に熱心に取り組み、ややもすると生徒よりも熱心に取り組んでいる。その姿は嘲笑に見舞われるだろうが、自分のことに必死すぎるあまり、周りが見えていないという鈍臭さのおかげで、奇跡的にその災いからは救われている。天性だ。
何より他の教師と違って、しずえ先生は、権力でも、権威でもなく、言葉を使う。はじめに言葉ありきで、対話する。相手を受け入れることから始める。
ーーしずえ先生から言わせれば、先生と生徒は対等なのだ。
カズトはしずえ先生の落ち度ばかり探していたため、この点が全く盲点だった。
対等、その二文字を想うたびに躍動する。
カズトは初めて人と対等になれるかもしれないと予感した。
ひょっとして、さっきから胸の内に感じていたものは、この予感というやつなんじゃないのか。
「咎木くん、ぼっーとしてますよ。もしかして具合悪い?」
カズトは引き潮のように先生の体から退いて、校庭の砂の地面に膝を落として正座した。
薄茶に染まる体育着。騒つき始めるクラス。目を点にする先生。
「先生!」
「さっきはすみませんでしたっ!」
カズトは上半身を振るい落として額を地に着けた。土下座が完成する。
「えっ、えっ?」
しずえ先生は混乱していた。カズトの謝罪が伝わっていない様子だった。カズトはもどかしく口を震わせて
「…いや、さっきというか」
「今までっ!ずっと反対ばかり、すみませんでした!俺は、傲慢でした!!」
再び、土下座。
ひそひそ、ざわざわと、校庭に下馬評が広がった。
『…おい、見ろよあれ、』
『数式パンツが土下座してるぞ』
『しずえ先生があの咎木をクップクさせてる!』
『…強くね?しずえ先生』
何しろ、校庭のちょうど中心で、あの傲慢少年が土下座しているのだから。
カズトの行動は周囲には奇行としか映らないだろう。ひいては、憎き少年少女たちの頭の中に、あらぬ妄想滑稽劇を次々量産するきっかけとなる以外にないだろう。
しかしカズトはしずえ先生との間だけに、言葉が通じる者同士、しっかりと通じ合っているものがあれば良いと思った。
何のことはない。カズトが謝罪をして、しずえ先生がその意を受け取ってどうするか。ただ、それだけに過ぎない。
しずえ先生は答える。
「咎木くんの気持ちは先生にしっかり伝わりました。大丈夫ですよ。先生は気にしていません」
先生はわざわざしゃがみ込んで、地べたのカズトに寄り添った。
「でも、土下座はやめましょうか。咎木くんと先生は対等なんですから」
「はい…!」
やはり、対等、その二文字に胸の内が躍動する。
カズトはその時生じた感情がなんだか照れ臭く、控えめに頭を上げた。
晴れ渡る青空。
そして、眩しい陽光を遮ってしずえ先生は視界に映る。先生は眉を顰めて困っているが、口を緩めてどこか嬉しそうだった。
「さぁ、咎木くん、立ってください」
「練習時間はまだあります。どしどし練習しましょう」
「…はい、お願いします!」
いかなる接触[コミュニケーション]にも欠かせないもの。それは、他者への信託。
自分を信託するに当たって欠かせないもの。それは、対等であること。
数分後
再び、例の音源が流れ出す。
先生は他の生徒と同じように体を曲げて、ブリッジを作った。
あまり、動きはしなやかではないが、相変わらず他のどの生徒よりも熱心だった。
再びカズトは、先生の体の定められたところへ、ゆっくり手を乗せて、足も乗せて、腰を浮かせて、
「頑張ってください!咎木くん!」
先生を信じて手脚に力を込める。自身の体重を預ける。それから、ブリッジを展開した。
すると今度は、手脚は震えなかった。平衡もしっかり掴めた。自分を支えてくれているしずえ先生も心強く感じた。
「咎木くん、上手ですっ!」
素直にカズトは照れた。
「あっ」
しかしその瞬間、油断した。微妙に乱れたカズトの感情が手脚に影響したのだ。手脚に込める力が偏って、せっかく掴んだ平衡も損なって、積み木のようにぐらついている間に、あっけなく崩れ落ちた。
そうして情けないことに、またしてもあの柔らかい感触に包まれた。
カズトは少し悔しげな口調で「すみません」と謝罪を口にした。
先生は首を振り、明るい調子の声で
「咎木くん、惜しかったですね!あとほんのちょっとで完璧です!」
「気を抜かず、次に行きましょう!」
「はい!」
この日、初めて、咎木カズトは人と接触[コミュニケーション]していたいと思った。
『…なんか、しずえ先生と咎木、親子に見えてきた』
『違うんだよ。咎木がどことなくマザコンな雰囲気漂ってるから、そう見えんだよ』
あと、それから、
「おい、おまいら!喋ってないで、しずえ先生の指示通り、真面目に練習に取り組めよ!」
カズトの頭のネジが外れた日でもあった。
夕は沈み、辺りが暗がりに満ちるまで。
防犯灯の、か弱い灯の下、カズトはあの日のことを話した。
するとアカネは少し考え込んだ後、不敵に微笑した。
「咎木、あんた、それ…好きとか、恋愛とかじゃなくって性欲じゃない?」
不可解な発言に訝しむカズトは「せいよく?」と聞き返す。
「うん。だってこの話ってさ、よーはしずえちゃんのおっぱいに接触した時にこの人のこと好きだ!って悟った話でしょ?」
「性欲じゃん」
なるほど、こいつはこう言いたいのか。咎木カズトは先生本人ではなく胸で判断したと。大切な記憶をこうも愚弄するなんて。無性に腹が立ってきた。
「はぁ?気持ち悪い解釈するなよ」
「じゃあどんな解釈すればいいのよ?」
それに、あれだけ長々と話したのに全然伝わっていないことが、ひどくもどかしく
「だから!あの日、俺は先生となら対等になれるって気づいたんだよ。だから純粋にそういう風に…」
「いみ分かんない。素直にしずえちゃんのおっぱい必死に追っかけて1年以上ずっと粘着してましたって言えばいいのにw」
話せば話すほどアカネの理解は悪化した。その象徴に今ではすっかりアカネの顔にはいつものあの笑みが浮かんでいる。
「…はぁ」
必然のため息。
やはりこいつには言葉が通じない。
しかし、ロクでもない奴だと分かっていたのに、ペラペラ話してしまう自分も自分だ。
一体アカネに何を期待していたのか。全くセンチメンタルというのは恐ろしい。自分の敵すら懺悔を聞き入れる司祭のように錯覚してしまうのだから。
「もういい…お前に話した俺が馬鹿だった」
さっさと帰ろうとカズトは腰を上げる。
「ねー、待って」
腕が掴まれた。カズトは廊下の時のようにその手を振り払おうと腕を引くが、今回はもう片手でもしがみつかれた。
「は…!」
それから綱引きのように引っ張られた。すると、前に一歩踏み出すより前に、カズトの体は、後ろのアカネのもとに吸い込まれるように倒れ込んだ。
ちょうど、カズトの後頭部はアカネの膝元に落ちた。視界には夜空を背景に逆さになったアカネの顔が忌々しく見下ろす。
「…なんだよ!」
「冗談だってば」
これが冗談?
こんな暴力的なことをしておいて冗談だ?
「ふざけるなよ!冗談で暴力を…」
「ちがくて、さっきの。咎木がしずえちゃんのこと好きな理由」
アカネは珍しく落ち着きのある口調で続けた。
「咎木はずっと対等になりたかっただけなんだよね」
「あたしも少し分かるから」
「だったら、なんであんなふざけたこと言ったんだ」
「…咎木の反応が面白かったから」
普段だったら、このアカネの供述を絶対許さないはずなのに、今は不思議と怒りが静まっていった。
「じゃあもうするなよ」
軽く注意して気が済んだカズトはアカネのもとから起き上がる。
そうして今度こそ帰ろうとした時、後ろからアカネは、カズトを追うように背にだるく絡みついてきて、囁く。
「ね、咎木」
「あんたの恋、手伝おうか?」
今度は何かと思えば、馬鹿馬鹿しい。
「は」
カズトは尻目でアカネを見た。一先ずあの笑みはない。
しかし何の企みなのか。まさか、こいつはここぞとばかりに自分の弱点[センチメンタル]を付け狙っているのか。
無論、こんな提案断るべきだ。それが自明だ。自明なんだ。自明だというのに、次にカズトが口にしたのはその旨ではなかった。
「…いやでも、俺は多分、というか絶対、しずえ先生に嫌われてるから」
自明を打ち破り、まるで助けを求めるかのようにアカネに伝えてしまった。さっきから自分はどうかしている。
「恋は盲目すぎた行動しちゃったもんね、田中に」
アカネは、もう逃げまいと判断したのか、カズトを解放して自信ありげに胸を叩く。
「でも、だいじょぶだいじょぶ。あたしに任しといて」
「こう見えてあたし、経験豊富だから」
まだ小6だろ?そう突っ込みたくなる気持ちを抑えて、カズトは「どうすればいい?」と返した。
アカネは口角を上げて言う。
「咎木がしずえちゃんの好感度取り戻すために、やらなきゃいけないのは3つ!」
カズトは、アカネの話を塾の講義でも聞くように耳を傾けた。
いよいよ自分も末期だと思った。こんな奴を頼りにする以外に当てがないなんて。
しかし、それでも。
アカネ曰く、カズトがしずえ先生の信用を取り戻すためには3つの作戦を行わなければならないという。
各々の説明を聞いたカズトは、この企画の馬鹿馬鹿しさを100パーセント受諾した上で、まず1つ目の作戦を行ってみようと決めた。
それで結果が吉と出れば続行。凶と出れば断念。
そうと決まれば、早速、第1の作戦を実行すべくーー土曜日
カズトは自転車をせっせと漕いで、待ち合わせ場所にたどり着く。
時刻は13時、場所はコンビニ。
「よ、咎木」
「どうも」
先にいたアカネはロングではなく、サイドテールにしてまるで別人のようで人物認識に時間がかかった。他にも平日と種々に変化があって、アカネの休日姿と言えるだろうが、特に興味はないし、面倒であるため注目しなかった。
あまり機嫌の良くないカズトは「で、廃墟はどこだ?」と、アカネにこの先の道の案内を求める。
「咎木、髪の毛ボッサボサだし、数式模様のジャージってw」
アカネは、カズトの真面目な案内要求を無視して「寝癖で彫刻する人初めて見た」だとかほざいて、人の見た目を嘲笑って楽しんでいる。
カズトは半ばキレながら「いいから早く案内しろ!」と急かした。アカネは軽快に返事をして、ようやく歩き出した。
アカネは歩きだ。そのためカズトは自転車を引いて着いていく。
「でもちょうどいいわね。一つ目の作戦はビジュアル変更に関わることだし」
アカネは後ろを着いて歩くカズトを尻目に見た。
普通はこういう場面で、嵐の前の静けさに相応しいやり取りが行われるかもしれないが、相手はカズトだ。
「危ないから前見て歩け!」と注意の声をぶん投げた。アカネはムスッと頬を膨らませて前を向いた。
逆立った神経。
これから実行する作戦にカズトのメンタルは緊迫していた。
「ビジュアル変更」と、その道の業界っぽく言うものの、これから行うことは、全く外道に相当する内容だ。
道徳を説きたいわけではない。ただ、カズトにとって外道のことは未経験が多すぎるのだ。テキストの問題は傾向と対策で予測可能だが、未体験の現実問題は予測不能。
果たして本当に対処できるのか…。
取り止めもない思考を繰り返しながら、町を歩き、坂を上がり、森を抜けて、数十分。目的地である廃墟にたどり着く。カズトは茂みの中に自転車を沈めて止めた。
建物の壁には、スプレーで『アホ』だとか『バカ』だとか、見るに耐えない悪口が書かれていた。
建物は明らかに、不良たちの巣窟だろう。
「ここか…」
「ここよ」
扉を前に、アカネは少し微笑を含んで答える。
二人が前にする扉の内からは喧しい音が閉じ込められていて、盗んだバイクがどうとか薄ら歌詞まで聞こえてくる。
「…そっか、マジか」
その時、手の内に柔らかく熱のこもった感触が入り込んできた。
想定外の知覚に思わず、カズトは飛び跳ねた。
「なんだよ!」
「そんなビビってるなら手握ってあげようかと思って」
「やめろよ!気持ち悪いな!あと、ビ、ビビってねぇ」
行くか行かまいか、アカネと辿々しいやり取りをしている内に廃墟の扉が勢いよく開かれた。
内に閉じ込められていた騒音が一気に飛び出して、不快に、カズトは奥歯を噛み締める。
「誰かいると思えば、アカネじゃねぇかよ。よう」
扉から出てきたのは巨体に学ランを纏い、強面にグラサンをした、おそらく2つか3つか、それ以上か、とにかく年上であろう男。
男の声は、カズトの高いのか低いのか断じ得ない中途半端な声質とは違って、変声期をとっくに済ませた低音だった。
少年と呼ぶには憚れるその男を前に、カズトは刃傷沙汰の覚悟を決めた。アカネは緩く笑みを決めた。
「よ、カッシー」
アカネは自身の肘を、カッシーと呼んだ男に軽々しく向けた。
いつものふざけた調子で相手に喧嘩を売っているのかと思いきや、それを見たカッシーは鼻奥を鳴らして笑った。カッシーは身を屈めて自身の腕を、少女の腕に組ませた。
二人は慣れた身振りで互いの腕を組んだ。
なんだ、しょうもない挨拶か。
全く不良というのは何が楽しくて、意味不明な儀式を挨拶に取り入れるのか。理解不能だ。
それから軽いスキンシップを済ませたカッシーは、覗き込むように真下に視線を落とした。
「こいつは?」
「ほら電話で伝えたでしょ、あたしのかわいい弟」
「おい!」
デタラメを言うアカネに訂正を求めようと思わず声を荒げたが、ぎらりとグラサンが向いたため自制した。
「お、弟のカズトっす」
カズトは控えめな目つきで上を見上げて、グラサンの奥にある鋭い双眸に訴えた。自分は弟ですよ、と。
しばらく不穏な沈黙が流れる。
「へぇ。でも2人とも悪人じみた目つき以外、どこも似てねぇな」
「カズトとはパパが違うの。それよりちょっとぉ、悪人じみた目つきって何よ〜!」
と、媚び媚びのアカネ。何か色々と背筋がゾッとした。
「がはは!まぁ入れ。カズト、本当はオメェみたいな弱そうなチビは立ち入り厳禁なんだが、アカネの弟だから仕方ねぇ」
「こっちだって本当は頭の弱い猿の巣窟なんてお断りだ。作戦だから仕方ねぇ」ーーなんて言えるはずもなく、扉の中へ入るアカネを追う。
アカネは多少の振る舞いはあっても至って平静。あまり、いつもの調子と変わらない。そのことからは、アカネは何度もここに来ていると窺わせた。
カッシーは二人が入り切ったのを確認して扉を閉ざす。
建物内はいわゆるクラブという空間を意識してデザインされていると思われた。
闇の中に轟く爆音。煙草の煙に缶ビール。鼻腔をつんざく妙な匂い。それから不良に不良に、不良。どこを見ても不良がいて、踊っていたり、喧嘩していたり、騒いでいたり。
これが百鬼夜行か。
けたたましい騒音と不良で構成される人混みの中、カッシーは先頭に立って案内する。
「確か、ヨキヒトに用事があるんだよな。ついてこい」
たった今、男の口から出てきた名前の人物こそ、この作戦のキーマン。
決行の時が近づいてきている。
カズトは自身の緊張を解そうと辺りに意識を注いだ。
目に入る壁は外壁と同じく落書きが続いている。下品な文字に下品な絵。そして、ちょうど壁に落書きしているチャラチャラした奴を発見した。
目が合った。睨まれた。少し睨み返してみた。中指をおっ立てられた。
カズトは小走りしてアカネに寄って耳打ちした。
「お前、こんな柄の悪い奴らとつるんでるのか?」
それにここにいるのは不良以前に中学生、高校生。
普通、小学生なんて相手にしてもらえるのか。
「まぁね。カズトもつるみたい?」
「馬鹿言うなよ」
それからアカネは前を向いたっきり、黙ったままだった。
道行く途中「アカネちゃんアカネちゃん」とか「聞いてよ聞いてよ」とか、知り合いらしき不良女子から声が掛けられるため笑って応じているが、今はやけに大人しい。
「なんで、こいつらと、つるんでるんだ?」
ふと、問いかける。
「同い年だとあんまり面白くないから」
前から、そう返事が帰ってきた。
もしかして、こいつも対等を求めているのか。
アカネは不可解に立ち止まった。カズトの方に振り返った。
「でもね、最近は」
ーー「おい、着いたぞ」
両者の間にちょうど低い声が割り込んだ。
何か言いかけたアカネはそこで口を閉ざし、前を向いた。
意識を目の前の現実に切り替える。
「この扉の向こうにヨキヒトがいる。分かってると思うが、くれぐれも刺激してくれるなよ。あいつの腕は確かだが…頭はパーだからな」
「はーい」
アカネは余裕綽々とした返事をする。
カズトはこくりと頷いた。
「それじゃあ俺は見張りがあるからもう行くが…最後にもう一度。くれぐれも奴を刺激してくれるなよ」
そう強く言い残してカッシーは去って行った。すると、カッシーの巨体で見えなかった扉が姿を見せた。
アカネは早速、冷たいドアノブに白い手を引っ掛けた。
「じゃあカズト。開けたら始まるけど、いい?」
カズトは大きく一呼吸して
「いい」
刹那、アカネの瞳は煌めいた。
「アンタのそういうところ、嫌いじゃないよ」
アカネはドアノブを回して、扉を開けた。
「いらっしゃい」
一瞬、お店なのかと思った。
そこは不良の屯する廃墟の一部屋だとは思えないくらいに、椅子や机、美容品が並べてある棚など、整頓されて清潔が保たれている。
おまけに観葉植物なんかも小綺麗にして飾ってあった。
不良と言えば何事もぞんざいで、無骨者のイメージがあるが、カズトがまず一歩足を踏み入れたその空間は、不良のイメージとは真っ向から正面衝突するもので、カズトの中のそうした不良像は少し更新された。
「お久しぶり、アカネちゃん。さぁさぁ遠慮せず入って」
カズト、アカネを内に律儀に招き入れる糸目の少年『鬼川(おにがわ) ヨキヒト』こそ、この作戦のキーマンだが、一見するに清潔感があって、丁寧な振る舞いで、どちらかといえば不良ではなく普通の少年に思えた。
「アカネちゃん、予約通りカットするのはそこの弟くんだよね?」
「そう、名前はカズトよ」
「よろしくね、カズトくん。ぼくはヨキヒト」
「よろしくお願いします」
初めて顔を見合わせた。
確かに不良たちの髪を切って金を稼ぐという点では奇異ではあるが、やはり普通の男子中学生に見える。
アカネが作戦を説明する際、話の中では、ヨキヒトは『暴力沙汰』とか『金銭問題』『ぼったくり』『好色家』『サイコパス』とか、碌でもない名詞ばかりが付き纏う人物だった。
さらに、この界隈では『事件魔』として異名があり、恐れられているという話だが…
「アカネちゃん、そこ、段差があるから気をつけて」
何が事件魔だ。ただの穏やかな男子中学生じゃないか。糸目だからと言って、サイコパスと断ずるのは立派な差別じゃないか。
カズトは過剰に警戒心を高めて、余分な体力を使ってしまった分、なんだか損した気分になった。
「じゃあ、カズトくんこっちにおいで」
ヨキヒトは爽やかに笑んで、カズトを座席まで誘導した。カズトは丁寧な導きに従って指定された席に腰を下ろす。
目の前に設置された鏡に、二人は映る。
「どんな風にカットしようか」
この手に疎いカズトは何と言ったらいいか分からず、とりあえず「平均的髪型にお願いします」と言った。
ヨキヒトは苦笑した。呆れ顔のアカネは口を挟んで
「実は今、弟には好きな人がいてぇ〜」
カズトは余計なことを言うなと憎しみを込めた視線を送った。
一方、ヨキヒトは和やかに笑んで了承。シートをカズトの首元から被せ
「それなら任せてよ。カッコいいカットにしようね。じゃあ少し待ってて。道具を取ってくるから」
そう言って、ヨキヒトは暫く離脱した。
しんと静まり返る空間。
アカネから聞いた話によると、ヨキヒトは、家が代々の美容師らしい。別に、家もヤクザでもチンピラでも無いのだから、多少不良と付き合いのある、美容師を志す普通の男子中学生ではないか、とカズトの中の疑念はますます膨張していった。
なんだか作戦自体に気が引けてきた。カズトは真横に視線を見遣ると、それを察したアカネは片耳を寄せてきた。
「なぁ、作戦だと、これから髪を切ってもらって、次に『金を払わない』って選択しなくちゃいけないんだろ?流石にまともな奴っぽいし、可哀想なんだが」
正直な心境を吐露したら、アカネはまた呆れた表情をした。
「アンタ何も分かってないわね。あたしのこと信じてないわけ?」
「信じてるけど」
「なら、作戦はやるの。…でも、あたしのこと信じられないならやらなければいいだけ」
ーー「…なーにをやるのかな?」
いつの間にか、2人の間をまじまじと見つめていた細長い双眸。
「ぎゃっ!」
「ぴっ!」
ヨキヒトの存在に、両者は心臓が飛び跳ねる思いをした。
驚愕のあまり思わず、カズトの方は「告白です!」とデタラメを言ってしまった。
「そっか、告白もするんだ。じゃあ僕も張り切らなくちゃ、ね」
ーーヴヴヴヴヴヴヴ!
突如、鳴り始めた不快な機械音。チェーンソーか、芝刈り機が持ち出されたのか。
咄嗟にカズトは立ち上がって身構える。
ついに本性を現したなと思った。が、鏡に映るヨキヒトの手をよく見ると、その手が掴むものは小さくて、黒くて、正四面体の物体だった。
…なんだ、ただのバリカンか。
突然慌ただしく立ち上がったカズトに、ヨキヒトは困惑に眉を顰めながら、バリカンを一時停止した。
「どうしたのかな?」
カズトは咳き込む素振りで誤魔化して、席に着いた。
「すみません、ビックリしてしまって」
「そっか。それじゃあ始めようか」
ヨキヒトは大人しくなったカズトを確認して、バリカンのスイッチを再び入れた。喧しい音を鳴らし始めたそれを、カズトの頭の側面に当てがって移動させていく。
カズトは鏡を漠然と見つめて、纏まった黒毛が空しく落ちていくのを眺めていた。
数分が経った。バリカンはずっと頭の側面で渋滞している。
少しやりすぎじゃないかと、バリカンの動きに若干、不審を覚えたが、ヨキヒトには定評があるということを思い出して、文句を言わないよう口を固く結んだ。
見た目に関して自分は無知蒙昧。この手のことは専門性の高い者に任せておくのが吉だろう…
さらに数分が経った。依然として、バリカンはカズトの頭から離れる気配がしない。隣のアカネは「バリカンくんはカズトの頭に齧り付いて、そんなに美味しいのね」と、くすくす笑っていた。馬鹿じゃないのか。
そんなことより、ヨキヒトよ。流石にやりすぎじゃないか。
内心、疑いが強まるカズトは、いよいよ噤んでいた口を開いて
「あの、どんな髪型にしようとしてますか…?」
「ん?角刈りだよ」
「え……角刈り?」
角刈りと聞いて脳裏に瞬時に浮かんだのは、かつて角刈りにされた父の絶望した姿と、北の将軍の恐ろしい肖像。
カズトの面から血の気が引いていく。
「ちょ、やめてくださいよ!」
慌ててカズトはバリカンの進行を阻止しようと腕を伸ばすが、ヨキヒトは華麗に避けてバリカンを頭に当てがい続けた。ついでに煽るみたいに「危ないよ?」とか言っていて白々しい。
ついについに正体を現したか。
カズトの瞳に憎しみが宿ったその時
「ぷっ 」
アカネは急に吹き出して、人の不幸に腹を抱えた。「笑うな!!」と大激怒を飛ばす。
しかし、この時の憤慨するカズトを見てさすがに自省したのか、ヨキヒトはようやく心配する素振りを見せた。
「カズトくん…」
それから、カズトに怪しげに告げる。
「冗談さ」
パッと和かに笑んだヨキヒトは、蓋を開けるようにバリカンをカズトの頭の側面から離した。
すると、いつも通り黒髪が生い茂っていて、その下辺りがちょうど綺麗な刈り上げに仕上げられていた。
「バリカンのレベル、弱だからね」
その言葉を聞いて急速に怒りは冷却に向かっていく。カズトは安堵の息を漏らした。
アカネからは一瞬で憎たらしい笑みが消えた。どうやら本気で角刈りを望んでいたらしい。馬鹿じゃないのか。
他方、当ユーモアを仕掛けたヨキヒトは口元を緩めている。
ここでカズトは再び思った。穏やかで、普通の言動で、若干ユーモアもあるこんな奴が本当に悪名高き事件魔なのか。
「じゃあ、今度は本格的にやるね」
「お願いします」
ヨキヒトは作戦のことなんか当然知る由もなく、黙々と作業に取りかかる。
数十分後
「はい、おしまい」
カズトは折り畳み式の鏡で確認作業を促されて、鏡に映る自分の横髪や後ろ髪を見た。
こういう髪型をなんと言うのか。刈り上げキノコ?とにかく変な髪型で納得のいくものではなかったが、ひとまず作戦だと割り切り「大丈夫です」と応じる。
そう、これは作戦だ。これから遂行すべき内容は決まっている。心苦しいが、次に遂行することは『支払い拒否』となっている。
「………それじゃあ、代金だけど」
急激に心臓の鼓動が早まった。
この鬼川ヨキヒトという男子中学生には「ぼったくり」とか「金銭問題」の名詞が付き纏う。
だから、きっと、次にヨキヒトが口にする言葉は。
「無料でいいよ」
「え」
「嘘…」
カズトもアカネも唖然とした。
何せ、目の前にいたのは、頭がパーとか、サイコパスとか、金銭問題とか、そういう言説とは程遠い、ただの気前の良い少年。予想されていた悪人ではない。
全く、今日ほど、悪を望んだ日はあるだろうか。
遂行内容『鬼川ヨキヒトを刺激して怒り狂わせる』
ーー「ヨキヒトを確実に怒らせるにはね、代金を支払わないことよ。頭がパーなあいつは、今までお金払ってこなかった不良をみーんな病院送りにしてるんだから」
アカネの言葉を思い出した。
何が頭がパーだ、何が病院送りだ、そもそも何が作戦だ。
現実はどうだ。鬼川ヨキヒトは、髪の長い誰かさんが語ったデマとは大外れの、全く穏やかで良心的な男子中学生じゃないか。
しずえ先生の信用を取り戻すため、藁にも縋る思いでアカネを頼ったが、どうかしていた。
第一アカネの作戦が上手くいくとなぜ考えたのか。本当に頭がパーなのは自分の方なのかもしれない。
カズトはそんな思念に一瞬鼻を鳴らして、席を立った。
真横でアカネは曇った表情をしていた。悔しげに唇は小刻みに震えて、握り拳を作っていて、苛立っているようだった。
文句があるなら言ってみろと言わんばかりに、カズトはアカネを睨んだ。
往生際の悪いアカネは顔も見合わせず、無責任に口を開く。
「ふざけんなっ、バカっ!」
改めて同じ中学生になるとは思えない八つ当たりっぷりに腹が立った。「馬鹿はお前だ」と冷たく返す。
「2人とも、いきなりどうしたのかい?喧嘩はいけないよ?」
険悪な空気を察知して、両者を宥めようと年上として計らうヨキヒト。
ここでアカネが睨んだのは、まさに、この、何の罪もない大人な男子中学生だった。
「カズトに言ったんじゃない。ヨキヒト!アンタよ!」
意味不明すぎる。
もともとオンボロな作戦が失敗したことが、そこまで悔しいのか。
「ヨキヒトってさ!髪切るの初心者?まさか、これがマッシュだって言わないわよね?こんなのどう見てもシケキノコだもん。…アンタ、うちの弟がフラれたらどう責任を取ってくれるわけ!?」
「おい」
続けてアカネは、バカ、アホ、田中、マヌケ等、小学生までの間、有効とされる一通りの悪口で謗った。
誹謗中傷を受けたヨキヒトはというと、
「アカネちゃん、悪口はやめようね」
笑顔。ノーダメージ。アカネは絶句した。
まさか、あんな単純な悪口が効くと思っていたのか。
「刺激、受けないじゃん…」
不満を小さく零すアカネ。
なるほど、ヨキヒトを怒らせようという魂胆だったのか。
若干ばかり感心したが、これも徒労に終わったことには間違いない。
カズトはアカネの頭を掴んで、頭を下げさせた。
「うちの姉が大変申し訳ありませんでした。それから、今日はありがとうございました」
カズトも会釈を済ませ、アカネの腕を引っ張って、扉に向かう。アカネはこっちを睨んでいるがシカトを決め込む。
作戦は失敗したのだからもうここに用はないだろう。
室内を少し移動した辺り、背後のヨキヒトは「ちょっと待って」と止めた。
「どうして帰ろうとしているんだい?まだ代償は支払ってもらってないよ?」
不可解な言葉にヨキヒトを振り返った。
ヨキヒトは至って普通。穏やかに微笑んでいる。しかし、どことなく彼の周りを漂う空気の様子は変わった気がした。
「あぁ、カズトくんには言ってないから君は帰ってもらって。僕が代償を求めている相手は君のお姉さんの方だからね」
天候が急激に悪化するように部屋には名状しがたい不穏が充満し出した。
「ほらね」とアカネは急に得意げになった顔をカズトに向けた。
ヨキヒトへの信用残高が残っているカズトはアカネを無視して尋ねる。
「えっと、どういうことですか?さっき代金は支払わなくていいって…」
「あぁ、もちろん代金は支払わなくていい。代金はね。でも代償の方はきっちり支払ってもらうよ。君のお姉さんに」
糸目の少年はそれが当たり前であるかのような口調で要求した。
不信に眉を曇らすカズトは「代償とは…?」
その質問にヨキヒトは黙った。笑いを堪えているようだった。
「あーくるわね、これは」
アカネは何かを嬉々として待っている。
カズトは部屋の中心に佇む不穏な人物を見澄ました。
「…代償はね、アカネちゃん」
ピリピリとした空気が波紋して伝わってくる。
さっきまで穏やかだった人物の糸目は徐々に見開かれて
「おっぱい、見せて?」
開眼。彼の眼光は獲物を狙う獣のそれとなった。
ついに、ようやく本性を現したヨキヒト。
「ほーら、きた」
アカネはカズトに視線を向けた。
その瞳が言わんとしていることは『作戦の続行』だろう。カズトは小さく頷いた。
アカネはすっと息を吸って
「断る!」
きっぱりと要求を拒否。
ヨキヒトは一瞬驚いた顔をしたが、それ以来、開眼した目元には魔女みたいに醜く皺が寄った。
「……あぁ、そう、代償を支払わないのかい。僕相手に拒否する奴なんていないから一瞬、びっくりしちゃった。みんな代償を支払わない奴がどうなるか知ってるからねぇ…」
そう言ってヨキヒトは笑みを浮かべ、おぞましい一歩を踏み出した。
確実に怒っているのだろう。だから、あの笑みは現在を笑っているのではない。奴が想定する陰惨な未来を見て笑っているのだ。
カズトは次の作戦手順を思い返して「行くぞ」とアカネに合図する。
しかし、
「ねぇ、中3が小6相手に何本気になっちゃってるわけ?」
アカネは甲高い声で煽り出した。
作戦では『拒否したら逃げる』が手順のはず。こいつは、まだ相手に刺激が足りていないと考えているのか。なぜ、あの笑みの下にあるのが怒りだと分からないのか。
目線でやめるよう強く訴えても、アカネの忌々しい口は止まらず「雑魚」とか「変態」とか、火に油を注ぐ。
「…僕はね、基本的に思慮深い人間でいようと決めていたから態度次第では乱暴は控えようと思っていたけれど、その必要はなさそうだね、アカネちゃん。君のことは、何があっても許さない。謝ってもしっかりボコボコにするからね。その後は胸も触るし、舐めるし、吸うし。覚悟してよね」
一歩また一歩と着実に近づく恐怖の笑顔。じりじりと焦燥に駆られるカズトはアカネの腕を引くが、何の意地を張っているのか、アカネはまだ動かない。
「あっそ。そういえばあたし知ってるわよ?アンタの歴代彼女、みーんな暴力で脅されてたって。ま、意外にも腑に落ちたけどね。だってアンタ、生理的に無理だし」
ヨキヒトの足はぴたりと止まった。
「………おい、あんま、調子に乗るなよ、メスガキが」
とうとう笑みは消えた。代わりにヨキヒトの面には笑顔の下にあった憤怒が滲み出、般若と化して
「…ぶっこ●す」
ヨキヒトは獲物を捕らえる大蛇の如く急速に動き出した。
「逃げるわよ!」
「遅いんだよっ!」
カズトとアカネは身を翻して駆け出す。
目指す扉はすぐそこだ。ここからあと数回ほど床を蹴れば、迫り来る魔の手から逃げ切れるはず。扉の外にさえ出てしまえば、あとは人集りが有効に働いて逃げやすくなるだろう。
肝心要なのはこの局面。
「ひ…っ!」
カズトの手がドアノブに届く寸前、引き攣るような高い声が鳴った。まさかと、振り返った。
「アカネちゃん、つーーかまえた」
腕が掴まれたアカネ。その後ろで、怪人めいた笑顔がご機嫌に歓迎している。最悪だ。
「いやっ…! やぁっ!」
瞬く間にアカネは怪人中学生の方へ引っ張られた。自業自得だと鼻で笑う暇なんてない。カズトは思考よりも先に伸びた手で、少女のもう片方の腕を、かろうじて、なんとか掴み取った。一先ず確かな感触に安堵するが、アカネを引きずり込もうとする悪意は猛烈を極め、カズトの身体も揺らぐ。このままでは二人もろとも引き込まれる予定だ。カズトは奥の方の片脚に重心を落とし、身体を極限まで後ろに傾けて歯を食いしばる。「痛い痛い!」と喚くアカネ。
「お前が捕まるの早すぎなんだよ…!」
「なんであたしのこと責めるの!こいつが早すぎなだけ!」
アカネが睨んだそいつは「…カズトくんもボコそっか?」と余裕に笑んだ。
穏やかで普通の男子中学生なんて、初めからここには居なかった。
ここにいたのは、まさしく事件魔。『暴力沙汰』とか『好色家』とか『サイコパス』といった名詞が似合うただの悪。
さっき、悪を望んだ軽率な自分を恨む。
「くそッ」
恨んだところでこの状況。
いくら運動神経に恵まれたカズトも年齢の壁は越えられない。ましてや2つも3つも年上の相手となれば。
この体力勝負はいつまで続くのか。
もしかして時間の問題なんじゃないのか。
このままだと、本当に事件になる。
事件になって、それを知ったしずえ先生はどんな表情をするのか。
カズトは歯を食いしばって、アカネの腕を引っ張り続けたが、『アカネ引き』自体はヨキヒトが優勢となっていった。
全力でやって限界がここなのだから全くやってられるか。
思わず苛立ちで「離せよ、暴行罪だぞ!」と罵倒を虚しく放ってしまう。「いやだね」と憎たらしく返ってくる。
「い、いたぃ…」
限界を迎えているのはカズトだけではない。アカネもそうだ。
体の両端から強く引っ張られているのだ。相当な苦痛に見舞われているに違いない。
かと言って、この手を離すこともできない。離して待っているのは陰惨な未来。
離さなくても、離してもダメ。そんな現実「ジレンマ]にカズトの口元は歪む。カズトだって鬼ではない。物理的苦痛に共感するくらいの心はある。
でも、気の狂ったサイコパスは違うのだろう。
「カズトくん、小学生なのに随分と力があるねぇ…じゃあ僕もそろそろ本気、出そうかな」
鬼は一切の苦痛を興味しないのだ。痛みに喘ぐ少女などお構いなしに平気で力を入れる。
軋むアカネの体。ヨキヒトは笑う。
「いたい…ってば…っ」
アカネの目尻から涙が一つ零れた。
…ほんの少しだけ力を緩めて、ひとときの休息をアカネの体に与えてやってもいいんじゃないか。
そんな一瞬の気の迷いが、カズトの手の力を弱めてしまったのかもしれない。手から、するりと、アカネの腕が零れた。
瞬間、少女に作用する引力は片方のみに偏って、今まで成り立っていた力の均衡は一気に崩れた。アカネの体勢は崩れて地に膝を落としてしまう。
悪辣なヨキヒトはこの隙を見逃さない。空かさず、アカネの腕から脚へと、掴む手を移して、蜘蛛が糸を引くように己が元まで引きずり込む。
「やだぁ!咎木助けて!」
カズトは地べたで助けを求めるアカネに目を瞑って、その場から翻った。急いで棚に向かって、武器になるものを求める。咄嗟に目下のスプレーボトルを手に取り、その容器の中へ手当たり次第、美容液やら洗剤やらをぶち込んで混ぜる。
この瞬間もアカネの叫び声は嫌でも耳に入ってくる。
「触んなぁ!変態!」
ヨキヒトは暴れる少女にどっかり馬乗りになって、荒々しく少女の両腕を押さえ付けている。
カズトは急ぐ。
「やぁ、こんにちは、アカネちゃん」
ヨキヒトの笑顔は間近で獲物の顔を見下ろしている。アカネはやだやだと叫んだ。カズトの名を連呼した。
「いいよ、いいよ!アカネちゃん!僕はねぇ、泣いているJSがもう本 っ 当に大好きなんだよ。どうやら、カズトくんは怖気ついちゃったみたいだし……それじゃあ、楽しもっか!」
「こっちを見ろ。楽しませてやる」
真横から、カズトはスプレーボトルをヨキヒトに突きつけた。
振り返るヨキヒトの顔面。引き金を引く。ボトルの先端より、鋭く細かい内容が無数に噴出して、ヨキヒトの顔面へ、ひいては眼球へ向かった。
「ほあぁあぁあぁ!目がぁぁぁあッ!」
顔を抑えて、ヘドバンするかのように上半身を激しく前後させて悶絶するヨキヒト。
この隙にカズトはボトルを投げ捨て、アカネの手を取る。騎乗になるヨキヒトから救出して立たせた。
「早く、逃げるぞ」
カズトはアカネの腕を引いて駆け出す。
横で、アカネは少し泣き腫らしたように目尻の赤くなった顔を向けて「ありがと」と言った。
「あぁ、とにかく走るぞ」
しかし、その時、視界のアカネの顔がイカ墨でもぶっかけられたみたいに一瞬で真っ黒に染まる。何が起きたのか。一時的に足を止める。
漆黒は立ち止まった途端、すぐに剥がれ落ちた。
床を見ると髪の毛、否、カツラがあった。
「やだぁ、きもっ!」
誰のカツラなのか。振り向くと、ピカピカ光る何かが高速で前後している。この場に無毛が見参したのかと思えば常識がその発想をすぐ蹴散らし、ヨキヒトの頭部だと認識する。
未だヨキヒトはヘドバン悶絶に勤しんでいる。きっと勢いのあまり、カツラが飛んでしまったのだろう。
「いや、こんなこと、どうでもいいだろ!!早くあいつから距離を取るぞ!」
アカネはどこかぼんやりとしている。おそらく、先の出来事に衝撃を受けているのだろう。
再びカズトは強引にアカネの腕を引いて、扉の外へ脱出した。
静まり返る部屋に一人取り残された鬼川ヨキヒト。
しばらくすると眼球に停滞していた痛みは引いて、ヨキヒトはひどく真っ赤な目を開いた。
ちょうど視界に入ったのは鏡に映る自分の姿。
この鏡に映る男は今にも立ち上がって、アカネとカズトを捕まえて八つ裂きにしなくてはならない。
そのことは、まさにヨキヒト自身が念願しているところであるが、しかしたった今、ヨキヒトの関心はその望みを一旦差し置いて、鏡に映るある一点の不可解に吸い取られてしまった。
不可解。それは、照明に負けじと光り輝く自身の頭頂部だった。幻覚が見えているのか。それとも、先にカズトに吹きかけられた液体のせいで視界に異常が生じているのか。
鏡に近寄ってまじまじと確かめてみると、どうにも幻覚や視力異常によって、自分の頭が光っているわけではないことが判明した。
幻覚ではない。視力の問題でもない。となれば、月が太陽の光を反射するように、ヨキヒトの頭も、ただ照明の光を反射しているに過ぎないということになるが…果たして、本当にそうなのか。
もしかすると、何かしら、人知を超える神秘が働いてこうなっているのではないのか。
この時のヨキヒトは、まだ一筋の糸のようにか細い可能性を信じていた。
きっと神秘が生じている、その可能性を信じて、恐る恐る、手のひらを頭の上に置いてみる。
すると、ぺち と、残酷な音があっけなく鳴った。"無い„ことの証明の音が鳴った。
石化するかの如く固まったヨキヒト。その石造内部では沸々と得体の知れない熱いものが次第に昇ってきて
「…ほあ ぁ あ ぁ ぁ あ ぁ あ ぁ !!」
溢れ出る炭酸のように、噴火する火山のように、大地をつん裂く核爆発のように、羞恥心、自尊心、猜疑心、憎悪心、復讐心等、胸の内に刺々しい精神物質が猛烈に押し寄せた。
"無い„という事実、"奴らに見られた„という事実。
辛く、残酷な真実はヨキヒトをいよいよ暴力に駆り立てたーー席を蹴り飛ばし、机をひっくり返し、棚を薙ぎ倒し、そこから溢れた美容品を蹴散らして、目に入った赤い美容品と青い美容品をアカネとカズトに見立て、踏み潰すーーそうして狂瀾怒濤が完成した。
「…見られた。見られた。奴らに見られたーーッ!! お れ の す が た を ヤ ツ ら に 見 ら れ た ーーーッッ!」
ヨキヒトの叫び声は爆発音のように音割れして空間全体を震撼させた。
全身を巡る血液は加速度的に循環して、一瞬、脳裏には憎々しい過去の記憶が駆け巡った。
………
「好きです。付き合ってください!」
「無理…」
「えっ、なんで……」
「なんでって…。全体的にきもいのと…んーー、ハゲだから?」
ーー ーー ーー ーー ーー
「あなたのことが大好きです!付き合ってください!」
「えっ… ごめんなさい!」
「…そう、なんでかな…」
「ごめんなさい、性格が合わなさそうなのと…ハゲが"生理的に無理„なんですー!」
………
あの当時、ヨキヒトは考えた。新しい学校への転校をきっかけに問題を隠してしまえば全てやり直せると。
だからまずは今まで、散々ハゲだと馬鹿にしてきた奴らを蹴散らした。その取り巻きである女子たちの髪は切断してやった。それで、"兜„を作った。
処分を受けて狙い通り、転校になった。
転校してからは、ヨキヒトはその兜を被り、雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けず、過ごしてきた。
おかげで友達もできた。学校生活も充実した。
だが、兜の鮮度は落ちた。だから、連みたくもない不良どもと付き合って、それなりの地位を築き、奴らの髪を切って、髪を採取して、兜の鮮度を維持することにした。
結果は成功。
これで問題は全て解決したと思った。
しかし今日、極めて重大な問題が生じた。アカネとカズトに秘密を知られた。おそらく、残された猶予は限りなく少ない。
秘密がバラされれば、不良どもから髪を採取できなくなるどころか、築いた地位も充実した学校生活も、何もかも全てが失ってしまう。
「……こ●す ッ」
なればこそ、一刻も早くアカネとカズトを捕まえて、徹底的に痛ぶって、奴らの弱みを握らなければ、ぐっすりと安眠できる夜は来ないだろう。
これは正当防衛だ。安全保障だ。正義の戦争だ。
鬼川ヨキヒトは始動する。
例の部屋からなんとか抜け出すことができたカズトとアカネは、しばらく廃墟内を駆けていた。
この時点でかなり疲れているが、作戦ではやっと序盤を乗り超えた辺り。最初の扉の地点まで、今しばらく走り続けなくてはならない。
隣で懸命に走るアカネは、先の出来事に大分ショックを受けているようで、不貞腐れたみたいに無気力な表情をしている。
視点を前に移すと、人混みが迫っている。
「気をつけろよ」とカズトが隣に注意を促したものの、何しろ空間全体に爆音が鳴り響いている。そのせいで伝わってるんだか、伝わってないんだか。
仕方なしにカズトは、無気力気味のアカネの手を引いて、薄暗の前後左右に点在する不良をジグザグに交わして、なんとか抜け切る。
こうして前方に確かに見えてきた最初の扉、希望の扉。
扉の真横には巨体の持ち主、カッシーが煙草を蒸して見張りを行なっているようだった。
いよいよ廃墟の外に出る。その時に備えるべくカズトは次の遂行内容を想起する。
ーー「ヨキヒトは必ず追ってくるわ。なんで言い切れるかって?だって、ほら、あいつ代金を払わなかった不良をみんな病院送りにしてるし。しかもあいつの座右の銘はね、『狙った獲物は逃がさない』だから。よーするに、どこまでも追っかけてくるってことよ」
『どこまでも追いかけてくる』
恐ろしい性質を有するヨキヒトだが、作戦ではこれから『学校』に向かうことになっている。
はたして奴は学校まで侵入してくるのか。その辺りが疑問だが、先にアカネの件があった以上、学校へ向かうこと自体に変更は必要ない。作戦以外にも避難の意義として普通に期待できるためだ。
「アイツまだ来てないし、少し待った方がいいわね」
二人は扉の前で足を止めて一息吐くことにした。カズトが両膝を抑えて呼吸を整えていると、門番のカッシーは話しかけてきた。
「おいおい、ここは学校の廊下じゃないんだから走るなよ。…それと用事は終わったのか…って、なんだい。髪切っただけじゃねえか。にしては深刻そうな面してやがるが。はは、さては、ぼったくられたんじゃないだろうな。そのシケた面、やっぱりそうか!がはは!」
一人で喋り進めるカッシー。カズトは息を整えたい一心で「そうですね」と相手に承認を与えて話の強制終了を狙う…が、カッシーの口はまだ動き続けた。
「確かによ、ヨキヒトの野郎はイカれてるが、この楽園に金を落としてくれる重要な一人だ。ぼったくりは気の毒だが、代わりにお前らもジュースも菓子もタダで享受できる。だからあんまり気にせず、今後はもっと楽しめよな」
金さえ払えばあんな法外な行動が許されるとは…。
内心、忌々しく思うカズト。
ここで突如、無気力だったアカネは口を切った。
「今後なんてないわ」
そう、キッパリと言い放ったアカネは、カズトよりも前に出て仁王立ち、凛と勇ましくカッシーを見上げた。
初めてアカネと意見一致したと思ったが、次の瞬間、カズトの眉は困惑に歪む。
「今日であたし、ここ卒業するから」
「がはは!お前はいつも面白ぇ冗談吐きやがる」
アカネは「冗談じゃないわ」と、これもまたキッパリ言った。
「どういうことだ?」
「やっと面白い友達ができたの。だからこの場所はもう必要ないってわけ」
アカネはえっへんと自慢でもするように腰に手を当てた。
今この場で承認欲求を満たしている場合なのか。
それとも最初の時と同じように何かしら一芝居が必要なのか。
そんな思考に頭を悩ませるカズトの肩に、突如アカネの腕が回った。馴れ馴れしく引き寄せられた。
「で、この人がその友達」
「はぁ?」
カズトは困惑した。
カッシーも困惑した。
「弟と友達ってのは…その、お前も相当頭がパーになっちまったんだな…」
仮に弟設定を取っ払ったとしても頭がパーなのに変わりはないぞ、と強く補足したい気持ちを抑えた。
横を睨むとアカネはさっきよりもスッキリした表情をしていた。
カズトの視線に気づくと、いつもの笑みを僅かに向けてくる。
忌々しい…。
その時だった。
ーーーー「胸はどこだァァァ!!!」
元来から空間に鳴り響く音楽の爆音に、常軌を逸した声ーー怒号と奇声が融合したような不快ーーが入り混じった。
誰もがその異常を察知して振り向いた先には、人混みを引き裂いて姿を見せた異形頭の学ラン男。
彼は、男も女も構わず薙ぎ倒して暴れ"探って„いた。
ーーーー「どこだ ァア ア ァ ア!!」
カズトが遠目で見ても、そこら辺の不良が理性的に見えてしまうほど、いかにも狂人で、いかにも怪人めいた奴。
「…鬼川ヨキヒト。ここまで予想通りに動いてくれるとは…完全なるバカだったか」
「しかも完全なるハゲよ!」
アカネは、さっき自分が遭った惨禍の記憶が綺麗さっぱり削除されているのか、いつもの調子で人を玩具にしている。「被り物で隠してもハゲはハゲよ」とか嘲笑って。
こいつはこいつである種の狂人なのかもしれない。
今さっきの友達発言以来、謎にテンションが高いし。
この場で最も図体の大きいカッシーは、小さい二人とは対照的に口を戦慄かせて怯えていた。
「…おいおい、どうしてヨキヒトの野郎が俺のヘルメット被って暴れていやがんだ?」
カッシーは「まさか」と息を呑んで、グラサンの下の視線をカズトとアカネに下ろした。
そうだと言わんばかりに、アカネはにっこり笑んだ。
「…お、お前らッ!俺が忠告したのに、野郎を刺激しやがったのかッ!!ああクソ!マジかよ!…俺は知らねぇ、絶対関わりたくねぇ!」
カッシーは取り乱しながら扉を開けて「早く出てけ!」
勢い、カズトは外に身を出して、枯葉が積もった地面を踏み締める。それから横目で後ろのアカネに『作戦の続行』を合図する。
合図を受け取ったアカネは、その場でくるりと建物内に体を向けた。
「大変よ!!ヨキヒトのカツラ取れちゃってぇ!みんな探してあげてーーーっ!!」
アカネの大きな呼びかけを契機に、廃墟内の不良たちは騒ついた。
遥か遠くにいる異形頭のヨキヒトも振り向いた。暗がりの中で機械質の目がぎらりと鋭く光る。
ーーーー「胸はそこかァアァ ア アーーー ッッ!」
アカネは、ぽかんと口を開けるカッシーを横切って、また通り様に肘で巨体を僅かに突き、
「ばいばい、カッシー」
開いた扉からアカネもぴょいと降りて走り出した。
待っていたカズトもそれに続く。
『狂人、鬼川ヨキヒトを怒り狂わせた』
ここまで完遂すれば、今からはイージーモードである。
なぜなら移動手段が足から自転車に変わる。
中学3年生の男子が追いかけてくると言っても、こちらが自転車であれば基本的に追いつけないだろう。
二人は最初の茂みに寄って、枝という枝を、葉という葉をガサゴソ掻き分けて手を伸ばす。
しかし、そこには、鉄の感触もなければ、ステンレスの、ゴムの感触もなかった。
奇妙に眉をひん曲げるカズトは茂みをもっと懸命に漁ってみる。
アカネは自転車を観念して手を止めて、「どう見てもないんですけど!」と声を荒げた。
「……なんで、ないんだ?」
カズトは青白い顔をアカネに向けた。
「きっと盗まれたのよ」
呆れ顔のアカネはそう言った。
「よくあるの。ここら辺の不良ってお金ないから換金できるものは…」
「…ふざけんな!金ないのは絶対ヨキヒトのぼったくりのせいだろ!」
カズトは地面に拳を振るい落とした。
枯葉が舞った。
葉は地に落ちることなく風に掻っ攫われていく。
自転車が無ければ、ハードモードに繰上げされたも同然。
中学3年生男子に、たかだか小6生が『走り』で追いつかれずに済む方法なんてあるのか。
「…咎木?」
「………背に腹は変えられぬってやつだな」
カズトは苦笑を一つ、立ち上がって「走るぞ」と駆け出しを再開した。アカネもカズトの背を追って行く。
程なくすると、背後から、予想よりも早く嫌な気配を感じ取った。
ーーー「胸触らせろ ォ ォ オォ ォ オ ! !」
カズトは険しい表情をして「もっと早く走れ!」と叫んだ。
アカネはもっと険しい表情をして「もう無理っ」と鳴いた。
そんな2人は森林を抜けて、坂を下がり、町中に至るまで懸命に進み続ける。そして、懸命に法を犯し続ける。
「飛べ!」
少年は、斜め上を見上げながら叫んだ。
その少年は変だった。少年は顔の、目元から下は白い布で覆って隠して、上半身は裸だった。だから、変である。
「こんなに高いの無理なんですけど」
少年が叫んだ方には、少女が斜め下を見下ろしている。
その少女は少年と違って、さすがに半裸ではないが、黒い布をマフラーのようにして顔半分を隠している。あまり、そこまで変ではない。
「ママー、変なひとと、すこし変なひとがいるー」
窓の内から、その少年と少女を退屈そうに眺める小さな男の子。
「…何かしら?」と男の子の母親がお盆を持ったままやって来て、窓の外を見ると衝撃。母親は思わず、口元を両手で抑えた。お盆は落ちて、お茶が床にこぼれた。
それから男の子の母親は落とした物の存在なんて失念して、慌てふためいて窓を開けた。
「あなた達!人の家の屋根の上で何をやっているの!?」
少女は隣の田口さん宅の屋根の上に。少年はそのまた隣の佐藤さん宅の屋根の上に。
間もなく少年が母親の方に気づくと、中指でもおっ立てると思いきや、深々と頭を下げた。
「不法侵入です。ご迷惑をおかけして大変申し訳ありません」
それから少年は、少女の方に「何ぐずぐずしてる!早く飛べ!」と急ぎ仰ぐ。
ここの住宅地一帯は、長い長い坂道に沿って造られているため、家の立ち並びは階段状になっている。
そのため少年も少女も、今いる地点まで、坂道の頂上の家の屋根をスタート地点に、各家の屋根を一つ一つ飛び伝って来たのだろう。一度でも失敗すると大怪我してしまう大変な危険を冒して。そして、ここはまだ坂道中盤。つまり、少年と少女は坂下まで危険を冒し続けることになる。
母親はひどく青ざめた。
「危険…危険だわ!」
心配に駆られた母親は居ても立っても居られず、窓から身を乗り出そうとする。
隣の男の子は「お姉ちゃんー、またママが変なことしようとしてるー」と呼んだ。
すると男の子の姉が本を持ってままやって来て、窓から飛び出ようとする母を見て衝撃。姉は思わず、口元を抑える。本が落ちた。檸檬と書かれた表紙がお茶で滲んだ。
本に構わず、姉は母の体を掴んだ。
「お母さん!何してるの!危ないよ!?」
「コトちゃん離してっ!お母さんには世界中の子どもたちを守るという使命があるの!」
その時、姉の目に、隣の家の屋根に立つ少年の姿が映った。
少年は数式模様のジャージを履いていた。
「……咎木、くん?」
男の子の姉、日向コトバはその光景に唖然とする。
コトバが見つめる少年は両手を広げた。すると、少年の視線の先にいる少女が少し助走をつけて、飛び出した。
「危ない!!」
母は必死に声を上げた。コトバの心臓もドキドキした。
落下の危険はもちろん、ここら一帯の空中には電線が蜘蛛の巣のように複雑に張っているため、感電の危険がある。
しかし空に身を放った少女は、電線と電線の間にギリギリ体を通してーー少年の元に落っこちた。
その痛ましい瞬間に、日向家全員が目を瞑った。
コトバが瞼を開けた頃には、すでに少年と少女は窓の視界から消えていた。
母は「コトちゃん次は止めないでちょうだい!あの子達を助けなきゃいけないの」と怒って玄関へと向かう。
「熱!」
母はお茶のこぼれた床を踏んで涙目になった。それから慌しく「あ!絨毯、吹かなきゃ!」と、瞬く間に己の使命を失念した模様。
「ママおちついてー」
コトバは日向家の部屋の中心で呆然と立ち尽くす。
疑問だったのだ。先の少年は咎木カズトなのではないか。
日向コトバが尊敬する咎木カズトは決して群れず、いつも1人で真剣に何かに励み、授業には真面目に取り組み、不真面目を徹底的に注意し、文学と数学を愛する理知的な少年。
まさか、上半身裸になって、謎の女の子と2人きりで、不法侵入を楽しむような不良であるはずかない。きっとそうだ。そうに違いない。
「……でも、田中くんにしずえ先生の痛みを分からせるとか意味分からないこと言って、"田中事変„を引き起こしたのも咎木くん…」
胸騒ぎがしたちょうどその時。
ーーーー「胸だ胸だ胸だ ァ ア ァ ア ーーー!」
窓の外、竜巻のように騒音を鳴り散らす黒い何かが屋根と屋根を伝って、過ぎて行った。
森林では、フェンスの穴を通って私有地への不法侵入を1回。
ただし中学3年生の体ではフェンスの穴を通ることはできないため、奴はフェンスをよじ登った。これでまず、2、30メートルぐらいは距離を稼ぐことができたんじゃないか。
それから森林を抜けて坂道に入るところからは、建物の屋根やら屋上やらを飛び移って住居侵入罪を27回。
ちなみに器物損害罪は犯していない。細心の注意を払ったためである。
そこでは、空中に無数の電線が交差しているため、これもまた奴の体にとっての大きな障害となってくれた。おかげで、かなりの距離を稼ぐことができたと思う。
森で不法侵入、坂道で住居侵入。こうして坂下に降り立ったところでは、後ろの奴が小さな点に見えるくらいの距離が確保されていた。
ちなみにこの時、僅かな余裕に乗じて、今まで顔を隠すために顔に巻いていたシャツを本来の用途通りに着用し、同様の目的でアカネがマフラーのように使っていたジャージも強制返還させた。
「走れ!」
そこからは一息付くことなく、駆け出した。
すっかり奴の喚き声は聞こえなくなった。車の走行や信号の切替など日常の音が安堵に誘うが、安心できる余裕なんかない。
「走れ!走れ!」
何といっても、町中では今までの手段は使えず、純度95%ぐらい『走り』だけで勝負を挑むことになる。
これには、年の差が如実に現れ出る以上、圧倒的に不利だ。
それが安心の余地なき理由。足だけは一瞬でも止めてはならない理由だ。
「走れ走れ走れ!」
走る。走る。とにかく走る。今だけは脱獄囚にでもなりきるぐらいの気持ちで必死に走る。
それが奴から逃れるための唯一の手段。分かりきった自明の理である。
「…はぁ、ひぃ、もう無理ぃぃっ!」
しかし予想していたよりもずっと早くアカネは音を上げた。
「咎木!お願いだから ぁ…」
しぶしぶと、カズトは尻目に後ろを確認する。呼吸を乱す汗だくの少女に、その遥か後ろを追従する事件魔。
「ダメだ。ハゲが来てる」
不本意ではあるが、そう告げると、アカネは檸檬を齧ったように苦々しい表情をした。
そんな顔をされても困る。
仕方なくカズトは途中途中、アカネに「もう少しで学校だぞ」とか「お前ならできる」「やればできる」とか励まして、モチベーションを管制した。
が、アカネの表情はひどく濁るばかりで
「…はぁ、はっ…ねぇ、棒読みだし…」
何であれ、ここで止まったら一気に距離が縮まってしまう。そうなると法を犯してまで逃げてきた努力は全て台無しになる。
そのことを理解していないほど、アカネも馬鹿ではないはずだ。
「ほんとに無理…もう止まるから!!」
河川敷。
本当にアカネの奴は足を止めやがった。やむを得ない事態にカズトもその場で止まった。
そうだ、これからは馬鹿と書いてアカネと読もう。
ここでカズトは、アカネを置いていくという発想が通じないことが心底悔しく思った。
忌々しい事件魔の奴はアカネの方を狙っている以上、アカネを置き去りにしては作戦自体が成り立たない。
「…おい、まだか?」
アカネは両膝を押さえて、気息奄奄と白い息を吐いている。今は返事する余裕も無いらしい。
後ろに視線を移す。
奴は、さっきまで遥か後ろにいた点に過ぎなかったというのに、今では克明に手脚の動きまで分かるぐらい急速に迫ってきている。あの速度だとあっという間に追いつかれてしまう。
心臓の鼓動が高鳴る。
さっき、奴がアカネを襲おうとした陰惨な記憶が脳裏にチラつく。
アイツは本当に頭がおかしい。不良とか、そういう次元ではなく、精神病に入院させなくてはならない類だ。そういう次元の奴に、ひと気の全くないところで、捕まったら一体どんな目に遭うのか…。
カズトは乱立する思考を、両頬を叩いて、絶つ。
同時に決心した。
「…乗れ」
しゃがみ込んで後ろのアカネに背を広々と示す。
「…はぁ…はぁ、でも」
「いいから乗れ!」
アカネはカズトの背に跨った。
カズトは少女の脚をしっかり掴んで、よろよろ立ち上がる。予想以上に重かったが、自分を信じて真っ直ぐ先を見据える。目標地点は学校まで。
「本気で走るから、しっかり掴まっとけよ」
1分後
「ねぇ、嘘でしょ」
カズトの動きは、手足に錘でも付けているような状態まで鈍化していた。
「降りろ…、もう、無理だ…」
滝のように溢れる汗。ジクジクと痛む喉奥。一歩一歩進むたびに全身に伴う慢性的な疲労。
アカネは、カズトのこの疲労困憊を承知しながら「ダメだ。ハゲが来てる」と嘲った。
「ふざけてないで降りろ!」
「何キレてるの?咎木が言ったんじゃん。本気で走るとかカッコつけて」
「予想よりお前が重かったんだよ。冷静に考えろ。お前の方が俺より体がでかいんだから体重だって…」
頭頂に衝撃が走った。
「少し休めたし、もういいわ」
降り立ったアカネは自主的に走り出した。同様にカズトも駆け出しを再開するものの、すでに背後には
ー「アカネ ェ エ !!」
奴が迫ってきている。
さっき、のんべんだらりと立ち止まった怠慢に加え、今回のアカネを背負って走った無謀がもたらした悪結果だろう。
もはや、アカネもカズトも黙って潔く走り込むしかない。
徐々に迫り来る事件魔は、前方を健気に走る少女に向かって、勝利宣言でもするのか、口を開いた。
ー「アカネェ !聞け ェ エ エ!」
ー「テメェは、金もない、ギャクセンもない、常識も、愛想も、可愛げも、チャリもないッ!」
ー「だが、顔と胸だけはあった!だから、オレ達の楽園に入れてやったんだんだァ!」
ー「そういうことも理解せずになァァ… 何調子に乗ってんだ?あ?あ?ああ ァ?俺の秘密まで叫びやがってよォ オ!!」
ー「今日こそ!その胸で全ての代償を支払ってもらうからなァ ア ア !!」
聞くに堪えない雑音だった。
先頭を走るアカネの表情がどんなものか分からないが、静かに無視を決め込んでいる。
賢明だ。正しい大人の対応というやつだろう。
だから代わりに、こっちはこっちで卒業前に小学生を全うしてやろうと決めた。
「ヨキヒト!”毛„もないお前がとやかく言うな!」
暫時、三者の間に不思議な沈黙が流れた。
「毛もない…お前が…」
カズトは二度とくだらない発言をしないことを誓って口を噤む。逃走だけに集中することにした。
「ぷっ、ははは!」
沈黙を突き破ったのはアカネの吹き出し。
多分、無理して笑ったのかもしれないが。
一方、やけに静寂な背後にカズトはちらと視線だけ向けた。
静寂の正体。後ろのヨキヒトは煮込まれた地獄鍋のように沸騰していた。憎悪、憤怒、激昂。そして、その蒸気とでも言えようか、ドス黒い殺気がいよいよ天に昇って
ー「…クソガキャァアァ アァ ア ア ア !!」
事件魔は獰猛に鳴いた。後ろの”憎音„に加えて、ちょうど目前に迫った踏切も喧しくカンカン鳴き始めた。
線路の向こうを見ると、轟々と電車が。カーカーとカラスの群れが飛んだ。
けたたましいカオスの中、少年と少女は互いに語らずとも、この局面でどうすべきか、明確に分かっていた。
このまま脚を止めず、電車の眩い光が差しかかった線路を突き抜ける。
二人は、猛然と、公然と、傲然と、駆けて
線路を抜け切った。
二人は勢い地面に倒れ込んだ。
その時、向こうの事件魔との間に電車が流れて。
…これは、作戦成功の確定路線に入ったんじゃないか。
カズトとアカネは顔を見合わせて、互いに不敵に笑った。
ー「こらァ、お前らァァ ア!」
その声に、ついに奴は人間をやめたのかと思った。
カズトもアカネも一瞬で間の抜けた顔で、恐る恐る声の方を振り返った。
いたのは、老人。
カズトは安堵に胸を撫で下ろして、息を吐く。
「危ないじゃろうがァア!キサマらのような小僧どもがこのニッポンをダメにするんじゃァア!法を守れェ!それが嫌なら、ニッポンから出てけェエ!出てけェ エ エ!」
カズトもアカネも平然と立ち上がって、
「はぁ…はぁ、すみません。急いでるので」
「おい、まだ話は終わっとらんぞォオ!おい!おいィイィ イ イ!」
踏切の翁を横切り、疲労の蓄積する身体に鞭打って進む。
念願の校門にたどり着いた。
「はぁ…はぁ…やっと、着いたわ」
安心感と、果てしない謎の達成感が打ち寄せてきた。
かつて、こんなにも学校に到着することに喜びを感じることがあっただろうか。
「…とりあえず登るぞ」
とはいえ、作戦はまだ終わりではない。
この事実を共有するアカネは気だるげに門を登り始めるが、体力も底を尽きかけているのか、随分と手こずっている。
「早く行け」
カズトはアカネの下半身を持ち上げて門の向こうまで促した。
「…変態」
急に不機嫌になったアカネに一口侮辱されるが、今は異議を申し立てる時間はない。
急いでカズトも門をよじ登って、向こうに降り立つ。
ちょうどその時、門の隙間から奴もしっかり追って来ていることが確認できた。
「ぶっこ●してやる!!」
二人は『最終目的地』に向かって最後の駆け出しを開始した。
作戦で懸念されていたのは、ヨキヒトが学校を前に狼狽えて追ってこないという事態だが、奴は何ら臆することなく普通に門をよじ登ってきた。
聞いていた話の通り、奴の頭がおかしくて助かった。
「胸揉ませろォ オ ォ オ!!」
ここまでくると頭がおかしいというか、もはや、そういう類の妖怪にしか見えないレベルだが。
ーー校庭へ
『…なんだ、アイツら?』
『あれは咎木だろ?んで、隣を走ってる女子は…あれ、永伽か?サイドテール似合わねぇ』
『おい、2人を追いかけてる後ろの奴はなんだ?』
『知るかよ!それよりサッカーしようぜ、お前ボールな!』
校庭に突入したカズトとアカネ、その後ろを走る事件魔の三者は、サッカーが行われている雑多な現場を横断する。
「胸 ェ エ ェ エ エ!!」
相変わらず事件魔は校庭であっても、その妖怪っぷりを発揮して追従してきている。
なんだか調子が抜けてくるが、油断は禁物だ。
最終目的地までは残りわずかな距離だが、奴との距離はいよいよ至近に迫ってきている。
ここで速度を落としてはならない。転んでもならない。
「あぁ!?」
しかし、カズトの真正面にボールが風を切って飛んできた。この局面で決して転ぶわけにはいかない。強く決意するカズトは、目前に迫った丸い障害を思いっきり蹴り飛ばして、道を開く。
ゴールした。
『ナイス!』だとか『ふざけんな!』だとか、賛否の声が上がった。
アカネも「やったじゃん」と荒げた呼吸混じりに笑った。
カズトも少し照れた。
が、こんなことしている場合か。
疲労で、おそらくアドレナリンとか、ドーパミンとかいうやつが脳内で分泌されているんじゃないのか。
きっとそのせいで、テンションは激しく上下して、注意は散漫になり、集中力は落ちているのだろう。
カズトは気を引き締めて目の前だけに意識を集中させる。
何と言っても自分たちのゴールはもう少し先であって、背後では怒り狂う事件魔が距離を縮めてきている。
あと少し。あと少しなんだ。
最終目的地までは足を止めてはならない。絶対に。そう、絶対に。
そんな決意も束の間、空気の読まない足首に電撃のような痛みが走る。
カズトはダチョウ倶楽部さながらに何もないところでずっこけた。
「何してんの!」
「何してんだ!俺!」
同時に、顔に皺が集中するくらい叫んだ。
アカネはすぐに手を伸ばしてきた。カズトはその手を支えに苦痛に耐えながら立ち上がる。
足取りを再開するが、ついに、カズトの背には魔の手が及んだ。
「フハハ ッ! 捕まえた ァ ア ア!」
「くそ!」
魔の手はカズトを後ろへ引き込んだ。その時、カズトは着ているジャージが掴まれているのだと気づいた。
幸運に齧り付くように、カズトはジャージから両手を引き抜いて、間一髪ギリギリで逃走を成功させる。
「ふざけるな ァ ア !!」
激怒は数式ジャージを乱暴に振り払って、追う。
しかし、カズトとアカネは校庭を走り抜けて、ついに最後の地点に辿り着いた。
そこは東西南の校舎に塞がれた裏庭だ。無論、逃げ道もなく、ひと気もない。
ヨキヒトは「バカめッ!」と勝利宣言した。
ーー「裏庭は校舎に囲われているから、あいつも簡単に逃げられないわ。だから、あたしがしずえちゃん呼んでくるまで、ちゃんと耐えて」
時刻は14時32分
カズトは奴の方に振り向いた。
午後 14時 28分
裏庭の茂みの影に小さな悪が芽生えていた。
「マジでお前サッカーやめろや」
5 年3 組 出席番号14番 深夜タケはいじめっ子である。
タケは体が猪のようにデカい。
「いやだぁ!」
5 年3 組 出席番号24番 真昼ノビはいじめられっ子である。
ノビは体が子豚のように小さい。
「嫌だじゃねぇ。お前のせいでこの間の試合負けたんだんだからサッカーやめろ!」
タケはノビのうなじを掴んで脅す。
そんなノビは勇気を振り絞ってつま先立ちをして、タケに背丈を合わせた。
「いやだ!サッカーはぼくの全てなんだい!ぼくもサッカーがしたいんだい!」
「しつけぇな…」
タケは眉を寄せて苛立ち、ノビを荒々しく突き放す。
それからタケは大きい体でノビに迫った。
ノビは背後の壁にべったりと背をつけて、目の前の巨大ないじめっ子に怯える。
「そんなにサッカーしたいなら、させてやる」
不信なノビは「本当?」とタケの顔色を伺う。
タケはニヤついている。
「あぁ…ただしお前はボールだがな!」
絶望のキックがノビの脛に入った。ノビは泣いた。
「痛いっ!やめてぇ!」
その後もいじめっ子タケは笑って、いじめられっ子ノビを蹴り続けた。
タケはこの日、初めて弱者を痛ぶる快感を覚えた。
昼間の青空に黒い雲が差しかかった午後 14時 32分
裏庭の影が深まった頃、突然、巨悪が襲来した。
ーー「胸だ、胸だ胸だ胸だ胸だ ァ ア ア!!」
急激に襲いかかる嵐のように、台風のように、小さな微風などもろともしない激烈な咆哮がこの場の粒子を震わせた。
攻撃に勤しんでいたタケの足は止まる。
わんわん泣いていたノビも静まる。
二人の動きは停止して、視線は茂みの向こうの闇に引きつけられた。
「JSの胸を触らせろッー!これは代償だッッーー!」
異形頭で、漆黒の服を纏い、雄叫びを上げる巨悪。
巨悪が向く先には、二人の少年と少女が相対する。
明らかに年上であろう巨悪は、異常なことに、この年下の二人へ醜い敵意を剥き出しにしている。
少年は少女に何か耳打ちすると、すぐに少女は颯爽と校舎へ駆けていった。
おそらく逃したのだろう。
しかし少年の計らいも虚しく、巨悪の意識は少女に向いて恐ろしく動き出すーーが、巨悪よりも全く小さい少年が健気にしがみついた。
少年は勇敢に声を上げた。
「おい!野蛮人!俺が相手だ!」
瞬間、鋭い拳が少年の頬に入った。
少年の体は物みたいに、いとも簡単にぶっ飛んでベンチに痛ましく落ちた。
茂みの物陰で、ノビは目を瞑ったが、強引に瞼を開いた。
タケはどこか気まずそうに凄惨な現場から目を逸らした。
茂みの先の巨悪は、ベンチに垂れる少年の胸ぐらを掴んで引き上げた。
少年は死んだ魚のように手足が虚脱してふらついている。
「弱い。弱いな。弱すぎる。一撃でこれか?」
「…弱い…のは、お前の……頭だ…」
「あ?」
巨悪は胸ぐらを離して、空に落ちた少年へ、真横から冷酷な一蹴りを打ち放つ。
鋭い蹴りは少年の腹部に粘土を捻るようにめり込んで、またしても少年の体は吹き飛んだ。
少年はしばらく倒れていたが、しばらくすると、なんとも弱々しい足元で立ち上がる。
不可解なことに、ここまで少年は一切やり返さず、どころか、やり返す素振りすら無い。
今、タケよりも数倍も大きい巨悪が目前に迫っているというのに、少年にはノビとは違って怯える素振りもなく、非暴力の態度が凛と引き継がられている。
茂みから覗くノビは少年をカッコいいと思った。
タケはあの巨悪を醜いと思った。
また両者とも少年を哀れに感じたが、助けに行く勇気は湧かない。
何せ、巨悪は圧倒的に残酷で、圧倒的に強い。
「お前はこの俺が教師や警察、総じて大人と呼ばれる連中を恐れていると想定して、ここまで誘導してきたんだろうが…残念」
巨悪は少年の髪を掴んだ。
「ここだけの話だがなァ、俺はな、教師も警察も半殺しにしたことがあるんだよ」
巨悪は再び、暴力を再開した。
少年は左頬に拳が入り、右頬にも拳が入り、腹部に蹴りが入り、血を散らして、藁人形のようにあっちこっちに乱れた。
強者が弱者を痛ぶる。
酷い。酷すぎる。不良でもここまでのことはしない。
茂みの中、小さな悪は萌芽の段階で枯れた。
カズトはボコボコにされている間、アカネの言葉を思い出して、何度も反芻して、飛びそうになる意識を保った。
ーー「この作戦の肝としては一方的な被害者になることが大事なの。絶対にやり返しちゃダメだから」
とは言っても、現実とは想定以上に厳しいものがある。
地面に転がる身体には力が入らない。視界は硝子を何層も重ねたように曖昧模糊。頭の中には放送休止音のような不快な耳鳴りが響いている。
このままだと、意識が飛ぶ。
ーー「でも成功したらしずえちゃんは絶対、咎木のこと見直すはずよ」
希望を想起して、かろうじてイキかけた意識を引き止めた。
そして、カズトは満身創痍の体を立ち上がらせた。
曖昧な視界に映る漆黒、鬼川ヨキヒト。
ふと、カズトはそいつにぶつけたい言葉が浮かんできた。
「暴力……反対…」
「なんだって?」
ヨキヒトは拳を鳴らしてカズトへ詰め寄る。
カズトはいよいよ振り上げられた拳へ睨みを効かせて「暴力反対 っ!」と叫ぶ。
拳はぴたりと止まった。
ヨキヒトは壊れた玩具でも眺めるように僅かに笑った。
「1869年10月2日、インド、ポルバンダル出身の…マハトマ・ガンディー! 俺の尊敬する人物!」
「だから…! 何があっても、俺は暴力反」
ついにヨキヒトは痺れを切らして拳を打つ。
腹部に重く、鈍い一撃が入った。胃袋なのか、小腸なのか、詳しくは不明だが、腹の中が圧迫されてカズトは舌を出した。
「ぐっ … ぁ !」
それから足元はふらついて力無く花畑に尻もちをついてしまう。
「あぁ〜たまんねぇぜ。この感触。暴力反対?フザけたこと抜かすんじゃねェ!暴力万歳だッ!」
しばらく倒れていたが、懲りずにカズトは腹を抑えて起立する。
「…暴力反対」
殴られる。
「俺は、ガンディーを愛し」
蹴られる。
「非暴力!不っ」
蹂躙される。
「…お前、何言ってんだ?頭がおかしくなったのか?…まぁ、なんでもいいか。どうせ最後は決まった結末だしなァ!」
その後も、ヨキヒトは徹底的な暴力をカズトに注いだ。
殴る、蹴る、叩く、飛ばす、蹂躙すると、まるで暴力の嵐だった。
こんな不快な屈辱を田中シイは喜んで受け入れたのか。
…あぁ、もしかして、この屈辱は田中シイを暴行した罰なのか。
別に悲しいわけでもないが自然と涙が出てくる。勝手に喉が引き攣る。
まさか子どもみたいに泣きたがっているのか?
「俺、は…子どもじゃ……な」
振り下ろされる重鈍な拳がカズトを黙らせた。
ーー「咎木くんが、一番、子どもです」
その時、苦痛と一緒に先生の言葉を思い出した。
カズトは唇を噛み締めた。
振り上げられた拳を追うようにカズトはまだ立ち上がる。
「早く、くたばれよ」
ヨキヒトの面には険しく皺が寄った。
カズトは血塗れの顔を勇ましく向けた。
「……暴力を振るう奴はな、子どもなんだよ」
再び、握り拳が用意される。
「ヨキヒト、俺はお前と違って大人になる。対等になりたい人がいるからな!」
砲撃のような一撃がカズトの体をすっ飛ばした。倒れ込んだカズトはぴくりとも動かない。
「…やっとくたばったか。さぁ、胸だ胸」
ヨキヒトは、アカネが入った校舎へ踵を返す。
その時、草花が擦れる音が響いた。風でも吹いたのか。そう思いきや、ヨキヒトが振り向いた先では見知らぬ少年が茂みから姿を見せた。
「暴力反対!」
少年はそう強く叫んだ。少年の瞳は輝いて、何か強い決意めいたものを忌々しく感じさせた。
茂みは再び鳴り出して、もう一人が姿を現す。
「…ノビ、さっきは悪かった。俺も暴力反対だ」
さらに校舎より、この危機を見ていたであろう別の少年が窓から顔を出して「暴力反対」と叫んだ。
すると別校舎の廊下からも「暴力反対!」と声が上がる。
さらに三人目の「暴力反対!」、四人目の、五人目の、六人目の…。
瞬く間に十人、二十人、三十人と増えて、いつしか大勢が一丸となって暴力反対を叫ぶ。
「うるせぇぞ ォ オ ォ オ !!」
しかし、ヨキヒトの咆哮は巨大な暴力反対によって掻き消される。
さらに背後には、サッカークラブの輩が裏庭と校庭の道を塞ぐ形で並んで抗議に加わった。
四方八方、反対抗議を浴びるヨキヒト。
ついに裏庭には一つの平和運動が生まれた。
カズトには、暴力反対の声が現実のものなのか、妄想のものなのか、区別が付けられなかった。
どちらかと言えば後者だと信じている。何せ、これまでカズトの反対を支持する者なんていなかったのだから。
もっとも、どちらにしたってカズトが遂行すべきことは決まっている。
何と言っても、これは作戦である、執念である、執着である、恋である、傲慢である。
だから、立ち上がらなければならない。
「……俺は、…人を殴った。大怪我…させた。だから分かる。暴力してもな、…何も解決しないんだ……」
脳裏に浮かぶしずえ先生の冷たい表情。
対照的に、炎のように憎悪を滾らせるヨキヒトは猛獣の威嚇のように唸って、再びカズトに接近した。
「しつけぇなァ!お前の姉が胸を揉ませれば解決するだろ ォ オ ォ オ ォ オ!!」
ロケットのような熾烈な拳が飛んでくる。
「暴力反対ィ イ!!」
視界に急接近する拳に、大胆に踏み込んだ。
刹那、顔面で爆発するみたいな衝撃が広がった。視界は大地震が起きたようにぐらついた。
それでも倒れまいと後ろに退いて、必死に安定を探る。
予想以上に視界の揺らぎが収まらない。足元からは地に足が付く感覚が損なわれた。
その足元を調整しようにも、どっちが右か左か地面か空か、その判別すら困難だった。
いつしか視界はまるでジェットコースターのように回転して、最終的には全てが真横になった。
多分、きっと、倒れたんだと思う。
「ー ー く ー」
しかし、どういうわけかなのか、身体が感じるその感触は明らかに硬い地面ではないと思った。
感じている感覚は不可解なほどに、柔らかく、懐かしく、温もりがある。
「ー 木くん、偉 ー ー た ー すね」
どうやら誰かに抱えられているようだった。
その人物は何か話しているが、全く何を言っているのか聞こえない。
何を言っているのか聞こえなくても、この身を包む感触はやはり懐かしく、徐々に記憶が切り開かれていく。
はっきり思い出した。この感触は、
「しずえ、先生……」
「…はい、咎木くん。先生が来たので、もう大丈夫ですからね」
最後、視界に微かに映ったのは、見下ろす困り顔。そしてその顔に連なる僅かに緩んだ口元。
「す…みません……」
カズトの意識はそこでプツリと途絶えて瞼の幕が下ろされた。
ーー意識が覚醒した。次に瞼を開けた頃には、しずえ先生はいなかった。
視界に映ったのは、真っ白な見知らぬ天上。
「起きた?」
それから視界に侵入して覗き込む忌々しい少女。
少女を避けるように視点をゆっくり落として見回す。白いベットに、夜空が見える窓、部屋の周りに置いてある医療器具。
ここが病院であることは言うを俟たない。
そして先の少女がアカネであるとはっきり再認識すると、ため息を一つ漏らした。
「何よ。あーしずえちゃんだと思ったでしょ。だから、ため息ついたんでしょ。ねぇ、そうでしょ」
カズトはアカネを無視して「作戦は上手くいったのか?」と尋ねた。
「起きて早々、それ聞いちゃう?」
奴に通例通り、病院送りにされたのだ。屈辱以外の何物でもなく、思い出すだけでむしゃくしゃする。これで作戦が上手くいかなかったら…。
「分かったわ、結果発表するわね。『咎木がボコボコにされたらさすがにしずえちゃんも同情する作戦』はぁぁ…」
答えるまで間を置いたアカネ。クイズ番組の司会者気取りなのか?
長々しい作戦名と長々しい間に苛立つカズトは「さっさと答えろ!」と催促する。
「はいはい、『満身創痍作戦』は、しずえちゃん物凄く心配してたし、上手くいったと思うわ」
それを聞いて、ひとまずホッと胸を撫で下ろした。
「…そうか、よかった」
しかし、アカネの表情はあまり穏やかではなかった。
「でも、やっぱ失敗かも」
「どういうことだ?確かにしずえ先生は心配してくれてたんだろ?」
「だって」
アカネの瞳は少し潤んだ。
なんだこいつ。
「だって、咎木の顔こんな風になっちゃったんだもん」
アカネは鏡を見せてきた。
そこには腫れ上がった片目に、鼻がトナカイのように赤くなった不細工な少年がムスッとしていた。
それから額には黒文字で、ガンディー と。
「おいッ!」
アカネは吹き出した。
あれから色々と聞いた。
暴力反対の平和運動が起きたこと。
結局、この件は警察沙汰になったこと。
鬼川ヨキヒトは警察に逮捕されたこと。
しずえ先生が、さっきまでこの病室に居たこと。
それから意識を失っているカズトは、しずえ先生の胸について、あらぬ寝言を呟いてしまっていたこと…。
「……おい、最後のは絶対に嘘だろ」
「ほんと」
「そんなに疑うなら電話でしずえちゃんに聞いてみる?」とアカネは嘲った。
多分、この言い振りは本当だ。
途端に焦燥に駆られるカズトは髪の毛をぐしゃぐしゃ掻く。
「くそぉ…田中と同じ変態だと思われるっ!」
「まぁ?田中はしずえちゃんに受け入れられていたし、咎木も大丈夫でしょ。田中とおんなじ へ ん た い でも」
「ふざけるなァァ!」
「お?お?ヨキヒトさんかな?」
「それもやめろ!」
嘲笑を睨み付けるカズト。
作戦を考案して完遂させた同志として、多少なり敬意を持って接してやろうと思ったが、どうやら、その必要は微塵もないらしい。
ヨキヒトに襲われてなお、忌々しい少女は変わっていない。
アカネは退屈そうにベットに上半を倒して、カズトを見つめた。
「咎木ってさ、しずえちゃんが絡む話になるとすーぐ怒るよね。やっぱり執着してるんだ?」
「…お前が言うところの『好き』なんだから仕方ないだろ」
その時、何かおかしなことを言ったのか、アカネは目を見開いて驚いた。
「対等、になりたいんだもんね?」
「まぁそういうことだ。…というか、分かってるなら、いちいち、こう、なんというか、俺を刺激しないでくれ!」
「俺を刺激…?あれ?やっぱヨキヒトさん?」
「やめろって言ってんだろ!」
カズトはベットに拳を振るい落とした。
アカネは相手の中に感情を作り出すのが上手い。
例えば、以前クラスを扇動した時には相手の中に興奮を作り出し、不良集団に取り入る際には相手の中に喜びを作り出した。
今回の作戦だって、ヨキヒトの中に怒りを作り出して駆動させたと言える。
それから第二の作戦でも、第三の作戦でも、いや、根本的に作戦自体がしずえ先生の中に感情を作り出す作業に過ぎないだろう。
アカネは巧妙に相手の中に感情を作り出す。
だから、きっと自分の中にあるこの苛立ちも、アカネによって作られたものに違いない。
アカネは、カズトを「頭はいいのに馬鹿だ」と言ったが、アカネの方は「馬鹿だが頭はいい」と言ったところか。
こいつに、いちいち本気になってはいけない。全ては虚構だ。
カズトは深呼吸を行って自制心を保つ。それから少女の瞳を見た。
「なによ」
この忌々しい少女が、カズトのために、作戦を考えて共に実行したとは今でも考えにくい。あそこまでのリスクを冒して、一体なぜなのか。
「いや、ちょうど今思ったんだが、どうしてアカネは俺の恋を手伝って…」
ーーその時、扉が開いた。同時に馬鹿でかい不快な声が入り込んでくる。
「カズトォ!大丈夫かァ!」
汚らしい髭面巨漢メガネコートが病室に侵入してきた。
不本意だが、これは父である。
「おいおい、ひどい有様じゃないか って…ガンディー?まぁ、そんなことよりもカズト。これは訴訟案件だ!」
「は?」
「カズト、大丈夫だ。お前が味わった痛みは無意味じゃない。父さんが、全て慰謝料という形に還元してやるからな。安心しろ!」
父はこんなことを真面目な顔をして言うのだから救いようがない。
アカネはこの純正の人でなしを見て笑った。
「あ、カズトくんのパッパ?」
「君は…」
まさか、こうして忌々しい二人が揃う最悪の日がくるとは。
「カズトくんの唯一無二の友達の永伽アカネでーす」
「おい」
「私は咎木ミネタカ。君の言う通り、カズトの父だ。…もしかして君が1年以上うちの息子を構ってくれたという例の少女かな?」
「違う違う!構ってもらってた覚えはない。こいつに悪質なちょっかいをかけられていただけだ!話を歪めて捏造するなよ!」
「やっぱりこの子だったのか。カズト、言いか?よく聞きなさい。女の子にちょっかいかけられるというのは無償の報酬以外の何物でもないんだ」
「…アカネ、こいつと話すな」
父は「こいつとは誰に向かって話してるんだ」とキレた。
アカネは何が面白いのか笑いを堪えていた。
「カズト!こいつとはなんだ、こいつとは。一応、私はお前の父親なんだぞ…っ!」
「一応な」
カズトは軽蔑の視線を父に飛ばす。
反抗しているわけではない。『こいつ』以上の呼称が出てこないくらい、心の底から純粋に父親が嫌いなのだ。
ちょうどまた扉が開いて、そこから看護師が申し訳なさそうに入り、両者の間に割り込んだ。
「あのぉー…院内ではお静かに」
父は「あぁ、すみません」と言って、間抜けに頭を掻きながら通り道を空けた。
そそくさと看護師はカズトの真横まで移動する。
「ぼく、消毒とテーピングするけど、今、お顔大丈夫かな?」
「はい」
カズトは看護師のぼく呼びに苛立ちを覚えたが、異議を申し立ては控えて措置を受けることにした。さっさと終えて、さっさと帰りたい。
看護師は手慣れた操作で消毒を行う。ついでに、額に書かれた『ガンディー』の文字も消してもらった。
ちなみにこの間、父とアカネは同じ倫理観の欠落した者同士、かなり波長が合うようで駄弁っていた。
その内容は言うまでもなく、全く腹立たしく、忌々しい。
余計なことを口にするなと父に憤慨しそうになるが、今は看護師の作業に迷惑がかからないよう自分を抑えた。
消毒が終わると、カズトの晴れた片目には白い眼帯が蓋をして、鼻の中央にはテープが貼られた。措置は顔だけではなく、腕には包帯が巻かれた。体中がテープやら包帯やらで煩わしくなった。
「はい、これで終わり。これから家に帰れるけど、3日間は安静にしておくようにね。脳震盪を起こしたんだから絶対に無理しちゃだめだよ」
看護師はそう告げた後、退院の手続きを父に案内しに行った。
カズトはベットからゆっくり身を下ろして、地を踏みしめた。凝った背を控えめに伸ばす。
やはり全身が痛む。原因は筋肉痛もあるだろうし、ヨキヒトの暴力によってもたらされた打撲もあるだろう。
凝った肩を回していると、アカネがねぇねぇと煩わしく迫ってきた。今度は何だと要件を聞く。
「咎木のパパ、社長なんでしょ。すごくない?」
珍しく、アカネの瞳には子どもらしい純真な輝きが宿っていた。
一体何がすごいのか、それを尋ねると少女は「大金を稼いでるんでしょ」と言う。少女は、カズトが怪訝に眉を寄せざるをえない内容を続けた。
「咎木のパパは世界中の人たちを喜ばせたいと思って開発会社のけーえーしてるんでしょ?だから、お金も相当、稼いでるんでしょ?」
アカネはありもしない大金を憧景して両手を結び、恍惚としている。
カズトは、この薄汚れた価値観の少女に真実を教えてやろうと思った。
「あのな、まず1つ、全然稼いでない。2つ、全てあいつの自己満足の製品だ。それから3つ、開発しているのはロクでもないものだ。よって、すごくない」
「でも開発しているものを聞いたら、世界中の人々が喜ぶものって言ってたわ。結局、あんたのパパは何を開発してるの?」
「……世界中の人々が堕落するもの」
父の開発する製品が何かなんて口が裂けても教えられるわけない。それほどまでに汚らわしく恥でしかない製品だ。
もしもこれを言えば…、とカズトは想像しただけで吐き気がした。
アカネは何度もしつこく迫ってきたが、カズトはその都度、断固として首を横に振る。
「ねぇ、いいじゃん。教えてくれたって」
「あのな。あいつのせいで母さんは働き詰めなんだよ。妹は父の自分勝手な態度を自由だと履き違えて勉強もせずに、毎日毎日落書きして。祖父母、親戚からは距離を置かれて……あぁ、もういい。キリがない。この話は終わりだ」
これ以上、何も教えないぞというカズトの貫徹した態度が伝わったのか、アカネはつまらなそうに撤退する。
しばらくすると、父が看護師の説明を受けて戻ってきた。
「カズト、よかったな。骨折とか、ヒビとか、奇跡的に大怪我はなくて。すぐ退院してもいいとのことだ。…まぁ、その分、訴訟で得られる額は減ってしまうがな」
こういうことを平気で言える辺りがやはり、父親の救いようがないところだ。
カズトは父に返事をすることなく冷たく横切って、廊下へ出た。
病院施設内から一歩踏み出すと、一気に冬の冷たい外気が肌に染み込んだ。カズトはTシャツ一枚のため寒気は尋常ではない。
ヨキヒトから逃げる際に脱ぎ捨てたジャージを思い出して、惜しむ。
「寒そうね」
「あぁ、寒い」
コートをよこせという視線を父に送ると、「父さんのコートの下はTシャツなんだ。だから、すまんな」と断れた。
「真冬に親子揃ってTシャツ一枚に上着とか仲良しじゃん」
「うるさい」
さっさと帰る。その一心で駐車場と一体になった病院の敷地内を早歩きで進む。
背後の病院施設から放たれる光がアスファルトの地面を淡く照らしている。届く光は進むにつれて薄まっていく。
病院の入り口を出ると、いよいよ光は途切れて、あとは薄暗い道が続く。
暗い道の途中、黙々と歩くカズトはさっきの父の言葉を思い出していた。
ーー『よかったな。骨折とか、ヒビとか、奇跡的に大怪我には至らなくて』
これについては、癪ではあるが同意する。
あれだけ熾烈な暴行を受けたのだ。骨の一本や二本折れていても不思議ではないが、こうして大きな支障はなく、普通に歩けている。
大怪我に至らなかったことは本当によかった。大事になって目立つのは真平御免だ。
他方、作戦の後遺症としては、眼帯や包帯で外見が煩わしく奇天烈になったことだ。
おかげでアカネにやれ中二病だとか、やれ邪気眼が疼いてるか?とか揶揄われて不快だった。
そんなカズトの心境を僅かでも汲み取ろうとしない父の方は、無配慮に言う。
「アカネちゃん、毎度うちのカズトに仲良くしてくれて感謝するよ。ありがとう」
「いーえー。カズトくんが面白いだけですよぉ」
「うちの息子が面白いだなんて初めて聞いたな。…なぁ、カズト…って、あいつ一人で進んでやがる」
駄弁る二人を残して、カズトは黙々と進む。
進む道の脇には街灯が立ち並び、道は、街灯に照らされた領域と真っ暗闇の領域が永久に交互している。
たった今、道の遥か前方の街灯下に、女性が歩いているのがちらりと見えた。
その女性が街灯が照らす範囲から抜けると、暗闇の中に消え失せる。しかし女性は次にたどり着いた街灯の下、淡い輪郭を見せた。しかしまた暗闇に消える。
カズトは進み、女性も進む。互いに距離は縮み、再び女性が街灯の下に至った時、ようやく、その姿が明瞭に映った。
よく見知った若い女性がポニーテールを揺らして、とぼとぼ歩いている。
「…しずえ先生か?」
カズトは立ち止まって目を細めると、姿見、歩き方から先生に違いないと確信がいった。
後ろのアカネも先生に気づき次第、手を大ぶりに振る。
察知した先生は小走りを始めた。
呼応してカズトもアカネも走って合流する。
「…ふぅ、良い運動になりました。こんばんは、咎木くん。ちょうど病院に向かっているところでしたが、目覚めて退院もしたんですね。よかったです」
「永伽さんもさっきぶりですね」
カズトはもう少し感動の再会的な空気になってもいいんじゃないかと思ったが、当然言えるはずもなく平気を装う。
「しずえちゃん、結局うちらの処遇はどうなったの?」
「そのことは緊急の職員会議で話しました。永伽さんが不良の集団に関わっていたことは問題ですが、それよりも…ひゃぁ っ !」
突如、驚愕するしずえ先生。その拍子に先生は地面に尻をどっかりと落とした。
先生は幽霊でも見たような顔をしている。
振り返ると、汚らしいコートを身に纏う不審者が突っ立っている。これは、父だ。
「先生、この人は俺の父親です。この間会ったはずです」
紹介するカズトを、父は横切って先生に手を貸した。
カズトは父のその行為を酷く憎んだが、先生の前では強引に抑止できない。先生は父の穢れた手を借りた。
「…あ、ありがとうございます…咎木さん」
「いえいえ、しずえ先生。先ほどは、うちの家内にお電話ありがとうございます」
「…はい」
どうやら先生はまだ動揺から抜け出せていない。
確かに父親は醜悪だが、そこまで動揺させるほどか。父は不細工なだけで凶悪面ではない。
父は大丈夫ですかと確認するが、なぜか、先生は一瞬だけカズトを見た。皺が寄った険しい表情をしていた。
それから先生は父を見て
「咎木さん、後日、お話しできませんか?」
カズトにとって、ショッキングな言葉を口にした。