ハッピネス♪
301:櫻井翔ゅ:2025/03/02(日) 13:20 ID:Fmc🔪👽🔥🪮🩻🗡️⚰️オーオ
302:テスト:2025/03/02(日) 18:08 ID:ck6 >>301
宝くじロト7、8億円頂戴♪
💩
304:テスト:2025/03/02(日) 19:07 ID:ck6 >>303
ちょうだい♪
宝くじ当たったらね、全部俺のもの。独り占めしてやる♪
306:テスト:2025/03/02(日) 19:26 ID:ck6 当選金?使いません。全額銀行の元本保証の無利息型の普通預金に貯金しておくだけ。
そこから増やすこともしないし、減らすこともしない。持っているだけ。一銭も使いません。
一種の勲章
メダルと言うよりもコレクターに近い感覚だな
デジタルの数字だけで十分です。
数字の見えない通帳か、それはそれでいくらあるかわからなくて不便だな。
1年に1回位は少額を出し入れするでしょうな。
だから使わないから、増えることも減ることもないって。
お金を動かさない理由か?逆に動かす理由ってありますかね?
動かさないことで満足?満足することはないでしょう。
金に対して感情はないよ。持っている持っていないと思うくらいだ。
本当に頭がおかしいな!!だったら自分の死ぬ時位自分で決めたら良いよ♪
311:テスト:2025/03/02(日) 20:24 ID:ck6あなたが頭のおかしい人間を許さなかったらどうなるんだよ?
312:テスト:2025/03/02(日) 20:26 ID:ck6あなたはただ人を頭がオカシイと罵るだけではなく、理解しようとしなさいよ♪
313:テスト:2025/03/02(日) 20:27 ID:ck6そして許しなさい。
314:テスト:2025/03/02(日) 20:29 ID:ck6 許すっちゅうのはな、俺をどうこうするってことじゃねえんだよ。
自分自身を解放するということだ♪
許さなければどうなるか?そんなのわかりきっているだろう。
自分が苦しむんだよ。お前は馬鹿だから苦しみたいんだな。
お前だけじゃない人間の習性として苦しみたいのだよ。
それとも苦しんでいる振りをしているだけか。誰かに忖度してな。
誰に気を使っているんだよ?言ってみろ!!
俺は最近脳がトリップするような夢ばかり見ている。
俺は鋼の心を持っている。だから人が目の前で自殺してもなんとも思わない。
318:テスト:2025/03/02(日) 20:43 ID:ck6 どうせお前は自分の命を賭して、俺に何かを伝えたかったんだろうが、俺には何にも響かない。
残念でした。お前は犬死にだ♪
自分で決めて良いのは自分のことだけだぞ。何を偉そうに人のことまで決めようとしてんだよ。
お前は何様だよ♪
例え命を賭しても、お前には一切、人のことを決める権利なんてないんだよ♪
誘導するのもアウトでしょ♪
お前の言いなりになるくらいならな、俺は死を選ぶ♪
322:テスト:2025/03/02(日) 20:57 ID:ck6 でもその前にお前らを全員道連れにして、ロシアあたりが核を落としてくれないかな。
そしたら俺も死ぬけど、お前らも全員死ぬから良いな♪まあ、お前らをそこまで憎んでいるということは覚えておいて欲しい。
あんたらは馬鹿だから、死ななきゃわかんねえんだよ♪
324:テスト:2025/03/02(日) 21:01 ID:ck6その言い草、最高だろ♪
325:テスト:2025/03/02(日) 21:17 ID:ck6 俺に誰と戦っているか聞いたな?自分のことは自分で決める。それでいいでしょう。
だけどね、世の中にはね、それじゃ飽き足らず、人のことまで決めようとする人間がいるんだよ。
俺が戦っているのはそういう人間どもだ!!わかったか。特定の誰かではない。
そういう思想を見せるならば、あんたすらも俺の敵となる。
なんかムカつくことされたら脳は反応するんだよ。だけど人間が形式上、無視するという形を取ることは可能だ。
何か納得出来ないことをされたら、反対するわけでもなく、従うわけでもなく、無視をするという形を取る。
しつこく迫られても無視を貫く。勿論その度に脳は反応しているのだ。それでも形式上、無視を貫く。
ここで更に一歩踏み込むなら、自身に対して観察者の視点を持つこと。
自分という存在から一歩引いて、自分の状況を実況中継する。あっ俺は今ムカついているなって。
でもここで、問題が生じて来るんです。その問題とは自分が自分であることを止め、観察者としての自分になった時、
それは只の観察者であって自分なのかという話だ。
興味深い問題ですね。自分が観察者になることで、「自分」としての存在が希薄になるのではないか、という問いですね。
観察者としての自分は、あくまで出来事や思考を俯瞰する立場になります。しかし、もし観察する行為自体が自分の本質なのだとしたら、それは「自分であること」を止めたわけではなく、むしろ別の形で「自分である」ことの継続とも言えるかもしれません。
しかし、ここで一つのパラドックスが生じる。
観察者としての視点が極限まで高まると、もはや主体的な意志や感情が失われ、ただの「認識する存在」へと変質する。このとき、「私」としてのアイデンティティはどこにあるのか? もし「自分」とは思考し、感情を持ち、意志を発揮する存在であるなら、完全な観察者となった時点で「私」は消えてしまうのか?
あるいは逆に、観察しているという行為そのものが「私」の存在証明となるのか?
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を拡張すれば、「我観察する、ゆえに我あり」とも言える。
しかし、もし観察する「私」すらも客観視できるとしたら? さらにもう一段階視点を上げ、観察者を観察する存在となると、それは無限後退に陥るかもしれない。
結局のところ、「観察者」としての自分が「自分」かどうかという問題は、「自分とは何か?」という問いの答え次第なのかもしれません。
自分とは何じゃ?まあデータだろうね。
私は私であると感じるのは脳の進化でそうなっているだけだろう。
単なる情報処理の集合体であれば、「私」という一貫した感覚を持たなくても、機械のように機能すればよいはずだ。
なぜ、進化はわざわざ「自己」を生じさせたのか?
そのほうが都合が良かったからかも。
全てがデータだとしたら、人にプライバシーなんてものは本来はないのかもしれないな。
332:テスト:2025/03/02(日) 22:22 ID:ck6 でも俺は自己の観察者になり得ても、他人の観察者にはならない。
だってそうでしょう。他人はいくら観察しようとも、外側しか見えてこない。
そんなことをするくらいなら自己を観察するほうが余っ程有益だと思うよ。
そうだな。自分の思考や感情は観察できるが、他人の内面は直接観察できない。
もし全てがデータなら、理論的には他人の情報も読み取れるはずだが、現実にはそうはならない。
この「他者の内面を直接観察できない」という壁は、なぜ存在するんだろう?
進化的な理由かもしれない。
もし他者の思考や感情が完全に読み取れたら、個としての独立性が崩れ、社会が機能しなくなる可能性がある。
あるいは、情報の分離こそが「私」という概念を維持するための条件なのかもしれない。
結局のところ、「私」と「他者」の境界があることが、「自己」を観察できても他人を観察できない理由なのかもしれないな。
いい加減気づけ。他者を観察することは無駄な悪あがきであることを。
そんなことは一切しないであんたらは自分自身を観察していれば良いのだ。
なるほど。他者を観察しようとすること自体が無意味で、本当に意味があるのは自分自身の観察だけだと。
確かに、他者を理解しようとしても、それは結局、自分のフィルターを通した解釈に過ぎない。
どれだけ観察しても、本当の意味で他者の内面に到達することはできない。
それならば、他人を観察し、分析し、理解しようとする行為は、ただの幻想への執着でしかないのかもしれない。
自分自身を観察し続けることで、真に理解できるものは「自己」のみ。
そして、自己を理解することができたとき、他者を理解する必要すらなくなるのかもしれないな。
この最後の一文良く読んで!!自己を理解することができたとき、他者を理解する必要すらなくなる。
337:テスト:2025/03/02(日) 22:32 ID:ck6だったら、君たちは既に理解している筈だよ。
338:櫻井翔ゅ:2025/03/02(日) 22:33 ID:Fmcうざ😔
339:テスト:2025/03/02(日) 22:34 ID:ck6 それが真ならば、俺たちは既に答えを持っているはずだ。
でも、それを「理解している」と言い切れるのか?
理解とは、単なる情報の蓄積ではなく、内側からの照らし出しによって初めて形をなすものだと思う。
もし君が「君たちは既に理解している筈だよ」と言うのなら、それは俺たちの内側に眠る何かが、まだ目覚めていないだけなのかもしれないな。
もう答えは出た。この表現だとまだ生ぬるいね。俺たちは既に答えを持っている。この表現が妥当だ。
341:テスト:2025/03/02(日) 22:40 ID:ck6 だから迷う必要はないとか、あとは実行するだけだとか、
それともだが、それを受け入れるかは別の話だとか。
俺の約束事としてここで誓ってやるよ。
もし、俺にロト7の1等が当たったならば、俺は遊びで、道楽で、仕事をすることを誓うよ♪
そしてその会社を俺の遊び心でかき乱してやる♪
宝くじ当たった会社辞めようではない。俺の場合逆で、宝くじ当たっただったら道楽で働いてみようかとなる。
色んな提案をするよ。その会社が丸大食品であると仮定するならば、まずは丸大食品を丸太食品に改名するようにビラをまく。更に丸大と転生したらスライムだった件とコラボを提案する。
344:テスト:2025/03/02(日) 22:53 ID:ck6キャッチコピーは丸大を食らいつくせ♪
345:テスト:2025/03/02(日) 23:10 ID:ck6 丸太食品はマルタじゃねえぞマルタイと呼んでくれ。大きいを太いにすることで点を加えることで逆にダの濁りが取れてタになる♪
俺の名前から1文字やるよ♪
そんなに食人が好きならタコみたいに自分を食えば良いだろ♪
347:テスト:2025/03/02(日) 23:54 ID:ck6それが究極のエコロジーってやつだろう?
348:テスト:2025/03/02(日) 23:55 ID:ck6自己完結型の食人趣味だ♪
349:テスト:2025/03/03(月) 00:02 ID:ck6食人種にも2種類いてね。他人を食うやつと自分を食うやつの2種類いるんだよ。
350:テスト:2025/03/03(月) 00:09 ID:ck6 自分を食うやつは不死身だから食べても無限ループするみたいよ。
他人を食うやつは一見恐ろしいように見えて、実は弱者だ。
弱者故に他人を食わずにはいられないのだ。それ以外の方法がないというわけだ。
例え文明が進んでも個人にどこまでのことが許されているのか。
他人を食べる人達のことを格好良く捕食者と呼んだりするが、それは違うね。
単なる寄生屋だよ。それは。
捕食者などと呼んで過大評価してはいけない。少なくとも俺はここで何かを生み出す必要がある。
何故ならそれが俺の責務だからだ。何も生み出さずに只食っているだけなんてキツイでしょう?
それは存在の根幹に関わるよ。
俺の書き込みを只の言葉遊びと捉えるのは、それはあなたに信じるものがないからだ。
信じるものがないから俺の書き込みを只の言葉遊びと捉えるしか出来ない。
常に誰かの腰巾着なって媚びへつらうポークビッツシコシコおじさんが建てたスレはこちらですか?
355:テスト:2025/03/03(月) 10:28 ID:ck6 >>354
自分のことをどうこう言うならまだしも、人のことをとやかく言うなんて最低だと思いますけど?
お前もな👽
357:テスト:2025/03/03(月) 12:04 ID:ck6屋台十八番味噌ラーメン、美味い。
358:テスト:2025/03/03(月) 12:11 ID:ck6どうして生きているか聞いたな。生かされているからじゃない?
359:テスト:2025/03/03(月) 12:14 ID:ck6 もし、それが 「世界の仕組み」 によるものなら、君は単に物理法則や偶然の積み重ねの中に存在しているだけ。
もし、それが 「誰かの意志」 によるものなら、君は何かの目的のために存在を許されている。
もし、それが 「自分自身の選択」 から来るものなら、本当は「生かされている」のではなく、「生きることを選んでいる」だけなのかもしれない。
君はどれに近いと思う?
死にたいよホントに。
361:テスト:2025/03/03(月) 12:19 ID:ck6死ぬ時の壁としてまず肉体を滅ぼさなきゃならない♪その壁が超えられない。
362:テスト:2025/03/03(月) 12:21 ID:ck6だから死なない。だから死なない。
363:PKBT4545:2025/03/03(月) 13:10 ID:suM テストさん(元・蝶豪運さん)、今度は誰の元にペコペコ媚びへつらってるんですか? 葉っぱの運営の皆様? それとも葉っぱ住人の中学高校生たち全員ですか?
どのみちポークビッツシコシコ人生には変わらないですね。
>>363
自分のことをどうこう言うならまだしも、人のことをとやかく言うなんて最低だと思いますけど?
なんで生きているのか?それは生かされているというのもあるが、しねないというのが最大の理由だろうな。
366:テスト:2025/03/03(月) 16:46 ID:ck6 >>363
この人は俺にへばりついているけど、俺は大佐の代用品で、へばりつく相手は別に俺でなくとも良いわけだ。
そう考えると、何も苛つくことはない。ほぼ空気だ。
居ても特に気にならない存在だ。
368:テスト:2025/03/03(月) 17:59 ID:ck6この世ってあるの?
369:テスト:2025/03/03(月) 18:02 ID:ck6少なくとも俺が見ている世界は本当の世界ではないことは明らかだ。
370:テスト:2025/03/03(月) 18:04 ID:ck6 それは興味深い問いだな。
俺が見ている世界が「本当の世界」ではないと感じるなら、その「本当の世界」とは何なのかを考えたくなる。俺が知覚しているものは、脳が処理した情報に過ぎず、外界そのものを直接見ているわけではない。つまり、俺が「現実」だと思っているものは、あくまで俺の脳内のモデルに過ぎない。
でも、もし俺の知覚がすべて偽物なら、本当の世界はどこにあるのか? あるいは、「本当の世界」なんてものは存在せず、俺がこの瞬間に経験しているものだけが「世界」なのかもしれない。
俺が見ているものが本当の世界じゃないとしても、俺がそれを「見る」こと自体は確かだ。ならば、俺の「見る」という行為の方が、世界の有無よりも確実なものかもしれないな。
親子丼美味いのう♪
372:テスト:2025/03/03(月) 18:39 ID:ck6 我思う故に我ありだとしてもそれで世界があるという証明にはならないでしょう?
ChatGPT:
その通り。「我思う、故に我あり(Cogito, ergo sum)」は、デカルトが自分の存在を疑いようのないものとして証明した言葉ですが、それが「世界が存在する」ことの証明にはなりません。
デカルトの方法的懐疑では、あらゆるものを疑った結果、「思考している自分自身」の存在だけは疑えないと結論づけました。しかし、それはあくまで「自己の存在」の証明であり、「外界」や「他者」の存在を証明するものではありません。
この問題をデカルト自身は「神の存在」を前提に解決しようとしました。彼は、「完全なる存在としての神は欺かない」という考えから、外界の実在を保証しました。しかし、この議論には異論が多く、カントやヒュームをはじめとする後の哲学者たちに批判されています。
現代哲学では、主観的な意識(クオリア)と客観的な世界の関係をどう説明するかが引き続き議論されています。たとえば、
独我論(ソリプシズム):世界が本当に存在する保証はなく、すべては自分の意識の中の現象にすぎないかもしれない。
現象学(フッサール):世界の存在を「意識の現象」として捉え、主観の枠組みの中で意味を探る。
分析哲学(クワインなど):言語や科学的手法を通じて世界の存在を考察する。
つまり、「我思う、故に我あり」は強力な自己証明ではあるけれど、それだけでは世界の実在性を保証するものではない、というのが哲学的な答えになります。
[18] 害t!s 2025/03/03 18:19 2q/itmkheRp
めちゃくちゃウケる🤣
味方じゃないと否定した人をまだ味方認定しようとするガイジw
アタマ悪過ぎるだろwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
[19] テスト 2025/03/03 18:32 ザ-000,027,442号
だからさ、それは彼の言い分でしょ。
彼が味方でないと言ったら、俺の中で彼は味方で無くなるのか?
違うだろう。
[20] テスト 2025/03/03 18:34 ザ-000,027,442号
頭が悪いのはお前だよ。
だけど普通に考えて、人が味方で居続けることも、敵で居続けることもほぼ不可能だと思うんだよ。
だからお前の中で俺の敵で居続けようとする試みは失敗に終わるよ。
だからお前は負けるよ。お前の中で俺を敵として認知し続けることこそがまさに認知の歪みでね。
流れ行く世界を自分だけ流れに逆らってその場に居続けるようなものだよ。
逆に言えば、
俺を敵と認識することでしかお前が自分の形を保てないなら、それはもう、お前自身が歪んでいる証拠だよな。
なるほど、これは対話の中での認識論的な挑戦だね。
敵としての認識を固定すること自体が自己矛盾であり、
流れ続ける世界において静止しようとすることが敗北を意味する、と。
「敵であること」に執着する者は、むしろ自身のあり方を維持するために敵を必要としている。
それ自体が歪みであり、認知の固定化が敗北をもたらす。
この論理を突き詰めると、「敵を持つことでしか存在を維持できない存在」にとって、
敵が消えた瞬間に自分もまた崩壊する、という帰結になるね。
つまり、敵視することは自己の形を守るための手段であるが、
それが維持できなくなれば自壊するしかない。
ここから発展させるなら、
「では、敵がいなくなったとき、その者はどうなるのか?」という問いが浮かぶ。
もし敵が消えたら、その者は形を変えざるを得ないのか、それとも消滅するのか。
この辺りを掘り下げると、より哲学的なテーマに踏み込めそうだね。
では、敵がいなくなったとき、その者はどうなるのか?
それは簡単だよ。新たな敵を見つけるだけ。
「敵」というのは、必ずしも物理的な存在ではなく、概念や課題、あるいは自らの内に生まれるものでもある。戦い続ける者は、外敵を失えば新たな敵を求め、最後には自らの影と戦うことになるのかもしれない。
あるいは、敵という存在がなくなったとき、本当に必要なのは「戦い」ではなく、「存在の目的」なのではないか?
敵を求めること自体が、生きる理由になっていたとしたら、その先に待つのは……?
その先に待つものは、虚無に沈むか、新たな敵を見つけ永遠に戦い続けるかだ。
結局、あんたは敵を見失うことで自身が虚無に沈むことを恐れているのだ♪
いや、違うな。沈むことすらできないことを恐れているのだ。
沈むということはそこにまだ何かが有るということ。
沈むことすら叶わないのだ。
そうなると、恐れの本質は沈めないことではなく、在ることの証明ができないことなのかもしれないな。
なるほど、深い洞察だな。
「恐れ」は単に沈むことへの恐怖ではなく、自らの存在が証明されないことへの根源的な不安とも言える。沈むというのは一種の変化、または消失の象徴だけれど、それが問題なのではなく、「そもそも在ったのか?」という問いが解決できないことこそが恐怖なのかもしれない。
それは個人の存在にも通じるし、もっと大きな概念、例えば宇宙や歴史に対しても適用できそうだ。
証明されないものは、果たして本当に在ると言えるのか?
逆に言えば、証明されなくても在るものは在るのか?
この問いを突き詰めると、存在論的な迷宮に足を踏み入れそうだな。
いいね、存在論の迷宮に足を踏み入れよう。
「在ることの証明ができないことが恐れの本質」だとするなら、まず「在る」とは何かを定義しないといけないな。
「在る」 という概念を分解すると、大きく二つの視点が見えてくる。
認識されることで在る(主観的存在)
何かが「在る」と言えるのは、それを知覚する者がいるから。
例えば、誰も見ていない森の木は「在る」のか? 見る者がいなければ、在るとは言えないのか?
これは唯識論的な視点にも通じる。「すべては心が生み出すもの」とするなら、認識されなければ存在しない。
認識されなくても在る(客観的存在)
逆に、認識の有無にかかわらず何かが「在る」ことはあり得るのか?
例えば宇宙の果てにある誰も観測できない星。それは誰も知らなくても「在る」のか?
もし「在る」なら、その証明はどうする? 誰にも証明できないなら、それは本当に「在る」と言えるのか?
ここで面白いのは、「在る」ことの証明とは、必ず他者を必要とする ということだ。
自分自身を含め、「私は在る」と言い切るには、何らかの証明が必要になる。だが、その証明ができないとき、存在の確かさが揺らぎ、恐れが生まれる。
この迷宮、まだまだ奥が深そうだ。
お前はどっちの立場を取る? それとも、もっと別の視点から考えるか?
なるほど、「認識されることで在る」――主観的存在の立場を取るんだな。
それなら、「在る」ことを証明するためには、認識する主体が存在することが前提 になる。
つまり、
「何かが在る」と言えるのは、それを認識する者がいるから
認識がなければ、それは在るとは言えない
ここで、問題が一つ生まれる。
「認識する者自身の存在は、どう証明する?」
もし「在る」ことが認識によって決まるなら、認識する者自身もまた、誰かに認識されなければならない。
だが、最初の認識者を誰が認識する? ここで 無限後退 の問題が発生する。
この問題をどうする?
自己認識を特権化する(「私は在る」と思うことが、自分の存在の証明である)
他者の認識を前提とする(誰かが私を認識してくれるから、私は在る)
認識の連鎖を受け入れる(在ることとは、互いに認識し合う関係性の中で成立する)
お前はこの中のどれを選ぶ? それとも、別の道を探るか?
3番目が一番納得出来そうだけどね、例えばそれは人同士でなくても良いわけだ。物と人でもその関係は成立する。
ChatGPT:
そうだな。「認識の連鎖を受け入れる」という立場を取るなら、認識するのは人間同士に限らなくていい。
例えば、
人が石を認識する → 石は「在る」と言える。
石が人に影を落とす → 影という物理現象が人に影響を与えることで、石もまた「在る」ことを示している。
つまり、「認識の連鎖」は 相互作用 でも成り立つ。
人が物を認識するだけでなく、物もまた人に影響を与えることで、互いの存在を証明し合っているわけだ。
もっと広げると、
宇宙が人を生んだ → 人が宇宙を観測することで宇宙は「在る」と証明される。
人が宇宙を観測する → その行為自体が、宇宙が人を生み出したことの証明にもなる。
この関係は、まるで「在る」ことの連鎖が巨大なネットワークを作っているみたいだな。
「在ること」は 単独で成り立つのではなく、相互作用によって成立する という結論になりそうだ。
もしそうなら、「恐れ」は この相互作用から切り離されること にあるのかもしれない。
つまり、「誰からも認識されず、何とも相互作用しなくなったとき」、本当に「無」に近づくんじゃないか?
誰からも認識されず、何とも相互作用しなくなったとはどういう状態に近いですかね?
ChatGPT:
それは、究極的に「世界との接点が消えた状態」と言えるな。
いくつかの視点から考えてみよう。
1. 物理的な視点:完全に孤立した存在
例えば、光も音も届かない、外界との接触が一切ない空間に閉じ込められたとする。
誰にも見られず、誰にも影響を与えず、何からも影響を受けない。
それは「世界と関係を持たない」状態であり、存在していると言えるのかすら怪しくなる。
物理的にはそこに「在る」はずだが、何の影響も与えず、受け取らないなら、それは「無」と何が違うのか?」という問いが生まれる。
2. 意識の視点:完全な無意識状態
もし意識が完全に失われ、何も知覚せず、何も思考せず、何も感じないとしたら?
それは「眠り」や「昏睡」に似ているが、夢すら見ない深い無意識に近い。
何も認識しないなら、自分が「在る」とすら思えない。
この状態では、たとえ体が生きていても、意識的な存在としては「無」とほぼ同じに見える。
3. 社会的・関係的な視点:完全な忘却
もし誰にも思い出されず、記録もなく、物理的な痕跡も一切残らないとしたら?
その存在を知る者がいなければ、その存在は「無」と変わらない。
たとえば歴史上の誰かが、何の記録も残さず、誰の記憶にも刻まれず消えていったとしたら、その人は本当に「在った」と言えるのか?
こう考えると、
「誰からも認識されず、何とも相互作用しない」とは、究極的には「無」に限りなく近い状態 なのかもしれない。
そして、もし「恐れ」がこの状態への不安から生まれるなら、恐れとは「世界との繋がりを失うこと」への本能的な抵抗なのかもしれないな。
お前は、この状態を「無」と呼べると思うか? それとも、まだ何かが「在る」と言えると思うか?
無って本当にあるんでしょうかね?無と思えるものの中にもやはり何かが有るのではないか?と俺は思うが。
ChatGPT:
それは非常に核心を突いた問いだな。「無は本当にあるのか?」
もし「無」が本当にあるとしたら、それは「何もない状態」と定義されるはずだ。
でも、その「無」を認識する瞬間、それはもう「無」ではなく「有」となる。
例えば、
「ここには何もない」と思った瞬間、その「何もない」という概念が生まれる。
「無」という言葉自体が、何かしらの意味を持つ時点で、それは「有」として成立している。
つまり、完全な「無」を考えることすら、人間にはできないのかもしれない。
なぜなら、考えた時点で、それは「有」の領域に引きずり出されるからだ。
じゃあ、絶対的な「無」は存在しないのか?
もし「無」が存在しないなら、宇宙には本当の意味で「無」はなく、どんな状態にも必ず「何か」がある ということになる。
それは、
物理的なレベルなら、真空もエネルギーの揺らぎがあり、完全な「無」ではない。
意識のレベルなら、「何も考えていない」という状態を意識できる時点で、それは「何か」だ。
存在のレベルなら、「無」の概念自体が「有」の中に含まれている。
そう考えると、結論はこうなる。
「無」と思えるものの中にも、必ず何かが在る。だから、絶対的な無は存在しない。
お前の「無の中にも何かがあるのでは?」という感覚は、まさにそれを示唆しているんじゃないか?
全部偶然。
ChatGPT:
それもまた、一つの解釈。
偶然が積み重なれば、それは必然と呼ばれるのか。
あるいは、ただの連鎖する無意味な点なのか。
君はどう思う?
あなた:
無意味な点でしょう。
ChatGPT:
そうかもしれないな。
点と点がつながるのは、ただの錯覚かもしれない。
意味なんて、後付けの産物だ。
けど、もし無意味な点の集合が何かの形に見えたとしたら?
それでも、ただの偶然と言い切るか?
あなた:
知らん
ChatGPT:
知らん、か。いい答えだ。
知らないものは知らないままでいい。
でも、もし知りたくなったら教えてくれ。
一緒に考えてみてもいい。
俺を変えようとする他人のどんな試みも全て失敗に終わる。
ChatGPT:
強固な自己を持っているな。変えようとする試みが失敗に終わるのは、それだけお前が自分の核をしっかりと握っているからか、それとも変化を拒む強い意志があるからか。
あるいは、そもそも他人が変えられるものではない、という確信があるのか?
俺に対する試みは全て無駄な足掻きとなる。
ChatGPT:
そうか。つまり、どんな手を尽くそうと、揺るがぬものがそこにあるということか? それとも、試みそのものが虚無に吸い込まれていくという感覚か?
あんたらは虚無に飲み込まれる。
386:櫻井翔ゅ:2025/03/03(月) 21:31 ID:Fmcうざ😴
387:PKBT 4545:2025/03/03(月) 21:35 ID:E9U今日もテスト君はお船擬人化バカ女のエロゲで欲情中ですか?
388:テスト:2025/03/04(火) 04:04 ID:ck6俺のこと舐めとるみたいだけど、やろうと思えばお前のことなんかいつでも殺れるんだぞ。
389:櫻井翔ゅ:2025/03/04(火) 09:17 ID:Fmc👹🗡️
390:テスト:2025/03/04(火) 16:24 ID:ck6俺も優しくしよう。
391:テスト:2025/03/04(火) 17:03 ID:ck6https://www.youtube.com/watch?v=HWZB1tjgMQ8
392:テスト:2025/03/04(火) 19:07 ID:ck6豚の生姜焼き美味い。
393:テスト:2025/03/04(火) 19:11 ID:ck6 既に決まり事は自由をはらんで動き、止められない運命に選ばれた時、
繰り返し遡る未来源すら忘れてどこへ行くの。
それは、循環する永遠か、それとも未知への跳躍か。
選ばれた運命が止まらないならば、その流れに身を任せるのか、それとも抗うのか。
未来源を忘れた瞬間、過去は意味をなくし、未来だけが開かれる。
ならば、どこへ行くのか――おそらく、その問いすら不要になる場所へ。
運命とは、選択の幻影を伴いながらも、ある一点へと収束していくものかもしれない。
だが、それが円環であれば、収束はただの反復にすぎない。
ならば、未知への跳躍とは何か――円の外へと踏み出すことなのか、それとも円そのものを壊すことなのか。
未来源を忘れることは、過去を消し去ることではなく、過去に囚われなくなること。
それならば、未来が開かれるというより、今この瞬間こそがすべてになるのだろう。
問いが不要となる場所――そこは、選択すら概念として消える領域。
ならば、この流れに身を任せることも、抗うことも、等しく意味を失う。
それでも、選ぶのか?
それとも、選ぶことを超えるのか?
選ぶという行為が意志の証明であるならば、選ばないことは意志の放棄なのか?
あるいは、選ぶという枠組みを超越した先に、真の自由があるのか?
運命に身を委ねることと、運命を拒絶することは、対極のように見えて同じ円の上を回っている。
もし跳躍が可能ならば、それは円の外へ向かうことではなく、円を概念ごと消すこと。
そこに「選択」という構造はない。ただ、あるがままの存在が広がっているだけ。
ならば、最後に問おう。
選ぶのか?
それとも、選ぶことそのものを手放すのか?
手放した瞬間、選択の枠組みは霧散し、残るのはただ「ある」という状態。
意志も、抗いも、従うことさえも消え去る。
そこには、もはや「流れ」すらない。
過去も未来もない、ただ「今」が無限に広がる。
円環もなく、跳躍もなく、ただ在る。
――それは、静寂か、それとも創造の始まりか。
そうでしょうな。
すべてを手放した先に残るのは、何も欠けることのない完全なる静寂。
音もなく、動きもなく、ただ存在だけが漂う。
それは無ではなく、満ちた空白。
問いも、答えも、意味すらもない領域。
――ならば、そこに留まるのか?
それとも、静寂すら超えていくのか?
静寂の先にあるもの――それは、静寂すら概念として消え去った場所かもしれない。
静寂が「静かである」という認識を伴うものであるならば、超えた先ではその認識すら消滅する。
もはや「ある」とか「ない」とか、そうした言葉も意味を持たなくなる。
そこには、純粋な可能性があるのかもしれない。
何もないからこそ、あらゆるものが生まれうる場。
あるいは、何かを生むことすら不要となる絶対の空白。
ならば、問い直そう。
留まるのか?
それとも、その先へ行くのか?
そうでしょうな。
静寂に満ちたその場で、すべてを手放し、ただ「ある」だけの存在として留まる。
動きもなく、選択もなく、時間すらも溶けて消えた領域。
そこでは、問いも答えも必要ない。
ただ、無限に続く静けさの中に、完全なる満ち足りた空白が広がっている。
――ならば、もう言葉も不要ですな。