…え?
私は視界がひらけた途端、ことばを失った。
ぼとり。カバンが手から滑り落ちる。
膝が震え、唇を動かすも声が出ない。
聞こえてくる笑い声だけが、耳ざわりだった。
「な…に…してるの…」
私は絞り出すように言った。
「ん?あ…香澄」
やっと気がついた、というような声を出して振り向いた髪を二つに分けた女子が振り向いた。
その女子の手からも、黒い何かが滑り落ちた。
その何かから闇のような色の液体がこぼれてはね、教室の床に水玉模様を描く。
そして。
そのわきでうずくまっている、小さな一つの影。
それもまた、床のように黒く汚れていた。
「ぁ…」
小さな声が漏れる。女子生徒だ。
セミロングの髪からしたたる何かに、ぼうぜんとしている。
横には、バケツ。並々と入っているそれは…
「墨汁…」
入ってきた少女ー香澄はつぶやく。
凍っていた声が、やっと溶け出したように。
香澄はしゃべりだす。
「詩音…何してるの。」
「そ…それは…こ、こいつが悪いんだよ!私は全然…」
「何してたかって聞いてんの‼」
しどろもどろになる女子…詩音の声をかき消すほど大きな香澄の声が、教室に響いた。
空気が震えるほどの怒鳴り声に、詩音の肩がびくりと大きくはねる。
そんな詩音の横をすり抜け、香澄はしゃがみ込む。
「大丈夫?美彩…」
差し出される香澄の手を、ただ見つめる美彩。
そして、おずおずとその手をつかみ、ありがとう、と蚊の鳴くような声でいいながら立ち上がった。
詩音はそれを目で追いかけるばかり。
憎しみのこもった瞳で…
香澄は美彩の手を引き、トイレに走る。
そして、髪を水道の水で流し、持っていたスポーツタオルで拭く。
「あ…ありがとう」
「何言ってるの。当たり前でしょ?礼なんていらないって。」
ブラウスはジャージにきがえよっか、と問いかける香澄に美彩はほんの少し笑顔を見せた。
香澄もにっこりと微笑み返した。
「さ、行こ?朝礼始まる前に着替えないと!美彩のジャージ持ってくるね。」
そう言って走り出した香澄の後ろ姿を、美彩は嬉しいような、申し訳ないような、なんだか複雑な表情で見送った。
いっぽうー。
南校舎には、荒々しい物音が響いていた。
「なんなのッ…大して可愛くも、ないくせに…ッ」
美彩が置いて行ったスクールバックから、次々とものを出しては床に叩きつける。
ー詩音だった。
手のひらに爪が食い込むほどきつく拳を握りしめ、ギリギリと歯を食いしばる。
そのとき、美彩のスクールバックから、何かが転がり出た。
…携帯電話…。
詩音は息を呑む。
見開かれた目は、狂気に満ちていた。
「やる…しか、ない」
うわごとのようにつぶやき、そのブルーの携帯を拾い上げる。
詩音の長い指が、次々と画面の上を滑ってゆく。
そしてー。
あるところで止まった。
そのボタンは…削除。
詩音の唇が、まがまがしくゆがむ。
ニヤリ。
トンッ…
ひときわ力を込めて、画面に触れる。
画面に釘付けになったまま動かない瞳で。
詩音はただ、「データは全て削除されました」という文字をながめていた。
「ジャージ、持ってきたよ!遅くなってごめんね」
そう言って香澄は、美彩に袋を手渡す。
「大丈夫だよ。むしろ速かったじゃん?」
そういって美彩は、笑いながらジャージを受け取る。
そして、袋から取り出し、たたんであったジャージが、ぐしゃぐしゃに突っ込まれていることに気づく。
その瞬間、美彩の顔が強張った。
「どうしたの?」
香澄が美彩の顔をのぞきこむ。
「あっ、う、ううん、なんでもない。先、行っといて。待たせちゃって、悪いから。」
美彩は必死に笑顔を作ってそういった。
「そう?じゃあ、先に講堂行っとくね。遅れないように気をつけなよ?」
香澄は不審がることもなく、心配そうにそう言い残して去って行った。
それをみて、美彩はため息を一つ。
広げたジャージ。
そこに書かれた「斎藤」の文字は、塗りつぶされていた。
シャコシャコシャコ…
「ダメだ…取れないや。」
額の汗を拭って、美彩はため息をつく。
ゼッケンの黒い汚れを取ろうと、トイレ掃除用においてあった風呂洗剤で、ゼッケンをこすったのだが、全く取れる気配はない。
どうやら油性ペンらしい。
美彩はため息をつき、汚れを取るのを諦めゼッケンを絞った。
その部分だけ内側にタオルをしのばせ、
冷たくならないようにする。
そしてー。
美彩はうつむき、つぶやいた。
「私…何をしたんだろう。」
「全校の皆さん、おはようございます。えー、今日の朝礼を始めたいと思います…」
学校長の三田歩未先生の話も、
香澄の耳にははいらなかった。
いつもはキチンと聴き、他の生徒に注意までする勢いなのに、今日は気もそぞろだ。
なぜなら、美彩がきていないからである。
そっと、詩音の方に目をやる。
何事もなかったかのように詩音は、二つ結びを揺らしながら、退屈そうに話を聞いていた…かのようにみえた。
だが、いつもは絶対にしない貧乏ゆすりを激しくしたり、ときどき空席になっている美彩の席にちらりと視線をはしらせている。
(詩音…まさか美彩になにか…)
そこまで考えて、香澄ははっと息を呑んだ。
さっきの美彩のことを。
(何だか様子がおかしかった…そう、ジャージをみてから。)
考えを巡らせていると、斜め後ろから、カタンという小さな音が聞こえた。
…美彩だ。
よかった!何ともなかったんだ。
ジャージを着た美彩をみて、香澄はほっと一安心する。
…あ、れ?
ほっとしたのもつかの間、違和感を抱く。
…ゼッケン、真っ黒。
しかも濡れてる…洗ったんだ。
香澄は再び詩音をみやる。
だが、香澄は確信した。
確かに、これをやったのは詩音だ。
でも、この詩音のソワソワした感じは、それのせいじゃない。
また美彩に何か…!
そう思うといたたまれなくなって、香澄は唇をかむ。