ぼくには欠陥があった。
脳がちょっぴりつまっちゃってて、五秒タイムラグがあった。
たとえば、誰かが
「こんにちは」
と言う。
ぼくはそれから五秒経って、
「こんにちは」
と言われたことに気がつく。
ニュース番組で、日本からアメリカに生中継したときに、時差があるけど、
あんな感じ。
ぼくは言っちゃ悪いけど、この欠陥を愛しさえしていた。
この欠陥を言い訳に、人生のあらゆる困難が免除されるのだと思った。
中学の時、ひかりというクラス一の美人に、他の男子とは五秒遅れて恋をした。
ひかりはぼくを愛さないだろう、なぜなら、欠陥があるから。
それよりも野球をやっているユキオ君が、背が高くて、格好いいのだ。
ぼくだけの欠陥は、ぼくだけの世界だ。
「五秒経った世界」。この世界は灰色をしているのだ。
ぼくはいつも過去を生きているから、今を生きることなどないのだ。
だけど、この世界に侵入してくるやつが、たまにいる。
「こんにちは」
と、隣の机のユキオが話しかけてきた。
ぼくは無視をした。
ぼくだって一時は、こんにちはには、こんにちはを返していた時期があった。
だけど、わざわざ五秒も待ってくれる人などなかなかいないから、
ぼくがこんにちはを言った途端、もうあちらがわからすれば五秒経っていて、
「こいつ失語症か」
とか思われて、黙って行ってしまう、ということが何度もあった。
だからもうこちらがわから無視をするようになった。
突然ユキオの色がついた。
「こんにちは」
と、また言った。
ユキオに、灰色ではなく、ちゃんとした、肌の色、制服の色がついた。
この世界で、この教室で、色がついているのはぼくたち二人だけだ。
待ったのだ。彼は五秒待って、僕の世界に入ってきた。
ぼくは灰色の世界にはナワバリ意識があって、とても不安な気分になった。
「待たなくていいから、五秒」
「いいじゃないか、ぼくは君と話したいんだ」
「それで?一体ぼくなんかと、何を話したいんだい」
ぼくはさっさと自分の世界に帰ってもらおうと思って、無愛想にして、
しかも無駄な質問はさけた。
「何をって」ユキオが言った。「興味深いじゃん。君の、その」
「興味深い!?そんな風に言われたくないね。ぼくはこのタイムラグのせいで、
まともな人生を送ることはあきらめているんだよ」
「なにもあきらめることないじゃないか。たとえば、その独自の感性で、音楽家にも、
画家にもなれば、そのタイムラグは、武器になったりするんじゃないか」
「何もわかってないくせに、勝手なこと言わないでくれよ」
その時、チャイムがなった。本当は、五秒前に鳴ったのだろう。つまり、ユキオはチャイムがなっても、
ぼくに話しかけてきていた、五秒待ってまで。けしからんやつだ。
国語の授業……と言っても、ぼくだけは一種特別で、問題を先生から当てられることは
なかった。
五秒待つのは効率が悪いから、ぼくはもう、放送大学でも視聴する気分で、教室をながめていれ
ば、それでよいのだった。
ぼくはだから、授業中、ぼおっとしていることが多かった。
教科書の内容などちっとも頭に入らず、夢でもみている具合に、空想ばかりしているのだった。
そのせいでテストの点数はクラスで最下位だが、ぼくはべつに気にしてなどいないのだ。ぼくだけは特別に
五秒遅くテストが開始され五秒遅く終了するといっても、それは結局プラスマイナスゼロで、なんでもないことだ。
本は好きだった。アインシュタインは、授業中、ぼくのように夢想ばかりしていたと書いてあったから、それに
背中を押され、すっかりぼくは馬鹿になった。
ふと、ユキオが言ったことを思い出す。
「なにもあきらめることないじゃないか」
ぼくは人生から逃げたかっただけなのかもしれない。
結局のところ、ぼくの人生の時間は、テストのようにプラスマイナスゼロなのだから、なんでもなく、
ただ生きていればいいのだとも言える。
それでも何かしらの障害はあることはたしかだ!それを乗り越えられるほど、ぼくは強くないし、
多分社会もそれほどやさしくない。
だれもぼくのことは待つな。五秒早く、先に行ってしまえ。
学校の時間は夢想に尽きた。
灰色の世界で、他に何ができよう?
部活動に走る生徒達を横目に、ぼくはひとり歩いて帰る。
道路を渡るときは気をつけなければならない。
横断歩道を渡っているとき、ぼくの目には車などつっこんできていなくても、
本当の、色のついた世界では車がぼくにつっこんでいて、知らぬ間にぼくは死んでしまった、
ということだって考えられるのだ。
しかし気をつける、などと言ったって、ぼくにはびくびくおびえながら横断歩道を渡ることしか
できないのだ。
信号が青になったとき、後ろから声がした。
ユキオである。ちゃっかり、色がついている。ユキオが
「帰宅部同士、やっていこうぜ」
と言った。
「やっていこうぜって……何をだよ」
「何だっていいじゃないか」
「さっきも言ったと思うけど、五秒待たなくていいから」
「いいじゃんか、いいじゃんか」
「からかっているのかい?」
「そんなつもりはぜんぜんないんだけどね」
ぼくはいちいち人の言葉を疑ってかかる癖がすっかりついてしまっていたから、
ユキオの言葉を素直に受け入れることはせずに、自分の心の横に保留しておいておいた。
ユキオは正直うざかったが、ひかりは、ぼくの世界にぜひとも招き入れたかった。
だけど、あのすばらしいひかりに、ぼくのためにわざわざ五秒待てというのは、少し
おこがましいことのようにも思われる。
なにか方法はないか……そう考えながら眠ったとき、こんな夢をぼくは見た。
灰色の砂浜の上をあるいていると、向こうからひかりが歩いて来る。
ひかりも灰色だった。
ぼくはまだひかりをどうにかする方法がわからないので、そのまま自然にやりすごした。
ひかりは通り過ぎた。その後ろ姿を見ようと、僕が振り返ると、驚いたことに、ひかりもこちらを
見ていた。
「方法、方法、って、馬鹿じゃないの!言いたいことがあるのなら、はっきり言えばいいでしょ!」
ぼくはうつむいた。するとひかりは灰の山に変身した。風が吹いて、宙にばらまかれて、なくなってしまった。
何も感じられなかった。世界は最初から灰色だから。
目が覚めて、ぼくは失恋をした気がした。だけど、しょせん夢だ、ばかばかしい、と考え直した。
ぼくは方法を探った。