湖は写真のように静止していて、その上を老水夫が行く。
こちらからあちらへ。乗せているのは一人の若い女である。
鳥がぴよぴよ鳴いているが、薄く白い霧がかかっているので、見えない。
ふと女が
「水夫さん……」
とつぶやいた。
水夫は振り向いた。
オールを止めても、慣性で舟は進む。
女の顔を見て、水夫は驚いた。
水夫は鬼を乗せていたのである。
水夫は今までずっと自分が鬼を運んでいたことに気がつかなかった。
ただ、長年の経験が老水夫の中に流れる時間を真っ白にしていたので、
ここ数年の間は、無意識に生きていたのである。
その眠りが、この鬼の、
「水夫さん……」
の呼びかけで、ぼんやりと覚めたような気がしていた。
水夫は困ってしまった。
鬼の女は言った。
「これで千度目です」
と。
「何が千度目なんだね……?」
と水夫は聞いた。
「あなたに乗せてもらうのが」
水夫はさらに困ってしまった。なぜなら、鬼を乗せたのは、おそらく今が始めてなのだから。
しかし、水夫は物を考える、ということは、何年も前にやめてしまていたので、犬がそうするみたいに、
ただまばたきをするだけだった。
鬼は泣き出してしまった。
「あなたは千度生まれ変わった。一番最初は、わたしたちは夫婦だった。だけど、あなたは別の女と一緒になるために、
わたしをだまして、この湖の上でわたしを突き落とした。この湖の底で、わたしは悲しくて悲しくて、鬼になった。」
さらに鬼は語った。
「わたしは鬼になって、最初のあなたを刺し殺した。それから何千年も経って、あなたは別の男に転生した。
わたしはそれも殺した。これを何度も繰り返した」
水夫は急に心臓が止まったみたいになった。鬼の話を聞いているうちに、魂の記憶が蘇った
のである。
水夫には見えた。九九九人の自分が。それぞれ、悪くない人生を送っていた。ある人生では、
お金持ちになった。ある人生では、立派に悟りを開いた僧だった。ある人生では、田舎でこじんまりと、
幸福に暮らしていた。
しかし、どういうわけか、どの人生でも、最後にこの湖にくることになり、鬼が現れて、この湖に突き落とされる
ことになるのである。
「そして、今度も、俺を殺すのか……」
老水夫は、やや観念したように言った。
しかし鬼は
「もう殺す気はありません……」
と言った。水夫には、鬼が泣いているようにも見えたが、泣いていないかもしれなく、
自信が持てなかった。
「本当は、最初のあなたを殺した時、もうたくさんだと思ったものです。ところが、
『その時』が来ると、わたしに何かが乗移ったようになって、勝手にあなたをこの湖に
突き落としてしまうのです。ああ、来た、来た。鬼が来た……」
と女は青ざめた顔をしながら、震える声で言った。
鬼は半狂乱になり、老水夫の胸ぐらをつかみ、それから抵抗できない怪力で、
老水夫を湖にばじゃんと放り投げた。
鬼は一人、舟の上でうつむいていた。
風が、一時間くらいかけて、勝手に舟を向こう岸に運んだ。
鬼は上陸すると、湖に向かって座り込んだ。
「また、何千年かかけて、あなたは産まれて来る。わたしはあなたを殺す……」
突然、湖の中から、老水夫がびちょびちょの格好で、じゃびゃあっと上がって来たので、
鬼は驚いた。
「……っ!その頭は」
その頭には、立派な角が二本ついていた。
「わしも鬼になったよ。お前が恨めしいんじゃない。湖の底で、お前が気がかりでたまらなくなってな」
二人の鬼は抱き合った。
それから、申し合わせたように、湖の方へ足取りをそろえて突き進んだ。
水位は腰、胸、首、と上昇して、ついに二人が見えなくなった時、弱い波紋ができたが、すぐに消えた。
おしまい
これでも新たな小説の形式の模索中ですw
東浩紀の理論の影響下にあるのです。
それではいずれまた!
乙。
昔話みたいで面白かった。こういうの好きだわ。
>>13
ありがとうございます!