善行したい奴がいた。
それも、とにかく、軽い気持ちで。
セトは自分のことを、常識人だと信じていた。
common senseを持っていると、信じていた。
規則正しい生活。
悪いことをしたことがない。
潔白。
それだけが identity だった。
ある日、セトは散歩ーーいつものーーをしていた。
「あ、これはどうも、セトさん」
知り合いと出会って、帽子を脱いだ。
「ああ、どうも、どうも」
「セトさん」
知り合いは、神妙な顔つきで言った。
「なんです」
「私に悪魔が憑いてしまったようなのです」
「ハア」
「悪魔は、私の魂に住み着いてしまったのです。
まるで寄生虫のように。
悪魔は、私の魂を日々蝕んで、
私の魂がなくなってしまったら、
また別の魂を探しに行くと言います。
その時私は、何もわからなくなって、
廃人のようになってしまうと言います」
「ハア」
「私は怖いのです。悪魔は言っています。
別の誰かに乗り移ってやってもいい、と。
その代わり、私が、自分の意思で、
誰かに移せ、と言うのです。
わかりますか。
誰かに悪魔を移してしまいたい。
だけど、良心が咎めるのです。
毎日、どうしようか、
どうしようか、悩んでおります」
「ハア」
セトも、困ってしまった。
自分は善い人間だ。
ここで、彼を見捨ててしまえば、どうなるか。
人はセトのことを、
「勇気がない人間だ」
と言うに違いない。そうなってはいけない。
「よし」セトは言った。「その悪魔、私が引き受けましょう」
知り合いの胸から、突然、黒い影のようなものが高速で、
セトの胸に飛び込んできた。
セトの心の中に、声が聞こえてきた。知り合いの声ではない。
悪魔が、直接、心に語りかけてきているのだ。
「ヘッヘッヘ、これからよろしくな」
その日から、悪夢ばかり見るようになった。
悪魔がいたずらで見せているのだろう。
起きている間にも、狂気じみた白昼夢のようなものを
見るようになった。
日々幻想は酷くなり、やがて夢も現実も区別がつかなくなった。
「悪魔を持つことは、こんなにも大変なことだったのか」
だけど、これで、あの知り合いも救われているのだ。
「セトは善人だ。ただ、それだけのことだ。そして、それは紛れもなく善いことなのだ」
自分に言い聞かせた。
ある朝、珍しく清々しい気分で目が覚めて見ると、
インターフォンが鳴った。
セトはベッドから起き上がり、
「はーい」
と出て見ると、警察だった。
「おやおや。どうされましたか」
「あなたを逮捕します」
まさか、まさか、善人の私が、とセトは狐につままれたような気持ちになった。
「身に覚えがありません」
「みんなそう言うのです」
ガチャリ、とセトに手錠をはめた。
「はっはっは」セトは笑った。「悪い冗談でしょう」
「あなたは、10人の人を殺しています」
「はっはっは」
「この殺人鬼!ついてこい!」
「はっはっは」
しかし、笑い事では決してなく、
セトは、自分の白昼の白夢の中で、
恐ろしい怪物に抵抗して殴りかかる時、
現実では、人を殺していたのである。
悪魔が語りかけた。
「お前は、本当に善人だよ。だって、お前は、あいつの代わりに、
殺人の罪を背負ったんだからな」
セトは泣き始めた。
「あんまりだ」
死刑執行の日、ギロチンの前にセトは立っていた。
足はガクガク震えていた。
悪魔は言った。
「おい?どうする?もし、お前が、俺様を、今誰かに乗り移らせるなら、
魔法の力で、助けてやってもいい。おや。あそこにお前の知り合いがいるぞ。
お前はあいつの娘を殺したんだぜ。憎らしそうに、お前のことを見ている。
しかし、元はといえば、あいつの代わりに、お前が俺様を引き受けたことから、
こうなってしまったんだ。どうだ?あいつに、俺様を移してみないか?」
セトは迷った。
時間が過ぎた。
ギロチンが落ちる。
瞬間、セトはついに
「移す!」
と叫んだ。
悪魔の魔法で、時計が巻き戻された。
あの時、散歩で、知り合いに悪魔のことを相談された時間。
「ああ、どうすればいいんでしょう?セトさん」
セトはあの時のように、
「悪魔は私が引き受けます」
とは、どうしても言えなかった。
「ああ、やっぱりそうですよね。こんなこと相談されても、
困りますよね」
知り合いは、寂しそうに、うつむいて去って言った。
「ああ!」
セトは、去っていく知り合いの引きずっている影を見て、
つい叫ばずにはいられなかった。
知り合いの影は、悪魔の形をしていて、
意地悪そうに、ベロを出してセトのことを
あざ笑っていたからである。
「うーむ」
セトはそれから書斎に帰って、じっと考え込んだ。
そして、ついにこう叫んだのである。
「善人は自分のことを善人だとは思わない!」
星新一っぽく?(あんまり読んでない)
アルベール・カミュの「シーシュポスの神話」読後の創作。