──2030年。
カジノ合法化や同性婚の開始と、激動の令和12年。
神奈川県のとある市で、人知れず壮絶な戦いがあった。
社長とその秘書、主婦、不良高校生、そして犬。
本来なら関わるはずのなかった市民達は引き合うように出会い、市に蔓延る悪に挑んだ。
伝記にも残らない、メディアに見向きもされない、感謝もされない。
それでも立ち向かった5人の英雄譚を、何かの縁だと思って聞いていって欲しい。
これは、とある市の隅で起きた、市民による市民のための市民の戦いである。
「僕、ついに無職になったッス……」
「まぁ時代はロボットだしなー。元気出せよ来田」
酔いでフラついた足取りのまま、深夜の住宅街をバイト仲間と進んでいく青年の名は来田熾央(らいた しおう)。
彼は今年で19歳──つまり成人はしているが、飲酒はギリギリ許されていない。
ヤケ酒しても気分が晴れることはなく、残ったのは法を犯した罪悪感と、自分は酒に弱いという事実だけだった。
「僕に出来そうな仕事はロボットに取られてくんスよぉ〜」
時は2030年。
軽作業を主とする働き口はAIやロボットの進出に伴って大幅に減少しており、熾央も例に漏れず解雇されたという次第である。
「明日から大根飯……いや、雑草サラダに逆戻りッスよ〜」
「それはさすがに食生活が心配だぜ」
色々と複雑な事情から、熾央は奈良時代の農民並みに困窮した生活を送っている。
"以前の暮らし"に比べればマシだと言い聞かせて耐えてきたが、さすがに体が限界を迎え始めていた。
「魔法使いか金持ちの社長になりてぇ〜。そんで普通の飯食いたい……」
「なんだよその二択は……」
面倒見の良いバイト仲間は、苦笑いを浮かべながらも熾央の肩を支えながら歩く。
「俺もバイト探してやるからさ、元気出せよ」
「はい……ありがとうございます」
熾央は住宅街の分岐路でバイト仲間と別れると、一人ガードレールの向こうに広がる夜景を見据えた。
山に囲まれてはいるが交通は栄え、マンションや高層ビルも立ち並ぶ秦尾市。
夜も忙しなく光が動いていく。
「日本は平和だなぁ」
バイトして、くだらないことで笑って、飯食って、YouTubeを見て寝て、次の日を迎える、の繰り返し。
そんな無機質な日々を、人々は"つまらない平凡な人生"だと言う。
しかし、そんな"平凡"を手に入れたくても手に入れられい人達がいる。
流れ星に願っても、サンタに頼んでも、七夕の短冊に書いても、初詣で祈っても、手に入れられない人達がいる。
瓦礫の下で泣き叫ぶ少年少女の光景が脳内にフラッシュバックして、また熾央の心を刺していく。
「みんな……守れなくてごめんな……」
幼い顔立ちに不釣り合いなほど重い過去に感傷していた時だった。
「ゥウ……ばふっ! ヴァッヴァッ!」
「うわぁっ!?」
突然響いた犬の咆哮に耳を劈かれて、熾央はぼやけていた意識を浮上させた。
「なんだこれぇ……毛玉が歩いてる〜?」
酔った熾央は車道の真ん中に白い毛玉が転がっていると錯覚したが、毛玉などではなくポメラニアンという品種の犬ある。
SNSなどによく上がっている可愛らしい顔ではなく、鋭い歯を剥き出しにした厳つい顔をしていた。
ポメラニアンはハァハァと舌を突き出しながら、短い足で車道を駆けていく。
「毛玉野郎〜! 車きてっぞ〜」
「ぅう……ゔぁふゔぁふぅ!」
黒塗りの高級車が猛スピードで車道を走るも、ポメラニアンはひたすら何かに怯えながらとことこ走り回るだけで避けようとしない。
見かねた熾央は、何を思ったのか車道へと飛び出していた。
「車来てるって言ってんろーが、毛玉!」
酔って判断力が鈍ったせいなのか、体が勝手に動いたのか、人並にある正義感か、なにが熾央を動かしたのかは彼自身にも分からない。
キィィッと甲高いブレーキ音に反応してすぐに顔を上げると、強ばった顔をした運転手と目が合って──。
「嘘だろ──!?」
街頭に群がる蛾が逃げる。
ポメラニアンの白い毛が自身から流れる血で染まっていく視界を最後に、熾央は意識を手放した。
世界的医療器具メーカー"メガロス"の本社ビル。
社員が全員退勤した午後10時、最上階の社長室だけはタイピング音が響き続けていた。
まだ電気のついた社長室は、夜景の一部となって輝いていることだろう。
「もう帰ろうぜ〜? 社長が社畜やってどうすんだよ〜」
「……"社長は会社第一の下僕"。私が一番会社を支えなきゃいけねーんだよ」
白衣を羽織った男が文句を零し、それを若い女性がフリードリヒ二世の言葉を引用して返した。
「さすが……21歳にして社長を務めるだけあるぜ」
血眼でパソコンと格闘しているのは、社長室の主である美富命充(みとみ めいじゅ)。
高校卒業と同時に親の会社を継ぎ、世界的医療器具メーカー"メガロス"の社長を務めている。
そしてその様子を見守る白衣の男は、芦辺理一(あしべ りいち)27歳。
医療開発部を仕切る技術顧問で、数年前までは大学病院で勤務していた。
「そろそろ一服しねぇ? "指紋魔法"でタバコ出してくれよ〜」
「芦辺さん……アンタ医者だよな……? 医者ならこの量がヤバいって分かるよなァ〜ッ!?」
命充が力任せにデスクを叩くと、灰皿に盛られた吸殻の山が崩れ落ちた。
「だってよー、今年で浮気されんの三回目だぜ? ヤケになってタバコ吸いたくもなるって」
中々ハンサムな色男ではあるが、女運は悪い。
歴代彼女は漏れなく死ぬか裏切るか浮気をするという絶望的な女運を持つ芦辺は、その度に喫煙の量を増やしていた。
微妙にバニラの香りを含んだキャスターの匂いが漂う。
ほとんどの喫煙者が電子タバコを愛用する時代でも、芦辺は紙巻の銘柄に拘っている。
「本来なら美人とデートのはずが、こんな汚い社長室で残業……」
芦辺は広い社長室をぐるりと一周見渡した。
転がるビール缶、積み重なるカップ麺の容器、水タバコ、特撮ヒーローのフィギュア、ひょうたん、クリオネの泳ぐ水槽、汚い環境で元気に咲く小型のラフレシア──と不健康な乱雑さ。
労働基準監督署が調査に入れば即ブラック認定されてしまうような劣悪な環境に、芦辺はうなだれた。
「先帰っていいって言ってんだろ」
「えぇ〜、一人で夜道歩くの怖い」
「じゃあタクシーつかまえて帰れよ!」
「タクシー代勿体ねーもん」
芦辺としては、女性を一人置いて帰らせる訳にはいかねーじゃん?という随分イケメンな理由で残っているのだが、"女だから優しく"を嫌う命充に気遣ってわざと適当な理由をつけていた。
「俺の人生悲しいなー。彼女に浮気されたし、上司も冷たいし……」
「っ〜あぁもう! タバコ用意すりゃいいんでしょ!」
根負けした命充はしぶしぶ承諾すると、右手に着用していた黒い手袋を外した。
白を基調としたメタリックな塗装に、黄金のラインが眩しい右手首が顕になる。
右手首から伸びているのはパワードスーツの類ではなく、正真正銘、命充の神経に反応して動く義手だ。
命充が指を動かすと、義手はウィーンと静かな機械音を発して動いた。
「あんま私利私欲で"指紋魔法"は使いたくねーけど……」
命充は義手の方の手で、コイントスをするようにして500円玉を弾いた。
弾かれた500円玉は青い光を放ち、天井に指紋の形がCGの魔法のように大きく浮かび上がる。
「指紋魔法……=天秤(イコール・バランス)」
500円玉は空中で瞬時に1箱のタバコへと姿を変え、ぽすっと命充の手元に落下した。
「さすが、触れた物を同価値の物と交換できる指紋!」
芦辺は勝手知ったるタバコ箱から三本取り出すと、ジッポで三本同時に火を付ける。
「三本同時だと!? やめろやめろ!」
「いーふぁろふぇふにー(いーだろ別にー)」
不健康が過ぎる芦辺の吸い方に命充は舌打ちし、タバコを取り上げようと立ち上がる。
「だって一本じゃ物足りねぇし」
「芦辺さんはもっと医療チームの技術顧問としての自覚を──」
『ここで、臨時ニュースをお伝えします』
もう少しで命充の小言が始まるというところで、備え付けの小型テレビに臨時ニュースがタイミング良く遮った。
二人は言い争いをやめ、画面を食い入るように見つめた。
『行方不明となったのは、秦尾(はだお)市の飯田美香さん22歳。捜索から2ヶ月経過しても未だに足取りは掴めず……』
淡々と読み上げるアナウンサーの隣には、命充と歳の近い女子大生の写真が映し出されている。
はにかんだ笑顔でピースサインを向ける、可愛らしい笑顔の写真だった。
「また行方不明者……」
「"指紋魔法"の人体実験の為に誘拐された可能性が高いな」
「……あぁ」
ぽつりと芦辺がこぼした憶測に、命充は小さく答える。
そして30階という高さの窓から夜景を見下ろし、悔しげに唇を歪めた。
「この秦尾市は……市民は狙われてる。次に拉致されるのは向かいのビルの人かもしれないし、今あそこでタクシーに乗ってる人かもしれない……」
深夜だというのに忙しなく車が行き交い、向かいのビルには電気が灯り、人々は何も考えずに生活を営んでいる。
自分たちが人体実験のモルモットとして狙われていることなど知らずに。
「今もどこかで市民が、"指紋魔法"の被害にあってるかもしれない──」
重い瞼をこじ開けると、水彩画のようにぼやけていた天井が徐々に鮮明になっていく。
消毒液のような匂いが鼻腔に流れて、熾央はようやく意識を底からすくい上げた。
「ここは……? ゔっ」
左肘辺りに鋭い激痛を感じ、熾央は小さく呻いた。
妙に軽い左腕に違和感を覚えて、冷や汗をかきながら視線を向けると── 。
「う……ゔぁ:&あ#€ぁぁ£あッ!?」
左肘から下がバッサリと消え、ミロのヴィーナスのように欠損していた。
綺麗に巻かれた包帯の先は、何度見ても肘で終わっている。
「左腕が……!」
飛び起きようと身を起こしたところで、身体がベッドに縫い付けられたように大の字から動けないことに気がついた。
右手首と両足首は、鉄の枷によってベットに縫い付けられており、ガシャガシャと鎖の金属音が響く。
「えっ……縛られ……?……なんで!?」
なんとなく事故で左腕を失ったのだろうと手に関しては想像がついたが、拘束の理由に関しては全く検討もつかない。
「目を覚ましたか……来田熾央君」
唯一動かすことのできる首を回して状況を確認していると、ゾクリと腰が震えるような低音ボイスが熾央を呼んだ。
ゆっくり眼球を滑らせた次の瞬間、熾央は呼吸の仕方を忘れてしまったかのように息を止めた。
ベットの脇にいた男の姿に、恐怖を抱いたからである。
「あぁ、これ……顔を出したくないだけだ。気味悪いだろうが気にするな」
男は淡々とした口調で説明した。
白衣にゴム手袋と、至って普通の医師の格好をしているのだが、その声が発せられているのは不気味な黒いペストマスクからだった。
くぐもった声が不気味である。
ペストマスクの奥は、恐らく20代から30代くらいの男だろうと熾央は声から推測する。
「名前……」
「あぁ、ポケットに入っていたマイナンバーカードを拝見させて貰ってね。道端で倒れていた君を病院に連れてきたという次第だ」
確かに熾央がいるのは小さいながらも病室で、清潔感のある白いシーツからは柔軟剤の香りがする。
部屋の設備も不審な点はなく、確かに、確かに病院なのだろうが──。
「ありがとうございます……あの、でも……なんでその……"拘束"されてるんスか……?」
熾央はジャラリと拘束具の重い鎖を引っ張りながら尋ねると、男は一瞬間を開けてから答えた。
「なぜって……実験体を逃がさない為に決まってるだろう?」
男は何の躊躇いもなくさらりと告げるので、熾央は言葉の意味を理解するのに数秒のタイムラグを要した。
「──ゑ?」
聞き間違いか、もう一度聞き直した方がいいのか、頼むから聞き間違えであってくれ、と混乱する熾央に、医師はもう一度「君の体を使う為に拘束したんだ」と追い打ちをかけるように言った。
頼むから聞き間違えであって欲しいという熾央の願いは五秒で断ち切られた。
じわりと脂汗が頬を伝う。
「ま、まさか……ッ」
熾央が真っ先に想像したのは、金を作る為に臓器売買の犠牲となった姉のことだった。
人一人の体を全て綺麗に売り捌ければ30億はくだらないという姉の話を思い出し、熾央は無駄だと思いながらも、必死の抵抗でガシャガシャと拘束具を揺らした。
「ゔわぁぁぁぁあ!? 外せ外せ外せェェエエ工! 五臓六腑一つ渡さねぇからんな、このクズがぁッ!」
「やれやれ……勘違いするな」
男は暴れる熾央に呆れながら、小脇に抱えていた大きめのアタッシュケースを開く。
「臓器を取るなんて勿体ない使い方をするわけないだろう。改造手術に使う為にわざわざ助けてやったんだからな」
「なんだぁ〜、臓器売買じゃなくて良かっ?」
熾央は一瞬だけ安堵した後、よく考えてからもう一度暴れた。
「はぁぁぁあ!? 改造手術でも良いわけねぇだろ! 信じらんね! お前人間として終わってるぜ!悪魔! ごみくず!」
「そう暴れるな。利き手を失った君にはメリットのある話だと思うが?」
男は小脇に抱えていたアタッシュケースをベット横のデスクに置くと、ケースの鍵を開いた。
「これは"魔法の義手"。メガロスの初代社長が遺した最高傑作の義手だ」
「メガロスって、あの超有名な医療器具メーカーの……!?」
義手や義足の世界シェアはトップで、年間売り上げは50億ドルを超える世界的な医療器具メーカー"メガロス"。
ニュースや世間に疎い熾央でも、その名は知っていた。
「私はこの義手の"適合者"を探している」
「適合……者……?」
熾央は開らかれたアタッシュケースの中を、首の角度だけ変えて覗き込んだ。
中には真っ白な義手が一本と、大きめの鍵が赤いベルベットの上に鎮座している。
確かにそれはしっかりと手の形をしているが、無機質で艶もない。
熾央にはそれがただのデッサン用に造られた石膏の手にしか見えず、男に疑いの視線を向けた。
「適合には強靭な精神力が必要だ。辛い過去を乗り越え、痛みを耐え抜く強い心が無ければ義手に認められない」
「へー。適合しなかったらどうなるんッスかー?」
熾央は一応話を合わせるようにして、しかし露骨にあしらうようにして訊いた。
男は低い声で静かに答えた。
「神経を乗っ取られ……最悪死に至る」
「はぁ〜!? デメリットしかないじゃないッスか!?」
「だが、適合すれば常人を超える力──"魔法"が手に入る」
得意げに言い切った男に、熾央はまた蔑むような視線を投げた。
「……は?」
熾央の"何言ってんだこいつ"とでも言いたげな反応も無理はない。
少なくとも熾央の住む世界の中心は科学で、魔法なんてファンタジーの中の産物という認識が一般的なのだ。
しかし男が冗談を宣っているようにも見えず、至って真面目に解説しているところが熾央は不気味に思えた。
「この義手はまだ適合者がいないから真っ白だが、適合すれば、その適合者の持つ精神の色になる」
男は産まれたての未熟児を扱うような手つきで、アタッシュケースから白い義手を取り出す。
「あぁ……この手がどんな指紋魔法を生んでくれるか、孫を待ちわびる祖母のように楽しみだよ」
男は義手をペストマスクに当てて頬ずりすると、うっとりとした口調で言った。
「"手"っていうのは、人体で最も素晴らしい部位だと思わないか?」
脈絡のない問いかけ。
熾央の反応の悪さなど気にすることなく、医師は恍惚とした表情で一人語りを続ける。
「このベッドも、テレビも、ビルも、全て"人の手"が作り上げてきた物だ。もちろん機械作業もあるが、その機械を構成する部品だって元を辿れば人の手で作られている」
コツリ、コツリと歩み寄る革靴の音に、熾央は身を捩って警戒した。
「私は、そんな人間の"手"の更なる発展の為に生きているのさ。君のような人間を使ってね」
ついに男は熾央の肘を掴むと、腕に巻きつけた包帯をしゅるりと外した。
「やめろッ! ふざけんなごみくず! 離せ!」
熾央は必死に拘束具を揺らして抵抗するが、ベッドが僅かに軋むだけだった。
男は義手を熾央の左肘に宛てがい、義手の鍵穴に鍵を差し込む。
「やめろ! やめろやめろ! 嫌だッ、魔法なんかいらねぇッ!」
「さて、今回は適合するかな?」
男はトドメと言わんばかりに、ガチャリと鍵を回した。
義手は、文字通り手も足も出ない熾央の左腕を瞬く間に侵食していく。
「ゔあ゛ぁあ゛!」
装着された義手は瞬時に高熱を発し、マグマのようなオレンジの光を発した。
身体中の血液が溶岩になったような熱さに、熾央の意識は飲み込まれそうになる。
「あ゛っつい……身体中が……ッ! 助け……ッア゛ァッ」
「チッ……今回"も"適合しそうにないか」
"も"という言葉に、熾央は意識を失いそうになりながらも瞳孔を大きくして反応した。
「まさか……僕、以外にも……ッ!?」
「市民を何人か攫って適合者を探した──まぁ、どいつもこいつも精神力が脆弱なもんだから、すぐに死んだが……」
ラジオで耳にした都市伝説の特集番組が、熾央の脳内にフラッシュバックした。
行方不明が後を絶たない、"神隠しで呪われた市"として紹介された秦尾市。
くだらないと一蹴していた都市伝説の真実が、今熾央の目の前にある。
「君は楽だったよ。事故で最初から手が無かったから切る手間も省けて……他の市民は暴れて大変だった」
こともなげに言い放たれた男の一言に、熾央の熱はさらに加速する。
「……秦尾市の"神隠し"は……アンタの人体実験のせいで……!?」
「さぁね。 七、八割くらいはそうなんじゃないか」
男は興味が無いと言わんばかりの無関心さで、適当に返した。
「適合者しないということは、どこにでもある平凡な命ということだ。一つや二つ無くなったところで世界は変わらない」
「お前……人の命を……人生をなんだと……っ!」
数々の命が手からすり抜けていくのを見届けた過去を持つ熾央にとって、命を弄ぶような発言は何よりも許し難いものだった。
「命は平等……なんて綺麗事はよしてくれよ? この世には何百人ものSPに守らせる命もあれば、戦場で弾としてあっけなく散る命もある」
「お前な……んかに、戦場の何……が……ッ……何が分かるッ!」
あまりの憤りに罵倒の一つでも飛ばそうと思ったが、熱で肺が火傷したのか呼吸すらままない。
叫びは嗚咽に変わる。
「しぶとく持ち堪えているが、死ぬのも時間の問題か」
熱い室内とは裏腹に、男の声は絶対零度を思わせるように冷酷であった。
熾央の意識は熱で限界を迎え、ゆっくりと薄らいでいった。
──時を同じくして病院前。
「ここ? 思ってたより小さいな……」
命充は提供した医療器具の視察をするため、偶然にも熾央が監禁されている廃病院を訪れていた。
本来視察する大学病院と勘違いしているのだが、命充は何の疑問も持たずに愛車の赤いシボレーを駐車した。
「すげー静か……」
もちろん廃病院なので人気が無いのは当たり前だが、視察先の病院と勘違いしている命充は何も知らずに困惑している。
自動ドアの前に立ったところで足元に何かが滴る音がして、命充は足を止めた。
「なんだ……鳥の糞か?」
足元に視線を落とすと、アスファルト上にプクプクと気泡を膨らませる赤く光る液体が垂れていた。
その液体はジュワッと熱そうな音を立て、煙を立ち上らせている。
"出したてホヤホヤで生暖かい鳥の糞"どころではない。
「な、なんだよこれ……」
どこから降ってきたのか出処を確認しようと視線を上げると、二階の窓ガラスが赤い水飴のように熔けて流れていく光景が目に入る。
熔けた液体状のガラスは筋を作って外壁をゆっくり伝い、地面へポタリと垂れた。
「窓ガラスが溶けてる……火事か!?」
119番通報だとか、周りに助けを呼ぶだとか、そういった考えをすっ飛ばして乗り込むのが美富命充という女である。
病院の中へ入るべく磨りガラスの自動ドアを叩いたが、もちろん電源が入っていないのでボタンを押しても反応はない。
命充は胸騒ぎで暴れる心臓を押さえつけ、黒い革手袋を外した。
「このドアは……約12万ってとこか。=天秤(イコール・バランス)!」
自動ドアに触れて指紋魔法を発動させると、適当に自動ドアとほぼ同価値の万年筆に変換して扉を消し、病院へと駆け込む。
「どなたかー! いらっしゃいませんかー!」
病院内では静かにというのがマナーではあるものの、この時ばかりは声帯が潰れるレベルの大声を張り上げた。
「誰もいない……? んな馬鹿な、平日の昼だぞ!?」
受付のカウンターや待合室のソファ、診察室を調べても患者はおろか看護師一人もいない。
それどころか医療器具やベッドもほとんど無く、閑散としていた。
もちろん廃病院なので人気が無いのは当たり前なのだが、勘違いした命充は不穏な空気を訝しむ。
「とにかく二階だ! ……階段は……ここか」
唯一施錠されていなかった非常階段を駆け上っていくと、二階へ近づくに連れて激しい熱気が命充を襲った。
「あっつ!? なんだこの熱気!」
言うなれば廊下全体がサウナになっているような感覚に近い。
すぐに命充の額からは汗が滲み始め、濃紺の前髪が額に張り付いた。
突き当たりのドアの隙間から尋常ではないほどの熱気が漏れていることを突き止めると、扉の前で立ち止まる。
「ここか……」
焼けるように熱くなった金属製のドアノブを、耐熱性手袋をはめた義手で開ける。
そして次の瞬間、断末魔のような叫びと嗚咽が命充の耳を劈いいた。
「ゔぁあ゛ぁあ゛ッ! がは……っあ゛ッ!」
真っ先に命充の瞳が捉えたのは、青年──来田熾央が床に這いつくばり、もがき苦しむ姿だった。
熾央の黒い手指からすり抜けていく液体は、つい先程まで固形だった手術用のメスだ。
刃物だった原型を留めていない。
「中々息絶えないな……早く死んでもらわないと、義手を回収できないんだが」
サウナ状態の診察室だというのに、涼しい顔をして静観するペストマスクの男。
命充はその男の姿を認めると、衝撃のあまりに呼吸を詰まらせた。
そしてその男の名を唇で紡ぐ。
「いぶ……かぜ……?」
一度目は、疑うように。
「……やっぱり生きてやがったな──燻風(いぶかぜ)!」
二度目は確信を持って、殺気を込めた声でその名を叫んだ。
無視を決め込んでいた白衣の男──燻風だったが、二度名前を叫ばれてようやく命充の方を振り返った。
「メガロスの社長か……」
自身に敵意を向けている命充がすぐ近くにいると言うのに、男の態度は余裕綽々だった。
その様子が余計に命充の神経を逆撫でした。
「やっぱり人体実験してやがったな……秦尾市の市民を使って!」
命充は荒い呼吸をしながら地を這う熾央に視線を移した。
「おい大丈夫か……って、あっつ!?」
熾央の義手が放つ1000度を越す熱気に当てられ、命充は一歩退いた。
「その男はじきに死ぬだろう。社長の魔法でも救えない」
「燻風てめぇ……!」
なんの罪もないただの青年でさえ毒牙にかける燻風に、命充は歯が潰れるほどの歯ぎしりをした。
「近頃の若者はさァ〜、精神力が弱いんだよ……言われるがまま義務教育を受けて、なんとなく地元の高校に進学して、そこそこ手を抜きながら指定校推薦とって、大学の授業も最低限の単位分だけ。君もそんな生ぬるい人生を歩んだ内の一人だろう? なァ!?」
「がは……ッ!」
「おい燻風、いい加減にしろ!」
なかなか適合者に巡り会えず苛立ちを溜めていた燻風に蹴られ、熾央は嗚咽を漏らした。
熾央は燻風の血走った目を睨みつけながら、僅かに喉を動かす。
「なにが悪い──平凡で……何が……」
熱で潰れそうな声帯から、干からびたような声が紡ぎ出される。
「僕は──僕は……そんな平凡な人生が……欲しかったんだ……」
全身の血が沸騰するような苦しみの中、熾央は走馬灯のように記憶を巡らせた。
手足は真っ黒に煤けて、煙が肺を満たし、額からはとめどなく汗が滴り落ちる。
煙で痛くなった目をこすりながら、ひたすら歩き続ける少年は、10歳の来田熾央。
おぶってくれていた父親も、手を引いてくれていた姉も失ってしまった熾央は、一人小さな身体一つで戦火の中を逃げ惑う。
積み重なる瓦礫を乗り越え、屍となった友を踏み越え、ぱしゃんと跳ねる血溜まりを踏む。
涙で火を消そうと、眼球がしぼむような勢いで泣きじゃくり、両手に涙を溜めては火にかけた。
全てを失い、ふらつきながら逃げた最悪の夜が脳内を駆け巡る。
そうだ。
「僕は誓った……」
全てを焼き尽くされたあの日、燃え上がる友に叫んで誓った。
いつか必ず幸せに生きて、幸せに死んでみせると。
こんな熱、あの"最悪の夜"に比べたら──。
熾央は伏せかけていた瞼を開くと、燻風の姿をその瞳の中央に捉えた。
「ぬるいんだよ……」
熾央の左腕に装着された真っ白な義手に、大きく亀裂が咲いた。
パラパラと剥がれ落ちていく装甲の下から黒いメタリックな塗装が覗き、オレンジ色のラインがマグマのように光を放つ。
そして五本の指先から、指紋の形をした魔法陣が大きく浮かび上がった。
「ぬるいんだよッ! こんな熱、残り湯より生ぬるいッ!」
その瞬間、熾央は脳と義手を繋ぐ、一本の熱い銅線が張ったような感覚を掴んだ。
人体の構造の知識なんて全く持ち合わせていない熾央だったが、脳と義手が神経で繋がったと直感的に理解した。
「うそ……適合した!?」
「なに!?」
熾央の手足を拘束していた鎖は赤い光を放ち、一瞬にして液体となって溶けだした。
熱の前では硬い鉄の面影などない、ただの水飴と化している。
「これは驚いた……ただのヘラヘラした大学生かと思ったら、強靭な精神力を持っているらしい」
強力な魔力の出現に、燻風は興奮気味な声で感嘆した。
「これは熱を操る魔法……? つまり熱にまつわる過去を乗り越えたというわけ、か……」
「何ブツブツ言ってんだよこのド悪魔! この義手を今すぐ外せ!」
拘束の解けた熾央はベットから立ち上がると、未だに余熱が冷めない手で壁を殴った。
真っ白だった壁は一瞬で大きな亀裂が入ったかと思うと、大部分が焦げ、白い煙が立ち上る。
義手によって腕力も強化されたらしく、力加減をされずに殴られた壁は一瞬で崩壊した。
「強い……!」
命充は崩れ落ちた壁を見て、脂汗を垂らした。
(顔立ちからして、酸いも甘いも知らないような平凡な大学生だと思ってたけど……辛い過去を乗り越えている!)
命充は見た目で判断して、どこか熾央を見くびっていた自分を責めた。
そして同時に、地獄より熱い中でも試練に打ち勝った熾央に敬意を表し、なんとかして義手を外して助けてやりたいとも思う。
「せっかく適合したのに外したい……と?」
燻風は苛立ちを含んだ声で、脅すような問いかけを投げた。
「僕の望む平穏な暮らしに、物騒な魔法は必要ない! 今すぐ外せ!」
誰よりも平凡を願う男と、誰よりも非凡でありたい男。
そんな真逆な二人の衝突は必然であった。
「その要求は呑めないな──少し"手荒な手段"を取らせて貰おう」
「手荒……? 何をする気だ燻風!?」
命充は警戒の姿勢をとり、熾央を守るようにして前へ出た。
燻風は、おもむろに右手の青いゴム手袋を外していく。
二人は顕になっていく燻風の右腕に息を呑んだ。
「その手は──!」
血を彷彿させるような赤黒いカラーリングに、DNAの二重螺旋模様。
そして指先に刻まれた、渦巻き模様の魔法陣。
それは紛れもなくメガロスの先代社長が遺した"魔法の義手"であった。
「来田熾央。最後のチャンスとしてもう一度訊く」
握手のつもりなのか"脅し"のつもりなのか、燻風は禍々しい義手を見せつけるようにして手を差し出した。
「適合した君は"仲間"になる権利がある。首を縦に振るのならば、君を歓迎しよう」
「燻風、いい加減にしろよ」
燻風は命充の牽制を無視し、一歩、また一歩と熾央との距離を詰めていく。
(裏を返せば、"仲間にならなきゃ始末する"ってことだろ……)
燻風の意図を読んだ熾央は、唇を結んで睨みつけた。
「……殺されかけた挙句、いきなり適合者だとか言われて、ワケ分かんねーまま仲間になれとか……冗談じゃねーッスよ! お前の目的もよく分かんねーし!」
「──それが君の解(かい)か。失望した」
燻風は盛大に一つため息をつくと、差し伸べていた手をそのまま掲げ、熾央のすぐ横に置いてあった人体模型の首を掴んだ。
「指紋魔法──"カリスマジェスティ"」
燻風が義手で人体模型に触れた瞬間、指紋型の魔法陣が浮かび上がり、DNAの二重螺旋が激しく渦巻いた。
人体模型はひとりでにカタカタと小刻みに揺れ始める。
「指紋魔法使ったな!?」
「なに……これが魔法ッスか!?」
人体模型の剥き出しの心臓はドクリドクリと鼓動を刻み初め、見開かれた眼球はぐるりと辺りを見回した。
まるで映画のCGのような光景に、魔法に慣れない熾央は戸惑う。
「うわぁぁあッ!? この人体模型、動いたッス!」
「なんだ……? どういう能力だ……?」
動く人体模型に戦慄する熾央とは対照的に、命充は冷静に燻風の能力を分析した。
(私の指紋魔法──"カリス・マ・ジェスティ"は生物・無生物問わず、"触れた物に寿命を貸す"……寿命を借りた者は、その間だけ対価として私の命令に従う。そして今、人体模型に寿命を20分貸した)
燻風はペストマスクの奥で不敵な笑みを浮かべた。
「人体模型よ──美富命充と来田熾央を始末しろ」
瞬きを繰り返す人体模型に命令を残すと、命充と熾央に背を向けて病室を颯爽と去っていく。
「待て燻風!」
命充が病院を去ろうとする燻風を追いかけようとしたところで、彼女の追跡を阻止するかのようにの刃が降り注いだ。
薬棚に刃が突き刺さり、ガシャンと派手な音を立ててガラスが粉々に散る。
「なに!?」
命充が飛んできた方向へ視線を上げると、燻風の魔法で操られた人体模型がデスクの上に飛び乗り、手術用のメスをダーツのように投げていた。
メスはちょうど熾央と命充の間をスレスレで横切り、壁に勢いよく突き刺さる。
「ひいっ、なんッスか!? 戦い!?」
熾央はを間一髪で飛び来るメスを避けたが、バランスを崩して体勢が乱れ、盛大に尻もちをついた。
打ち付けた腰に鈍い痛みが走る。
「おい、平気か!?」
「ゔぅ……なんで僕がこんな目に……。医療器具のこととか全然分かんねーけど、義手って手の不自由な人を助ける為にあるんじゃねーの? なんでこんな、指紋魔法だとか争いだとかに利用されてんだよ〜ッ! もう意味分かんねぇよ!」
目尻に塩水を溜め、号泣寸前という情けない姿で発された悲痛の訴え。
しかし命充の心にはその情けない訴えが刺さったらしく、義手である右手で拳を握った。
「お前の言う通り……義手の本来の目的は"手の不自由な人の生活を助ける"こと。こんな義手、本当は開発するべきじゃなかった……ッ」
命充は人体模型を睨めつけると、義手で太もものホルスターから一万円札を数枚取り出した。
「だから私が開発者の娘として──責任を持って始末する!」
グシャリと数枚の紙幣を握りしめると、指紋の魔法陣が浮かび上がって青い光を放つ。
そして一秒も満たない内に、ズシリと重厚感のある本物の拳銃が命充の手の中に現れた。
「お、お札が拳銃に……!」
「私の指紋魔法──=天秤(イコール・バランス)は"触れた物を同価値の物と交換する"能力! つまり金は最大の武器ってこと!」
M1911(拳銃)をクルクルと回す命充を、熾央は尻もちのついた状態で見上げる。
(世界で一番──札束が似合う人だ……)
キャッシュレスが主流となった時代、現金は時代遅れでどこか"ダサい"という風潮があった。
しかしひとたび命充が手にすれば、熾央はどんな武器にでも姿を変えることができる万能の切り札へと変貌するのだ。
「ライター、下がってろ!」
「ら、来田ッス!」
命充は壁に突き刺さっていたメスを一瞥すると、歯ぎしりして人体模型に銃口を向けて引き金を引いた。
「このメス、うちの製品じゃねーか……人殺しに使うな! 脳ミソ跳ね飛ばすぞ!」
命充の放った弾丸は降り注ぐメスを的確に撃ち落とし、ガキンと激しい音をたてて火花を散らす。
命充は発砲の反動を、細い体で懸命に受け止めながら戦う。
熾央は鼓膜を突き破る勢いの発砲音に耳を塞ぎ、物陰から激しい銃撃戦の様子を伺っている。
夥しい数の薬莢がチャリンチャリンと金属音をたて、床に積み重なっていく。
「やっぱ拳銃の反動には慣れないな……あッ!?」
しかし迎撃にも限界がある。
弾切れで一本撃ち損ねたメスが熾央の隠れる棚へと向かい、薬瓶に突き刺さってガシャンと粉々に割れた。
「うわぁあぁヱ繧う繝シぁ゛繝!?」
熾央は文字に起こせないような悲鳴を上げ、主人公とは思えないほどの情けない表情で腰を抜かした。
「うぁ……体が、動かね……っ」
熾央の体は暑さで限界を迎え、動きが鈍くなっている。
壁にかけられた温度計のデジタル表示は80を表示しており、このままでは攻撃が当たる前に脱水症状で倒れてしまう。
「悪い、こっから逃がしてやりたいのは山々なんだけど、人体模型の妨害が……っ」
弾を詰め替える時間すら惜しいのだろう、命充は弾切れになった拳銃をガシャンと乱暴に放り捨てると、=天秤(バランス)で新しい拳銃を出す。
「なんとか人体模型を破壊できないんッスか!?」
「すばしっこいから遠距離攻撃で狙うのは難しいしんだよ! 飛んでくるメスが厄介だから接近戦にも持ち込めねぇし……っ」
(まだメス30本以上も残ってんのかよ……せめて直接ぶん殴りに行ければ……!)
命充は軍や特殊部隊などで狙撃の訓練を受けた人間ではない。
"魔法を使える大企業の社長"というだけで、射撃能力は"普通の女子大生"よりやや高いというレベルである。
正直拳銃で精密に狙うよりかは、接近戦で派手に暴れる方が命充にとっては都合が良いのだが、メスという飛び道具が向けられる以上人体模型に近づくことすらままならない状況だ。
命充も命充でのぼせ気味になり、普段は鋭い判断力も人並み以下へと低下してきていた。
物陰を上手く利用して盾にしながらメスを撃ち落としていたのだが、徐々に精度が下がって一本迎撃し損ねまう。
「しまっ……!?」
暑さで立ちくらんだ隙に、撃ち落とせなかったメスが命充のまつ毛をかすめた。
命充はブーツの踵をカツンと揺らし、バランスを崩してたたらを踏んだ。
「危な!? ちくしょー、暑さでめまいが……」
走ったり跳ねたりと休む暇なく動き回っていたせいで体温の上昇も激しく、ついに命充はボタリと鼻血を滴らせた。
赤い斑点が一つ、また一つと白い床に咲いていく。
「社長さん、しっかりしてください! 人体模型がこっち来てるッスよ!?」
遠距離の攻撃では埒が明かないと見たのか、遂に筋肉むき出しの足で二人のいる方へと歩み寄った。
ギョロリと血走った眼球は、命充と熾央の二人だけを真っ直ぐ捉えている。
「も……頭が……」
命充は掠れた声で弱々しく呟くと、ゴミ捨て場のぬいぐるみの様にぐったりと壁に寄りかかった。
「社長さん! 社長さん!? 起きてくださいよッ、人体模型がこっちに……うわぁぁ来んなぁ!」
熾央は歩み寄る人体模型にパニックを起こし、命充の手から拳銃を奪う。
ヤケになって数発乱射したが一つも命中することはなく、思ったよりも強い発砲の反動でバランスを崩して終わった。
「こっから出なきゃ、攻撃を避けれても暑さで死んじまう……!」
ドア前には人体模型、窓は二階なので飛び降りは極めて困難。
壁を殴って隣の部屋へ穴を開けるという手もあるが、命充を人体模型の攻撃から守りながら引きずるのは難しい。
命充を殺されてしまうと、人体模型に太刀打ちできる人間がいなくなってしまうので詰みだ。
熾央はそこまで考えを巡らせたが、策が尽きて俯いた。
「またこんな暑さで、蒸し焼きになるのかよ……ッ」
汗が熾央のまつげを伝い、ピチャリと滴下した。
視界が陽炎のようにぼやけて揺れる。
この肌が焦げるような暑さは、熾央にとって初めてではない。
爆撃でどこもかしこも焼け野原となった町。
道行く人が暑さで倒れ、川を求めて這いずり回る憧憬が熾央の脳内にフラッシュバックする。
「もう暑いのには、うんざりなんだよ……ッ」
どういうわけか熾央は、やたら"熱"にまつわる呪いに付き纏われているらしいと悟った。
鍛治職人である家系の因縁なのか、"熾"央という名前故なのか、熾央の知るところではないが。
肺にまで熱気が入り込み、熾央は乱れた呼吸で強く叫んだ。
「僕は"あの戦場"から、生きる為に逃げた……幸せに生きる為に日本へ逃げた! こんな蒸籠の中の小籠包みたいな死に方、認めねぇぞッ!」
熾央は乾いた口で覚悟を叫ぶと、親指の指紋をビニール素材の床に躊躇いなく押し付けた。
魔法を使うということは、適合者になることを認めるということ。
熾央はそう解釈して、魔法の使用を頑なに拒み続けてきた。
しかしこの状況で生き残る為には、魔法だろうと異能力だろうと、プライドを捨てて使うしかない。
「指紋魔法──ウォルフ・ライエ!」
義手が神経を通して教えてくれたのか、熾央は自分でも知らない単語を唇に乗せて叫んでいた。
『── Fingerprint scan completed.
Receive command from master's nerve』
(指紋スキャン完了。マスターの神経から命令を受信)
初めて熾央の神経から命令を下された義手は、無機質な音声を発してオレンジ色に発光した。
ビニール素材の床は指紋陣の内側から煙を上げて黒く溶け始め、人一人分が通れるまでの大きさへと穴は広がっていく。
人体模型はその光景に怯み、二人から二歩、三歩と後ずさった。
「床に穴を開けて、一階に逃げる……!」
(窓からコンクリートの地面へ飛び降りるよりかは、骨折覚悟でビニール製の床へ落ちた方がマシだ!)
熾央は穴へ足を踏み入れると、火傷させないよう生身の方の手で命充の手首を掴み、穴へと引きずり込む。
「社長さん、こっから飛び降りるッスよ!」
「えっ、なに……? って、うわぁぁぁあ~$£!?」
命充は突然襲った浮遊感に大声を上げたが、次の瞬間には背に柔らかい感覚があった。
「ゔへっ!」
カエルを潰したような呻き声。
痛みを覚悟して目を瞑っていたが、二人の体は打ち付けられるどころか弾力に押し返されていた。
飛び降りた真下にちょうど待合室のソファが設置されており、二人は運良くそこに落下したようだった。
「ラッキー! 打撲ひとつ無く逃げられたッスよ!」
「はぁっ、はぁ、はっ、空気がおいしー!」
貪るように空気を食べると、体内にこもっていた熱気が放出され、肺に清涼感が広がる。
喉は多少干からびているが、両者とも立ち歩けるほどには回復していた。
「やるなライター……装着して数時間で使いこなすとは」
「ライターじゃなくて来田ッス」
熾央は溶けて液状化した天井の穴を軽く見上げる。
(使いこなした……っつーか、脳が勝手に義手を動かしてたんだよな……)
自分が魔法を使った実感を掴めず、未だ余熱の冷めない義手を握りしめた。
しばらく感傷に浸っていた熾央だったが、そう悠長にしている暇はない。
人体模型も穴を通り抜けて待合室へと飛び込み、二人への攻撃を狙っていた。
「うわぁ、やっぱり追っかけて来た!」
人体模型は剥き出しの内蔵をヒクヒク痙攣させながら両手にメスを持つと、二人へ刃先を向けて襲いかかる。
投げるメスが無くなったので直接切りかかるつもりらしいが、近距離戦に持ち込んだことは人体模型にとって致命的なミスであった。
「やっと思う存分に暴れられる……! =天秤(イコール・バランス)!」
命充は数枚の万札を握りしめて指紋陣を発動させると、ギュルギュルと刃先が暴れるチェーンソーへと変換させた。
チェーンソーの騒がしい動作音が廃病院に響く。
「おーおー? そんなに解剖をお望みか!」
命充は飛びかかってきた人体模型のメスをチェーンソーで受け止め、腹部──剥き出しの大腸を、ブーツのかかとで勢いよく蹴り上げた。
ボトリと大腸のパーツが落ち、芋づる式に肝臓、胃袋、右肺と臓器がボロボロと落ちていく。
「ぞ、臓器が……」
姉を臓器売買で失った熾央は、人体模型の内臓とはいえ若干引いた。
人体模型は蹴られた反動でよろめいたが、すぐに体制を整えて突進した。
あくまで知性の無い無機物の為、動きは単純である。
振り回せば当たると言わんばかりに、がむしゃらにメスを振り回している。
「ほ〜らよっと!」
得意の接近戦に持ち込んだ命充は、チェーンソーを抱えながらも軽々とした身のこなしで刃を避け、華麗にムーンサルトを決める余裕すらあった。
硬い地面が弾んだトランポリンに見える錯覚さえ起こさせる。
ブーツの小気味よい足音がリズム良く響く。
「すげーっ、アクション映画みてぇ……」
熾央が漏らした感嘆の声は、チェーンソーの動作音によってかき消された。
魔法やら義手やらの異能力以前に、基礎身体能力が並外れて高い。
命充は受付のカウンターに飛び乗ると、メスを振り回しながら猛進する人体模型に向けてチェーンソーを振りかざした。
「一発で、トドメを刺す!」
チェーンソーの刃先は人体模型の心臓を貫通し、バリバリバリッとプラスチックの破損する音が響いた。
粉々になったペールオレンジのプラスチック片が宙を舞う。
「これが──"天秤"の裁きだ」
ギョロギョロと絶え間なく動いていた眼球の動きが止まる。
四肢を投げ出して大の字に倒れた人体模型はその後も起き上がる様子も無く、正真正銘ただの模型へ戻ったようだった。
「す……ご……」
熾央は、スタイリッシュに着地してチェーンソーの電源を切る命充を、かつて爆撃から守ってくれた姉の姿を重ねた。
容姿や背丈は全く似つかないが、熾央を守って立ち向かった強さは通ずるものがあった。
フラフラと危ない足取りで命充の元へ歩み寄る。
立ちくらみで視界が薄暗い。
「しゃちょ……倒してくれて──あ、り……」
緊張の糸が切れ、急に肩が呪われたように重くなった。
「ライター? おい、ライター!?」
指先にさえ力を入れることができないほどの脱力感。
熾央はまぶたの重力に抗えず、またもや意識を手放した。
「芦辺さん……診て欲しい人がいるんだけど」
──メガロス本社ビルの最上階、社長室。
気絶した青年を肩に担ぎ、のろのろと社長室へ倒れ込む社長の姿に、芦辺は二の句が告げなかった。
野良猫を拾って持ち帰り、それを見て驚愕する親──という構図に近い。
視察先の病院には連絡を入れて予定を謝罪し(出た時に廃病院だと判明した)、熾央を愛車に乗せて会社に戻った次第だった。
「その手……魔法の義手じゃねーか! 適合者か!?」
椅子を倒す勢いで芦辺は立ち上がる。
命充は静かに頷いて肯定すると、まっすぐ芦辺を見据えて言い放つ。
「──燻風に会った」
「!」
"燻風"という名に反応した芦辺は、開いていた口を結び、命充に真剣な眼差しを向けた。
「詳しく聞かせてくれよ、その話」
メガロス医務室の仮眠部屋。
命充は壁によりかかってジャンパーのポケットに手を突っ込むと、気だるげに経緯を話した。
「──ってなわけで、偶然辿り着いた廃病院で燻風と戦うことになった。物を操る能力っぽかったな……」
「燻風のことも衝撃だがよ……逆方向の廃病院を視察先の大学病院と勘違いした社長にもビックリきてるぜ、俺は」
芦辺はタブレットの画面に映るグラフデータを確認しながら、命充の話を聞いている。
画面に表示されているのは、熾央の体をスキャンや測定にかけた検査結果だ。
義手の貴重な情報源になるというのも勿論だが、身体への異常が無いかのチェックということで命充は芦辺に検査を依頼していたのだった。
「で、ライターの身体はどうだった?」
「結論から言うと、義手による身体への影響はそれほど無い。倒れたのも魔法の使用でカロリーを限界まで消費したってだけだ。けど……」
芦辺は黒縁メガネのブリッジを押し上げると、タブレットの画面を見つめたまま言葉を飲み込む。
どこか憐れむような目をしている。
「もったいぶってないで話せ」
命充が煮え切らない返事に痺れを切らして続きを促すと、芦辺は少し険しい顔でぽつりと語った。
「……元から体がボロボロだ。まず軽い栄養失調。食生活やばいな、こいつ。雑草でも食って生きてんのかってくらい。加えて19歳だってのに奥歯の二本は乳歯のまま生え変わってねぇ。背中には火傷の痕があるし、アザも数箇所」
「それは……ひどいな」
命充も気の利いた言葉が浮かばず、率直な感想しか言えなかった。
実を言うと、熾央を担いで医務室へ運んだ際に命充は違和感を覚えていた。
腰や手足は華奢を通り越して貧弱な細さで、低くない身長の割に体重は成人男性と思えないほど軽い。
栄養失調という結果を聞いて命充は腑に落ちた。
義手に選ばれた時点で辛い過去があることは察してはいたが、少年のようにあどけない寝顔を見ていると、やはり心を痛めずにはいられなかった。
虐待か、貧困か、病気か。
まだ二十歳にも満たない彼が、その背に何を負いながら生きてきたのか二人には分からない。
「……彼の指紋魔法は"熱を操る能力"になった。義手の魔法は適合者の精神と記憶を反映させる。恐らく熱に関する辛い過去があんだ」
不合意という形とはいえ非凡な能力を得てしまった以上、数奇な運命に巻き込まれず生きることは難しい。
それでも平凡を求める彼に、辛い運命を背負わせたくないと願わずにはいられない。
「ここ……は……」
またもや見慣れない天井。
規則正しく電子音を刻む機械や薬棚。
病院らしき場所であることを、気絶二回目の熾央はスムーズに察した。
「そうだ、僕……!」
"魔法使い"になったんだった。
と、やけにカッコ良くなってしまった左腕を見つめながら記憶を掘り起こした。
機械のような左腕には慣れず、何度見ても自分の腕ではないような気がしてしまう。
特に痛みは無いが、ぬぐえない違和感が付き纏う。
今のところ、高熱を発したり魔法が発動したりといった不具合も見られないが、いつ暴走するか熾央は気を揉んだ。
生身である右手には透明なチューブが絡んでおり、その先は点滴と繋がっていた。
いつの間にか肌触りの良い清潔な入院着に着替えさせられ、ベッド横には熾央の着用していたパーカーやズボンと一緒に、姉の形見であるSIMカードを通したチョーカーが鎮座されている。
「よかった、今度は拘束されてねぇ……」
まだ疲労が残って頭がどんより重いが、それ以外の異変は特に見当たらない。
さすがに監禁二度目は勘弁して欲しいなと息をついたところで、コツンと足音がした。
「起きたみたいだぜ、社長」
声の主を探すと、着崩したスーツに白衣を羽織った男性が壁にもたれかかっていた。
スラリと背が高く、八頭身の身体を包むスーツは仕立ての良いブランド物。
タバコとブルガリ香水とロクシタンの石鹸が混じった複雑な匂いは、"大人の色男"を体現している。
「えっと……」
「あぁ、俺は芦辺理一(あしべ りいち)。少し検査はさせて貰っただけだから安心していいぜ」
芦辺は熾央の言いたいことを先読みして、質問される前に軽く説明する。
その間に病室の端にいた命充も駆けつけ、熾央が目覚めたことを確認すると安堵の息を漏らした。
「良かった〜。ぶっ倒れたから、とりあえず担いで医務室に運んだんだよ」
「ま、マジっすか……!?」
命充の何気ない一言に、熾央の幾分か良くなった顔色がまた真っ青になる。
(世界的大企業の社長が僕を担いでここまで……!?)
「おっ、お手数かけて……すんませんっしたッ!」
「いや被害者が謝罪すんな! こちらとしても謝られると困る」
命充は慌てて否定したが、熾央は顔を曇らせて俯いままだ。
「魔法を使うとカロリーの消費が激しくなるんだよ。ただでさえ栄養失調気味なんだ、倒れんのも無理ねぇぜ」
芦辺は罪悪感で潰れる熾央を、フォローするように補足する。
「その……魔法の義手って一体何なんッスか? 外せないんッスか!? あの男は一体!?」
「動揺するのも分かるが一旦落ち着け。巻き込まれたお前には知る権利がある。分かっていることは包み隠さず話すから」
命充は前のめりになって問い詰める熾央を宥め、呼吸をひとつ置いてから語り始めた。
「知ってると思うけど、この市……秦尾市は、不名誉なことに"神隠市(かみかくし)"なんて呼び名がついて都市伝説になってる。もちろん原因は神隠しでも無ければ宇宙人の拉致でも無い。ある男の、義手を巡る人体実験が関わっているんだ」
今から5年前──2025年。
医療器具メーカー"メガロス"の初代社長であった命充の父──美富吉為(みとみ きちため)は、宇宙進出に向けて政府が募集した一般人向け火星旅行に応募し、助手を連れて一ヶ月間火星へ旅行した。
その際に吉為と助手は偶然にも火星の古代遺跡を発見し、"指紋魔法"の存在を知る。
詳しいことは記録に残されておらず、"何億年も前に火星の生物が使用していた"ということだけが後に吉為の口から語られた。
そして火星の火山付近の鉱山で、魔法に耐えられる新金属──リリスメタルを発掘。
吉為と助手はリリスメタルを持ち帰り、鍛治職人の協力のもと、最初の"魔法の義手"を作り上げることに成功した。
後にその一本目は、現在命充が装着している"=天秤(イコール・バランス)"となる。
その後も吉為と助手は着々と二本目、三本目と魔法の義手の制作を成功させていくが、ちょうど五本目を作り終えたところで吉為は制作を中止してしまう。
火星の文明が滅びた理由が"指紋魔法による戦争"だと気がついた吉為は、人類に指紋魔法が広まらないよう義手を秘密裏に処分することにしたのだった。
しかし吉為の主張に反対した助手は、魔法の義手を持ち去り失踪してしまう。
吉為は逃げた助手を追うようにして行方不明となった。
「その"義手を持ち逃げして失踪した助手"ってのが──燻風魁座(いぶかぜ かいざ)」
「燻風って……!」
熾央の脳内に、不気味な黒のペストマスクがフラッシュバックした。
表情こそ見えないものの、淡々とした低い声から滲む冷酷さから分かる。
自分以外の人間の命をどうとも思わない、狂気の悪魔を超えた人間。
「2030年現在、失踪していた燻風が動き出した。市民を拉致し、人体実験を繰り返して適合者を増やそうとしてる。どれだけの不適合者が命を落としたのか、私も把握しきれていない……」
命充は虚ろな目で義手を見つめた。
「加えて今年から僅かだけど増加してる不可解な殺人や傷害罪。恐らく魔法を悪用している適合者がいる」
熾央のウォルフ・ライエをはじめとして、義手の中には殺傷能力の高い指紋を持つ物がある。
元々悪用を考える者はもちろん、善良だった人間が能力を手に入れた故に犯罪へ走ってしまうことだってある。
「火星の文明が滅びたのは、魔法を悪用する者が増えたから。些細な悪用の積み重ねから始まり、やがて大規模な戦争へと発展し、一人一匹残らず滅んでしまった……」
火星に住んでいた生命体がどういった思考をしていたかは命充にも分からない。
しかし一つ言えるのは、人間の"欲望"や"憎悪"に似た醜い感情を持っていたということだ。
火星人と同じく"醜い感情"を持つ人間が、もし魔法を持ったとしたら。
命充は右手を強く握って拳を作った。
「このまま地球に指紋魔法が広まってしまえば、きっと人類も同じ運命を辿る……だから私が開発者の娘として──現社長として責任を取らなきゃいけない」
熾央は思っていたよりも壮大な事件に巻き込まれていることを突きつけられ、汗ばむ右手を握りしめた。
「ライター……君は魔法を悪用するような人間じゃないと思う。けど、強大な力を手に入れた人間っつーのはどう動くか分からねぇ……巻き込んでおいて申し訳ないが、暫く監視させて貰う」
「か──監視ィ!? 」
命充の口から淡々と語られる今後の処置に、熾央は驚きのあまり裏返った声を上げる。
「僕は悪用するつもり無いッスよ!? なんなら外したっていいし! 外せば問題は無いッスよね!?」
熾央は強引に義手を引っ張って外そうと試みるが、命充はふるふると首を横に振った。
「残念だけど……魔法の義手は対応する鍵が無ければ外せない。無理にでもひっ剥がせば神経ごと千切れるぞ」
「ちぎっ……!?」
「つまりよぉ、外したきゃ燻風から鍵を取り返すしかないぜ〜ライター君」
「そんなぁ! そんなの……っ、そんなのあんまりッスよぉぉおぉ〜ッ! 酷い! 酷すぎる! 僕の運ひどすぎるッ!」
開発者の娘であればスペアキーを持っているかも、と淡い期待を抱いていたが現実を突き付けられ、熾央は頭をベッドに何度も打ち付けた。
「ほんとごめん……悪用するつもりはなくとも、君は魔法の義手にまだ慣れてない。誤発動起こして大惨事を招く可能性も拭いきれないし、何かあれば私達がすぐ対処できるよう監視を付けておきたいんだ。君の魔法は危なすぎる」
「ゔぅ……僕は別に、望んでこの能力を得たわけじゃねーのに……!」
熾央は半ば押し付けられるようにして手にしてしまった左手を恨んだ。
指紋魔法というのは、適合者の精神状態や乗り越えた辛い過去を反映する。
触れた物を熱する"ウォルフ・ライエ"も、家族を失い、内戦の爆撃で燃え上がる町を一人ぼっちで逃げた熾央の過去が反映されたものである。
「それと……魔法のことは機密事項として一切口外しないで欲しい。親や警察、どんなに親しい友人でも」
世界各国の政府が指紋魔法の能力に目をつけ、兵士や戦争の道具などに利用し始めてしまえば──地球は火星の二の舞となってしまう。
世界は今、辛うじて均衡を保ちながら回ってる。
そこにいきなり人知を超える力が世間に広まってしまえば、天秤の片方に重りを乗せるようにガクンと世界のバランスは崩れる。
命充はそれを一番危惧していた。
「人類の為にも、どうか指紋魔法のことは内密にしてくれ……頼む」
命充は固く唇を結ぶと、熾央に向けて深く頭を下げる。
濃紺の艶やかな髪が、パサリと一束揺れた。
「……事情は分かりました。監視も仕方ねぇと思うし、言いふらしたりもしねぇ。けど、そっちばっか要求してズルいッスよ。僕からも一つ条件を出します」
素直そうな顔立ちの熾央だが、見かけによらず言いたいことはハッキリと伝える。
熾央が強気に出るとは思っていなかった命充は一瞬うろたえたが、すぐに大人しく首を縦に振った。
「確かに、天秤が傾くのは私にとっても不快だからな。ちゃんと相応の対価は払わせて貰う。慰謝料なら一生かけて払うし、利き手が無い生活が不自由なら使用人も派遣する。なんでも言ってくれて良いぜ」
「いやー、慰謝料っていうか……」
熾央は少し困ったように眉を下げると、ボサボサの頭をかきながら呑気に言った。
「僕をメガロスで雇ってください。掃除でも雑用でも構わねーんで、就職先を確保させて欲しいッス」
てっきり金銭のやり取りを想像していた命充は、思いがけない要求に数秒ほど口を開けて固まる。
「え……それだけ!?」
「それだけってなんッスか、それだけって! 社長さんには分からないかもしんねーけど、ロボットの導入とかで働き口減って大変なんッスよ? 僕も昨日クビになったし。それに利き手が義手だと色々と制限ありそうだし……」
大体の求人は"普通の両手"があることが大前提だ。
学歴も資格も無い熾央がすぐにできる軽作業系の仕事も、利き手が不自由なら遠慮されるのが目に見えている。
「もっと慰謝料とか要求してくるかと思ったんだが……」
「……僕の利き手が無くなったこと自体は、元を辿れば不注意の事故が原因ッス。自業自得なのに、社長さんに慰謝料を要求するのは何か違うッスよ」
魔法の義手に関してのいざこざは燻風が原因にしても、利き手の欠損自体は熾央の引き起こした事故である。
魔法の義手にも事故にも直接的な非が無い命充に慰謝料を集るのはお門違いだ、と熾央は弁えていた。
「僕が社長さんに求めるのは、"監視"と"口止め"の対価としての"雇用"ッス」