東京都新宿区、ビルの谷間にある小さな芸能事務所『ILIS(アイリス)』。
そこで成功を願う売れない地下アイドル、天川優希。
年齢20歳。お先は真っ暗。そして事務所は潰れかけ。
そんな現実をぶっ壊し、輝かしい未来を掴み取れ!
勝負、崖っぷちアイドル!
(激龍は最後まで考えてるので許してくださいorz)
____シュウウウ
ぐつぐつと沸騰する熱湯が蓋を持ち上げ、熱を帯びたヤカンから白い湯気と共に音が出た。
あたしはのそりと体を起こすと、毛玉だらけのダサいスリッパでコンロまで歩き、カチ、とコンロのスイッチを押して火を消した。
ふてぶてしく光る金色のヤカンは次第に静かになった。
その傍らには発泡スチロールでできた安っぽいカップ麺が一つ。
もう待ちきれない。あたしは空腹の胃に固唾を押し込んでヤカンを手に取った。
そのまま腕を傾けると、透明の熱湯が湯気を立てながらカップ麺の中に注がれていく。
命を得た麺が踊り出し、具が次々に水面へと顔を出した。
…ああ、この瞬間が幸せだ。
完全にお湯で満ちたそれを見下ろしながら微かな達成感に浸る。
空になったヤカンをコンロに戻し、そっと優しくカップ麺のフタを閉めた。
3分間。あたしはその時間をきっちり守る。
約束の時間にはルーズだったが、この時だけは別だ。
恋人に会いたいと願うように、あたしも早くカップ麺を食べたい。
実にしょーもない昼下がり。
カップ麺が出来上がる間の3分間。
あたしが何を考えるのかというと、昨日見たつまらないローカル番組のこととか、ホームセンターで売ってた良さげな家具とか、ソシャゲの新キャラとかのこと。
まあ実につまらない。でも、逆にこの3分間で修行僧並みのすごいことを考える方が難しい。いや、修行僧ならむしろ何も考えずに瞑想するんじゃないか…といういかにもどうでもいい考えがまた次から次へと浮かんでくるので、とどのつまりはどうしようもない。
ただ頭の中を流れる言葉を脳がキャッチする。そういう時間だ。
そんなこんなで3分が経とうとしていた時、ふいに少し離れた玄関で扉が開く音がした。
あたしが音に気付いて目線を玄関に向けると、それは姿を現した。
痩せぎすの体に似合わない背広と薄幸漂うやつれた顔。
こんな貧乏神みたいな見た目をした中年のおじさんが…
「おかえり、社長」
「ただいま…」
ここ、芸能事務所『ILIS』の社長、倉松清である。
つまりあたしはれっきとしたアイドルだ。
16歳の夏頃、倉松社長にスカウトされて以来かれこれ4年はここにいる。
深いため息をついて背広を脱ぐ社長を背後に、あたしはカップ麺のフタを外した。
台所の棚からいくつもある割りばしを1本取り出して、熱々のカップ麺を手に元いたソファーに向かう。
ドサリ、と音がしてあたしの体は綿に沈んだ。
「さーて、いただきまーす!」
ぱんっ!と手を合わせ、片手に添えた割りばしをカップ麺に突っ込む。
ズルルル!途端に麺をすする音が部屋中に響き渡った。
これ!これですよ!至福の時間!
「っあーー!! うまいっ! インスタント神!」
「ほんとに好きだねぇ」
あたしの向かい側に座った社長が微笑みかける。
「まあカップ麺とプレステさえあれば生きていけますから!」
「あの、優希ちゃん…」
「ん、なに? 仕事の話ですか?」
あたしは麺をすすりながら社長の顔を伺う。
モゴモゴして、どこか言いにくそうで、ちらちらと目ばかりが泳いでいる。
「社長ー、なんでも言ってくださいよー!」
「あ、あぁ…えっとね…」
「はい!」
「……次のライブで終わりそうなんだ」
「え?」
麺を口に運ぶ割りばしが動きを止め、響き渡る静寂の中で目の前の社長はただただ目を伏せる。
あたしはその空気に耐えきれず、しどろもどろになりながらも言葉を紡いだ。
「えっと…お、終わりって…?」
「す、水曜日のライブを最後に…」
「水曜日って来週の?」
「いや、今週の」
「それって明日じゃんか!!」
ダンッ!カップ麺と割りばしを机に置き、その横で手を思いきり叩きつける。
机と同時に社長の肩もビクリと揺れた。
「あたしこれでも頑張ってきたんだよ!?」
「そ、そそそれは分かってるよ」
「大体ねぇ社長、あんた地下アイドルの曲をインディーズのヘビメタバンドに任してるからおかしいのよ!
なによ『GOLD BALL』って! あんなん売れるわけないじゃん!!」
「うわあああ!」
がしっ、机に足をついて社長の胸ぐらを掴む。
「あたしを見てよ! アイドルなのに火曜日の昼間から上下スウェットでラーメンすすってんのよ!?
あたしより若い他の子達が爽やかな汗流して踊ってる時になんなのよこのザマは!!」
「ご、ごめん本当にごめん…でも作詞家と作曲家を雇うお金がなくて…」
「だからってヘビメタバンドはないでしょーよ!!」
一通り言い終えたあと、あたしは肩で息をしながら少しの間固まっていた。
受け止めきれない現実の整理をするためだ。
あたしももう20歳。アイドルとしての賞味期限は短い。
その上、倒産間近の事務所。つまり、この状況は…
詰み。ただそれだけ。
あたしという名の駒が真っ暗な盤上に取り残されている。
その時初めて人生の危機感を感じた。
『でも、こういうことだから…明後日にはもうここを閉めようと思ってる』
「…」
奥の部屋に消えていった社長の言葉が、頭の中でずっと繰り返す。
空になったカップ麺と先端がスープで染みた割りばしを放置して、あたしはテレビから流れる音声を右から左へ流していた。
様々な色が飛び交うステージ、綺麗に揃った足元、希望に満ち溢れた表情…
テレビの向こうのアイドルを見ながらあたしは自分と見比べる。
あたしもこうなる筈だった。
かわいい衣装に身を包んで、ファンに囲まれる人生。
だけどそれは所詮夢想。16歳からズルズルと、生半可な覚悟で生きてきたあたしには到底叶えられない。
せめて1年前、もう少し頑張っていれば…なんて。
「はぁ…」
これはきっと運命だ。
ケジメをつけて、現実を見て生きろと神が言っている。
明日が最大の試練なんだ。
…水曜日。精一杯やりきろう。
深くため息をつき、カップ麺を片手に重い体を起こす。
ゴミ箱がガコン、と音を立てた。
少し雲が透けた夜空の下で、信号機の三色が街灯に混じっててらてらと光る。
いつもと変わらない夜の街をあたしは歩いていた。
ビルの上から流れる広告も、まばらに走る車の音も耳に入らない。
ただ漠然とした現実だけが頭の中を埋め尽くし、変わった心だけが街から浮いている。
この夜が終われば、明日を迎えれば全てが終わるなんて到底信じられないからだ。
思えば文句ばかり言っていた。
事務所に、社長に、ファンに。
そんなものよりも一番足りなかったのはあたしの情熱なのに。
それを今更気づいたところでどうしようもない。
「…ケジメつけるって言ったのに、引きずりまくってんじゃん」
ぽつりと呟き、歩を止める。
これからどうすればいいのか分からない。
いつまでもこの街で、この場所で、ずっと…
ふいに目頭が熱くなった。
馬鹿、馬鹿、あたしの馬鹿____
「____優希?」
「!」
ふと、声がかかった。
驚いて背後を振り返る。
暗くてよく見えないが、そこには微かに見覚えのある女がいた。
「…誰?」
急いで目尻を拭い、向き直る。
目の前の女はあたしの顔を覗き込むとにこりと笑った。
綺麗に上がった唇の両端に小さくえくぼができる。
「やっぱり優希じゃん! わたしカンナだよ、覚えてる?」
「かん、な……あっ!」
よみがえる記憶。小さなえくぼ。
そうだ、思い出した…この女は、中学生時代のあたしの親友。
神宮寺カンナだ。
チチチチ。茂みの影で鈴虫が鳴く。
寂れた公園、街灯の淡い光に照らされたベンチにあたしとカンナは腰かける。
「それにしてもほんと久しぶりだねー」
「そうだね、でもビックリした…あんたけっこう変わってたから」
それもそのはず、あたしの記憶に残る神宮寺カンナといえば度のキツイ丸眼鏡を鼻にかけたおさげの少女だったからだ。
今やえくぼ以外に面影が見当たらず、眼鏡はすっかり消えて真っ黒の髪は金色に染め上げられていた。
時間って恐ろしい…その点、すぐ気付かれる辺りあたしは変わらないのだろうか…?
などと考えていると、カンナは再び口元にえくぼを浮かべた。
「そりゃ変わるよー、中学生なんてマジさなぎみたいなもんじゃん?」
「たしかに。それ言えてるかも」
「でも優希は全然変わんないね。そのだらしない格好とかまんま!」
「…うっさい」
なんだってスウェットなんか着てしまったんだ。
赤い顔を隠すようにして襟に埋め、目を逸らす。
「そんなことより、あんた今なにやってんの?」
「なにって?」
急いで話題を変えたあたしの顔を見て、カンナはぱちくりと瞬きした。
「ほら、大学生とか仕事とか色々あんでしょ?」
「ああ…わたしはねー、美容師やってるよ。高校からの夢だし」
「……ふーん、そっか」
「優希は?」
「え?」
「優希はなにやってるの?」
「…それは……」
カンナの純粋な眼差しが痛い。
胸中に次々と聞こえのいい言い訳ばかりが浮かんだ。
…一体、いつからあたしはあたしを恥じるようになったんだろう。
少しむなしくなる。
更に深くスウェットの襟に顔を埋めたあたしに、カンナは不思議そうに声をかけた。
「どうしたの?」
「いや…その、あたし」
「うん」
「…アイドル、やってるの」
「アイドル?」
すっとんきょうな声が耳に響く。
…やっぱり言わなきゃよかったかも。なんて思っても、もう遅い。
「え、どこの事務所なの!?」
カンナは興奮した様子で顔を寄せる。
やっぱり…聞かれると思った。
アイドルといっても売れない地下アイドルで、その上事務所は倒産しかけなんて言えない。
もしそのことがバレたらもう同窓会なんて絶対に行けない。いや、意地でも行かない。
ぐるぐると回る頭に蓋をして、あたしはなるべく落ち着いて声を絞り出す。
「あ、ILISっていうんだけど…」
「どうやって書くの?」
「大文字の英語…って、あんたなにしてんの?」
「んー? ググってるだけだよ」
「えっ!?」
「どしたの?」
「いや、なんでもない…」
スマホをタップする綺麗なネイルが施された指は止まらない。
さすが都会の現代っ子、すさまじく検索が早い。
ああ、さよならあたしの中学時代の友達よ…
「…出てこないね」
「…ハイ」
遠い目で宙を見つめる。
すると、突然カンナがあたしをじっと見つめた。
…なによ、この子まさかあたしに気があるわけ?
「ち、ちょっとカンナ、あたしはそーいう気は…」
「なに、そーゆー気って」
「ごめんなんでもない」
「…あのさ、優希」
「ん?」
「アイドル、上手くいってるの?」
「…」
カンナの言葉に喉が詰まる。
そんなあたしの顔を見て、カンナはにっこり笑った。
またえくぼができる。
「…やっぱり。優希は昔から分かりやすいね」
「え?」
「上手くいってないんでしょ?」
「そっ、それは…」
「隠さなくていーよ」
ふいにあたしの隣で金髪が揺れる。
腰を浮かせてベンチから離れると、くるりと踵を返してカンナは微笑みかけた。
「大丈夫だよ、優希。優希は昔っから変わらない、まっすぐな子だから。
誰かを楽しませる為に一生懸命全力を出せる、あたしの大好きな親友なんだよ」
「…っ!」
違う。あたしはそんな人間じゃない。
いつだって無頓着で、面倒臭がりで、いつも気付くのが遅くて…
そういう、ドンくさいだけの人間。
そんなあたしが今更…
「がんばれ、優希。わたし応援してるから。ずっと前からの、ファン1号としてね!」
「____」
漠然と広がる現実の前に、微かな光が差した気がする。
勝敗が分からないルーレットのように、心臓がドクドクと鳴って手に汗握る瞬間。
…やり直せるかもしれない。今、ここから。
そんな運命の予感がする。
『ずっと前からの、ファン1号としてね!』
…変えたい。
変わりたい。
なにもできなかった現実を、自分を。
あたしを信じてくれるたった一人の大切なファンの為に。
もう一度『やり直したい』。
だから見てて、カンナ。
最高の特等席で。
最初で最後の、全身全霊のステージを。
__翌日。
あたしは寂れた地下のライブ会場に立っていた。
相変わらずまばらな人の数。その中に明るい金髪とえくぼが見えた。
今まで何もせずにくすぶっていた日々を、今日この瞬間だけにぶつける。
やっと取り戻した、ダイスキな『笑顔』の為に。
「…こんにちは、天川優希です」
マイクから震えた声が響いた。
だけどもう迷いはない。ただ伝えるだけ。
「今ここにいる、大好きな皆さんのために。あたしは笑顔を届けます。
…聴いてください、『幸せの道』」
スピーカーから音が鳴りだした。
「誰もが夢見てる幸せの道は探すんじゃなくて作るもの 足跡の中にあるんだよ」
__チカチカ、十人十色に輝くスポットライトが眩しい。
きっと音程なんてめちゃくちゃで、ダンスだって下手くそで、見るに耐えないと思う。
それでも今、必死に腕を伸ばしてマイクに声を伝わせて、あたしは最高に輝いている。
目に映るお客さんが笑顔であたしに手を振った。
このステージが終わればどうせ全部なくなる。
街からあたしが消えても、誰も気付いちゃくれない。
そう思っても、思っても…
「____っ」
この瞬間が幸せでたまらない。
全身全霊でぶつかること、誰かを笑顔にすることがこんなに嬉しいなんて、忘れていた。
…やっぱり、気付くのが遅いけど。
汗に混じって涙がはじける。
曲が終わりに近付くにつれて、名残惜しい気持ちばかりがあたしの心を埋め尽くした。
だけど、これがケジメ。
最後に忘れていた大切なことを思い出させてくれて、あたしを変わらせてくれてありがとう。
「はぁ、はぁ…」
最後のコードが鳴った。
その余韻をかき消すように、ステージは熱い拍手に包まれる。
目線の先で、カンナは小さいえくぼを浮かべて涙を流しながら拍手していた。
「優希! すごかったよー!」
「うわっ! ち、ちょっと!」
ガバッ。ステージが終わり、ライブ会場から出るとカンナは真っ先にあたしに抱きついた。
ふわりと香るシャンプーの匂い。慣れなくて驚いていると、ふいに端正な顔が目の前にくる。
「これからも応援してるね、またライブあったら言ってよ!」
「…!」
えくぼを浮かべながらスマホを取り出すカンナを横目に、あたしはようやく自覚する。
そうだ、もう終わったんだ。
『これから』はない。
…残念だけど、そのことを伝えないと。
「優希、スマホ。メアド交換しよ!」
「え? ああ、うん」
スウェットのポケットからスマホを取り出し、カンナに向ける。
お互いの指先が画面をタップしていく。
やがて社長とピザ屋だけの連絡先には『神宮寺カンナ』が登録された。
カンナはその様子を見て嬉しそうに笑う。
余計に言いづらくなってしまったが、終わるものは終わる。
だからここでハッキリ言おう。
「…あ、あの、カンナ」
「んー?」
「あたし…」
「…」
あたしたちの横を車が横切る。
また同じ、ヘッドライトと信号機の光が混ざり合う。
ドクドクと鳴り響く心臓を押さえ付け、口を開いた。
「アイドル、やめるの」
「____」
風に吹かれてなびく金髪の向こうに、目を丸くしたカンナがいた。
その視線が痛くて目を逸らす。
「…やめちゃうの? あんなにすごかったのに?」
「あれは最初で最後なの。カンナのおかげだし」
「そんなことないよ! だって…お客さんみんな笑顔だった」
「それがもっと早くできてれば、辞めずにすんだのかもしれないけど…ごめんね、もう決まったことなんだ」
「…」
黒髪をなびかせ、くるりと踵を返す。
あたしはカンナに微笑んだ。
「ありがと。じゃあね」
それだけ言って、歩き出す。
履き潰したスニーカーが地を蹴りながら、あたしの視界は歪んでいた。
次から次へと涙が溢れて止まらない。
悲しさと、嬉しさと。感情を抑え込むために目元を拭い続けた。
「…優希」
ただ一人のファンだけを残して。
__翌朝。スマホのアラームで目を覚ます。
いつもと変わらない朝の日差し。
カーテンを飛び越えて届く光が眩しくて、まぶたを閉じた。
昨日泣いたから少し腫れているのが分かる。
「…」
昨日。
そうか、今日からもう事務所に行かなくていいんだ。
つまり今の状態は無職。
少しの間はなんとかなるけど、早く次の職場を探さなければ。
…なんて大層なことをいっても、ビジョンは映らない。
「んー」
とりあえず起きて体を伸ばす。
歯磨きして、ご飯食べて、テレビ見て…
うん、まずはそれからだ。
「…」
歯磨きをしながら考える。
やり直したいと願ったあの日から、確かにあたしは変わった。
自分なりにケジメをつけたつもりだし、実際満足している。
だからまた歩き出せるだろう。
アイドルじゃなくっても、今の自分のままで。
『だって…お客さんみんな笑顔だった』
一つ心残りがあるとすれば、たった一人のファンのこと。
もっと早くに再開していれば少しの猶予もあっただろうか。
そんなたらればを言ったって、前には進めやしない。
カンナが思い出させてくれた『歩き方』で、未来に向かって進めばいい。
…それだけでしょ。
鏡に映る自分の顔が、少し浮かないように見えた。
「はぁ…」
騒ぐ子供の声、雲間から差す太陽。
平和ボケしてしまうような春の陽気と公園のベンチ…
家でじっとしているのも性に合わず、散歩がてら来てしまった。
春はよくないものを運ぶって聞いたような聞いてないような、とにかくおセンチな気分だ。
アイドルやめたから? 無職になったから?
そんなことばかりが頭に浮かぶ。そのたびにため息。
世界中の二酸化炭素濃度が増えちゃうわ…
『シティーワーク』で仕事の求人でも探そう。
どこがいいかな…学生の時はカラオケバイトだったけど。
これからはずっとバイトってわけにも行かないし。
なにか天職見つけないと。
天職…
『誰かを楽しませる為に一生懸命全力を出せる、わたしの大好きな親友なんだよ』
「はぁぁ…」
ごめんなさい、地球の皆さん。
また二酸化炭素濃度が増えてしまったかもしれない。
アイドルが天職なわけないのに。
いつまでもJK気分じゃいられないのは分かってる筈なのに。
「…とりあえずジュース飲んで考えよ」
ポケットの中の財布を手に取ってベンチから立つ。
果てしなくお気楽で惰性溢れる性格。
春のせいにしておこう!
ベンチのすぐ側の自販機を見つめる。
様々な種類のジュースが並んでいるが、小さくて安価なものがいいだろう。
なんか悲しいけど…そうだ、りんごジュースにでもしよう。
財布から小銭を出そうとしたその時、ふいに影が落ちた。
後ろに誰かいる?
そう思ってゆっくりと背後を振り返る。
「!」
驚いて喉が鳴る。
そこにいたのは、長身でコーンロウ、スカジャンを羽織ったドヤンキーみたいな男だった。
え、なに、ヤンキーがあたしに何用なの?
そりゃーあたしけっこうイケてるしナンパ?
「グェ、ん、あ、あはは、おはようございます? いい天気ですねー、とか…」
目を合わせてしまったからしょうがない。
気付いたらあたしはコーンロウヤンキーに話しかけていた。
財布を持つ手は震えている。心臓の拍動がエンジンのように鳴り止まない。
うわ、マジでなにやってんだあたし…!
「…おい」
「へっ?」
うつむいたあたしの顔にヤンキーが距離を詰める。
自販機とヤンキーに挟まれている状況。
これなんなの? 誰得なわけ?
確実にヤバい。頼むから早く行って…!
目を固くつむって身構えていると、ヤンキーは静かに声を発した。
「アンタ金持ってる? 財布忘れちまった」
どうやらカツアゲでもするつもりらしい。
この悪ガキ、無職のあたしから金を巻き上げるなんてどういう神経してるんだろう。
だけど、この場を穏便に済ませるには有り金を渡すしかない。
「え、あ、うん…も、持ってますけど?」
「奢ってくれよ」
「えっ?」
「ジュース」
あたしはぽかんと口を開ける。
ヤンキーがジュース一本奢れって?
カツアゲじゃなかったのかな…
とりあえず、お金だけ渡してすぐにここから去ろう。
急いでゴソゴソと財布をあさり、2個の硬貨を手にヤンキーに差し出した。
「はい、どうぞ」
「200円もいらねーよ」
「こ、細かいお金渡すのも変じゃない…お釣りは受け取って」
「ふーん、サンキュー」
ヤンキーはお金を受け取ると、すぐに硬貨入れに投入した。
その間にあたしは自販機とヤンキーの狭間から抜ける。
さあ、行こう。なにもなかったんだ。
冷や汗をかきながら去ろうとするあたしの襟首を、何かががしっと掴んだ。
「なっ、なに? 言っとくけどあたし無職でお金ないんだから…」
「デートしようぜ」
「はぁ? って…うわっ!」
ぐいっ。肩に手を回される。
その時気付いた。
…りんごジュースだ。
ブウゥゥン…
断崖沿いの道をバイクで走る。
昔ノーヘルで2ケツして事故った人のことを思い出した。
なぜかというと、あたしは今2ケツしている。
あのヤンキーと。
意味不明な状況。
勿論ヘルメットは被っているが、断崖の道路からすぐ下に海が見えるので恐怖が倍増する。
こんなところをバイクなんかで走ってたら、手元が狂って海にまっ逆さまとか…
怖くなって、ヤンキーの体に回した腕にぎゅうと力を込めた。
「じっ、事故んないよね!?」
「免許持ってる」
「無免許で運転してたらヤバすぎるでしょ!」
「まあ任せとけよ」
「どこに信頼する要素あんの!?」
騒ぐあたしの前でヤンキーが手元を動かす。
目の前に迫る急カーブ。
ドクン、と心臓が脈打ち、一瞬背筋が氷のように冷たくなった。
あ、これ…
「うわああああ!!」
「驚きすぎだって」
タイヤの跡をつけてカーブを曲がる。
なにが起こっているのか分からずにただ叫んだ。
ヤンキーは笑う。
「デートって言ったじゃん!」
「もうすぐ着く」
「どこ連れてく気なのよもう…火サスのファンなわけ?」
「おれ火サス見ねーよ」
「夕方再放送の刑事ドラマだなさては!」
「それも見てねー」
「ツーリング番組でも行かないよこんなとこ!」
早くこの意味不明な状況から解放されたい。
その一心でヤンキーにしがみついた。
すると、やがて断崖の向こうに浜辺が見える。
…海だ。
波打ち際で何度も波が戻っては押し返す。
道路に駐車したバイクから降りて、遠い地平線の彼方で鳴る潮の音に静かに耳を傾ける。
重いヘルメットを外すと、より一層青々と輝く海原が目に飛び込んだ。
「わぁ…」
感動に双眸を見開くあたしの横に、ヤンキーが立つ。
黒いサングラスを外してどこか遠い目で海を見渡していた。
どこか儚げな風貌。
彼が本当に不良なのかどうか、疑問に思いながら見つめていると、ヤンキーはあたしに目線を向けた。
「なに見てんだよ」
「…ちょっとイケてるって思っただけ」
「そーかよ」
向けた目線をすぐに逸らし、再び海を見つめる。
その瞳に吸い込まれそうな自分がいた。
ジュース奢らされて2ケツさせられて海にきて…
正直意味が分からないのにどこか受け入れている自分が不思議だ。
「…ねえ」
「あ?」
「なんで海なの?」
「…お袋が好きだった」
また波が緩やかに押し返した。
太陽の光に照らされて橙や黄緑に淡く輝いている。
その光景がやけに美しく見えて、脈打つ心を落ち着かせようとヤンキーに質問を続ける。
「あんた、いくつ?」
「16」
「ふーん…って、えっ!?」
直後、ノスタルジーな雰囲気が破壊される。
16歳だという事実が頭を殴りつけ、先程の記憶が思い出される。
「あんた16でバイク乗ってたの!? しかもノーヘルで!」
「免許持ってるって言ったろ」
「だから無免許だったらマジでヤバいって! あのねえ、捕まるよ?」
「そりゃそん時だろ」
「ダメだって! 帰りはあんたがヘルメット被ってよ、分かった?」
「はぁ?」
「まだ16なのに前科つけちゃダメってこと!」
「…」
あたしの言葉にヤンキーは押し黙った。
胸中なんて知らないが、まだ16歳の少年にノーヘル運転させるほどあたしも鬼じゃない。
まあ、させちゃったけど…それは別件として次からは無し!
「…はぁ、名前は?」
「……神宮寺海」
「そう。じゃあ、神宮寺くん…あれ?」
神宮寺。
あたしの脳裏にえくぼが浮かんだ。
ブー!ふいにスマホがポケットの中で鳴った。
困惑する頭でポケットに手をつっこみ、着信相手を見る。
画面には『神宮寺カンナ』の文字が浮かんでいた。
「じん、ぐうじ…」
あたしはヤンキーの方を見る。
神宮寺カンナと、神宮寺海。
重なるシルエット。
「ごっ、ごめん、ちょっと待って!」
急いで画面をスワイプし、通話をオンにする。
すぐに高い声が響いた。
「あっ、やっと出たー!」
「も、もしもし…なんか用なの?」
「うん、あのねー、アイドルのこと」
「へっ?」
予想もしない返答にあたしの頭は更に混乱した。
脳内では二人の神宮寺がごっちゃになり、何がなんだか分からなくなってきている。
第一、カンナに16歳の弟がいるなんて聞いたことないし…
ただの偶然にしても珍しい名字だからそうそういないし、つまり、ええと…
「優希、聞いてる?」
「あっ、あー、ごめん」
とりあえず今は通話に集中しよう。
アイドルなんて単語も出てきたし、聞き逃せない。
「わたしさー、このまま優希がアイドルやめるのもったいないと思って」
「でも決まったことだし、あたし無職だよ?」
「じゃもっかいアイドルなればいいじゃん」
「そんな簡単なことじゃないの! もうハタチだしいつまでもJK気分でいられないでしょ」
「だからわたしが応援してあげるんだよ」
「応援…?」
「そ。わたしちょうどいい人知ってるの。わたしの親戚で、曲作れる子」
「!」
「明日にでも会わせてみようと思ってさ。そうそう、その子の名前は…」
ドクン。心臓が鳴る。
ミステリー小説の最後で、犯人が分かる時のような感覚。
全てのピースが当てはまる、あの時の…
「『神宮寺海』」
その瞬間、決定的に可能性が一本の線で繋がった。
「…へえ、アンタだったのか」
「っ!?」
うなじに寄せられた吐息に驚いて体が跳ねる。
思わず手がすべって落としそうになったスマホを、寸前のところで大きな手が掴んだ。
ヤンキー…もとい、神宮寺海はあたしの肩に腕を回してかがみながらスマホを耳に当てた。
「よー、姉貴」
「あれ? なんで海がいるの?」
「デートだよ」
「あー、そうなんだぁ。だったらよかった!」
「よくないよ!」
「シーッ。黙ってな?」
長い人差し指を唇の前に掲げられる。
あたし20歳なんだけど…4歳も年上なんですけど!?
屈辱…
それにしても、まさかこのヤンキーがカンナの親戚で、しかも作曲ができるとは。
見た目からは想像もつかないけど、暇を持て余したヤンキーはラップに走ると聞く。
きっとそういう感じなんだ、でなけりゃあたしのメンツが保てない!
ぶつぶつと脳内でぼやくあたしをよそに、二人は会話を続ける。
「その子がね、昨日言ったアイドルの天川優希ちゃん。あ、わたしの親友でもあるから」
「はいはい。そんで?」
「あんた曲作りたいって言ってたじゃん? だから力貸してほしくてさー」
「…俺にアイドルの曲作れって?」
「なによー、アイドル馬鹿にしてんの? 言っとくけどね、優希ほんとにすごいんだから!
もうお客さん全員感涙の嵐で誰もが聞き惚れる声なのよ!」
ちょ、やめてくださいカンナさん…恥ずかしすぎて耳を塞ぎたくなる。
あたしそんなすごいアイドルでもなんでもないし、歌もダンスも下手くそなんだから。
こんなにハードルを上げられたらもう金輪際人前で歌えなくなる。
謎の下手くそラッパーグループができるだけよ!
「…か、海くん? あたし別にそんなんじゃないからね。ほんと期待しないで…」
「…」
スマホから耳を離し、海があたしの顔を黙って見つめる。
心臓がほのかに脈打った。
まるで動きを止められたみたいに口を開けず、二人の間にはしばらく波の音だけが響いた。
ふいに、沈黙を破る声が耳元に届く。
「…決めた」
「え?」
「俺が曲作ってやる」
「!」
「海ならそういうと思ったよ。それじゃ、連絡はまた後日! デート楽しんでね!」
プツッ。通話が切れる。
海は画面をスワイプし、あたしに渡した。
やけに整った顔が近距離で見つめてくる。
どうにも恥ずかしくて、耐えられなくて、あたしは尋ねた。
「なんで決めたの?」
「ん? …」
少し考えたあと、悪戯に笑う。
「あんたマブいから」
小さなえくぼが浮かんだ。