一次創作
「え?」
思わず振り返る。
振り向いた先で、顔立ちの整った女性───FAKEは、不服そうな顔でこちらを見下ろしていた。
「俺、男だけど」
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「はぁ……」
待ち行く人が振り返るくらいに大きな溜め息をつきながら、私は一人冬の街を歩いていた。
出掛けるはずだった友人から先程連絡があった。「風邪ひいた!ごめん!」と、ウサギが手を合わせて頭を下げている可愛らしい絵文字付きで。
風邪は仕方がない。仕方がないんだけど、もう少し早く言って欲しかった。もう家を出てしまったし、なんならもうすぐ待ち合わせ場所に着きそうだ。
来てしまったものはしょうがない。折角遠出したのだから、もういっそ一人でこの街を満喫しよう。そうしよう。
コンビニでコーヒーを買って、どこに向かうでもなく歩く。
角を曲がって少し歩いたところで、ふと、小さな看板が視界に入った。
「ライブハウス……?」
"ライブハウス MISSION 本日12時から!"
水性ペンでそう書かれた文字の下には、今日出演するのであろうグループが並んでいる。こんなところにライブハウスなんてあったのか。看板の横に添えられたパンフレットを一つ手に取る。
どうやらこのライブハウスはかなり規模が小さいらしい。その分出演者との距離が近いことが売りだ、と主張するように書かれていた。ふむ、とパンフレット片手に少し思案する。
この後特に予定があるわけでもない。ライブハウスなんて一度も行ったことがないから勝手がよくわからないけれど、折角だしこの機会に行ってみようか。
地下へと続く道は真っ暗で何も見えない。少しの期待と不安を抱えつつ、まるで吸い込まれるかのように暗闇へと一歩を踏み出した。
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チケットを買ってライブハウス内に入ると、既に開演を待っているらしき人が数名いた。いわゆる量産系と呼ばれるような可愛らしい服装を来た女の子二人、何度も時計を確認しては汗を拭う少し太ったチェックシャツの男性等、客層はまばらだった。どうや本当に小さなライブハウスらしい。
私も数歩下がったところで止まり、ぼんやりとステージを眺める。ライブハウスってこんな感じなんだ。
今日出演するグループは三組。どうやら本当に規模が小さいらしい。
それから十分ほど経っただろうか。
不意に照明が暗くなり、目の前にいる女の子や男性がしゃんと姿勢を正す。それに倣うように私も姿勢を正すと、暫くしてから再びステージが明るくなる。
「こんにちは、FAKEです」
透き通って儚げで、それでいて凛とした声。
綺麗だ。私が彼女に対して初めて抱いた感想は、そんな拙いものだった。
「今日は初めましての人もいるみたいだね。よかったら最後まで聞いてって」
一瞬、視線が交わった。びくりと肩を跳ねさせた私を見て、愉快そうに彼女は瞳を細める。
「それじゃあ、聞いてください───」
一言で言えば、凄かった。拙い感想だけど、上手い言葉が見つからないのだ。
どのアーティストもよかった。中にはバンドで演奏する人達もいて、本当に心が痺れた。けど、けれど。
「……はぁ」
一番手の、FAKEという女性。彼女の歌声が頭から離れない。綺麗な歌声だった。力強く真っ直ぐな声。一瞬で心を奪われた。余韻に浸りながら、受付で貰ったチラシをじっと見つめる。
どうやらこのライブハウスは規模が小さいだけあって、なんと終演後にアーティストと少し話すことができるらしい。
どうしても、どうしても私は感想を彼女に伝えたかった。ちょうど女の子達と話し終えたらしく、彼女達に向かって手を振るFAKEにそっと近付く。
「あ、あの」
「ん? あ、今日初めて来てくれた……」
初めまして。にっこりと彼女が笑う。ぺこりと頭を下げてから、恐る恐る口を開く。
「……歌、凄かったです。真っ直ぐで、透き通っていて。ええと、上手い言葉が見つからないんですけど……、ふ、ファンになりました!」
「へえ、それは嬉しいな」
「なんというか、全てが美しいなって。素敵な女性だなって、思いました」
FAKEが目を見開いた。
それから何も言わなくなった彼女を見て、かあっと顔が熱くなる。私、なんて気恥ずかしいことを。
そ、それじゃあ! そそくさと階段の方へと足を向けたところで、不意に腕を掴まれた。
「え?」
思わず振り返る。
振り返った先で、顔立ちの整った女性───FAKEは、不服そうな顔でこちらを見下ろしていた。
「俺、男だけど」
「……ふふ、」
いけない、思わず声が漏れてしまった。
慌てて辺りを見回すが、クラスメイトは私のことなどまるで気に留めていない様子で騒ぎ立てている。
ほ、と小さく息をつく。
今回のテストは完璧だった。
95点、100点、97点、100点、100点。
勉強不足故の失点こそあるものの、ケアレスミスはひとつもない。ベストを尽くせた、と言ってもいいだろう。
私の通う学校───紫原高等学校は、定期考査がある度に五教科の点数の合計を順位付けして掲示板に貼り出す。当然、私は毎回三位以内だ。当然の結果と言えるだろう。だって私は努力しているのだから。それに比べて、と私は席に座ったまま聞き耳を立てる。
「やっべー、数学のテスト赤点なんだけど!」
「うわ馬鹿かよ! って言っても俺だって赤点ギリギリだったんだよなー」
「俺現代文50点超えた〜」
本当に、本当にレベルが低いこと。
第一志望に落ちて入学することになったこの学校は、思いの外学力が低いらしい。こんな学校入るんじゃなかった。滑り止めだとしても、別の高校にすればよかった。
これでは競いがいがないというもの。ここまで学力が低いとつられて私まで学力が下がってしまうじゃないか。
HRを終えて颯爽と教室を出る。向かう先はひとつ、校内掲示板だ。
早足で向かうと、既にHRを終えていたらしい生徒が群がっていた。
人混みをかき分けて掲示板の前までたどり着く。
「……二位、か」
一番上から二つ目、つまりは二位であるその場所に私の名前は記されていた。一位こそ逃したものの、まあまあいい結果だったのではないだろうか。
さて一位は、と一番上を見て、私は思わず目を見開いた。
「……500点、満点……」
全教科満点。この私ですらとったことがない、500点満点。
一体誰がこんな。カンニングでもしたのか?
咄嗟に名前を確認しようとした時、背後から嬉しそうな女子生徒の声が聞こえてきた。
「すごいじゃん海琴! 満点だよ!?」
「あー……。先生がうるせえから仕方なくだよ」
「やっぱ海琴は次元が違うなー。頭いいよねほんと」
女子生徒と男子生徒だ。それよりも。
今、なんて言った?
先生がうるさいから仕方なく? それじゃまるで、本気を出せば満点なんて余裕とでも言うような。
ふつふつ、私の中でなにかが込み上げる。
「あー、二位の子惜しかったねー。いい勝負してたんじゃない?」
「……争うまでもねえよ。まあでも、頑張ったんじゃねえの、そいつ」
ぷつん。私の中で何かが切れた。
「……あんた、」
ゆらりと振り返る。二人はこちらに気が付いてはいないようだ。
向かい合った姿勢のまま男の胸倉を掴み上げようと手を翳したところで、不意に私の名前を呼ぶ声がした。反射的にそちらを向くと、少し先で、友人である咲がこちらへ手を振っていた。
「順位、どうだったー?」
「……うん、まあまあ、かな」
愛想笑いで彼女にそう返しながら、ちらりと先程の奴らがいた場所を見やる。
既にその姿はなく、代わりとでもいうかのように野球部らしき坊主頭の少年達が顔を見合わせて楽しそうに笑っていた。
再び掲示板を見上げる。一位の場所には、『樫木海琴』の文字。
樫木、海琴。かしぎ、みこと。
「……覚えたからな、名前」
「ん? なんか言った?」
「ううん、なんでも」
覚えとけ。
苛立つ気持ちを落ち着かせようと、苦し紛れに脳内でそっと中指を立てた。
きみのひとみ
きみはきっと知らない。
きみの瞳を食べてしまいたい、私が内に秘めたそんな感情を。
転校生が来る。
そんな噂を耳にしたのは夏の終わり、夏休みを終えて新学期を迎えた頃だった。朝のHRを終えるなりこちらへ駆けてそう告げた友人に、私は目を瞬かせた。どうやらこの噂は学年中に広まっているようで、数日はその話題で持ち切りだった。
その噂は本当だったらしい。転校生が来る、と黒板を背にした教師がそう告げるなり、教室は一気に騒がしくなった。男子か女子か、名前は、どんな奴なのか。口々に生徒が囃し立てる中で、「どんな子なんだろうね」とひとつ前の席の友人が私に言った。なんと返せばいいかわからなくて、どうだろう、気になるね、と私は曖昧に笑った。
友人はああ言ったけれど、正直なところ私は転校生なんてさして興味もない。せいぜい挨拶をする程度で、これから先関わることはあまりないだろう。そう思っていた、のに。
「えっと、小鳥遊悠。たかなしゆう、です。よろしくお願いします」
は、と息を呑んだ。時が止まったような気さえした。
所在なさげにうろうろと視線を彷徨わせ教壇に立つ彼。かっこいいねと小声で私に囁いた友人の言葉は耳に入らなかった。
蒼く澄んだマリンブルーの瞳。ただただ、その瞳に目を奪われた。
お前の席は窓際な、そう言いながら教師が指差した先には私の隣。ふとそちらへ目をやった彼の瞳と視線がかち合った。どくりと心臓が跳ねる。そのままこちらへ向かってきた彼はゆっくりと椅子に座り、こちらへ小さく会釈した。反射的に私もぺこりと頭を下げつつ、彼の瞳をそっと見上げた。
ああ、綺麗だ。青い海と澄んだ空を混ぜたような彼の瞳は、窓の外の陽の光を受けてきらきらと輝いている。
ふと、思った。彼の瞳を食べたらどうなるのだろう。すぅと口内に染み渡るミントのような香りと、脳を直接揺さぶるような甘い甘い味。ひどく美味しく、食べだしたら止まらない。そんな気がする、ううん、きっとそうなのだ。目を伏せた彼をじっと見つめながら、そんなことを考えた。
不意に彼が顔を上げる。はっとして目を逸らそうとした時にはもう遅くて、再び視線が交わった。不思議そうに首を傾げる彼に、なんでもないよとゆるりと笑んでみせる。そっか、と少しはにかんでからまた前を向いた彼に倣って私も黒板の方を見やる。教師が何か話しているけれどそれは耳に入らなくて、私の脳内は彼の瞳のことでいっぱいだった。
いつか、いつか。彼の瞳まるごと食べてしまいたい。そうして、彼の味を身体いっぱいに覚えさせたい。幸福感で満たされたい。
私のこの想いは異常なのだろう。けれど、仕方ないことだ。それも全て、私が彼と出会ってしまったから、彼の瞳を知ってしまったから。それだけ、彼の瞳は魅力的なのだ。
「……いつか、きっと」
───きみのひとみを、食べてあげる。
散々な一日だった。
二年付き合った彼氏とは好きな人が出来たとかいう理由で別れを告げられ、仕方ないからとその彼氏と行く予定だった店に一人で訪れたら臨時定休日。友達から貰ったお気に入りのストラップは千切れて失くし、履いていたパンプスのヒールは折れる。ひょこひょこと頼りなさげに壁伝いで歩く私に、街行く人は好奇と疑心の目を向けた。
広場までたどり着き、ゆっくりとベンチに腰を下ろす。もう夜だ、この時間だと靴屋は閉まっているだろう。
ふと上を見るとこの街のシンボルである時計台。カチ、カチとゆったり音を鳴らす時計の針はもう11を指していた。もうすぐ日付が変わる。下を向いて、はぁ、と何度目かも分からない大きなため息をついたとき。
「なにしてんの?オネーサン」
ふと視界に影が差して、反射的に顔を上げる。
顔を上げて────思わず息を呑んだ。
濡羽色の髪に透けるような灰色の瞳。控えめに言ってもかなり端正な顔立ちをした、白シャツの男性がこちらを見下ろしていた。
「……綺麗、」
「は?」
気付けば、心の中に留めておくはずだった言葉が自然と零れ落ちていた。私の言葉に男性は怪訝な顔をして、それからふっ、と笑った。
「なぁに、綺麗って。ウケる」
「……ぁ、え、声に出てた?うそ、ごめんなさい」
「褒められて気ィ悪くする奴早々いねーよ、ありがと〜」
言葉に出してしまっていたことに気づき、慌てる私を宥めるように男性は私の頭を撫でる。頭を撫でる彼の手つきはとても優しくて。
「……なに、なんで泣いてんの」
「……え、ぁ、っ……」
気付けば瞳から涙がこぼれ落ちていた。指摘されてようやく気付いたがもう遅く、堰を切ったようにぼろぼろ涙が止まらなくなる。
どうして泣いてるんだろう。疲れていたから? 温もりが欲しかったから? わからないけど、彼が撫でてくれた手にひどく安心したのは確かだ。
「ああもう、泣くなよ。ほら、ハンカチ」
「だい、じょうぶです。ハンカチ、持ってます」
なんとか鞄からハンカチを取り出す。ぎゅうと押さえた瞼の裏で、なぜだか今日行くはずだったお店のパンケーキが浮かんだ。
きゅう。それに呼応するかのように小さくお腹が鳴る。かっと頬が熱くなる。どうしよう、聞かれてたかな。恐る恐る見上げると、くつくつと楽しそうな笑い声。
「オネーサン、お腹空いてんの」
「……はい」
「ご飯食べた?」
「食べて、ないです」
彼の質問にぽつぽつと答えると、少し悩むような素振りをしてから、彼が瞳を細めて笑った。
「ウチおいでよ。美味いもん、食わせてあげる」
いつの間にか、涙は止まっていた。
いつもの私なら断っていた。見知らぬ男性が、ご飯食べさせてあげるから家においで、なんて。どう考えても危険だろう。けど、きっと、私は弱っていた。その誘いにほいほい乗るくらいには。
彼の後ろをついて歩く。私の歩幅に合わせてくれているのかその足取りは緩やかで、なんだか胸が温かくなる。
少し歩いて、路地裏の真横で彼が足を止めた。私もそれに倣って立ち止まる。
「……つばめ?」
「そそ、俺の店」
思わずぱちぱちと目が瞬いた。目の前には”つばめ“と書かれた看板。薄暗いガラスの向こうにはカウンターらしきものがある。どうやら彼はお店、それも飲食店を経営しているらしい。看板を見上げたまま動かない私を見兼ねてか、苦笑して彼が私を促した。
「ほら、入りなよ。寒いから」
自然な手つきで彼が私の手を取る。そのまま吸い込まれるように、私は店内へ足を踏み入れた。
薄暗い店内は思いの外広かった。カウンターと、それからテーブル席がいくつか。なんのお店なんだろう。きょろきょろと店内を見回す私を見て楽しそうに彼が笑った。カチリと音がして、それからぱっと店内が明るくなる。
「俺ん家、洋食屋なんだよね。ほら、そこ座って」
「……洋食屋」
言われるがまま、カウンターに腰を下ろす。「準備するからちょっと待ってて」とカウンターの奥へ消えた彼を見届けて、端に置かれた冊子を手に取った。
ハンバーグ、オムライス、ナポリタン。どこの洋食屋にでもある、ありきたりなメニュー。お腹が空いているからか、また小さくお腹が鳴った。
なんとなく落ち着かなくてそわそわと視線を彷徨わせていると、何かを手にした彼がカチャカチャと音を立てて戻ってきた。なんだろうと首を傾げる私に、彼はこう言った。
「これからオムライスを作りまーす」
「オムライス……」
「なんか嫌いなもんある?」
「いえ、特には」
「ならよし」
少し間が開いて、それからトントンと玉ねぎを切る音。時折カシャンと金属の音がする。なんだか心地いい。
だんだん眠くなってきて、ゆっくりと瞼を閉じる。そのまま意識が闇に沈んで、それから。
もうむりでつ誰か続き書いて🙃