役に立つ雑学は藤田くんとオバタ酸に聞いてください(敬称略)
2:invincible(故)◆NU3RYoU:2021/03/28(日) 22:20 将棋界で竜王の次に位の高いタイトル「名人」
名人位獲得最高齢は、米長邦雄永世棋聖の49歳、最年少は谷川浩司九段の21歳である。
ちなみに名人戦挑戦の場合、最高齢は大山康晴十五世名人の63歳、最年少は加藤一二三九段の20歳である。
>>1
新スレおめ!ご紹介頂きありがとうございます(^^)
私の○○○も活性化してまいりました
>>3
おめレスありがとうございます。
好奇心ですね、わかります
コウメ太夫の毎日チクショーのように、基本的に1日1雑学にしたいと思います。
6:invincible(故)◆NU3RYoU:2021/03/28(日) 22:521日1雑学と言ったな? あれは嘘だ
7:invincible(故)◆NU3RYoU:2021/03/28(日) 22:56 プロイセン雑学@
初代プロイセン国王といえばフリードリヒ1世であるが、実は彼はプロイセン国王ではない。プロイセンにおける国王である。プロイセン国王としては、フリードリヒ2世が初代にあたる。
ややこしいね。
なぜこんなことになったかと言うと、フリードリヒ1世の頃、プロイセン王国の領土はプロイセンの一部でしかなかったから、プロイセン国王を名乗ることができなかったからだ。
フリードリヒ2世の代で統一に成功し、プロイセン国王を名乗れるようになった。
将棋雑学
将棋最古の棋譜(その対局の手順を記録したもの)は1607年の大橋宗桂vs本因坊算砂のものである。
しかし、最古の局面(対局のある段階の盤上の様子)は1587年二月の家忠日記に記されたものである。
ちなみにその局面はかなりぐっちゃぐちゃである。まあ定跡とか整備されてないだろうし、仕方ないね
歴史雑学
昔々、古代ギリシャのポリス(都市国家)、テーバイの軍隊では神聖隊という部隊が編成されていた。
なんとこの神聖隊、部隊員が全て同性愛者カップルである。
なぜそうしたかと言うと、カップル同士なので、
「恋人にいいところを見せなきゃ!」
とか
「恋人の前で恥ずかしいことはできない!」
とかいう気持ちが生まれることにより、結束力と戦意が高く、とても強力だったからなのだ。
ちなみに、当時、このような恋人同士の結束力を生かした部隊は、基本的に同性愛者でしか成立しなかった。なぜなら、当時女性は国防に参加していなかったからである。
今日の偉人
ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト(1769年3月29日 - 1851年11月26日)
フランス革命からナポレオン戦争期に活躍したフランスの将軍。ダルマティア公爵、元帥、フランス大元帥、フランス首相。別名「ヨーロッパで最も優れた戦術家」
公務員の息子で、家は貧しかった。16歳で軍隊に入隊し、順調に出世するが、2年で辞めてしまう。パン屋を開くが、経営が安定せず、軍隊に入り直す。フランス革命には賛同的な立場で、優秀であったことからすぐに将官にまで出世する。
1798年にはイタリア方面で指揮を取っており、上官にマセナ、同僚にネーなど、後の元帥達がいた。この後、一時的に捕虜になるが、帰還後にナポレオンの部下になる。ナポレオンにとても気に入られ、軍団長になる。
1804年に元帥に昇進。アウステルリッツの三帝会戦では、墺露連合軍の急所を突き、勝利の立役者となる。この後も、局地戦では目覚ましい戦果を挙げ続ける。
しかし、半島戦争では部下の調整や軍紀の維持に失敗、反逆を疑われて裁判にかけられるなど失態を続けた。その他、ドイツ戦線では局地戦での勝利を続けるも、戦略的には追い詰められ、英軍に包囲されてしまった。スルトは戦術家としては有能でも戦略家としては凡人だったのだ。
王政復古では陸軍大臣を務めるが、ナポレオンがエルバ島を脱出するとナポレオンにつく。ワーテルロー会戦では参謀総長を務めたが、スタッフとしての才能はなく、敗北の原因を作ってしまう。
この時の逸話として、スールトは別働隊のグルーシー元帥と連携するため伝令を送ったが、一人しか送らなかったので連携が取れなかった。この時ナポレオンは「ベルティエ(それまでの参謀総長。この時には自殺している)なら1ダース送っただろう」と嘆いたというものがある。
この後、ドイツに亡命するが、赦免を受けてフランスに戻る。この時、勢いのあった王党派に寝返る。七月王政下では、勢いのあったオルレアン家を支持し、国王ルイ=フィリップに重用される。この時、スールトは軍の再建に努め、フランス最初の外人部隊を作るなどした。
1832年、首相に就任する。3度にわたり首相を務めたが、彼の在任中、政局はかなり安定していた。彼は政治の運用を専門家に一任しており、自分の政治力を理解していたのだろう。1838年にはヴィクトリア女王の戴冠式に出席。この後、生き残りのナポレオン戦争期の元帥とともにナポレオンのパリ改葬に立ち会う。
1847年、首相退任とともに、フランス史上6人目のフランス大元帥の位を贈られる。2021年現在、彼が最後のフランス大元帥である。
二月革命期には、勢いのあった共和主義勢力に迎合し、共和主義者を名乗る。
1851年、82歳で没する。
生涯を通じて日和見主義だったが、それだけ、政局を見渡せる強かな人物であった。軍人として略奪行為やワーテルローでの失態が批判されることはあるが、全体としては評価の高い人物である。ナポレオンの部下の中ではかなり幸運な方だっただろう。
将棋雑学
将棋で最古のタイトル戦である名人。今までで、タイトル戦の名人位を獲得したことのある棋士は、80年以上の歴史の中で15人のみ。古い順から、
木村義雄、塚田正夫、大山康晴、升田幸三、中原誠、加藤一二三、谷川浩二、米長邦雄、羽生善治、佐藤康光、丸山忠久、森内俊之、佐藤天彦、豊島将之、渡辺明。
このうち、合計5期以上名人位にあった者は永世名人を名乗ることができる。それは6人いる。古い順から、
木村義雄(十四世名人)、大山康晴(十五世名人)、中原誠(十六世名人)、谷川浩二、森内俊之、羽生善治。なお後の3名は、資格を持っているだけで、まだ名乗ってはいない。
歴史雑学
1912年は明治天皇が崩御(死去)した年であるが、パラグアイの独裁者ストロエスネルが誕生した年でもある。
ちなみに、二人の誕生日はともに同じで、11月3日である。
だから、ストロエスネルは自分は明治天皇の生まれ変わりだと思い込んでおり、そのおかげで親日的だったらしい。
今日の偉人
セルゲイ・ウラジーミロヴィチ・イリューシン(1894年3月30日-1977年2月9日)
イリューシンという名字で気付いた人もいるのではないだろうか。そう、知る人ぞ知る、ソ連の航空機メーカー、イリューシン設計局の設立者である。
若くして航空機に興味を持っていた彼は第一次世界大戦にパイロットとして従軍、戦後は空軍アカデミーで工学の学位を得て、航空機の設計をするようになった。
1933年にイリューシン設計局を設立する。
彼が設計した航空機でもっとも有名なものはil2襲撃機だろう。襲撃機は敵の防御陣地や戦車などの地上部隊をしばき回す用の航空機である。
同機は36000機以上作られた。これはドイツのbf109やイギリスのスピットファイアを大きく引き離して、第二次世界大戦期の航空機で一番の生産数であった。
イリューシンはそれだけ愛用される航空機を設計できる、有能な設計者だった。そのため、戦後も旅客機設計などで名を挙げ、ソ連科学アカデミーの会員となった。
1977年、没した。
将棋雑学
将棋界では、中継されている対局で、二歩を指して反則負けした棋士がいる
歴史雑学
戦国時代の武器で、もっとも敵兵に被害を与えていたのは投石らしい(諸説あり)
今日の偉人
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732年3月31日〜1809年5月31日)
ご存知、オーストリアの作曲家。別名「交響曲の父」「弦楽四重奏曲の父」
両親はオーストリアの伯爵家に仕えていた。だからか、それほど貧乏ではないそうだ。音楽学校校長のおじに才能を認められて、6歳で音楽の道を志した。その後、ロイター2世という、ウィーンの宮廷楽長(宮廷音楽家の中で一番偉い人)がティンときたようで、ウィーンに連れて行かれた。そして、聖歌隊というミサなどで賛美歌などを歌う合唱団的なものに入った。ちなみにロイター2世の教育はかなりテキトーだったらしい。それでいいのか。
その後、変声によって聖歌が歌えなくなりリストラ、8年間フリーター生活を送る。このフリーター時期に作曲をちゃんと学んだらしい。偉い。ちなみにフリーター生活だが、仕事は歌手や奏者をしていたので、これも音楽の勉強になっていたりする。
1759年か57年くらいに、ボヘミアの貴族の宮廷楽長になる。この時期に最初の交響曲を書いた。ちなみに初めに弦楽四重奏曲を書いたのは1755年である。
1760年、結婚するが、この嫁がとんでもない悪妻。借金持ち・不美人・性悪・浪費家という魔の四重奏である。
この後、ハンガリーの貴族に使える。ここでハイドンは宮廷の楽団の拡大に努めた。歌手との契約や楽曲の作成も1人でやったらしい。すごい。その努力が実ったのか、1780年代には世界的に人気になり、フランスやらイギリスの方から依頼が来るようになった。ちなみに、1781年にはモーツァルトと仲良くなっている。
しかし、この貴族家の当主が死ぬと、後継が音楽に関心がなかったので、ハイドンは年金を与えられ、放逐されることになる。しかし、ハイドンにしてみれば、仕事がなくなり、しかも安定した収入があるので、好きなだけ作品が書け、良かったのかもしれない。
1790年、新作オペラ公演のためロンドンに訪問する。ハイドンの作品は大人気で、ガッツリ稼いだらしい。
なお、このロンドン訪問は彼にとって刺激的だったのか、この時期に多く、後世でも有名な作品を沢山書いた。ちなみに、筆者は音楽に詳しくないので、さっぱりわからなかった。やって詳細は割愛する。
この後、ハイドンはウィーンに帰り、そこで創作活動を行う。この時、後のオーストリア帝国の国歌やドイツ国家のメロディとなる、「神よ、皇帝フランツを護り給え」を作曲した。ハイドンはこの曲を気に入っていたのか、晩年はよくピアノで弾いていたらしい。
ハイドンは老齢となり、持病が悪化してもまだ創作意欲を持ち続け、1806年には未完成ながら弦楽四重奏団を出版している。
1809年、没する。追悼式には多くの民衆が参列した。のちに改葬される。
ちなみに、ハイドンの死体は、骨相学という、頭蓋骨の容量や形と、その人物の能力や精神性に関連があるという学説を信じていた男に首を切られている。音楽丘が発達していた、とされている。
この後、各地を転々としながら、1895年にやっと返還された。ちなみに胴体の方はソ連が保有していた。人の死体で遊ぶな。
ハイドンの胴体と首が揃ったのは1970年前後になってからだったという。哀れ。
今日はエイプリルフールなのでパスします。すみません……
18:invincible◆NU3RYoU:2021/04/04(日) 20:03 結局めっちゃさぼっててごめんなさい
将棋雑学
プロの対局で、自分がとった駒を相手の駒台に置いてしまい、反則負けになった人がいる(糸谷哲郎八段)
歴史雑学
中国では、暗君の象徴的な行動として、よく「占いに頼る」というのが使われる。群雄も含めて、晩年の始皇帝・王莽・李傕・劉禅などなど、多数がそういったことを書かれている。
これ雑学って言えるんか……すみません