>>2 それじゃあ、社会の秩序を守るためなら、人を殺してもいいというのかい?ドストエフスキーの「罪と罰」のようにね。
また、社会の秩序が乱れないようなトリックを使って殺人をするのなら、それは許されるということかい?
>>3 すると君は、人類が滅亡しないように、たとえばたった一人の人間を自由に殺すことについては、許可してもいいというのだね。
秩序を守るためというと、死刑執行?
>それじゃあ、社会の秩序を守るためなら、人を殺してもいいというのかい?ドストエフスキーの「罪と罰」のようにね。
死刑が存在してるのは、それによって被告人と被害者の被害格差を平らに均して、少しでも社会に回復感情を芽生えさせるためだと思うんだ。
これはつまり暴力が正義に転換してるわけだけど、これについてはどう思ってる?
「社会の秩序を守るために人を殺す」ってことはさ、逆に言えばその人のせいで社会の秩序が乱れるってことじゃん。
まあその「乱れ」っていうのは程度にもよるけど。
例えばその社会を乱す人が通り魔だったら俺は殺しても良いと思う。
死刑にするべきかどうかは別問題として(司法に任せる)、正当防衛で意図せずその通り魔を殺してしまうっていうのは別に良いと思う。
(その通り魔の殺人によって本当に秩序が乱れるかどうかという真偽はここでは問わない)
>また、社会の秩序が乱れないようなトリックを使って殺人をするのなら、それは許されるということかい?
社会の秩序が乱れるかどうかっていうのは殺人を実行した後の結果として現れる。
つまり「絶対に乱れない」という断言は最初からはできないわけだ。
だが、どちらにせよ実行前は「乱れる可能性はある」という状態だから、意図的な殺害は許されないだろう。
「社会の秩序が乱れないようなトリック」の例を出してみてほしい。(実行は不可能なことでもいい)
そのトリックの具体的な仕組みや、それによる殺害後の状態が分からないうちは道徳以前の問題だ。