たしかに、社会秩序という点からすると、一人一人の人権原理に基づく行為の蓄積が、将来的に社会利益に反する結果、または誰かの人権を制約してしまうような結果をもたらしてしまうという主張は正しいと思う。
合成の誤謬は勿論のこと、年金問題、少子高齢化問題もある意味では、その主張に含まれるのかもしれない。( しかし、だからといって、全体主義的に公権力を介して制度的に高齢者など社会負担層を殺処分することには、その是非を決める議論余地が大きくある、というのが私の意見)
その中でも、特にフリーライダーについては相応の刑罰を設けるべきだという意見も実際にあるのも事実だ。しかし、フリーライダーについては、経済学者のジョセフ・スティグリッツやシャピロが指摘する通り、その社会状況に影響される所も否めない。
つまり、実際の制度に穴や問題があったり、努力が報われにくい社会体質だったり、社会の個人個人にとって『ただ乗り』という選択肢がゲーム理論上、得をするという環境を作り出してしまっていることの方が問題である、と指摘する。
人権という原理体系を堅持するために、ある人権への侵害者を殊更に排除するという考え方は、ポストモダンを通過した(あるいはし続けている)現代からすると、やや前時代的な気がする。私はどちらかと言うと、その侵害者が生まれないような環境整備、社会状況の改善について議論していくべきだと思う。
これは死刑宣告されるような規格外存在を生かしておく意味があるのかどうかを疑問視したり、そもそも死刑制度に疑問があると思われるコメントに対して>>56で答えたわけで、その死刑宣告の対象に高齢者や社会負担層を当たり前のように含んで話すようなことは流石に俺はしない。
あとフリーライダーを話に出してきたのは、フリーライダーは例えに使っただけで、フリーライダー事態をどうこう語るつもりはなかったんだよね。人権を蔑ろにしている存在までその人権で当たり前かのように保護される対象となれば人権というのはいずれまともに機能しなくなるっていってるだけでさ。