序章
「はあっ、はあっ、はあっ……!!」
夜と思えるほど、辺りは暗い。おまけにこのどしゃ降りである。
「……ったく。ツイてないなー……」
聯柁敬斗は、今年で十三歳になったキリシタンの少年である。敬斗は武士の子であったが、何家かと誰かに訊ねられても「聯柁」という名字は言いたくなかった。訳があるのだ。
そんな事はともかく、敬斗は今真っ暗な裏通りを走り抜けている。ここは、肥前の国天草にある町。ただし、敬斗が普段居候している益田家がある所よりも少し遠い場所だ。ここには、幼い頃たいそう世話になり大きな恩がある人の墓参りに来たのだ。墓、といっても敬斗が簡単に作った十字架が無造作に地面に突き刺さっているだけの物である。もうその墓参りも終わり、敬斗は益田家に向けて走っていた。彼がいくら人並み外れた身体能力を有していても、さすがに一刻走り続けているのは辛い。だが、少しでも早く敬斗は益田家に帰りたかったのだ。
やっと裏通りを抜けた。すると、開けた場所に出る。そこには小川に面した小さな原っぱが広がっていて、小高い丘に続く。その丘の上には、武士の家があった。だが、小川も濁り、丘の上もよく見えないほどのどしゃ降りだ。それに、人より鼻のきく敬斗には何かが焦げた臭いがうっすら漂っている事が分かった。
「………?…ん?」
人影が見えたような気がして、敬斗は立ち止まった。どうやら見間違いではなかったようだ。その人影は座りこんでいる。敬斗は興味津々な様子で、その人影の背後に近づいた。
「………だ!!……ればいいんだ!!?」
敬斗と同じ歳ぐらいの少年だった。何かを必死で叫んでいる。身分の高そうな、武士の子が着るような服装だった。彼の前には、もう一人少女が横たわっている。この子も十三歳ぐらい。よく目を凝らしてみれば、胸のあたりから大量に血を流して、息も絶えそうな様子だった。口元が微かに動いて言葉を発しているようだが、この大雨の音のせいで敬斗には全く聞こえなかった。敬斗は血を見ないように、慌てて目を両手でふさいだ。そして、帰る事もすっかり忘れて聞き耳をたてる。少年の高貴な服が、この雨と少女の胸から流れる血で汚れてしまっていたが、彼はそんな事にまで気が回らないようだった。涙を流して少女の言葉を聞いている。少女は笑顔だった。
死にそうなのに何で笑っていられるのかな…?
敬斗は不思議に思った。
少しして、大雨が嘘のように止んだ。敬斗が空を見上げれば、そこには青い空と見事な虹が浮かんでいた。にわか雨だったのかもしれない。敬斗は視線をあの二人に戻す。少年は、少女が弱々しくあげた片手を握っていた。少年を見た少女は、まだ笑顔。少女がやさしく、少年へ最期に言った言葉は敬斗にも聞こえた。彼女の首からさげた十字架が、日の光できらりと光る。
「……ど…うか…お幸せに……」
そこで、少女は静かに目を閉じた。
自分は、あんな綺麗な光を見てはいけない。
そう思った敬斗は、後ろを向いて走り出した。
「………っ!!!ちぃ!!?嫌だ、わたしを置いていかないでくれ!!」
少年の叫び声が聞こえる。たまらず、敬斗は耳をふさいだ。
「うあああああぁぁぁ……っっ!!!」
少年の泣き叫ぶ声が聞こえなくなっても、敬斗は耳をふさいでん益田家へと続く長い道を夢中で走り続けた。