T-1
「では、また来たくなったら来て下さい」
と言い、俺はひらりと手を振り目を細める。彼女の頭上に浮かぶハートマークはすっかり澄んだ赤をしていた。5時間前の青さとどんよりした雰囲気は欠片も無い。ああ、ようやく送り出せる。20代の女性は軽く会釈し、晴れやかな顔で金色のドアノブを引く。ぎぃ、と蝶番が音を立てて、扉はがちゃりと閉まった。
完全に彼女が立ち去ったと分かると、はあーと長い息をつく。椅子に座り、紅茶を飲もうと思いカップを持ち上げたが、そこに液体はなくただ僅かに茶葉がそ底についていた。顔を顰めたが、カップは持ち上げたままちらりと窓の方を見遣ると、外には青い世界が広がっていた。空と地上はどちらも似た色をしていた。空は雲ひとつ無く、地は咲いた青い薔薇で埋まっている。これまでも、これからも閉じず散らない薔薇で、だ。ただ、その花は接ぎ木でしか増えない。俺がこの薔薇について調べ上げた時にそのことは明らかになった。何年前のことか、なんて、随分前のことだから思い出せない。きっとそのときに書いた論文を見れば一目瞭然なんだろうけれど、住居スペースとして使っているこの屋敷の二階は物でごったがえしている。そこのどこかにある論文は安易には見つからないだろう。二階のことを思うと思わず溜息が出た。かたりとソーサーにティーカップを置く。
くぁあと背を伸ばし、一気に力を抜く。だらんと腕が下がって、腰掛けていた椅子の背凭れの角に肘をぶつけた。「っ」と声にならない叫び声をあげる。
今日はついていない。
今回、上司から送られて来た、数分前に此処を出た人間にはずいぶんと梃子摺ったし、おまけに先程肘だってぶつけた。これが結構痛い。じんじんと痛む右肘を左手で摩る。
もう寝てしまいたい。誰かに俺の頭上のハートマークが見えたなら、きっと濃い紫色をしていただろう。まだ心も体も少年の俺に、こんな仕事――他人の心から悲しみを取り除く仕事なんて重労働に等しい。
小さな丸い木のテーブルに突っ伏した。赤い髪の毛先が腕にかかる。ひとつ息を吐くと、俺は睡魔に身を任せた。