揺天涯

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6:のん◆Qg:2018/02/23(金) 23:00

その犬の姿を、白淵はそれ以前から何度か見たことがあった。黒い毛の、まだ大人になりきっていない野犬である。酷く痩せ細って、飢えているのかその足取りはふらついていた。時々茂みなどから現れ、白淵を見ると低く唸る。犬が自分の鯉を狙っているのは明らかだった。白淵は鯉が入った桶を、農具が置かれた棚の上に移した。自分の二倍の高さの棚である。犬などに絶対に届くことは無いだろうと思った。

そんなある夜、高い所から物が落ちた様な音で白淵は跳ね起きた。農具置き場からだ。盗賊がこの山中まで来ることはないにしても、両親からは護身用に寝る時は必ず刃物を側に置いておくよう言われている。それを引っ掴んで表に向かって駆け出した。
桶が引っくり返されていた。水はみんな溢れてしまっている。あの犬がいた。
鯉。鯉はどこだ。
走りながら目を凝らす。鯉は地面に放り出されていた。白い腹を上にしてぴちぴちと跳ねている。犬がよろよろとそれに近付いた。食らおうと口を開けている。その犬に目がけて体当たりをした。犬はたやすく吹っ飛んだ。そちらには目もくれなかった。
鯉。鯉はどうなった。
地面に目を落とす。鯉はぴくりとも動かなくなっていた。死んでいるということは、幼かった白淵にも分かった。どす黒い感情が突き上げてきたのを感じた。
鯉は犬に殺された。
その事実だけが頭に浮かぶ。振り向くと、犬は立ち上がったところだった。弱々しくこちらに向かって吠えている。白淵は刃物を持ち直して犬に近付いた。骨ばかりのその体は、簡単に押さえつけることが出来た。左腕に噛み付かれる。だが犬はそれ以上力が入らない様だ。あまり痛くない。構わなかった。刃物を使える手が無事ならいい。白淵は犬をじっと見つめた。
お前が、私の友だちを殺したんだ。
刃物を振り上げた。だがその手が動かなくなる。振り向くと、母が腕を引っ掴んでいた。
「淵。やめなさい」
しっかりした声でそう言う。振りほどこうとしたが、母の力には敵わなかった。
「何があったのか、説明するの」
白淵の目を見ている。母の目は真っ直ぐだった。
「この犬が鯉を殺したんだ。だから鯉の仇を討ってやるんだ」
白淵は話したが、自分の声が震えていることに気が付いた。まだ腕を掴まれたままだ。
「生き物を、無闇に殺してはだめ」
母は言う。
「無闇なんかじゃないよ。だって」
「淵、その犬の目を見て」
思わず言う通りにしてしまうような力を、母の声は持っている。白淵は押さえつけた犬の顔を覗き込んだ。
突き刺すような光が、見えた気がした。犬もこちらを見ている。
「犬は生きるためにそうしたのよ」
白淵は声を出すことができなかった。生命の力と向き合っている。その意識は分からなくても、それは身体で感じたことだ。犬はようやく白淵の左腕を離した。
「離してあげて」
最後に母がそう言うと、白淵は自然に犬を解き放っていた。犬は大きく体を震わせた。そして一度こちらを振り向くと、またふらふらとした足取りで茂みの中に消えて行った。
「母さん、あの犬は自分で生きているんですね」
呟くように言うと、母はふふふと笑った。
「そうよ。天命なんかじゃない。自分で、生きたがっているのよ」
母が先日行ったことの意味が、ようやく分かった気がした。


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