1 天雄星
風が吹き抜けた。
きっと、気のせいであろう。ここは地下牢なのだから。真っ暗で、四方を壁に囲まれている牢獄である。耳を澄ませど何も聞こえず、ただ自分の鼓動が身体の内側から響くのみであった。
林冲は目を開いた。どのくらいの間、その目を閉じていたのだろう。あの地獄のような出来事から、幾月幾日の時がたったのだろう。自問したが答えは出ない。
林冲は、じっと耐えていた。
何も見たくない。これ程腐りきった、世の中のものなど。
いっそのこと、何もかも話してしまえば楽になるのかもしれない。だが、拷問に屈してはならない。自分が一言も口をきかず押し黙っているだけで、少しの時間は稼げる。
それはあの方のために、あの方の志のために。それだけが、今自分がこうして生きながらえている意味なのだ。
林冲は何度も自分に言い聞かせていたことを、改めて心で呟き、再びその目を閉じた。
『あなた』
頭の中に響く声。
『必ず、戻ってきてくださいね。...私は待っておりますから』
刑吏らに取り押さえられた自分に向かって、彼女は涙を流しながらも、どうにか笑顔を保ってそう言った。
約束する。戻る。必ず。
林冲はその時彼女を見つめ、言ったのだ。
『お前の妻は』
別の声がする。この声は、自分を陥れ、このような目に合わせた張本人のものだ。そう、高俅である。
あの男は、今も時々拷問の最中などに現れる。満足そうな顔で笑っている。そして、先日林冲にこう言った。
『お前の妻は、昨日自刎したぞ』
あの時、林冲は高俅に飛びかかり、その喉元に噛み付いた。喰いちぎってやろうと思ったが、すぐに刑吏に引き剥がされ、棒でこれでもかというほど殴られた。高俅は林冲に何度も罵声を浴びせていた。その目の奥には恐怖があった。
『あなた』
また彼女の声。妻だ。妻は、自分を呼んでいたのだ。
すまない。
心で林冲は呟いた。
すまない。もう、忘れるのだ。お前の顔も、声も、すべて。私は、お前のことを忘れることにしたのだ。
許してくれ。
林冲は固く目を瞑る。
涙は、出なかった。涙さえも出なかった。
「豹子頭」林冲。後に、梁山泊の英雄となる男である。