「火を起こして」
獲物を持ち帰ってきた猿と狐に、一足先に老人の元へ戻ってきていた兎はただ一言告げた。この三匹は、鬱蒼とした深い森の中で飢えて行き倒れていた老人を救うべく狩りに出ていたのである。
「兎よ、何か獲たものは?」
魚を狩ってきた狐が問う。
「否。……確かに私は君たちと共に獲物を探しに出た。しかし、どんなに体を張っても、どんなに知恵を働かせても、何も獲ることができなかったのだ」
兎は己の無力さを嘆いた。今この瞬間まで「兎」という動物として生きてきて、これほどまでに打ちひしがれたことはない。衰弱しきった老人と己の体を交互に見つめながら口にしたのが、先の言葉である。そしてこのように続けた。
――火を起こして。そして、その炎で私の体を焼いたならば、きっと良い栄養になるはずだから。
「火を起こしたぞ。それで、どうするんだ? 狐が獲ってきた魚を焼くか?」
「感謝する。しかし、その前に焼くものがあるからしばし待て」
「木の実か? あれは焼かんでも食えるだろう」
「違う、違う」
兎は覚悟を決めた。火を起こした猿に礼を言い、それから老人の方に向き直った。
「生死の境を迷える者よ。この兎はそなたのために力を尽くしたが、狐と猿のように獲物を持ち帰ることはついにできなかった。これほどまでに虚しいことはない……そこでこの炎で我が身を焼き、そなたに捧げることにした。どうしてもそなたを助けたいのだ。せめてよく味わってくれ。それでいい」
老人に語り終えると、兎はそれきり何も言わず、ごうごうと燃え盛る炎の中に身を投じた。狐が「待て、早まるな」と咄嗟に兎を制止しようとしたが、もう遅かった。白い毛並みは一瞬のうちに焦げて黒く染まり、たちまち生物の焼ける臭いが辺りを包んでいく。鼻を摘みたくなるような臭いであるはずだが、そこにいる者は皆微動だにせず、兎の身を包んで非情に燃え盛る炎を見つめていた。
「ああ――」
重たく苦しい沈黙を破ったのは、かの老人である。狐と猿がはっとして視線を老人の方へやると、先程までの衰弱しきった様子が嘘のようであった。兎の身を焼く無慈悲な炎を見つめながらさめざめと涙を流しているではないか。心なしか、顔つきも変化しているように二匹には捉えられた。それはまるで、後光を背負った仏のような――
「勇敢な兎よ。そなたが命を捧げてくれたこの私は釋提桓因(しゃくだいかんいん)、帝釈天である。そなたが偉業を形に残して後世まで伝えるべく、そなたを月に昇らす。月はそなたを拒むまい。気の向くまま、心ゆくまで月面を走り回るがよい」
飢えていた老人は、あの仏教における四天王を従えている帝釈天であるという。突然の告白に、狐と猿は開いた口が塞がらない。
「狐に猿よ。そなたたちにも感謝する。そなたたちにも必ずや、この恩を返そう」
帝釈天は未だに燃え盛る炎を躊躇うことなく素手で掬い上げ、フッと息を吹きかけた。不思議なことに、たちまち炎の勢いが弱まっていく。やがて完全に鎮火すると、焦げてどす黒く染まった兎の死体が掌に乗せられていた。
「さあ、行け」
帝釈天の手によって、細くたなびく煙とともに兎の死体は月に昇っていった。現在まで伝わる「月には兎がいる」というお伽話は、この説話から生まれたのであった。
そしてこの兎こそ、降り立った「月」という環境にヒトの文化を取り入れて発展させた、言わば「月文明の創始者」であり――
後の「月帝ツクヨミ」である。