太宰治との出会いと、『人間失格』
私が太宰治に出会ったのは、確か小学校中学年の頃だったと思う。
母方の祖父母の家が兵庫県にあって、そこには基本的に何もないから、本棚から適当に抜き取った書籍で時間を潰していた。
いつも通りなんとなく目に留まったやつを深く考えずに取ったんだけど、それが『人間失格』だった。
そのときはどう感じたのか忘れたけど、鬱にはならなくて、でも何故か『人間失格』というタイトルが頭からずっと離れなくて、去年ふとそれを口にしたら母親が買ってきてくれた。新品でも100円とかで売ってるらしいです。なんなら太宰治が没後70年経過しているので青空文庫に行くとタダで読めます。
いざ読み始めると、想像の5000倍くらい鬱でちょっと笑った。鬱というか、全体になんとも形容しがたいくら〜い雰囲気が充満していて、鈍感な私にもただならぬ事態であることがどんどん分かってくるというか、とにかく初見ではそんな感じがした。
やっぱり初めて読んだ小学生の頃よりもいくらか感性が発達しているので、細かい表現とかも多少理解出来るようになっていて、我ながらそういうしょうもないところで感動したりした。
やっぱり読んでいて思うのは、太宰治、インターネット的な恥の感性の表現が非常に上手い。現代にも通ずるような、そしてインターネットでは往々にして「鬱」の一文字で語られる様々な感情の描写が巧みで、凄く共感出来る。私は太宰治の文章で「どの時代でも若者は皆同じ感性なんだな」というのを強く感じた。
正直、私からしたら太宰治ってどちらかというとツイッタラー寄りなイメージがある。彼の文章には、ツイッターの病みアカウントがアップしているポエムのレベル2億みたいな風情がある。
ツイッターを見ていると、精神的にかなり追い詰められているような人間(特に女性)はだいたい太宰治を推しているような気がする。本当に自己肯定感が死んでいる人種。自分の顔が嫌いで嫌いでたまらないとか、過去にハチャメチャにいじめられていたとか、やっぱり大庭葉蔵(『人間失格』の主人公)と重ねてしまう部分があるのだろうか。