森。
地は草が生い茂り、そこかしこに生える木々は樹齢二百年のものから数十年のものがある。私より年上の木だってあるだろうから、五百年とか八百年とか、そういう木もあるはずだ。花はあまり見ないが、桜の木は多いと思う。ここら一帯は、桜の木が植わっているのだから。唯一、今私が寄りかかっているこの木は枝垂れの桜だ。
柔らかな陽射しが燦々と降り注ぎ、快適な木陰を作り出している。
……何をしているのだろう。私は。
ここで時間を潰して、どうするのだろう。そもそも、どうしてここにいるのだろうか。
分からない。何も思いだせない、という訳でもないから困る。知らないのだ。
ある日突然ここで目が覚めて、それからずっと一歩も動かずに、沈んで登る太陽と月を見続けている。
「やあ。今日も暇そうだね妖怪さん」
目が覚める前の記憶なんて無い。しかし知識だけは備わっているのだから気持ち悪い。例えば、海。見たことは無いが、どういうものかは知っているし、海の景色を思い浮かべることも出来る。しかし私はそこに行った覚えなんて無い。なぜなら、ここから一歩も動いていないからだ。
「よいしょっと」
――いつの間に来た?
隣に腰を下ろした少年は「あ、やっと気付いてくれたんだね」と朗らかな笑みを浮かべているが、私はとても地味な恐怖が湧き上がっているのだ。知らない間にそこまで親しくもない人が自分の隣に座っていたら、誰だって少しぐらいは恐怖するだろう。
「で、どうかな妖怪さん。ちょっとは何か思い出せた?」
「私はあの日以前の記憶を持っていない。最初から知らないだけ」
「や、うん。それを世間一般では忘れてるって言うんだけどね?」
結構強情だなあ、と苦笑いする少年は、私が目を覚ました時に目が合った者だ。
それが最初の記憶で、この交流の原点とも言える。
艶のある黒髪は少しだけ長いらしく、後ろの低い位置で括られている。子供らしい高い声は耳障りが良い。彼は声を張り上げるような性格ではないし、鳥の鳴き声すら聞こえないここ以外では聞き零してしまうのではないかと思うほど静かな声で喋るのだ。囁く、と言うのが最適かもしれない。
「どうかな妖怪さん。妖怪さんが初めてのお披露目相手なんだけど」
「何が」
「えー……」
彼はよく笑う。嬉しくても笑い楽しくても笑い虚しくても笑う。今も。
「や、その……この羽織」
「綺麗」
「あ、うん。羽織が綺麗なのは僕も知ってるよ? そうじゃなくて――」
「似合ってる」
「そっか。ありがとう」
少し暗い赤色――茜色の羽織は、彼の黒い髪によく映える。もし羽織が真紅や猩々緋だったら、また違った印象を抱かせるのかもしれない。しかし彼は今まで寒色系の羽織しか着ていなかったのに、どういう心境の変化だろう。飽きた?
「それじゃあ妖怪さん。これあげるよ」
「いらない」
「妖怪さんは真っ白だから似合うよね」
「必要ない」
「うんうん、さすが僕。やっぱり紅白って良いよね。これ茜色だけど」
「おい」
いらないと言っているのに流れる様な手付きで羽織らせた彼は、妙なところで強情だ。人の話を聞いているか? まあ私は人ではないのだが。もしかしてだから話を聞かないのか? どうだとしたら人ではないこの身が今は恨めしいな。
「いやー、誰にも見られずにここまで来るの、結構大変だったんだよ。でも、そうした甲斐があってよかった」
「来ないという選択肢は」
「無いね」
「そっか」
本当に、彼はよく笑う。私と違って、彼の表情筋は忙しそうだ。
……そうでも、ないな。
彼はよく笑う。
それ以外の表情を、私は見たことが無い。
彼はいつも笑っている。
表情が変わらないという点では、私も彼も同じだろう。
「じゃあ、今日も妖怪さんの呼称は妖怪さんだね」
「話、いくつ巻き戻ったの」
少年の名は、神崎弥生。
私が見た、唯一の、人間。
――――――――――
感想、批評、展開読みコメントはご自由に。
でもなりすましはご遠慮ください。
彼を見たのは、二回前の紅葉の季節だった。
いつもと同じく木々と空を眺め、いつもと同じく眠り、いつもと同じく目を覚ます。そこには、肌寒いにも関わらず、息を切らして汗を滲ませている彼が立っていた。「君、は?」と訊ねられたのが、最初に聞いた声。「知らない」と答え、「そっか」と会話が終わったのが二回目の声。
それからは、日常に彼が追加された。
次の日になって訪れた彼は「ねえ、名前は?」と訊き、「無い」と答えた私に「そっか。じゃあ『妖怪さん』って呼ぶことにするよ」と命名した。「あ、そうだ。僕は神崎弥生。よろしくね、妖怪さん」と馴染ませる様に呼んで、彼は毎日ここに来る。
何がしたいのだろう。
それは私にも言えることだ。私はここで何がしたいのだろう。何をしようとして、ここにいるのだろうか。何をしようとして、ここにいたのだろう。分からない。記憶が無い。忘れている訳でもないから、思い出すことも出来ない。これが難点だ。忘れているなら思い出す見込みがあるかもしれないだろうけど、そういう訳でもないのだから。
空を見上げ、今日がどれだけ過ぎたのかを確認する。そういえば、鬱蒼と生い茂っている木々が、ここだけぽっかりと開けているのはどうしてだろう。これは自然に開けたのか、ここは人の手が加えられているのか……どちらでもいい。私には、そう関係の無い事だ。
「やあ。着てくれているんだね妖怪さん」
彼もだいぶ、ここに来る事に慣れてきた様子だ。最初は何がどうしてそうなったのか、あちこちに土を付着させていた。疲労も目に見えていたし、明らかに自然を歩くのは慣れていなかった。しかし人間の成長とは早いもので、今日この頃の彼は土を一切付着させず、息も正常で、疲労とは無縁。唯一変わっていないのは表情だろう。彼は疲れていても笑っていた。疲れていない今でも笑っている。
「ねえ妖怪さん。僕と君が出会ってから、今日で丁度三年目なんだよ」
「そう」
「うん」
季節という大雑把な区切りでしか認識していない私は、「丁度」というのが分からない。しかし彼がそう言うのなら丁度今日で三年目なのだろう。彼以外に情報が無いのだ。それを信じる他あるまい。
「昨日のは、今日を記念した贈り物だったんだ」
「どうして昨日なの」
「僕が住む里では、茜色がとても喜ばれる色なんだよ。花嫁さんの白無垢は白に少し茜色を混ぜた特別な色だし、子供の誕生日にはその子を茜色の着物で着飾るし、女性への贈り物は茜色の小物が人気で……」
その、と言い淀む。彼は照れ臭そうに笑いながら、「昨日の内に売り切れちゃったら、どうしようかと思ったんだ」と述べた。
「買ったら『今すぐ妖怪さんに着せたい』って思いが込み上げてきてさ。今日が待てずに、昨日渡すことにしたんだよ」
「せっかち」
「そうかな」
そんな話を聞いた私は、無下に「返す」と言えなくなってしまった。予定では、今日こそ返すつもりだったのに。
「どうかな妖怪さん。暖かい?」
彼はどうしてここまでするのだろう。私は鶴みたいに恩返しは出来ないし、お金なんて持っていないからお返しをすることも出来ない。彼には何も得が無い。損得で動く人間ではない、と言われればそれまでだが、わざわざこんな場所に来て、そこにいる相手にここまでする意味が分からない。里で、人間同士交流を深めているのでは駄目なのだろうか。もしかして私は里の人間なのか? いや、ありえない。私は人間ではない。季節が二百回変わっても、体に何も変化が訪れないのだ。私は人間ではないし、知識としてもそう備わっている。
まあ、彼に来てほしくない訳ではない。
彼がここに来るようになってから、彼と会話するのが日常の一部に組み込まれている。私の話を聞いていないようで聞いている彼との会話は、何もせずただひたすらに景色を眺めていた頃よりは退屈しない。
「……まあ、少しは」
少しは、楽しいと思っているのだ。
冬が来た。
身を切る様な寒さと辺りに降り積もる雪。
昔から、それが大嫌いだった。
「やあ。初雪だね妖怪さん」
厚着の彼が歩み寄る。毎日訪れる彼に暇なのか? と訊ねたくなるが、もうそんなことを訊こうとも思わなくなっていた。
納得のいく答えは返ってこないだろうし。彼はよく分からないのだ。
それは私が彼以外と意思疎通をしていないからなのかもしれない。私が知らないだけで、人間というのはこれが普通なのだろう。
私の頭に手を伸ばすと、積もった雪を落とし始めた。
「今年も、こうやって妖怪さんを発掘する日が来たんだねえ」
「埋もれてない」
「今日はね」
首筋を伝って着物の中に侵入してきた雪解け水に、一瞬身を震わせる。
それを見た彼は何がおかしいのか、クスクスと笑った。
「前から言おうと思ってたけど、どうして妖怪さんは動かないの?」
「動かなくてもいいから」
「いや、動かなかった結果がこれなんだけどね」
彼は私の頭に、肩に、積もった雪を綺麗に払うと、いつもの様に腰を下ろした。
雪解け水の冷たさが、まだ若干残っている。いつもいつも、冬は苦手だ。ずっと眠っていたくなる。冬の間だけずっと眠って、春が来たら起きたい。眠りから目を覚ますと暖かい春が出迎えてくれる――最良ではないか。
「でも良かった。羽織、役に立ったみたい」
「寒いけど」
「去年よりは寒くないでしょ?」
茜色を羽織っているからといって、それが発熱している訳ではない。身を切る様な寒さは変わらないし、耳鳴りも健在だ。指先なんて、もうほとんど感覚が無い。そんな状態なので、彼の言葉に頷くことは出来なかった。
「じゃあこうしよう。これならあったかいよね」
彼は私の右手を両手で包み込んだ。
びりびりとした過剰なぬくもりに、思わず払い除けようとしてしまう。
しかし彼は思いの外しっかりと手を握っており、少し私の腕が揺れるだけに終わった。
「妖怪さんの手、やっぱり冷たいね」
「……熱い」
「妖怪さんが冷たいのがいけない」
「痛い」
「ええ?」
「凍傷かなー」と私の手を擦(さす)る。びりびりとした感覚が段々と収まっていき、「もう平気」と言うと「そう? よかった」と顔を綻ばせた。何だったのだろう。さっきまでの感覚。冷え切った手で温かいものに触るとああなるのか。初めて知った。
「妖怪さん、左手触るね」
「やだ」
「えっ」
さっきの痛みを思い出した私は、反射的に申し出を拒否する。仕方ないじゃないか。痛いのは嫌なんだから。寒いのは嫌だけど、痛いのはもっと嫌だ。あんな風にびりびりするなら、温められなくてもいい。
理由を伝えると、彼は困った様に苦笑した。
そんな風に笑われても、嫌なものは嫌なのだ。ただでさえ身を切る様な寒さに身を震わせているのに、更に痛みを追加されるなんて耐えられるはずがない。
「……そっか。妖怪さんが嫌なら、やらない」
「そうして」
「そうする」
彼はしばらくの沈黙を置いて、引き下がってくれた。よかった。これでもまだ手を重ねようとするなら、思いきり引っ叩いてしまうかもしれない。しないけど。叩いたら私も痛いじゃないか。本末転倒だし、誰も得しない。無意味なのだ。
……既に握っている右手は離してくれないらしい。
文字数制限に引っ掛かった……。
5:結城◆lg:2017/10/12(木) 19:41 落ち着いてる文章ですね。
好きな作家さんとかいらっしゃるのですか?
>>5
ありがとうございます。
好きな作家さんというか、どこか虚無感のある作品が好きですね。
今日はまた一段と怠い。
冬は倦怠感がこれでもかと言うほど押し寄せてくるから嫌いだ。
自分の体を自由に動かせないというのは、中々辛いものである。
冬の間は、常にそういう状態なのだ。
ただ、今日はいつも以上に怠い。
やっぱり、眠ってしまいたい。眠って、春になったら目覚めたい。
「妖怪さん?」
雪の上に倒れ込んだ私に、彼の声が届く。
ああ、多分、目を開けたらそこにいるんだろう。
しかし目が開く気配は無い。
今日は一段と怠いから、目を開ける気力すら無いのだ。
「……意識はある?」
応えようとしても、指一本たりとも動かせない。
こんなの初めてだ。
今までもこうして倒れ込む事はあったけど、全く動けないなんて。
やはり今年の冬は、寒さが厳しすぎる。
「妖怪さん。ごめん」
その言葉と共に訪れた感触。
右手にびりっとした熱が伝わる。
それは、忘れようにも中々忘れられない感覚。
――彼が、私に触れた時のもの。
「妖怪さん。起きて」
随分酷な要求だ。
そう思いながらも、少しは解消された怠さを感じながら体を起こした。
「あーびっくりした」
心底安心している彼の手は、相変わらず右手を握っている。
彼の手がこれだけ熱いということは、私の手は痛いくらい冷たいということにならないだろうか。
そうだとすると、申し訳なくなる。
「妖怪さんって、冬の間はいつもより大人しくなるよね」
「……まあ」
「だよね。いつもより反応が鈍いし、声も弱々しいから」
今こうして彼と会話している間、先ほどの倦怠感は少しだけ息を潜めてくれている。
毎日毎日ここに来る彼をおいて眠ってしまうのは気が引けたので、出来ればこのまま出てこないでほしい。
しかし、声が弱くなるのは私自身が気付かなかった。どうして彼は気付けたのだろう。
「三年も見ていれば、妖怪さんのちょっとした変化でもすぐ分かるようになるんだよ」
三年。
それは彼と出会ってから、経過した時間を指している。
三年間も、彼はここに来ていたのだ。そう考えると、時が過ぎるのは早いとつくづく実感する。
こんなに早く感じるようになったのは、彼が来てからなのではないだろうか。
それよりも前は、ただ変わっていく空模様を眺めているしかなかったから、時間がどれだけ過ぎたのかを考えなかった。
彼が来るようになってから、「一日」という単位を使うようになったのだ。
そう考えると、彼との出会いは私の生活に変化をもたらしただけではないと分かる。
彼が本当に変化をもたらしたのは、「私」なのかもしれない。
「妖怪さん眠そうだし、早いけど今日はもう帰――」
するりと抜けた彼の手。
一瞬だけ何か強い感情を抱き、気付けば彼の羽織を握っていた。
……? 何、してるんだ?
「……妖怪さん」
困った様な彼の声で我に返った私は、羽織から手を放して謝罪の言葉を口にした。
彼は私に気を使ってくれたのだ。
いや、本当は、それを口実に今日は早めに帰りたかったのかもしれない。
何か用事があるのだ。
彼には彼の生活がある。
それを邪魔出来る立場にでもないのに、何をしているんだ。
「あはは、ごめんね妖怪さん」
いつもの様に優しい笑みを浮かべた彼h、上げた腰を再び下ろす。
「じゃあ今日も、いつもの時間までここにいるよ」
その言葉がどうしようもなく嬉しいのだが、引き留めてしまった罪悪感が無い訳ではない。
しかし彼の笑顔を見ていると、そんな感情さえどこかに消えてしまう気がした。
静寂と雪白だけの世界で、彼の笑顔だけが暖かな色を宿している。
太陽の様な心地良さを持つその笑顔を、「見たい」と思うようになったのはいつからだろうか。
いつでもいい。それは、重要ではないのだから。
「……ありがとう」
今この時を、こうして噛みしめていれば良い。