手が悴む。よく晴れた空は確かに青かったが、この寒さのせいか、空気まで青みがかって見えた。バッグに入れていた板チョコを割り、破片を口に放り込む。どろどろとした苦味の中でふと思い出した。どうやら世界にも寿命があったらしい。
月は地球を裏切ったようだ。古来から風流だと人間に持て囃され、綺麗なものとして扱われてきたあの大きく白い月は、来年の三月、地球に落ちてくる。それが発表されたのは、落下予定日の丁度一年前だった。
春になれば、花が咲くし、蝶も舞うだろう。けどそれと同時に、何もかもが全て、元々なかったかのように消えてしまうのだ。
初めは毎晩眠れなかった。天気予報のように外れることだってあるだろう。お願いだから、そうあってくれ。毎日毎日飽きずに祈っていた。夜になると月は前と何ら変わりなく、白く、そして強く光っていた。それが不安を煽った。三月には、見慣れた月が、あの綺麗な月が私達を殺すのだ。
どの国でも安楽死が合法化され、どこの病院も安楽死セットを安価で売った。それは当然とも言うべきか飛ぶように売れていったし、私の周りにいた人間は安い死を選んでは次々といなくなっていった。飲むと眠るように死ぬことが出来るらしいが、そんなの誰が証明したのだろう。本当は苦しくてたまらなくても、死んでしまえばそれを伝える術なんてどこにも無いというのに。
学校に来なくなった子が増えたのは、安楽死セットのせいか、ここで学ぶ意味を感じられなくなったからか。
きっとその両方だろう。
私は高校生だったが、学校には行き続けていた。毎日決まった事をしていないと、今すぐにでも世界が終わってしまうような気がして不安だったからだ。だから、好きだったチョコレートを前と同じように毎日食べた。お金で買える死を選ぶくらいなら、誰にも頼れないという事実を認めて、頼れる自分と生きようと思った。
授業は変わらずあったが、心なしかどれもが気怠げだった。すっかり元気をなくした教室がつまらなくなり、何気なく覗いた図書館で、彼と出会った。彼は参考書を開き、ペンを持ち、机にかじりつくようにして勉強していた。
「ねえ」
彼が振り返り、不思議そうな顔をして私を見た。
「何で勉強なんてしてるの?」
「期末試験があるから」
「期末試験があるの?」
「そうだね、無いかもしれない」
彼は笑った。私は変なの、と呟いた後、机に積み重なった参考書を一冊手に取り、ぱらぱらとめくった。裏表紙を見て、彼の名前を知った。
「君は何で学校に来るの?」
彼はペンの動きを止めて、私をじっと見た。
「毎日、決まってすることがないと怖い」
「俺も同じだよ。毎日を無為に過ごすのは怖い。決まったことがないと落ち着かない」
その日から私は図書館に通った。私にとっての “決まってすること” はそれになった。
私は毎日彼の隣で図書館のあちこちから持ってきた本を読んでいた。そして彼の勉強の合間に、彼と色んな話をした。
「月を見ると、時計を見てるような気がする」
「カウントダウンってこと?今にも月、落ちてきそうだけどね」
彼は思いっきり顔をしかめた後、冗談めかして笑う。私はむっとして言った。
「私はね、もしかしたら予定が早まって今日落ちてくるかもしれないって、本当に思うよ。」
「俺も思うよ。予定が早まるかもしれないって、そう思う。」
「けどさ」
「うん」
隣に座った彼は、私を見つめているのだろうか。少しの沈黙の後、私は息を吸って言った。
「予測が早まることはみんな考えるのに、予測が外れることは誰も考えないなんて、おかしいよね。月が、もしかしたら落ちてこないかもしれないのに。」
現実逃避だと馬鹿にされる根拠のないポジティブな発想は、同じように根拠のない、ネガティヴな発想と何が違うのだろうか。私には、期待することと怯えることは全く同じことのように思えたのだ。
彼は目をぱちくりさせた後、大笑いした。そして、お前らしいと言って微笑んだ。
「でも、落ちてくるよ、そしたら俺たち、蒸発したみたいに消えて無くなるから」
さも楽しそうに言う彼を見て、彼さえ良ければ、最後の時は彼と一緒にいたいと思った。
>>225 修正版
手が悴む。よく晴れた空は確かに青かったが、この寒さのせいか、空気まで青みがかって見えた。春だというのに、その暖かさは気配を見せない。バッグに入れていた板チョコを割り、破片を口に放り込む。どろどろとした苦味の中でふと思い出した。どうやら世界にも寿命があったらしい。
月は地球を裏切ったようだ。古来から人間に持て囃され、綺麗なものとして扱われてきたあの大きく白い月は、来年の三月、地球に落ちてくる。それが発表されたのは、落下予定日の丁度一年前のことだった。
春になれば、花が咲くし、蝶も舞うだろう。けどそれと同時に、何もかもが全て、元々なかったかのように消えてしまうのだ。
初めは毎晩眠れなかった。天気予報のように外れることだってあるだろう。お願いだから、そうあってくれ。毎日毎日飽きもせずに祈っていた。夜になると月は前と何ら変わりなく、白く光っていた。それが不安を煽った。三月には、見慣れた月が、あの綺麗な月が私達を殺すのだ。
どの国でも安楽死が合法化され、どこの病院も安楽死セットを安価で売った。それは当然とも言うべきか飛ぶように売れていったし、私の周りにいた人間は安い死を選んでは次々といなくなっていった。飲むと眠るように死ぬことが出来るらしいが、そんなの誰が証明したのだろうか。本当は苦しくてたまらなくても、死んでしまえばそれを伝える術などどこにも無いというのに。
学校に来なくなった子が増えたのは、安い死のせいか、ここで学ぶ意味を感じられなくなったせいか。
きっとその両方だろう。
私は高校生だったが、学校には行き続けていた。毎日決まった事をしていないと、今すぐにでも世界が終わってしまうような気がして不安だった。怖くて、怖くて、好きだったチョコレートを前と同じように毎日毎日食べた。お金で買える死を選ぶくらいなら、誰にも頼れないという事実を認めて、頼れる自分と生きようと思った。
授業は変わらずあったが、心なしかどれもが気怠げだった。すっかり元気をなくした教室がつまらなくなり、何気なく覗いた図書館で、彼と出会った。彼は参考書を開き、ペンを持ち、机にかじりつくようにして勉強していた。
「ねえ」
彼が振り返り、不思議そうな顔をして私を見た。
「何で勉強なんてしてるの?」
「期末試験があるから」
「期末試験があるの?」
「そうだね、無いかもしれない」
彼は笑った。私は変なの、と呟いた後、机に積み重なった参考書を一冊手に取り、ぱらぱらとめくった。裏表紙を見て、彼の名前を知った。
「君は何で学校に来るの?」
彼はペンの動きを止めて、私をじっと見た。
「毎日、決まってすることがないと怖い」
「俺も同じだよ。毎日をただ過ごすのは怖い。決まったことがないと落ち着かない」
その日から私は図書館に通った。私にとっての “決まってすること” はそれになった。
私は毎日彼の隣で図書館のあちこちから持ってきた本を読んでいた。そして彼の勉強の合間に、彼と色んな話をした。
「月を見ると、時計を見てるような気がするね」
「カウントダウンってこと?今にも月、落ちてきそうだけどね」
彼は思いっきり顔をしかめた後、冗談めかして笑う。私はむっとして言った。
「私はね、もしかしたら予測が早まって今日落ちてくるかもしれないって、本当に思うよ。」
「俺も思うよ。予測が早まるかもしれないって、そう思う。」
「けどさ」
「うん」
隣に座った彼は、私を見つめているのだろうか。少しの沈黙の後、私は息を吸って言った。
「予測が早まることはみんな考えるのに、予測が外れることは誰も考えないなんて、おかしいよね。月が、もしかしたら落ちてこないかもしれないのに。」
現実逃避だと馬鹿にされる根拠のないポジティブな発想は、同じように根拠のない、ネガティヴな発想と何が違うのだろうか。私には、期待することと怯えることは全く同じことのように思えた。
彼は目をぱちくりさせた後、大笑いした。そして、お前らしいと言って微笑んだ。
「でも、落ちてくるよ、そしたら俺たち、蒸発したみたいに消えて無くなるから」
楽しそうに言う彼を見て、彼さえ良ければ、最後の時は彼と一緒にいたいと思った。
>>225 続き
冬になってからも、彼と私は毎日図書館で顔を合わせていた。
彼は「試験があるから」と言って、参考書を読み漁っていた。春、彼が必死に勉強していた期末試験は、結局行われることはなかった。当たり前だと思った。世界が終わってしまうことに比べたら、きっと全部がどうでもいいことなのだ。多分彼もそんなことは分かっているのだろう。それでも律儀にノートを取り、放課後になれば参考書を食べるようにして何かを学ぼうとする彼が、私には信じられないほど儚く見えた。
隣から息を吐く音が聞こえたので、チョコレートを割って彼に渡すと、彼はそれを口に放り込んでありがとうと言った。
私はその時「彼が好きだ」と思ったし、多分彼もまた同じことを思っていた。
どちらからともなく唇を合わせて、何も言わずに抱き合った。言わなかったけど、やっぱり死ぬのは怖かった。
彼への恋愛感情が本物かどうかは分からない。けど彼となら、例え錯覚だったとしても、幸せだと思った。
桜が咲いた。去年とは似ても似つかない街がそこにはあった。やはり直前ともなると自殺者も増え、人口は去年の10分の1以下にまで減っていた。春の皮を被る季節に、何だかとても腹が立って、この怒りをどこに向ければいいのかもわからなくて、夜は眠らなかった。
昨日と同じように図書館で彼と会った。
彼は参考書を開いて、昨日と同じように、あの日と同じように、ペンを握っていた。
唯一の情報源となったラジオの国営放送では、月の落下時刻までのカウントダウンが淡々と流れている。
あと2時間…あと1時間…あと30分…
もう少しで世界が終わるというのに、世界は随分と静かだった。実はもう、全部終わってしまっているのではないか、なんて思うくらいに。
世界が終わる10分前、彼と抱き合った。
最後は抱き合ったまま、と2人で決めていた。お互いここまで死を選ばなかったのは、死ぬのが怖かっただけだったのかもしれない。いっそ彼の中にずぶずぶと沈んでいってしまいたかった。どろどろに溶けて、一つになれたら良いと思った。
「怖い」
「俺も怖い」
彼は柔らかな笑顔で私に言う。
「でも、俺、いいよ。このまま溶けてなくなるなら、それでいい」
私は、彼のその言葉の意味が、本当の意味が分かったような気がした。
「蒸発したみたいに消えてなくなるもんね」
去年の春の彼の言葉を思い出して、彼の目を見ながら確かめるように言うと、彼は「そうだよ、2人とも空気の一部になる」と半分からかうようにして笑った。
そして「一つになるよ、どろどろになっちゃうけど」と見透かしたようなことを言うのだ。
「ねえ、生まれ変わったら私、どこの星に行くのかな」
「来世は宇宙人か。多分俺とは違う星だよね」
「やっぱりそうかな。違うもんね、私とぜんぜん」
彼は私を見て、目を細める。
ラジオは、残り時間があと1分であることを告げていた。
「最後に一つだけ」
「何?」
「俺、多分、好きだったと思う」
「うん」
「だから、もう二度と会えない分」
「うん」
「沢山会えて、よかった」
ラジオの音声が、プツリと途切れた。