俺の場合、一切合財が白紙に戻った事ですし、
ある意味「良かった」とも思う。
「思考」は消えませんし、「俺」が消える訳でもないですから。
さて、気紛れに色々と書いて見ます。それだけです。
深い意味も、浅い意味も無く、制限も無しに致しましょう。
とは言え、マナー違反は禁則事項ですが。
質問、お題、意見、異論、反論は構いませんが、
誹謗中傷、罵詈雑言はお止め下さい。
−−−−−−−−−− 開始 −−−−−−−−−−−
人生に置いて、「楽」は続かず「苦」は続く。
人並みである事が、既に「人並み」ではなく、
創られた概念の中で「認識」する事が当然で、
自然であると「教え込まれた」事象に過ぎない。
「誰か」を貶める行為は、「何か」を失くす行為と等しい。
愉悦を大切にするのが「人類」ではあるが、
悲哀を忘却するのも「人類」である。
「繰り返す」事に罪悪感は無く、
「失敗」は「負け」ではなく、「糧」と捉える。
「お金」を求め、「地位」を求め、「名誉」を求める。
非常に「欲張り」な性質を持つが、
それ故に「理解され易い」性格である。
「どれか一つにしなさい」と教えながら、
「合理性」と解釈すれば、複数を望む。
「正義」と「悪」は同列であり、下劣である。
そもそも「人」にその様な「属性」は皆無である。
「したい様に振舞う」と解釈すれば、「同列」であり、
「人の成す事」と捉えれば、「下劣」に過ぎない。
「品格を求める」と言う降格。
「品格」を何故求めるのかは、俺には分からない。
「謳い文句」「流通の発展」と捉えるならば、
それを「求める姿勢」が、既に「品が無い」。
所詮「農耕民族」である事からは、誰も抜け出せない。
「食」を愉しむか、「事」を嗜むか。
とある料理店での会話。
「これ、何の料理か分からんけど、美味いな」
「少し落ち着けよ。行儀が悪いだろ?」
「美味いんだから、好きに食わせてくれよ」
客が立ち去った後、
嬉しそうに、わざわざお皿を片付けたのは店主。
俺と眼が合うと、恥かしそうに、
「どんな賛辞やマナーよりも、『やった!』と思えるんだよ」
「塵が積もっても、ただの塵」だと、努力を惜しむ。
そのままの表現からすると、その通りである。
「使い捨てライター」が増えても、それは、
「使い捨てライターの山」でしかない。
努力を積み重ねる事は「無駄」ではないが、
その「努力の方向性」が違っていたら、
その努力は「無駄」である。
「忍耐」を教え、「刹那」を教えず。
「我慢」すると、「人」は弱る。
しかし「我慢をしなさい」と教える。
「刹那」的な行動は、「人」を駆り立てる。
しかし「考えて行動しなさい」と教える。
そんな「人達」の作った今の世は、
「狂っている」と「人」が言う。
「愛」も「哀」も、「逢い」が無ければ、意味は無い。
「性欲」を満たす事ではなく、「愛」はあるのだと言う。
「悲劇」を忘れられないから、「哀」があるのだと言う。
どちらも「吐き出す」感情に違いは無く、
「綺麗」だと言う概念のみで思考される。
そこに「逢い」があるから生まれるのではないか?
と、俺は思っている。
「常軌」と「狂気」の狭間で。
「常軌を逸する」と「人」は「正気」を保てなくなる。
それを即ち「狂気」と表現する。
では、それは「人」では無いのか?
「人」は常に「常軌」の中程に位置している。
つまり容易に「逸脱」する事が可能である。
だからこそ「人間」と呼ぶのだろう。
「心」は「芯」に成り得るのか?
多くの方が、「心」は大事なものだと言う。
「倫理観」「道徳観」「一般論」「感情論」。
様々な「もの」の考え方から導き出される「結論」。
その全てが「正しい」と定めたのが「心」である。
その全てを「覆す」のも「心」である。
その揺れ動く、頼りない「心」の中には、
「芯」が通っているのだろうか?
「男」には「漢臭さ」、「女」には「乙女の香り」。
「男」には「転換期」と言う明確な時期が無い。
「子供のままの成長」に「知識と経験」を得る事で、
自らを「昇華」したと「思い込む」事で生きている。
つまり「大きな子供」なのが「男」と言う生き物である。
「女」には「夢と現」を「嗅ぎ分ける能力」があり、
己の「夢」ですら、「一応の決着」を付けると「転換」する。
「転換」の度合によって「飛び越える思考」を持つが、
その頻度は人に寄り、「転換する事で成長する」生き物である。
「罵り」に於ける「嘲笑」と「情熱」。
互いに「罵り合う」事で、互いを「嘲笑」する行為。
その中には互いの事を思考する「情熱」が含まれる。
沸騰する「頭の中」では、互いを「貶めよう」とする魂胆だが、
その反転に於ける「認める」行為とも通じるものを有する。
そもそも「心底嫌い」なのだとしたら、「相手にすらしない」のだろう。
「常識」とは、「非常識」を知る事。
「マナー」や「モラル」と言うものは、「形式」や「美意識」で知るものではなく、
「反面を学ぶ」事で身に付く、言わば「外的要因」の位置付けが大きい。
「ルール」に置き換えると、「違反をする」から「適用される」訳である。
ではそれは「常識」なのか?
「結果的」な「和」を求めると、それは「肯定」されるが、
「過程」に於いては、「否」される事も少なくはない。
「人それぞれ」=「常識」であるのならば、
それはもう「非常識」と言わざるを得ない。
「信じるオマエ」と、「信じないオレ」と。
突き動かされる衝動に、我が身を任せて吠え叫ぶ。「拳」で語るが「漢の証明」。
「馬鹿」で「一途」で「単純」で、後先なんざは露知らず。倒れるならば「前のめり」。
「道理」で「人」は動かねェ。「理屈」で「馬鹿」は止まらねェ。
「気合」を込めろッ! 「想い」で放てッ!
テメェの「信じたもの」くらい! テメェで守って見せやがれッ!
「恋愛」と「好感」と「良人」。
「恋愛」に於いて重要なのは「幸福」の「充足感」である。
「好感」に於いて重要なのは「交感」の「情報量」である。
「良人」に於いて重要なのは「親切」の「提供力」である。
「どれも持ち得ない者」に於いて重要なのは、「思慮」であり、
「どれも持ち得る者」に於いて重要なのは、「遠慮」である。
「死にたい」のか「死ねない」のか。
「命の価値は?」と問われれば、大多数の方が「大切」だと言う。
だが、自殺者は後を絶たず、死刑は執行されるのが、この世の中である。
簡単に言えば「命の価値」とは「時価」である。
値を上げるのか、下げるのか、それが「生き方」である。
山があり、それを登るペースは人それぞれだが、
「一気に駆け上がろうとする」タイプの方。「頑なに自分のペースを守る」タイプの方。
「最初から文句を言いつつ登る」タイプの方。「それらが複合された」タイプの方。
色々な方達が山の頂上を目指している。
途中で足を踏み外し、転落する事もある。登るのが嫌になり、崖から飛ぶ者も出る。
助け合いながら登る者もあれば、他人を蹴落として登る者も居る。
あなたはその背中に、何を背負って登るのか?
「理想」に生きるのか、「野望」に突き進むのか。
「純粋な人」程「理想」を持って生きている。
と言うが、無論「純粋な人」等居る訳が無い。
一つの理想を持ち続けられるのは、それを昇華し、
「野望」としての欲を見ていないだけで、
己の中の葛藤と戦い続けている事に他ならない。
「貪欲な人」程「野望」を持ち続けている。
と言うが、無論「貪欲な人」が「悪い」訳では無い。
一つの野望を達成したとしても、それを踏み台にし、
更なる「理想」を欲として力にするだけで、
己の内外の葛藤にすら立ち向かっている事に他ならない。
その術に置いての手段が「合法的」なのならば、
俺は「理想」よりも、「野望」を推薦する。
「逃げ道」を作ると言う「策略」。
結果的に「逃げ」に走る事ではなく、
予め「逃げ道」を確保して置く事は、「策略」である。
「最悪の状況」に身を晒す場合、
「生き残る術」として、当然考えるべき事で有るが、
時折、それが「弱さ」として形容される様である。
ネガティブな性質を持つ人の場合、
その発言に置いて、「逃げ」と言う言葉に反応し、
「立ち向かう」事が、恰も「強さ」だと錯覚し、
結果的に無理を強いる事に成る。
「逃げ」が「悪い」と捉えられるのは、
最初から「諦めている」場合が多く、
本来の「逃げ道」の使用方法と食い違っている為である。
「退路」を確保した後、慎重に歩を進める。
それ故に「策略」と言うべきである。
「興味」を追求する「思考」。
一つでも、複数でも良く、「ほんの少し」の「細かな」事に興味を持つと、
そこから少しずつ、その世界を拡げる事が可能に成る。
言葉一つから、全体の文章に至るまで、鏤められた羅列を紐解く思考。
勿論、比較対象と成る知識と想像力を働かせ、そこに結論を見なければ、
知恵を借りる事も重要である。
掲示板に置いて、俺が嫌われる理由の一つがコレであるが、
生来から今までの過程を経て培うと共に、
性格にまで染み付いた厄介な性質で有り、
もはや取り去る事は不可能なのだろう。
とは言え、ソレすらも「面白い」と「思考」すれば、
嫌われる事すら、特にどうとも思わなくなる。
寧ろ「嫌われる」事で、核心に近付いているとも思える。
「命を燃やす」と言う「快感」。
今の世の中、「命を燃やす」事よりも、
「スマートに生きる」事の方が重視される。
理由は至極簡単で、
傍目から「格好良い」とそう思われるからである。
颯爽と物事をこなし、冷静で、他者と問題を起こさない。
そしてそれを鼻に掛けず、紳士的で情にも厚い。
俺から言わせて貰えるのならば、それは最早「人」とは言えない。
「超人」或いは「機械」とも言うべき存在である。
不様でも、醜くても、意地汚くても、
「生きる」事に執着する「人」は、
「命を燃やす」事であらゆる事象と闘っている。
例えリスクが大きくても、背後に奈落が待っているとしても、
そこで「燃やす命」の「快感」は、筆舌し難いモノがある。
「そこで笑えるかどうか、お前はどっちだ?」
放置する「視線」。静観する「視点」。
年末に向けて慌しく、忙しない日々。
それもまた、一つの「機」と言う訳で、
「書き込まず」に「視」する事を考察する。
そもそも俺は「ROMる」方だった訳だが、
「書き込む」事を始めたその大きな理由が、
「過疎化」である。
誰かがスレを立て、誰かがレスをする。
それを考察する事が俺の本分であり、
「知る」事を加速させる事にも繋がる。
「ロスト前」は、サーバーの不調と共に人が減り、
「ロスト直後」は、その煽りから人が激減した。
そして「今現在」。
俺はそろそろ「本分」に戻るべきだろうと思考する。
書き込むのは「考察」である此処だけで良い。
「視線」と「視点」を駆使し、
「流れ」を「読む」事を思考する。
その上で、己の結果論である考察を書き込む。
それが俺の事実であり、真実と言えるのだろう。
「ぬん」は「鵺」へ。「鵺」は「俺」へ。「俺」は■■■□■■。
HNを変える事は、殊更に愛着がある訳でもないが、
一種の「仕切り直し」とも言うべき儀式なのだろう。
「俺」が「誰であるか?」は、俺が知っていれば良い。
とは言え、一文字変えた上に、漢字変換しただけではあるが。
昨今では、「匿名」「名無し」「匿名の■■■■」等、
名乗る事すら「面倒」とでも言わんばかりだが、
「固定化」を防ぐ意味では、それも有りである。
某巨大掲示板では「だからこそ」の面白さもあり、
「だからだろ」と言うべき問題もある。
「コテハン」は、所謂「顔」である。
これも「だからこそ」の面白さを生み、
その反面も同時に持たせてしまう事に成る。
結局「世界は繰り返す」事でしか進まない。
ROMに戻り、フラフラとサイトを漂っていますが、
「葉っぱ」もそうなのですが、似た様な話ばかりですね。
「何時か何処かで」の話題に、繰り返す思考。
他のスレ等見もせずに、自分のスレを主張する。
無論、他のスレにレスする訳でもなく、
恰も御自分が「主人公」の如くに思えるのでしょうね。
俺からして見ますと、「全く面白くも無い」事ですが、
「悦に浸る」事についてとやかく言うつもりも無い。
迷子の野良犬が、グルグルと同じ所を回っているに過ぎませんから。
所詮、「矮小な自分」を隠す為の虚勢に過ぎず、
それに寄って「満たされている」と錯覚しているに過ぎない。
つまり、「レスを返す気にも成らない」と言う事である。
「人」とは「万物の霊長」ではなく、唯の「動物」。
心臓に手をあて 確認してみる 「あたし」とゆう名の存在
規則正しく動く カウントダウンのような あたしの音
生まれ やがて死にゆくモノ 永遠など無い
運命とゆう檻の中でしか 生きられない?
この命が輝く 与えられた刹那に
どれくらいの焔と出逢えるだろう
あたしは燃えゆきたい 光を放ちながら
それがここに生きたとゆう証
黄色い花が種を飛ばす季節 綿毛は風に乗る
見知らぬ大地に辿り着き 根を下ろし 命繰り返す
心にあく穴を埋める 土があるなら
そこに種を落とし 育てゆく術もある?
叶える為 夢見る 叶えられず俯く
耳の奥で叫ぶよ 音にならぬ声
膝抱えてるよりも 生き急ぐのが真実
花の命も 儚すぎる光
檻の中を彷徨いながら どこに行けばいいのだろう
胸に絡む見えない鎖 それは重ねた経験の重さ 息苦しい喜び
この命が輝く 与えられた刹那に
どれくらいの焔と出逢えるだろう
あたしは燃えゆきたい 光を放ちながら
それがここに生きたとゆう証
叶える為 夢見る 叶えられず俯く
耳の奥で叫ぶよ 音にならぬ声
膝抱えてるよりも 生き急ぐのが真実
花の命も 儚すぎる光
(angera『Proof』より)
「面白き」「楽しき」と思えるかどうか。
辛い事を経験し、思考する事は「無」では無いのでしょう。
ですが、「生かす」事を思考しなければ堕ちて行く事に成る。
それが「奈落」か「心の闇」か。
不思議なもので、ほんの少しの思考変換で、
これらは「必要」とも「不必要」とも言えてしまう。
出口の無い「思考の迷路」とも呼ぶべき、迷宮に迷い込む。
そもそも「答え」は用意されておらず、作り出すしかない。
それを思考せずに「結論」を求めるのは無謀である。
結果的に「繰り返す」だけの迷宮からは脱し得ない。
それすらも「面白い」と思い「楽しむ」事が出来たならば、
それは「人」と呼べるのだろうか?
「助言」と「勘違い」「思い込み」は紙一重。
元々僕は「助言」をしているつもりはない。
話を聞き、自分なりの「思考」を返しているに過ぎない。
それが多少なりとも「判断材料」として加えられるのならば、
思考した「価値」もある様に思う。
だが、そもそも「思考」に「価値」がある訳では無い。
それをどう捉え、どう飲み込むかは本人次第であるし、
僕程度の思考から、「何かを掴む」事が出来たのならば、
それは「本人の価値」である。
「勘違い」とは、「誰かを助けている」等と錯覚する方である。
気分的には優越感に浸れるのだろうが、勘違いも甚だしい。
「優しい言葉」や「温かい心」等と甘言を駆使し、
結局の所、「問題を先に延ばす」事しか思考しない。
つまり、「問題の解決」には全く関与せず、
「追従する」事で「良い人」を印象付けたいだけである。
「思い込み」とは、自分の「価値観」のみに囚われ、
「他人もそうなのだ」と信じて疑わない方である。
「自分はこうだから」「自分はこう思うから」と、
「想い」を押し付ける事で、「問題」よりも何よりも
「こうすれば良い」と言う固定観念を重視する。
つまり、「問題そのもの」ではなく「意見そのもの」が
自分は「正しい」と主張するだけである。
「義理」の向かう先。
はてさて、一段落した「チョコシーズン」ですが、
これはまぁ、お菓子会社の陰謀と言う事で片付けましょう。
俗に「義理チョコ」と称される言わば「恒例行事」の産物ですが、
例に漏れず、幾つかを僕も頂きました。
頂いたのは良いのですが、そんなにチョコばかりを食べられる訳は無く、
そもそも「餡子」の方が好きな僕としては、持て余す事になります。
とは言え、冷蔵庫に放り込んで少しずつ消費するのは味気が無い。
「ならば、チョコケーキにして振る舞えば良い」
その事を思い付いた時には、名案とさえ思えていたのでしょうね。
料理のレシピを見ながら、慣れた手付きでボウルをかき回す様は、
凡そ「2月15日の男子」の範疇からは大きく外れていたでしょう。
思いの他良く出来た、飾り気の無いチョコケーキを
男性3人、女性2人の計5人で、夕飯後に食しましたが、
その内の一人が冗談で、
「お前は俺の嫁になれ」
と言われ、深く後悔の海に沈んだ事は言うまでもない。
中々「良い方法」と言うモノを試行錯誤するのは、
単純な様で、奥が深いモノである。
『来ル雨』
悠久の夏の空 仰ぐ 瞬きの露に似て 友の笑顔を映す鏡 黄金色の陽だまり
夢も 自由も 溢れ出す気持ち恋も 希望も 色褪せぬ季節
ただ...その流れを 絶やさぬ様に... 綺麗な願いは...綺麗なままで...
その願いを喰らうのは 私だった 引き裂き 砕き 嘆きの咆哮
笑みの裏の嘲りが 言葉の嘘が 私の心を腐らせ 歪ませた
泣き濡れた眼と 血に濡れた手と 薄れ行く想いと 忘れえぬ呪いと
捻じ曲がる口元に 紅が差す
ただ...その穢れを 慈しむ様に... 綺麗な願いは...何処にも無くて...
蒼穹の夏の海 泳ぐ 呟きの波に似て 愛しい人を守る鎧 透明な風模様
愛を 語らう 星霜の波間 熱も 暑さも 心地よい夜長
ただ...その視線に 溺れ行く様に... 綺麗な祈りは...綺麗なままで...
その祈りを破るのは 私だった 切り裂き 壊し 無常の嗚咽
意味の裏の裏切りが 真意の底が 私の心を狂わせ 怨ませた
無き濡れた眼と 血に濡れた手と 薄れ行く想いと 忘れえぬ呪いと
喉渇く欲望に 闇が差す
ただ...その渇きを 潤したくて... 綺麗な祈りは...見るも無残で...
雨よ降れ 私を濡らせ 消し去る様に...
雨に触れ 私は濡れる 掻き消したくて...
ドウカ...クルウワタシヲ...
戻らぬ「心」に、明日はあるのか?
「痛み」を感じる事。「傷み」を感じる事。
肉体的な苦痛と言う意味でならば、感覚は正常だ。
しかし、これが「心」となると・・・良く分からない。
空っぽの井戸の底に、一滴の水を落としても、その音は響かない。
「悲しい」「辛い」と言う思考は出来ても、
潤いの無い荒野に、実らない種を蒔いてる様なモノなのだろうか?
「楽しい」「嬉しい」と言う思考は出来ても、
光の無い深海で、一筋揺れるだけの流れに過ぎないのは何故だろうか?
失う事で対価は支払われたのかも知れないが、
その大きさは果たして割に合っていたのだろうか?
必死で掻き集めたモノが、一瞬で無に帰する時。
それでも僕は、「僕」で居られるのだろうか?
「心」は失くても「気」は沈む。
環境の変化、特に気温の変化で気が滅入る時がある。
急激な気温の上昇、下降。
「身体」と言うよりも、「心体」に影響を与えるのかも知れない。
風邪を引く、或いは拗らせる季節でもありますしね。
そもそも精神状態が常にフラットな僕は、
上がり下がりが微妙で、分かり難いのだそうです。
とは言え、嬉しい言葉や楽しい言葉を聞けば、
それなりに気分も上がるのですが、
多分―――気付く方は居ないでしょうね。
文章を崩し、それを予見させる文を組み立てる事は出来ても、
それは物凄く「気持ちの悪い作業」に成ってしまう。
寧ろ、読み直した時に嫌悪感しか感じないでしょうね。
「文を書く」事に置いて、僕は一切の仮面を付けない。
それは思考にフィルターを通す事に成ってしまうからですが、
それ故に、無理に書く事はしない。
頭を一度OFFにし、
空を眺め、雲を見送り、風を嗅ぎ、日に当たる。
それで充分。
「批判」と「反論」。
僕は「相手の思考を受け、自分の思考を返している」だけである。
「批判」するつもりも「反論」するつもりも
多分―――「助言」をしているつもりもないが、
人がどう言った所でそれは変わらないし、
人がどう思おうとそれは仕方が無い事である。
ですがやはり「お節介が過ぎた」と言った所でしょう。
「伝えたい事」と言うのは、言葉のみではまず不可能です。
文章を長くした所で、読み難く、理解され難い。
かと言って短くすれば、読み易くは成るものの、意味は分散する。
「批判」と捉えられても、「反論」と捉えられたとしても、
それはそれで、読んで貰えるだけで有り難い事には違いが無い。
とは言えこれは、僕の主観ですが。
『人生相談』のあのスレには書き込まないと明言してありますから、
こちらでその思考だけは記して於きましょう。
何度も言ってる気はしますが、
やはり僕の根本は「人で無し」でしかない。
仮面を取り、人真似をした所で「人」には成れない。
しかしその分「僕」は「僕」に成れば良いだけですがね。
まだまだ学び甲斐があるとも言えます。
「本気」は否か。
そんな訳で、もうこんな時間ですか。
取り敢えず「チーズケーキ」は好評でした。
お酒もどんどん減って行き、当初の予定時間を著しく越えました。
3月14日にこれ程人が集まるとは予想もしていませんでしたから。
トータルで15人―――だったと思われるが、
途中参加、途中退場のお陰で把握が出来ていない。
どれだけ暇だったのかは知りませんが、ご苦労様です。
ですがバレンタインの時よりも女性が多いのは、何故ですかね?
それは兎も角、久しぶりに「酔う感覚」を味わえました。
気持ちの良い「酔い」は、ここ最近では数える程しかなく、
それだけでも良い「催し物」だったのかも知れない。
「男好き」なN氏(♂)、酔った勢いで大声で叫ぶのは止しましょう。
「自称モテる女」のE氏、何故この様な所にいらっしゃるのかが謎です。
「無口」なU氏、意外に雄弁と語ってましたが、理解が不完全でした。
「酔ってない」が口癖のK氏、誰が見ても貴女は酔っていました。
「下戸」のI氏、貴方が一番苦労なさった事は、僕だけが知っています。
「○○」なY氏、得意の下ネタは随分と饒舌でしたが、急激に冷めた空気は
僕にはどうしようも無いのですが。
最後まで残っていたのは、僕と彼女と上記6名ですね。
先程寝室の方へ放り込んだので、間違いは無いでしょう。
結局、僕とI氏はソファーと床で寝る事に成りそうですが。
とは言え、不可思議な上に可笑しくもありな、奇妙な一日でした。
結局の所、理由を付けた「宴会」―――だったのですかね?
時に利己的に、時に利他的に、
取り巻く環境を変えてまで生き延びる。
証明して見せろ。
己の異常さを。己の正体を。
ゴキブリめ。蛆虫め。
這いずり回り、のた打ち回り、五臓六腑を撒き散らしても、生き抜いて見せろ。
しかし―――生き延びたとして、その先が楽園のはずはない。
(とあるmovieからの抜粋)
「恋」とは違う解釈でも。「愛」とは違う関係でも。
少々生々しいですが、
「体を重ねる」と言う行為は、何を意味するのでしょうかね?
「快楽を求める」「子供を授かる」行為である事は知っていますが、
その他の余剰な感情(愛)と言うモノは必要なのだろうか?
無論、「相手が好み」であり、「相手の事を知りたい」と思い、
体を重ねる事で「安心感を得たい」のだろうと考える事は出来ますが。
僕は「求められる」事に拒否はしないが、「求めた」事がない。
それを彼女に言うと、
「あんま深く考えるのを止めたらええ」
「好きであんたの傍に居るんやから、そのままでええやん」
ワカラナクナル。
「満足させる」事が「男の甲斐性」と言うのならば、
それは何を「満たす」事なのだろうか?
「体」「心」―――それとも「愛」なのか?
どれも「正解」な様で、どれも「間違い」の様に思える。
この問に必ずしも「正解」「不正解」は無いのかも知れない。
では、「それ」は何なのか?
「心」の無い僕に、「それ」が分かる日が来るのだろうか?
「雨音に身を任せ」
最初に泣いたのは 何時だっただろう?
思い出す事も 思い描く事も 難しいほどに 遠い過去
感動したのは 何時だっただろう?
笑った事も 怒った事も 悲しい事も 夢の中
楽しい事はあったと思う 辛い事もあったと思う
だから私は 今を生きている だから私は 今を生きて行ける
でも・・・泣いた事は覚えていない
最後に泣いたのは 何処だっただろう?
思い出す事も 思い描く事も 出来るはずの 近い過去
沈んだ事はあったと思う 酷い事もあったと思う
だから私は 前を向いている だから私は 前を向いて行ける
でも・・・泣いた事を覚えていない
雨に乗せて 私は泣けるだろうか?
音に任せ 私は泣けるだろうか?
落ちる雫が頬を濡らし 涙の通り道を作る
でも・・・私の心は渇いたままで
ま か お こ か と こ お い
い わ と ど つ 、 ど と つ
に ら な も て も な か
ち な 。 だ 。 に
。 い っ な
た る
「会話」を望むのか、「対話」に臨むのか。
「意見」と言うのは、基本的には「一方的な主張」である。
「こう思う」「こう考える」を組み立て、文章にして発音する。
それを受け、また「こう思う」「こう考える」を組み立て、返答する。
その際に大部分の割合を占めるのが「主題」ではあるが、
その中での「筋道」は、案外有る様で無いモノである。
「主観」や「視点」と言うのは、切り替える事が人には可能であり、
「この人はこう思っているのでは?」と推察する事が出来る。
しかし上記に「感情移入」してしまうと、それは「意見」とは言えなくなる。
「感情」とは、思考に波紋を生じさせる「ノイズ」と成る場合がある。
感情的に成れば、自らが意図していない発言をその場の「状況」で喋ってしまう。
これを良く「本音」と解するが、実の所これも「ノイズ」であり、
行き詰った「心」から零れ落ちたモノに過ぎない。
後々振り返ると「支離滅裂だった」と後悔する方が多いのは、
大抵この「ノイズ」に邪魔をされ、本当に言いたかった事を言えていないからである。
無論「感情論」が全て間違っている訳ではない。
吐き出す事で心をスッキリさせるのは、人の生理的な機能としては正常である。
しかし吐き出された「相手」からして見れば、「堪ったものではない」と言う事。
しかもそれを「正当化」し遠慮も思慮も無くなれば、唯の「愚痴」であって「意見」ではない。
「悪口」は、ある意味では立派な「話術」でもある。
「批判」もこれに類するモノであり、程度の差はあるものの相手を考えた発言ではある。
相手の神経を逆撫でし感情的にさせる事で、相手の思考を操作するのが容易に成り、
自分の「ペース」に引き込む事が出来得るからである。
しかしこれも「感情的」に成ってしまうと、元も子もない。
心なんて…なくなればいい。そうなれば普通に生きていけるのに…
41:鵺 ◆HP66 hoge:2008/04/11(金) 03:32 ID:i9Y >>40 ふむ? 「心」を無くせば、「普通」に生きてなんて行けませんけどね?
確かに「辛い」「苦しい」とは思わなくなりますが、
同時に「嬉しい」「楽しい」とも思わないので、
無味乾燥な生しか実感は出来ません。
それがあなたの考える「普通」ならば別ですけどね?
もうりょうの武丸か
43:アイラ ◆v/Uo:2008/04/20(日) 00:45 ID:m-vSk 鵺さん
こんばんは。はじめましてではありません。
HNは違いますが、ネガティブいじめにて会話しております。
最近荒らしに成り済ますされた者でHNを変えたと言えば分かりますよね。
あれには参りました。
最初は憐れみの気持ちで接したのがよくなかったのでしょうね。
寂しいから構って欲しいから荒らすのかと考えていました。人は本当に分かりません。
自分の事さえ分からないのに(´Д`)
鵺さんのカキコミを読んで、「心がない」と言う事に何かを思うんです。 でも言いません。
私もよく分からない思いなんで。
鵺さんは淡々としていますね。
でも思考は凄いです。
たまに、来て良いですか?
何故か鵺さんに興味があります。
長文失礼しました。
>>43 こちらこそです。僕で宜しいのでしたら幾らでも来て下さい。
HNのカナニ文字を漢字に為さってますよね?
あの場合は、相手に調子を合わせた方が良かったかも知れません。
あの方は至る所で無視されて居ただけに、あなたの「優しさ」を受け間違って、
「馬鹿にされてる」と感じたのでしょう。
他の板でもその傾向が見られてましたし、多分に自虐してましたから。
人の精神は曖昧で流され易く、感情とも結び付き易いモノです。
その「不安定」な状態がストレートに出ると、「荒らし」に繋がるのかも知れませんね。
「気に入らない」「ムカツク」「面白くない」「イライラする」等は、
理由があろうとなかろうと、そう考えればその思いに憑かれてしまう。
厄介なのは、その思考を自分の中だけで大きく育ててしまう事でしょうね。
その結果、誰が何を言おうと凝り固まった認識に成ってしまう。
とは言えその状態が長期間持続しないのは、爆発力はあってもそれだけで、
持続させるエネルギーが弱いからだと思われます。それを踏まえますと、
連鎖的に爆発しなければ、「荒らし」の対応は無視が一番と成る様ですけどね。
「淡々としてる」のも「凄い」かどうかも僕には分かりませんが、
興味を持って貰うのは、嬉しい事だと思えます。
長文云々は、僕自身いつも長文なので失礼でも何でもありませんけどね?
こんにちは(・∀・)ノ
甘えさせていただきますね。
そうだったんですか。他板にも…。それは知りませんでした。
誰にも構われない事は哀しい事です。
そんな人が優しさに触れた時、自分の気持ちに気付く事もあると思うんです。
爆発したのは自分の惨めさを呪ったのかも知れない。成り済まして攻撃したのは自分に対してかも知れない。解りませんね。その人でないと。
どこかの板で「助けて」と書いていました。その意味は読む人によって捉え方が違うと思います。
私は二つ意味を考えました。
辛いから「助けて」
もう一つは。
成り済ましで「助けて」
荒らし行為ですね。
私も荒らしになり得るものを持っています。
「暴言」 「中傷」
私には「仲間」がいます 尊い人達です。大好きです。会えてよかったと思ってます。
でも私は心のどこかで出会わなければよかった。
と思う事があります。
私は本当はいない方がいいのかなとかマイナス思考になるんです。
昔から私は自分から離れましたから。
傷つけられるなら離れよう。今も変わりません。
いつも後悔するんです。 鵺さんは人との付き合い方はどうですか?
あの、私は前レスは読んでいません。
今の自分の思いを言いたいのでごめんなさい。
(前レスとはこのスレッド1からの事です)
いつも自分を蔑んでいないと不安なんです。